「おい、これ、食えるやつなんじゃないか?」
イーヴは目の前の野草を指し示した。クリステルが教えてくれた、食べられる野草に見えたのである。
近くで野草採りをしていたクリステルは、すぐさまやってきた。
「ゼナムと勘違いしたようですね。葉の先を見て下さい。ほら、
「……そうか」
イーヴは小さく
クリステルの手伝いを始めて一週間が経つ。
食べられる野草について、クリステルの教えを受けたものの、まだうまく見分けられない。
「そう、気を落とさないで下さい。人には得手不得手というものがあります。わたくしは狩猟がうまくありませんから、わたくしたち、互いに
慰めるようにクリステルは
「ここではこれくらいにしましょう。次はあちらです」
採集物を入れてある、干し草で編んだ
「貸せ」
イーヴはクリステルから柴を取り上げた。
「ありがとうございます」
クリステルは微笑み、先に立って歩くべく、身を
いつの間にこんなに伸びたんだろう、と、イーヴはふと思った。
――それほど時が流れたということか……。
よもや、これほどジャンザビに
どうにも落ち着かぬ気分だった。
もしや己は、どこか違う場所に入り込んでしまったのではないか?
クリステルの話を
己が立っているはずのこの現実に、ひどく違和感を感じてしまう時がある。
それゆえクリステルが不可解であった。
このような望ましくない状況にも
いったい、その細く小さな体のどこに、そんな力が秘められているのか……。
クリステルの背中を見ながらそう思っていると、次第にその先が明るくなり、視界が開けた。
見晴らしの良い場所だった。
山の外が、遥か彼方までよく見える。
まだ乾季であるから、当然、天気も良く、群青色の空の
ひょっとしたら部族の村まで見えるのではないか? ――そんな風に思えるが、見えないことはすでに判っている。ここにやってくるのは初めてではないのだ。
それでも何かしら見えやしないかと目を向けると、そう遠くもないところで巨大な土煙が上がっていた。
「ありゃなんだ?」
一瞬、たくさんの
もちろん考えるまでもなくそんなはずはない。人間である。
まるで穀物の実を
戦争であろう。
イーヴは戦争というものを見るのは初めてであったが、それでも容易に判断がついた。
遠雷のように
すると押し合い
大きな音ではない。
遠く重く、しかし強烈な存在感を持って聞こえてくる。
イーヴは意識を奪われた。最大の注意をもって目の前の戦争を注視した。考えることよりも観察することが優先した。
と、不意に背後で荷物を
しかし物を投げ出すような
「おい、どうしたっ!?」
イーヴの呼び掛けにも答えない。
あの戦争に何かあるのだろうか?
ともかく後を追った。
女の足だ。追い付くのは
追い付いたところで、イーヴは何かしらの気配を感じ取った。
――「大いなる敵」!?
そう思うが早いか、クリステルの腕を
「何か来る。ここで待て」
クリステルを置いて、
胸の高鳴りが、
ところがほとんど間を置かずに失望させられた。
「大いなる敵」ではなかった。
人の気配、それも複数だ。
――外から人が……?
己とクリステル以外の人間は、ここにはいなかったはずである。つい最近、外から入ってきた者たちに違いなかった。となれば、あの戦争の兵士である可能性が高い。
イーヴは草木に身を
案の定、それらしき人間が四人見えた。
イーヴと同じくらいの年恰好の若武者が一人と、彼を護るように取り囲んでいる壮年の戦士が三人。その様子と
返り血なのか自身の血なのか判らぬが、四人とも血と
あの戦争から逃げてきたのだろう。
ともかく、接触するべきか否か、どうしたものかと考えながら観察していると、己の背後からも人の気配が近づいてきた。おそらくはクリステルだろう。待てと言われておとなしく待っているような女ではないし、そもそも飛び出していったところを無理矢理止めたのだ。急いで下山せねばならぬ何かがあるのだろう。
警告はした。それをどう判断するかは彼女の自由である。
無論、こちらの足を引っ張るような真似をされては困るが、頭の悪い女ではない。そうでなければ野放しにはしておかぬ。
クリステルがいると思しき辺りを振り返ってみれば、気配があるだけでその姿は見えない。身を潜めながら慎重にこちらにやってきているようだった。
が――
「セルジュ!!」
叫ぶなり、クリステルは飛び出した。
驚くイーヴを
落武者たちは驚き身構えた。
だが若武者が何かに気づいたらしい。驚き顔に、さらなる驚愕が浮かんだ。
「……クリス? クリスなのか!?」
どうやら知り合いのようである。
イーヴは
突如現れたイーヴに、落武者たちは再び驚き身構えた。
「待って! 彼は味方です」
クリステルが
四人は安堵して構えを解いた。
しかしイーヴは
「気を抜くなッ!! 追われているな!?」
落武者たちの後方から、武装した男たちが六人やってくる。
追っ手であることは一目で看て取れた。獲物を追い詰める者特有の
「奴ら、もうそこまで!」
落武者たちも抜剣した。
イーヴは舌打ちをした。もはやこうなっては戦いを避けることはできないだろう。
己は部外者だと主張したところでどうなるものでもない。落武者狩りは、それ自体一つの商売なのだ。だったら獲物が多い方が良いに決まっているではないか。
イーヴはクリステルに目を向けた。頬が白い。表情が
なぜか不思議な衝動が胸の内から込み上げてきた。
クリステルの身を守らなければ。そんな考えが頭をかすめたのだ。
――らしくない。
そう思う。
これまでイーヴは一度も他者のために戦ったことはなかった。戦いとは全て「大いなる敵」へと続いているものであり、目の前の敵を倒すこと、それ以外のものが心に去来したことはなかった。
だが今はクリステルを守りたいと思う。
いや守らなければならない。
それは核心めいた強い思いだった。
なぜそんな思いが込み上げてきたのかイーヴには判らない。
この気持ちは何なのか。
興味はある。だが──考えている時間はなさそうだった。
「やつらが来る!」
若武者が叫ぶように警告した。その声に焦りは感じられたが
そのことは若武者が腰抜けではないらしいことをイーヴに感じさせた。
イーヴは右手に剣を持ち、自ら追っ手へと歩を進めた。
落武者たちを
連中にとっては利益になるか、ならぬかである。
要するにこの戦闘は成り行きであった。
落武者狩りたちが雄叫びを上げながら駆け寄ってくる。
一人目がイーヴに剣で斬りかかってきた。
それなりに速度も力も乗った一撃ではあるが隙だらけの動きである。
一応は剣技を身に付けているのかも知れないが、イーヴの目から観れば問題外の技倆であった。
これでは剣技も何もあったものではないと思えた。
イーヴは右に半歩動いて敵の剣をやり過ごすと同時に、下から
二人目が胸前から剣を突き出すようにして突進してきた。これも隙が大きい。
どうもこいつらは近隣の農民とか、そういう連中であるらしかった。
イーヴはそう判断した。戦士としての鍛錬をしている者たちとは思えなかった。
それなりに戦い慣れているような感じではあるが、その戦い方は、力と度胸に頼っただけの御粗末なものだ。
だが勢いはあるし迷いも無い。そして殺しに対する抵抗感がないというだけでも、下手な剣技の十倍は役に立つ。
つまり手加減をしてやる必要はないということだ。元元そのつもりもないが。
突き技は隙が大きい。
イーヴは敵の剣先を外しながら踏み込み、相手の右手首を切り落とした。
剣をひらりと
二人の剣が振り下ろされるよりも速く、イーヴは一方に踏み込んでその
それにしても、こうも
これでは到底、戦士とは
五人目となるべき相手が、弱弱しい悲鳴をあげて逃げていくのが見えたが見逃した。追い駆けてまで殺す必要は無いし、敵は後二人いる。
しかし、見回してみればもう片は付いていた。落武者たちによって、手首を落とされた二人目は
クリステルを見れば、顔を青冷めさせて、恐れるような恨むような目でこちらを見ていた。
その理由は明らかであった。
人を殺したからだ。
しかし飛び出して出てこなかっただけ上等ではある。己の信条よりも状況判断の方が
そう思って苦笑した。
――
実際の殺し合いの前では、ご立派な不殺のお題目など消し飛んでしまう。
殺し合いとはそれだけの重みがあるものなのだ。
とは言え信条など
自然なことだと思う。神殿の聖職者たちのように、禁欲だのなんだのと、己を
「
若武者が礼を述べてきた。
血と汗と埃にまみれているにも
金髮碧眼、目元は涼やかで、イーヴよりも少し小さく細身ではあるが、だからと言って頼りないというわけではない。締まった感じである。
どこかクリステルと通じるものがあるが、それはおそらく貴族らしさ、高貴さというものであろう。
「私はセルジュ。ジョルジュ・バルドールの息子、セルジュだ」
セルジュは礼儀正しく
「俺はエク族のイーヴ」
イーヴは
「貴様、その態度はなんだ! この
イーヴの態度に不満を感じたらしい。壮年の戦士の一人がイーヴにくってかかった。
セルジュは手を挙げてそれを制した。
「殿……」
壮年の戦士は
「よい、下がれ」
「……
壮年の戦士は
セルジュはイーヴに向き直った。
「臣下が失礼した」
「……」
イーヴとしてはなんとも言い様が無い。
妙な茶番を見せられた気分だった。
だいたい「バルドール伯爵」などと言われても、なんのことやら分らぬ。
「エク族と申されたな? 失礼ながら、
「セルジュ、話は後にしましょう。今はそれどころではないのです。早急に下山しなくては」
クリステルが
セルジュは心なしか驚いた様子でクリステルを見た。目の前にあるものが信じられないといった様子で、クリステルを見つめる。
「……ああ」
そして
「――あなたも下山するのです」
この場を去ろうとするイーヴの背中に、クリステルは言った。
イーヴは目だけをクリステルに向けた。
「同じことを何度言わせるつもりだ?」
「ご自分でも、もう解っていらっしゃるんでしょう?」
「『解っている』? 何をだ?」
「この山には『大いなる敵』は居ない、ということを」
イーヴの顔が険しくなった。
返り血を浴びた顔がさらに凄惨になった。
――この山には『大いなる敵』は居ないのではないか?
一度ならずそう思ったことはある。しかし、思っただけで認めたわけではない。
クリステルが言うように「解っている」わけではない。思う
「『大いなる敵』? なんだそれは?」
セルジュが興味深げに割り込んできた。
クリステルは無視して続けた。
「いえ、
「……」
「下山しましょう。おそらく今なら下山できます。ここに居てもなんの望みもありませんが、下山すれば望みは出てきます。一度下山して再度入山すれば、この山は今のこの山ではなくなるのです。あるいはその山なら、『大いなる敵』が居るかもしれません。その望みに
ぐらりと心が揺れた。
そんな己に苦笑した。
荒唐無稽として
いや――
荒唐無稽として却けた? 本当にそうなのか?
この山には「大いなる敵」はいない。
そのことを否定したいがために却けたのではないのか?
「お前の話が本当だという……証拠は、あるのか?」
愚かな言葉が唇から漏れた。恥ずべき言葉だと思う。だが本音でもある。
クリステルは真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「父にお会い下さい。すべてはわたくしの父からお聞きになると良いでしょう。きっと納得なさると思います」
「……」
イーヴはクリステルの眼差しを不思議そうに見た。
なぜこうまで、この女は己を下山させようとするのか。
急いでいるはずだ。
説得している暇など無いはずだ。
話の分らぬ男として、さっさと見切りをつければよいものを。
この山に在って、共に過ごした仲ではある。と言っても別段、情を交わしたわけではない。状況に甘んじていたのならば、あるいはそうなっていたかも知れぬが、己もクリステルも諦めてはいなかった。そんな気分にはならなかった。共同生活者としての、好意と信頼があるだけだった。
人が
「あなたは『大いなる敵』を
痛いところを衝いてきたと思った。
傷はほとんど癒えている。普通に動く分には問題は無い。
だが闘いとなるとどうか。
万全だとはとても言えぬ。これは気合いや努力で何とかなる問題ではない。動かし難い事実だ。
何よりも、この山に入るまで己を支えていた張りのようなものが、
クリステルの「心身に疲れがありましょう」という言葉は、そこをまさに言い当てていた。
「もう一度申し上げます。あなたはこの山を
「……お前の父親は何を教えてくれる?」
「あなたの求める答えをです」
クリステルは言い切った。
「大いなる敵」に。
だが……。
少なくとも今、この山に奴が居るとは思えない。
「わたくしたちとともに下山しましょう。今ならば下山できるはずです」
クリステルはセルジュの方に目を遣った。セルジュは戸惑いを隠せぬ様子であった。当然だが、会話の内容についてこれぬようである。
クリステルが息を吸う気配がした。意を決したように口を開いた。
「……
縦しんば居るとしても姿を現していない――とは、どういう意味か?
イーヴは一瞬、クリステルの言葉の意味を
だが、すぐに解った。
それは、「大いなる敵」が己を敵として認めてはいないということ、戦うに足る相手として認めていないということだ。
殺気を含んだ眼差しでクリステルを見た。無論クリステルに対して怒っているわけではない。その言葉を無視できぬことへの怒りである。その言葉に
呼吸が荒くなった。イーヴは目を閉じた。気を
「……解った。お前と一緒にこの山を出よう」
苦痛であった。それでも、今は他に取るべき手がない。
一方クリステルは、安堵の混じった
「……話はついたようだな」
セルジュが口を開いた。
少々不機嫌な様子で、イーヴをちらりと見た。見定めるような鋭い目だった。
「さあ、クリス」
セルジュは血にまみれた手袋を脱ぎ、常のことであるかのように、クリステルに手を差し伸べた。
クリステルはその手に手を伸ばしかけたが取ることはしなかった。静かに押し戻したのである。
「セルジュ、ここは都ではありませんよ」
セルジュは驚いたような顔をした。クリステルとイーヴを交互にさっと見て、
「……そうだな」
クリステルの微笑みに
そんなふたりの遣り取りから、イーヴはふたりの仲の良さを感じた。恋人とまではゆかぬでも、それなりに親密な仲なのであろう。
イーヴは先に立って山を下り始めた。