伝説の敵

第二章 第十二節

 レイモン・ギュベールは自家の家臣を()いてセルジュに与えるだけでなく、手続き上の一才を素速く纏めて完了させてくれた。

 元々の王家の邸の警護兵はもちろん、ブランドシェで港の警護にあたっていた兵などからも一部を供出させ、全てがセルジュの指揮下に入るように取り計らってくれたのだ。

 これでブランドシェのほぼ全域に監視網を敷くことができた。

 だからといって安心はしていない。セドリック殿下を(さら)った賊徒がいつまでもこの港町に停まっているとも思えぬし、いくらレイモン・ギュベールの後押しがあるとはいえ、今の体勢をいつまでも保ってはいられないからだ。

 ──できれば数日、長くても一週間以内に勝負を付けなくてはならない。

 セルジュ自身もそう考えている。内心の焦りは相当なものがあった。

 叔父の死は、その事実だけを書面で実家に伝えた。

 宛先は母でも祖母でもない。家宰(かさい)のカントルーブである。

 彼ならば文面からただならぬ様子を感じ取るだろうし、行間からセルジュの意図をを読み取ることも造作ないであろう。

 詳しい話は帰館してから告げるつもりである。真実の全てを書面で伝えるのは危険であるというだけでなく、セルジュ自身あまりにも辛く苦しく、とても書くことができなかったからだった。

 それでも翌日にはもう涙は流れなかった。セドリックを、いやセリーヌ王女を取り戻さなければならないという責任感が支えとなっているのかもしれない。

 しかし胸の奥からはとめどなく何かが溢れていた。

 それは血のようでもあり、魂のようでもあった。心が引き裂かれる悲しみというものをセルジュは初めて知った。

 ──父上に続き、今また叔父上までも……。

 いったいバルドールに何の(とが)があるのか、これが神の仕打ちであるとしたらあまりにも厳しすぎる。

「……(うら)んではならぬ。レイモンも、ロドルフ陛下も決して怨んではならぬ」

 父ジョルジュもそう言って死んでいった。

 今では家に残っているのは己と、母と祖母と、そして幼い妹が二人だけである。

 倒れるわけにはいかない。

 何としても己が倒れるわけにはいかない。

 たとえかつての栄光を取り戻すことが叶わなかったとしても、バルドールを己の代で終わらせることだけはできない。

 急遽準備された執務室の中で、セルジュは壁に貼られたブランドシェの地図を睥んでいた。

 潜伏先になりそうなところには既に目星を付けてある。今はそれらの場所へ差し向けた兵達による報告待ちの状態であった。

 無論、潜伏先が判明すれば己が先頭に立って踏み込むつもりである。

 セルジュは下着の上から軽い外套(がいとう)を羽織っただけの姿である。下着と言っても鎧の下に着込む物であり、軍装と言っていい。

 さすがに甲冑こそ身に付けていないが、いつでも装備して飛び出せるように準備してあるのだった。

「閣下」

 扉の前で声がした。何か報告があったのかも知れない。

「入れ」

 許可を与えるとセルジュ付きの兵が室内に入ってきて敬礼した。

「殿下を攫った賊徒どもの居所が判明いたしました」

 殿下か……正しくは姫と言うべきであろうな。内心そんなことを考えながらセルジュは頷いた。

「兵に準備をさせよ。指揮は私が()る」

「はっ」

 再び敬礼をすると兵は退出していった

 

   *

 

 海沿いの館、あるいは市の中心部から離れた建物や神殿などを想像していたのだが、セルジュの予想は外れた。

 セドリックを(さら)った黒装束の一党が潜伏していたのは、意外にもブランドシェの繁華街にほど近い場所であった。小綺麗な東部風の館であり、元は貴族の物ではなくてブランドシェのさる豪商の持ち物であったという。

 現在の所有者もやはり商人ではあるが、ブランドシェの人間ではなく東部の人間で、年に数回ほどこの邸を利用しているということだった。

 その商人が何者であるか、セドリック王子を推戴(すいたい)していたドゥブレー家との繋がりはあるのかどうか、それらのことはまだ分からない。

 今は賊徒ども取り押さえてセドリック王子、いやセリーヌ姫を取り戻すことの方が大事だ。

「兵たちの配備終わりました」

 副官がセルジュの元に来て報告をした。

「気取られてはいないだろうな?」

「邸の方には何の動きも見られません」

 副官はにこりともせずにそう答えた。セルジュは頷いた。

「よし。正門から入る。お前は残りを率いて周囲の警戒にあたれ。万が一にも逃がすな」

「ははっ!」

 けして大きくはないが気合いを感じさせる声で答えて副官は敬礼をした。

 兵を連れて邸の正門に回る。兵の数は全部で十一人。

 セルジュを加えると十二人になる。邸の中にどれだけの黒装束が潜んでいるか知らぬが、これならば十分()することができるだろうと思えた。さらに用心のために予備の兵力を付近の建物などに配置してある。

「この邸の中にいる者どもは恐れ多くも王に弓引く(やから)である。容赦をする必要はないがひとつだけ注意しておく。中に捕らわれている女性が一人いるが、彼女に決して危害が及ばぬように心せよ」

 セルジュが注意を促していると兵の一人が質問してきた。

「その御婦人は何者でありますか?」

 セルジュは「貴様が知る必要はない」と切り捨てようと思ったが、すぐに考え直した。

 隠すよりもむしろ情報を与えた方がいいと判断したのである。

 下手に隠そうとすれば要らぬ臆測を生むし、それがどんな問題に結びつかないとも限らない。

「うむ。このことは他言無用だが、彼女はセドリック王子の想い人であるということだ。もしも彼女の身に害が加えられることがあれば、殿下はさぞお嘆きになることであろう」

「はあ……」

 兵は納得がいかぬという様子であった。セルジュにはそれも判る気がした。

 セドリックは王位争奪戦に敗れた敗北者なのだ。殺されぬまでも塔や地下牢に繋がれていてもおかしくない。

 それが幽閉とはいえ王家の別邸を与えられて悠々と暮らしているのだ。

 おまけに女にまで身辺に侍らせているとなれば、怪しむどころか反感を持たれても不思議ではない。

 それが「彼」自身には、まったく責任のない事柄であってもだ。

「お前たちも不満であろう」

 そのことを汲み取るように、セルジュは兵たちに向かって直接的な言葉を投げかけた。

「それは私にもわかる。私だって乙女を侍らせて昼間から酒を飲んで暮らしたいからな」

 肩をすくめて薄ら笑いを浮かべて見せる。演技ではあったが上手くできたかは判らない。クロード叔父が目の前で無残な最期を遂げてからまだ数日も経っていないのだ。

 たとえ演技ではあっても上手く表情を形作れる自信がない。どんな風に顔を動かすべきなのか、そんなことを考えてしまう。

 兵たちの共感を得ることがいかに大切かを教えてくれたのは叔父だった。

 もっともそのためには多少あざとい手段、例えば演技をすることも手であるとは教えてくれなかったが。

 それを己に教えてくれたのは家宰(かさい)のカントルーブだった。

 芝居が功を奏したのか、セルジュは兵たちの間に気易い空気が生まれるのを感じた。それを感じつつ言葉を続ける。

「とはいえ仕事は仕事だ。陛下ご自身がセドリック殿下についての今のありようをお決めになったのであるから、臣下である我らが異を唱えることなど許されぬ。それにだ、囚われの乙女には何の罪もない。彼女を怪我させぬよう助け出すのは当然のことである」

 共感を得るための演技と区別するように、セルジュはやや厳しい口調を用いた。

「セドリック殿下のご意志とは関係なくな」

 軽く溜息を吐いて締めくくった。

 ……まさしく「殿下のご意志とは関係なく」だ。己で言っていても滑稽だと感じた。

「皆用意は良いな?」

 無言で頷く兵士たち。邸の中に踏み込む部隊なので、長柄(ながえ)の武器を持っている者は一人もいない。皆、剣を()げている。

「ゆくぞ!」

 気合いを籠めてセルジュは飛び出した。

 セルジュが先頭である。すぐあとに門砕きの(つい)を持った兵二人が続く。

 邸正面の門柵が目に入る。細かい細工が遠目にも見て取れる瀟洒(しょうしゃ)な門だ。

 華奢(きゃしゃ)とも思えるその門柵に門砕きが叩きつけられる。黒塗りの門柵は一撃で大きく歪み、二撃目で鍵が弾け飛んだ。

 敷地内にセルジュと兵達が入り込む。その時、窓に人影が見えた。

「盾を(かか)げよ!」

 反射的にセルジュは命じて自身も盾の陰に身を隠した。直後、盾を叩く感触があった。危なかった。盾に矢が突き立っている。

 ──(いしゆみ)ではない。

 セルジュは安堵した。弩であったら盾ごと撃ち抜かれていただろうからだ。

「賊は弓を持っているぞ!」

 近くで兵の一人が叫ぶ。仲間たちに注意を促すためだ。

 邸は正面に見える母家(おもや)と、左手の別棟とに分かれていた。セルジュは一瞬躊躇したが、やはり母家の方に行くべきであろうと思い、兵の半数を連れて母家に踏み込んだ。残りは別棟に向かわせた。

「邸内にある者たち! 動くな!」

 入ってすぐの場所は広間だった。その中央に立ってセルジュは叫ぶ。

「抵抗は止めよ! ロドルフ陛下の御名において命ずる!」

 素速く兵たちが左右に散って母家の捜索を始める。セルジュは背後に二人の兵を連れて階段を駆け上がった。

 二階の廊下を進んで少し開けた場所に出た。大きな絵が向かいの壁に掛けてある。

 黒装束の男が二人現れた。剣を抜いている。

 相手に言葉はない。セルジュにも言葉をかけるつもりはなかった。

 警告は既にすませてある。

 斜めから切り込んできた剣を受ける。同時に右に体を開いて回り込み、左手で相手の首元を強く打った。手甲を付けた腕による重い一撃である。呻き声を上げながら黒装束の男は倒れた。

 もう一人は手練(てだ)れであった。素速く片方の兵の太腿を剣で傷つけると、もう片方の兵の剣を(かわ)した。そしてそれ以上の戦いを避けるように逃げだした。

「待て!」

 セルジュは怒鳴ったが、黒装束が立ち止まるはずもない。

「ぐ……」

 傷付いた兵が床に膝をついた。もう一人が傷の状態を確めようとかがみ込む。

「負傷者は邸の外に避難させよ」

 無事な方の兵に命じてセルジュは黒装束を追った。

 黒装束は走りながら廊下の角を曲がった。駆ける足をゆるめる気配はない。

 もしあの角から槍でも突き出されたら……。

 そう考えると肝が冷えたが、セルジュも足をゆるめることはせずに廊下の角を曲がる。

 伏兵に()わずに角を駆け抜けた。

 邸の外周に沿っているのだろうか。少し長い廊下だった。廊下の先の扉を開けて黒装束の姿が室内に消えるのが見えた。

 扉の少し手前でセルジュは足を止め、そこから室内の気配を探ろうとした。体を前に傾けた途端、

「入ってきてくれないか」

 部屋の中から若い男の声で呼びかけられた。

 意表を突かれてセルジュは驚いたが、なぜか躊躇(ためら)う気持ちが生まれてこなかった。

 扉の握りを回して室内に入ると、そこは南向きとおぼしき明るい部屋だった。

 部屋の入口を入って直ぐ隣の壁際に黒装束の男は立っていた。セルジュはぎょっとしたが男に攻撃の意思はないようだった。剣も鞘に収められている。

「ようこそ。バルドール伯爵」

 セルジュを室内に招いたと同じ声が、開け放たれた窓の(そば)から発せられた。

 窓の傍には椅子とテーブルが置かれており、そこに二人の人物が席に着いていた。

 一人はセドリック、いやセリーヌ王女であった。もう一人は若い男であり、セルジュには見覚えもあった。

「……エーメ卿」

 男はアドリアン・エーメ伯爵であった。

 常に華やかな噂には事欠かぬ男であり、夜会や音楽会など宮廷の催しでは最も目立つ者の一人である。

 色々と派手な噂をセルジュも聞き及んではいたが、まさかセドリック王女を拉致するという暴挙に出るとは思わなかった。

 少なくとも無法なことはしない男だと思っていたのである。

「まずはその無粋な道具を仕舞ってくれないか? 御姫がおられるのでな」

 セルジュは無言で剣を鞘に収めた。つかつかと二人の傍に歩み寄るとセドリックに向かって膝をついた。

 威圧しないように己の身を低くしたが目は真っ直ぐにセリーヌを見つめた。

「セドリック殿下。王家の邸にお戻り下さい。今ならばまだ何事もなかったことにできまするゆえ」

 セドリックという単語を耳にした途端に少女の顔が揺れた。悲しみとも諦めとも取れぬものが美しい顔を曇らせる。

「バルドール伯。できればセリーヌ姫とお呼び差し上げていただきたい」

 控えめだが情熱の感じられる口調だった。セルジュはそれには答えずにエーメ卿に問うた。

「なぜこのような真似をなされたのか?」

「その前に伯にお尋ねしたい。クロード殿は……どうされた」

 叔父の名を耳にした瞬間、セルジュは全身が熱くなるのを感じた。怒りと悲しみが魂の傷口からまた血を滴らせる。

 エーメ卿の質問には真摯な響きが感じられた。

 そうでなかったら己は我を失っていたかもしれない。

 セルジュは己を落ち着かせるために一度深く呼吸した。

「……叔父上は亡くなられた」

「そうであったか……」

 エーメ卿の秀麗な顔に強い悲しみの色が浮かび上がった。どういう経緯があったのかは解らないが、叔父とエーメ卿との間には強い繋がりがあったのだろう。

 それがセドリック奪還を通じた仲間意識だったのか、それともそれ以前から二人の間に友情があったのかは解らない。生前の叔父がエーメ卿との関係を語ったことはなかったからだ。

 ただし、エーメ卿が妙な噂を立てられるたびにクロード叔父は「悪い男ではない」と言っていた。

 だからおそらく、二人はセドリック奪還計画を通じる以前から付き合いがあったのではないだろうか。

 そしてあの叔父が認めていたのだとすれば、エーメ卿は信用のおける人物だということになる。

 エーメ卿は悲しみをこらえるように暫し瞑目した。

「立派な方であった」

 しかし目を開いた時にはもう悲しみの色はなかった。

 悲しみを越える情熱がエーメ卿を動かしているのだと感じた。

「始めの質問にお答えしよう。私とクロード殿がこのような暴挙に及んだ理由はただひとつ、他に手がなかったからだ」

(けい)は陛下を信用しておられぬのか?」

「信用するかしないかで言えば、残念ながら信用はできないと言うしかないな」

 予想していた答えであった。

「王の慈悲深さとやらを耳にするたびに思うことだが、五年も御姫を幽閉したことをどう説明するのだ? 我々がお救いせねば、それこそいつまであの邸に閉じこめておくつもりだったのだ? 許されるものならば(じか)に王にお伺いしたいものだ」

「なるほど卿の言われるとおりであるかも知れぬ。だが、だからといって卿の行動が正当化されるわけではあるまい。王家の邸を襲って殿下を奪還するなど臣下にあるまじき行いであろう」

 セルジュはエーメ卿を弾劾するつもりはなかったが、立場上どうしてもこのような言い方になってしまう。

 エーメ卿は寂しげに首を振った。

「バルドール伯。貴公はまだお判りになられぬようだ」

「何がだ」

「陛下を信用するしないの問題ではない。私は見過ごせなかった。クロード殿もだ。始めに言ったであろう? 他に手はなかったのだ」

 セルジュは唇を噛みたくなった。話し合いという段階を越えているからこそ彼らは行動したのであろうし、己も今ここに居るのだ。

 だからこそクロード叔父も死ななければならなかったのだ。

「バルドール伯の立場は理解しているつもりだ。だがその上で言おう。我々と共に来てはくれないだろうか?」

 想像もしない提案であった。驚きに目を見開きながらセルジュは次の言葉を待った。

「ヴァルカンティには御姫の居場所はない。この五年でそのことがよく判った。そしてドゥブレー家にもな……伯にも想像が付いているだろうが、今回の件ではドゥブレー家の方々のご協力を受けている。いや、少なからずお力をお借りしていると言うべきだな。そして我々はヴァルカンティを離れるつもりなのだ」

「祖国を捨てられると言われるのか……」

「捨てるさ。己の居場所のない国など、不要だとは思わないか?」

「エーメ卿の居場所がないわけではあるまい」

「私の居場所は御姫の近くにしかありえない。だから御姫を(ないがし)ろにする国には私の居場所もないということさ」

 セルジュはセリーヌ姫に目を向けた。姫は静かな表情でセルジュを見返してくる。

 その顔に悲しみとも諦めともつかぬものが見えるような気がして、セルジュは目を合わせていられなかった。

 それはセルジュが見たくない表情だった。母を、祖母を思い出してしまうからだ。

「御姫と共に私はヴァルカンティを捨てるつもりだ。この国には……我々の居場所はない」

 エーメ卿は悲しげに微笑んだが、国を離れるということに関しては完全にふっきれているようでもあった。

 そしてセルジュに問いかけてきた。

「バルドール伯。王がなぜ貴公を近衛にお召しになったか、お考えになられたことは?」

 胸がどきりとした。その質問の持つ意味は重かった。

 近衛として仕えるよう命令を受け取った時にも考えた問いではある。

 だが、その時と今とでは状況が全く違う。

 もしも……王がエーメ卿一党の動きをあらかじめ掴んでおられたとしたら?

 クロード叔父がエーメ卿と結託していることを知っていて己を取り立てたのだとしたら?

 それはクロード叔父を牽制し、エーメ卿一党の力を()ぐためではなかったか?

 いや、それどころかバルドールを取り潰す準備でさえあったのかもしれぬ。

 そんな恐ろしい仮定が次々と心の中に浮き上がってくる。

「バルドール伯。席にお着きになった方がいい」

「いや……」

 断りかけたが、テーブルの上に手をついていた。

 驚いた。眩暈を感じたわけでもない。体ではなく、心が支えを必要としているのだと思った。

「お顔の色がすぐれぬように見受けられますが……」

 控えめな声だった。セリーヌ姫が言葉を発したのだ。

 声を耳にするのは初めてだった。それとも先日の襲撃の時に声を聞いていたろうか?

 いや初めてだ。姫の声を聞くのはこれが初めてだった。

 セルジュは顔をあげてセリーヌ姫を見た。本当に心配げな様子だった。

 心根の優しさが面に表れておられる……セルジュはそう感じた。

「お心遣い感謝いたします。姫」

 セルジュは礼を言って席に着いた。この先どんな話になるかと思うと、立ったまま聞くのは恐ろしかったというのもある。

「ロドルフ王は非常に聡明なお方だ。それは私も認める。遠からず名君と呼ばれることになるであろうな。何がご自分にとってもっとも得であるかどうかを、常に理解しておられる」

 そこでエーメ卿は何か迷うような表情になった。逡巡しているようだった。

「……失礼ながらバルドール伯にも、ヴァルカンティにとどまるべき理由はないと思われるが」

 バルドール家の内情を(おもんぱか)るような物言いに、セルジュは神経がささくれ立つのを感じた。

 離れから出てこなくなった祖母の姿を、疲れを隠すようにして妹たちの相手をしている母の顔を、実直なカントルーブの仕事ぶりを思い出した。

 客足が絶えても広間には季節の花が飾られ続けた。

 庭師のハンスはひときわ花に情熱を注いだ。

 光に輝く薔薇の美しさを思い出した。それは少しでも主人一家を明るくしたいという、無骨な庭師の心遣いだった。

 皆、悲しみに耐えていた。言葉に出す者はいなかったがそれは痛いほどに伝わった。

「……我らの居場所があるかどうかは我らバルドールが決めること。卿には関係あるまい」

「これは失礼した。どうか謝罪させてほしい」

 エーメ卿は席から立って謝罪の礼をした。

 右手を肩に寄せて腰を折り、胸を引くように頭を下げる。

 ごく一般的な礼の作法であったが、これほど優雅に行なわれるのをセルジュは初めて見た。

 エーメ卿が人々の目を奪う理由の一端が判ったような気がした。

「いや……こちらこそ失礼した」

 きつい言葉になってしまったことをセルジュは恥じた。

「卿のお心遣いだけありがたく頂いておきたい。しかし私は王の近衛なのだ。卿の言われるとおりにな……陛下に、ヴァルカンティに忠節を尽くす義務がある」

「そうか……残念だ」

 セルジュは無言で頷いた。エーメ卿も納得したようだった。

 外から剣戟(けんげき)の音が聞こえてきた。その音でセルジュは現実を思い出した。

 エーメ卿との対話は、ここに兵を伴って踏み込んできたという事実をセルジュに忘れさせていたのだ。

「どうやらこれ以上会話をする時はないようだな……」

「エーメ卿。決して悪いようにはしない。私と一緒に来て欲しい」

「バルドール伯のことは信用しよう。だがその言葉に従うことはできぬ」

 再び、予想通りの答えだった。セルジュの胸の中に悲しみが拡がった。

「せめて伯とは友好()に別れたい。このまま我々を見逃してはくれぬだろうか?」

「それは……」

 セルジュは言葉に詰まった。今までならば決して受け入れられぬ願いである。いや、今であってもそれは同じである。

 立場上、一顧だにせずに退けるべき願いであろう。

「と言っても伯のご性格上、無理な願いであろうな」

 エーメ卿は自嘲気味に微笑んだ。

「クロード殿から色々と聞かされたのだよ。よく貴公のことをお話になっておられた。さぞやご自慢であられたのだろうな」

「叔父上が……」

「ああ。私は飽きるほどあなたのことを聞かされたよ。セルジュ」

 最後に名前を呼んで、エーメ卿はセルジュを黙って見つめた。

 言葉にはできない様々な思いが、己とエーメ卿との間を交錯した気がした。

 ──!

 首筋に冷たい物を感じた。刃の感触。

 扉の脇に立っていた男だろう。いつの間にか背後に忍び寄っていたらしい。

「申し訳ないがどうあっても逃げさせてもらう」

「……馬鹿な真似はやめたまえ。卿とは話し合えるはずだ」

 これが最後の忠告になると感じながらも、魅力的な言葉を生み出せない己を呪った。

 こんなことなら詩学にもっと精を出すのであった。

 動けぬセルジュの目の前で、エーメ卿はセリーヌ姫を連れて扉の方へと歩いていった。

 黒装束の男は相変わらず無言でセルジュに剣を突きつけている。

「紹介しておこう。彼の名はテオドル・バロー。私の頼みとする臣下だ」

 扉が開かれる。エーメ卿とセリーヌ姫の姿が廊下に消えるのと同時にバローもセルジュから離れた。そして剣を向けたまま後ろ向きに扉まで向かい、主人の後を追った。

 セルジュは椅子に座ったまま三人を見送った。

 追う気力は湧いてこなかった。

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