伝説の敵

第一章 第六節

「おい、これ、食えるやつなんじゃないか?」

 イーヴは目の前の野草を指し示した。クリステルが教えてくれた、食べられる野草に見えたのである。

 近くで野草採りをしていたクリステルは、すぐさまやってきた。

「ゼナムと勘違いしたようですね。葉の先を見て下さい。ほら、(まる)いでしょう? ゼナムは(とが)ってますから」

「……そうか」

 イーヴは小さく溜息(ためいき)を吐いた。

 クリステルの手伝いを始めて一週間が経つ。

 食べられる野草について、クリステルの教えを受けたものの、まだうまく見分けられない。

「そう、気を落とさないで下さい。人には得手不得手というものがあります。わたくしは狩猟がうまくありませんから、わたくしたち、互いに(おぎな)い合えているではありませんか。それでよいではありませんか」

 慰めるようにクリステルは至極(しごく)(もっと)もなことを言うが、イーヴとしては釈然(しゃくぜん)としない。

「ここではこれくらいにしましょう。次はあちらです」

 採集物を入れてある、干し草で編んだ(かご)と、(しば)(たば)を小脇に抱え、クリステルは歩き出そうとした。

「貸せ」

 イーヴはクリステルから柴を取り上げた。

「ありがとうございます」

 クリステルは微笑み、先に立って歩くべく、身を(ひるがえ)した。金の髪がふわりと揺れた。

 いつの間にこんなに伸びたんだろう、と、イーヴはふと思った。

 出遇(であ)った頃は、肩にも届かぬほどの髪だった。それが今や、肩に触れている。

 ――それほど時が流れたということか……。

 よもや、これほどジャンザビに(とど)まることになろうとは、思いも寄らぬことであった。いまだ「大いなる敵」と相見(あいまみ)えること(かな)わず、その代わりのように貴族の女と出遇って、こうしてふたりで生活することになろうとは。

 どうにも落ち着かぬ気分だった。

 もしや己は、どこか違う場所に入り込んでしまったのではないか?

 クリステルの話を()に受けるわけではないが、そう感じてしまう時がある。

 己が立っているはずのこの現実に、ひどく違和感を感じてしまう時がある。

 それゆえクリステルが不可解であった。

 このような望ましくない状況にも(かかわ)らず、どこかでそれを受け()れているようなところが、彼女から感じられるのである。しっかりと地に足を着けて、この状況を生き抜こうとする(たくま)しさが感じられるのである。

 いったい、その細く小さな体のどこに、そんな力が秘められているのか……。

 クリステルの背中を見ながらそう思っていると、次第にその先が明るくなり、視界が開けた。

 見晴らしの良い場所だった。

 山の外が、遥か彼方までよく見える。

 まだ乾季であるから、当然、天気も良く、群青色の空の(もと)、白茶けた荒野がどこまでも拡がっている。

 ひょっとしたら部族の村まで見えるのではないか? ――そんな風に思えるが、見えないことはすでに判っている。ここにやってくるのは初めてではないのだ。

 それでも何かしら見えやしないかと目を向けると、そう遠くもないところで巨大な土煙が上がっていた。

「ありゃなんだ?」

 一瞬、たくさんの(あり)が動き回っているように見えた。

 もちろん考えるまでもなくそんなはずはない。人間である。

 まるで穀物の実を()いたかの(ごと)くに大勢の人間が(うごめ)いている。馬も混じっている。

 濛濛(もうもう)たる土煙の中、様様(さまざま)な旗や(のぼり)がいくつも立ち、刀槍(とうそう)甲冑(かっちゅう)(きら)めいていた。

 戦争であろう。

 イーヴは戦争というものを見るのは初めてであったが、それでも容易に判断がついた。

 遠雷のように雄叫(おたけ)びが聞こえてきた。

 すると押し合い()し合いをしていた一角が動き、絶叫と、金属の激突する鋭い音が、激しい雨のように立て続けに鳴った。

 大きな音ではない。

 遠く重く、しかし強烈な存在感を持って聞こえてくる。

 イーヴは意識を奪われた。最大の注意をもって目の前の戦争を注視した。考えることよりも観察することが優先した。

 と、不意に背後で荷物を(ほう)り出すような音がした。クリステルだ。彼女しかいないのだから。

 しかし物を投げ出すような真似(まね)をするとは意外であった。そういうぞんざいさとは無縁の人間だと思っていたからだ。

 (いぶか)しみながら、その意味するところを考えようとした時、クリステルが形振(なりふ)り構わず駆け出した。

「おい、どうしたっ!?」

 イーヴの呼び掛けにも答えない。(ふもと)に向かっているようだった。

 あの戦争に何かあるのだろうか?

 ともかく後を追った。

 女の足だ。追い付くのは雑作(ぞうさ)もない。

 追い付いたところで、イーヴは何かしらの気配を感じ取った。

 ――「大いなる敵」!?

 そう思うが早いか、クリステルの腕を(つか)んだ。(うめ)くような悲鳴があがった。細い腕だった。折れるのではないかと一瞬(あや)ぶんだが、気にしている場合ではない。すぐさま引き寄せて口早(くちばや)にささやいた。

「何か来る。ここで待て」

 クリステルを置いて、(ひそ)やかに、かつ(すみ)やかに山を下った。気配は下の方からやってくる。

 胸の高鳴りが、(よろこ)びが、抑えられない。

 ところがほとんど間を置かずに失望させられた。

「大いなる敵」ではなかった。

 人の気配、それも複数だ。

 ――外から人が……?

 己とクリステル以外の人間は、ここにはいなかったはずである。つい最近、外から入ってきた者たちに違いなかった。となれば、あの戦争の兵士である可能性が高い。

 イーヴは草木に身を(ひそ)めながら、慎重に近づいていった。

 案の定、それらしき人間が四人見えた。

 イーヴと同じくらいの年恰好の若武者が一人と、彼を護るように取り囲んでいる壮年の戦士が三人。その様子と身扮(みな)りから、若武者の身分の高さが(うかが)えた。

 返り血なのか自身の血なのか判らぬが、四人とも血と(ほこり)にまみれ、疲労の極限にありながらも何かに()っつかれるように歩を進めている。

 落武者(おちむしゃ)だと思った。

 あの戦争から逃げてきたのだろう。

 ()りに()ってこんなところに逃げ込んでくるとは。知ってて破れかぶれなのか、知らずに運が無いのか……。

 ともかく、接触するべきか否か、どうしたものかと考えながら観察していると、己の背後からも人の気配が近づいてきた。おそらくはクリステルだろう。待てと言われておとなしく待っているような女ではないし、そもそも飛び出していったところを無理矢理止めたのだ。急いで下山せねばならぬ何かがあるのだろう。

 警告はした。それをどう判断するかは彼女の自由である。

 無論、こちらの足を引っ張るような真似をされては困るが、頭の悪い女ではない。そうでなければ野放しにはしておかぬ。

 クリステルがいると思しき辺りを振り返ってみれば、気配があるだけでその姿は見えない。身を潜めながら慎重にこちらにやってきているようだった。

 が――

「セルジュ!!」

 叫ぶなり、クリステルは飛び出した。

 驚くイーヴを後目(しりめ)に、落武者たちに向かって駆けていく。

 落武者たちは驚き身構えた。

 だが若武者が何かに気づいたらしい。驚き顔に、さらなる驚愕が浮かんだ。

「……クリス? クリスなのか!?」

 どうやら知り合いのようである。

 イーヴは安堵(あんど)して、クリステルの後を追った。

 突如現れたイーヴに、落武者たちは再び驚き身構えた。

「待って! 彼は味方です」

 クリステルが(とど)めた。

 四人は安堵して構えを解いた。

 しかしイーヴは抜剣(ばっけん)して警告した。

「気を抜くなッ!! 追われているな!?」

 落武者たちの後方から、武装した男たちが六人やってくる。

 追っ手であることは一目で看て取れた。獲物を追い詰める者特有の獰猛(どうもう)さがある。不思議とどこか憶えのある感じがしないでもないが、随分(ずいぶん)と泥臭く、野蛮な感じのする連中だった。おそらくは落武者狩りだろう。

「奴ら、もうそこまで!」

 落武者たちも抜剣した。

 イーヴは舌打ちをした。もはやこうなっては戦いを避けることはできないだろう。

 己は部外者だと主張したところでどうなるものでもない。落武者狩りは、それ自体一つの商売なのだ。だったら獲物が多い方が良いに決まっているではないか。

 イーヴはクリステルに目を向けた。頬が白い。表情が硬張(こわば)っている。

 なぜか不思議な衝動が胸の内から込み上げてきた。

 クリステルの身を守らなければ。そんな考えが頭をかすめたのだ。

 ――らしくない。

 そう思う。

 これまでイーヴは一度も他者のために戦ったことはなかった。戦いとは全て「大いなる敵」へと続いているものであり、目の前の敵を倒すこと、それ以外のものが心に去来したことはなかった。

 だが今はクリステルを守りたいと思う。

 いや守らなければならない。

 それは核心めいた強い思いだった。

 なぜそんな思いが込み上げてきたのかイーヴには判らない。

 この気持ちは何なのか。

 興味はある。だが──考えている時間はなさそうだった。

「やつらが来る!」

 若武者が叫ぶように警告した。その声に焦りは感じられたが(おび)えは感じられなかった。

 そのことは若武者が腰抜けではないらしいことをイーヴに感じさせた。

 イーヴは右手に剣を持ち、自ら追っ手へと歩を進めた。

 落武者たちを(たす)けてやる義理などかったが、あの落武者狩りが己とクリステルを見逃すとは思えない。

 連中にとっては利益になるか、ならぬかである。

 要するにこの戦闘は成り行きであった。

 落武者狩りたちが雄叫びを上げながら駆け寄ってくる。

 一人目がイーヴに剣で斬りかかってきた。

 それなりに速度も力も乗った一撃ではあるが隙だらけの動きである。

 一応は剣技を身に付けているのかも知れないが、イーヴの目から観れば問題外の技倆であった。

 これでは剣技も何もあったものではないと思えた。

 イーヴは右に半歩動いて敵の剣をやり過ごすと同時に、下から喉元(のどもと)目懸(めが)けて剣を振り抜いた。男の頭が跳ねるが(ごと)くにがくんと上を向き、喉から血が噴き出した。

 二人目が胸前から剣を突き出すようにして突進してきた。これも隙が大きい。

 どうもこいつらは近隣の農民とか、そういう連中であるらしかった。

 イーヴはそう判断した。戦士としての鍛錬をしている者たちとは思えなかった。

 それなりに戦い慣れているような感じではあるが、その戦い方は、力と度胸に頼っただけの御粗末なものだ。

 だが勢いはあるし迷いも無い。そして殺しに対する抵抗感がないというだけでも、下手な剣技の十倍は役に立つ。

 つまり手加減をしてやる必要はないということだ。元元そのつもりもないが。

 突き技は隙が大きい。

 イーヴは敵の剣先を外しながら踏み込み、相手の右手首を切り落とした。

 剣をひらりと回旋(かいせん)させ男の頸筋にと打ち込もうとしたが、その時間はなかった。三人目四人目が同時に斬り込んできたのだ。が、これまた連携(れんけい)も何もあったものではない動きだ。

 二人の剣が振り下ろされるよりも速く、イーヴは一方に踏み込んでその(くび)を裂き、返す刃を、空振って体勢を崩したもう一方の頸筋に叩き込んだ。二人分の(おびただ)しい血を頭から(かぶ)った。

 それにしても、こうも容易(たやす)く頸への一撃を許すとは……。

 これでは到底、戦士とは()えぬ。

 五人目となるべき相手が、弱弱しい悲鳴をあげて逃げていくのが見えたが見逃した。追い駆けてまで殺す必要は無いし、敵は後二人いる。

 しかし、見回してみればもう片は付いていた。落武者たちによって、手首を落とされた二人目は(とど)めを刺され、残る一人も始末されたところであった。

 クリステルを見れば、顔を青冷めさせて、恐れるような恨むような目でこちらを見ていた。

 その理由は明らかであった。

 人を殺したからだ。

 しかし飛び出して出てこなかっただけ上等ではある。己の信条よりも状況判断の方が(まさ)ったというところであろうか。それとも単に足が(すく)んだのか。

 そう思って苦笑した。

 ――所詮(しょせん)、その程度のものだ。

 実際の殺し合いの前では、ご立派な不殺のお題目など消し飛んでしまう。

 殺し合いとはそれだけの重みがあるものなのだ。

 とは言え信条など()(ちゃ)って、己に正直であるのは結構なことだと思う。

 自然なことだと思う。神殿の聖職者たちのように、禁欲だのなんだのと、己を(いじ)めて生きるのはどうかと思う。

 (もっと)も、彼らとしてはその抑圧が(たま)らないようなので、イーヴとしては何も言うことが無い。心の中で変態だと思うのみである。

(かたじけな)い」

 若武者が礼を述べてきた。

 血と汗と埃にまみれているにも(かかわ)らず、(さわ)やかな感じのする男だった。

 金髮碧眼、目元は涼やかで、イーヴよりも少し小さく細身ではあるが、だからと言って頼りないというわけではない。締まった感じである。

 どこかクリステルと通じるものがあるが、それはおそらく貴族らしさ、高貴さというものであろう。

「私はセルジュ。ジョルジュ・バルドールの息子、セルジュだ」

 セルジュは礼儀正しく名告(なの)った。

「俺はエク族のイーヴ」

 イーヴは打切棒(ぶっきらぼう)な調子で(こた)えた。

「貴様、その態度はなんだ! この御方(おかた)はバルドール伯爵であらせられるぞ!」

 イーヴの態度に不満を感じたらしい。壮年の戦士の一人がイーヴにくってかかった。

 セルジュは手を挙げてそれを制した。

「殿……」

 壮年の戦士は怪訝(けげん)な顔でセルジュを(うかが)う。

「よい、下がれ」

「……御意(ぎょい)

 壮年の戦士は渋渋(しぶしぶ)と退き下がった。

 セルジュはイーヴに向き直った。

「臣下が失礼した」

「……」

 イーヴとしてはなんとも言い様が無い。

 妙な茶番を見せられた気分だった。

 だいたい「バルドール伯爵」などと言われても、なんのことやら分らぬ。

「エク族と申されたな? 失礼ながら、寡聞(かぶん)にして耳にしたことは無いが、しかし、なかなかの腕前。さぞ――」

「セルジュ、話は後にしましょう。今はそれどころではないのです。早急に下山しなくては」

 クリステルが(さえぎ)った。

 セルジュは心なしか驚いた様子でクリステルを見た。目の前にあるものが信じられないといった様子で、クリステルを見つめる。

「……ああ」

 そして躊躇(ためら)いがちに何かを言いかけたが、それよりも先にクリステルの目がセルジュから離れた。

「――あなたも下山するのです」

 この場を去ろうとするイーヴの背中に、クリステルは言った。

 イーヴは目だけをクリステルに向けた。

「同じことを何度言わせるつもりだ?」

「ご自分でも、もう解っていらっしゃるんでしょう?」

「『解っている』? 何をだ?」

「この山には『大いなる敵』は居ない、ということを」

 イーヴの顔が険しくなった。

 返り血を浴びた顔がさらに凄惨になった。

 ――この山には『大いなる敵』は居ないのではないか?

 一度ならずそう思ったことはある。しかし、思っただけで認めたわけではない。

 クリステルが言うように「解っている」わけではない。思う(たび)にすぐさま打ち消してきた。

「『大いなる敵』? なんだそれは?」

 セルジュが興味深げに割り込んできた。

 クリステルは無視して続けた。

「いえ、()()()()()()()()()()()()()()『大いなる敵』は居ない、と言うべきでしょうか。あなたは『大いなる敵』の居ない山に迷い込んでしまったのです」

「……」

「下山しましょう。おそらく今なら下山できます。ここに居てもなんの望みもありませんが、下山すれば望みは出てきます。一度下山して再度入山すれば、この山は今のこの山ではなくなるのです。あるいはその山なら、『大いなる敵』が居るかもしれません。その望みに()けてみませんか?」

 ぐらりと心が揺れた。

 そんな己に苦笑した。

 荒唐無稽として(しりぞ)けてきたクリステルの話を、望みがあるというだけで信じようとしている。

 いや――

 荒唐無稽として却けた? 本当にそうなのか?

 この山には「大いなる敵」はいない。

 そのことを否定したいがために却けたのではないのか?

「お前の話が本当だという……証拠は、あるのか?」

 愚かな言葉が唇から漏れた。恥ずべき言葉だと思う。だが本音でもある。

 クリステルは真っ直ぐな眼差しを向けてきた。

「父にお会い下さい。すべてはわたくしの父からお聞きになると良いでしょう。きっと納得なさると思います」

「……」

 イーヴはクリステルの眼差しを不思議そうに見た。

 なぜこうまで、この女は己を下山させようとするのか。

 急いでいるはずだ。

 説得している暇など無いはずだ。

 話の分らぬ男として、さっさと見切りをつければよいものを。

 この山に在って、共に過ごした仲ではある。と言っても別段、情を交わしたわけではない。状況に甘んじていたのならば、あるいはそうなっていたかも知れぬが、己もクリステルも諦めてはいなかった。そんな気分にはならなかった。共同生活者としての、好意と信頼があるだけだった。

 人が()いのだろうと思う。

「あなたは『大いなる敵』を(たお)さなくてはならないのでしょう? でしたらそのためにも、一度体勢を立て直した方がよいのではありませんか? あなたは問題にならないとおっしゃいましたが、あの時の傷だってまだ完全には()えておりません。何よりも心身に疲れがありましょう」

 痛いところを衝いてきたと思った。

 傷はほとんど癒えている。普通に動く分には問題は無い。

 だが闘いとなるとどうか。

 万全だとはとても言えぬ。これは気合いや努力で何とかなる問題ではない。動かし難い事実だ。

 何よりも、この山に入るまで己を支えていた張りのようなものが、(ゆる)んできているのではないかという不安がある。

 クリステルの「心身に疲れがありましょう」という言葉は、そこをまさに言い当てていた。

「もう一度申し上げます。あなたはこの山を一旦(いったん)出るべきです。確実に、あなたの敵と出逢うために」

「……お前の父親は何を教えてくれる?」

「あなたの求める答えをです」

 クリステルは言い切った。真摯(しんし)な眼差しを向けられて、イーヴは不思議な胸の痛みを覚えた。

 (すが)り付いていると思った。無論クリステルがではない。己がである。

「大いなる敵」に。(たお)すべき、恐るべき偉大なる敵に。

 だが……。

 少なくとも今、この山に奴が居るとは思えない。

「わたくしたちとともに下山しましょう。今ならば下山できるはずです」

 クリステルはセルジュの方に目を遣った。セルジュは戸惑いを隠せぬ様子であった。当然だが、会話の内容についてこれぬようである。

 クリステルが息を吸う気配がした。意を決したように口を開いた。

「……()しんばこの山に『大いなる敵』が居るとしても、今のあなたの前に姿を現してはおりません。そのことの意味をお考えになってはいかがでしょうか?」

 縦しんば居るとしても姿を現していない――とは、どういう意味か?

 イーヴは一瞬、クリステルの言葉の意味を(つか)みかねた。

 だが、すぐに解った。

 それは、「大いなる敵」が己を敵として認めてはいないということ、戦うに足る相手として認めていないということだ。

 忿怒(ふんぬ)の火が胸の中に燃え拡がった。

 (ゆる)せぬ。

 殺気を含んだ眼差しでクリステルを見た。無論クリステルに対して怒っているわけではない。その言葉を無視できぬことへの怒りである。その言葉に(いく)ばくかの妥当性(だとうせい)を認めざるを得ないからである。

 呼吸が荒くなった。イーヴは目を閉じた。気を(しず)めなくてはならない。怒りは正しく用いられなくてはならない。今は怒るべき時ではない。誇り高き戦士は怒るべき時に怒り、行動を(もっ)て示す。それが戦士の誇りである。

 (しば)しの沈黙が場に流れた。

「……解った。お前と一緒にこの山を出よう」

 歯牆(はがき)の間から(しぼ)り出すように声を出した。

 苦痛であった。それでも、今は他に取るべき手がない。

 一方クリステルは、安堵の混じった(よろこ)びの笑みを見せた。

「……話はついたようだな」

 セルジュが口を開いた。先程(さきほど)クリステルに無視されて以来、黙って成り行きを見守っていたのだが、どうも納得しかねるようであった。

 少々不機嫌な様子で、イーヴをちらりと見た。見定めるような鋭い目だった。

 ()け者にした所為(せい)であろうか、と、イーヴは思ったが、そんなことで(いきどお)るような幼稚な男とは思われなかった。

「さあ、クリス」

 セルジュは血にまみれた手袋を脱ぎ、常のことであるかのように、クリステルに手を差し伸べた。

 クリステルはその手に手を伸ばしかけたが取ることはしなかった。静かに押し戻したのである。

「セルジュ、ここは都ではありませんよ」

 微笑(ほほえ)みながら言った。

 セルジュは驚いたような顔をした。クリステルとイーヴを交互にさっと見て、

「……そうだな」

 クリステルの微笑みに(こた)えるように微笑んだ。どこかぎこちない微笑みだった。

 そんなふたりの遣り取りから、イーヴはふたりの仲の良さを感じた。恋人とまではゆかぬでも、それなりに親密な仲なのであろう。

 イーヴは先に立って山を下り始めた。

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