伝説の敵

エピローグ

 始めは、村の連中は大して驚きはしなかった。イーヴがジャンザビに入らず、引き返してきたと思ったのだという。

 ぼろぼろの恰好(かっこう)を見ても、獣か何かと戦ったのかという程度の認識であったらしい。

 最初に事情を話したのは母である。母はイーヴが帰ってきたことで泣き、剣帯を見せるとさらに泣いた。

 村が大騒ぎになったのはその後である。

 長老の前に呼び出され、イーヴは詳しい話をすることになった。

 緊張をしたわけではないが、イーヴは長い話が苦手である。相手に解るように話そうと思うほどに舌が上手く動かず、何度も前後したり、補足したりしながら訥訥(とつとつ)と話した。

 長老はイーヴの(つたな)い話をじっと聞いてくれた。

 聞き終えると瞑目(めいもく)して天井(てんじょう)を見上げた。

「偉大なる勇者よ――」

 声には震えがあった。

「我らの戦いは終わった」

 (おごそ)かな宣言だった。

 こうしてイーヴの戦いは、エク族勇者たちの戦いは、終わった。

 イーヴは(しばら)くは怪我の治療に専念するつもりだった。

 後のことはそれから考えればよい。

 だが何よりも優先すべきことが一つ残っていた。

「旗を?」

 長老は不思議そうな顔をした。

「青い旗を。三角に切った青い旗を村のあちこちに立てて欲しい」

「構わないが、なぜだな?」

「約束をしたんだ」

「山の向こうで会ったという人にか?」

「ああ」

 長老はそれ以上質問をしてはこなかった。イーヴの言う通りにすると約束し、その日の内に村のすべてへ(しら)せを飛ばした。

 翌日から作業が始まった。怪我があるのでイーヴは手伝わなかったが、皆喜んで働いてくれているようだった。

 すべての旗が立つのに一週間かかった。

「どれくらいこうしていればいいのか?」

「さあな……」

 イーヴは苦笑した。約束はしたものの、クリステルが何を考えていたのかは判らない。

 そもそもクリステルは、レイモンは、彼らの家は今どうなっているのだろう。

 ヴァルカンティがあることは知っている。エク族の土地もその領内に隣接しているからだ。

 そして隣接領地を治める貴族が居ることも知っている。交易や裁判などで行き来があり、エク族とは親しくしている。かつてヴァルカンティ王が、エク族から税金を取り立てようとした時には猛反対をしてくれたという。

「俺にも判らん」

 長老は目を丸くしたが文句は言わなかった。

 それから三日後、着飾った貴族の使者が村にやって来た。

 見たことのある紋章だった。(くだん)の貴族、エク族に隣接する領地のバシェレリーという貴族である。

 

 勇者イーヴにお会いしたい。

 

 使者はそう言ったという。胸騒ぎがした。

 村の者たちはイーヴのことが、「大いなる敵」のことが、貴族の間で取沙汰(とりざた)されているのだろうと言ったがイーヴはそう思わなかった。

 一団はイーヴの家に来た。家の前には兵士たちが列を作り、代表が家の中へと入ってきた。

「イーヴ様であらせられますか」

「ああ」

 イーヴは(うなず)いた。

「クリステルからの使いだな」

 言ってやると、使者の顔に驚愕が浮かんだ。何か言おうと口を動かしたが、言葉にならないようだ。

 使者はほとんど蒼白と言ってもよい顔色になっていた。

 ぎこちない所作で膝を着くと、(うやうや)しく(はこ)を差し出した。イーヴも無言で受け取った。

「帰っていい」

「は、しかし……」

「何も頼むことはない。よく来てくれた。礼を言う」

 使者に向かって微笑んだ。わずかの間、使者は(ほう)けたようにイーヴを見ていたが、すぐに顔つきを改めた。

 使者は畏怖(いふ)するような眼差しでイーヴを見ていた。

「……(かしこ)まりました。では私目(わたくしめ)はこれにて失礼致します」

「ああ」

 それだけが役目だったと言うように、使者の一団は来た時と同じくらい速やかに帰って行った。

 村の者たちは話を聞きたがった。だがイーヴは丁重(ていちょう)に断った。誰にも話すつもりはなかった。

 一人になってから(はこ)を開いた。

 中には、古びた羊皮紙が入っていた。

 

 親愛なるイーヴ。この手紙を読んでいるということは、あなたは無事に戻れたのですね。

 そして「大いなる敵」を(たお)された。まずはお(よろこ)び申し上げます。

 過去に居るわたくしにとっては、遠く離れた未来のこと、あの別れの後、何があったのか、あなたが何と出遭(であ)ったのか、「大いなる敵」とは何であったのかなど、興味は尽きませんが、どれも知る(すべ)の無いことです。

 あなたが無事に使命を達成して、こうしてわたくしからの手紙を読んでくれているということが(うれ)しい。そのことだけで良しとしましょう。

 イーヴ。わたくしは(とし)を取りました。

 信じられないことかもしれませんが、この手紙を書いている時点で、もう孫が居るほどの老人です。あなたの知っているわたくしは、すでに遠い過去のものとなってしまいました。

 あの別れの後、わたくしは何日も泣き暮らしました。(うら)(ごと)を言うつもりはありませんが、それほどの悲しみでした。それまでの暮らしに戻るまでには長い時間がかかりました。

 陛下も父も、周りの人々は皆、大変良くして下さいましたが、あなたとの日々を忘れ去ることはできませんでした。

 セリーヌ姫はエーメ卿とご結婚なさいました。なんと、バルドール家から(とつ)がれたのですよ。

 そしてわたくしはセルジュと結婚いたしました。ですからセリーヌ姫とはご親戚ということになります。今でも親しくお付き合いをしております。ご夫妻にはすべてをお話し致しました。

 エーメ卿はあなたとの決着を付けられなかったことを、今でも()やんでおられます。なんだか子供みたいでおもしろいでしょう?

 約束通り、セルジュにはあなたの言葉を伝えておきました。「感謝する」とのことでした。

 彼は死ぬまで、あなたのことを案じておりました。「大いなる敵」と出逢えたのか、無事に(たお)すことができるのか、よく心配しておりました。

 王のご采配(さいはい)により、バルドールとギュベールは一つの家となりました。

 わたくしの他には父に子はおりませんし、養子を取ってまで家名を残すつもりもなかったようです。わたくしの結婚を機会に、すべての財産をひと(まと)めにして、わたくしたち夫婦のものとして下さいました。

 家名も改めました。バルドール家としては抵抗があるかと思いましたが、セルジュは(こころよ)く応じてくれました。今ではバルドールもギュベールも、公式の書類にしか記されることはありません。子供たちは(もっぱ)ら新しい家名を名告(なの)っておりますし、孫もそうです。多くの貴族たちと同様、バルドールもギュベールも、家の歴史を表す単なる記号となってしまうのでしょう。

 新たに追加される領地を選ぶ時、わたくしたちは迷わずトゥワイユの土地を選びました。そう、あなたの住む土地、エク族の土地に隣接する領地です。

 そしてその新領地を居場所とすることにしたのです。

 以来数十年、わたくしたちはトゥワイユの土地を守り続けております。これから先も、そうでしょう。

 わたくしたちの子供、孫、そのまた子供たちも、きっとこの土地を守っていってくれると思います。

 ありがとう。イーヴ。

 あなたに出逢えたことは幸運でした。恋をしたことも、それに破れたことも、今振り返ってみるとすべてが宝石のように輝いて見えます。

 恐れを知らぬ娘時代のことですから、思い出すだけで恥ずかしいこともたくさんあります。

 それでもこうしてあなたのことを想うと胸が熱くなります。

 あなたはわたくしの青春でした。宮廷の華やかな生活よりも、あなたと過ごした時間こそが、わたくしにとっては何よりも懸け替えのない記憶なのです。

 ありがとう。イーヴ。

 わたくしたちが再び会うことはもう無いでしょう。わたくしたちはお互いに、相手の記憶の中にのみ生き続けることになるのでしょう。

 あなたの中でのわたくしはどんな姿ですか?

 わたくしの中でのあなたは、海を見ていたあなたです。猛猛(たけだけ)しくエーメ卿と闘っていたあなた、ジャン・ザビ・オンでわたくしたちを守ってくれたあなた、そして舟の中で緊張していたあなた……様様(さまざま)な姿が想い出されますが、いつも一番に想い出されるのは、テラスに立って海を見ていたあなたの姿です。

 身辺が落ち着かれた後には、今一度海を見にゆかれてはいかがでしょうか。

 父の(やしき)で眺めたそれとは違っているかもしれません。わたくしたちの時代と、あなたの時代とでは海も少しは変わっているかもしれません。

 それでも、海は海でしょう。

 年寄りの繰言(くりごと)のようになってきてしまいましたね。もうしわけありません。

 今、わたくしを呼ぶ声がしました。これから孫の結婚式なのですよ。晴れの日にこのような手紙を書くのはどうかとも迷いましたが、ずっと決めていたのです。

 わたくしが子供を産み、その子供がまた子を産み、その子供が愛する人と結ばれる姿を見よう、それを確認するまでは生きようと。

 そしてその日に、あなたに手紙を書こうと。

 イーヴ。わたくしは幸せです。こんなにも多くの愛する人たちに囲まれて、(すこ)やかに暮らしています。

 夫には先立たれましたが孤独ではありません。最近では昔のようにジャン・ザ・ビオンのことなど調べたりして、穏やかに過ごしています。目は少し悪くなりましたが、長い時間でなければ頑張れます。眼鏡(めがね)もありますし。

 あまり書くと今の姿を想像されてしまいますね。用心しなくてはいけないかしら。

 後どれくらい生きられるのかは判りません。

 ですがきっと、最後までわたくしは幸せでしょう。そう信じています。

 今ではあの日、あなたに出逢えたことがすべての始まりだったのだと思っています。お世辞(せじ)ではありませんよ。本当のことです。

 本当にありがとう。あなたの幸せと健康を、心からお祈りすることにして筆を()きます。

 いつまでもお健やかに──。

クリステル

 

 イーヴは手紙を読み返した。二回目を読み終えると、三度目に入った。

 そうして幾度も読んだ。何度読んだか己でも判らなくなった頃、(ようや)くイーヴは羊皮紙を(はこ)に戻した。椅子に深く腰掛けて目を(つむ)った。

 不思議なことに、花の香りを()いだ気がした。

 あの日、クリステルと歩いた庭で嗅いだ花の香りだ。

 優雅に、美しい所作(しょさ)で花々を見て回っていたクリステルが思い出された。

 彼女はあの生活を続けたのだろう。それでいい。そうあるべきだ。

 ――幸せに、なったんだな……。

 良かった。

 本当に、良かった。

 何も言葉は出てこなかった。思いだけが静かに、身体(からだ)(ひた)していた。

 翌日、イーヴは村を出た。

 海を――港町ブランドシェを目指す旅だった。

 怪我はまだ治っていない。心配して(とも)()いて行くと言った者たちもいたが、イーヴはこれも丁重(ていちょう)に断った。

 一人で出発した。途中で道を()れた。

 ジャンザビを目指した。

 馬である。半日もしない内にジャンザビの姿が目に入った。

 緑少ない白茶けた荒野の直中(ただなか)に、ただ一点緑に(あふ)れたその姿を、イーヴは遠くから見つめた。

 日差しは強い。

 ここはヴァルカンティとリンドベリの古戦場。二百年前、両国の国境付近だったところだ。その戦いを、歴史的な合戦を、イーヴはこの目で見た。

 陽炎(かげろう)が立つほどの陽気(ようき)の中、神秘の聖山がくっきりと姿を見せている。

 地に落ちた影は一つである。

 ふと――荒野を彷徨(さまよ)う戦士の幻影が見えた気がした。

 燃える陽炎の中、蹌踉(よろめ)くようにジャンザビを目指す、ジャンザビへと入っていく、若い戦士。

 四肢(しし)には力を。心には勇気を。そして胸には「勇者の護符」を――。

 それはかつての己の幻影であった。(つか)の間、幻影が今の己と重なりあう気がした。

 まるで永遠のように。

 イーヴは(かす)かに微笑んだ。

 

 もう――ジャンザビに入ろうとは思わない。

 

 静かな気持ちだった。どこまでも拡がって、そして透明で――何だか泣きたくなるような……。

 馬が鼻を鳴らした。

「すまん。待たせたな」

 イーヴは笑って、馬の首を()でてやった。この暑さでは馬も(つら)かろう。

「行こうか」

 海を見ようと思った。

 あの日、クリステルと共に眺めた海を。あの青い無限の(きら)めきを。

 海の燦めきが、優しい面差(おもざ)しと重なる。

 胸の想いが、(あこが)れとなって風に乗る。

「走れ!」

 馬を走らせた。ジャンザビが遠離(とおざか)る。

 イーヴは振り返らなかった。その目はもう、(はる)かな海を見ていた。

 

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