伝説の敵

第一章 第一節

 子供の頃から「大いなる敵」の話を聞いて育った。立ち向かわんとする戦士を見送ったこともある。

 父もそのひとりだった。母の腕に抱かれながら見送った。

 ここではないどこかを見つめる父の眼差しを、母から伝わってきた憎しみとも悲しみともつかぬ感情を、イーヴは今でもはっきりと憶えている。

 女達の歌う歌を、老人達が鳴らす楽器の音を憶えている。

 腕を拡げて舞う父の姿を忘れることはない。

 そうやって挑戦者を壮行するのは同じ村の者たちばかりではない。挑戦者が現れたとなれば、近在の村からわざわざやってくる者もいる。そういう者は大概、かつて身内や親しい者を送り出した経験があるのだという。昔、イーヴも友人の兄を壮行したことがある。

 しかし送り出した戦士たちが帰ってきたことは一度も無かった。

 イーヴたちエク族の間には伝説がある。

 聖なる山ジャンザビには、「大いなる敵」が()んでいるという。

 その姿を見た者は誰も居ない。

 誰ひとりとして生きて帰ってはこなかったからである。

 ジャンザビに棲む「大いなる敵」は、長い年月に(わた)り、イーヴたちエク族の戦士を奪ってきた。

 ただの戦士ではない。

「大いなる敵」に挑むのは、一際(ひときわ)(すぐ)れた戦士である。勇者と認められた者でなければ、「大いなる敵」への挑戦を認められることはない。

 とはいえ勇者であっても誰もが「大いなる敵」に挑むわけではない。何より、「大いなる敵」に挑むのは無謀なことであるという認識がある。

 エク族は決して臆病な部族ではない。傑れた戦士を出すことで近隣諸国に名の聞こえた部族である。

 慎重さと勇気は並立しうる。己が身の丈を知ることは尊いことである。それらは決して怯懦(きょうだ)ではない。

 女たちは「大いなる敵」の話をしない。口に出すようなことではないと考えている。

 彼女らにとって「大いなる敵」とは、夫や恋人、息子、あるいは兄弟を奪う、恐ろしい魔物でしかないからである。

 対して男たちにとって「大いなる敵」とは、単なる魔物以上の、恐ろしい力の根源であった。そこには恐怖と同時に、いや、むしろ崇拝に近いような感情がある。無謀極まりない行為ではあっても、「大いなる敵」に挑むということには、ある種の魔力があるのである。

 (ゆえ)にこそ、家人族人の制止を振り払っても名のある戦士たちが挑戦を繰り返すのであった。

 イーヴも例外ではなかった。

「大いなる敵」の話を幾度となく聞き、帰ることのない戦士を見送ってもなお、いや、それがゆえなのか、「大いなる敵」に心()かれた。その心のままに、傍目(わきめ)も振らず、己が身を鍛えに鍛えた。己もまた、「大いなる敵」に挑戦するのだと。

 日々の修練は、イーヴの顔つきを精悍なものにし、その肉体を(たくま)しく緊縮(ひきし)まったものにしていった。エク族の地の強い陽射しは、イーヴの金髪に深味(ふかみ)を与え、その肌を小麦色に焼き上げていった。

 そんなイーヴを心秘かに(した)う女は、少なからずいた。しかし、女たちの気持ちとは裏腹に、イーヴの心は常に「大いなる敵」に占められているのだった。

 六日前のことである。(つい)にイーヴは村を()った。

 聖なる山ジャンザビに向かうことを告げると、村の者たちは皆、どこか納得したような様子だった。母でさえも。

「いつかはこうなると思っていたよ」

 そう言った母の顔には、諦めの微笑が浮かんでいた。胸に痛い微笑だった。

 後ろめたさに、母の顔をまともに見ることができなかった。父がいなくなってからの母を知っている。不自然な笑顔しかできなくなった母を知っている。それなのに、こんな親不孝ができる己というものが、我がことながら不可解であった。

 強く反対する者はひとりもいなかった。それは、今までのイーヴの修練を近くで見ていた所為(せい)もあるだろうし、イーヴの父がやはり同じようにジャンザビに向かい、そして還らなかったことを知っていたからだろう。

「山までの道は遠い」

 長老は言った。もし、一週間経って山に受け入れられることがなくば、村に帰ることを約束してはくれまいか……。

 消極的な願いだったが長老の気持ちは理解できた。

 村のためだけではない。自分のため、老いた母のため、イーヴの無謀な挑戦を何とか未然に終わらせてしまおうと思っているのだろう。

 イーヴは諒承(りょうしょう)した。

 ジャンザビを目指して歩き、一週間かけて中に入れなければ村に戻ってくると。

 聖なる山ジャンザビは「大いなる敵」が棲まうのみならず、それ自体が神秘を持っている。

 緑少ない白茶けた荒野の直中(ただなか)に在って、ただ一点緑に(あふ)れている。

 それは誰もが(いぶか)しむ光景だった。

 そして青青としたその姿が見えてもなお、辿り着けるとは限らぬ山なのだ。

 ある者は何の苦もなく山にまで辿り着くが、またある者は一日歩いても近づくことができない。それが何故なのかは誰にも分らぬ。

 (もっと)も、「大いなる敵」に挑む者でもない限り、辿り着いても山中に入ることはない。精精(せいぜい)が山の周囲を歩いて帰ってくるだけであった。

 今までにもイーヴは山に近づいたことがある。それらの時でも長くて三日、大抵は苦もなく到着したものだから、いかにジャンザビが神秘の聖山であろうとも、まさか一週間近くも歩かされることはないだろうと思っていた。

 だが今、遂に「大いなる敵」に挑戦すべく向かってみると、運命の皮肉か、イーヴは延延と荒野を歩かされているのであった。

 前進していることが感じられぬ。

 変化に乏しい荒野をどれほど歩いたことか。

 いつしか乾いた大地に伸びる己の影が、二つに分かれて見えていた。

 己の影だけではない。よくよく見れば産毛のように生えている草も、石さえも、いや、見えるもの全てが二つの影を地に伸ばしている。

 光源が二つなければできるはずのない影である。(いぶか)しんで辺りを見回す。白日(はくじつ)(さら)された荒野が拡がっている。光源どころか人影も無い。陽炎(かげろう)だけが揺らめいている。

 イーヴは息を呑んだ。

 かつてこの大地は雨よりも多く血を吸っていたという。ここは二つの大国、ヴァルカンティとリンドベリの、かつての国境地帯であった。開けた荒野は両軍がぶつかり合うには恰好(かっこう)の場所であったろう。

 ――何があってもおかしくはない……か?

 影が二つになった原因を、古戦場に附きものの魑魅魍魎(ちみもうりょう)に求める。

 陳腐な発想だ。幼稚と言ってもいい。

 魑魅魍魎などあって(たま)るか。

 第一、そんなものが(あらわ)れるにはあまりにも早過ぎる。昼食を終えたのはつい先程のはずだった。

 その証拠に、陽はまだ高く……

 と、群青色の天を見上げて、目を(みは)った。

 

 太陽が二つある。

 

 目を(しばた)き、己の手指に目を落とす。十本ある。腰に()いた剣を抜き放つ。一直線の白刃が現れる。二重にぶれたところはどこにもない。目がおかしくなったわけではないようである。

 二つに分かれた己の影と、双子のような太陽を交互に眺める。そうして何度も繰り返すうちに、あり得可(うべ)からざる光景が、現実のものとしてイーヴの心身に刻まれていった。それと共に、嫌な汗が背筋を滑り落ちていった。

 

 裁きの(とき)

 

 百年に一度、神は地上の(あら)ゆる生命に裁きを(くだ)すという。二つの太陽で、すべてを(くま)無く照らし出し、その(しゅ)を地上に存在させておいてよいものかどうかを調べるのである。不要な種であると判断された場合、その種は地上から根絶させられる。

 無論、伝説である。

 生まれてこの方、いまだかつて滅び去った種の話など、イーヴは聞いたことがない。

 神殿に暮らす聖職者たちは、口を開けば神の奇蹟と神罰とを語り、暇さえあれば喧伝して歩いているが、実際、そんなものなどありはしない。

 いや、あって(たま)るかという思いがある。

 ──神の裁きも、罰も、ありはせぬ。

 そう考えてはいるが、やはりいい気分はしない。

 イーヴは、首に下げた「勇者の護符」を衣服の上からぐっと握り締め、行く手に(そび)える山を恨めしげに仰ぎ見た。

 起伏も緑も乏しい荒野の中、一ヶ所だけこんもり青青としている。

 すぐにも辿り着けそうで、それでいてなかなか辿り着けぬ。このままでは本当に約束の一週間を使い切ってしまうかも知れぬ。

 心なしか焦りを覚えつつ、イーヴは足を速めた。

 

 二つの太陽にはやはり二つ分の熱があった。

 頭から分厚い外套(がいとう)を被っているにもかかわらず、そんなものなど無いかのように、肌がじりじりと焼かれていく。体中の水分がどんどん失われていく。

 そのように二つの太陽に(あぶ)られながら歩いていると、「神の裁き」の伝説は満更(まんざら)でもない気がしてくるのだった。

 元より、昼と夜では別世界ともいうべき寒暖差のある土地である。

 緑は少なく、木のような立派な植物は生えていない。つまりここに生えている植物は、厳しい気候の中で生き抜いてきた、()わば歴戦の(つわもの)ともいえるものであった。それが今、どれもこれも地に()して干乾(ひから)びてしまっている。

 植物だけではない。先刻、遠目にちらりと見えた狼たちも、えらく気怠(けだる)げな様子であった。イーヴを獲物と認めたとしてもこちらに向かってくる気力は無いように見えた。

 有り難いことである。向かってこられたら応戦する気力はイーヴにも無い。無論、気力が充実していたとしても流石(さすが)に狼の群相手にひとりで勝てる気はしないが。

 このままでは焼け死んでしまうかも知れぬ――そんな不安が頭を()ぎる。

 聖なる山ジャンザビ以外に、強烈な陽射しを避けられるような起伏や凹凸は、この荒野にはどこにも無い。

 干乾びるのが先か。

 ジャンザビに辿り着くのが先か。

 そう考えて苦笑が浮かんだ。

 おとなしく帰ればよいのだ。

 ジャンザビは去る者を引き留めはしない。すぐに村に帰り着けるだろう。

 だが――

 そんなつもりはなかった。

 ともかく、ただ歩き続けるより外ない。それが腹立たしい。己が剣をぶつけようのないもの、抗いようのないものを相手にするのはもどかしかった。

 ――「大いなる敵」が相手ならば……

 イーヴはジャンザビを(にら)みつつ歩んだ。

 狂おしい思いが、熱気で朦朧(もうろう)とする心身を駆けめぐっていた。

 

 灼熱の空気に赤味が混じり始めた。

 二つの太陽が真っ赤に燃え盛りながら、それぞれ東と西に分かれて沈みつつあった。

 夕方である。

 にもかかわらず、そんな気がしない。

 このまま二つの太陽が沈みきって、いつもと変わらぬ夜がやってくるとは到底思えなかった。

 沈むと見せて折り返し、再び昇ってくるのではないか。あるいは大地の向こうに沈むとしても、今度は大地自体を煮え(たぎ)らせるのではないか。大地が火を噴き、鎔鉱炉(ようこうろ)の鉄の如く赤く()けることがあるという話を聞いたことがある。

 そんな想像したくもない想像に否応もなく(さいな)まれながら歩いていると、不意に、空気の膜を突き抜けた感覚があった。砂漠で時々遭遇する、あの目に見えぬ壁である。

 壁の前後で空気の温度が大きく変わるあの壁である。

 どうしてそんなことが起きるのかは分からない。砂の魔神の悪戯(いたずら)だと言う者もある。

 イーヴにとってはどうでも良い話だった。

 だがこの荒野であの壁に出会えるとは思わなかった。意外な感じがした。

 意外だと思う間もなく鋭い(ひらめ)きが起こって、イーヴは足許に落としていた目を反射的に上げた。

 そして大きく目を見開いた。

 目に映ったのは白茶けた荒野でも、乾いた大地でも、干乾びた草でもない。

 鮮やかな緑。

 草木が青青と生い茂る斜面が、眼前に立ち(ふさ)がっていた。

 イーヴは声も無く、(いざな)われるように、あるいは惰性のように歩みを進めて、立ち並ぶ木々の合間に入り込んだ。

 これまでとは別世界の空気がイーヴを包んだ。

 砂埃(すなぼこり)にまみれた鼻孔の中を青臭い草葉の匂いが、甘やかな花の香りが通り抜ける。風と己自身が発する音を捉えるだけであった耳に、草木の(ざわ)めきが、鳥や虫たちの声が聞こえてくる。

 火照(ほて)り、(かわ)き、ところどころ水脹(みずぶく)れの浮いた体に、涼やかさと瑞瑞(みずみず)しさがじんわりと()み込んでいく。それと共に熱気と疲労で朦朧としていた意識が、次第にはっきりとしてきた。

 イーヴは身顫(みぶる)いした。

 

 ――ジャンザビに到達した!

 

 歓喜と共に、そう叫び出したい衝動が湧き上がった。

 だがその思いをぐっと(こら)えた。

 喜ぶのはまだ早い。喜んでいる場合でもない。敵の領域に足を踏み入れたのである。

 森の奥深くに目を向ければ、夜を前にしてすでに、そこは闇の支配下にあった。闇に(いろど)られた草木が手招くように揺れ、(あざけ)るように(ざわ)めいている。

 イーヴは思わず後退(あとじさ)った。その闇自体が「大いなる敵」であるかのように。

「大いなる敵」とはいかなるものであるか、イーヴは知らぬ。いや、誰も知らぬ。知り得たであろう者は帰ってこなかった。

 神殿の聖職者たちはジャンザビを神が降臨する聖地と見做(みな)しており、「大いなる敵」の存在など認めていない。ジャンザビへ向かう者は神を畏れぬ背教者であり、帰ってこぬのは聖域を汚した神罰故であるという。

 最近ではそんな部外者の言を真に受ける者もごく少数ながら居るものの、部族の言い伝えに()れば、この山には「大いなる敵」が()みついているという。イーヴはそれを信じている。

 信じてはいるのだが、仮に神殿の聖職者たちの言うようにこの山に神が居るのならば、それはそれでおもしろいとも思っている。神に挑むのも悪くはない。

 挑むのが神であれ、「大いなる敵」であれ、恐れを感じぬわけではない。死を覚悟してはいるが、死ぬつもりもない。現に、思わず後退ってしまい苦笑した。

 ただ、ざわりと鳥肌が立つ瞬間が心地良くはあった。死を前にして生に触れている感じがするというのは妙なものだが。

 イーヴは(きびす)を返して、道無き道を引き返した。

 臆したわけではない。満を持して「大いなる敵」と()り合いたいのである。

 それには闇が深過ぎるし、体調も万全ではなかった。休息を兼ねて朝まで待つのが賢明である。そうしたところで、今更「大いなる敵」は逃げも隠れもせぬであろう。

 神の偏愛振りが極端に(あら)わになっている大地の境目近く、どこからも身を隠せそうな茂みの中に、イーヴは腰を下ろした。

 その途端、(ほぞ)()むこととなった。

 休息の体勢を取ることで、意識と肉体を繋いでいた何かが完全に途切れてしまった。地の底に墜落していくような疲労感にどっと襲われた。睡魔に不意を()かれた。

 肉体は否応も無く屈服させられて、大地に倒れ込んだ。

 イーヴは愕然とした。己の情けなさに狼狽した。

 敵地である。大鼾(おおいびき)をかいて寝られるような場所などどこにもない。いつでも動ける態勢で、休息するはずであった。

 それがなんたる無様であろう。

 (ようや)くの休息を得て、手前勝手に喜びの声をあげる肉体を叱咤して、イーヴは大地を引っ掻き、草を(むし)って、半身を起こした。

 手近な樹木に身を(もた)せて大きく息を吐いた。頭上を見上げれば、幾重にも重なり合う枝葉の合間に、赤赤とした空が見えていた。

 その視界も一瞬にして暗転した。睡魔に(まぶた)が閉じようとしている。

 すぐさま目を開いたが、疲労の極みにあって、まんじりともせず夜を明かすなど、どだい無理な話であると悟った。

 イーヴは周囲に注意を払いつつ、浅い眠りに就くことにした。

 

   *

 

 朝は何事も無くやってきた。

 ふたつの太陽は、沈むと見せかけて再び昇ることも、大地を煮え(たぎ)らせることもなかった。

 夜明け前に目覚めたイーヴは、たったひとつの太陽が、東の彼方から何食わぬ顔で昇ってくる様を確かに見ていた。

 十八年間毎日迎えている、いつも通りの朝である。

 結局、「裁きの(とき)」とはなんであったのか?

 イーヴには皆目分らなかった。

 天頂でふたつに分かれた太陽が、世界を真夏よりも熱して東西の彼方に沈んだ――ただそれだけのことであったように思える。

 耳に心地良い小鳥たちの(さえず)り、朝露と草花の匂いを含んだ清澄な風、すべてを輝かせる朝の柔らかな陽光――世界のそうした美しさに触れていると、この世界の何かが滅びたとは到底思えなかった。

 ――なべて世は事も無し。

 思わずそんな言葉が浮かぶ。

 言うならば、それは勝利宣言である。生者の傲慢、あるいは欺瞞(ぎまん)である。

 世界は常に闘争に満ちていて、そこには必ず勝利と敗北が、生と死があるはずであった。

 なんとなれば世界の美しさとは、生者の歓声と死者の嘆声が(かな)でる和音であるのかも知れぬ。

 卒然、イーヴは羞恥に襲われた。己をひどく醜いと感じた。

 世界に対する考察など、戦士がすることではない。闘いの中には、考察も解釈も、一切が入り込む余地がない。生か死かという、偽りのない真実だけがそこにある。そんな単純明快さに、イーヴは()かれているのであった。

 肉体が(うず)いていた。昨日とは違う。いつでも闘える状態にあった。眠りは浅かったものの、若く(たくま)しい肉体は、驚くべき恢復力(かいふくりょく)で生気を取り戻していた。

 しかし、その前に遣るべきことがある。

 咀嚼(そしゃく)していた干し肉を呑み込むと、イーヴは(おもむ)ろに立ち上がった。携帯してきた食糧はこれで尽きた。まずは水と食糧を確保することが先であった。「大いなる敵」の探索には、どれほど時間がかかるか判らぬのである。

 イーヴは水と食糧の確保を第一に、「大いなる敵」の探索とジャンザビの探査を兼ねて、山中を歩いた。

 ジャンザビは大きな山ではない。外周はぐるりと歩いて一日、山麓から山頂までは目測するに半日の距離である。

 もちろんその距離に対する時間は、ジャンザビが丸裸の岩山であればの話である。

 緑深い道無き道を進むのは、かなり骨が折れた。丈高く強靭な草が行く手を(はば)み、さらには地形を誤魔化(ごまか)していた。唐突な高低差に足を取られることは屡屡(しばしば)であった。(がけ)に向かって踏み出しそうになったこともあった。

 そもそもイーヴはこのような山歩きには馴れていない。生まれ育ったエク族の地は平原であるし、これほど緑には恵まれていなかった。

 目にする植物は多種多様で、これまた見馴れぬものばかりであった。木の実や(きのこ)なども見かけたが、イーヴが手を出せるようなものはほとんどなかった。得体の知れぬものを食べるわけにはゆかぬ。

 動物は、蛇、(うさぎ)(ねずみ)、鳥、鹿などを見かけた。獲物は豊富に居たが、馴れぬ場所での狩猟は手古摺(てこず)った。(ようや)く兎を捕まえたと思ったら、兎ほどにも肥えた鼠だった。驚いた。

 水場(みずば)は、そこへ向かう動物たちの痕跡(こんせき)辿(たど)って探索した。大きな水場には行き当たらなかったが、ともすると見過ごしてしまいそうな湧き水が、そこここにあった。

 もしかしたら、ジャンザビは地下水の湧出口(ゆうしゅつぐち)であるのかも知れぬ。荒野の直中(ただなか)に繁茂せる緑の秘密は、そこにあるのかも知れぬ。

 そう考えたものの、イーヴはジャンザビの不思議にさして興味があるわけではなかった。

 神の存在など信じておらぬが、仮に神がいるとして、ジャンザビを創造していたとしよう。だがその御心など、知りようもなければ知ったことでもないのではないか?

 神殿であれだけ崇められているくせに、神はいつだって身勝手ではないか。人間のことなど、地上のことなど、何ひとつ考えていやしない。現実を見れば、そうとしか思えぬ。

 そんなイーヴからしてみれば、事ある毎に、奇蹟だの神罰だのと言っている聖職者たちは滑稽でしかなかった。

 とはいえ己とて彼らとなんら変わらぬのではないかと思う。「大いなる敵」という得体の知れぬものに踊らされて、ここまでやってきたのだ。

 イーヴは舌打ちした。

 ――また、くだらぬことを考えている。

 思考が鬱陶(うっとう)しい。そんなものにいったいなんの意味があろう。何も考えずに、ただ闘いたかった。

 しかし、その日の内にイーヴの願いが叶うことはなかった。「大いなる敵」と出逢うどころか、その痕跡にすら行き当たらなかった。

 そうした状態が二三日続くと、樹下を寝床とするのは心許(こころもと)無くなってきた。

 昼夜の寒暖差が激しい外の荒野に比べて、ジャンザビの内は遥かに過ごしやすく、就寝時の防寒にもそれほど気を遣う必要はなかった。時期は乾季であるし、雨の心配もほとんど無い。

 それでも外で寝ていれば何が起こるか判らない。「大いなる敵」は元より、どんな敵が潜んでいるのか知れぬのである。身を(まも)れる場所が必要であった。

 そのような適当な洞窟を探し出すのには、それから二日ほどかかった。

 洞窟の入口は、幕のように垂れた(つた)の群生に覆い隠されていた。入口付近は少し身を(かが)めねばならぬが、十歩ほど進むと、驚くほど大きな空間が炬火(たいまつ)に照らし出された。自在に槍が振り回せるほど――いや、それ以上の空間である。高さは槍二筋(ふたすじ)分、広さは村長の家の広間よりなお一回り以上あろうか。

 見回してみたところ、先住者はヤモリくらいのもののようであった。もしや「大いなる敵」、あるいは己と同じくジャンザビにやってきた先人たちの痕跡がありはせぬかと思ったが、どこにも見当たらなかった。なんとなく物寂しさを覚えた。

 取り敢えず、イーヴはここに腰を据えることにした。ひとりで起居するには大きすぎる洞窟ではあったが、近くに比較的大きな水場があった。飲料・生活用水として使えるのは元より、水を飲みに来る獲物を捕獲することもできよう。

 こうして拠点を持つことで、闇雲になりがちだった探索も遣りやすくなった。イーヴは洞窟周辺から探索を始め、今日は東へ明日は西へと、大まかな地図を頭の中に作りながら探索範囲を拡げていった。

 しかし、ジャンザビを半分以上探索したと思われても、「大いなる敵」の影も形も一向見当たらなかった。

 そうするうちに、ジャンザビに足を踏み入れて一月(ひとつき)が経とうとしていた。

 ――()()一月だ。

 そうは思っても何ひとつ収穫のない探索に、気勢が()がれていっているような気分が拭えない。

 ジャンザビに入るまでは目に見えるジャンザビを目指すだけでよかった。「大いなる敵」があそこで待ち構えている――そう思いつつ、ジャンザビを目指した。ジャンザビに入ることさえできれば、あとはもう闘うだけのような気がしていた。

 ジャンザビは「大いなる敵」の縄張りである。それを犯したのだから、なんらかの動きがあって(しか)るべきであった。

 それが何も無いというのはどういうことなのか?

 こちらの様子を窺っているのか、それとも、こちらの侵入に気づいておらぬのか。

 後者であれば、怒りと失望を禁じ得ぬ。縄張りを犯されてのうのうとしているなど、「大いなる敵」にあるまじきことである。

 いや、そんなものが「大いなる敵」であるはずがなかった。そんなものが、エク族の戦士たちを駆り立て、奪い去ったはずがなかった。年老いた母を置き去りにしてまで、己が挑もうとしている相手であるはずがなかった。

 イーヴは乾いた唇を引き結んだ。溜息を呑み込みながら天を見上げた。

 赤味が差しかかった天があった。あと一刻もすれば日は落ちるだろう。今日の探索はこれで終わりのようである。イーヴはのろのろと(きびす)を返し、洞窟へと帰る道を辿(たど)った。

 物思いに沈んでいた所為(せい)か、あるいは、洞窟に帰るだけの道に気が(ゆる)んでいたのか、イーヴは直前までその存在に気づかなかった。

 突如、頭上から――幾重にも重なり合う枝葉の天井から、不自然な葉擦(はず)れの音が聞こえてきた。同時に、そこから何かが降ってくる――いや、やってくる気配を感じた。

 考える間もなく身体(からだ)が動く。戦闘態勢に入る。

 が――

 左肩に衝撃が走った。盾が弾け飛んだ。

 身体の反応に問題は無かった。気づくのが遅過ぎたのだ。

 崩れた体勢を立て直しつつ、視界を()ぎった影の方に剣を向ける。しかし影の方がそれよりも速い。

 見開かれたイーヴの灰色の瞳に大きく鋭い牙が飛び込んできた。獣の(あぎと)である。イーヴの喉目がけて矢のように迫ってくる。

 ――くらう!

 戦慄と共に意識が凍りついた。

 だが長年の鍛錬の成果だろう。反射的に身体が動き、すんでのところで(かわ)し得た。

 牙がイーヴの肩口を(かす)り、牙の持ち主の体が体当たりのように激突してきた。

 鋭い当たりだった。互いに弾かれた。

 イーヴは近場の木に(もた)れて転倒(てんとう)(まぬが)れた。そのまま木を盾にして恐る恐る相手を窺う。

 褐色に黒の(しま)模様が入った毛並み。四つ足の獣である。(ひょう)に似た体躯をしているが、顎の中に収まりきらぬ長い牙が二本、剥き出しになっている。

 獣は喉を振るわせて激しくイーヴを威嚇していた。

 見たことの無い獣である。見るからに肉食獣であったが、ジャンザビで肉食獣に出遇(でくわ)すのも初めてである。

 しかし「大いなる敵」ではない。

 直観的にそう思った。

 獣の牙と爪には血がこびり附いていた。己の血であるとイーヴは悟った。

 傷のことを気に掛ける余裕など無かった。イーヴと同じく弾かれたはずの獣は、すでに飛び掛かる体勢を整えて、低い呻り声をあげながらイーヴを(にら)んでいた。

 一触即発の張り詰めた空気が漂う。

 このような場合、逃げる素振りや怯えた様子を決して見せてはならぬ。また、合わせてしまった目を()らしてもならぬ。そうした途端に獣は飛び掛かってくる。

 このままじっと見据え続けていても、やはり闘いになるのを避けられまいが、必要以上に闘う必要はない。獣たちは闘うために闘うのではなく、生きるために闘うのである。命懸けの闘いをすることはない。こちらが強いということ、獲物に成り得ぬということを示せば去っていく。

 最も効果的なのは逆上して見せることである。あまり見られた様子ではないが、狂い猿のように振る舞って見せると、獣は去っていくことが多い。闘いを避けるのなら、これが得策であろう。

 イーヴは考えをめぐらしながら、獣をじっと見つめた。獣は毛を逆立てたまま、呻り声を発し続けている。長い尻尾を上下に(しな)らせ、猫族特有の長い(ひげ)を大きく拡げている。

()みつかれそうになったら、髯を()(つか)んで睥んでやれ」

 不意に、獅子(しし)と闘ったことがあるという、友人の兄の言葉を思い出した。彼もまた、ジャンザビに消えた戦士のひとりであった。

 イーヴの胸の内に、対抗意識めいたものがふつふつと湧いてきた。

 ――馬鹿な真似はよせ!

 理性が制止の声をあげる。

 無駄な闘いは極力避けるべきであった。獣と闘うためにジャンザビにやってきたわけではない。ここで無理をして怪我を負ったら、それどころか死んでしまったら、これまでのことが、「大いなる敵」と闘うためにやってきたことが、すべて無駄になる。

 しかし、そう思う一方で、闘いの予感に胸は高鳴り、身体は熱くなっていた。己の力の(ほど)を試したくもあった。獣すらあしらえずに、「大いなる敵」に勝てるとは思えぬ。

 イーヴは(まばた)きも呼吸も忘れて獣を睥み、じりじりと獣に近づいた。獣は逆立てた毛を(ざわ)めかせ、イーヴを押し返さんとするかのように大きく呻った。

 ふたつの距離が(せば)まっていく。その間の空気が圧縮されていくように緊張が高まっていく。仮に間に入る者があれば、(すさま)じい威圧感に息もできなくなるかもしれぬ。

 それは戦う両者がお互いに真っ向から相対(あいたい)することでしか生まれえぬものだった。イーヴと獣は、反発し合うことで(つな)がってもいるのだ。

 ところが、突然それは横合いから飛んできた枝切れに断ち切られた。

 枝切れは獣に()たった。獣はびくりと(ふる)えた。イーヴもびくりと慄えた。獣の慄えがイーヴに伝わったのだ。

 その瞬間、ふたつを繋いでいたものが断ち切れた。

 我に返って、イーヴと獣は素速く跳び退(すさ)った。互いの距離が大きく開く。

 そのまま再び睥み合う。だが先の感覚が完全に断たれてしまったことを確認し合うだけだった。間にあるのは白け切った空気だけである。

 獣はぱっと身を翻し、(ほの)暗い森の奥へ走り去った。

 その様を見送るまでもなく、イーヴの意識は獣から離れた。

 こうした物別れの要因となった枝切れは自然に飛んできたものではなかった。明らかに故意に投じられたものだった。それもイーヴを助けようとしてのものと思われた。

 ――いったい何者が……?

 (いぶか)りながら、枝切れが飛んできた方に目を向けた。

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