イーヴは呆然とした。
これほどの建築物は見たことも無かった。
見上げるほどに巨大で
威圧感のある城壁を
道の左右に店が並び、その前を人だけでなく馬が歩き、
かと思うと建物の二階の窓縁から、顔を出している者がある。玄関口からこちらを見ている者がある。
注目されているのだ。
だがそれも無理はない。
八百人ほどの兵と捕虜が、列を成して道を進んでいくのだから。
列に付いて歩きながら、イーヴはどうにも落ち着かなかった。
人にじろじろと見られるというのは、気に入らない――
*
ヴァルカンティとリンドベリの戦いは、ヴァルカンティの勝利で終わった。
圧勝ではない。苦戦からの勝利であった。
ヴァルカンティ軍五千と、リンドベリ軍五千五百のぶつかり合いは、ヴァルカンティの死者千五百人、捕虜三百人、リンドベリの死者二千三百人、捕虜五百人、という犠牲を出して幕を閉じた。
リンドベリ軍が退却した後、ヴァルカンティ軍は解散し、
なんと言っても戦の目当ては、こうした戦利品である。そこには大義など何も無い。
敵に侵略される側の領地の領主は、
なにしろ戦に参加するには金がかかる。その埋め合わせも必要だった。無論、活躍すれば王からの褒賞があるが、誰もが活躍できるわけではない。戦で家が
イーヴ、クリステル、セルジュらは、
土埃の臭いに重なって独特の臭気が拡がっている。
血と臓物の臭いであった。
糞尿と、血と、臓物の臭いが一体となって辺りに広がっている。それは家畜を解体する時の臭いに似て、しかし遥かに強烈な臭いであった。
単純に悪臭と言うには、その臭いが放つ存在感は強すぎた。
負傷者の
セルジュは
「奴ら、いつの間に退却したんだ? あまりにも早過ぎやしないか? ――とまれ、このままでは先を越される」
セルジュは三人の家臣らに目顔で指示した。
彼らは頷きを返し、戦利品の獲得に向かった。
セルジュはクリステルを振り返った。
クリステルは呆然と戦場を見ていた。
青冷めた顔で口を押さえていた。
が、
「クリス!」
セルジュがクリステルに介抱の手を伸ばした。だがクリステルは思わず
セルジュは幼馴染みである。五年前を境にほとんど交流は無くなってしまったが、今でも仲良くしていた頃の気持ちに変わりはない。愛しい幼馴染みであると思っている。
そのセルジュに対して恐怖を感じてしまった。
そのことに強い衝撃を受けた。ひどく悲しい気分になった。
セルジュは騎士で、騎士は侵略者と戦うのが仕事で、その
それなのに、思わずその手を払い
そんな自分に嫌悪した。
「大丈夫か?」
セルジュが心配顔で
その顔に
立派な騎士に見えた。
それなのに、それに戸惑いを感じている自分がいる。目の前の男は、もはや自分が知っている幼馴染みではないのではないかと、失望のようなものを感じている。
まったくもって身勝手な感想である。
そんな自分に吐き気がした。
そうしてますます顔色の悪くなるクリステルに、セルジュは
「ともかく、一刻も早くここを去ろう」
ここは戦場である。戦えぬ者が居てよい場所ではない。女となればなおさらである。残党がまだ居るかも知れぬし、味方であっても油断ならない。
セルジュはクリステルを
「クリス?」
クリステルは苦味のある唾を呑み込み、厳しい顔でセルジュを見た。
「……いえ、もうだいじょうぶです。あなたも行って下さい」
戦利品の獲得に、である。
セルジュの家の窮状は承知している。本来ここに居るべきではない人間の自分が、セルジュの足を引っ張るわけにはいかなかった。
「しかし……」
「ご自分のお仕事をなさって下さい」
クリステルは強く言った。
「こんなところに、君をひとりにするわけにはいかない」
セルジュもまた強く返した。
「いえ、ひとりではありません。彼がおりますから」
だから安心だと言うように、クリステルは戦場を眺めるイーヴを見た。
セルジュは驚いた。クリステルはこの男を頼りにしているのだろうか? 頼りにするほどの仲なのだろうか?
この男は、クリステルのことを「お前」と呼んでいた。貴族とは到底思えぬ男が、貴族であるクリステルに対してだ。なんという身の程知らずだろうと思った。しかし、当のクリステルは、「お前」と呼ばれても意に介する風も無かった。
これらのことは何を意味しているのか?
「彼は……」
――何者なんだ?
と言いかけたが、さすがに本人の前でそれはまずかろうと思った。
当のイーヴは物珍しげに周囲を見回している。興味津津といった風である。
正直、セルジュは不愉快な印象を持った。
腕の立つのは認めよう。先程苦もなく追っ手を
しかし戦場は……いや、詮無きことか。
所詮は殺し合い。そして殺し合いの
家のため、領民のため、王のため、名誉のため、そして……。
セルジュはクリステルの方を見た。クリステルは気づいていない。硬い表情で戦場を見つめている。
どんな建前を持ち出したとしても、やっていることは殺し合いなのだ。
そして死者の財産を、
そこにどんな名誉があるだろうか。
何もありはしない。
ならば戦うことのみに興味を持ち、貪欲に観察をするこの男の方が、遥かに純粋で、誠実な人間であるとは言えないだろうか?
「……あいつらは何をやっているんだ?」
イーヴが尋ねてきた。指の先には屍体を
「死者の装備を剥いでいるのです」
クリステルが答えた。
イーヴは驚いたように見えた。が、すぐに鼻に
「信じられないことをする」
唸るように吐き捨てた。
その言葉はセルジュの胸に刺さった。
「戦士の装備を剥ぐなど……」
驚きと
「戦士ではありません。兵士です。この者たちはそのために戦っているのですから」
クリステルの声が響いた。
「あなたの部族にあっては、戦って相手を
クリステルの言葉にイーヴは首を振った。まったく理解できないという風に。
「まあ、お前たちの事情だしな」
「セルジュ」
クリステルはセルジュに顔を向けた。
「家臣たちに指示を下さなくてはならないのでしょう。どうか気にせず行って下さい。わたくしのことはだいじょうぶです」
「しかし……」
「いえ、彼はわたくしの父に会う必要があるのです。それまではわたくしに無事でいてもらわなくては、彼も困るでしょう」
クリステルに言われて、イーヴはかすかに笑みを見せた。困ったような、
「ですからだいじょうぶです」
「ではここを動かないでくれ」
この近辺では、
「すぐに迎えに来る」
「解りました」
クリステルは頷いた。瞳に理解の色が見える。彼女のこの聡明さこそは、父親から譲り受けた美質の一つであると思う。いや、無論美質はそれだけではないが。
「貴殿にクリステル・ギュベール殿をお任せする」
「ああ解った。取り敢えず、死なれたら俺が困るからな」
威儀を正して口にした言葉も、
だが不思議と不快感は感じなかった。
悪い男ではないのだろう。ひょっとすると気が合うことすらあるかも知れない。
自分の考えに
「すまない。では後で会おう」
クリステルに言い、セルジュは家臣たちのいる方向へと駆け出した。
*
もちろん誰もが街道を通って帰るわけであるから混雑する。特に都までの街道には諸侯の軍勢が集中し、長蛇の列となって連なった。
領地へ帰るセルジュらとは、都の手前で別れ、イーヴとクリステルはそのまま都入りした。
イーヴにとっては初めての都であった。ここが話に聞く都かと思うと、何か不思議な気分であった。行けるはずの無いところに来ているという、妙な現実味の無さがあった。見るものすべてが驚きに満ちており、それもまた現実味の無さに拍車をかけていた。どうにも己が異質な存在に思えた。
なんとも言えぬ落ち着かなさ気持ち悪さを味わいながら、
クリステルの導きのままに、気持ち悪いほどに整備されている街並みを進んでいくと、
しかし、そのまま真っ直ぐには入らず、人目を気にしながら、ぐるりと
穴を潜り抜けると、花と緑が
どこもかしこも石造りの中から、突如緑の中に入ったものだから、外へ出たのかと思った。だが外にしてはどうも様子が
そしてその中を通る石畳の道脇には、腰よりも低い高さの緑の
「ここが庭ですよ」
不思議そうに周りを見回しているイーヴに、クリステルは答えを与えた。
「ほう……」
いつぞやのクリステルの話を思い出した。これがカンショウ用の庭というやつなのか。
「
率直なその感想に、クリステルは微笑んだ。
「四角い木など見たことが無い」
「これは四角い木なのではなく、そのように刈り込んだのですよ」
「ふうん? 訳が解らんな」
「こうして形を整えませんと、あちこちに枝が伸びてしまって、
「ふうん……」
これまた訳が解らなかった。
イーヴとしては、形を整えた方が見映えが悪いというか、不自然で気持ちが悪い。
第一草木は生きており、放っておけば好き勝手に伸びていくのだから、見映えの良い形とやらを保つには、手を加え続けなければならないはずである。その労力を考えると、なんとも気の知れぬ話であった。
しかもこの庭はかなり大きいようである。全体が見通せないのでよく判らないが、部族の家が五十戸以上は建ちそうだった。
「もしや、この庭全部、そうして形を整えているのか?」
「そうです」
半ば予想していた答えではあったが、イーヴは
白と薄紅の可憐な花が咲き乱れているところにやってくると、クリステルは足を
「どうした?」
イーヴはますます訝しく思ったが、取り敢えず指示に従った。
「居た」
小声でそう
捜しものが見つかったらしい。
呆れるような、微笑むような顔をしているクリステルの視線の先を見れば、茂みに囲まれた芝生の上に、金髪の少女が倒れていた。
いや、倒れていると言うより、寝ていると言うべきだろう。
年の頃は十三、四といったところであろうか。質素な
「リリィ! またさぼってるね!」
突如、クリステルが野太い
イーヴが驚くと共に、少女も飛び上がった。
「ひゃあああっ! すみません、アネットさん!」
あたふたと立ち上がり、身扮りを整え始めた。
が、その
「クリステル、お嬢様……」
リリィと呼ばれた少女は、呆けたように言った。
が、やがて事態を理解したらしく、その顔がぱっと明るくなった。
「クリステルお嬢様!」
すぐさまこちらに駆け寄ってきて、クリステルの手を取った。
「お嬢様……ご無事で!」
安堵と
そんなリリィを、クリステルは愛しげに見、その胸に抱き締めた。
「もうだいじょうぶよ。わたくし、帰ってきたのよ」
*
「もうしわけありませんが、少々お待ち下さい」
イーヴにそう告げると、クリステルはリリィを従えて庭の片隅にある物置小屋の中に入っていった。
理由は解らないものの、待てと言われたのだから仕方がない。
イーヴはおとなしくその場で待つ事にした。
リリィ以外の人間には、クリステルは友人の別荘に行っていることになっているらしい。それで少年のような
「これから先、わたくしの父以外には、ジャン・ザ・ビオン……あなたがたがおっしゃるところのジャンザビついて、
戦利品を獲得すべくセルジュが去り、ふたりきりになると、クリステルはそう言い出した。
「わたくしたちの間では、ジャンザビは王家の禁足地となっております」
なんともおもしろくない話であった。
ジャンザビが王家の禁足地であるなど、聞いたことも無い。「大いなる敵」が
「ジャンザビに居たこと、ジャンザビに棲む『大いなる敵』を
そしてクリステルは、
「わたくしは、友人のエルザ・ベルと共に、彼女の別荘に行っていることになっています。わたくしとあなたは、そこで
良くできた話であった。
不意に、扉が
「お待たせいたしました」
数日前のことを思い返していたイーヴは、我に返って物置小屋を振り返った。
そして目を見開いた。
そこに立っているのはクリステル。
確かにクリステルだが……
――こんなに綺麗だったか?
汚れが落とされ、化粧が
化粧のことなどよく判らぬが、こってりと塗りたくって原型を留めていないというのとは程遠く、素地の良さを引き立たせている感じがある。短かったはずの髪は、明らかにそれ以上の長さがあるものとして頭の上にきっちりと
貴族の女なのだなあと、イーヴは今更ながらにしみじみと思った。
「どうされました?」
クリステルはわずかに首を
イーヴははっとして、
「あ、いや……いつの間に、髪が伸びた?」
思わず思ったままを聞いてしまった。
我ながらえらく間抜けな質問をしたものである。
クリステルは
「髪が伸びたわけではないのですよ。これは付け毛です」
「……そうか」
「さあ、参りましょう。一度外に出て、今度は正面からです」
クリステルは歩き出した。ドレスの
イーヴはふと、手を差し伸べるべきなのではないかと思った。幼馴染みであるというあの男、セルジュがしようとしたように。
しかしすぐさま思い直した。
己は貴族ではない。一介の戦士である。
似合わぬことはすべきでない。
イーヴはそのままクリステルの後に従った。