「ここからだ。ここから先は、まだ足を踏み入れていない」
三十歩ほど向こうから、丈高い草を掻き分けて、クリステルがやってきている。
戦士でもない、貴族の女である。
イーヴとしてはゆっくりと歩いているつもりでも、気がつけばこうして引き離してしまっていることがままあった。
しかしクリステルはイーヴに、疲れただの、ゆっくり歩いて欲しいだのと言うことはなかった。ただ
近間にやってきたクリステルには疲労の色が見えた。前髪が汗で額に貼り付き、息も少し上がっている。
「少し休むか?」
「いえ、
「と言っても、あれからもう一刻は経つんじゃないのか?」
イーヴは太陽の位置を見ながら言った。昼とも夕方ともつかぬ頃合いである。先の休憩は昼食を兼ねたものであった。
「だいじょうぶです」
クリステルは水を一口飲み、
「こういった山だ。さっさと用事を済ませて脱出したい気持ちは解らんでもないが、先は長くなるかも知れん。
軽い口調でイーヴが言うと、クリステルは
指摘が的を射ていたのか、己の言葉をそのまま返されたのが
何か言い返してくるのではないかと思ったが、そんなことはなかった。
「……その通りですね。少し休みましょう」
羞恥を隠すように
クリステルが落ち着くのを待ってから、イーヴは口を開いた。
「これからのことだが、まず水場を探そう。十数人となれば、必ず水を確保しようとするはずだ。水場に沿って探せば手掛かりが
「同感です」
「それから、財宝が隠されていそうな場所……というと、やはり洞窟なんかが
しかしイーヴの知る限りでは、この山にそれほど大きな滝はない。そもそも滝と呼べるほどのものを見かけたことがない。
地に埋めたとしても、何か目印になりそうなものの
「洞窟だな」
イーヴは確信ありげに
「では参りましょう」
クリステルは立ち上がり、先に立って斜面を下り始めた。
わずかな休憩であったが、それでもそれなりに
「おい、気をつけろ。足を滑らせたら大変だぞ」
クリステルに注意を
西側も東側同様、
しかし、斜面を下って四半刻も歩かぬうちに、前方に明るさが見え始めた。
「おい」
「
イーヴは少々
「見えないのか?」
「何がですか?」
「たくさんの木が倒れている。いや、
クリステルは、
「……よくお見えになりますね。わたくしには明るいことしか判りません」
「そうか。この辺の人間なら、誰でも見える距離なんだがな」
「
「そうした方がよくないか? いつまた崩れてくるとも限らんだろう?」
「最近崩れたものなのでしょうか?」
イーヴは目を凝らした。
「ん――……草木が邪魔でよく判らんな。しかし、あれだけの土砂崩れなら、この山のどこに居ても判りそうなもんだ。俺が居るこの
「では、もう少し近づいてみてもだいじょうぶではないでしょうか?」
「そうだな」
そのまま歩を進めてみると、最近のものではないことが見て取れた。薙ぎ倒された木々はすでに
ふたりはさらに歩を進め、天に
――と、その中に、イーヴは異質なものを見つけた。
「ここで待て」
クリステルに言い置いて、滑るように斜面を下った。
イーヴはそれを引っ張ってみた。だが土砂は思いの外固く締まっており、そのまま引っ張り上げることはできなかった。かといって無理に引っ張れば、容易に
イーヴは手近に落ちている枝切れを拾い上げ、襤褸切れを掘り出してみた。
元元は白かったのであろうか。土砂に埋もれていた部分は、日に
端には折れた棒が
拡げてみると真ん中に意匠があった。黒い盾形の中で赤い
「紋章……?」
イーヴが
見上げると、いつの間にやらクリステルが下りてきていた。何やら恐ろしいものを見たとでもいうような顔付きで、イーヴが掘り出したものを覗き込んでいる。
「知ってるものか?」
クリステルは
「……捜している人間の、家紋です」
震え気味の声でそう言った。
「ほう?」
妙な話だと思った。
しかしそれを考える間もなく、クリステルが口を開いた。
「まずいかもしれません……もしかしたら……」
クリステルは意味ありげにイーヴをじっと見つめた。あまりにも深刻な眼差しだった。イーヴは何やら
「……なんだ? 俺がどうかしたか? まずいって何が?」
クリステルが口を開いた。
その瞬間――
クリステルの
イーヴよりも高いところに立っていたクリステルは、そのままイーヴに向かって倒れ込んだ。
イーヴはクリステルを受け止めようとしたが、足場が悪かった。受け切れずに
怪我をしても
クリステルはイーヴの肩に顔を
「……大丈夫か?」
その言葉で我に返ったように、クリステルの顔が上がった。
「あ……」
間近で目が合った。
が、すぐさま
「も、もうしわけありません……」
頬をわずかに赤く染めて、クリステルはそそくさとイーヴから離れた。
そんなクリステルを見ていたら、イーヴもなんとなしに
「怪我はなかったか?」
「……はい。――あ! あなたの怪我は……」
クリステルはイーヴを振り返り、怪我を負っているその肩を見た。
つられて、イーヴも己の肩を見る。怪我のことなどすっかり忘れていたが、どうということもなかった。
「いや、大丈夫だ」
クリステルは
イーヴはクリステルが足を取られたところを見上げた。どうやら旗を掘り出したところが崩れたらしい。人ひとり
そこに、また何かを見つけた。
穴の中から助けを求めるように、ぬっと突き出ているものがある。
白過ぎる、細過ぎる、五本の指――
骨の手だった。
「これがお前の捜し人……」
と言いかけて、
「……な、わけないよなあ」
苦笑混じりに打ち消した。
捜し人は三週間近く前に入山したということであった。この山で死んだとしたら、当然その
三週間で人体は白骨化するのかどうかといえば、これは状況による。外気に
無論白骨化と言っても全身綺麗に骨だけになることを意味しない。それには野晒しになって長期間がかかる。
その意味ではこれは部分的白骨化というべきなのだろう。
しかし屍体は土砂に埋まっていたようだし、獣に喰われたにしては骨の状態があまりにも
そして、それを埋め
何となく気になるのは、その指に
「下山、しましょう」
「は?」
何を
どうも
さては、屍体を
「てことは、人捜しはこれで終わりか?」
クリステルは
イーヴは
「……まあ、いいけどな。好きにしたらいい。――それじゃあ、これでお別れだな。助けてくれてありがとな。道中、気をつけてな」
軽く手を挙げてから、クリステルに背を向けた。
が――
「あなたも一緒です」
後ろから腕を
振り返ってみると、クリステルは青冷めつつも
イーヴはまた溜息を吐き、己の腕を強く
「
「はい。お願いします」
懇願の
イーヴは少々
だがここまで付き合ったのだ。この際、麓まで付き合ってもよかろう。このまま別れて、この女の屍体を発見でもしたら寝覚めも悪いことである。
「……
「ありがとうございます。――では、急ぎましょう。急がないと、日が暮れるまでに麓に着けません」
そう言うなり身を
送ってもらうにしては、
半ば
*
「ここまででいいか?」
激しい息遣いが聞こえていた。
イーヴはともかく、クリステルにとってはかなり無理をした下山であった。
イーヴに気遣いが無かったわけではない。それを
その
クリステルは大きくゆっくりと呼吸した。何度もそうして息を整え、落ち着いたところでイーヴを
「よくありません」
理解しかねる言葉だった。
「そりゃどういうことだ?」
「あなたもこの山を出るのです」
まったくもって理解しがたい言葉だった。
唖然としつつも、さすがに
「……お前、なんか勘違いしてないか? 俺をお付きの騎士かなんかだと思ってないか?」
クリステルの顔がぱっと赤くなった。
「……もうしわけありません。そんなつもりはありませんでした。気分を害されたのなら
「断る」
クリステルの
「外に出るのは『大いなる敵』を
「……っ」
クリステルは反射的に何かを言いかけたが、すぐに思い直したように口を
内心の焦りを無理矢理に抑え込んだという風であった。
何がクリステルをこれほど焦らせているのか。
イーヴの中に疑問が生まれたが、それを検討するつもりはなかった。己にとっては山を出るように要求されたことの方が遥かに問題であって、その言動の不可思議さに対する疑問など、それに比べれば全く問題にはならなかったからだ。
「……あなたの目的は承知しております。しかし、今は外へ出て、わたくしの話を聴いて下さい。それから山に戻っても、なんの問題もないはずです」
イーヴは苦笑混じりに
「
――己自身に。
己自身に掛けた誓いを破るということは、己自身を裏切ることである。己自身を裏切るということは、己自身を否定することである。
己自身を否定して、どうして生きていけようか。どうして
生きるということは闘うことで、闘うということは己自身と他者との殺し合いである。
闘いに勝利し、生き残るためには、絶対的な、揺るぎない、己自身が必要不可欠なはずであった。
「その誓いを破ってまで、お前の話を聞かねばならん理由など無いし、いや、そもそも、俺はお前の話になんぞ興味は無い」
「……」
クリステルの顔が
「『大いなる敵』に関する話でも、ですか?」
イーヴは思わず鼻で
「『大いなる敵』に関する話って、お前が何を知ってるって言うんだ? 俺が話すまで、お前は『大いなる敵』の存在すら知らなかったじゃないか。話にならんな。何を
「……」
クリステルの険しい顔付きに、沈痛なものが混じった。
「あなたを見捨てたくないのです」
懇願するように言う。
これまた妙なことを言うと、イーヴは
「話が見えないな。さっさとはっきり言ったらどうだ? 急いでるんだろう?」
「時間のかかる話です。――いえ、あなたが納得なさるには時間がかかる、と申し上げた方がよろしいでしょうか」
「俺が納得するかどうかはお前が決めることじゃない。
「……」
イーヴの言葉を
「
クリステルの話は信じ難いものであった。
天に太陽が二つ現れる時、ジャンザビは人の世の
そこに足を踏み入れると、容易には外に出られなくなってしまう。運
「
そして今まさに、己らが真のジャンザビに乗り込んでいる可能性があると云うのである。
イーヴとしては、
しかも、
「確かに、俺がこの山に入った時、太陽は二つ在った。しかし、あれが最初で最後だった。あれ以来、太陽が二つになることはなかった。それなのにお前は俺よりも後から入ってきたんだろう? お前の話に
「その通りです。それゆえ断定しかねているのです。……もしかしたら、太陽がひとつであっても、入ることができるのかもしれません」
「こじつけだな」
「ですが、そうでも考えませんと、あの
「ほう?」
「あの屍体は、三週間近く前に入山したはずの、わたくしの捜し人です。しかし、あなたもご覧になった通り、あれは死後三週間以内のものには見えませんでした。少なくとも一年以上は経っているはず。つまり、わたくしたちが今居るこのジャンザビは、一年以上先の世界のジャンザビだということです」
「屍体の状態に関しては同感だが……あれは本当にお前の捜し人だったのか? 疑うべきはそこではないのか? 人間であることしか判らん、ただの骨だったじゃないか。お前の捜し人の家紋入りの指輪をしてはいたが、さて、どういった来歴でそいつの手に渡ったものやら……。そう考えれば、なんの不思議も無いはずだ」
クリステルはイーヴを非難するように見た。
「やはり、わたくしの話を信じていらっしゃいませんね?」
イーヴは苦笑した。
「いきなりそんな話をされて、信じる方がどうかしてると思わんか?」
「だから申し上げたではありませんか。納得なさるには時間がかかると」
「一応言っておくが、お前の厚意だということは理解してる」
屍体を発見してからのクリステルの奇妙な言動は、なるほど、そう言われてみれば納得できるものがあった。己を
「しかし、お前の厚意であっても、俺が信じるか信じないかは別だ」
「信じる必要などありません。外に出てみれば
「ああ」
「でも……」
クリステルは沈痛な面持ちで、
「最初に申し上げますが、わたくしはあなたの目的を奪いたいわけではありません。また、あなたを外に連れ出したいがために、これからのことを申し上げるわけでもありません。……ただ、この山を
知らず、イーヴの顔が険しくなった。
この女はいったい、何を
「考えるに、あなたの部族の戦士たちは、『大いなる敵』に挑んだのではなく、この山の犠牲になったのではないかと……つまり、『大いなる敵』というものは存在していないのではないかと……」
イーヴは
「
「あるいは、この山を
「付き合えんな。お前はお前が信じる通りにすればよかろう。俺もそうするまでだ。それでなんの問題もないんじゃないのか?」
ふたりは冷えた視線を合わせた。
「あくまで、下山なさらないとおっしゃるのですね?」
「『大いなる敵』を
「そうですか。ご立派な覚悟です。しかし、その覚悟――」
クリステルは小さく嗤った。
「失礼ながら、わたくしには
「なに?」
イーヴはクリステルを
「『大いなる敵』を斃すまでは下山しない――その言葉の本質は、『大いなる敵』を斃すことに対する覚悟の表明ではありませんか? 覚悟そのものではないはず。それなのに、あなたはそんなものに
「……っ!」
言葉に詰まった。
しかし、言い返せない。
腹立たしい女だと思った。
イーヴは舌打ちひとつして、
「……
まんまと乗せられていると思いつつ、外に向かって歩き出した。
それを左前方に眺めつつ、イーヴはジャンザビの
「いいか? 行くぞ?」
「お待ち下さい」
クリステルが右手を差し出してきた。
「手を
イーヴは差し出された手を見つめた。白く細い手だった。
何かが起こるとは思えなかったが、その手を取った。こんな茶番はさっさと終わらせよう。
ふたりはしっかりと手を繋ぎ、ジャンザビの外へ向かって同時に踏み出した。