伝説の敵

第三章

 ――怪訝(おか)しい。

 以前入ったときとは空気が違う。

 イーヴはジャンザビを登っていた。

 入山はまったく阻害されることがなかった。

 驚くほどに簡単にジャンザビの(ふもと)に着いた。そのまま中に入った。

 だがその後が違う。山の雰囲気が激変していたのだ。

 薄暗い、闇のような気配が周囲に垂れ込めている。

 木々の姿が変わったとか、地形の起伏が変わったとかいう話ではない。

 不気味な気配が辺りを(おお)っているのだ。

 空も暗い。雨雲とまではいかないが、灰色の低い雲が空を(おお)っている。

 これがイーヴを迎えたジャンザビの表現なのか、それとも何か別のものがあるのか……。

 クリステルの話によればジャンザビの中の時間は一定であるという。

 ならば己がクリステルたちと下山した時、その直後から始まらなければ怪訝(おか)しいではないか。

 今の山の様子はとても、あの下山した時の様子とは違う。

 全く別の山なのではないかと思えるほどだ。

 太陽が二つの時に入山して帰ってきた者はいない……。

 クリステルの言葉が思い出される。どうやら己は入山者の中でも例外に入るらしい。

 時間が一定であるとか、その他の色々わけのわからぬジャンザビの法則にしても、己には当て()まらぬのかも知れない。

 いずれにしても「歴史」はこれから作られるのだろう。何者かが入って来るにしても、または――。

 イーヴは頭を振った。己が「大いなる敵」になるなど……。

 馬鹿馬鹿しい話だと思う。だがその可能性は充分にあるのだ。しかも入山した以上、それは確定の条件かも知れない。

 それでも、イーヴにはエク族の勇者たちを見捨てることはできなかったのだ。

 クリステルを振り払ってでも。

 胸が痛んだ。(やかた)での遣り取りを思い出すと、どうしようもなく胸が痛んだ。

 だがあれしかなかった。他にできることはなかった。

 道のような場所に出た。

 以前も歩いたことのある場所だ。クリステルと共同生活をしていた時には、良く一緒に歩いた――。

 ずきりと胸が痛んだ。思わず手で押さえるほどに。

 イーヴは来た道を振り返った。草が茂り、木々が枝を伸ばしている。

 闇があった。山の(ふもと)は、もう見えない。

「……クリステル……俺は、あんたのことを――」

 言いかけて、しかし口を(つぐ)んだ。クリステルの顔が思い出された。衝撃に固まっていた姿が、涙に濡れた瞳が思い出された。

 二度と言ってはならない。言う資格は己にはない。

 あんなに悲しい涙を流させておいて、その言葉を言う資格などない。

 イーヴは前を向いた。他に見るべきものはない。

 この先には例の洞窟がある。

 行くのは(つら)いが、他に住居にできそうな場所を知らない。取り敢えずはそこを目指すしかないようだ。

 イーヴは洞窟を目指した。

 足元を見ながら歩き、何も考えないようにした。

 やがて洞窟に着いた。そしてイーヴは、驚愕した。

「……っ!」

 人が倒れている。入口の手前、洞窟に入る前の少し開けたところだ。

 しかもエク族の服を着ている。怪訝(おか)しくはない。ジャンザビの中にあっては時間の法則が通用しなくなる。

 ここはジャンザビの中、ジャンザビの時間……誰が居たとしても、怪訝(おか)しくはないのだ。

 そのことをクリステルに聞かされて解ってはいた。解っているつもりだった。

 だが、イーヴは荷物を放り出して駆け寄った。

「おい! 大丈夫か!?」

 倒れているのは男だった。かなりの傷を負っている。見ると周囲には血が飛び散っていた。

 ここで戦いがあったようだった。

 イーヴは慎重に男を助け起こした。水を口元に垂らすと男は目を開けた。

「……おまえ、は……」

「俺はエク族のイーヴ。あんたは?」

「おれは……ヨルン」

 イーヴは妙な気分になった。

 エク族にあっては良くある名前ではある。(あや)しむには足らない。

 しかしそれはイーヴにとっては、良く知った名前なのだ。

 ヨルンの胸元には「勇者の護符」が光っていた。イーヴは息を呑んだ。動悸(どうき)が激しくなるのを感じた。

「なぜ……ジャンザビに入った?」

「知れたこと……『大いなる敵』を、(たお)すため……」

 イーヴは全身が総毛立つのを感じた。

 ……なんだと?

 この男は、「大いなる敵」を斃すためにジャンザビに入ったというのか!

 いったい何が起こっているのか。イーヴの頭は混乱した。

 クリステルに聞かされた話を思い出そうとする。しかし心の中で話が重なり合い、押し集まって輻輳(ふくそう)している。何がなにやら解らない。

 気持ちばかりが高まり、血が(たけ)る。

 いけない。興奮している。落ち着かなくては。

 事態を把握しなくてはならない。

「……お前も、勇者か……」

 ヨルンはイーヴの胸元を見た。しかしそこには「勇者の護符」はない。

「護符はないが俺は勇者だ」

「……護符はどうした……」

「女に与えた」

 それを聞くとヨルンの瞳に驚きの色が表れた。そして苦しそうに笑った。口元から泡のような血が流れた。

 イーヴは怪我の状態を素速く調べた。出血から言って相当な深傷(ふかで)である。顔色も悪い。

 今すぐに手当てをしても、助かるかどうか判らないだろう。ましてやここはジャンザビの中である。

 ヨルンの生命(いのち)は助からないと思った。

「……俺も、そうすればよかったよ」

「あんたにも好きな女が?」

「……妻がいる」

 それを聞いた時、イーヴは稲妻に撃たれたかのような衝撃を受けた。

 直感である。イーヴはヨルンの顔をよく見た。

 苦しそうに(ゆが)んだ表情を見せているが、顔立ちは判る。イーヴはじっと見つめた。

 思い出そうとした。遠い日の記憶を。

 母の腕に抱かれて見送った、あの日の記憶を。

「イーヴと……言ったな……」

「そうだ」

 声が震えるのを(おさ)えられなかった。

「……おれの……息子と同じ名だ……」

 イーヴは固まった。動けない。言葉が出てこない。

 ただじっと瀕死(ひんし)のヨルンを見つめた。

 違うかもしれない。これはまったく同じ名前で、ただの他人であるのかもしれない。

 イーヴもヨルンも、エク族にあっては特に珍しい名前というわけではない。

 だがイーヴにはそうは思えなかった。腕の中の男は父に違いない。そう感じた。

 

 ジャンザビは、なんと恐ろしい仕打ちをするのか。

 

 ヨルンの腰に巻かれた剣帯(けんたい)に目が留まった。血で汚れたそれは、良く見知った意匠(いしょう)のものだった。

 エク族伝統の意匠。

 そして母が得意としている意匠だ。

「……その剣帯は?」

「妻が……」

 そうか。

 やはりそうか。

 ヨルンの呼吸が怪しくなってきた。

「ヤツの……足と、脇腹(わきばら)に……傷を負わせた」

 イーヴは(うなず)いた。

「この洞窟の……奥に」

 イーヴは頷いた。

 

「おまえが(たお)せ」

 

 ヨルンが見つめてきた。強い眼差しである。生命(いのち)の、最後の輝きに思えた。

「ああ」

 イーヴは、頷いた。

 ヨルンが安堵したように笑んだ。

「おれの息子は……強くなるだろうか……」

「勇者になる」

「……そうか」

「あんたの息子だ。誰よりも強い男になる」

 ヨルンは息を吐いた。すべての者がそうするように、静かな、長い息を吐いた。

「そうか……」

 満足そうな、(かす)かな(つぶや)きを残して。

 イーヴの腕の中で、ヨルンは()った。

 涙は出てこなかった。(のど)は痛かった。鼻が少し濡れているような心地がした。

 だが涙は出てこなかった。

 替わりに計り知れないほどの感謝と愛と、そして激烈な殺意が込み上げてきた。

「……行ってくる」

 イーヴは立ち上がった。

 洞窟の入口に向かって歩き出した。足元、血の飛び散った地面に、槍が落ちていた。

 エク族の槍だ。穂先には赤い血が付いている。

 ヨルンが、父が使った槍だと思った。

 槍を拾い上げた。握り締めた。身体(からだ)が小刻みに(ふる)えた。

 心は冷めていると感じた。今、たった今受け取ったものは、それだけの心を(さず)けてくれたのだ。それは解っている。

 しかし身体は妙な心地だった。

 ――俺は恐れているのか?

 冷静に思った。そして己が冷静であることを冷静に認識した。

 つまりこれは恐怖ではない。武者奮(むしゃぶる)いというやつであろう。

 (こぶし)を握って開いた。思う通りに動く。腰にも浮ついた感覚はない。

 ――良し。

 胸の中心に力を感じた。思う間に細かな(ふる)えは背中へと回り、首筋の辺りから消えていった。

 イーヴは息を吐いた。洞窟の中へと、入って行った。

 (しばら)くの間とは言え、己が暮らした場所である。途中からはクリステルも一緒だった。

 中の造りがどうなっているかはよく解っている。

 少し入れば奥は広い空間になっていること。

 天井の高さは槍二筋(ふたすじ)分ほどもあること。

 つまり、戦うに充分な広さがあることをイーヴは知っている。

 問題は(あか)りだけだがそれも問題はない。

 なぜなら行く手は明るい。奥に光があるということだからだ。

 洞窟の中に入った。かつて生活の場にしていた場所だ。

 イーヴは息を呑んだ。

 壁全体が光を放っている。いったいどういうことなのか。

 炎には遠く及ばない、あえかな輝きである。弱弱しく、その境界も定かではない、ぼんやりとした光が、周囲を(ひた)すように照らしている。

 これは何かの魔法なのか。魔法などというものをイーヴは信じたことはなかったが、もしもこれが魔法なのだと言われれば、今なら信じられる気がした。

 光の中心には夜空があった。夜空には星があった。イーヴはそう思った。

 ここは洞窟の中である。夜空など見えるはずがない。しかし一瞬そう思ってしまうほどに、目の前の存在は天の象を写し取っていた。

 あるいは洞窟を満たすこの光は目の前の星々から出たものなのかもしれぬ。

 全身を(おお)ったその輝きが、何であるのかは判らない。

 だがイーヴは即座に理解した。今目にしているものが、己の想像を(はる)かに超える崇高(すうこう)な存在であるということを。

 (おお)きい。並みの男など、その体の中にすっぽりと(おさ)まってしまうだろう。

 頭部は雄牛(おうし)であった。

 天の星々がその体に(きら)めいていた。闇のような黒一色の巨体には、余すところ無く天の星が輝いている。

 このような生き物が存在するはずがない。少なくともイーヴの居た世界にはいなかった。

 人は人、獣は獣である。獣と人と、その両者の力を併せ持つかのようなこの存在は、一体何なのか。

 心臓が強く脈打ち、こめかみの辺りに痺れるような感覚が走る。

「……ジャン・ザ・ビオンはわたくしたちの世界だけではなく、その他のあらゆる世界にも存在します。そしてどの世界からも中に入ることはできるのです。多様な植生や、見たことのない生物もそうした特性の結果です」

 クリステルの言葉が脳裏に甦った。聞かされた時にはそんなものかと思っていたが、今はっきりとそれが真実であると納得できた。

 目の前の存在はイーヴも、そしておそらくクリステルも知らぬ存在だ。あるいはレイモンならば知っているのかもしれないが、もはや確める術はない。

 獣頭人身。

 そんな生き物は、神話や物語の世界にしか存在しない。

 誰も見たことがない、しかし、確かに人の心の中に存在するもの──

 それが血と肉を(まと)って今、イーヴの目の前にあった。

「大いなる敵」であった。

 (よろい)(たぐ)一切(いっさい)身に付けていない。腰の回りを獣皮(じゅうひ)で巻いただけの姿である。

 そして首の回りには、いくつもの「勇者の護符」が掛けられていた。

 イーヴは全身の血が逆流するような昂奮(こうふん)を覚えた。

「……俺はエク族の勇者イーヴ。ヨルンの息子イーヴだ」

 己の声が震えている。恐れのためではない。畏れと、感動のためである。

「大いなる敵」は、重く、低い(うな)り声を漏らした。

 言葉はない。人の言葉は話せないのではないだろうか。

 だがイーヴの心は伝わったようだ。「大いなる敵」は立ち上がり、脇に置いてあった巨大な両頭斧(りょうとうふ)を手に取った。人にはとても(あつか)えぬであろう巨大な戦斧(せんぷ)である。

「大いなる敵」は戦斧を構えた。

 その足元が血で濡れていることにイーヴは気づいた。

 夜空の一角、脇腹から血が流れている。右の(もも)にも槍で(つらぬ)かれたと(おぼ)しき傷がある。そこからもやはり血が流れ、洞窟の床へと(したた)っていた。

 イーヴは「大いなる敵」へと槍を突きつけた。

「『大いなる敵』よ。俺はあなたを(たお)さなくてはならない。なぜならあなたはエク族の戦士たちを殺し、我が父の生命(いのち)を奪ったがゆえに」

「大いなる敵」が咆吼(ほうこう)した。洞窟の壁が震えた。瀑布(ばくふ)のように夜空が迫ってきた。

 戦斧を振り上げつつ突進してくる。イーヴは左に回り込んだ。足の傷を見越し、「大いなる敵」の右側へと移動したのである。

 身体(からだ)が浮き上がるほどの衝撃が足裏に伝わった。「大いなる敵」が打ち込んだ(おの)が、洞窟の岩盤を叩いたのである。

 石の破片が降ってくる。尋常ではない。いや、人間の域を遥かに超えている。

 打ち合いは不可能であるとイーヴは悟った。

 ()えた。(たけ)る雄牛の咆吼である。

 常軌(じょうき)(いっ)した速度で戦斧が(ふる)われた。横薙(よこなぎ)一閃(いっせん)である。姿勢を低くしてイーヴは(かわ)した。爆風が同時に通り過ぎる。太刀風(たちかぜ)などではない。爆風である。

 戦斧を躱した姿勢のまま、イーヴは槍を突き出した。「大いなる敵」は戦斧の()で穂先を弾いてこれを(ふせ)いだ。死角から突き出したにも(かかわ)らず(ふせ)がれたのだ。

 尋常でないのはその膂力(りょりょく)だけではなかった。これは繊細さすら感じさせる卓越した武器の扱い方である。

 恐るべき技倆(ぎりょう)であった。

 ――やる!

 イーヴは猫のように後ろに退()がって、やや低く構えた。

 相手は大柄である。いや巨体である。下からの攻撃が有効だ。

「大いなる敵」は荒い息を吐きながら、イーヴに歩み寄ってきた。足取りが少し頼りない。

 歩みの後には、血が点点と続いた。

 本来ならば、万全の状態である時に(いど)むべきなのだろう。貴族たちなどはそう考えるはずだ。だがエク族はそう考えない。

 挑戦を(かか)げた時に、「大いなる敵」は迷わずそれを受けた。斧を手に取り、立ち上がった。

 ならば決まりだ。戦うことになんの問題もない。避けるべきならば拒否の意を示せばよいのだ。

「大いなる敵」はそうしなかった。たとえ言葉は通じなくとも、不屈の戦意は確かにイーヴに伝わったのだ。

 イーヴの少し手前で「大いなる敵」は立ち止まった。巨大な戦斧を構えた。足幅を広く取った。

 ――来る!

 思った瞬間、戦斧が打ち込まれてきた。身を退()いてイーヴは(かわ)した。二撃目が来た。これも躱した。三撃目が来た。イーヴはしゃがみ込んで躱した。

 戦斧が巻く風が(すさま)じい。爆発するような音がするが、しかし洞窟に激突させることを避けているようである。破片が降り注いでこないからだ。

 小刻みな連撃なのだろう。これでも。

 己など(かす)っただけで死んでしまいそうであるが。

 足元を払う一撃が来た。

 イーヴは鋭く飛び上がると同時に、槍で突いた。「大いなる敵」は首を大きく振ってこれを(かわ)した。巨体とは思えぬ身の(こな)しの良さである。

 イーヴは足で戦斧を踏むようにして横に飛んだ。「大いなる敵」が己を壁際に追いつめようとしていたことなど、()うに判っている。

 濡れたような黒い瞳がイーヴの方を向いた。雄牛の瞳。何を考えているのだろう。

 戦斧を大きく振りかぶった。咆吼(ほうこう)を上げると、真上からイーヴに打ち下ろしてきた。

 後ろには躱せない。咄嗟(とっさ)にイーヴは斜め前に出るようにして戦斧を躱し、同時に「大いなる敵」の(こぶし)目懸(めが)けて槍で突いた。が、これも躱された。

 なんと戦斧から手を離したのである。自由になった巨大な腕が、物凄い早さでイーヴに伸びてきた。

 (あわ)てて身を退()こうとしたが、遅い。太い指が胸倉(むなぐら)(つか)んでいた。

 ――しまった!

 思う時にはもう、イーヴの足は洞窟の床から離れていた。イーヴとて屈強な戦士である。それを易易(やすやす)と吊り上げた。今までの戦い振りからすれば当然の膂力(りょりょく)ではあるが、驚嘆している場合ではない。

「大いなる敵」は()えながら、宙高く持ち上げたイーヴを、今度は地へと叩き付けようとしているのだ。

 下は石の床である。落とされれば命はない。

 考えている場合ではなかった。イーヴは槍を投げ捨てると腰の剣を抜き、それで「大いなる敵」の手首を引き切った。獣皮に刃が食い込む感触がした。この皮自体が、「大いなる敵」の身を守る(よろい)なのだ。人の皮膚とは分厚さが違う。

 叩き付けられる途中で、その動きが狂った。イーヴは体を返し、両脚で地を蹴るような仕草をした。靴の(かかと)が石を叩く音がして、衝撃が(ひざ)から(もも)までへと伝わった。

「ぐっ!」

 イーヴは(うめ)いて、床に手を着いた。だが立ち上がることができない。ともかく攻撃されないように素速く離れた。

「大いなる敵」が()えている。

 洞窟の壁にその影が(おど)っている。手首を押さえ、苦痛の吼え声をあげ続けている。

 膝から下に力が入らない。イーヴは壁に手をついて立ち上がろうとした。骨が折れているのを恐れたが、(さいわ)い骨折も捻挫(ねんざ)もしていないようだった。

 立ち上がると壁に背を(もた)せ掛けた。

 ふと右側に、がらくたのような物が堆積(たいせき)しているのに気づいた。何かと思ったが、すぐに判った。クリステルが作った棚に違いない。叩き壊されたというよりも、経年(けいねん)により自然と崩れたようである。

 (ひらめ)くものがあった。イーヴはしゃがみ込み、がらくたの山を(あさ)った。

 探し物はすぐに見つかった。期待外れの姿で。

 クリステルが使っていたナイフだ。だが、ぼろぼろに()びてしまっている。とても武器としては役立ちそうになかった。

 だが一瞬だけ機会を作るためならば、使えるかもしれない。

 幸い腐蝕(ふしょく)が進んではいるものの、形を(たも)っている。イーヴはクリステルに感謝した。

 ナイフを(てのひら)の中に握り締める。軽く床を蹴って足の感触を確めた。

 イーヴは立ち上がった。「大いなる敵」は手首に布を巻き終え、戦斧を拾いあげていた。

「始めるか……」

 両手で剣の柄を握るようにした。その内側にナイフを隠している。

「おおおおおおっ!」

 イーヴは大きく踏み込んで剣を振った。金属音が鳴った。「大いなる敵」は(なん)無くイーヴの攻撃を戦斧で受けたのだ。構わず二撃目を繰り出すイーヴ。再び金属音。これも受けられた。

 剣先が流れた。大きな隙を見せたことになる。

 ――来るか?

 しかし「大いなる敵」は乗っては来なかった。何か感づいているのだろう。

 戦斧を突き出し、押し出すようにしてイーヴと距離を取ろうとした。

 その瞬間イーヴは足を上げ、戦斧に跳び乗った。咄嗟(とっさ)の思いつきである。同時に手の内のナイフを「大いなる敵」の顔目懸けて投げつけた。

「大いなる敵」が悲鳴をあげた。

 戦斧を放り出し、顔を(おお)っている。イーヴは戦斧と同時に床に降り立った。「大いなる敵」は警戒して、自由な方の腕を大きく振り回した。

 大きな腕を()(くぐ)るようにして避けながら、イーヴは剣を腰だめに構え、踏み込んで突きを入れた。

「大いなる敵」は絶叫をあげた。

 右足の傷口を狙った突きである。ほぼ同じ場所に攻撃を受けたのだ。(たま)るまい。

 イーヴは深く剣を突き刺すと、そのまま()から手を離して距離を取った。

 薄暗い床の上を、素速く目を()わせる――あった。

 イーヴは先程投げ捨てた槍の元へと走り、拾い上げた。

「大いなる敵」が()えた。明らかに怒りが(こも)った吼え声である。

 鼻の近くから血を流している。ナイフは傷を与えることに成功したようだった。再び戦斧を構えると、イーヴへと間を詰めようとする。

 しかし蹌踉(よろめ)いた。たたらを踏んだ。その足元に血が拡がってゆく。

 今の攻撃により、右足の傷はかなりのものになっている。

 動きをかなり殺せたであろうし、もはや長くは戦えないだろう。

 (もっと)も、もしも人間ならば、という類推からの判断だが。

 呼吸も荒い。だがイーヴを見つめる眼差しに変化はない。

 元より雄牛の目である。何を考えているかは判らないが、戦いを始めたときと同じく変化なしなのだから、これはまだ闘争心を燃え立たせていると見た方がいいだろう。

 イーヴは槍を構え、自分から見て「大いなる敵」の左側、怪我をしている側へと回り込もうとした。

 しかし「大いなる敵」の方でもそんなことはお見通しらしく、イーヴに合わせて体を回してくる。広いとは言っても洞窟なので、すぐにこれ以上回り込むことはできないという位置まで来た。

 その時である。

「大いなる敵は」やおら戦斧を(かつ)ぎ上げると、イーヴに向かって投げてきた。これにはイーヴも驚いた。避けるためにはさらに左へと回り込まなくてはならない。だが考えている(ひま)は無い。イーヴは前に出るようにして戦斧の激突を回避した――目の前に黒いものが、ぬうっと現れた。

「大いなる敵」の腕であった。危険を感知したときには手後れになっていた。丸太のような腕にしたたかに殴られて、イーヴは吹き飛ばされた。

 洞窟の壁に当たって軽く跳ね返り、床へと落ちた。殴り飛ばされたことは判っていたが、尋常な一撃ではない。全身がばらばらになったかのようで、動くことができなかった。

 どれだけの傷を受けたのかも判らない。

 立てない。イーヴは(うめ)いた。腹と胸に激痛が走った。内臓でなければいいが。

 ――「大いなる敵」を斃すまでは、俺は死ねない。

 立たなければ、しかし身体(からだ)が動かない。「大いなる敵」が近づいてくる。イーヴは焦った。

 なんとか手を着いて身を起こそうとした途端、息が止まるほどの痛みに襲われた。

 それで判った。骨だ。おそらく(あばら)が幾本か折れている。

 つい先程は優位に立ったと思ったものが、今はこの(ざま)か……。

 笑うことすらできない。油断したつもりはなかったのだが。

「大いなる敵」が近くに立った。イーヴは首を(つか)まれた。そのまま吊り上げるようにして立たせられた。

「かはっ……」

 息が詰まる。「大いなる敵」は力を(ゆる)めない。持ち上げられてゆく。

 その時イーヴと、そしておそらく「大いなる敵」とは、同時に驚いた。

 イーヴは己の右手に。その感触に。「大いなる敵」はイーヴが右手に握っている槍に。

 あの衝撃の中、槍から手を離さなかったのだ。偶然であろう。だがイーヴにとってはそんなことはどうでも良かった。

 反射的に槍を突き刺した。胸に向かった穂先は、しかし「勇者の護符」に当たって(はば)まれ――

 そして、「大いなる敵」の首筋へと吸い込まれた。

 (くぐも)った(うめ)き声が聞こえた。イーヴは槍を押し込んだ。首に回された指に力が掛かった。

「ぐあ……」

 目の前が暗くなる。イーヴの足は完全に床を離れていた。

 だがそれでも、イーヴは渾身(こんしん)の力を振り(しぼ)って槍を深く突き刺していった。

「大いなる敵」は首を絞める力を弛めない。イーヴを離して槍を抜こうとはしない。

 どちらが先に息絶えるかの(こん)比べだった。

「ぐおお……」

 耳鳴りがしてきた。もう何も見えない。両腕の感覚もない。

 それでも槍を押し込んでいく。押し込んでいこうとした。

 不意に自由になった。イーヴは床に落下した。激しく()き込んだ。激痛が走った。折れた骨が(きし)むような感じがした。(うな)るように(うめ)きながら、死にかけた虫のように丸まった。

 (ようや)く動けるようになった時、イーヴは目の前の巨体を見上げた。

 動かない。

「大いなる敵」は疲れたような立ち方のまま、固まっている。

 首からの出血が(おびただ)しい。胸を流れ、腹を流れ、腰を(おお)う皮にまで、血が(あふ)れるほどに染み込んでいる。

 星々が輝きを失っていた。

 その体に輝いていた天の星々は、流れる血に(おお)われて輝きを失っていた。

 イーヴは洞窟を見廻した。武器を探した。

 最初「大いなる敵」が(すわ)っていた辺りで剣を見つけた。エク族の剣だった。

 イーヴは剣を拾い上げ、「大いなる敵」を見つめた。

「大いなる敵」よ――。

 ――俺は、今あなたを斃す。

 蹌踉(よろめ)きつつも、イーヴは剣を構え、「大いなる敵」の胸元に体当たりをした。刃が(うま)まっていく。狙いは心臓。だがその鼓動は、もはや止まっているようだった。

 イーヴの攻撃を受けて、「大いなる敵」はゆっくりと倒れていった。巨体が背中から床に倒れていく。

 地響きのような重い音がした。

「大いなる敵は」手足を拡げたような恰好(かっこう)で倒れていた。

 戦いは終わった。

 イーヴは深い息を吐こうとして、そしてやはり痛みに(うめ)いた。

「大いなる敵」の首に掛けられた「勇者の護符」。これがなければ槍は胸に刺さり、ひょっとしたらイーヴが先に死んでいたかもしれない。

 血まみれの護符たちを、イーヴは静かに見つめた。

「さあ……帰ろう」

 語りかけるように(つぶや)いた。

 剣を拾い上げた近くには、他にも「勇者の護符」が(うずたか)く積み上げられていたが、とても今のイーヴに持ちきれる量ではなかった。

 イーヴは「大いなる敵」の(つの)を切り取った。一本を(ふところ)に入れた。もう一本は――父と一緒に埋めた。

 墓を掘るのはかなりの労力を必要としたが、イーヴは()()げた。これだけはしなくてはいけないと思ったからだ。

 角を一緒に(ほうむ)る替わりに剣帯をもらうことにした。何となく、そうすることを望まれているような気もした。

 それらの作業をしている間、不思議と日が沈むことはなかった。

 作業が終わると空白の時間がやってきた。

 これからどうすればいいのか。まずは傷を治すことだ。(さいわ)い内臓に怪我はないようだし、骨も綺麗に折れているから、治りは早いだろう。

 それからかつてのように生活の準備をしなくてはならない。「大いなる敵」の屍体と、血を片付けなくてはならないが、こちらは急ぐ必要がある。怪我の治りを待っている余裕はない。イーヴは溜息を吐こうとしてやめた。あまり大きく息をすると、痛い目を見ることになる。

 洞窟の入口近く、父の墓の(そば)で、イーヴはぼんやりと(すわ)っていた。

 虚脱するとはこういうことを言うのか――。

 そう思ったとき異常に気付いた。

 己の影が、左右に分かれている。

 イーヴは右を向いた。(かたむ)きかけた太陽が、ゆっくりと地へと向かっている。反射的に左を向いた。ずきりと痛みが走ったが無視した。

 そこにも太陽があった。同じように、地に沈んでいこうとしていた。

「最初に太陽が二つの時に入山してしまったあなたは、今一度、普通の状態で入山しても、自力で下山することは不可能になっています」

 クリステルの言葉が(よみがえ)った。

「ジャン・ザ・ビオンから脱出するためには、入った時と同じような状況で下山する必要があります」

 そうだ。クリステルは確かにそう言った。なればこそ、己は下山の見込みがないのだ。

 なぜなら「裁きの(とき)」は滅多(めった)にあるものではない。数世代に一度という珍しい出来事なのだから。

 入山したときに起こったそれが、なぜ今ジャンザビの中で見ることができるのか?

 イーヴには解らなかった。しかし急がなくてはいけないことだけは判った。

 イーヴは立ち上がると荷物を拾い上げた。最初に投げ出したままになっていた荷物だ。

 墓穴を掘るのに使用した剣を鞘に押し込むと、荷物を持って歩き出した。

 穴を掘ったり作業している間には全く動かなかった癖に、いざ動き出すとなると太陽の動きは速かった。上天を過ぎると一気に大地を目指して駆けてゆく。

 覚束(おぼつか)ない足取りで、しかし必死にイーヴは山を下った。己が入山してきた場所を目指して。

 痛みと疲労が何度も襲ってきた。身体(からだ)だけでなく、精神をも打たれているようだ。

 だがイーヴは歩みを止めなかった。何も考えず、ただひたすら山を下り続けた。

 時間も判らない。音も消えた。

 最後の茂みを掻き分けて前に出ると、そこは境目(さかいめ)だった。荒野と――ジャンザビとの。

 己が入山したのは、ここからである。

 左右には今まさに沈まんとしている太陽がある。

 イーヴは荒野に踏み出した。

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