部族の地である荒涼とした平原から、イーヴはいつも西の方を眺めていた。そこには、「大いなる敵」が
想いもよらぬ光景と、
まず一番驚かされたのは、「海」というものである。たくさんの水から成る海は、空のように青いと聞いていた。そこから海というものを想像していたのだが、やはり海と空は別物に違いなかった。海はきらきらと輝き、うねり、底知れぬその身内に、何かを
海にはいくつかの大きな船が浮かんでいた。クリステルによれば交易船であるという。その船と岸辺の間を、たくさんの小舟が往き来している。岸から船へ、あるいは船から岸へ、交易品を運んでいるのだそうである。なんとも面倒なことだとイーヴは思った。
海に面する陸地側は、海に向かってなだらかに傾斜し、建ち並ぶ建物が階段状に見える。建物はどれもこれも白く、空の青、海の青と
高所にあるギュベール家の別邸からは、その様が良く見て取れた。
「海に行ってみてはどうですか?」
テラスから景色を眺めていると、邸の内からクリステルが声を掛けてきた。
振り返って見れば、机の上にたくさん積み上げられた羊皮紙の間から、クリステルが顔を
それもそのはずである。ここ、ブランドシェにやってきて一週間、ほとんど徹夜で調べものをしている。それもたったひとりでだ。禁書は貴族にしか読めぬ古語で記述されているため、イーヴには読めない、また、その性質上他の者には読ませられない――となれば、クリステルとレイモンが調べるより外無いのだが、レイモンは他の仕事で忙しいらしく、クリステルひとりが頑張っているという
イーヴとしては、一刻も早くジャンザビについて知りたい。もっと情報が欲しい。
レイモンから聞かされた話は、あくまで彼の推測とはいえ、恐ろしいほどに説得力があった。その内容はイーヴの想像を超えていただけでなく、
もしレイモンの話が正しいとすれば、エク族の戦士たちは無駄に命を落としたことになるではないか。
勇者の
何より彼らが求めた「大いなる敵」が存在しないだろうということ、しかもその伝説の
レイモンの言葉を信じるか信じないかと問われれば、「信じない」と答えるだろう。
だがおそらくレイモンの言葉は正しい。
「ジャンザビにはまだ多くの秘密がある。王家の書庫にはそれらを記した書物がある。それを調べれば何か新たな事実が判るかも知れない。イーヴ、諦めるにはまだ早いと思うよ」
レイモンはそう言った。その心遣いは有り難かったが、調べるということで、果たしてこれは
クリステルはまだ何も教えてはくれない。
「今話してもただの推測になります」
そう言って、毎日時間の許す限り書庫の資料と向き合ってくれている。
期待と、恐れ――。
そうした気持ちがいつも心の中にあった。
クリステルはそれを察してくれているのだろう。それがゆえの頑張りなのだろうと思う。
嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが
手持ち
イーヴはその
それに、実際のところは手持ち無沙汰にしているわけではない。時間のあるときは常に鍛錬をするようにしているのだ。実際、ここに来てからは生活の雑事がないだけ、村に居たときよりも鍛錬の時間は長く取れるとすら言える。
そうしてクリステルに付き合っている他は、邸の中庭で素振りをしているか、レイモンに話を聞かせているかくらいのものであった。
レイモンは、現在からイーヴの時代までのことを、つまりは未来のことを熱心に聞きたがった。それは興味本位と言うよりも、何かに
そういえば今日はなぜかクリステルの話になった。
「君はクリステルをどう思っているのかね?」
などと聞かれて返答に困った。
どうと聞かれても何も無いのだ。
それに質問の意図も
しかし今考えてみるとあれは、少しはクリステルを気遣ってみてはどうか、ということではないだろうか。親父なりに娘の身を案じてのことなのではないだろうか。
クリステルの頑張りようは尋常ではない。それは
それなのに己は、気遣うどころか甘えていたのではないか。彼女を止められるのは、依頼者である己しかいないというのに。
だから、ここは彼女の提案を受け容れようと思った。
「……そうだな。行ってみようか」
クリステルは少し驚いたようにイーヴを見た。初めてのことだからだろう。
「では、リリィに案内させましょう」
言いながらクリステルは呼び鈴に手を伸ばした。
が――
「待て!」
イーヴは
あの小娘を呼ぶなど冗談ではない。
きゃっきゃと猿みたいに騒がしく落ち着きが無く、それだけでもうんざりだというのに、なぜかは判らぬが、どうもあの小娘は己を目の
──どうもあいつは苦手だ……。
相性が悪い、というやつなのであろうか。
そもそも都のギュベール邸にやってきたその日から、その徴候は現れていた。
リリィはクリステルが席を外してふたりきりになると、
「当家のお嬢様は、そのご容姿、ご頭脳、ご性格、何をとってもまったく非の打ち所の無い、素晴らしいお嬢様ですっ。たくさんの、やんごとない
イーヴを
主人自慢を
何かの八つ当たりだったのかもしれぬ。
しかし何で己がその対象にならなければいけないのか、イーヴは理解に苦しんだ。
ともあれ嫌われていることだけは判った。
「……あいつは呼ばなくていい。お前が案内しろ」
クリステルは驚き、
「わたくしは調べものがありますから……」
「いくらなんでも
「ですが……」
「俺がいいと言っている」
「……」
クリステルはなおも
「……では、お言葉に甘えて。準備してまいりますので、少々お待ち下さい」
読んでいた書物を閉じ、
そのまま部屋から出て行こうとするので、
「準備なんぞはいい。そのままでいい」
イーヴは引き留めた。
準備というのは着替えのことに違いなかった。
それはもう、毎日の、セドリック王子とやらの幽閉先への訪問で判っている。
外出するとなると外出用の服に着替え、それから家に帰ると今度は室内用の服に着替えるのだ。それもたっぷりと時間を掛けて。
息抜きに行くというのに、そんな馬鹿くさいことには付き合ってられない。
「こっちへ来い」
イーヴは部屋の出入口とは反対方向に、テラスの縁へ向かった。
クリステルが
「っ!」
クリステルの息を呑む声が聞こえた。
イーヴは難なく着地し、二階のクリステルを振り返った。
クリステルは呆然とこちらを見ていた。
「お前もだ」
と言ってやると、クリステルは驚いた。
「わ、わたくしも同じことをするのですか?」
「受け止めてやるから大丈夫だ」
下から見上げてイーヴは両腕を開いた。
「え……」
クリステルは顔を
イーヴは訝しんだ。なぜここで顔を赤くする?
「あの……なぜこんなところから?」
「ふたりきりで行きたいからだ」
クリステルの顔がさらに赤くなった。
イーヴはさらに訝しんだ。
「堂堂と表から出て行くとなれば、お付きの者がぞろぞろ
「……あ、そうですか」
何やら少し残念そうに言う。
「お付きが居ないと駄目なのか?」
「いえ! 全然そんなことはありません!」
クリステルは首まで振って、強く否定した。
にも
イーヴは少し
「おい、どうした? 早くしろ」
「……あ、あの……わたくし、この
クリステルは白いドレスを着ている。
「む……そうか」
飛び降りるとドレスが
面倒だなと思った。
「そしたら、体を横にして落ちろ。それならいいだろ?」
クリステルは顔を
なんだか
クリステルは、
イーヴはうまく受け止めた。横向きのまま抱き上げるような形になった。
クリステルを見ると、間近で目が合った。
クリステルの顔がさらに赤くなった。耳まで赤い。
何やらイーヴも恥ずかしくなって、そそくさとクリステルを下ろし、顔を
「……行こうか」
「……はい」
*
――私が彼を引き留めたということが一番なのではないかね?
父があんなことを言うからだ。
確かに自分は、彼が
しかし、こうした状況は、今だけの一時的なものでしかないだろうとも思っている。
彼はひとつところに留まれるような男ではない。あの山で「大いなる敵」を求めて
だから、彼が自分の
この時がずっと続けばいい。
そう思う。
彼を長く引き留めることならできる。
彼が今留まっているのは、ジャンザビのことを知りたいがためなのだ。王家の禁書に書かれてあるであろうそれを、知りたいがためなのだ。
彼は古語が読めない。彼に協力的で、なおかつ王家の禁書を閲覧できるのは、自分と父以外にいない。そして、その父は自分に協力的で、調査しているのは自分ひとりだけだ。
となれば、彼を
頑張っている振りをして、怪しまれぬくらいにだらだらと調査し、何かが判っても口を
王家の禁書はかなりの量がある。無論、ジャンザビに関する部分はそのごく一部に過ぎない。実際のところ、後一週間くらいで調査は完了するのではないかと思う。
しかし自分が
それだけの時間があれば、何かしらの可能性が生まれてくる余地もある。
人の心に形は無い。それがゆえに移ろいやすい。地位や身分、姿形や環境という型に
それが善いことなのか悪いことなのかは判らない。しかし、人は
例えば一年間。それだけの長い間、貴族の休養地であるここ、ブランドシェで、自分の傍に居続ければ、彼の心に何かしらの変化が生まれる可能性が、まったく無いということは無いのではないかと思う。
しかし、それを望む一方で、彼の心変わりなど見たくもない、そんなのは彼ではない、彼が心変わりするはずがないと思っている自分もいる。
まったくもって身勝手なものだが、自分でも自分がよく解らない。
ともあれ、彼を騙してできるだけ長く引き留めるということには、強烈な誘惑がある。
それはとても
しかし、そうと解っていても心は揺れる。そんな自分に吐き気がする。
それがゆえに、根を詰めて調査に没頭するのだ。そうしていれば何も考えずに済む。誘惑に心揺れることも無い。彼のために頑張っているのだと、自分自身を騙すこともできる。
彼と共に居る時間を、失うことになってしまうが……
「おい、揺らすな!」
クリステルは我に返った。
大海原に
クリステルは笑った。海に出てからのイーヴは、始終そんな様子なのだが、何度見ても笑ってしまう。体格の良い屈強な戦士が、顔を引き
「わたくしは揺らしてませんよ。恐いのですか?」
意地悪そうに問う。
イーヴはむっとした。
「恐いものか。……ただ、海は初めてだからな。訳が分らんだけだ」
言っていることが意味不明である。
ともあれそうして虚勢を張る姿もまた、えらく滑稽であった。
「
クリステルは微笑んだ。
イーヴの目が点になった。
「なっ……! 俺は戦士だぞ! 戦士に向かって『可愛い』とはなんだ!」
イーヴは憤然として顔を
「でしたら、戦士らしくなさったらどうですか?」
「む!?」
「そんな風に
イーヴはクリステルを
クリステルは意地の悪い微笑みで
「見てろ……」
イーヴは恐る恐る
と――
大波が来た。
小舟が大きく揺れた。
ふたりはそれぞれ悲鳴をあげた。
バランスを崩したイーヴが持ち直そうとして、なおも小舟は揺れ続けた。
てんやわんやの末に、気が付けばイーヴは仰向けに転がり、その広く
体勢的には、ジャンザビでクリステルが足を滑らし、イーヴがそれを受け損なったのと同じである。
しかしクリステルは顔を
イーヴは戸惑っているようだった。クリステルに離れて欲しい気配を出していた。だがやがて諦めたようだった。
ゆらゆらと揺り
「……流されて、ないか? ……いいのか?」
イーヴが
少し
確かに流されていると思う。
だが確かめる気はない。
そんなことはどうでもいい。
「このまま流されても……戻れなくなっても……別によくはありませんか」
そんな言葉が口を
「行く宛てなんて……戻れる場所なんて……どこにも無いではありませんか」
「……」
風が吹いていた。
「あなたはもう、元の世界には戻れません」
ゆらり……
「太陽が二つの時には決して入山してはならない」
……ゆらり
「禁書にはそう書かれてありました」
ゆらり……
クリステルは
「ここに、居られませんか?」
クリステルの金髪が
イーヴはクリステルを見つめ返した。
その目はひどく冷えていた。
「戻るべき場所ならある」
小舟が大きく揺れた。
「『大いなる敵』が存在しないのなら、俺はジャンザビに戻らなくてはならない」
ゆらゆらと揺れる。
「この先、戦士たちはジャンザビに入山する。俺はそれを阻止しなければならない。俺は彼らに真実を告げなくてはならない。戦うために生まれた戦士が、むざむざと消えて良いわけがない」
クリステルは青冷めた。
歴史が彼を取り込もうとしている。
そう感じた。
「もしも……もしも、彼らが聞く耳を持たなかったら?」
イーヴは
「その時は……戦うしかないかもな」
クリステルは
それこそまさに「伝説」の完成である。
ひどい
「もう少し待って下さい。もう少し調べれば、何かが判るかもしれません」
「……ああ」
イーヴは静かに目を閉じた。
ふたりを乗せた小舟は、いつまでも揺れていた。