風呂、というものに、初めて入った。
人ひとりがすっぽりと入るほどの巨大な
湯が満たされた桶の中に入る!
それはイーヴに、鍋の中の肉や野菜を
しかし、女たちが見守る中、
すると、いまだかつてない感覚がイーヴを襲った。
イーヴは戸惑いながら悩んだ。
これはいったい、気持ち良いのか悪いのか。
しかし、召使いたちは黙って悩ませてもくれなかった。草を束ねたらしきもので、イーヴの体を
イーヴは
が、聞き入れてもらえなかった。
クリステルの家の者であるから、殴り倒すわけにもゆかず、イーヴは黙って
それにしても湯の中に入るというのは、心身共にふやけてしまうような、
湯から出ると、真新しい衣服を与えられた。着ようとすると、これまた召使いたちがあれこれと手を出してきた。もう抵抗するのも面倒になっていたイーヴは、されるに任せた。
拷問のような時間が終わると、一室に通された。ここでクリステルを待てということであった。
部屋の広さはイーヴの家くらいある。
無論、イーヴの家とは比べようもなく綺麗である。
複雑な模様のふかふかの
「入れ」
イーヴの
クリステルであった。
部屋の中に入ってきたクリステルは、イーヴに長椅子に
クリステルの後からは、庭で出会ったあの召使い、リリィが入ってきて、テーブルの上に飲み物を置いて引き下がった。
「何か、召使いたちに無作法でもありましたか?」
イーヴの不機嫌さを感じたのか、クリステルはそう聞いてきた。
「作法と言われても何も分らんが、気分が良くなかったことだけは確かだ」
「もうしわけありません」
「別にお前が謝ることは無い。俺が場違いなところに居るっていう、それだけのことだ。しかし、客の身で言うのもなんだが、できれば分相応の扱いをして欲しい。俺は貴族ではない」
「では、そのように」
「――で、お前の父親にはいつ会える?」
「それが……」
クリステルはわずかに目を伏せた。
「もうしわけありませんが、父は今、戦後処理に忙殺されているようでして、どうやら家にも帰ってきていないらしいのです。帰るのはいつになることか……」
イーヴは大きく溜息を吐いた。
肩透かしであった。
「……そうか」
「今は
「ああ……」
「夕食までまだ時間があります。あなたの部屋はすでに用意してありますので、そちらで休まれるとよいでしょう」
それだけ言うと、クリステルは部屋を出て行った。
それと入れ替わるように召使いがやってきて、イーヴを部屋へ案内した。
*
泥のように眠っていたらしい。
まったくもって恥ずかしいことだが、夕食のために起こされたことにも気づかず、朝まで眠り続けてしまった。
「無理もありません」
朝露に濡れた庭を歩きながら、クリステルは言った。
確かに考えてみれば無理もなかった。ジャンザビには三ヶ月近くも居たのである。その間、気は張り詰め通しだった。疲れていないはずがない。
イーヴは庭の一角にある休憩所の椅子に腰を下ろしていた。クリステルはすぐ近くで花の様子を見て歩いている。
優雅な歩き方とはこのようなものを言うのであろう。
クリステルの動きには落ち着いた、しかし抑制された華やかさのようなものがあった。
昨日から感じていたことだが、クリステルはやはり貴族の女なのだ。
この邸に、この風景に、彼女は見事なまでに調和している。
ここがクリステルの居場所なのだ。
対してイーヴの方は落ち着かない。不愉快を感じるほどではないが、慣れぬことばかりで心がふらふらと
例えば今、尻を置いている繊細で優雅な
この休憩所とやらにしてもそうだ。なぜ、屋根があるのに壁がないのか。
「庭の風景を、四季折々の花々を、小鳥の
意味が分らない。
疑問を発しても万事この調子だから、答えが答えになっていない。
二日目にして、早くもイーヴは文化的な差違を認めるだけでなく、それを諦めて見送るつもりになっていた。
このまま都生活が続けば、心身的にかなり疲労することになるのではないだろうか。
そんな不安も覚えたが、しかし運はイーヴに味方したようであった。
今朝、クリステルの父、レイモンが帰館していることを
ふと、クリステルが
「父が朝食を
「なぜ判る?」
「召使いたちの動きでそれとなく判るものです」
そういうものかと思った。
「
「昨日帰るのが遅かったものですから」
「疲れていそうだな」
「ええ、おそらく。ですがあなたにお会いするそうです」
その言葉に、イーヴは少し意外な感じを受けた。
「昨日会っているのか?」
「はい。あなたがおやすみになった後でしたが……」
イーヴは不満げに鼻を鳴らした。
己が疲れ果てて眠ってしまった後でも、事態が動いていたというのがなんだか気に入らなかった。
いや、気に入らないと言うよりだらしないと感じた。
「何かご不満でも?」
「いや、自分に嫌気が差しただけだ。気にしないでくれ」
イーヴは手を振った。少し気恥ずかしかった。
「……父はぜひにとあなたとの面会を求めております」
「ほう。好かれたものだな」
「皮肉をおっしゃらないで下さい。これは真面目な話なのです」
「解っているさ。で、どこまで話した?」
「あなたから
「そうか」
ならば説明の手間が省けるというものだ。
ただ、そのことが自分にとって吉と出るか凶と出るかは判らないが。
「父は驚くべきことを申し上げると思います」
「構わんさ。驚くことにはもう飽きた」
イーヴは腰を上げた。足を館に向ける。
「お待ち下さい。父の用意が整い次第、召使いが呼びに来るはずです」
「すまんが俺にはそれだけの時間がない」
イーヴは館への道を戻り始めた。後からクリステルが追ってくる。ふたりして花の間を歩いていく。
自分を納得させる答えを持っているという男にこれから会うのだ。
美しい花も、もう目に入らない。
*
扉が開いていたのでそのまま通った。
この部屋に入るのは初めてだが、昨日入った部屋にあったのとよく似た、大きなテーブルがある。
イーヴはその部屋で食事を摂ったのだが、この部屋もそうした用途で使うものらしい。
なぜ食事をする場所が二つもあるのか。
理解に苦しむが、この際そんなことはどうでもいい。
イーヴの姿に驚いたように、召使いの一人が慌てて寄ってきた。
「イーヴ様……」
言いながら、イーヴの前に立とうとするのを手で制した。今相手をするべきはこいつではない。
イーヴはテーブルに歩み寄った。無駄に大きなテーブルの端で、初老の男が食事を摂っている。
見るからに品の良い印象がある。いや、知性的と言った方が良いか。
なるほどこれがクリステルの親父、レイモン・ギュベールかと思った。
当然だが、どことなくクリステルと
それなりの
骨柄も悪くない。大柄とまでは言えないが、肩幅などから考えて、立てば長身の部類に入るだろう。
上品な威とも言うべき雰囲気を持ち、世襲貴族にありがちな
かといって戦士のような武張った風があるでもなく、
「すまんね。もう少し待ってくれるかな」
外見通り落ち着きのある声だ。レイモンはイーヴに微笑みかけると、卵を手に取って
「食事を邪魔するつもりはない」
「それはありがたい。昨夜から何も食べていなくてね」
召使いが困ったようにしているのを見て、レイモンは手を挙げた。下がって良いという合図だろう。安心したように召使いたちが退室していく。
部屋にはイーヴとクリステル、そしてレイモンだけが残された。
卵の殻を剥くぺきぺきという音だけが、
余計な人間が出て行ってくれた
レイモンは上等な服を着ているが、室内着である。
楽な
上等な服を着ているな、ということが分るだけだ。
部屋の中で視線を
「無駄に
「ああ」
素っ気なく返事をすると、レイモンは楽しげに微笑んだ。
「私もそう思う」
「お父様……」
「はは、すまん。だが本当のことだよ。クリステル」
レイモンは卵を食べ終えると、ボウルで指先を洗い、手早く拭いた。
そして真剣な眼差しをイーヴに向けてきた。
相手の正体を見極めようとするようなその態度は、本来は
灰色の瞳がじっとイーヴを見つめている。クリステルの瞳は青いから、そこは母親似なのだろうか。
「では用件に入ろうか。取り敢えず席に着きなさい。立ったままでは話しづらい」
イーヴはレイモンの近くの椅子を引いて腰を下ろした。
イーヴから見ると、レイモンが右斜め前に来る位置である。クリステルはそのイーヴの真向かいに腰を下ろした。テーブルが大きいためか、その距離を少し遠く感じた。
「クリステルから聞いている話ではジャン・ザ・ビオン、君はジャンザビと言うのかな? あの山に居たそうだが」
「ああ」
「私はなぜクリステルがそこに居たかは、まだ聞いていないんだ」
そうレイモンが興味深げに口にすると、目に見えてクリステルの顔に
おそらく父親には知られたくない事情があるのだろう。
だからイーヴは
「……さあ、何でかな。たまたま
「聞いたか、クリステル?」
イーヴに顔を向けたまま、レイモンは言った。
「彼は頭がいい。ちゃんとお前の立場を判って、
「……」
クリステルは何も言わなかった。だがその態度こそが、多くの事実を語ってしまっているのだ。
なるほどクリステルは頭の良い女だが、この父親に育てられたのならば、それも
レイモンは相当に頭が切れると見えた。
一代で今の身分を手に入れたということだが、それも解るような気がした。
まだまだクリステルの歯の立つ相手ではないだろう。
「さて、どこから話したものかな……」
軽く
この男には人を
「結論から言おうか。私も君と同じだよ」
「どういう意味だ?」
「私もまたジャン・ザ・ビオンを、つまり君の言うジャンザビを抜けて来たのさ」
イーヴの表情が固まった。その意味するところを察したからである。
「そう。君と私は同類だということになるね」