伝説の敵

第二章 第四節

 風呂、というものに、初めて入った。

 人ひとりがすっぽりと入るほどの巨大な(おけ)には、温かな湯が満たされていた。その中に入れと言われて仰天(ぎょうてん)した。

 召使(めしつか)いの女たちに、寄って(たか)って身包(みぐる)みを()がされそうになり、観念して自ら脱いだ挙句(あげく)のことである。

 湯が満たされた桶の中に入る!

 それはイーヴに、鍋の中の肉や野菜を想起(そうき)させた。我ながら嫌な思い付きであった。

 しかし、女たちが見守る中、()(ぱだか)立往生(たちおうじょう)というのは、なんとも間抜けな光景である。なるようになれとばかりに入ってみた。

 すると、いまだかつてない感覚がイーヴを襲った。

 イーヴは戸惑いながら悩んだ。

 これはいったい、気持ち良いのか悪いのか。

 しかし、召使いたちは黙って悩ませてもくれなかった。草を束ねたらしきもので、イーヴの体を(こす)り始めたのである。

 イーヴは(たま)らず声をあげた。

 が、聞き入れてもらえなかった。

 クリステルの家の者であるから、殴り倒すわけにもゆかず、イーヴは黙って()えざるを得なかった。

 それにしても湯の中に入るというのは、心身共にふやけてしまうような、(ゆる)んでしまうような感じがして、どうにも好かない。やはり朝一番に川へ行き、夜の冷気を吸った水の中に飛び込むのが一番であると思った。

 湯から出ると、真新しい衣服を与えられた。着ようとすると、これまた召使いたちがあれこれと手を出してきた。もう抵抗するのも面倒になっていたイーヴは、されるに任せた。

 拷問のような時間が終わると、一室に通された。ここでクリステルを待てということであった。

 部屋の広さはイーヴの家くらいある。

 無論、イーヴの家とは比べようもなく綺麗である。(ちり)(ほこり)どころか、長く暮らしていれば致し方の無い、(すす)汚れや食べこぼしの染みなどといったものも見られない。

 複雑な模様のふかふかの絨毯(じゅうたん)が床に敷かれ、長椅子やテーブルなどの家具が置かれている他に、絵や花などが飾られている。部屋の中にかすかに(ただよ)っている匂いは、その花のものに違いなかった。

 所在無(しょざいな)げに立ち尽くしていると、扉が甲高く(たた)かれた。

「入れ」

 イーヴの打切棒(ぶっきらぼう)な言葉に反応して、木目(つや)やかな扉が開かれた。

 クリステルであった。

 部屋の中に入ってきたクリステルは、イーヴに長椅子に(すわ)ることを勧め、イーヴが腰掛けると己もそうした。

 クリステルの後からは、庭で出会ったあの召使い、リリィが入ってきて、テーブルの上に飲み物を置いて引き下がった。

「何か、召使いたちに無作法でもありましたか?」

 イーヴの不機嫌さを感じたのか、クリステルはそう聞いてきた。

「作法と言われても何も分らんが、気分が良くなかったことだけは確かだ」

「もうしわけありません」

「別にお前が謝ることは無い。俺が場違いなところに居るっていう、それだけのことだ。しかし、客の身で言うのもなんだが、できれば分相応の扱いをして欲しい。俺は貴族ではない」

「では、そのように」

「――で、お前の父親にはいつ会える?」

「それが……」

 クリステルはわずかに目を伏せた。

「もうしわけありませんが、父は今、戦後処理に忙殺されているようでして、どうやら家にも帰ってきていないらしいのです。帰るのはいつになることか……」

 イーヴは大きく溜息を吐いた。

 肩透かしであった。

「……そうか」

「今は養生(ようじょう)なさって下さい。ここなら薬草もいろいろありますし、衣食住の心配もありませんし、すぐに恢復(かいふく)なさると思います」

「ああ……」

「夕食までまだ時間があります。あなたの部屋はすでに用意してありますので、そちらで休まれるとよいでしょう」

 それだけ言うと、クリステルは部屋を出て行った。

 それと入れ替わるように召使いがやってきて、イーヴを部屋へ案内した。

 

   *

 

 泥のように眠っていたらしい。

 まったくもって恥ずかしいことだが、夕食のために起こされたことにも気づかず、朝まで眠り続けてしまった。

「無理もありません」

 朝露に濡れた庭を歩きながら、クリステルは言った。

 確かに考えてみれば無理もなかった。ジャンザビには三ヶ月近くも居たのである。その間、気は張り詰め通しだった。疲れていないはずがない。

 イーヴは庭の一角にある休憩所の椅子に腰を下ろしていた。クリステルはすぐ近くで花の様子を見て歩いている。

 優雅な歩き方とはこのようなものを言うのであろう。

 クリステルの動きには落ち着いた、しかし抑制された華やかさのようなものがあった。

 昨日から感じていたことだが、クリステルはやはり貴族の女なのだ。

 この邸に、この風景に、彼女は見事なまでに調和している。

 ここがクリステルの居場所なのだ。

 対してイーヴの方は落ち着かない。不愉快を感じるほどではないが、慣れぬことばかりで心がふらふらと彷徨(さまよ)ってしまうような気がする。

 例えば今、尻を置いている繊細で優雅な意匠(いしょう)の椅子も、イーヴには無駄に()った造りとしか思えない。

 この休憩所とやらにしてもそうだ。なぜ、屋根があるのに壁がないのか。

「庭の風景を、四季折々の花々を、小鳥の(さえず)りを楽しむためです」

 意味が分らない。

 疑問を発しても万事この調子だから、答えが答えになっていない。

 二日目にして、早くもイーヴは文化的な差違を認めるだけでなく、それを諦めて見送るつもりになっていた。

 このまま都生活が続けば、心身的にかなり疲労することになるのではないだろうか。

 そんな不安も覚えたが、しかし運はイーヴに味方したようであった。

 今朝、クリステルの父、レイモンが帰館していることを(しら)されたからである。

 ふと、クリステルが(やかた)の方を見た。釣られてイーヴも目を向ける。本邸と言われている館であり、昨夜イーヴが宿泊した館である。

 (もっと)も、自分が寝たのがどこの部屋であるかなど、皆目(かいもく)分らないが。

「父が朝食を()ったようです」

「なぜ判る?」

「召使いたちの動きでそれとなく判るものです」

 そういうものかと思った。

随分(ずいぶん)遅い朝飯だな」

「昨日帰るのが遅かったものですから」

「疲れていそうだな」

「ええ、おそらく。ですがあなたにお会いするそうです」

 その言葉に、イーヴは少し意外な感じを受けた。

「昨日会っているのか?」

「はい。あなたがおやすみになった後でしたが……」

 イーヴは不満げに鼻を鳴らした。

 己が疲れ果てて眠ってしまった後でも、事態が動いていたというのがなんだか気に入らなかった。

 いや、気に入らないと言うよりだらしないと感じた。

「何かご不満でも?」

「いや、自分に嫌気が差しただけだ。気にしないでくれ」

 イーヴは手を振った。少し気恥ずかしかった。

 (しばら)くの間、クリステルはそんなイーヴを静かに見ていたが、やがて口を開いた。

「……父はぜひにとあなたとの面会を求めております」

「ほう。好かれたものだな」

「皮肉をおっしゃらないで下さい。これは真面目な話なのです」

「解っているさ。で、どこまで話した?」

「あなたから(うかが)ったことはすべて話しました」

「そうか」

 ならば説明の手間が省けるというものだ。

 ただ、そのことが自分にとって吉と出るか凶と出るかは判らないが。

「父は驚くべきことを申し上げると思います」

「構わんさ。驚くことにはもう飽きた」

 イーヴは腰を上げた。足を館に向ける。

「お待ち下さい。父の用意が整い次第、召使いが呼びに来るはずです」

「すまんが俺にはそれだけの時間がない」

 イーヴは館への道を戻り始めた。後からクリステルが追ってくる。ふたりして花の間を歩いていく。

 自分を納得させる答えを持っているという男にこれから会うのだ。

 美しい花も、もう目に入らない。

 

   *

 

 扉が開いていたのでそのまま通った。

 この部屋に入るのは初めてだが、昨日入った部屋にあったのとよく似た、大きなテーブルがある。

 イーヴはその部屋で食事を摂ったのだが、この部屋もそうした用途で使うものらしい。

 なぜ食事をする場所が二つもあるのか。

 理解に苦しむが、この際そんなことはどうでもいい。

 イーヴの姿に驚いたように、召使いの一人が慌てて寄ってきた。

「イーヴ様……」

 言いながら、イーヴの前に立とうとするのを手で制した。今相手をするべきはこいつではない。

 イーヴはテーブルに歩み寄った。無駄に大きなテーブルの端で、初老の男が食事を摂っている。

 見るからに品の良い印象がある。いや、知性的と言った方が良いか。

 なるほどこれがクリステルの親父、レイモン・ギュベールかと思った。

 当然だが、どことなくクリステルと面差(おもざ)しが似ている。

 それなりの(とし)ではあろうに、大層姿勢がよい。

 骨柄も悪くない。大柄とまでは言えないが、肩幅などから考えて、立てば長身の部類に入るだろう。

 上品な威とも言うべき雰囲気を持ち、世襲貴族にありがちな弛緩(しかん)した雰囲気は微塵もない。

 かといって戦士のような武張った風があるでもなく、()いて言えば切れ者の高等文官のようであるが、そんな者に会ったことのないイーヴには判らない。

「すまんね。もう少し待ってくれるかな」

 外見通り落ち着きのある声だ。レイモンはイーヴに微笑みかけると、卵を手に取って()き始めた。

「食事を邪魔するつもりはない」

「それはありがたい。昨夜から何も食べていなくてね」

 召使いが困ったようにしているのを見て、レイモンは手を挙げた。下がって良いという合図だろう。安心したように召使いたちが退室していく。

 部屋にはイーヴとクリステル、そしてレイモンだけが残された。

 卵の殻を剥くぺきぺきという音だけが、豪奢(ごうしゃ)な部屋の中に小さく聞こえている。

 余計な人間が出て行ってくれた所為(せい)か、イーヴは少し余裕を持ってレイモンと、この部屋を観察することができた。

 レイモンは上等な服を着ているが、室内着である。

 楽な恰好(かっこう)をしているわけだが、部屋の装飾と同様、その辺の区別はイーヴには付かない。

 上等な服を着ているな、ということが分るだけだ。

 部屋の中で視線を彷徨(さまよ)わせているイーヴの様子を見て、興味を持ったのかレイモンが聞いてきた。

「無駄に華美(かび)に見えるかね?」

「ああ」

 素っ気なく返事をすると、レイモンは楽しげに微笑んだ。

「私もそう思う」

「お父様……」

「はは、すまん。だが本当のことだよ。クリステル」

 レイモンは卵を食べ終えると、ボウルで指先を洗い、手早く拭いた。

 そして真剣な眼差しをイーヴに向けてきた。

 相手の正体を見極めようとするようなその態度は、本来は不躾(ぶしつ)けなもののはずである。しかし不思議とそんな不愉快さを感じさせない。クリステルもそうだった。

 灰色の瞳がじっとイーヴを見つめている。クリステルの瞳は青いから、そこは母親似なのだろうか。

「では用件に入ろうか。取り敢えず席に着きなさい。立ったままでは話しづらい」

 イーヴはレイモンの近くの椅子を引いて腰を下ろした。

 イーヴから見ると、レイモンが右斜め前に来る位置である。クリステルはそのイーヴの真向かいに腰を下ろした。テーブルが大きいためか、その距離を少し遠く感じた。

「クリステルから聞いている話ではジャン・ザ・ビオン、君はジャンザビと言うのかな? あの山に居たそうだが」

「ああ」

「私はなぜクリステルがそこに居たかは、まだ聞いていないんだ」

 そうレイモンが興味深げに口にすると、目に見えてクリステルの顔に(あせ)りが浮かんだ。

 おそらく父親には知られたくない事情があるのだろう。

 だからイーヴは(とぼ)けることにした。

「……さあ、何でかな。たまたま出遇(であ)っただけで、その辺の話は聞いていない」

「聞いたか、クリステル?」

 イーヴに顔を向けたまま、レイモンは言った。

「彼は頭がいい。ちゃんとお前の立場を判って、(かば)ってくれているようだぞ」

「……」

 クリステルは何も言わなかった。だがその態度こそが、多くの事実を語ってしまっているのだ。

 なるほどクリステルは頭の良い女だが、この父親に育てられたのならば、それも(うなず)ける。

 レイモンは相当に頭が切れると見えた。

 一代で今の身分を手に入れたということだが、それも解るような気がした。

 まだまだクリステルの歯の立つ相手ではないだろう。

「さて、どこから話したものかな……」

 軽く(あご)先に手をやりながらレイモンは少し思案した。どことなく子供っぽいそんな仕草が、妙に理知的に見えてしまう。

 この男には人を()き付ける力がある。そう感じた。

「結論から言おうか。私も君と同じだよ」

「どういう意味だ?」

「私もまたジャン・ザ・ビオンを、つまり君の言うジャンザビを抜けて来たのさ」

 イーヴの表情が固まった。その意味するところを察したからである。

「そう。君と私は同類だということになるね」

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