セルジュは何度目かの深呼吸をした。
緊張している。
まだ敵と
無理もなかった。
この
手柄を立てて、認めてもらう。認めさせる。
宮廷貴族としての日々を取り戻すのだ。
宮廷への帰参を――。
彼女との結婚を――。
いや、まだその一歩にしかならない。
だが、確実な一歩を得たい。
彼女――クリステルとは、幼馴染みであった。昔から仲が良く、家同士も
だが、それも今となっては昔のこととなった。
転機は五年前、王位継承争いの折である。
第一王子ロドルフと第二王子セドリックが王位を争うこととなり、貴族たちは三つの選択肢からの選択を迫られた。ロドルフに
セルジュの家――バルドール家にとっては、厳しく難しい選択であった。
ロドルフと、クリステルの父レイモン・ギュベール、何やら意気投合するところがあるらしいこの二人を引き合わせたのは、そもそもセルジュの父、ジョルジュ・バルドールであった。その
当然の如くロドルフ派に与したレイモンは、こちらに与するよう、ジョルジュを説得した。そこにはロドルフの期待もあった。
その一方で、バルドール家はセドリックとも浅からぬ縁があった。セドリックの母方の祖母はバルドール家の出で、つまりはセドリックとは縁戚関係にあった。
バルドール家は、双方に引っ張られる状態になってしまったわけである。
ジョルジュは悩みに悩んだ。
この選択には、
ロドルフ派でもセドリック派でもない、第三派を選ぶのが無難と言えば無難であった。しかし、それは双方に対して不義理というものである。
結局のところ血縁の義理を取ったわけだが、争いは民にまで及ぶような大規模なものには到らず、ロドルフが王位に就き、セドリックは
ギュベール家は大きく繁栄し、バルドール家は大きく零落することとなった。
ギュベール家は単に勝ち組に属していたというだけでなく、ロドルフの期待に多いに
バルドール家は単に負け組に属していたというだけでなく、ロドルフの期待を裏切る形でセドリックに与したということもあって、世間の目は
ロドルフは
レイモンはふたりの間を取り持とうと、今なお
かくの如く両家の社会的地位や立場は大きくかけ離れ、表立っての付き合いは
バルドール家は王都の邸を引き払い、己が領地に引っ込んだ。このことによって、ふたりは互いの姿を遠目に見ることすらできなくなってしまった。ギュベール家とバルドール家の領地は遠く離れているため、ふたりの付き合いは、共に王都に暮らしているということで成り立っていたからである。
ところがそれから約一年後のことである。十四歳となったセルジュは王都の宮廷に召し出された。近衛兵として仕えよという、王のお召しであった。
セルジュはごく少数の家臣と召使いを引き連れて、王都の邸に戻った。
だが、王都に戻ったからといって、そこからすぐに宮廷貴族として返り咲けるわけではない。
宮廷に戻れたわけではないのだ。
王から宮廷に帰参するよう命じられたわけではないからだ。
だからクリステルとの付き合いまで復活したわけではなかった。かつてのように互いの邸を
それでも、顔を合わせることがまったく無かったわけではない。王が主催する
ある時、王主催の夜会が催された。そこで久しぶりにクリステルの姿を見掛けたときのことを、今でもセルジュは印象深く憶えている。
いくら王による催しとは言え、本来は王の身辺警護が任務の近衛兵が、娯楽の催しの警備までするのは妙な話である。
だがそこにはちょっとした事情がある。兵の間で日常的に行われる賭け事で、当番任務が賭け対象となることはままあり、それで本来は当番でもないのに任務に
これには事情があった。さすがに近衛兵が
そしてそのことを利用するのは、近衛兵たちにとっては当たり前のことでもあった。ほとんど参加者に等しい振る舞いをする者が多いのだ。
宮廷人たちの方でも、その辺は
そういうわけでこの手の任務は近衛兵の間でも人気がある。だから賭けの対象になるのだが、セルジュは賭け事をする方ではない。
それでも当番外の警備任務が回ってきたのは、先輩近衛兵から押し付けられたからである。
それは先輩から後輩へのよくある
近衛兵の多くは、王の近くに控えるがゆえに、王に取り立ててもらおうという気持ちを強く持っている。王のお気に入りになれば、さらなる地位や領地を与えられることもあるのである。
それがそもそも近衛兵となることすら難しいというのに、先の王位継承争いの件があるにも
王の
……かくなる上は、
つまるところ任務の押し付けは、こうしたことの一環なのである。
好意のように見えて、実は悪意が含まれている。これこそ宮廷風の作法と言うべき嫌がらせであった。
まるで砂糖菓子に一滴だけ垂らされた毒のように。
だからもしもセルジュが喜んで警備任務を引き受けたり、賭け事で任務を獲得しようとするような性格であったならば、このように任務を押し付けられることはなかっただろう。
もっともこれは、
しかしこれには不幸中の幸いが隠されていた。
遠目ではあるが、クリステルを見ることができるという、それである。
王が退出すると催しの場からは堅苦しさが消える。それに乗っかって警備監督の近衛兵も、任務そっちのけでちゃっかり参加するのが通例なのだが、セルジュはそんなことはしなかった。いや、できなかった。
だからクリステルに近づくこともなかった。
無論、そうして近づくことができても、大っぴらに親しくすることはできない。さり気なさを
ともあれセルジュは根が生真面目な男であった。
押し付けられた任務であろうが、途中で投げ出したりはできぬ男であった。であるから、いつも隅の方に突っ立っているばかりなのである。
そうしたセルジュの目に映るクリステルは、いつだって華やかであった。多数の人々に取り囲まれていた。
そのほとんどは、彼女の心を射止めんとする男たちである。今を
こういったことは王位継承争い前にはあまり見られぬものであった。クリステルの
王位継承争いの後、クリステルは日を追う
美しい花を咲かせるであろうことは、元より充分に予想されたことであったが、それでもなお目を見張る変貌ぶりであった。
一年振りにクリステルを目にしたセルジュは、ただ呆然とするばかりであった。
信じ難い気持ちだった。
彼女と共にあったということが、どうにも想像し難かった。
そしてセルジュは、いまだかつてない感情が己の内にあることに気づいた。
クリステルと共にあった日々、その中にあった感情が、ひどく幼いものであったことに気づかされた。
――どうして今頃……。
苦苦しく歯噛みした。
そうと気づくと、遠くからクリステルを見ているのが、いよいよ
辛いのなら見なければよい。このような警備の任務に当たらねばよい。
任務を務めるのは己でなくともいいのだ。
同僚をあたれば他にやりたがる者はいくらでもいるだろう。
それだけの話であるが、そうするのが怖かった。
ただの幼馴染みでしかなかった。
行く行くは結婚するのが自然だという空気はあったが、所詮は形の無い空気でしかなかった。はっきりと、結婚の約束などしていなかった。
そもそもクリステルの己に対する好意は、幼馴染みとしてのそれでしかなかったに違いない。己も、今の今までそうだったのだから。
それゆえ怖かった。
ただでさえ遠くなってしまったというのに、この上顔を合わせることすらなくなってしまったら、彼女から忘れられてしまうのではないか――そんな不安があった。
そして、そうした気持ちで顔を合わせてみれば、クリステルを取り囲む男たちのように、言い寄ることも近寄ることもできぬ己の立場を、無力さを、思い知らされるばかりであった。
脳天気にも、そうあるのが当たり前という顔をして彼女と共にあったことが、夢のようであり、腹立たしくもあった。よもやこんな日が来ようとは夢にも思わなかったのだ。あの頃は。
ただひたすら無邪気であれた時は、
今までの己のままでよいはずがなかった。
彼女は多くの男たちの心を動かすだけの女となっていた。
彼女に
セルジュはそうあるべく励み、己が力を発揮させられる時を、地位と名誉を得られる時を、待ち続けた。
そうして
夜明けの
五千人ともなるとさすがに
どこからともなく、食べ物を
そういった
騎士五名、従士八名、歩兵五十名である。
騎士・従士らはともかくとして、歩兵らの武装は貧弱極まりない。歩兵は農民であるから仕方無いが、それにしても、どうにも頼りない戦力であった。
皆バルドール家の家臣と領民たちである。
――死なせたくない。
彼らの顔を見てそう思った。
しかし己は、彼らを生きて領地に帰すことができるのか……。
そう考えて振り払った。
己が不安になってどうする。不安なのは彼らの方だろう。
壮年の騎士ボードヴィルの
本来近衛は王の直参であり、王の身辺を離れることはない。
それがこうして独自の部隊を率いているのは、誰もこの危険な役目を引き受けようとはしなかったからである。当然、王からは許可を得ている。
自ら請け負った任務であった。
危険は大きいが見返りも大きい。
家臣らも皆承知の上である。反対されるかも知れぬと思ったが、意外にも賛同してくれた。彼らもまたこの機会を待っていたのだろう。なんと言っても五年も不遇に甘んじてきたのだ。
従士に手伝われてセルジュが戦支度を整え終えると、ラッパの音が聞こえてきた。規則的なリズムで吹き鳴らされている。陣形形成を命ずる合図であった。
セルジュは大きく深呼吸をし、馬に飛び乗った。