「あの……だいじょうぶ、ですか……?」
か細く、高い声だった。
イーヴは灰色の瞳を見開いた。
茂みの中に、えらく場違いな様子の少年が立っていた。
見たところどこかの兵のようである。行軍する騎士に付き従う従士といった
もしもイーヴが小姓という言葉を知っていたら、主人から
そこで目の前の相手をよく知るために目を
そしてイーヴは驚いた。無論その驚きを
少年かと思えた相手がそうでなかったからだ。
いや、よくよく見れば少年にしては線が
つまりは少年のような
白い肌には
すらりとした肢体を包んでいる衣服も、その身に合ってはいたが、この場には合っていなかった。丈の短い上着にズボンと、一見簡素で動きやすい
しかしこれまたよくよく見れば、いかにも上質そうな生地の衣服で、
腰には短剣が差してある。見たところ武器はそれだけのようである。いや、
重要なのは、己の敵か否かということである。
「枝切れを投げたのはお前か?」
イーヴの口調は
女の青い瞳がわずかに揺らいだ。気遣わしげな表情に緊張が走った。
「……もうしわけありません。余計なことをしてしまったようですね」
非難されているのだと思ったらしい。
「いや……」
余計なことと言えば余計なことだった。闘いを邪魔された。
しかし、一方では有り難いことだった。あのまま闘っていたら、「大いなる敵」どころではなくなっていたかも知れぬ。
複雑な気持ちではあったが、助けられて非難するつもりはなかった。
「責めているのではないんだ。随分と不用意なことをすると思ってな」
結果として獣は去ったが、場合によっては女を襲ったかも知れぬのだ。
「怪我を負っていらっしゃるので、手助けをした方がよろしいかと思ったのです」
「怪我……?」
言われて思い出した。
己の体を見てみると、左の肩から腕、そして胸の辺りまで、革鎧が血に染まっていた。
イーヴは眉間にわずかに
「先に治療をしましょう。すぐそこに水場がありますから、そちらへ」
女はイーヴに背を向けて歩き出した。イーヴが後に
そんな彼女に反して、イーヴは
このまま
なんらかの
どうにも妙な女である。
闘う
ジャンザビは危険極まりない山である。「大いなる敵」は元より、最前のような肉食獣までが
そこへ、ひとりでのこのこやってくるということは……
――頭が弱いのか、狂っているのか。
そう思いかけて思い直した。
己こそどうなのか、と。
闘う術を持つ戦士であろうと、ジャンザビに在ることは充分に危険である。いや、強かろうが弱かろうが、ジャンザビにやってくること自体が狂気的なことなのだ。端から見れば、イーヴと女は似たようなものだった。
しかし、女が「大いなる敵」を
それに今はひとりであるにせよ、仲間と共にやってきたとなれば、話はまた変わってこよう。闘える仲間が居れば、彼女自身が闘える必要は無いのである。
無論、「大いなる敵」が目的とは限らぬだろう。いや、むしろ、「大いなる敵」のことなど知らぬのではあるまいか。
彼女はこの辺りの人間ではなかろう。言葉遣いがイーヴのそれとは少し異なっている。それが身分差によるものなのか、地域差によるものなのかはイーヴには判らない。身分の高い人間の言葉を耳にするどころか、その姿を目にしたことすらほとんどなかったし、あちこち旅をしたこともなかった。しかし、恐らく両方だろうとイーヴは考えた。
となれば、偶然ジャンザビに迷い込んだのか……
そこまで考えてイーヴは小さく息を吐いた。
考えても詮無きことに思えてきた。警戒し過ぎているような気もする。ジャンザビに在って、警戒し過ぎることなどなかろうが。
「どうされました……?」
その声で我に返った。
恐る恐るといった様子で、女がこちらを見ていた。
女はイーヴの右手を
「……警戒、なさってるんですね」
緊張と、わずかな失望が混じった声である。
イーヴの右手には、いまだ抜き身の剣が握られていた。
イーヴは何やら気不味くなって、そそくさと剣を
「すまない……」
「……いえ、無理もないことです。見ず知らずの仲ですし、場所が場所ですし。わたくしも、あなたを警戒していないとは申せません」
女の口振りは、ジャンザビのことを知っている風である。
「お前、なぜこんなところに居る?」
イーヴはそう言いかけたが、それを
イーヴは
女の素っ気ない素振りから、女を怒らせてしまったのではないか、女に見限られてしまったのではないかと思ったのである。
それで後を追うというのは、なんとも情ない話ではある。しかし、
ジャンザビで人に
「大いなる敵」が
足を踏み入れたが最後と
予想だにせぬことであった。
信じ難いことであった。
だが現に、女はイーヴの目の前を歩いている。となれば、何か有用な話を聞き出せるかも知れない。
この山はどこか
元より神秘の聖山として畏怖されてきた山である。
しかし、実際に足を踏み入れてみて感じたのは、神秘さよりもむしろ不可解さであった。
この山はなんなのだ――。
女の背中が少し離れた。イーヴは足を速めた。
取り敢えず、今は女に
イーヴは黙りこくって女の後を追った。
そうしている内に、見覚えのある場所にやってきた。イーヴもよく利用している水場である。
女は布を出して水に浸した。
「鎧をお脱ぎになって下さい」
イーヴは驚いた。てっきり、治療する気も失せているのではないかと思っていた。
「……治療、してくれるのか?」
女の目が丸くなった。突拍子も無いことを聞いたとでもいう風である。
「そのつもりで
「いや……お前、怒ってないのか?」
女の目がさらに丸くなった。
「そんな……怒るだなんて……わたくしには怒る理由なんてありません」
「しかし、お前は俺を助けてくれたのに、俺はお前を怪しんだ」
「それは先にも申しました通り、無理もないことです。それに、わたくしは見返りを求めてあなたをお助けしたわけではありません。――いえ、実際のところ、あれがあなたの助けになったのかどうか……」
「いや、助かった」
弱弱しげになった女の言葉を、イーヴは中途で断ち切った。余計な手出しで邪魔されたという気持ちはあるにせよ、助けられて安堵している気持ちに
「そうですか」
女は
イーヴは少しどきりとした。不意を
「では、鎧をお脱ぎになって下さい」
気恥ずかしさを
日に焼けた、
傷の状態を調べて、イーヴは安堵した。出血の割にはさしたる傷ではなかった。傷口は大きいが、深くはない。下山せずに「大いなる敵」と闘える。
それでも女は一瞬
一通り拭い終わると、女は干し薬草と乳鉢・乳棒を取り出した。
旅人ならば、干し薬草のひとつやふたつは持ち歩いているし、その使い方もそれなりに心得ているものである。しかし、旅に馴れているとも、治療に馴れているとも見えぬ女である。薬なんぞ作れるのだろうかとイーヴは思った。
ところが、思いの外、女の
イーヴの鼻腔に、苦味のある匂いがつんと突き抜ける。
「この薬草はなんだ?」
「トラームです。傷薬としてよく使われます」
「ふうん……」
聞いたことも無い薬草である。この女と同様、この辺りのものではないのだろう。
薬が塗られると、その上に布切れが
「ひとまず、これでよいでしょう」
ひと仕事を終えたといった感じで、女は小さく息を吐いた。
それもそうだろう。馴れておらぬであろうことを、やけに真面目くさった顔でやっていた。
「ありがとう」
礼を言うと、女は安堵の混じった微笑みを見せた。
イーヴは再びどきりとした。
気恥ずかしくなって女の顔を見ていられなくなった。
そんなイーヴを知ってか知らずか、女の方が先に目を外らしてくれた。
「綺麗な首飾りですね」
イーヴはなんのことかと
女はイーヴの胸元を指し示した。
そこには、虹色に輝く大きな
「ああ……竜の鱗の護符だ」
首飾りと言われたので判らなかった。出立の日に村長から手渡された、「大いなる敵」の挑戦者の
「竜の……?」
女は不思議そうに「勇者の護符」を見た。
「――と、
イーヴはわずかに苦笑した。
「この山の主……?」
女は小さく首を
予想していたことではあったが、イーヴの顔は硬張った。
「『大いなる敵』を知らないのか?」
イーヴから何かを察したのか、女は緊張した面持ちで
「お前、どこから来たんだ?」
「……都です」
「都!?」
イーヴは驚いた。
「随分遠くから来たんだな。この山は都でも有名なのか?」
「いえ……そういうわけではないのですが……」
女は
それから意を決したように口を開いた。
「あなたは――」
何かを恐れるように、一度、言葉を句切り、
「あなたは、地元の方でいらっしゃるんですか?」
「ああ」
イーヴが頷くと、女は心なしか安堵した様子を見せた。
「『大いなる敵』というものは存じませんが、この山が不思議な山であることは
イーヴは鼻を鳴らし、苦笑を混じえて言った。
「
「……ええ」
「俺たちの部族には伝説があってな。それによれば、ジャンザビには――この山には、恐るべき魔物が棲みついているという。俺たちはそいつを『大いなる敵』と呼んでいるんだ」
「魔物が……」
女の顔が再び
「……では、この山の不思議は、その魔物が起こしていることなのでしょうか?」
「さあな……よく分らん。部族の云い伝えによれば、『大いなる敵』とは関係無く元元不思議な山のようだが、
「……」
「いずれにしろ、この山に何かがあることは確かだろう。実際に、たくさんの人間がここで消えているわけだしな」
「たくさんの人間が……」
女は息を呑み、小さく
イーヴはその様子を見て、
「お前、ひとりでここに来たのか?」
「……はい」
「悪いことは言わん。山を下りた方がいい」
その言葉に打たれたように、女は小さな唇を引き結んだ。
「……そういうわけにはまいりません」
「危険は承知の上で、こちらへ参ったのです」
「目的はなんだ?」
「真実の確認です」
「真実……?」
「あなたはどうなのですか?」
「俺は『大いなる敵』に用がある」
女は唖然となった。
「……先程、おっしゃいましたよね? 『大いなる敵』は恐るべき魔物であると」
「ああ。なればこそ、己がすべてを賭けるに値する存在と
「……?」
女はイーヴの言葉を理解できぬようだった。
だが、
「まさか……『大いなる敵』と闘われるために、ここに……?」
イーヴは頷いた。
女はさらに唖然となった。
「俺たちエク族の間では、
女は再び息を呑んだ。そして治療したところを不安気に見た。
「でも、その傷では……」
「大した傷ではない」
「完治してからでは駄目なのですか?」
「完治させるとなれば、一度山を下りねばなるまい。そうするわけにはいかないんだ」
下山するのは『大いなる敵』を
そんなイーヴにただならぬものを感じたのか、女は気遣わしげな顔をしながらも口を
「それよりも――お前、何か見なかったか? 『大いなる敵』らしきものの姿とか形跡とか」
「……いえ、何も。あなたも何か見かけませんでしたか? 人の姿とか形跡とか」
「いや、ここで人を見るのはお前が初めてだ。驚いたぞ。よもや人に
「……ええ。……そのようなものです」
何かを
何やら
イーヴは女から目を外らし、上を見上げた。
「
影そのものとなった枝葉の向こうに、薄青と薄紅が混じり合う空が見えていた。
「お前、寝床は決めてあるのか?」
「いえ……特には……」
「なら、俺のところに来ないか?」
「え……?」
女とイーヴの目が合う。
「寝床に
そう説明しかけてから、イーヴは重大なことに気づいた。
己は男で、相手は女であった。
うっかりしていた。
「念のため言うが、妙な意味は無い。単なる寝床の提供だ。しかし、お前が不安に思うなら、俺は他に行ってもいいし、この提案を聞き流してくれてもいい」
女はイーヴをじっと見つめた。
「よろしいのですか……?」
「ああ」
「では、ありがたくご提案をお受けしたいと思います。――申し遅れましたが、わたくし、クリステルと申します」
「イーヴだ」