「クリステル」
イーヴと共に部屋を出て行こうとすると、父に呼び止められた。再び腰を下ろすと、父は驚くべきことを告げた。
「陛下からお前にご懇請があった。セドリック殿下のお相手をせよ、とのことだ」
セドリックは、現国王にして兄であるロドルフと王位を争い、
彼はこれから自分たちが向かう町、ブランドシェに幽閉されていると聞いている。誰にも会わずにひっそりと暮らしているらしい。
そうした男の元へ行き、その相手をせよとはどういうことなのかと、クリステルは
普通は、高貴な人間のお相手と言えば、同じくらいの年頃の同性がするものである。それが、もう子供とは言えぬ、むしろ年頃と言える異性の相手をするというのは、やはり何かしら
――結婚。
その言葉がクリステルの頭の中に浮かんだ。
ぐらぐらと世界が揺れるような感じがした。
なぜか衝撃を受けているらしい自分自身に、クリステルは驚いた。
結婚話なら今までに幾度もあった。直接求婚されたことも数知れない。
どれも断ってはきていたが、結婚というものは自分ではなく父が決めることで、いずれはどこかの誰かのところに
それなのに、いざその時が来てみたらこれである。
吟遊詩人の
クリステルは苦笑した。
ひどく子供っぽい憧れである。
そんなことが現実にあったとしたら、吟遊詩人など必要なくなるではないか。
しかし、結婚というのならまだよい。
気になる噂がある。
ごく内々の噂によれば、セドリックは身辺に美しい少女を
そのようなところに自分が行くというのは、どういうことなのか。
もしや――
いやまさか――
と、良からぬ考えが脳裏を
自分は、その「美しい少女」とやらの替わりになるのだろうか。それとも、ひとりだけでは飽き足らず、ということのなのだろうか。
……。
いずれにしろあり得ない話だと思う。
父がそんなことを許すはずがない。
王がそんなことを自分に懇請するはずがない。
父は言わずもがなであるし、
そんなことはあり得ない。
ならば、どういう意図があるのだろうか。
そうしてクリステルがさらなる考えを
クリステルは驚いて父を見た。
父は何やら、
「……お父様?」
レイモンは
「いやはや、相変わらずお前はおもしろいな。さて、どんな想像を
「お父様!」
「青冷めていたところを見ると、どうも私は信用されていないようだな。……まあ、そうだな、お前は私になんの相談もなく、ひとりでこっそりジャン・ザ・ビオンに行ったくらいだからな」
不意にレイモンはそう言った。
「あ、それは……」
クリステルの顔が引き
実際、レイモンは子供の
「それどころか、男を捕まえて帰ってくるとはな」
クリステルの顔が再び真っ赤になった。
「彼はそういうのではありません!」
「いいともいいとも、娘というものは
ミレーヌはレイモンの妻であり、クリステルの母である。十二年前に、
「そんな風におっしゃらないで下さい」
クリステルは困り顔で言った。
「その……もうしわけありません。わたくし……確かにお父様を疑っておりました。決してあのような噂を信じたわけではないのですが、偶然見てしまったのです。庭で、お父様と怪しげな者たちがお話ししているところを。それで、まさかと思いつつ、お父様に直接お聞きするわけにもゆかず……という、わけなのです」
レイモンは微笑した。
「それでジャン・ザ・ビオンまで確かめに行くというのが、お前らしいところだな」
クリステルは頬を染め、少し
「お前が見たという、その怪しげな者たちは、クープランを救うために動いてもらった者たちだ。あの山では何が起こるか解らん。多少手荒いことになってもよいから、クープランのジャン・ザ・ビオン入りを阻止せよと、彼らを向かわせた。……間に合わなかったがな」
レイモンは小さく
「……そういうこと、だったのですか」
政敵であっても
それでもクリステルは、なおも安堵すると共に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
救おうとしているのを殺そうとしていると思うだなんて……。あの時の自分はどうかしていたとしか思えない。
「ともあれ、お前が無事に帰ってきてよかった」
安堵を
そこに自分に対する愛情を感じて、クリステルは申し訳ないながらも嬉しい気持ちになった。
「陛下のご懇請、お受けいたします」
レイモンは驚いたようにクリステルを見た。
「今度はまた
「
「なんだ、私を信用したわけではなかったのか」
「わたくしの反応を見て楽しんでいらっしゃる方など、信用できるはずがありません」
クリステルは少し口を
レイモンは笑った。
「すまん。この辺で
レイモンは真面目な顔をして、改めてクリステルを見た。
「実はな、セドリック殿下は女性なのだ」
クリステルの目が点になった。
「セドリック殿下が美少女を
クリステルはただただ唖然とするばかりであった。
「しかし、殿下御本人がそうと望まれたのではない。殿下にはなんの罪もあられない。殿下は、権力争いの犠牲となった、哀れな王女に過ぎない。殿下の母方の実家ドゥブレーが、王位欲しさに、先王から
「最初から判っていた……」
クリステルは青冷めつつ
「では、セルジュの家は、バルドール家は、そのことを知らなかったのですか?」
「陛下が……いや、私の責だろうな……。この情報がどれだけ強力な切り札か、解るだろう? これを見せれば誰でも陛下に……ロドルフ殿下の側に、
父の言わんとすることを察して、クリステルはさらに青冷めた。
「……試されたのですか?」
「はっきりそうとは
レイモンはショコラに目を落とした。ショコラはもうすっかり冷めてしまっているに違いない。イーヴが去った後、召使いも下がらせたので、
「……」
クリステルもまた
何も言えなかった。
父を責めることなどできなかった。
父は今までずっと、己自身を責め続けてきたに違いない。
「セドリック殿下の話に戻るが――」
レイモンは
「陛下は、ドゥブレー家の勢力をほとんど完全に
クリステルは
セドリックの立場というものがあるし、もはや潰滅しているとは言うものの、ドゥブレー家の
「陛下は、
クリステルは相変わらずのロドルフの聡明さに感心した。
ロドルフはセドリックを幽閉することでセドリックに温情を見せ、同時に貴族たちを
「それでお前が懇請されたのは、これまで殿下のお相手を務めていた老婆が、
「そういうことだったのですか」
詳しい事情を聞いて、クリステルは納得した。
「ご期待に沿えるよう、努めさせていただきます」
「
「そうですね。調査と言えば――」
クリステルは感じ入ったように微笑んだ。
「わたくし、お父様に感動いたしました」
「ん?」
「彼に対するなさりようです。やはり、似たような境遇の者は見捨てられないということなのでしょうか。禁書の調査までお許しになるなんて」
「ん……うん」
とレイモンは、なぜか微妙な笑みを浮かべた。
「しかしお前、そのことだけで感動しているのではないのだろう?」
「どういうことですか?」
意味が解らず、クリステルはきょとんとした。
そんなクリステルに、レイモンは意地の悪い笑みを送った。
「私が彼を引き留めたということが一番なのではないかね?」
クリステルの顔がぱっと
「まだそんなことを! 違うと申しているではありませんか!」
知らず、無気になって否定する。
「そうかそうか」
いかにも
「ブランドシェには私も行くが、お前たちの邪魔はしないから安心したまえ。ブランドシェは、ふたりで盛り上がるには良い場所だ」
「もう知りませんっ!」
クリステルは勢い良く立ち上がり、すたすたと部屋から出て行った。
*
王の身辺警護を
近衛はあくまで王個人の軍隊である。通常は王の身辺警護が仕事であるといっても、常に王の近辺に待機しているわけではない。側仕えの小姓や召使いとは違うのである。
近衛になって日の浅いセルジュは、まだほとんど王と接したことがない。
改めて見ると、王は遠くで目にするよりもずっと威圧感があった。
かなりの長身である。
顔は少々
冷たいほどの意志の強さが
黒っぽい
――これが王というものなのか。
知らず、セルジュの心は
王から
声は、その外見と比べて
しかし、よくよく思い返してみれば、王はまだ二十七、八なのであった。
「セドリックの身辺警護をせよ」
とのことであった。
その言葉にセルジュの全身は硬直した。
――試されている。
そう思った。
王は先の
しかし、己がバルドール家の人間であること、身辺警護の相手がセドリックであること――これらがまったく無関係であるはずがなかった。
これは己にとって、バルドール家にとって、重大な任務なのだ。
王の
「殿、出発の御用意が整いましてございます」
召使いが
セルジュは頷き、己の部屋を出た。