伝説の敵

第二章 第十四節

 できだけ急いで邸に来て欲しい──レイモン・ギュベールの使いが告げた言葉はそれだけだったが、ただならぬものを感じさせた。

 セルジュは急いで支度を調えるとギュベール邸に向かった。

 エーメ卿との会話は今もまだ重く心の中に残っている。

 忠誠を尽くすべき王に対する疑念が、真実への恐れがセルジュをずっと苦しめていた。

 心の乱れは任務の遂行にも影響を与えている。

 昨日の戦いでは指揮の乱れを見事に突かれてしまった。激しい戦いではあったが、数の上でも布陣の万全さから言っても、あれで取り逃がすことは考えられないのだ。よほど愚かな指揮官でなければ。

 愚かな指揮官か……。

 セルジュは考える。まさしく今の己は愚かな指揮官であると。

 死んだドーファン子爵の胸からはセルジュ宛の書状が出てきた。

 願わくばバルドール伯お一人のみが御覧になられるよう──。

 祈念体でそう表書きされた書状には、言い訳は一言もなかった。

 ただ謝罪の言葉が述べてあり、クロード叔父を讃える言葉が、そしてセリーヌ姫の行末を案じていると書いてあった。

 真摯な人柄を感じさせる内容だった。それだけに辛かった。

 果たして己はこのまま仕事を続けられるのだろうか。任務を完うできるのだろうか。

 ──軍籍を返上して故郷へ帰るべきかも知れぬ。

 セルジュはそこまで思い詰めていた。

 

   *

 

 ギュベール邸に到着するとすぐに応接室に通された。

「こちらでお待ち下さい」

「わかった」

 執事に外套と帽子を預けてセルジュは窓際に歩いていった。

 窓向こうの庭を見下ろした。以前来た時には庭で稽古をするイーヴの姿が見られたが、今日は見られない。

 クリステルの話ではいつも稽古しているということだったが……。

「お待たせいたしました」

 声の主はクリステルだった。

 てっきりレイモン・ギュベールと会談すると思っていたのだが。

「クリス……」

 挨拶をしようとして、そこでセルジュは言葉を呑んだ。

 クリステルは見るからにやつれており、悲しみと疲れが彼女の上に重くのしかかっていることが判ったからだ。

 先程まで泣いていたのだろうか。目が赤かった。

 本来なら人前に出られる状態ではない。

 それでもこうして己の前に出てきたのは、それほど重要な話があると言うことなのだろう。

「セルジュ……お仕事中お呼び立てして申し訳ありません」

 いつもながら優雅に見えるその礼も、今はただ痛々しい。

「邪魔になど……それよりも君の方こそ大丈夫なのか? ひどい顔色じゃないか」

「それはあなたも同じだと思いますわ」

 クリステルは弱々しい微笑みを浮かべた。それを見てセルジュの胸は苦しくなる。

「まずはお座り下さい。あなたに見ていただきたいものがあるのです」

 セルジュに席に着くように促し、クリステルは鈴を振って召使いを呼んだ。

 すぐに扉が開いて召使いが入ってきた。金髪の少女である。確かクリステル付きの娘で、リリィという名前だったと記憶している。

「お客様にお飲み物を」

「……かしこまりました」

 答えたものの、リリィはその場に立って心配そうにクリステルを見ている。はっきりと主人を心配している様子が見て取れた。

「リリィ」

「……はい」

 リリィは悔しそうな、悲しそうな顔をして(うつむ)いた。自分では力になれないのだろうか……そんな思いが込められている様子だった。

 リリィが退室するとクリステルもセルジュの対面の席に着いた。

「駄目ですね……リリィにまで心配をかけて」

 自嘲的に呟く声も弱々しい。

「本当に大丈夫なのかい? 日を改めた方がよいのではないか?」

 クリステルはゆっくりと首を振った。

「いいえ。今でなくてはなりません。今ここで全てを終わらせたいのです……勝手なことだとは思いますが、お付き合い下さいますか?」

 力強さは感じさせないが、有無を言わせぬ何かを持った態度であった。

 子供の頃からの付き合いで、セルジュはこうした時のクリステルの(かたく)なさを知っているし、またクリステルが無意味にその頑固さを表したりしないことも、そして知性が並外れて優れていることもよく知っていた。

「……わかったよ。話を聞かせてもらおう」

 セルジュが了承すると、直ぐさまクリステルは懐から書状を取り出した。黙ってセルジュの方にそれを差出す。

「これは……?」

「陛下からのご書状です。どうぞ御覧になって下さい」

「ロドルフ陛下からの?」

 どきりと心臓が鳴った気がした。己を落ち着かせようと深呼吸をする。

「……拝見いたそう」

 セルジュは静かに羊皮紙を拡げた。王独特の細い流麗な筆跡が目に入った。元よりクリステルを疑っていたわけではないが、本物であることはそれだけで判った。

 予想はしていたが書状はギュベール卿に宛てて書かれたものであった。

 だがしかしその内容は驚くべきものだった。

 もしもセドリックを連れ去ろうとする者が現れたとしても、セドリック自身が同行を望んだ場合には、その意思を優先させるよう命じてあったのだ。

「馬鹿な……これでは……これでは私の立場は……」

 声が震えるのを感じた。これでは、己はまるで道化ではないか。

 王は己に護衛を命じながら、その一方で全く反対の命令をギュベール卿に出しておられた……。

 

「バルドール伯。王がなぜ貴公を近衛にお召しになったか、お考えになられたことは?」

 

 エーメ卿の言葉が耳の奥に(こだま)した。

 突然。

 目の前に叔父の最期が(よみがえ)った。あの時の光景が、交わされた会話が甦る。

 ──道化。

 その言葉が強く、強く脳裏に甦る。

 叔父上……私は……バルドールは……。

 視界が歪む。椅子に座っていてなお体の平衡を保っていられない。

 いや(ふる)えているのか。己はまるで熱病患者のように顫えているのか。

 頭の片隅でぼんやりとそんなことを考える。

 自分自身の全てが、音を立てて崩れていくような気がした。

 だが突然、肩を強く掴まれる感覚でセルジュは我に(かえ)った。

「落ち着いて下さい。そして書状を最後までよくお読みになって下さい」

 クリステルの声。

 それに促されるようにセルジュは書状を読み進めた。指先の顫えを押し止めることができない。続きを読むのが途方もなく恐ろしかった。

「セルジュ」

 再びクリステルの声。

「大丈夫です。落ち着いて、そして最後までしっかりとお読みになって下さい」

 書状には続けてこう書いてあった。

 ただしセドリック自身が嫌がるのにも(かかわ)らず、強引に連れ去ろうとするような相手であった場合には、セルジュ・バルドールと協力してその相手を捕縛、あるいは排除すべしとあり、それゆえにセルジュにだけは、セドリックが女性であることを明かしておくことが書かれてあった。

 末文にはどうか二人で協力して、秘密()に事態を解決するように頼む、と書かれてあった。

 王命の(あかし)としてセルジュにはこの書状を見せておくことも書かれてあり、そして最後に「彼は余の近衛である」と結ばれてあった。

「……なぜもっと早く教えてくれなかったのだ……」

 絞り出すような言葉になった。もっと早くに、この書状を目にすることができていたら……。

「セルジュ。その書状は早馬で今日届いたものです。日付をよくご覧になって下さい」

 言われて目を落とすと、確かに書状の日付はセルジュが命令を下された日と同じではなかった。

 あの賊徒の襲撃があった日の日付になっている。

 当然、執務室でこの書状を書いていたであろう王が、襲撃の事実を知っているはずもなかった。

 つまりその時点で王が知っていた事実、そしてそこから推測される事態を、先の状況を考えて書かれた内容だということになる。

 それはつまり──。

「陛下はあなたのことを深くご信頼なさっておいでだということです」

 セルジュの考えを裏付けるようにクリステルがそう口にした。

「クリス……」

 瞳の中で幼馴染の姿が崩れた。自分が何を感じているのか解らない。喜びなのか、悲しみなのか。

 もっと早くにこの書状を見ることができていたら、いやこの書状がもっと早くに、せめてあの日の昼に届いていたら……叔父はあのような最後を迎えることはなかったかも知れなかった。

 運命に対する怒りと悲しみがセルジュの魂を揺さぶった。

 だが、それと同時に大きな喜びとでもいうべきものも込み上げてくる。

 王は決して己を、バルドールを見限っていたわけではないのだ。

 道化としてもてあそんでいたわけではないのだ。己に期待し、汚名返上の機会を与えて下さっていたのだ。

 そのことを理解すると体が熱くなった。再び小さな顫えが体を走り抜ける。

 魂から込み上げてくるものは熱く激しく、喜びなのか怒りなのか解らない。

 セルジュは自分が泣いていることに気付いた。

 気付くと急に恥ずかしくなってクリステルに詫びた。

「……すまない。お見苦しいところをお見せした」

 慌てて懐からハンカチーフを取り出して拭おうとするが、急いで出てきたために、甲冑こそ着けていないが軍装のままである。そもそも懐がなかった。

 するとクリステルが無言でハンカチーフを差し出してくる。最近流行し始めたデザインの婦人用のものだった。

 一瞬躊躇したがセルジュは受け取ってそれで涙を拭った。

 涙を拭うと今度はおかしみが胸の内に拡がった。

 不思議なものである。悲しんだり恐れたかと思うと、今度は喜んだり笑ったりする。

 人の心はままならない。

「……君には敵わないな」

 己の鼻声に小さく笑いが混じったのを聞いた。

 ここでいつもならば何か気の利いた言葉が返ってくるはずである。いや、昔ならばと言うべきか。

 クリステルはそういう利発な子供だったのだ。

 しかし今回は何も言葉が返ってこない。少し不審に思ってクリステルに目を向けると、彼女もセルジュの方を見ていた。

 視線が重なる。

 それだけでセルジュには、もう以前のような軽口を言い合うことはないのだと、その日々は遥か遠くに過ぎ去ったのだと判った。

 クリステルはただ静かな、悲しみと優しさを含んだような目をして(すわ)っているだけだったからだ。

「……お判りになったと思いますが、つまりもう殿下を追われる必要はございません」

 セルジュは無言で頷いた。己の仕事は終わったのだ。

 頭ではそのことを理解しはしたが、複雑な気分だった。

「ですが……」

 クリステルは扉の方へと目を向けた。

 人を気にしている? 聞かれては困る話か?

 セルジュはクリステルの仕草からそう察して立ち上がると窓の外を窺った。人の気配はない。

 応接室の扉を開けると、ちょうどリリィがお茶の一式を持ってやって来たところだった。

「バルドール伯爵様!」

「ありがとう。続きは私が運ぼう」

「そんな! いけません!」

 慌てるリリィから半ば奪い取るようにしてお茶の一式に手を伸ばす。

「この部屋に誰も近づかないように見張っていてくれるかい?」

 同時にリリィの耳元でそう囁いた。少女がはっとした様子を見せた。

「頼むよ」

 もう一度囁いて茶器一式を奪い取った。

「あ」

 半ば唖然としているリリィを尻目に応接室に戻った。

 状況に対応し切れてない様子が微笑ましくも、可哀相でもあったが、セルジュはリリィの目の前で応接室の扉を閉めた。

 これで暫くは安心だろう。ここの壁は厚いし、声を潜めて話せば盗み聞きをされる心配はないと思えた。

「お心遣い感謝します」

「やはり内密の話なのか」

「はい」

 クリステルは頷いた。

 今読ませてもらった書状で問題は解決しているはずである。

 この上何があるというのか。

「セリーヌ様たちの行方が判明したのです」

「なんだと!?」

 セルジュは思わず声を上げてしまった。すぐにしまったと思った。

 しかし自分でさえ掴んでいない情報を何故クリステルが……考えて、すぐに答えが出た。

 レイモン・ギュベールであろう。

 彼なら独自の情報網を持っていても不思議ではない。それならなぜその情報を己に知らせないのか……そこまで考えて己の(にぶ)さに内心舌打ちする。

 だから今日、こうしてクリステルが己に面会しているのだ。

 彼女自身、何か辛いことがあったらしいにも(かかわ)らずにだ。

「……話を聞かせていただこう」

「姫様はどうやらジャン・ザ・ビオンに向かわれるおつもりのようです」

「あの山は王家の禁足地ではないか」

「ええ。ですからそのことを利用して潜伏なさるおつもりなのでしょう」

 上手い手であると思った。セルジュとしてはてっきり船で港から外国に向かうものだと考えていたのだが、完全に裏を掻かれる恰好だった。

「姫様を決してジャン・ザ・ビオンに行かせてはなりません」

 クリステルの口調には焦りの感じがあった。

「なぜだ? 禁足地である以上人目は避けられるし、従う者たちもいるだろう。別に危険はないのではないか?」

「いいえ。考えられる限り最悪の結果です」

 首を振るクリステルの目には恐怖と言っていいようなものが見えた。

「……あの山には何かあるのか?」

「セルジュはあの山について何か聞いたことがありますか?」

 質問には答えずにクリステルは問い返してきた。

 不審に思ったがセルジュは記憶を探って、子供の頃に聞かされたジャン・ザ・ビオンについての話を思い出した。

「確か入ると出られなくなるとか……」

 だがそれは王家が余人を立ち入らせないために流した噂か、または禁足の令が一人歩きして怪異譚へと姿を変えたものではないのか。

 子供を怯えさせる役には立っても大人には通じない、そういう(たぐい)の話だと思っていた。

「それは本当の話です。あの山に入れば二度と戻っては来られません。よほど運が強ければ別ですが」

「クリス……それは本当の話なのかい?」

 クリステルは無言で頷いた。

「だが……この間私たちはあの山で会ったじゃないか。そして無事に出てきた。何事もなかったじゃないか」

「確かにそうです。ですがそれは条件を満たしたからに過ぎません。わたくしたちは運が好かったのですよ。それも途方もなく運が好かったとみるべきでしょう」

「しかし……」

「セルジュ、今はあの山について詳しくあなたに説明している時間はありません。それに説明してもすぐに納得してもらえるかどうか……」

 クリステルは目線をテーブルへと落した。悔しそうな顔をしていた。

 彼女がこんなことで嘘を吐くとは思えなかった。

 だがすんなり信じるには荒唐無稽な話であることもまた事実であった。

「お信じになれないようですね」

「申し訳ないが……」

 躊躇(ためら)いつつもそう答えた。

「全ての話を聞かせてもらえないか? そうしたら私も考えることができると思う」

 いくら時間がないと言われても、このような話で兵たちを動かすわけにはいかない。

「そうおっしゃると思っていました」

 クリステルは諦めたように息を吐いた。

「それにセリーヌ姫については父が既に手を打っています。ジャン・ザ・ビオンに入らぬように使者を使わしたのです」

 セルジュは少々驚いた。手回しが良いにも程がある。

 しかし己を差し置いてそのような手を打たれるのは正直面白くなかった。

「ご不満ではあるでしょうが、あなたに詳しい説明をして、納得をしてから動いていただくわけにはいかなかったのです。それに兵を動かして数で追ってはかえって逆効果ということも考えられましょう」

「しかし……」

 反論しようとしたが、クリステルはやんわりと手を掲げてそれを制した。

「ですから今から全てをお話しいたします。ただしこの話は王家の秘事に関わることですので、決して他言しないようにお願いいたします」

「わかった」

 王家の秘事……その言葉にセルジュは身が引き締まるのを感じた。

「ジャン・ザ・ビオンについて話す前に、誰がセリーヌ姫を、エーメ卿を追ったかをお話ししましょう。イーヴです」

 セルジュにはエーメ卿の名前が出たことが驚きだった。一体どうやって掴んだのだろうか?

「……セリーヌ姫は恋をしておいででした」

 クリステルは寂しげに微笑んだ。

「そのお相手候補の一人としてエーメ卿が挙がっていたらしいのですよ。陛下と父はそこまで情報を集めていたそうです。ですがそれでもあの夜の襲撃までは予測できませんでした。襲撃の報告を受ければ陛下もお嘆きになるでしょうね」

「うむ……」

 いくら情報を集めて考えても、人の心は、その思いは、予測する者の考えを越えてゆく。

 ……時には行動する己自身さえも。

 まるで翼を持っているように──。

「……話しましょう。セルジュ。ジャンザビのことを。イーヴのことを」

 クリステルはひたりとセルジュの顔に視線を据えた。

 悲しいが深い瞳だった。彼女の身に何があったのだろうか?

「そして、『大いなる敵』のことを──」

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