伝説の敵

第二章 第十三節

 黒装束の一味がセルジュの敷いた防衛線を突破したと聞いた時には驚いた。

 クリステルは兵の配置を詳しく知っていたわけではないが、父が協力していたのだ。水も漏らさぬ布陣であったに違いない。

 それでも突破を許したのは、黒装束の中に特に勇敢に戦った者たちがいたからであるらしい。

 彼らは包囲網を突破するために死力を尽くした。三倍近い兵を相手に最後まで退くことなく剣を振るったという。

 自身が逃げることを全く考えないその戦い振りは凄じく、包囲する兵たちの間に動揺と恐怖が拡がったのだろう。その隙を突いてセリーヌ姫と他の黒装束たちは包囲網を破ることに成功したのだ。

 仲間を逃がすために最後まで戦った者たちは全員が討ち取られたという。

「兵にもかなりの犠牲が出たらしい」

 父の言葉には残念そうな響きがあった。父は流血を好まない。

 問題というものは血が流れる段階まで行ってしまうと、もうどうしようもならない。

 それが父の口癖だった。

 だからこそ、血が流れる前の段階で問題を解決できるように知恵を絞るのだ。

「討ち取った賊徒の中に、中心人物の一人であると思われる者がいた」

「どなたでしょうか」

「ヴィクトル・ドーファン子爵であったということだ」

 あの方が……。

 クリステルの印象からは、話に聞く壮絶な戦い振りは想像できなかった。

「ドゥブレー家の御親族であったとは存じ上げませんでした」

「彼の妻がドゥブレー家の人間だったのだ。子爵自身ドゥブレー家の人々とも昵懇(じっこん)の間柄であったしな。しかしまさかこのような暴挙に荷担するとは思わなかった。私も陛下も子爵とドゥブレー家の関係を知ってはいたが、子爵自身はドゥブレー家の人間ではない。だから私と陛下は必要以上に累を及ぼさぬため、ドゥブレー家の直系だけを叩いたのだが、それがこんなことになるとはな……」

 レイモンは軽く溜息を吐いた。

「子爵の胸からはセルジュに宛てた書状が出てきたよ。どうやら……クロード殿を誤って刺したのは彼であったらしいな」

「書状を目にされたのですか?」

「いや、セルジュから聞いた。詳しい内容までは聞かされていないが、そのことについてだけは私に教えてくれたよ」

「子爵はクロード小父様とご親交があったのでしょうか……」

「それはわからない。ただクロード殿を(あや)めてしまったことが、子爵の行動を説明する理由の一つであるとは思う……まったくやりきれんな」

「……」

 おそらくは、セルジュに対する謝罪の言葉が書かれていたのであろう。

 父の言葉ではないがまったくやりきれない。

「これを読むと益々気分が沈んでしまうよ」

 言って父が指し示したのは、今朝早馬で王都から届けられた書状であった。目を通した時には気分が高揚して幸せを感じたが、子爵の死や、今の状態を思うと、果たしてこれは幸福の書状なのか、それとも運命の皮肉なのか判らなくなってくる。

「それで姫様たちの行方は……」

 そもそも父に呼ばれた理由をクリステルは思い出した。

 セリーヌたちの目的地が判明したから話があるといって呼ばれたのだ。

「ああ。よりによってジャン・ザ・ビオンへ向かったらしい」

 レイモンは苦々しく言った。

 予想外の動きであった。

 セルジュを中心とする捜索隊は、包囲網を突破された後は活発な動きを見せていない。

 おそらく血眼になって情報を収拾しているのだと思われるが。

 しかし、先日会ったセルジュからは何故か覇気が感じられなかった。

 クロードが死んだ翌日でさえも、セルジュは任務への責任感に燃えていたのに、まるで抜け殻のようになってしまっていた。

 何か深い悩みがあるようだった。力になれればとは思ったが、あまりにも深刻そうな顔をしているので聞き出すことがクリステルには躊躇われたのだった。

 いったい何があったのだろうか。

 それにしても目的地がジャン・ザ・ビオンとは……。

「姫様は、ジャン・ザ・ビオンのことをご存知なのでしょうか」

 硬い表情でクリステルが言った。

 ジャン・ザ・ビオンの神秘は王家の秘密となっている。

 王家の禁足地としてその秘密を保持しているわけだが、王族であるセリーヌが、そのことを知っていてもおかしくはない。

「いや、おそらくは御存知ではあられないだろう。ジャン・ザ・ビオンの秘密は、ご成人後にお明かしすることになっている。だからジャン・ザ・ビオンの神秘によってどこかへいらっしゃるおつもりはなく、ただ単に、王家の禁足地であることを利用して潜伏なさるおつもりであろうな」

 クリステルは青冷めた。

「それではお止めしなくては!」

「うむ。……しかし、今から追いかけて間に合うかどうか」

 ここブランドシェからジャン・ザ・ビオンまでは、そう遠くはない。

「可能性はあります。ジャン・ザ・ビオンには、容易に入ることができません」

 それもまた、ジャン・ザ・ビオンの神秘のひとつであった。その姿が近くに見えていても、そのまますんなり入れるとは限らないのだ。セリーヌらが入山に手古摺(てこず)っていれば、追い付くことは可能である。

「しかし、間に合って陛下のお許しをお伝えできたとしても、お信じ下さるかどうか」

 父のつぶやきに頷いた。クリステルの懸念も同じだった。

 父が言っているのは今朝早馬で王都から届けられた書状である。

 そこには襲撃者の可能性や、セリーヌの意思を優先させるべきことが書かれていた。

 つまりは最終的には、全てをセリーヌにとって良いように取り計らうよう命じた書状であった。

 クリステルは感動した。王のなさることに間違いはないと信じてはいたが、王がセリーヌの幸せを願って、確かに尽力(じんりょく)していたことが判って胸が熱くなった。

 だがそれも今では問題の芽の一つになっているように感じられた。

 ドーファン子爵は死に、セルジュは今もセリーヌ姫を取り返すべく任務に当たっている。

 そこにこの書状を持ちこむことはどういう意味を持つのだろうか。

 クリステルには悪い冗談としか感じられなかった。

 いまさら全てを無かったことにせよと言われても、それで収まりがつくものだろうか?

 既に多くの血が流れているのだ。

「……陛下は全てを御存じであられたのでしょうか?」

「そんなはずはあるまい。ただ、ドゥブレー家の残党に動きがあることは(つか)んでおられた」

「では、お父様がここにいらしたのは、彼らの襲撃に備えてのことだったのですね」

 クリステルの反応の良さを感心するようにレイモンは(うなず)いた。

「上手くいかないものだ。全てが明るみに出た時には物事は(もつ)れた蜘蛛の巣のようになってしまっている。いったい今からどうやって収拾する? セルジュに何と言って伝えればよいのだ?」

「セルジュに伝える役目はわたくしがお引き受けいたします」

「そうか……考えてみればお前が適任であるかもしれない。私にもお前以外にこの役目を引き受けられそうな者が思い当たらないよ。すまないが頼まれてくれるか?」

「はい」

 クリステルは頷いた。

「陛下は姫様のお相手についてはご存知であられたのでしょうか?」

 セリーヌ姫の恋の相手についてはクリステルはずっと気になっていた。

 襲撃の時の様子からは、姫の身を利用しようとするような悪漢とは感じられなかったが、印象だけで判断できるようなことではない。

「ドゥブレー家の残党から、殿下のお相手となりそうな者をお挙げになられてはいた。フェーヴル卿か、エーメ卿ではないかとご推察であった」

「エーメ卿!」

 クリステルは声をあげた。

「そうです! あれはエーメ卿でした!」

 あの声、あの身熟(みごな)しは、エーメ卿――アドリアン・エーメに違いなかった。

 剣の腕前とその美貌で名高い、青年貴族である。華やかな場には必ずその姿があり、それでいてそれがよく似合っている男であった。最近はとんと見かけなかったが。

 しかし――

「あの……お父様、だいじょうぶなのでしょうか?」

 クリステルは不安げにレイモンに問うた。

「エーメ卿というと、その……いろいろと華やかなお噂が絶えなかったような……」

 貴婦人たちの話題に、彼の名が(のぼ)らぬことはない。女たちの注目を一心に浴びる中、彼は華やかな恋物語をいくつも織りなしてきた。その物語の主人公となることを夢見る女も、少なからずいた。

 だからクリステルは案じているのである。セリーヌとの恋愛もその一環なのではないかと。

 そんなクリステルにレイモンは笑みを向けた。

「悪い男ではない」

 クリステルは驚いた。

 随分(ずいぶん)と簡単な言いようである。

 確かに悪い男ではない。悪い噂を聞かないわけではないが、派手な活躍の割には人からひどく憎まれたという話は聞いたことがない。

 が、それだけでは心許(こころもと)ない。

 納得のいかぬ様子のクリステルを見て、レイモンは言葉を重ねた。

「あのクロード殿が認めておられたのだ」

 そうなのだ。曲がった性根を嫌い、(すじ)の通らぬことを憎んだあのクロード小父(おじ)様が、なぜかエーメ卿とは馬が合っていらした。

 クロード小父様の目に狂いがあったとは思えない。

「エーメ卿のような男はな、妻を得た途端、他の女など一切眼中に入らなくなる手合いだよ。表面的な部分に目を奪われては、彼の本質は見えてこないよ」

「お父様がそうおっしゃるのなら……そうなのでしょう」

「納得がいかないようだな」

 レイモンは眉を下げた。

「ともかく彼ならば問題はない。それにこういうことは、何よりも本人たちの気持ちが大切だ。そうだろう? クリステル」

 父の眼差しに何かを感じて、クリステルは少し(あせ)るような気持ちになった。

「……おっしゃる意味が解りません」

「イーヴに頼もうと思う」

 今度こそクリステルはどきりとした。

「イーヴはエーメ卿と斬り合ったのだろう? お互い相通じるものもあるだろう。彼の人柄からして、イーヴの言葉ならば信じるのではないだろうか」

「それは……」

「軍隊で追わせるのは逆効果だ。単騎ならば早いし、怪しまれることもないだろう」

「それは……そうですが……」

 仮眠すら取らずに働いているセルジュのことが思い浮かんだ。

 セルジュは、この件に片を付けるのは自分でありたいと思っているはずだ。

 己の手の届かぬ所で事態が収束するのは不本意だろう。いや、無念だろう。

「セルジュはどうなりますか?」

「さきほど彼の邸に使いをやった。もうすぐここに来るだろう。彼に書状を見せて……話はそれからだと言いたいが……」

 レイモンは残念そうに言った。実際にはセルジュに事情を説明している時間などないのだ。

 セリーヌ姫の一行は既にジャン・ザ・ビオンに向かっていることだろう。

 もたもたしていたら到底(とうてい)間に合うものではないのだ。何しろ今すぐブランドシェから追っても、間に合うかどうかという状況なのだから。

「セルジュには気の毒だとは思うが、今からでは事態に追いつけまい。それに彼には何か悩むところがあるようだよ」

 クリステルは無言で頷く。それは自分も感じていたことだったからだ。

「彼が自分の整理を付けて、それからセリーヌ姫を追うとなったら間違いなく手遅れになる。同情はするが、彼の気持ちを優先させることはできない」

「お父様のおっしゃるとおりだと思います」

 セリーヌ姫を救わなくてはならないのだ。それはクリステルにも解っていた。

「……お前から話してくれないか?」

 イーヴのことだと判った。

「イーヴは邸内にいるはずだ。お前から行って、事の次第を話して欲しい」

「……」

「もしイーヴに断られたら教えてくれ。他の方法を考えるからね」

 ……父が何を考えているかが解ってきた。

 確かにイーヴは適任だろう。イーヴの話ならばエーメ卿も信じるだろう。二人が斬り合った時の様子からして、そのようになる可能性は充分にあると思えた。

 だが問題はそれだけではないのだ。

 ジャン・ザ・ビオンの(そば)にまで行って、イーヴがそのまま戻ってくるかどうか……。

 父もそのことを懸念しているのだ。そして何よりも父は、娘たる自分の気持ちに気づいている。

 そうでなければこんな会話になるはずがない。

「クリステル……」

「かしこまりました」

 父が言い終えるよりも前に、クリステルは答えた。

「わたくしから彼に話します」

 言い終えるが早いか父に背を向けた。動揺を見られたくなかった。

 部屋を出て行こうとした時、背後から父が言った。

「すまない」

 クリステルは扉を閉め、イーヴを捜しに向かった。

 

   *

 

 稽古でもしているかと思ったが、イーヴは珍しく部屋にいた。

 テラスに立っている。海を眺めているようだった。

 クリステルに気づくと振り向いた。

「お前か」

「お邪魔でしたか?」

「いや、構わない」

 イーヴは再び海に向き直った。

「海を見ていたのですね」

「ああ……」

 ここに来て以来、イーヴはよく海を見つめている。

 それまで見たことがなかった所為(せい)もあるだろうが、それだけではない何かを海に感じているらしかった。

 海を見つめる時、イーヴはとても穏やかな表情をしていた。普段の鋭さは消えて祈りにも似たような、澄んだ表情を浮かべるのだ。

「あなたにお願いがあります」

「なんだ?」

 クリステルは()(つま)んで事の次第を話した。エーメ卿がセリーヌ姫を連れて逃走していること、イーヴの話ならば耳を傾けるであろう事など、そして――ふたりがジャン・ザ・ビオンを目指しているであろうことを。

「そうか」

 イーヴは一言そう言った。クリステルの方を向いた。静かな顔をしていた。

「クリステル――」

 胸が鳴った。名前で呼ばれた。だがその理由は? 意味は解っている。解っているからこそ、胸が痛いほど(うず)いた。

「世話になった」

 その言葉は静かに響いた。

 途端、遠くに聞こえていた潮騒(しおさい)の音が、轟音(ごうおん)となってクリステルの耳の中を通り抜けた。大波に(さら)われ、岩壁に打ち付けられて、身体(からだ)がばらばらに砕け散った気がした。

 ――ああ……ついに……

 荒波に()みくちゃにされているような感覚の中で、ひとかけらの冷静な意識が、この事態を受け止めていた。

 だが何かを考えることまではできない。

 クリステルは(しば)し呆然と立ち尽くした。

 (うつ)ろな目をイーヴに向けると、イーヴはひどく静かな目でこちらを見ていた。

 クリステルは羞恥を感じた。

 自分は今どんな顔をしているのだろう。

 衝撃を受ける自分の姿を、この人はこうしてじっと見ていたのだろうか。

 同時に腹立たしくもあった。

 なぜそんな目でこちらを見ていられるのか。

 なぜそんなに冷静でいられるのか。

 クリステルは唇を(ふる)わせながら、ゆっくりと口を開いた。

 が、声が出ない。何を言っていいのか分らない。

 そのまま息を吸い込み、息を吐いて目と口を閉じた。

 そうして少し落ち着くと、クリステルはイーヴを真っ直ぐ見据え、再び口を開いた。

「結果を……調査結果をお伝えします」

 イーヴは無言で(うなず)いた。

「『大いなる敵』は……」

 そこまで言いかけて、クリスエルは躊躇(ためら)った。

 頭の中が目まぐるしく動いていた。

 彼を引き留める方法がないかと、ひたすら探し回っていた。

 あるはずがないのに。今まで散々考えたというのに。今さら方法が見つかるわけがないというのに。

「大いなる敵」が存在しようとしまいと、彼はここを去っていく。自分の(もと)を去っていく。それは変わらない。きっと変わらない。

 ならばせめて、彼の力となるべきである。彼にとって最善の助言をすべきである。それが彼に対する愛というものである。

 それなのに、その言葉が出て来ない。

 なんとなれば、それは自らの手で後押しすることに他ならない。話を進めていくことによって時間を進めていくのだ。別れに到る、この時間を。

 イーヴはこちらをじっと見つめている。こちらに強い意識を向けてくる。

 息が詰まりそうになって、クリステルは瞑目(めいもく)した。眉間(みけん)(しわ)を寄せ、祈るように。

 そして(ようよ)う声を(しぼ)り出した。

「『大いなる敵』は、存在します」

 イーヴの目が見開かれた。そこに歓喜が満ち(あふ)れる様を見て、クリステルは後ろめたいような胸の痛みと、絶望的な敗北感を感じた。

「……いえ、正確には、これから『大いなる敵』が存在します」

 イーヴは(いぶか)しんだ。

「これから?」

「『大いなる敵』に関することは、これから始まるのです。これから作られるのです。ジャン・ザ・ビオン内部の時間の流れは、外部とは関係なしに常に一定です。ですから一度起こったことがまた起こるということはありません。例えば、わたくしたちは屍体を発見しましたが、あれの前の状態、つまりは生前の彼には、何度入山を繰り返しても会うことはできないのです。なぜならわたくしたちが入山した時にすでにドニ・クープランは死んでいたからです」

「ジャンザビの中で死んでいたからか?」

「そうです」

 クリステルは頷いた。

「すで死んでいる以上、会うことはできない道理です」

「だがやつが死ぬ前のジャンザビに入れれば会えるんじゃないか?」

「……残念ながらそれはあり得ません」

 クリステルは辛さを(こら)えて声を出した。

 ジャンザビについて最も解りがたい部分の説明をしなければならない。

 果たしてイーヴは理解してくれるだろうか?

「……今お話ししたようにジャン・ザ・ビオンの中では時間は常に一定です。ですから入山した者が時間を溯って体験することはできないのです。たとえ何度入山しようとも」

「どういうことだ?」

「わたくしたちが入山した時にすでにドニ・クープランは死んでいました。それはつまりわたくしたちが屍体を発見したということ、屍体を発見した以上、そこから溯って生きていた頃に会うことはできません。あくまでわたくしたちは、ですが」

 わたくしたちは、に力を込めてクリステルは告げた。このややこしさにはクリステルも考え込まされた。

 つまりジャンザビでは入山者の時間には変化がないということなのである。

 ある時間に入山すれば、そこを起点としてその者が山の中に在る時間が始まる。

 山の中での()()()()()一定である、ということなのだ。

 だから何度出入りしようとも、最後に下山した時より前には溯って入山はできないのである。

 いったい古文書の、禁書の著者はどうしてこんな秘密を知ることができたのか。

 クリステルが王家の禁書をいくら読んでもそれは解らなかった。

 ただ事実として書かれているのみで、説明はなかったからだ。

 その意味では真実であるかどうかは判らない。間違いであるかも知れない。

 しかもその真偽を確認することも難しいのだ。不可能と言ってもいいだろう。

 下山の方法も一応記されてはいたがあくまで運任せであり、それとて常に正しい法則なのかどうか確める(すべ)はないのである。

「……では俺たち以外ならば、生きている頃のやつに会う可能性はあるわけだな?」

「はい。逆にその場合、屍体を発見することはありません」

「その代わり一緒に土砂崩れに巻き込まれる(おそれ)があるわけだな?」

「はい。クープランと行動を共にし続けていれば、ですが」

「……するともし誰かが『大いなる敵』を斃していたとしても、その後に新たな入山者があった場合、そいつは生前の『大いなる敵』に遭う可能性もあるのか?」

 イーヴは考えるような目をしていたが、思ったよりも呑み込みは早かった。

 的確な質問にクリステルは安堵しつつ、恐れつつ話を続けた。

「はい。当然あり得ますが、あなた方エク族に限って言えばそれはあり得ません」

「どういうことだ?」

「ジャン・ザ・ビオンの神秘の一つに、ジャン・ザ・ビオン内部のことはその周辺に反映される、ということがあります。ジャン・ザ・ビオンの周辺で、ジャン・ザ・ビオンには『大いなる敵』が居るという話があるのなら、それは事実を反映しているのです。そして逆に、周辺に敷衍(ふえん)されたジャン・ザ・ビオンの神秘は、ジャン・ザ・ビオン自体にも働きかけます。だからこそあなた方エク族は『大いなる敵』に挑戦を繰り返すことができたのです。ですからエク族の中で『大いなる敵』が斃されたという認識が拡がれば、エク族の人々が『大いなる敵』の存在するジャン・ザ・ビオンに飛ばされることはなくなります」

 イーヴは真剣な面持ちで(うなず)いた。

「……ジャン・ザ・ビオンの神秘は時間についてだけではありません。ジャン・ザ・ビオンはわたくしたちの世界だけではなく、その他のあらゆる世界にも存在します。そしてどの世界からも中に入ることはできるのです。多様な植生や、見たことのない生物もそうした特性の結果です」

 これもクリステルには確めようのないことであった。

 だが禁書にはそのように記されているし、事実ジャン・ザ・ビオンの中では見たことのない植物や、動物を目にしてきている。

 だから時間についての記述よりも、よほどすんなりと信じられる内容だった。

「……それで?」

「現にわたくしの父は、ここではないどこか別の世界からやって来ています。もちろんそれを確める術はありませんが……禁書によればジャン・ザ・ビオンは多くの世界にその入口を開いているとありますから、今はそれを信じることにして話を進めます。今、山中での時間の流れが一定であるとお話ししましたが、飛ばされる世界についてもこれは当て()まります。一定の法則の下で同じ現象が繰り返されるのです。……父の言葉を借りれば次元移動現象ということになるのかもしれませんが、わたくしにはまだこの言葉の正確な意味はわかりません。そしてさきほどお伝えしたようにジャン・ザ・ビオン内部のことが周辺に反映される以上、『大いなる敵』は存在するのです。もしも入山した戦士たちが彷徨(さまよ)って消えるなり、()ちるなりしているのなら、周辺にはそのように反映されているはずなのです。

「では……!」

 イーヴの顔にさらなる希望の光が差した。

 クリステルの胸がずきりと痛む。

「……ええ。これから先の未来において、確かに『大いなる敵』は存在しますし、戦士たちは『大いなる敵』と出逢います」

 イーヴは感じ入ったように目を閉じた。顔に手を当て、大きく息を吐いた。

 そのようにイーヴが安堵する様を、クリステルは複雑な気持ちで見つめていた。

 イーヴは(しばら)くそうしていたが、何か思い当たるところがあったのか、再びクリステルを見た。

「……しかし、もう始まってるんじゃないか? 『大いなる敵』はもう存在してるんじゃないのか? 今現在のエク族、俺の先祖たちの間では、『大いなる敵』に出遭(であ)ったということが噂になっているとかいう話だったじゃないか」

「その噂の『大いなる敵』は、あなた自身でしょう。彼らはあなたと出遭って、あなたを恐るべき敵と見做(みな)したようですが、それはあなたがたエク族の伝説としての『大いなる敵』ではありません。それがいずれ伝説の『大いなる敵』と(つな)がり、同一視されていく可能性は否定できませんが」

「……そうか」

 イーヴは何かを考えるような顔をした。やがて首を傾げ、

「そしたら俺は……どうやって『大いなる敵』と逢えばいいんだ……?」

 (いぶか)しげにクリステルを見た。

 クリステルは思わず目を()らしそうになった。

「大いなる敵」に挑むことに、すべてを懸けてきたというイーヴ。

 その情熱の一端を、自分は()の当たりにしてきた。ジャン・ザ・ビオンを必死に歩き回っていた彼を、父に「大いなる敵」の存在を否定されて激怒した彼を、この目で見た。

 その彼に告げなくてはならないというのか――。

 それもこの自分が――。

 しかし、告げなければ彼は……

 クリステルは痛ましい思いでイーヴを見つめ返した。

 (つば)を呑み込み、そして意を決して口を開いた。

「今のあなたは、『大いなる敵』と出逢うことはできません」

「……?」

 何を言われたのか判らないといった様子で、イーヴはクリステルを見る。

 その視線に心を鷲掴(わしづか)まれたような気がして、クリステルは息苦しくなった。

「通常ならば、あなたは他のエク族の戦士たちと同様、そのまま『大いなる敵』と出逢えたはずでした。しかしあなたは、太陽が二つある時に、ジャン・ザ・ビオンに入ってしまいました。それが運命の分かれ道だったのです。あなたは、本来飛ばされるべき『大いなる敵』の居るジャン・ザ・ビオンではなく、『大いなる敵』の居ないジャン・ザ・ビオンに飛ばされてしまいました。そこにわたくしも飛ばされなければ、あなたは永遠にジャン・ザ・ビオンに閉じ込められたままでしたが、しかし幸いなことに、奇蹟的なことに、あなたが飛ばされたジャン・ザ・ビオンに、わたくしも飛ばされました。いえ、より正確には、わたくしが飛ばされるべきジャン・ザ・ビオンに、あなたがすでに飛ばされていた、ということなのですが。あの時にジャン・ザ・ビオンからの脱出方法が判っていれば、わたくしとあなたが出遇(であ)った時点で、すでに脱出できる状態でした。禁書に書いてあることが真実ならば、わたくしは入山した通りに下山すればよいだけだったのです。あなたはそのわたくしに()いていらっしゃれば、あなたひとりでは出られぬジャン・ザ・ビオンから出られたのです。しかし実際には、わたくしたちはセルジュの御蔭(おかげ)で出られました。偶然にも、セルジュは入山した通りに下山したので、彼と一緒に居たわたくしたちは外へ出られたのです」

 クリステルはそこで一端一息吐いたが、イーヴは続きを(うなが)すようにクリステルを見つめる。

「あなたはある意味運が好く、ある意味運が悪かったのかもしれません。あなたとわたくしの立っている地平は同じものでしたが、時間が、時代が、違いました。おそらくは数十年ほどの差で、今のあなたは『大いなる敵』との出逢いを無くしてしまったのです」

「数十年……」

 イーヴは呆然と(つぶや)いた。

 待てぬ時間ではないのかも知れない。

 だがそれは、(とし)を取るには充分な時間である。

 今、イーヴは若い。その肉体には、はち切れんばかりに力が(みなぎ)っている。

 しかし数十年後にはどうなるか? どれだけの力がその肉体から失われていることか。

 いや、果たして生きているのかどうか……。

 その時間の重さを感じて、クリステルの胸は痛んだ。

「……しかし、ジャンザビで奴を待てばよいのではないか? ジャンザビの内外では、時間の流れが違う。ならば、あるいは……」

 イーヴは(すが)るような目でクリステルを見た。

 クリステルはわずかに目を外らしつつ、

「それはあまりにも危険な賭けです。ジャン・ザ・ビオンの内外、それぞれの時間の流れは一定ですが、それぞれの質はまったく別のものです。その違いまではわたくしにも判りません。それはつまり予測不可能ということです。それに、あなたが飛ばされたジャン・ザ・ビオンに、『大いなる敵』も飛ばされるとは限りません。それどころか、今ジャン・ザ・ビオンにお入りになれば、あなた自身が『大いなる敵』となってしまう可能性があります」

 イーヴは大きく目を見開いた。そして(いぶか)しんだ。

「……どういうことだ? 俺は、伝説の『大いなる敵』ではないんだろう? 今現在のエク族にとっての、単なる恐るべき敵というだけで」

「ええ。しかし今度は正真正銘、あなたが『大いなる敵』となる可能性があるのです。歴史の必然――とでも申しましょうか。未来において『大いなる敵』が存在するのなら、現在から未来に到る過程で、その存在は必要不可欠になります」

「それでなぜ俺が?」

「あなたと決まっているわけではありません。しかしジャン・ザ・ビオンに入れば、あなたは、『大いなる敵』となる可能性の中の一要素として組み込まれることになります。なんとなれば、『大いなる敵』はジャン・ザ・ビオンに存在することになっているのですから」

「それじゃあ、ジャン・ザ・ビオンに入らない限り、俺が『大いなる敵』になることはないということか?」

「その通りです」

「真実、俺が『大いなる敵』であるとして、もし、このままジャンザビに入らなかったらどうなる?」

「それは妙な話です。成り立ちません。ジャン・ザ・ビオンに存在するからこそ『大いなる敵』なのです」

「しかし未来は確定しているものなのか? 未来は、今現在の俺たちの行動から生まれるものだろう? 俺たちの行動次第では、未来において『大いなる敵』が存在しないジャンザビに変わる可能性があるのではないのか?」

「確かに可能性はあります。しかしそうなると、この世界はあなたの世界の過去ではないということになります。極めて似通った世界ではありますが、この世界とあなたがいらした世界は別世界ということになります。そしてそれが事実であるならば、残念ながら、あなたが『大いなる敵』と出逢える可能性はほとんど無いでしょう。現在だけでなくこの先も」

「……」

「ですが別世界である場合のことを考えるのは、今は無意味です。判りようのないこと――確定されていない未来のことを考えても、仕方がありませんから。ですから同一世界として考えます。それでいくと、今ジャン・ザ・ビオンに入れば、あなた自身が『大いなる敵』となってしまう可能性があるのです」

「……」

「その可能性は低くはないでしょう。わたくしはそう見ています。最初に太陽が二つの時に入山してしまったあなたは、今一度、普通の状態で入山しても、自力で下山することはおそらく不可能になっています。そもそも今こうしてここにいられるのは、自力で下山した結果ではありません。ですから、この状態で再度入山しても同じなのです。……いえ、自力下山が不可能とは断言できませんね。太陽が二つの時に入山して帰ってきた者はおりませんでしたので、それに関する記録が一切無いのですよ。あなたが初めての例なのです。つまり、太陽が二つの時の入山してなおかつ、ジャンザビの知識を得ている人間のところに現れた初の例です。ですから、今一度入山したところで『どうなるのか判らない』というのが正確なところなのです。しかし、わたくしは、あなたが元の世界に戻るのは無理なのではないかと思っています。なぜならばジャン・ザ・ビオンから脱出するためには、入山した時と同じような状況で下山する必要があるからです。太陽が二つという状況は、まずあるものではありません。百年に一度という話も耳にしています。それでも、その奇蹟に恵まれたとしても、本当に下山できるかは判りません。記録がありませんから。つまり太陽が二つという状況は、それほど特殊なものなのです。あるいは太陽が二つという状況でなくとも、何かしら大きな変化があれば……例えば、エク族を呪縛する『大いなる敵』を(たお)せたとすれば……すべてが変わってくるのかもしれません。しかし、そうなったとて何が起こるかは判りません。戻れるのか、どうなのかは判りません。判りようもないのですよ。いずれにせよ閉じ込められることになれば、ジャン・ザ・ビオンに()()かざるを得ません。それはまさに……『大いなる敵』としての条件を満たしていると思いませんか?」

 クリステルが口を(とざ)すと、重苦しい沈黙が部屋の中に満ちた。

 にも(かかわ)らず、遠くから聞こえてくる潮騒(しおさい)は、ひたすら穏やかである。

 その中で、イーヴは表情を無くしたまま固まっていた。

 クリステルの顔に、(あわ)れみと苦渋(くじゅう)が満ちた。そんな彼を見るのはあまりにも(つら)かった。

「……イーヴ」

 クリステルは静かにイーヴに近寄り、その(たくま)しい腕に触れた。イーヴの体がぴくりと反応したが、その手を振り払うようなことはなかった。クリステルはイーヴの腕を取り、その腕に身を寄せた。

「だいじょうぶです」

「……」

「この世界にだって、『大いなる敵』に(あたい)するものがあるはずです」

 イーヴの体が再び反応した。

「見て下さい」

 クリステルは海を指し示した。

「あの海の向こうには、あなたがまだ見知らぬ世界があります。ジャン・ザ・ビオンの如き矮小(わいしょう)な世界ではなく、(はて)しなく広大な世界が。あそこにならきっと、あなたが求めるものがあるはずです。微力ながら、わたくしもお手伝いいたします。……共に、新たな『大いなる敵』を捜しに参りませんか?」

 思わず、すらすらと出てきたそうした言葉に、クリステルは我ながら驚き、感動した。

 新たな「大いなる敵」を捜す、自分はその手伝いをする――なんという名案だろうか! それに、彼を自分の(そば)に引き留めるのではなく、自分から彼に()いていけばよかったのだ。どうして今までそのことが思い浮かばなかったのか。

 イーヴの顔を見上げてみれば、彼は呆然と海を眺めていた。その遠くに何かを見るように。心奪われるように。

 ずきりと胸が痛む。

 彼の心は自分には無い。

 そのことを思い知らされる。

「海の向こうを旅して、再びここに戻ってきた時には、『大いなる敵』が存在しているということもあるかもしれません」

 イーヴは無言である。クリステルの言葉が届いているのかいないのか、ただ海を眺め続けている。

 と思いきや、不意に口を開いた。

「俺は……」

 潮騒(しおさい)が穏やかに響く。

 

「俺は、ジャンザビへ行く」

 

 クリステルは耳を疑った。

 唖然(あぜん)としてイーヴを見上げる。

 イーヴは、決意の()もった強い眼差しで、海を見ていた。

「……わたくしの話を聴いた上で……ですか?」

 息が苦しい。声が(かす)れている。

 イーヴは深く静かに(うなず)いた。

「あなたが『大いなる敵』になってしまうかもしれないのですよ? ジャン・ザ・ビオンに閉じ込められてしまうのかもしれないのですよ?」

 思わず、詰問(きつもん)するような口調になった。

 イーヴは意に介する風もなく、

「……覚悟の上だ」

 静かに答える。

 クリステルは信じ難い思いでイーヴを凝視した。イーヴの腕を(つか)む手に、力が()もった。(あふ)れ出しそうになる感情を抑えて、できるだけ抑えた声を(しぼ)り出した。

「っ……なぜ……なぜなんですか?」

「仲間を見捨てられない」

「仲間……? 『大いなる敵』に挑む戦士たちのことですか? 彼らならば、なんの心配もございません。彼らは『大いなる敵』に出逢えるのですから」

「ああ。そのことには安堵している。――しかし、新たな懸念(けねん)が生まれた」

 クリステルは(いぶか)しんだ。

「何者が『大いなる敵』になるのか?――それが気懸(きが)かりなんだ」

「……」

 その先の言葉を予想して、クリステルは(ふる)えた。

「誰であろうと、今ジャンザビに入れば、『大いなる敵』になる可能性があるんだろう?」

「……は、い」

「今ジャンザビに入りそうな人間――それを考えていた。そしたらエク族に思い至った」

「……それは、考えにくいのではないですか? 今、エク族の間では、ジャン・ザ・ビオンに恐ろしい敵が居るということで持ち切りです。そんなところにわざわざ近づくはずがないではありませんか」

 イーヴは含み笑うように苦笑した。

「仲間を殺されたんだぞ? やられたままでいるわけがないさ。(とむら)いもある」

「あれからもうだいぶ時間が経っています。今さら手遅れではないでしょうか」

「クリステル、あんたは俺たちのことを知らない」

 イーヴは首を振った。

「必ず(かたき)()つ。俺たちなら必ずだ」

 それも同じようにしてだ。(だま)し討ちならば騙し討ちで。堂堂たる決闘ならば同じ決闘で。

 エク族ならば必ずそうする。それがエク族の誇りなのだ。

「ジャンザビの中で、俺は四人の同胞(どうほう)(ほうむ)った」

 知らぬことだったとは言え、状況的に致し方の無いことではあった。

 しかもイーヴにとっては圧倒的に不利な状況である。

 それでもイーヴは戦士たちを(たお)し、その場を切り抜けたのだ。これはエク族にとっては最大級の尊敬に(あたい)することである。

「ならば一対一だ。次からはエク族の戦士たちが一対一で、俺に挑戦してくるだろう」

「一対一……」

 クリステルは(つぶや)いた。そのことの意味が、恐ろしさが解ってきた。

「あの落武者狩りのような(ぬる)い連中ではなく、本当の戦士たちがな」

 一対一の、神聖なる決闘。

 それこそまさに……「大いなる敵」との(たたか)いそのものではないか!

「俺は戦士たちの挑戦を(こば)むわけにはいかない。なぜなら俺もエク族だからだ」

「でもっ……だからと言って山に戻る必要はないのではありませんか? 挑戦ならばどこでだって受けられますし――」

「クリステル」

 イーヴはクリステルの発言を(さえぎ)った。

「奴らは必ずジャンザビに入る。なぜならそこで俺と出会ったからだ。同じ場所で、同じ状況で闘おうとするのが作法だ。ジャンザビで出遇(であ)ったからこそ、俺との闘いが生じたのだ。ならば戦士たちはジャンザビを目指す。間違いない」

「しかしそれでは、それではあなたが……」

「『大いなる敵』になってしまうというのだろう?」

 イーヴは静かな顔をしていた。

「だが俺が戻らなければ、ジャンザビに入った他の戦士がそうなってしまう。しかもその戦士は俺を求めてジャンザビに入るんだ。そして俺に出会えず、山を彷徨(さまよ)うことになる」

 イーヴはクリステルをじっと見つめた。

「クリステル――俺と同じだよ。それは、俺と同じことなんだ」

 クリステルは言葉を失った。

「敵を求め、しかし出逢えず、(むな)しく山中を彷徨(さまよ)う……そんな犠牲は俺一人でいい。充分だ」

 目の前が暗くなった。

 暗く深い水底に、落ちていくような気がした。

 ――どうあっても止めることはできない。

 判りきってはいたことだった。

 しかし、絶望的な確信を持ってそう思った。

 ならば……

 クリステルは強い眼差しをイーヴに向けた。

 

「わたくしも、一緒に参ります」

 

 イーヴの目が驚愕に見開かれた。

 眉を(ひそ)め、怪訝(けげん)な顔でクリステルを見る。

「……あんた、何を言ってるんだ?」

「あなたがお仲間を見捨てられぬように、わたくしもあなたを見捨てられません。ジャン・ザ・ビオンに入れば、あなたは閉じ込められてしまいます。外からいつ人がやってくるのか、本当に人がやってくるのか、そんなことは判りません。あなたが『大いなる敵』と確定されれば、エク族の戦士たちはあなたの元へ飛ばされることになりますが、そこには(たたか)いしかないのでしょう?」

「ああ」

「ならば、あなたは、たったひとりでジャン・ザ・ビオンに閉じ込められることになります。……もしかしたら、いえ、おそらくは一生」

「覚悟の上だ」

 そう言うイーヴに、恐れや動揺は見られない。完全に(はら)()えているのだろう。あくまで静かだった。

「あの山に、あなたがたったひとりで閉じ込められると思うと……(たま)りません」

「それであんたまで来るというのか?」

 イーヴは驚く。

「気持ちは嬉しい。感謝する。――しかし、あんたを連れて行くわけにはいかない。あんたにはあの男が――セルジュがいるだろう?」

 クリステルは愕然(がくぜん)とした。

 ――セルジュ!

 思いも寄らぬ名だった。

 ぐさりと胸に刺さる名だった。

「いずれ、あの男と結婚するんだろう? そんな女を連れて行くわけにはいかない。あの男に(うら)まれたくもないしな」

「……」

 セルジュもまた大切な人間ではある。

 しかしイーヴとは違う。この、切ないような胸の痛みは、イーヴにしか感じない。

 どちらかに()いていくとなったら、迷わずイーヴに従いていく。

 襲撃のあったあの日、あの夜までの自分なら、そうだった。

 だが今はどうだろう。

 あの時の――クロード小父(おじ)様の死際(しにぎわ)が、心に焼き付いていた。

 瀕死(ひんし)のクロード小父様の胸元で、セルジュと手を組まされた。

 あれがクロード小父様の願いであり、遺言(ゆいごん)であるはずだった。

 ギュベール家の人間として、クロード小父様にはとても負い目がある。父がセリーヌ姫のことを打ち明けていたら、クロード小父様はあんな死に方をしないで済んだはずだった。

 しかしそうした(あわ)れみや贖罪(しょくざい)でセルジュと結婚するのは、セルジュに対しても、クロード小父様に対しても、バルドール家に対しても、侮辱(ぶじょく)でしかない。それは解っている。だがそれでも、クロード小父様の願いを踏み(にじ)ることは、ひどく躊躇(ためら)われることだった。

「そうだ。あいつに――セルジュに(あやま)っておいてくれないか。あの夜は随分(ずいぶん)と身勝手なことを言ってしまった。考えが足りなかった」

 イーヴの声が遠くに聞こえる。

 心が千々《ちぢ》に乱れていた。苦しみで震えていた。感情が、涙が、奔流(ほんりゅう)となって(あふ)れ出しそうになる。

 が、すんでのところで(こら)えた。呑み込んだ。

 彼と共に行くことはできない。

 彼を見送ることしかできない。

 ならば、ここで泣いてはいけない。

 この先にある苦難を乗り越えていけるよう、彼に力を与えなくてはならない。

 見送りとはそういうものだ。

 クリステルは静かに深呼吸し、イーヴを見つめた。

「……解りました。そのようにセルジュに伝えておきます」

 イーヴは頷いた。

「あなたの無事を、元の世界に戻れることを、祈っております」

「ありがとう」

 イーヴは微笑みと共にそう言うと、クリステルに背を向け、扉に向かって歩き出した。

 ――さようなら。イーヴ。

 そう、クリステルは別れの言葉を口にしようとした。

 だがどうしてもそれが、その言葉が出てこない。

 ()れったい想いでイーヴの背中を見送るうちに、彼はもう扉の前に立っていた。ドアノブに手を掛けた。

 クリステルは息を吸い込んだ。

 

「イーヴ、愛しております。いつまでも」

 

 その言葉が()いて出た途端、イーヴの姿が(かす)んだ。涙が(せき)を切って(あふ)れ出していた。

 いけない! と思ったが、もうすでに遅い。涙は()()なく溢れてくる。

 イーヴはドアノブに手を掛けたまま、驚きと困惑が混じったような、呆然とした顔でこちらを見ている。

 クリステルは激しい羞恥を覚えた。最後の最後に、なんという無様(ぶざま)(さら)してしまったのか!

 クリステルは両手で顔を(おお)い、静かに深呼吸した。

 心を落ち着かせなくては。

 涙を止めなくては。

 こんな風に見送るのはあんまりだ。

 クリステルは自分を責めつつ、必死に、何度も、深呼吸を繰り返した。

 その最中(さなか)、不意に、温かく、力強いものに包まれた。憶えのある(ぬく)もり、匂い……気がつけば、イーヴの腕の中に自分がいた。

 頭の中が真っ白になった。

 息が止まりそうだった。

「……すまない。俺はあんたを色々と傷つけてきたと思う。だけど今だって、あんたを泣かせたくはないんだ」

 耳許(みみもと)で、そうささやかれた。

 止まりかけた涙が再び流れ出した。

 嗚咽(おえつ)しそうになって、イーヴの胸の中に顔を(うず)めた。

 イーヴは強く、だが優しく抱き締めてくる。それに(こた)えるように、クリステルもイーヴの背に手を回し、イーヴを抱き締めた。

 イーヴの温もりが()み込んでくる。次第に心が落ち着いていく。

 この温もりを覚えていたい。

 自分の温もりを覚えていて欲しい。

 そう思いつつ、イーヴの背に回した手に、力を()めた。

 いったいどれだけそうして抱き合っていただろう。涙も(ようや)()れ果てた時、イーヴはそっとクリステルから離れた。

 クリステルが名残(なごり)()しそうにイーヴを見ていると、イーヴは首から()げた「勇者の護符」の(ひも)を引き千切(ちぎ)った。そしてクリステルに向け差し出した。

 クリステルは戸惑った。

「あの……」

「あんたにもらって欲しいんだ」

「そんな……いただくわけにはまいりません」

()らなかったら()ててくれ」

 イーヴは微笑んだ。屈託(くったく)のない笑み。あれほど大切にしてきた物なのに……。

 ()れたと思った涙が再び込み上げてきた。

「そんな、棄てるだなんて! ……大切に、大切にします。ありがとうございます……」

 クリステルは「勇者の護符」を優しく手の中に包み込んだ。温かかった。イーヴを感じるような気がした。

「あんたがこんなに泣くとは思わなかった――」

 優しい顔でイーヴは言った。

「すまない」

 クリステルは頬を染めて(うつむ)いた。

「いえ……お見苦しいところをお見せして、もうしわけありません」

 それから何かを思い付いたように顔を上げて、

「あの……わたくしの願いをひとつ聞いて下さいませんか? 約束をして下さいませんか?」

 クリステルは懇願するようにイーヴを見た。

 イーヴは(うなず)いた。

「俺にできることなら」

「もし……もし、元の世界に戻ることができたなら――」

 と言ってクリステルは、(きら)めく海を指し示した。

「あの海のように青い旗を、旗をあなたの部族の村に、目立つように立てて下さい」

「……解った。約束しよう」

 イーヴは再び頷いた。それでもう、お互いに口を開くことはなく、(しばら)く無言の時が流れた。

 クリステルはテラスに顔を向けた。視線をイーヴに()えておけなかった。このまま彼を見続けるのは、あまりにも(つら)すぎると思った。

「クリステル」

 名前を呼ばれてクリステルは振り向いた。

 しかし呼んだだけで、イーヴは何も言わなかった。ただ静かにクリステルを見つめている。

 やがてイーヴは目を閉じた。何かの想いを呑み込むようにも見えた。

 潮騒(しおさい)が響く。

 潮風(しおかぜ)が流れる。

 

「俺もあんたのことが好きだ」

 

 小さな(つぶや)きは、しかし衝撃となってクリステルの身体(からだ)を打った。

 呼吸が止まるほどの衝撃だった。思考が分裂し、ばらばらになった。

「さようなら。あんたにはこの場所が――庭の花々がよく似合う。幸せに、生きてくれ」

 イーヴは背を向けた。振り返ることもなく、部屋から出て行った。

 クリステルは動けなかった。運命がすり抜けていくのをただ見ていた。

「まっ……」

 唇が(かす)かに動き、震えるような言葉が出てきた。

「待って……」

 蹌踉(よろめ)くように歩を(きざ)んだ。だが部屋にはもうクリステルしか居ない。

 自分以外は誰もいない。

「待って……下さい」

 腰が抜けたようにクリステルは(ひざ)を着いた。

 何も言葉が出てこない。何も考えられない。身体の奥底から激しい悲しみが湧き上がってくるだけだ。

 何もできない。

 それを悟った瞬間、クリステルは泣き崩れた。(うずくま)って(すす)り泣いた。涙は()れ果ててなどいなかった。いくらでも(あふ)れてきた。

 潮騒(しおさい)が絶え間なく響いていた。

 クリステルを(なぐさ)めるように。

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