伝説の敵 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大概《たいがい》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)心|惹《ひ》かれた [#]:脚註 傍点の位置の指定、改頁など (例)[#改頁] 【ルビを削除したい場合】 正規表現が使えるエディタ等で、 《.+?》 で、置換削除して下さい。 また、 | も、置換削除して下さい。 ------------------------------------------------------- [#改頁] 第一章 第一節  子供の頃から「大いなる敵」の話を聞いて育った。立ち向かわんとする戦士を見送ったこともある。  父もそのひとりだった。母の腕に抱かれながら見送った。  ここではないどこかを見つめる父の眼差しを、母から伝わってきた憎しみとも悲しみともつかぬ感情を、イーヴは今でもはっきりと憶えている。  女達の歌う歌を、老人達が鳴らす楽器の音を憶えている。  腕を拡げて舞う父の姿を忘れることはない。  そうやって挑戦者を壮行するのは同じ村の者たちばかりではない。挑戦者が現れたとなれば、近在の村からわざわざやってくる者もいる。そういう者は大概、かつて身内や親しい者を送り出した経験があるのだという。昔、イーヴも友人の兄を壮行したことがある。  しかし送り出した戦士たちが帰ってきたことは一度も無かった。  イーヴたちエク族の間には伝説がある。  聖なる山ジャンザビには、「大いなる敵」が棲《す》んでいるという。  その姿を見た者は誰も居ない。  誰ひとりとして生きて帰ってはこなかったからである。  ジャンザビに棲む「大いなる敵」は、長い年月に亙《わた》り、イーヴたちエク族の戦士を奪ってきた。  ただの戦士ではない。 「大いなる敵」に挑むのは、一際《ひときわ》傑《すぐ》れた戦士である。勇者と認められた者でなければ、「大いなる敵」への挑戦を認められることはない。  とはいえ勇者であっても誰もが「大いなる敵」に挑むわけではない。何より、「大いなる敵」に挑むのは無謀なことであるという認識がある。  エク族は決して臆病な部族ではない。傑れた戦士を出すことで近隣諸国に名の聞こえた部族である。  慎重さと勇気は並立しうる。己が身の丈を知ることは尊いことである。それらは決して怯懦《きょうだ》ではない。  女たちは「大いなる敵」の話をしない。口に出すようなことではないと考えている。  彼女らにとって「大いなる敵」とは、夫や恋人、息子、あるいは兄弟を奪う、恐ろしい魔物でしかないからである。  対して男たちにとって「大いなる敵」とは、単なる魔物以上の、恐ろしい力の根源であった。そこには恐怖と同時に、いや、むしろ崇拝に近いような感情がある。無謀極まりない行為ではあっても、「大いなる敵」に挑むということには、ある種の魔力があるのである。  故《ゆえ》にこそ、家人族人の制止を振り払っても名のある戦士たちが挑戦を繰り返すのであった。  イーヴも例外ではなかった。 「大いなる敵」の話を幾度となく聞き、帰ることのない戦士を見送ってもなお、いや、それがゆえなのか、「大いなる敵」に心|惹《ひ》かれた。その心のままに、傍目《わきめ》も振らず、己が身を鍛えに鍛えた。己もまた、「大いなる敵」に挑戦するのだと。  日々の修練は、イーヴの顔つきを精悍なものにし、その肉体を逞《たくま》しく緊縮《ひきし》まったものにしていった。エク族の地の強い陽射しは、イーヴの金髪に深味《ふかみ》を与え、その肌を小麦色に焼き上げていった。  そんなイーヴを心秘かに慕《した》う女は、少なからずいた。しかし、女たちの気持ちとは裏腹に、イーヴの心は常に「大いなる敵」に占められているのだった。  六日前のことである。遂《つい》にイーヴは村を発《た》った。  聖なる山ジャンザビに向かうことを告げると、村の者たちは皆、どこか納得したような様子だった。母でさえも。 「いつかはこうなると思っていたよ」  そう言った母の顔には、諦めの微笑が浮かんでいた。胸に痛い微笑だった。  後ろめたさに、母の顔をまともに見ることができなかった。父がいなくなってからの母を知っている。不自然な笑顔しかできなくなった母を知っている。それなのに、こんな親不孝ができる己というものが、我がことながら不可解であった。  強く反対する者はひとりもいなかった。それは、今までのイーヴの修練を近くで見ていた所為《せい》もあるだろうし、イーヴの父がやはり同じようにジャンザビに向かい、そして還らなかったことを知っていたからだろう。 「山までの道は遠い」  長老は言った。もし、一週間経って山に受け入れられることがなくば、村に帰ることを約束してはくれまいか……。  消極的な願いだったが長老の気持ちは理解できた。  村のためだけではない。自分のため、老いた母のため、イーヴの無謀な挑戦を何とか未然に終わらせてしまおうと思っているのだろう。  イーヴは諒承《りょうしょう》した。  ジャンザビを目指して歩き、一週間かけて中に入れなければ村に戻ってくると。  聖なる山ジャンザビは「大いなる敵」が棲まうのみならず、それ自体が神秘を持っている。  緑少ない白茶けた荒野の直中《ただなか》に在って、ただ一点緑に溢《あふ》れている。  それは誰もが訝《いぶか》しむ光景だった。  そして青青としたその姿が見えてもなお、辿り着けるとは限らぬ山なのだ。  ある者は何の苦もなく山にまで辿り着くが、またある者は一日歩いても近づくことができない。それが何故なのかは誰にも分らぬ。  尤《もっと》も、「大いなる敵」に挑む者でもない限り、辿り着いても山中に入ることはない。精精《せいぜい》が山の周囲を歩いて帰ってくるだけであった。  今までにもイーヴは山に近づいたことがある。それらの時でも長くて三日、大抵は苦もなく到着したものだから、いかにジャンザビが神秘の聖山であろうとも、まさか一週間近くも歩かされることはないだろうと思っていた。  だが今、遂に「大いなる敵」に挑戦すべく向かってみると、運命の皮肉か、イーヴは延延と荒野を歩かされているのであった。  前進していることが感じられぬ。  変化に乏しい荒野をどれほど歩いたことか。  いつしか乾いた大地に伸びる己の影が、二つに分かれて見えていた。  己の影だけではない。よくよく見れば産毛のように生えている草も、石さえも、いや、見えるもの全てが二つの影を地に伸ばしている。  光源が二つなければできるはずのない影である。訝《いぶか》しんで辺りを見回す。白日《はくじつ》に晒《さら》された荒野が拡がっている。光源どころか人影も無い。陽炎《かげろう》だけが揺らめいている。  イーヴは息を呑んだ。  かつてこの大地は雨よりも多く血を吸っていたという。ここは二つの大国、ヴァルカンティとリンドベリの、かつての国境地帯であった。開けた荒野は両軍がぶつかり合うには恰好《かっこう》の場所であったろう。  ――何があってもおかしくはない……か?  影が二つになった原因を、古戦場に附きものの魑魅魍魎《ちみもうりょう》に求める。  陳腐な発想だ。幼稚と言ってもいい。  魑魅魍魎などあって堪《たま》るか。  第一、そんなものが顕《あらわ》れるにはあまりにも早過ぎる。昼食を終えたのはつい先程のはずだった。  その証拠に、陽はまだ高く……  と、群青色の天を見上げて、目を瞠《みは》った。  太陽が二つある。  目を瞬《しばた》き、己の手指に目を落とす。十本ある。腰に佩《は》いた剣を抜き放つ。一直線の白刃が現れる。二重にぶれたところはどこにもない。目がおかしくなったわけではないようである。  二つに分かれた己の影と、双子のような太陽を交互に眺める。そうして何度も繰り返すうちに、あり得可《うべ》からざる光景が、現実のものとしてイーヴの心身に刻まれていった。それと共に、嫌な汗が背筋を滑り落ちていった。  裁きの刻《とき》  百年に一度、神は地上の総《あら》ゆる生命に裁きを降《くだ》すという。二つの太陽で、すべてを隅《くま》無く照らし出し、その種《しゅ》を地上に存在させておいてよいものかどうかを調べるのである。不要な種であると判断された場合、その種は地上から根絶させられる。  無論、伝説である。  生まれてこの方、いまだかつて滅び去った種の話など、イーヴは聞いたことがない。  神殿に暮らす聖職者たちは、口を開けば神の奇蹟と神罰とを語り、暇さえあれば喧伝して歩いているが、実際、そんなものなどありはしない。  いや、あって堪《たま》るかという思いがある。  ──神の裁きも、罰も、ありはせぬ。  そう考えてはいるが、やはりいい気分はしない。  イーヴは、首に下げた「勇者の護符」を衣服の上からぐっと握り締め、行く手に聳《そび》える山を恨めしげに仰ぎ見た。  起伏も緑も乏しい荒野の中、一ヶ所だけこんもり青青としている。  すぐにも辿り着けそうで、それでいてなかなか辿り着けぬ。このままでは本当に約束の一週間を使い切ってしまうかも知れぬ。  心なしか焦りを覚えつつ、イーヴは足を速めた。  二つの太陽にはやはり二つ分の熱があった。  頭から分厚い外套《がいとう》を被っているにもかかわらず、そんなものなど無いかのように、肌がじりじりと焼かれていく。体中の水分がどんどん失われていく。  そのように二つの太陽に炙《あぶ》られながら歩いていると、「神の裁き」の伝説は満更《まんざら》でもない気がしてくるのだった。  元より、昼と夜では別世界ともいうべき寒暖差のある土地である。  緑は少なく、木のような立派な植物は生えていない。つまりここに生えている植物は、厳しい気候の中で生き抜いてきた、謂《い》わば歴戦の兵《つわもの》ともいえるものであった。それが今、どれもこれも地に臥《ふ》して干乾《ひから》びてしまっている。  植物だけではない。先刻、遠目にちらりと見えた狼たちも、えらく気怠《けだる》げな様子であった。イーヴを獲物と認めたとしてもこちらに向かってくる気力は無いように見えた。  有り難いことである。向かってこられたら応戦する気力はイーヴにも無い。無論、気力が充実していたとしても流石《さすが》に狼の群相手にひとりで勝てる気はしないが。  このままでは焼け死んでしまうかも知れぬ――そんな不安が頭を過《よ》ぎる。  聖なる山ジャンザビ以外に、強烈な陽射しを避けられるような起伏や凹凸は、この荒野にはどこにも無い。  干乾びるのが先か。  ジャンザビに辿り着くのが先か。  そう考えて苦笑が浮かんだ。  おとなしく帰ればよいのだ。  ジャンザビは去る者を引き留めはしない。すぐに村に帰り着けるだろう。  だが――  そんなつもりはなかった。  ともかく、ただ歩き続けるより外ない。それが腹立たしい。己が剣をぶつけようのないもの、抗いようのないものを相手にするのはもどかしかった。  ――「大いなる敵」が相手ならば……  イーヴはジャンザビを睥《にら》みつつ歩んだ。  狂おしい思いが、熱気で朦朧《もうろう》とする心身を駆けめぐっていた。  灼熱の空気に赤味が混じり始めた。  二つの太陽が真っ赤に燃え盛りながら、それぞれ東と西に分かれて沈みつつあった。  夕方である。  にもかかわらず、そんな気がしない。  このまま二つの太陽が沈みきって、いつもと変わらぬ夜がやってくるとは到底思えなかった。  沈むと見せて折り返し、再び昇ってくるのではないか。あるいは大地の向こうに沈むとしても、今度は大地自体を煮え滾《たぎ》らせるのではないか。大地が火を噴き、鎔鉱炉《ようこうろ》の鉄の如く赤く融《と》けることがあるという話を聞いたことがある。  そんな想像したくもない想像に否応もなく苛《さいな》まれながら歩いていると、不意に、空気の膜を突き抜けた感覚があった。砂漠で時々遭遇する、あの目に見えぬ壁である。  壁の前後で空気の温度が大きく変わるあの壁である。  どうしてそんなことが起きるのかは分からない。砂の魔神の悪戯《いたずら》だと言う者もある。  イーヴにとってはどうでも良い話だった。  だがこの荒野であの壁に出会えるとは思わなかった。意外な感じがした。  意外だと思う間もなく鋭い閃《ひらめ》きが起こって、イーヴは足許に落としていた目を反射的に上げた。  そして大きく目を見開いた。  目に映ったのは白茶けた荒野でも、乾いた大地でも、干乾びた草でもない。  鮮やかな緑。  草木が青青と生い茂る斜面が、眼前に立ち塞《ふさ》がっていた。  イーヴは声も無く、誘《いざな》われるように、あるいは惰性のように歩みを進めて、立ち並ぶ木々の合間に入り込んだ。  これまでとは別世界の空気がイーヴを包んだ。  砂埃《すなぼこり》にまみれた鼻孔の中を青臭い草葉の匂いが、甘やかな花の香りが通り抜ける。風と己自身が発する音を捉えるだけであった耳に、草木の騒《ざわ》めきが、鳥や虫たちの声が聞こえてくる。  火照《ほて》り、渇《かわ》き、ところどころ水脹《みずぶく》れの浮いた体に、涼やかさと瑞瑞《みずみず》しさがじんわりと滲《し》み込んでいく。それと共に熱気と疲労で朦朧としていた意識が、次第にはっきりとしてきた。  イーヴは身顫《みぶる》いした。  ――ジャンザビに到達した!  歓喜と共に、そう叫び出したい衝動が湧き上がった。  だがその思いをぐっと堪《こら》えた。  喜ぶのはまだ早い。喜んでいる場合でもない。敵の領域に足を踏み入れたのである。  森の奥深くに目を向ければ、夜を前にしてすでに、そこは闇の支配下にあった。闇に彩《いろど》られた草木が手招くように揺れ、嘲《あざけ》るように騒《ざわ》めいている。  イーヴは思わず後退《あとじさ》った。その闇自体が「大いなる敵」であるかのように。 「大いなる敵」とはいかなるものであるか、イーヴは知らぬ。いや、誰も知らぬ。知り得たであろう者は帰ってこなかった。  神殿の聖職者たちはジャンザビを神が降臨する聖地と見做《みな》しており、「大いなる敵」の存在など認めていない。ジャンザビへ向かう者は神を畏れぬ背教者であり、帰ってこぬのは聖域を汚した神罰故であるという。  最近ではそんな部外者の言を真に受ける者もごく少数ながら居るものの、部族の言い伝えに拠《よ》れば、この山には「大いなる敵」が棲《す》みついているという。イーヴはそれを信じている。  信じてはいるのだが、仮に神殿の聖職者たちの言うようにこの山に神が居るのならば、それはそれでおもしろいとも思っている。神に挑むのも悪くはない。  挑むのが神であれ、「大いなる敵」であれ、恐れを感じぬわけではない。死を覚悟してはいるが、死ぬつもりもない。現に、思わず後退ってしまい苦笑した。  ただ、ざわりと鳥肌が立つ瞬間が心地良くはあった。死を前にして生に触れている感じがするというのは妙なものだが。  イーヴは踵《きびす》を返して、道無き道を引き返した。  臆したわけではない。満を持して「大いなる敵」と殺《や》り合いたいのである。  それには闇が深過ぎるし、体調も万全ではなかった。休息を兼ねて朝まで待つのが賢明である。そうしたところで、今更「大いなる敵」は逃げも隠れもせぬであろう。  神の偏愛振りが極端に露《あら》わになっている大地の境目近く、どこからも身を隠せそうな茂みの中に、イーヴは腰を下ろした。  その途端、臍《ほぞ》を噬《か》むこととなった。  休息の体勢を取ることで、意識と肉体を繋いでいた何かが完全に途切れてしまった。地の底に墜落していくような疲労感にどっと襲われた。睡魔に不意を衝《つ》かれた。  肉体は否応も無く屈服させられて、大地に倒れ込んだ。  イーヴは愕然とした。己の情けなさに狼狽した。  敵地である。大鼾《おおいびき》をかいて寝られるような場所などどこにもない。いつでも動ける態勢で、休息するはずであった。  それがなんたる無様であろう。  漸《ようや》くの休息を得て、手前勝手に喜びの声をあげる肉体を叱咤して、イーヴは大地を引っ掻き、草を毟《むし》って、半身を起こした。  手近な樹木に身を凭《もた》せて大きく息を吐いた。頭上を見上げれば、幾重にも重なり合う枝葉の合間に、赤赤とした空が見えていた。  その視界も一瞬にして暗転した。睡魔に瞼《まぶた》が閉じようとしている。  すぐさま目を開いたが、疲労の極みにあって、まんじりともせず夜を明かすなど、どだい無理な話であると悟った。  イーヴは周囲に注意を払いつつ、浅い眠りに就くことにした。    *  朝は何事も無くやってきた。  ふたつの太陽は、沈むと見せかけて再び昇ることも、大地を煮え滾《たぎ》らせることもなかった。  夜明け前に目覚めたイーヴは、たったひとつの太陽が、東の彼方から何食わぬ顔で昇ってくる様を確かに見ていた。  十八年間毎日迎えている、いつも通りの朝である。  結局、「裁きの刻《とき》」とはなんであったのか?  イーヴには皆目分らなかった。  天頂でふたつに分かれた太陽が、世界を真夏よりも熱して東西の彼方に沈んだ――ただそれだけのことであったように思える。  耳に心地良い小鳥たちの囀《さえず》り、朝露と草花の匂いを含んだ清澄な風、すべてを輝かせる朝の柔らかな陽光――世界のそうした美しさに触れていると、この世界の何かが滅びたとは到底思えなかった。  ――なべて世は事も無し。  思わずそんな言葉が浮かぶ。  言うならば、それは勝利宣言である。生者の傲慢、あるいは欺瞞《ぎまん》である。  世界は常に闘争に満ちていて、そこには必ず勝利と敗北が、生と死があるはずであった。  なんとなれば世界の美しさとは、生者の歓声と死者の嘆声が奏《かな》でる和音であるのかも知れぬ。  卒然、イーヴは羞恥に襲われた。己をひどく醜いと感じた。  世界に対する考察など、戦士がすることではない。闘いの中には、考察も解釈も、一切が入り込む余地がない。生か死かという、偽りのない真実だけがそこにある。そんな単純明快さに、イーヴは惹《ひ》かれているのであった。  肉体が疼《うず》いていた。昨日とは違う。いつでも闘える状態にあった。眠りは浅かったものの、若く逞《たくま》しい肉体は、驚くべき恢復力《かいふくりょく》で生気を取り戻していた。  しかし、その前に遣るべきことがある。  咀嚼《そしゃく》していた干し肉を呑み込むと、イーヴは徐《おもむ》ろに立ち上がった。携帯してきた食糧はこれで尽きた。まずは水と食糧を確保することが先であった。「大いなる敵」の探索には、どれほど時間がかかるか判らぬのである。  イーヴは水と食糧の確保を第一に、「大いなる敵」の探索とジャンザビの探査を兼ねて、山中を歩いた。  ジャンザビは大きな山ではない。外周はぐるりと歩いて一日、山麓から山頂までは目測するに半日の距離である。  もちろんその距離に対する時間は、ジャンザビが丸裸の岩山であればの話である。  緑深い道無き道を進むのは、かなり骨が折れた。丈高く強靭な草が行く手を阻《はば》み、さらには地形を誤魔化《ごまか》していた。唐突な高低差に足を取られることは屡屡《しばしば》であった。崖《がけ》に向かって踏み出しそうになったこともあった。  そもそもイーヴはこのような山歩きには馴れていない。生まれ育ったエク族の地は平原であるし、これほど緑には恵まれていなかった。  目にする植物は多種多様で、これまた見馴れぬものばかりであった。木の実や茸《きのこ》なども見かけたが、イーヴが手を出せるようなものはほとんどなかった。得体の知れぬものを食べるわけにはゆかぬ。  動物は、蛇、兎《うさぎ》、鼠《ねずみ》、鳥、鹿などを見かけた。獲物は豊富に居たが、馴れぬ場所での狩猟は手古摺《てこず》った。漸《ようや》く兎を捕まえたと思ったら、兎ほどにも肥えた鼠だった。驚いた。  水場《みずば》は、そこへ向かう動物たちの痕跡《こんせき》を辿《たど》って探索した。大きな水場には行き当たらなかったが、ともすると見過ごしてしまいそうな湧き水が、そこここにあった。  もしかしたら、ジャンザビは地下水の湧出口《ゆうしゅつぐち》であるのかも知れぬ。荒野の直中《ただなか》に繁茂せる緑の秘密は、そこにあるのかも知れぬ。  そう考えたものの、イーヴはジャンザビの不思議にさして興味があるわけではなかった。  神の存在など信じておらぬが、仮に神がいるとして、ジャンザビを創造していたとしよう。だがその御心など、知りようもなければ知ったことでもないのではないか?  神殿であれだけ崇められているくせに、神はいつだって身勝手ではないか。人間のことなど、地上のことなど、何ひとつ考えていやしない。現実を見れば、そうとしか思えぬ。  そんなイーヴからしてみれば、事ある毎に、奇蹟だの神罰だのと言っている聖職者たちは滑稽でしかなかった。  とはいえ己とて彼らとなんら変わらぬのではないかと思う。「大いなる敵」という得体の知れぬものに踊らされて、ここまでやってきたのだ。  イーヴは舌打ちした。  ――また、くだらぬことを考えている。  思考が鬱陶《うっとう》しい。そんなものにいったいなんの意味があろう。何も考えずに、ただ闘いたかった。  しかし、その日の内にイーヴの願いが叶うことはなかった。「大いなる敵」と出逢うどころか、その痕跡にすら行き当たらなかった。  そうした状態が二三日続くと、樹下を寝床とするのは心許《こころもと》無くなってきた。  昼夜の寒暖差が激しい外の荒野に比べて、ジャンザビの内は遥かに過ごしやすく、就寝時の防寒にもそれほど気を遣う必要はなかった。時期は乾季であるし、雨の心配もほとんど無い。  それでも外で寝ていれば何が起こるか判らない。「大いなる敵」は元より、どんな敵が潜んでいるのか知れぬのである。身を護《まも》れる場所が必要であった。  そのような適当な洞窟を探し出すのには、それから二日ほどかかった。  洞窟の入口は、幕のように垂れた蔦《つた》の群生に覆い隠されていた。入口付近は少し身を屈《かが》めねばならぬが、十歩ほど進むと、驚くほど大きな空間が炬火《たいまつ》に照らし出された。自在に槍が振り回せるほど――いや、それ以上の空間である。高さは槍|二筋《ふたすじ》分、広さは村長の家の広間よりなお一回り以上あろうか。  見回してみたところ、先住者はヤモリくらいのもののようであった。もしや「大いなる敵」、あるいは己と同じくジャンザビにやってきた先人たちの痕跡がありはせぬかと思ったが、どこにも見当たらなかった。なんとなく物寂しさを覚えた。  取り敢えず、イーヴはここに腰を据えることにした。ひとりで起居するには大きすぎる洞窟ではあったが、近くに比較的大きな水場があった。飲料・生活用水として使えるのは元より、水を飲みに来る獲物を捕獲することもできよう。  こうして拠点を持つことで、闇雲になりがちだった探索も遣りやすくなった。イーヴは洞窟周辺から探索を始め、今日は東へ明日は西へと、大まかな地図を頭の中に作りながら探索範囲を拡げていった。  しかし、ジャンザビを半分以上探索したと思われても、「大いなる敵」の影も形も一向見当たらなかった。  そうするうちに、ジャンザビに足を踏み入れて一月《ひとつき》が経とうとしていた。  ――まだ[#「まだ」に傍点]一月だ。  そうは思っても何ひとつ収穫のない探索に、気勢が殺《そ》がれていっているような気分が拭えない。  ジャンザビに入るまでは目に見えるジャンザビを目指すだけでよかった。「大いなる敵」があそこで待ち構えている――そう思いつつ、ジャンザビを目指した。ジャンザビに入ることさえできれば、あとはもう闘うだけのような気がしていた。  ジャンザビは「大いなる敵」の縄張りである。それを犯したのだから、なんらかの動きがあって然《しか》るべきであった。  それが何も無いというのはどういうことなのか?  こちらの様子を窺っているのか、それとも、こちらの侵入に気づいておらぬのか。  後者であれば、怒りと失望を禁じ得ぬ。縄張りを犯されてのうのうとしているなど、「大いなる敵」にあるまじきことである。  いや、そんなものが「大いなる敵」であるはずがなかった。そんなものが、エク族の戦士たちを駆り立て、奪い去ったはずがなかった。年老いた母を置き去りにしてまで、己が挑もうとしている相手であるはずがなかった。  イーヴは乾いた唇を引き結んだ。溜息を呑み込みながら天を見上げた。  赤味が差しかかった天があった。あと一刻もすれば日は落ちるだろう。今日の探索はこれで終わりのようである。イーヴはのろのろと踵《きびす》を返し、洞窟へと帰る道を辿《たど》った。  物思いに沈んでいた所為《せい》か、あるいは、洞窟に帰るだけの道に気が弛《ゆる》んでいたのか、イーヴは直前までその存在に気づかなかった。  突如、頭上から――幾重にも重なり合う枝葉の天井から、不自然な葉擦《はず》れの音が聞こえてきた。同時に、そこから何かが降ってくる――いや、やってくる気配を感じた。  考える間もなく身体《からだ》が動く。戦闘態勢に入る。  が――  左肩に衝撃が走った。盾が弾け飛んだ。  身体の反応に問題は無かった。気づくのが遅過ぎたのだ。  崩れた体勢を立て直しつつ、視界を過《よ》ぎった影の方に剣を向ける。しかし影の方がそれよりも速い。  見開かれたイーヴの灰色の瞳に大きく鋭い牙が飛び込んできた。獣の顎《あぎと》である。イーヴの喉目がけて矢のように迫ってくる。  ――くらう!  戦慄と共に意識が凍りついた。  だが長年の鍛錬の成果だろう。反射的に身体が動き、すんでのところで躱《かわ》し得た。  牙がイーヴの肩口を擦《かす》り、牙の持ち主の体が体当たりのように激突してきた。  鋭い当たりだった。互いに弾かれた。  イーヴは近場の木に凭《もた》れて転倒《てんとう》を免《まぬが》れた。そのまま木を盾にして恐る恐る相手を窺う。  褐色に黒の縞《しま》模様が入った毛並み。四つ足の獣である。豹《ひょう》に似た体躯をしているが、顎の中に収まりきらぬ長い牙が二本、剥き出しになっている。  獣は喉を振るわせて激しくイーヴを威嚇していた。  見たことの無い獣である。見るからに肉食獣であったが、ジャンザビで肉食獣に出遇《でくわ》すのも初めてである。  しかし「大いなる敵」ではない。  直観的にそう思った。  獣の牙と爪には血がこびり附いていた。己の血であるとイーヴは悟った。  傷のことを気に掛ける余裕など無かった。イーヴと同じく弾かれたはずの獣は、すでに飛び掛かる体勢を整えて、低い呻り声をあげながらイーヴを睥《にら》んでいた。  一触即発の張り詰めた空気が漂う。  このような場合、逃げる素振りや怯えた様子を決して見せてはならぬ。また、合わせてしまった目を外《そ》らしてもならぬ。そうした途端に獣は飛び掛かってくる。  このままじっと見据え続けていても、やはり闘いになるのを避けられまいが、必要以上に闘う必要はない。獣たちは闘うために闘うのではなく、生きるために闘うのである。命懸けの闘いをすることはない。こちらが強いということ、獲物に成り得ぬということを示せば去っていく。  最も効果的なのは逆上して見せることである。あまり見られた様子ではないが、狂い猿のように振る舞って見せると、獣は去っていくことが多い。闘いを避けるのなら、これが得策であろう。  イーヴは考えをめぐらしながら、獣をじっと見つめた。獣は毛を逆立てたまま、呻り声を発し続けている。長い尻尾を上下に撓《しな》らせ、猫族特有の長い髯《ひげ》を大きく拡げている。 「咬《か》みつかれそうになったら、髯を引《ひ》っ掴《つか》んで睥んでやれ」  不意に、獅子《しし》と闘ったことがあるという、友人の兄の言葉を思い出した。彼もまた、ジャンザビに消えた戦士のひとりであった。  イーヴの胸の内に、対抗意識めいたものがふつふつと湧いてきた。  ――馬鹿な真似はよせ!  理性が制止の声をあげる。  無駄な闘いは極力避けるべきであった。獣と闘うためにジャンザビにやってきたわけではない。ここで無理をして怪我を負ったら、それどころか死んでしまったら、これまでのことが、「大いなる敵」と闘うためにやってきたことが、すべて無駄になる。  しかし、そう思う一方で、闘いの予感に胸は高鳴り、身体は熱くなっていた。己の力の程《ほど》を試したくもあった。獣すらあしらえずに、「大いなる敵」に勝てるとは思えぬ。  イーヴは瞬《まばた》きも呼吸も忘れて獣を睥み、じりじりと獣に近づいた。獣は逆立てた毛を騒《ざわ》めかせ、イーヴを押し返さんとするかのように大きく呻った。  ふたつの距離が狭《せば》まっていく。その間の空気が圧縮されていくように緊張が高まっていく。仮に間に入る者があれば、凄《すさま》じい威圧感に息もできなくなるかもしれぬ。  それは戦う両者がお互いに真っ向から相対《あいたい》することでしか生まれえぬものだった。イーヴと獣は、反発し合うことで繋《つな》がってもいるのだ。  ところが、突然それは横合いから飛んできた枝切れに断ち切られた。  枝切れは獣に中《あ》たった。獣はびくりと慄《ふる》えた。イーヴもびくりと慄えた。獣の慄えがイーヴに伝わったのだ。  その瞬間、ふたつを繋いでいたものが断ち切れた。  我に返って、イーヴと獣は素速く跳び退《すさ》った。互いの距離が大きく開く。  そのまま再び睥み合う。だが先の感覚が完全に断たれてしまったことを確認し合うだけだった。間にあるのは白け切った空気だけである。  獣はぱっと身を翻し、仄《ほの》暗い森の奥へ走り去った。  その様を見送るまでもなく、イーヴの意識は獣から離れた。  こうした物別れの要因となった枝切れは自然に飛んできたものではなかった。明らかに故意に投じられたものだった。それもイーヴを助けようとしてのものと思われた。  ――いったい何者が……?  訝《いぶか》りながら、枝切れが飛んできた方に目を向けた。 [#改頁] 第一章 第二節 「あの……だいじょうぶ、ですか……?」  か細く、高い声だった。  イーヴは灰色の瞳を見開いた。  茂みの中に、えらく場違いな様子の少年が立っていた。  見たところどこかの兵のようである。行軍する騎士に付き従う従士といった風情《ふぜい》だが、どうにも頼りない感じである。  もしもイーヴが小姓という言葉を知っていたら、主人から逸《はぐ》れたどこかの小姓ではないかと推測したかもしれぬ。しかし生憎《あいにく》、イーヴは小姓という存在自体を知らなかった。  そこで目の前の相手をよく知るために目を凝《こ》らして観察した。  そしてイーヴは驚いた。無論その驚きを面《おもて》に表すようなことはせぬ。しかし内心では結構な驚きをイーヴは感じていた。  少年かと思えた相手がそうでなかったからだ。  いや、よくよく見れば少年にしては線が円《まる》いし、胸に膨《ふく》らみがあった。  つまりは少年のような扮装《いでたち》をした若い女である。  白い肌には艶《つや》が無く、短い金髪には乱れがあり、青い瞳には張り詰めたものがあった。疲労と塵埃《じんあい》にまみれてはいるものの、その身内には確とした規律があると感じられ、隠すべくもない高貴さを漂わせていた。  すらりとした肢体を包んでいる衣服も、その身に合ってはいたが、この場には合っていなかった。丈の短い上着にズボンと、一見簡素で動きやすい恰好《かっこう》ではある。  しかしこれまたよくよく見れば、いかにも上質そうな生地の衣服で、襟元《えりもと》や袖口《そでぐち》には手の込んだ刺繍が施《ほどこ》されている。ところどころ破れたり解《ほつ》れたりしているのも、無理からぬことであった。山中を歩くのに有用な衣服ではない。  腰には短剣が差してある。見たところ武器はそれだけのようである。いや、背負袋《せおいぶくろ》の中にも何かあるのかも知れぬが、それにしても、武器の扱いに馴れている人間とそうでない人間は見ただけで判る。イーヴには短剣だけが彼女から浮き上がって見えた。つまりはその身に馴染んでいない、使い馴れていないということである。余程《よほど》の不意を衝《つ》かれぬ限りは、己が殺《や》られることはないだろうとイーヴは考えた。  重要なのは、己の敵か否かということである。 「枝切れを投げたのはお前か?」  イーヴの口調は打切棒《ぶっきらぼう》だった。元より愛想の良い方ではないが、見ず知らずの人間に愛想を振り撒《ま》くような性質《たち》ではない。  女の青い瞳がわずかに揺らいだ。気遣わしげな表情に緊張が走った。 「……もうしわけありません。余計なことをしてしまったようですね」  非難されているのだと思ったらしい。 「いや……」  余計なことと言えば余計なことだった。闘いを邪魔された。  しかし、一方では有り難いことだった。あのまま闘っていたら、「大いなる敵」どころではなくなっていたかも知れぬ。  複雑な気持ちではあったが、助けられて非難するつもりはなかった。 「責めているのではないんだ。随分と不用意なことをすると思ってな」  結果として獣は去ったが、場合によっては女を襲ったかも知れぬのだ。 「怪我を負っていらっしゃるので、手助けをした方がよろしいかと思ったのです」 「怪我……?」  言われて思い出した。  己の体を見てみると、左の肩から腕、そして胸の辺りまで、革鎧が血に染まっていた。  イーヴは眉間にわずかに皺《しわ》を寄せた。血を見た途端に、今までなんともなかった左肩が痛み出した。 「先に治療をしましょう。すぐそこに水場がありますから、そちらへ」  女はイーヴに背を向けて歩き出した。イーヴが後に従《つ》いてくることを疑わぬ様子である。  そんな彼女に反して、イーヴは逡巡《しゅんじゅん》して立ち尽くした。  このまま従《つ》いていってもよいものか。  なんらかの絡繰《からく》りがありはしまいか。  どうにも妙な女である。  闘う術《すべ》を持たぬであろうに、そうした身でジャンザビに在るということが、イーヴには不可解でならぬ。  ジャンザビは危険極まりない山である。「大いなる敵」は元より、最前のような肉食獣までが棲《す》まう山である。  そこへ、ひとりでのこのこやってくるということは……  ――頭が弱いのか、狂っているのか。  そう思いかけて思い直した。  己こそどうなのか、と。  闘う術を持つ戦士であろうと、ジャンザビに在ることは充分に危険である。いや、強かろうが弱かろうが、ジャンザビにやってくること自体が狂気的なことなのだ。端から見れば、イーヴと女は似たようなものだった。  しかし、女が「大いなる敵」を斃《たお》しにやってきたとは考えにくかった。やはり武器を持って闘う彼女の姿が、イーヴにはまるで想像が付かない。  それに今はひとりであるにせよ、仲間と共にやってきたとなれば、話はまた変わってこよう。闘える仲間が居れば、彼女自身が闘える必要は無いのである。  無論、「大いなる敵」が目的とは限らぬだろう。いや、むしろ、「大いなる敵」のことなど知らぬのではあるまいか。  彼女はこの辺りの人間ではなかろう。言葉遣いがイーヴのそれとは少し異なっている。それが身分差によるものなのか、地域差によるものなのかはイーヴには判らない。身分の高い人間の言葉を耳にするどころか、その姿を目にしたことすらほとんどなかったし、あちこち旅をしたこともなかった。しかし、恐らく両方だろうとイーヴは考えた。  となれば、偶然ジャンザビに迷い込んだのか……  そこまで考えてイーヴは小さく息を吐いた。  考えても詮無きことに思えてきた。警戒し過ぎているような気もする。ジャンザビに在って、警戒し過ぎることなどなかろうが。 「どうされました……?」  その声で我に返った。  恐る恐るといった様子で、女がこちらを見ていた。  女はイーヴの右手を一瞥《いちべつ》し、徐《おもむ》ろに口を開いた。 「……警戒、なさってるんですね」  緊張と、わずかな失望が混じった声である。  イーヴの右手には、いまだ抜き身の剣が握られていた。  イーヴは何やら気不味くなって、そそくさと剣を収《おさ》めた。 「すまない……」 「……いえ、無理もないことです。見ず知らずの仲ですし、場所が場所ですし。わたくしも、あなたを警戒していないとは申せません」  女の口振りは、ジャンザビのことを知っている風である。 「お前、なぜこんなところに居る?」  イーヴはそう言いかけたが、それを遮《さえぎ》るように女は背を向けた。イーヴが従《つ》いてこようとこまいと関係なさそうに歩いていく。  イーヴは漸《ようや》く女の後を追った。  女の素っ気ない素振りから、女を怒らせてしまったのではないか、女に見限られてしまったのではないかと思ったのである。  それで後を追うというのは、なんとも情ない話ではある。しかし、反撥《はんぱつ》してこのまま訣別《けつべつ》するのも惜しい気がした。  ジャンザビで人に出遇《であ》ったのである。 「大いなる敵」が棲《す》まうジャンザビで。  足を踏み入れたが最後と謂《い》われるジャンザビで。  予想だにせぬことであった。  信じ難いことであった。  だが現に、女はイーヴの目の前を歩いている。となれば、何か有用な話を聞き出せるかも知れない。  この山はどこか怪訝《おか》しい。  元より神秘の聖山として畏怖されてきた山である。  しかし、実際に足を踏み入れてみて感じたのは、神秘さよりもむしろ不可解さであった。  この山はなんなのだ――。  女の背中が少し離れた。イーヴは足を速めた。  取り敢えず、今は女に従《つ》いて行こう。考えるのは後でよい。  イーヴは黙りこくって女の後を追った。  そうしている内に、見覚えのある場所にやってきた。イーヴもよく利用している水場である。  女は布を出して水に浸した。 「鎧をお脱ぎになって下さい」  イーヴは驚いた。てっきり、治療する気も失せているのではないかと思っていた。 「……治療、してくれるのか?」  女の目が丸くなった。突拍子も無いことを聞いたとでもいう風である。 「そのつもりで従《つ》いていらっしゃったのではないのですか?」 「いや……お前、怒ってないのか?」  女の目がさらに丸くなった。 「そんな……怒るだなんて……わたくしには怒る理由なんてありません」 「しかし、お前は俺を助けてくれたのに、俺はお前を怪しんだ」 「それは先にも申しました通り、無理もないことです。それに、わたくしは見返りを求めてあなたをお助けしたわけではありません。――いえ、実際のところ、あれがあなたの助けになったのかどうか……」 「いや、助かった」  弱弱しげになった女の言葉を、イーヴは中途で断ち切った。余計な手出しで邪魔されたという気持ちはあるにせよ、助けられて安堵している気持ちに偽《いつわ》りは無い。 「そうですか」  女は羞《は》じらうような笑みを見せた。  イーヴは少しどきりとした。不意を衝《つ》くような、愛らしい笑みだった。 「では、鎧をお脱ぎになって下さい」  気恥ずかしさを誤魔化《ごまか》すように、イーヴは無言で鎧を脱いだ。  日に焼けた、逞《たくま》しい肩から胸にかけて、爪で引っ掻かれたような痕があった。  傷の状態を調べて、イーヴは安堵した。出血の割にはさしたる傷ではなかった。傷口は大きいが、深くはない。下山せずに「大いなる敵」と闘える。  それでも女は一瞬|怯《ひる》みを見せた。こういうことにはあまり馴れていないらしい。血を拭う手付きもぎこちなく、イーヴが思わず呻《うめ》きを漏らすと、我が事のように痛そうな顔をするのだった。  一通り拭い終わると、女は干し薬草と乳鉢・乳棒を取り出した。  旅人ならば、干し薬草のひとつやふたつは持ち歩いているし、その使い方もそれなりに心得ているものである。しかし、旅に馴れているとも、治療に馴れているとも見えぬ女である。薬なんぞ作れるのだろうかとイーヴは思った。  ところが、思いの外、女の手際《てぎわ》はよかった。見る間に、干し薬草を擂《す》って粉にし、水で練り上げた。そして恐る恐る、イーヴの傷に塗りたくった。  イーヴの鼻腔に、苦味のある匂いがつんと突き抜ける。嗅《か》いだことの無い匂いであった。 「この薬草はなんだ?」 「トラームです。傷薬としてよく使われます」 「ふうん……」  聞いたことも無い薬草である。この女と同様、この辺りのものではないのだろう。  薬が塗られると、その上に布切れが被《かぶ》せられ、薬が患部に密着するよう固定された。 「ひとまず、これでよいでしょう」  ひと仕事を終えたといった感じで、女は小さく息を吐いた。  それもそうだろう。馴れておらぬであろうことを、やけに真面目くさった顔でやっていた。 「ありがとう」  礼を言うと、女は安堵の混じった微笑みを見せた。  イーヴは再びどきりとした。  気恥ずかしくなって女の顔を見ていられなくなった。  そんなイーヴを知ってか知らずか、女の方が先に目を外らしてくれた。 「綺麗な首飾りですね」  イーヴはなんのことかと訝《いぶか》った。己には首飾りをするような習慣は無い。  女はイーヴの胸元を指し示した。  そこには、虹色に輝く大きな鱗《うろこ》があった。 「ああ……竜の鱗の護符だ」  首飾りと言われたので判らなかった。出立の日に村長から手渡された、「大いなる敵」の挑戦者の證《あかし》――「勇者の護符」である。 「竜の……?」  女は不思議そうに「勇者の護符」を見た。 「――と、謂《い》われている。実際のところは判らない。ガルナーガの谷底によく落ちているらしいが、俺が知っている限りでは、竜の姿を見た者はいない。……まあ、この山の主も似たようなものだが」  イーヴはわずかに苦笑した。 「この山の主……?」  女は小さく首を傾《かし》げて、訝しげに呟《つぶや》いた。  予想していたことではあったが、イーヴの顔は硬張った。 「『大いなる敵』を知らないのか?」  イーヴから何かを察したのか、女は緊張した面持ちで頷《うなず》いた。 「お前、どこから来たんだ?」 「……都です」 「都!?」  イーヴは驚いた。 「随分遠くから来たんだな。この山は都でも有名なのか?」 「いえ……そういうわけではないのですが……」  女は口籠《くちごも》った。  それから意を決したように口を開いた。 「あなたは――」  何かを恐れるように、一度、言葉を句切り、 「あなたは、地元の方でいらっしゃるんですか?」 「ああ」  イーヴが頷くと、女は心なしか安堵した様子を見せた。 「『大いなる敵』というものは存じませんが、この山が不思議な山であることは伺《うかが》っております」  イーヴは鼻を鳴らし、苦笑を混じえて言った。 「|神殿の聖職者《ぼうず》どもから聞いているのか? 神が降臨する山だとか、山に入った者には神罰が下るとか、大方《おおかた》そんなもんだろう?」 「……ええ」 「俺たちの部族には伝説があってな。それによれば、ジャンザビには――この山には、恐るべき魔物が棲みついているという。俺たちはそいつを『大いなる敵』と呼んでいるんだ」 「魔物が……」  女の顔が再び緊縮《ひきし》まった。何かを考えるような顔付きになる。 「……では、この山の不思議は、その魔物が起こしていることなのでしょうか?」 「さあな……よく分らん。部族の云い伝えによれば、『大いなる敵』とは関係無く元元不思議な山のようだが、|神殿の聖職者《ぼうず》どもによれば、『大いなる敵』など存在せず、すべてはこの山に棲まう神の仕業であるという」 「……」 「いずれにしろ、この山に何かがあることは確かだろう。実際に、たくさんの人間がここで消えているわけだしな」 「たくさんの人間が……」  女は息を呑み、小さく身慄《みぶる》いした。  イーヴはその様子を見て、 「お前、ひとりでここに来たのか?」 「……はい」 「悪いことは言わん。山を下りた方がいい」  その言葉に打たれたように、女は小さな唇を引き結んだ。 「……そういうわけにはまいりません」  睥《にら》むようにイーヴを見る。 「危険は承知の上で、こちらへ参ったのです」 「目的はなんだ?」 「真実の確認です」 「真実……?」 「あなたはどうなのですか?」 「俺は『大いなる敵』に用がある」  女は唖然となった。 「……先程、おっしゃいましたよね? 『大いなる敵』は恐るべき魔物であると」 「ああ。なればこそ、己がすべてを賭けるに値する存在と謂《い》えよう」 「……?」  女はイーヴの言葉を理解できぬようだった。  だが、程《ほど》無くして、 「まさか……『大いなる敵』と闘われるために、ここに……?」  イーヴは頷いた。  女はさらに唖然となった。 「俺たちエク族の間では、殊更《ことさら》珍しいことじゃあない。エク族の戦士たちは、昔から『大いなる敵』に挑み続けてきた。……誰ひとり帰ってきはしなかったがな」  女は再び息を呑んだ。そして治療したところを不安気に見た。 「でも、その傷では……」 「大した傷ではない」 「完治してからでは駄目なのですか?」 「完治させるとなれば、一度山を下りねばなるまい。そうするわけにはいかないんだ」  下山するのは『大いなる敵』を斃《たお》したその時のみ――そう、心に決めている。  そんなイーヴにただならぬものを感じたのか、女は気遣わしげな顔をしながらも口を噤《つぐ》んだ。 「それよりも――お前、何か見なかったか? 『大いなる敵』らしきものの姿とか形跡とか」 「……いえ、何も。あなたも何か見かけませんでしたか? 人の姿とか形跡とか」 「いや、ここで人を見るのはお前が初めてだ。驚いたぞ。よもや人に出遇《であ》うことがあろうとはな。――人を捜しているのか?」 「……ええ。……そのようなものです」  何かを堪《こら》えるような硬い表情で、女は曖昧《あいまい》に言った。  何やら只《ただ》ならぬ事情があるようである。しかし、イーヴには追及する気も興味も無かった。「大いなる敵」と関係無いのならば、なおさらである。  イーヴは女から目を外らし、上を見上げた。 「昏《くら》くなるな……」  影そのものとなった枝葉の向こうに、薄青と薄紅が混じり合う空が見えていた。 「お前、寝床は決めてあるのか?」 「いえ……特には……」 「なら、俺のところに来ないか?」 「え……?」  女とイーヴの目が合う。 「寝床に丁度《ちょうど》良い洞窟が――」  そう説明しかけてから、イーヴは重大なことに気づいた。  己は男で、相手は女であった。  うっかりしていた。 「念のため言うが、妙な意味は無い。単なる寝床の提供だ。しかし、お前が不安に思うなら、俺は他に行ってもいいし、この提案を聞き流してくれてもいい」  女はイーヴをじっと見つめた。 「よろしいのですか……?」 「ああ」 「では、ありがたくご提案をお受けしたいと思います。――申し遅れましたが、わたくし、クリステルと申します」 「イーヴだ」 [#改頁] 第一章 第三節  ふたりが洞窟に着く頃には陽は沈みきっていた。  イーヴはいつものように入口に焚火《たきび》をし、クリステルと一緒に中に入った。 「どこでも、好きなところで寝るといい」  言ってしまってからイーヴは考え直した。 「いや、お前さえよければ俺の寝床を使ってもいい」  イーヴは普段自分が寝ている場所を指差した。草を葺《ふ》いてあるので、直に洞窟に寝るよりは大分楽だろう。 「いえ、お気持ちだけ有難くお受けいたします」  クリステルはやんわりと辞退して、イーヴからかなり離れた洞窟の端に坐《すわ》った。  単に眠るだけならば洞窟よりも外の方がましである。しかし外で眠れば、何が起こるか判らない。先程のような野獣に襲われることは十分考えられる。  比較的安全かと思われるのが樹上だが、こちらは技術が必要だ。  消去法で考えていけばイーヴの洞窟を選ぶのが一番というわけだが、だからといって、イーヴを完全に信用しているわけではないのだろう。外で寝るよりはまし、といったところなのかも知れぬ。 「待っていろ。下に敷くものを取ってくる」  イーヴは鉈《なた》を取って外に出て行った。  適当な枝や草を払い、それらを抱えて戻るとクリステルの傍に置いた。一度で足りるはずもないから、何度か往復する。  クリステルは手伝うと言ったが、外は暗いし、見るからに慣れておらぬであろう作業をさせて、怪我でもされたら馬鹿らしい。イーヴはすげなく断り、ひとりで黙黙と作業した。  どうにか寝床に足りる分を床に積み上げると、クリステルに言った。 「拡げるのは自分でやってくれ」 「ありがとうございます」  自分の寝床に横になるとイーヴは目を閉じた。  しばらくはクリステルが寝床を作る音が、がさがさと鳴っていたが、やがてそれも静かになった。  洞窟内が静かになると、入口から入ってくる音が鮮明になった。  獣の啼《な》き声と焚火が爆《は》ぜる音、そして、沸き立つような虫の音である。  この山に来るまで、イーヴには虫の音を聞きながら眠る習慣はなかった。部族の地に夜聞こえてくるのは、風の音のような獣の雄叫《おたけ》びか、獣の雄叫びのような風の音か、いずれにしろ、耳をよく澄まさねば聞こえぬほど、微《かす》かなものであった。イーヴにとって、夜とは静かなものと決まっていたのである。  昏《くら》くなると共にいや増さる騒がしさに、最初は随分と辟易《へきえき》させられた。這這《ほうほう》の体でやってきた一夜目こそ、虫の音どころでなく寝入ってしまったが、二夜目からはなかなか寝つけなかった。  しかし、馴れというのは恐ろしいもので、一週間もしないうちにどうということもなくなった。今や虫の音に気づかぬこともある。目を閉じれば速やかに眠りが訪れる。  それがどういうわけか、今夜に限って眠くならない。  イーヴは目を閉じ、ジャンザビの夜の音を聞きながら、ただじっとしていた。  そうしているうちに、やがて疑問が頭に浮かんできた。  ――そもそもなぜ、あの女はジャンザビにいるのか?  貴族の道楽という感じではなかった。もっと差し迫った理由があるようだった。  それはいったい何なのか……。  他人を穿鑿《せんさく》する趣味はないが気になった。  怪訝《おか》しい。  普段ならばこのように相手の内情について考えたりすることはない。  山中で遭遇したという事実、ふたりきりであるという状況がそう仕向けるのかも知れない。  ――ひょっとして、山中の怪異に出逢《でくわ》したのかも知れぬ。  あの女は人ではない――そんな考えさえ頭をかすめた。  馬鹿馬鹿しい。  |神殿の聖職者《ぼうず》どもでもあるまいし、怪異などあってたまるか。この世に血肉を持たぬ存在などあるはずがない。  ジャンザビの神秘にしても、まだその仕組みを理解した者がおらぬだけで、必ずそこには理《ことわり》があるはずだ。  イーヴはそう信じている。  だからあの女も、確かに都から来た貴族に違いない。  だとしたら、いったいなぜこの山にやって来たのか……  思考が振り出しに戻ってしまった。  イーヴは目を閉じたまま、不愉快げに眉を寄せた。 「……もう、おやすみになりましたか?」  闇の中、不意に女の声が聞こえた。  イーヴはどきりとした。  なぜだか恐ろしいような気がした。  こちらの考えを読まれていたのではないか――そんなことさえ思った。 「あの……」 「起きている」  短く答えると、安堵したような気配が返ってきた。  だが言葉はそれきり返ってこない。  暫《しばら》くの間、イーヴは耳を澄まして待ったが、クリステルは何も言ってはこなかった。  ふたりの沈黙を埋めるように、虫の音が絶え間なく響いている。  奇妙な沈黙に堪《た》えきれなくなってイーヴは寝返りを打った。洞窟の天井に体を向け、目を開いた。  無論、天井は闇に沈み、何も見えはしない。ただ足元の方から弱い明りが入ってきている。入口にある焚火の光だ。 「眠れないのか?」 「……はい」 「山に入ってどれくらいだ?」 「昨日入ったばかりです」 「じゃあ、二度目の夜というわけか」 「はい」 「この虫の音では、なかなか寝つけないだろう?」 「そうですね。街や庭の虫とは違いますね。あちらはもう少しおとなしいですから」 「庭か……。お前、薬師《くすし》か呪師《まじないし》なのか?」 「いえ、違います」 「違うのか? それにしても、薬を作る手際《てぎわ》がよかったが……」 「それはまあ……、ですが、さしたる知識や技術があるわけではありません。それに薬のためだけの庭ではありませんので……」 「どういう意味だ? 薬以外のなんのために……?」  イーヴにはクリステルの言葉が理解できなかった。庭と言えば、野菜や薬草を育てる場所であると決まっている。少なくともイーヴの認識ではそうである。 「どうやら薬草園と勘違いされているようですね。わたくしの家の庭は観賞も兼ねているんです」 「カンショウ? カンショウって、なんだ?」 「観て楽しむことです」 「薬草を……観て楽しむのか?」  イーヴは少し呆れたように言った。 「薬草ばかりではありません」 「ふうん?」  クリステルはあれこれと草花の名前を挙げた。部族の地には植物が少ない上に、元よりあまり興味がない所為《せい》か、イーヴが聞いたことのないものばかりであった。  そもそも、観て楽しむために育てるというのがよく解らない。違和感がある。野に咲く花を観るのとは違うのだろうか? 「都の庭はそういうものなのか?」 「そうですね……そういう庭が多いかもしれません」 「都はどんなところだ?」 「大きな建物がたくさんあって、いろんな人がたくさんいて……賑やかなところです。この辺……この山ではなく、この辺りの地方一帯ですが、それよりも緑がずっと多く、暑過ぎることも寒過ぎることもありません」 「ほう……」  噂や旅人から聞き知っている話ではある。しかし、いつもながらイーヴにはまるで想像が付かない。 「失礼ながら、このようなところに人が暮らせるとは驚きでした。あなたがたは昔からここで暮らしていらっしゃるんですか?」 「ああ」 「ここは……どなたかのご領主のご領地ですよね?」 「いや、ここは俺たちの土地だ」  エク族はどこの国にも領地にも属していない。誰かに対する納税や奉仕の義務も無い。 「お前、貴族なんだろう?」 「はい……」 「貴族の女ってのは、ひとり旅をするもんなのか?」 「……」  クリステルの沈黙に、イーヴははっとした。 「ああ、いや、特に深い意味はないんだ。お前のことを穿鑿《せんさく》するつもりはない」  そのはずだ。意図があって言ったわけではない。単なる素朴な疑問だった。 「貴族って、よく知らないんでな。こうして言葉を交わすのも初めてなんだ」  事実である。それなのに、何やら白白《しらじら》しい言い訳をしているように感じるのはどういうわけだろう?  どうにも怪訝《おか》しかった。  いつになく饒舌《じょうぜつ》でもある。  貴族とお近づきになれたからといって、有り難がるような性質《たち》ではない。  女とふたりきりになれたからといって、躁《はしゃ》ぐような性質《たち》でもない。  貴族かつ女であっても、また然《しか》りである。  しかし、思えば一月《ひとつき》もひとりきりであった。  そう思って、イーヴは苦笑した。  ――幼児でもあるまいし。  この山に在《あ》って、寂しいだの、恋しいだの、そんな感情を懐《いだ》いたことは一度もない。そんな感情を懐かねばならぬ理由など微塵もなかった。この山には「大いなる敵」が居るのだから。 「……そういえば、お前、二つの太陽は見たか?」 「……え?」 「一月程《ひとつきほど》前のことだ。太陽が二つになって、恐ろしく暑くなって……ありゃあ、いったい、なんだったんだろうな?」 「……太陽が……ふたつ……」  クリステルは弱弱しく呟いた。 「丁度《ちょうど》その時、俺はこの山に向かっている途中だったんだ。まったくえらい目に遭《あ》った。日陰のあるところといったら、この辺、この山しかないだろう? 歩いても歩いても辿り着けなくてな。陽が沈もうかという時になって、漸《ようや》く辿り着けた」 「……」 「お前が居たところではどうだった?」 「……」 「……おい?」 「……」 「……寝たのか?」  返事は無かった。  虫の音が騒騒しく響いていた。  暫《しばら》くの間、イーヴは虫の音を聞いていたが、やがて寝返りを打ち、静かに目を閉じた。  地鳴りのような虫の音が、いつの間にやら鳥の囀《さえず》りに変わっていた。  夢と現《うつつ》を往き来するだけの、眠りとも謂《い》えぬ眠りから、イーヴは緩やかに目覚めた。  洞窟の入口から清澄な風と光が入り込んでいるが、洞窟内を隅《くま》無く満たすまでには到らない。洞窟の中は暗く、奥の空気は淀んでいた。  イーヴは女の方へ意識を向けた。互いに、入り口から見て左右両端を寝床としているはずであった。しかし、なんの気配も感じられない。洞窟全体に意識を向けてみても、それは同じだった。  イーヴは身を起こし、躊躇《ためら》いがちに目も向けてみた。ものの輪郭が判るかどうかという明るさの内《なか》で、じっと目を凝らす。やはり、女の姿はどこにも見当たらない。  しかし、昨日の出来事が夢でなかった証拠に、女が寝ていた場所には草が敷かれている。触れてみれば、すでに温《ぬく》もりはない。いなくなってから、それなりに時間が経っているようである。  イーヴは己の迂濶《うかつ》さを噛み締めた。すぐ傍《そば》に居ながら、出て行ったことに気づかぬとは。  しかも相手は、武術の心得があるわけでもない女である。――いや、それがゆえに気を弛めてしまったのか?  いずれにしろ、迂闊であったことには変わりない。  いったい、あの女はどこへ行ったのか?  どこへ行こうと勝手ではあるが、得体の知れぬ女である。注意しておく必要はある。  そう己を戒め直して、イーヴは洞窟の外に出た。  輝かしい朝陽と清清しい空気が、逞《たくま》しい肉体を包んだ。眩《まぶ》しさに目を細めつつ、大きく伸びをした。  その背に―― 「おめざめですか?」  どきりとした。  さっと振り返った。  女が、居た。  洞窟の入口の脇に、女が――クリステルが、佇《たたず》んでいた。  髪を洗ったのか、濡れた金髪が朝陽にきらきらと輝いていた。その片腕には青青とした草と瑞瑞しい果実が抱えられ、その足許《あしもと》には薪《たきぎ》が積まれていた。  どこかへ行ってしまったわけではなかったらしい。 「あの……どうされました?」  半ば唖然としていたイーヴに、クリステルは怪訝《けげん》な面持ちで話しかけた。 「いや……それはなんだ?」  拍子抜けを誤魔化《ごまか》して、イーヴはクリステルの腕の中を目で示した。 「あなたの傷に当てる薬草と、食料です」 「今、採ってきたのか?」 「はい」 「この山の植物が分るのか?」 「ほんの少しですが」 「……そうか」  立ち尽くすイーヴにクリステルは近寄り、腕の中の草や果実を半分差し出した。 「どうぞ」 「……ありがとう」  そのまま受け取ってからイーヴは少し考え、 「火を焚いて待っててくれるか? 罠に何か掛かっているかも知れない」  受け取った食料をクリステルに戻して、木々の合間に消えた。    * 「お力をお貸し願えませんでしょうか?」  クリステルがそう切り出したのは、食事を終え、治療もし直して、一息吐いた時だった。  イーヴはクリステルの顔を見た。何やら張り詰めたものがあった。 「なんだ?」  イーヴが促《うなが》すと、クリステルは一息呑み込み、 「昨日申しました通り、わたくしはここで人を捜しております。ですが入山したばかりで右も左も判りません。お聞きしたところによれば、あなたは一月ほどここにいらっしゃり、わたくし同様、探しものをしていらっしゃるとのこと。先人として、そのお力をお貸しいただけないかと思った次第です」  格式張った物言いに、イーヴは頭が痒《かゆ》くなった。頭を働かせようとするかのように、無雑作に頭を掻きつつ、 「……つまり、お前の人捜しに協力しろってことか?」 「はい」  クリステルはイーヴをじっと見つめた。  イーヴはあらぬ方に目を遣り、無言で頭を掻き続けた。 「もちろん、お礼はいたします」  イーヴの沈黙をそのように受け取ったらしい。 「いや、礼なんぞはいい。獣から救《たす》けてもらったし、治療もしてもらった。しかし――」  イーヴはクリステルの真摯《しんし》な顔をちらりと見遣った。 「こう言ってはなんだが――もし、万が一、人捜しの最中に『大いなる敵』に出遇《でくわ》したら、俺はお前に拘《かかず》らってはいられない」 「承知しております」 「お前を救《たす》けたり護《まも》ったりはできないということだぞ?」 「承知しております」 「それどころか――」  イーヴはクリステルの青い瞳を見つめた。 「お前を盾にするかも知れない」  脅《おど》しではなかった。  いざとなったら、その可能性は充分にある。  クリステルの人捜しを手伝うために、ここに居るのではない。「大いなる敵」と闘うために、ここに居るのである。  さすがにそれ以上口に出すことは憚《はばか》られたが、「大いなる敵」との闘いに邪魔であると判断したら、盾にするどころかこの手で殺すことも辞さぬ。女だからといって頓着《とんちゃく》などしない。  そのようなことを言外に含めて、イーヴはクリステルを見つめた。  当然、怯《おび》えるだろうと思った。  ところが予期に反して、クリステルは真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめ返してきた。 「かまいません」  静かな声だった。  恐れや強がりはどこにも感じられない。 「わたくしひとりで捜しているところに『大いなる敵』が現れたら、わたくしが生き延びる可能性はほとんどないでしょう。しかし、あなたと一緒なら、わたくしはあなたを囮《おとり》にして逃げることができるかもしれません」  思いも寄らぬ返答である。  イーヴは驚きと共に、おもしろみを覚えた。  都の女とは、あるいは貴族の女とは、こういうものなのか……。  実際のところ、その覚悟がどれほどのものなのかは、その状況になってみねば判るまい。  しかし少なくともこの女は無様に取り乱したりはしないのではないか。そう思わせるものがクリステルにはあった。  ともあれ、その問題は扠措《さてお》いても、人捜しに協力すること自体はどうということもない。「大いなる敵」を探す序《つい》でである。 「解った。協力しよう」  イーヴが承諾すると、クリステルの顔が和《やわ》らいだ。 「ありがとうございます」 「そうとなれば、まず、お前の捜し人はどんな奴なのか、教えてもらおうか」  得体の知れぬ「大いなる敵」ならともかく、得体の知れぬこともない人間を、蝨《しらみ》潰しに捜し回るのは得策ではない。捜し人の行動を予測するための手掛かりが必要であった。  すぐさま返答はなかった。  何かを考えたのか、躊躇《ためら》ったのか、ほんのわずかな間があった。 「……都の、貴族です」 「ほう……」  何やらきな臭い。  とは言え、己に関係なければどうでもよい話である。 「となれば、山の北側から入山したとみてよいか?」  都はここから北にある。 「……どうでしょう。なにぶん、この山に入るまでにも不思議があるそうですし」  妙な口振りである。 「まるで聞いてきた話みたいに言うな」 「ええ。わたくしはすんなりと入山できましたので。――聞くところによれば、目の前に見えていてすら、容易に辿《たど》り着けぬとか」 「ああ。お前は運が好《よ》いな。俺は一週間近くかかったぞ」  最後の一日――太陽がふたつになったあの日は、思い出しただけで暑苦しくなる。 「じゃあ、お前は北側から入山したのか?」 「いえ、どちらかと申しますと北東側でしょうか。真っ直ぐこの山に向かったわけではありませんので。しかし、北東側からそのまま真っ直ぐに入れました」 「俺は東側からだが真っ直ぐ入れた」 「では、彼らも北側から入ったと観てもよいかもしれませんね」 「彼ら[#「ら」に傍点]? ひとりではないのか?」 「ええ。供回りの者たちもおりますので。総勢十数人といったところでしょうか」 「ふむ。そうとなれば、すぐに見つかるかも知れんな」  それほどの大人数が歩き回っているのなら、必ず目立った形跡があるはずである。 「で、そいつらはいつ頃入山したんだ?」 「三週間近く前です」 「三週間近く前!?」  驚いた。もっと最近のことかと思っていた。  三週間近く前となると、己の入山よりも少し後になるではないか。となるとこの山のどこかで遭遇していてもおかしくはない。いや、遭遇しない方がむしろ不自然である。  しかし、その姿形や形跡をまったく目にしていないのだ。  妙であった。  すでにこの山の半分以上は探査しているのである。無論、まだ足を踏み入れておらぬ残りの部分に、何かがあるのかも知れぬが。 「本当に、三週間近く前からここにいるのか? そりゃあ……」  クリステルの顔に翳《かげ》が差した。 「おそらくは、すでに亡くなっているのではないかと……」 「下山してどこかへ行ったということは?」 「それはないと思います。用が済んだらすぐに都に戻るはずです。しかし、わたくしが都にいた時点では、まだ帰ってきてはいませんでした」 「そうか。――てことは、そいつらの屍体か痕跡を探すことになるか……」  うっすらと浮いた無精鬚《ぶしょうひげ》を撫《な》でながら、イーヴは呟《つぶや》いた。 「大いなる敵」や、昨日のような肉食獣に襲われて、殺されたか喰われたか、そのどちらかに違いない――イーヴはそう考えている。いや、そう信じている。  ――十数人が皆殺し。  そう思って顫《ふる》えた。  武者奮《むしゃぶる》いである。 「……なあ、そいつら、強いか?」 「えっ?」  クリステルの目が丸くなった。なぜいきなりそんなことを聞くのか、とでも言いたげである。 「貴族の供回りってのは、強いんじゃあないのか?」 「……まあ、そうですね。その貴族は文人ですし、腕が立つという話は耳にしたことがありませんが、このようなところに来るのですから、当然精鋭で身の回りを固めるでしょうね」 「ふうん」  知らず、笑みが溢《こぼ》れた。  俄然《がぜん》、遣る気が出てきた。  この探索によって、「大いなる敵」の手掛かりを掴《つか》めるかも知れぬ。「大いなる敵」の力の程《ほど》を探れるかも知れぬ。 「で、そいつらの目的はなんだったんだ?」  これまたすぐさま返答はなかった。  何やら不快げな様子である。 「大《たい》したものではありません。申し上げるならば、品の無い勘繰《かんぐ》り、とでも申しましょうか、そういった類《たぐい》のものです」 「大したものでなければ、話してもよかろう? そいつらの目的が判らねば、探索に手間《てま》がかかる。そうなれば、『大いなる敵』と遭遇する可能性が高くなると思わんか?」  クリステルは押し黙った。言いたくないことなのだろう。  イーヴとしても他人の事情を穿鑿《せんさく》するつもりはなかったが、捜索する相手の目的が判っているのといないのとでは、捜索の難易度が大きく変わってくる。  だからできれば、その辺の事情を聞いておきたかった。  やがてクリステルは観念したように口を開いた。 「……彼は、この山に財宝が隠されていると思っていたようです」 「ほう」  そんな話は、部族の伝説にもなければ聞いたこともない。しかし事実はどうあれ、話としてはあり得そうなものではあった。  むしろこういった山にこそ付きものではあるまいか。 「北側からそれらしいところを探ってゆくとして……よもや生きて歩き回っているとは思えんが、取り敢えず、俺とお前がすでに探査したところは最後にしよう」  イーヴは小枝で地面に地図を書いた。そこに己が探査した地域を書き示す。クリステルも同じく書き示す。  山の東側から入山したイーヴは、東側のほぼ中腹部を拠点として東側全域を探査していた。山の北東側から入山したクリステルは、イーヴがすでに探査したところをごくごくわずかに探査していた。未探査の地域は西側全域であった。 「まずここから北側に向かって、西側の方へ進んでいこう」 「はい」 「最後にひとつ聞いておくが、お前の捜し人は敵か味方か?」  クリステルは怪訝《けげん》な顔をした。 「味方ではありませんが……」 「ならば、いざという時は殺しても問題無いな?」  クリステルは驚愕《きょうがく》した。 「そんな、殺すだなんて!」 「敵ではないのか?」 「敵、というか……どちらかと申しますと敵ですが……そういう問題ではありません」 「じゃあ、どういう問題だ?」 「どういう問題って……」  信じ難いものでも見るように、クリステルはイーヴを見た。 「人を殺すのはいけないことです。悪いことです」  イーヴは一瞬唖然とし、やがて苦笑した。 「|神殿の聖職者《ぼうず》みたいなことを言うんだな。敵[#「敵」に傍点]を殺すんだぞ? それのどこが悪い?」 「敵だからといって、殺してよいわけがありません。同じ人間ではありませんか」 「同じではないさ。敵は敵だ。敵は殺すより外《ほか》無い」  クリステルは不快げに顔を曇らせた。 「なんて乱暴な……」 「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」 「話し合うという方法があるではありませんか」  イーヴは嗤《わら》った。思わず哄笑《こうしょう》しそうになって口を押さえた。  そんなイーヴを、クリステルは心外そうに見た。 「あのなぁ……敵っていうのは、話の通じない相手なんだぞ?」 「最初の内はそうでしょう。ですが、じっくりと話し合えば解り合えるはずです。それなのに、そういった努力もせずに、端《はな》から解り合えないと決めてかかって、あろうことか殺すだなんて……おかしいです。そのようなことが許されてよいはずがありません」  イーヴは苦笑混じりに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。  そしていきなりクリステルの口を封《ふさ》ぎ、そのまま地面に押し倒して、クリステルの上に馬乗りになった。  クリステルは何が起こったのか判らぬ様子だった。恐怖と驚愕を浮かべた目を大きく見開いて、イーヴを見上げていた。 「さあ、言ってみろよ。話し合いとやらをしてみろよ」 「……」 「この状態で何が言える? 何か言えたところで聞いてもらえるとでも思っているのか? 話し合う余地などどこにも無い。犯されて、殺されて、それで終わり。それが現実だ」  クリステルの青い瞳が揺れた。 「お前が何を考えようと勝手だが、それがお前以外の人間にも通用すると思うなよ。話し合いってのはな、話の通じる相手とするもんだ。話の通じない相手と話し合いがしたけりゃ、こうして力尽くで押さえ付けて、話し合わせ[#「話し合わせ」に傍点]るんだな」  言うだけ言うとイーヴはクリステルから離れ、洞窟の内《なか》へ戻った。荷物を取るためである。今までとは反対側を探索するのだ。この洞窟には当分戻ることはないだろう。  荷物を取って出てくると、クリステルはまだ押し倒されたままの恰好《かっこう》で呆然としていた。  今の己の行動はクリステルには少し刺激が強すぎたのかも知れない。  いきなり男に押さえつけられて恫《おど》されるなど、これまでの彼女の人生では一度も無かったのではないだろうか。いや、それどころか想像すらしたことも無かったのかもしれぬ。  しかしイーヴとしても悪意があったわけではない。  クリステルのあまりにも楽観的な思いこみが、いかに現実離れしているかを指摘し、その危険性に気付かせてやるのも本人のためだろうと思っただけであり、何も驚かせたり、怯えさせたりするつもりはなかったのである。  だが確かに、多少|揶揄《からか》い半分の気持ちがあったことは否めない。  人の善い相手を必要以上に脅《おど》かし、怯えさせてしまったかと思うと、微かな痛みのようなものがイーヴの胸に生まれた。 「……早く立て。行くぞ」  それを誤魔化すようにイーヴは急かした。  クリステルは呆然としたまま、徐《おもむ》ろに立ち上がった。  イーヴは先に立って歩き出した。ところがクリステルが従《つ》いてこない。訝《いぶか》しんで後ろを振り返った。  クリステルは立ち尽くしていた。硬い顔で俯《うつむ》いている。 「何を考えている?」  クリステルはきゅっと唇を引き結び、イーヴを見た。 「あなたのおっしゃることは正しいと思います。――ですが、人を殺すということだけは、わたくしには受け容れられません」  イーヴは自嘲気味にかすかに嗤った。  やはり、話し合いなんてものは無駄なものだと思う。  言葉なんかで何が解ろう。体験に勝《まさ》るものは何も無い。かと言って、死ぬ間際《まぎわ》に解ってもなんの意味も無い。 「……まあ、いいんじゃないか? 受け容れる受け容れないなんてのは、どうでもいいことだ。そういった意思とは無関係に、否応《いやおう》も無く動いているのがこの世というものだ。己の信条を守りたいのなら、人捜しなんぞはやめて、すぐに帰るべきだな。お前が生きてきた世界では、それでも生きてこれたんだろう? お前はその世界から出るべきではなかったんだ」 「……」  クリステルは俯《うつむ》いた。 「どうする?」  沈黙が落ちた。  鳥の囀《さえず》りが響いていた。  暫《しばら》くしてクリステルは口を開いた。 「……人捜しは、やめません」  嗄《かす》れた声だった。 「できれば……わたくしの捜し人は殺さないで下さい。話のまったく通じない相手ではありません」 「それは俺が決めることじゃない。その時の状況が決める」 「……」 「とまれ敵と接触しなければ、そういう事態は避けられる。お前の捜し人であると確認できたら、俺は去ろう。後は、話し合うなり殺されるなり、好きにしたらいい。――それで満足か?」  クリステルは無言で頷《うなず》いた。  ふたりは漸《ようや》く歩き出した。 [#改頁] 第一章 第四節 「ここからだ。ここから先は、まだ足を踏み入れていない」  崖《がけ》というほどでもない、緑の急斜面を足下《そっか》に望み、イーヴは振り返った。  三十歩ほど向こうから、丈高い草を掻き分けて、クリステルがやってきている。  戦士でもない、貴族の女である。  イーヴとしてはゆっくりと歩いているつもりでも、気がつけばこうして引き離してしまっていることがままあった。  しかしクリステルはイーヴに、疲れただの、ゆっくり歩いて欲しいだのと言うことはなかった。ただ黙黙《もくもく》とイーヴの後を従《つ》いてくるだけであった。  近間にやってきたクリステルには疲労の色が見えた。前髪が汗で額に貼り付き、息も少し上がっている。 「少し休むか?」 「いえ、先程《さきほど》休んだばかりです」 「と言っても、あれからもう一刻は経つんじゃないのか?」  イーヴは太陽の位置を見ながら言った。昼とも夕方ともつかぬ頃合いである。先の休憩は昼食を兼ねたものであった。 「だいじょうぶです」  クリステルは水を一口飲み、些《いささ》か語気強く言った。 「こういった山だ。さっさと用事を済ませて脱出したい気持ちは解らんでもないが、先は長くなるかも知れん。一月《ひとつき》は観てもよいだろう。常にある程度の余裕を持っていないと、いざという時には、俺を囮《おとり》にして逃げることもできなくなるぞ」  軽い口調でイーヴが言うと、クリステルは俯《うつむ》いた。山歩きですでに上気していた顔が、さらに赧《あから》んでいる。  指摘が的を射ていたのか、己の言葉をそのまま返されたのが癪《しゃく》だったのか、そのどちらかだろうか――クリステルの反応をイーヴはそのように解釈した。  何か言い返してくるのではないかと思ったが、そんなことはなかった。 「……その通りですね。少し休みましょう」  羞恥を隠すように何気《なにげ》なくイーヴに背を向けて、クリステルは倒木に腰を下ろした。  クリステルが落ち着くのを待ってから、イーヴは口を開いた。 「これからのことだが、まず水場を探そう。十数人となれば、必ず水を確保しようとするはずだ。水場に沿って探せば手掛かりが得易《えやす》いと思う」 「同感です」 「それから、財宝が隠されていそうな場所……というと、やはり洞窟なんかが妥当《だとう》だろうな。でなければ穴を掘って埋めるか、滝壺《たきつぼ》に沈めるか……」  しかしイーヴの知る限りでは、この山にそれほど大きな滝はない。そもそも滝と呼べるほどのものを見かけたことがない。  地に埋めたとしても、何か目印になりそうなものの傍《そば》に埋めるはずである。こちらはまだ可能性があると言えるが、宝を隠す立場から言えば、それよりも洞窟を利用した方が手っ取り早い。 「洞窟だな」  イーヴは確信ありげに頷《うなず》いた。 「では参りましょう」  クリステルは立ち上がり、先に立って斜面を下り始めた。  わずかな休憩であったが、それでもそれなりに恢復《かいふく》したらしい。幾分虚勢が窺《うかが》えるものの、先よりもしっかりした様子である。滑り落ちぬよう、丈夫な草を握り締めながら下っていく。 「おい、気をつけろ。足を滑らせたら大変だぞ」  クリステルに注意を促《うなが》しながら、イーヴも斜面を下り始めた。  西側も東側同様、鬱蒼《うっそう》としていた。幾重《いくえ》もの枝葉の天井に蓋《おお》われて、昼なお暗い。  しかし、斜面を下って四半刻も歩かぬうちに、前方に明るさが見え始めた。 「おい」  早早《そうそう》に追い越してしまったクリステルを、イーヴは振り返った。クリステルは五歩ほど後ろで立ち止まっていた。 「開《ひら》けたところに出るようですね」  イーヴは少々|訝《いぶか》しんだ。 「見えないのか?」 「何がですか?」 「たくさんの木が倒れている。いや、薙《な》ぎ倒されている。……土砂崩れのようだな」  クリステルは、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて目を凝らした。 「……よくお見えになりますね。わたくしには明るいことしか判りません」 「そうか。この辺の人間なら、誰でも見える距離なんだがな」  都人《みやこびと》は目が弱いと聞いたことがある。情けない話だが、このくらいでも見分けられないのだろう。 「迂廻《うかい》なさるおつもりですか?」 「そうした方がよくないか? いつまた崩れてくるとも限らんだろう?」 「最近崩れたものなのでしょうか?」  イーヴは目を凝らした。 「ん――……草木が邪魔でよく判らんな。しかし、あれだけの土砂崩れなら、この山のどこに居ても判りそうなもんだ。俺が居るこの一月《ひとつき》、そんな音はまったく耳にしなかった。少なくとも一月以上前のことだろう」 「では、もう少し近づいてみてもだいじょうぶではないでしょうか?」 「そうだな」  そのまま歩を進めてみると、最近のものではないことが見て取れた。薙ぎ倒された木々はすでに朽《く》ちており、なだれた土砂の上には新たな草木が蓬蓬《ぼうぼう》と芽吹《めぶ》いている。  ふたりはさらに歩を進め、天に遮《さえぎる》るもの無き陽射しの下《もと》、風化しつつある土砂崩れを目の前にした。水平方向に歩いてきたふたりと垂直に交わる形で、三百歩分ほどごっそりとなだれている。下の方を見れば、崩れ落ちた土砂や倒木などが揉《も》みくちゃになって溜《た》まり、こんもりと盛り上がっていた。  ――と、その中に、イーヴは異質なものを見つけた。 「ここで待て」  クリステルに言い置いて、滑るように斜面を下った。  それ[#「それ」に傍点]は布の切れっ端のように見えた。近づいてみると案の定、それに相違無い。薄茶の襤褸《ぼろ》切れが、緑芽吹く土砂の中から飛び出ていた。  イーヴはそれを引っ張ってみた。だが土砂は思いの外固く締まっており、そのまま引っ張り上げることはできなかった。かといって無理に引っ張れば、容易に千切《ちぎ》れてしまいそうだった。  イーヴは手近に落ちている枝切れを拾い上げ、襤褸切れを掘り出してみた。  元元は白かったのであろうか。土砂に埋もれていた部分は、日に晒《さら》されていた部分よりも白っぽかった。  端には折れた棒が括《くく》り付けられている。もしかしたら旗であるのかも知れぬ。  拡げてみると真ん中に意匠があった。黒い盾形の中で赤い孔雀《くじゃく》が羽を拡げているが、孔雀など知らぬイーヴには奇妙な鳥にしか見えない。 「紋章……?」  イーヴが呟《つぶや》くと、すぐ近くで息を呑む声がした。  見上げると、いつの間にやらクリステルが下りてきていた。何やら恐ろしいものを見たとでもいうような顔付きで、イーヴが掘り出したものを覗き込んでいる。 「知ってるものか?」  クリステルは頷《うなず》き、 「……捜している人間の、家紋です」  震え気味の声でそう言った。 「ほう?」  妙な話だと思った。  しかしそれを考える間もなく、クリステルが口を開いた。 「まずいかもしれません……もしかしたら……」  クリステルは意味ありげにイーヴをじっと見つめた。あまりにも深刻な眼差しだった。イーヴは何やら薄《うす》ら寒くなった。 「……なんだ? 俺がどうかしたか? まずいって何が?」  クリステルが口を開いた。  その瞬間――  クリステルの足許《あしもと》が崩れた。  イーヴよりも高いところに立っていたクリステルは、そのままイーヴに向かって倒れ込んだ。  イーヴはクリステルを受け止めようとしたが、足場が悪かった。受け切れずに諸共《もろとも》地面に転がった。  怪我をしても怪訝《おか》しくない状況だったが、幸《さいわ》いにイーヴが下敷きになるだけで済んだ。これがもっと上の斜面であったなら、転がり次第転がって、突き出た倒木などに衝突していたかも知れぬ。  クリステルはイーヴの肩に顔を埋《うず》めていた。 「……大丈夫か?」  その言葉で我に返ったように、クリステルの顔が上がった。 「あ……」  間近で目が合った。  が、すぐさま外《そ》らされた。 「も、もうしわけありません……」  頬をわずかに赤く染めて、クリステルはそそくさとイーヴから離れた。  そんなクリステルを見ていたら、イーヴもなんとなしに気不味《きまず》くなった。クリステルから目を外らし、徐《おもむ》ろに体を起こした。 「怪我はなかったか?」 「……はい。――あ! あなたの怪我は……」  クリステルはイーヴを振り返り、怪我を負っているその肩を見た。  つられて、イーヴも己の肩を見る。怪我のことなどすっかり忘れていたが、どうということもなかった。 「いや、大丈夫だ」  クリステルは安堵《あんど》したように息を吐いた。  イーヴはクリステルが足を取られたところを見上げた。どうやら旗を掘り出したところが崩れたらしい。人ひとり潜《もぐ》り込めるほどの穴が開いている。  そこに、また何かを見つけた。  穴の中から助けを求めるように、ぬっと突き出ているものがある。  白過ぎる、細過ぎる、五本の指――  骨の手だった。 「これがお前の捜し人……」  と言いかけて、 「……な、わけないよなあ」  苦笑混じりに打ち消した。  捜し人は三週間近く前に入山したということであった。この山で死んだとしたら、当然その屍体《したい》は死後三週間以内のものであるはずである。目の前の骨はそういったものには見えなかった。  三週間で人体は白骨化するのかどうかといえば、これは状況による。外気に晒《さら》されていたり、獣に喰われていたりすれば、白骨化は格段に速まる。  無論白骨化と言っても全身綺麗に骨だけになることを意味しない。それには野晒しになって長期間がかかる。  その意味ではこれは部分的白骨化というべきなのだろう。  しかし屍体は土砂に埋まっていたようだし、獣に喰われたにしては骨の状態があまりにも綺麗《きれい》過ぎた。多少折れたり罅《ひび》割れたりしているところはあるものの、獣が齧《かじ》り付いたような痕《あと》はなかったし、そもそも解《ばら》けて散乱してもいなかった。伸ばされた手が、そのまま土砂に埋もれて、そのまま白骨化した――そんな感じである。  そして、それを埋め潰《つぶ》したであろう土砂崩れもまた、ここ三週間以内のものではあり得なかった。少なくとも一年以上は経っているに違いない。  何となく気になるのは、その指に嵌《はま》っている指輪である。おそらくは金であろう、持ち主の身分の高さを窺《うかが》わせるが、問題はそれに彫られている意匠《いしょう》であった。捜し人の家紋であるという、旗のそれと同じものなのである。 「下山、しましょう」  嗄《かす》れた声で、クリステルが言った。 「は?」  何を唐突《とうとつ》に――と、訝《いぶか》しみながら振り返ると、クリステルが青冷めていた。  どうも先程《さきほど》から様子が怪訝《おか》しい。  さては、屍体を目《ま》の当たりにして怖気《おじけ》づいたか――そう思って、イーヴはなんとなくつまらなくなった。 「てことは、人捜しはこれで終わりか?」  クリステルは頷《うなず》いた。  イーヴは溜息《ためいき》を吐《つ》いた。 「……まあ、いいけどな。好きにしたらいい。――それじゃあ、これでお別れだな。助けてくれてありがとな。道中、気をつけてな」  軽く手を挙げてから、クリステルに背を向けた。  が―― 「あなたも一緒です」  後ろから腕を掴《つか》まれた。  振り返ってみると、クリステルは青冷めつつも険《けわ》しい顔をしている。何がなんでも引き留めるといった様子である。  イーヴはまた溜息を吐き、己の腕を強く掴《つか》んでいるその手を、そっと退《の》けた。 「麓《ふもと》まで送れってのか?」 「はい。お願いします」  懇願の眼差《まなざ》し――否《いな》、そのような謙虚なものではなかった。強要するような鋭い眼差しが、イーヴを見つめた。  イーヴは少々|気圧《けお》された。唖然《あぜん》としたと言ってもよいかも知れぬ。  だがここまで付き合ったのだ。この際、麓まで付き合ってもよかろう。このまま別れて、この女の屍体を発見でもしたら寝覚めも悪いことである。 「……解《わか》った。送ろう」 「ありがとうございます。――では、急ぎましょう。急がないと、日が暮れるまでに麓に着けません」  そう言うなり身を翻《ひるがえ》し、クリステルは走るように歩き出した。  送ってもらうにしては、随分《ずいぶん》と逞《たくま》しさを感じさせる、一連の言動であった。  半ば呆《あき》れながら、イーヴは後を追った。    * 「ここまででいいか?」  応《いら》えはなかった。  激しい息遣いが聞こえていた。  夥《おびただ》しい汗と熱を発しながら、クリステルが肩で息をしていた。  イーヴはともかく、クリステルにとってはかなり無理をした下山であった。  イーヴに気遣いが無かったわけではない。それを撥《は》ね除《の》けて、クリステルが先を急いだのである。  その甲斐《かい》あって、陽が沈む前に麓《ふもと》に辿《たど》り着くことができた。夕陽に照らされた荒野が、木々の合間に見えている。あと数十歩も歩けば、ジャンザビの外である。  クリステルは大きくゆっくりと呼吸した。何度もそうして息を整え、落ち着いたところでイーヴを見据《みす》えた。そしてきっぱりと言い放った。 「よくありません」  理解しかねる言葉だった。 「そりゃどういうことだ?」 「あなたもこの山を出るのです」  まったくもって理解しがたい言葉だった。  唖然としつつも、さすがに苛立《いらだ》ってきた。茶番には付き合っていられない。 「……お前、なんか勘違いしてないか? 俺をお付きの騎士かなんかだと思ってないか?」  クリステルの顔がぱっと赤くなった。驚愕《きょうがく》と羞恥《しゅうち》の色である。 「……もうしわけありません。そんなつもりはありませんでした。気分を害されたのなら謝《あやま》ります。しかし、ここで話をしている場合ではありません。まずは外に出ましょう」 「断る」  クリステルの表情《かお》が固まった。 「外に出るのは『大いなる敵』を斃《たお》してからだ」 「……っ」  クリステルは反射的に何かを言いかけたが、すぐに思い直したように口を噤《つぐ》んだ。  内心の焦りを無理矢理に抑え込んだという風であった。  何がクリステルをこれほど焦らせているのか。  イーヴの中に疑問が生まれたが、それを検討するつもりはなかった。己にとっては山を出るように要求されたことの方が遥かに問題であって、その言動の不可思議さに対する疑問など、それに比べれば全く問題にはならなかったからだ。 「……あなたの目的は承知しております。しかし、今は外へ出て、わたくしの話を聴いて下さい。それから山に戻っても、なんの問題もないはずです」  イーヴは苦笑混じりに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。 「解《わか》ってないな。そういう問題じゃない。『大いなる敵』を斃さぬうちは、何があろうと下山しない――そう決めてあるんだ。そう誓《ちか》ったんだ」  ――己自身に。  己自身に掛けた誓いを破るということは、己自身を裏切ることである。己自身を裏切るということは、己自身を否定することである。  己自身を否定して、どうして生きていけようか。どうして闘《たたか》うことができようか。  生きるということは闘うことで、闘うということは己自身と他者との殺し合いである。  闘いに勝利し、生き残るためには、絶対的な、揺るぎない、己自身が必要不可欠なはずであった。 「その誓いを破ってまで、お前の話を聞かねばならん理由など無いし、いや、そもそも、俺はお前の話になんぞ興味は無い」 「……」  クリステルの顔が険《けわ》しくなった。 「『大いなる敵』に関する話でも、ですか?」  イーヴは思わず鼻で嗤《わら》ってしまった。選《よ》りに選《よ》ってそう来るか。だが、そんなちゃちな手には乗らない。 「『大いなる敵』に関する話って、お前が何を知ってるって言うんだ? 俺が話すまで、お前は『大いなる敵』の存在すら知らなかったじゃないか。話にならんな。何を勿体《もったい》ぶってんのか知らんが、話したいことがあるならここで話せよ」 「……」  クリステルの険しい顔付きに、沈痛なものが混じった。 「あなたを見捨てたくないのです」  懇願するように言う。  これまた妙なことを言うと、イーヴは訝《いぶか》しんだ。 「話が見えないな。さっさとはっきり言ったらどうだ? 急いでるんだろう?」 「時間のかかる話です。――いえ、あなたが納得なさるには時間がかかる、と申し上げた方がよろしいでしょうか」 「俺が納得するかどうかはお前が決めることじゃない。俺が[#「俺が」に傍点]決めることだ」 「……」  イーヴの言葉を噛《か》み締《し》めるように、クリステルは唇を引き結んだ。しかし、やがて観念したように溜息《ためいき》を吐《つ》いた。 「解《わか》りました。お話ししましょう」  クリステルの話は信じ難いものであった。  天に太陽が二つ現れる時、ジャンザビは人の世の理《ことわり》から外れ、外の世界とは異なる世界に変わってしまうのだと云う。  そこに足を踏み入れると、容易には外に出られなくなってしまう。運|好《よ》く出られたとしても、油断はならない。ジャンザビの外は、元の世界――入る前に己が居た世界とは限らないのである。遥《はる》か遠くの、何処《いずこ》とも知れぬ世界になってしまっているのだと云う。 「謂《い》うならば、この山の真の姿とは、人の世の理《ことわり》を超えた乗り物なのです。太陽が二つになったその時だけ扉が開かれて、乗ることができ、閉ざされて移動している時は降りることができない」  そして今まさに、己らが真のジャンザビに乗り込んでいる可能性があると云うのである。  イーヴとしては、唖然《あぜん》を通り越して嗤《わら》うしかない話であった。  しかも、矛盾《むじゅん》しているところがある。 「確かに、俺がこの山に入った時、太陽は二つ在った。しかし、あれが最初で最後だった。あれ以来、太陽が二つになることはなかった。それなのにお前は俺よりも後から入ってきたんだろう? お前の話に拠《よ》れば、太陽が二つにならない限り、その……異なる世界のジャンザビとやらには入れないんではなかったか?」 「その通りです。それゆえ断定しかねているのです。……もしかしたら、太陽がひとつであっても、入ることができるのかもしれません」 「こじつけだな」 「ですが、そうでも考えませんと、あの屍体《したい》の説明がつかなくなります」 「ほう?」 「あの屍体は、三週間近く前に入山したはずの、わたくしの捜し人です。しかし、あなたもご覧になった通り、あれは死後三週間以内のものには見えませんでした。少なくとも一年以上は経っているはず。つまり、わたくしたちが今居るこのジャンザビは、一年以上先の世界のジャンザビだということです」 「屍体の状態に関しては同感だが……あれは本当にお前の捜し人だったのか? 疑うべきはそこではないのか? 人間であることしか判らん、ただの骨だったじゃないか。お前の捜し人の家紋入りの指輪をしてはいたが、さて、どういった来歴でそいつの手に渡ったものやら……。そう考えれば、なんの不思議も無いはずだ」  クリステルはイーヴを非難するように見た。 「やはり、わたくしの話を信じていらっしゃいませんね?」  イーヴは苦笑した。 「いきなりそんな話をされて、信じる方がどうかしてると思わんか?」 「だから申し上げたではありませんか。納得なさるには時間がかかると」 「一応言っておくが、お前の厚意だということは理解してる」  屍体を発見してからのクリステルの奇妙な言動は、なるほど、そう言われてみれば納得できるものがあった。己を麓《ふもと》まで連れてくるための口実を作りはしたが、この突飛《とっぴ》な話の内容自体は本当なのだろう。クリステルにとっては。 「しかし、お前の厚意であっても、俺が信じるか信じないかは別だ」 「信じる必要などありません。外に出てみれば解《わか》ることです。出ようとしても出られなければ、信じざるを得なくなるはずです。しかし、あなたはそれはできないとおっしゃる。『大いなる敵』という存在が、あなたをここに繋《つな》ぎ止めている」 「ああ」 「でも……」  クリステルは沈痛な面持ちで、躊躇《ためら》いがちにイーヴを見た。 「最初に申し上げますが、わたくしはあなたの目的を奪いたいわけではありません。また、あなたを外に連れ出したいがために、これからのことを申し上げるわけでもありません。……ただ、この山を彷徨《さまよ》い続けるであろうあなたを想うと、あまりにも不憫《ふびん》で……」  知らず、イーヴの顔が険しくなった。  この女はいったい、何を喋《しゃべ》ろうとしているのか…… 「考えるに、あなたの部族の戦士たちは、『大いなる敵』に挑んだのではなく、この山の犠牲になったのではないかと……つまり、『大いなる敵』というものは存在していないのではないかと……」  イーヴは嗤《わら》った。  咽《のど》の奥でくつくつと嗤った。 「随分《ずいぶん》と都合が良過ぎる話じゃないか? 『大いなる敵』に挑んだ戦士たちは、ひとりやふたりではない。俺が実際に見送った戦士だけでも三人はいるし、俺たちの挑戦は昨日今日始まったものでもない。その全員が、どこかへ消えたってのか?」 「あるいは、この山を彷徨《さまよ》い続けて朽《く》ちたか……」 「付き合えんな。お前はお前が信じる通りにすればよかろう。俺もそうするまでだ。それでなんの問題もないんじゃないのか?」  ふたりは冷えた視線を合わせた。 「あくまで、下山なさらないとおっしゃるのですね?」 「『大いなる敵』を斃《たお》すまではな」 「そうですか。ご立派な覚悟です。しかし、その覚悟――」  クリステルは小さく嗤った。 「失礼ながら、わたくしには上辺《うわべ》だけのものに思えます」 「なに?」  イーヴはクリステルを睥《にら》んだ。クリステルは静かに受け止めた。 「『大いなる敵』を斃すまでは下山しない――その言葉の本質は、『大いなる敵』を斃すことに対する覚悟の表明ではありませんか? 覚悟そのものではないはず。それなのに、あなたはそんなものに獅噛《しが》み付いていらっしゃる。そうでもしなければ消えてしまうような覚悟なのでしょうか? 下山したところで消えてしまうような覚悟なのでしょうか?」 「……っ!」  言葉に詰まった。  詭辯《きべん》だと思う。  屁理窟《へりくつ》だと思う。  しかし、言い返せない。  腹立たしい女だと思った。  イーヴは舌打ちひとつして、 「……解《わか》った。俺の覚悟を見せてやろうじゃないか」  まんまと乗せられていると思いつつ、外に向かって歩き出した。  遮《さえぎ》るものの何も無い、一面の荒野の遥か向こうで、天と地を赤く灼《や》きながら陽が沈みかけていた。  それを左前方に眺めつつ、イーヴはジャンザビの際《きわ》で立ち止まった。 「いいか? 行くぞ?」 「お待ち下さい」  クリステルが右手を差し出してきた。 「手を繋《つな》ぎましょう。何が起こるか、判りませんから……」  イーヴは差し出された手を見つめた。白く細い手だった。  何かが起こるとは思えなかったが、その手を取った。こんな茶番はさっさと終わらせよう。  ふたりはしっかりと手を繋ぎ、ジャンザビの外へ向かって同時に踏み出した。 [#改頁] 第一章 第五節  ふたりは影の中で立ち尽くしていた。  本来ならば、山は背後に、目の前には夕陽に照らされた荒野が、拡がっているはずであった。  だが前方には、夕闇に落ちた山が聳《そび》えていた。左前方に在ったはずの夕陽は山の背後に隠れ、炎《ほむら》のような陽の残滓《ざんし》をわずかに見せていた。  イーヴは呆然とその光景を眺めていた。  呆然と眺めるより外《ほか》無かった。  何がどうなったのか、皆目《かいもく》判らない。  答えを求めるようにクリステルを見れば、今にも倒れそうなほどに青冷めていた。 「……大丈夫か?」 「……」  返答は無い。 「これはどう考えればいいんだ?」 「……」 「外に出られなかったってことなのか?」 「……」 「ここはさっき居た場所とは反対側だよな?」 「……」  クリステルは青冷めた顔で山を見続けている。  イーヴも再び山を眺め、考えを回《めぐ》らした。  先程のクリステルの話からこの状況を考えれば、己らが居た世界とは異なる世界のジャンザビに居るということになる。  いや、異なるのはジャンザビの外か。  それともジャンザビが異界であるがゆえに、外が異なっているのか。  イーヴには判らなかった。  尤《もっと》も、山の内と外との、どちらが異なる世界であろうが、己らが置かれた状況に違いはない。  いずれにせよ、外に出ることができないのだから同じことである。  ともあれクリステルの話が事実であるならば、この一月《ひとつき》もの間、己は異なる世界を探索していたことになる。  確かに、異なる世界と言えば異なる世界には違いはなかった。ここには見たことも無い動植物が溢《あふ》れている。  無論、己の知見など高《たか》が知れている。その己の尺度で、ここが異なる世界かどうかを測ることなど、できるとは思えぬ。現に己が見たことも無い植物をクリステルは知っていた。  そもそも「異なる世界」とはいったいなんなのか、いまいちぴんと来ない。神殿の聖職者が言うところの死者の世界、「あの世」のようなものなのであろうか?  そう考えるといよいよ胡散《うさん》臭い。事実とは思えない。  結局真実がどうであるにせよ、今、外に出られなかったことは確かである。  これはどう考えるべきなのか?  考えられることは二つある。  一つはクリステルの話が全て真実であった場合だ。だがそれは、あまりにも恐ろしいことのように思えた。  もう一つならば解りやすい。 「大いなる敵」である。  どういう技を使ったのかは判らぬが、獲物を逃《のが》さんとして、己らの下山を阻《はば》んだのではあるまいか?  そうとしか考えられなかった。  そうに違いなかった。  だが――  一度も姿を見せなかったくせに、今になって行動を起こすだろうか?  それともこれが奴の手管《てくだ》――エク族の戦士たちを消耗させてきた罠《わな》なのであろうか?  判らなかった。  考えれば考えるほどに判らなくなる。そしてこれが「大いなる敵」の仕掛けてきた手である場合、己が迷うほどに、悩むほどに、奴が有利になるのだ。  冷静にならなければならない。  イーヴは深く息を吸って、吐いた。 「意外と冷静なのですね」  いきなり話し掛けられて驚いた。  先まで、声を掛けてもうんともすんとも反応が無かったのだから、こちらこそ意外である。  山に目を向けたまま、イーヴは答えた。 「慌《あわ》てたところで、どうなるもんでもないだろう。いや、むしろ状況を悪化させるだけだ」  いかなる時も常に冷静であること。  それが生き残るための道である。  なかなか難しいことではあるが。 「外に出られませんでしたね」 「ああ」 「信じる気になられましたか?」 「まさか」 「では、この状況をどうお考えで?」 「『大いなる敵』の仕業《しわざ》ではないかと思っている」  小さな溜息《ためいき》が聞こえた。 「……そうですか」 「今のところは、な。なんにせよ、判断材料が少な過ぎる」 「引き続き、『大いなる敵』の探索をなさるおつもりですか?」 「ああ。――お前はどうする?」 「わたくしは出口を探します。太陽が二つなくとも入れたのですから、出ることもできるかもしれません。――ですが、その前に、もう一度あの屍体《したい》を確認したいと思います。今|暫《しばら》く、ご協力願えませんか?」 「いいだろう」    *  翌日、ふたりはあの土砂崩れの場所に向かった。  ジャンザビの不思議、あるいは「大いなる敵」の仕業《しわざ》で、山の反対側に飛ばされてしまったふたりであったが、そうしてやってきたのと同様、外に向かって進むと、元居た場所に戻ることができた。その後もまた、やってきた道を逆に辿《たど》っていった。  土砂崩れの近くにやってくると、その傍《そば》に天幕と思しきものを見つけた。最初に土砂崩れを見つけた時にも、あったかどうかは判らない。あったとしても、他のことに気を取られていて、見逃してしまった可能性が高い。  イーヴは木陰に身を寄せて、クリステルに目配せした。察しの良いクリステルは、身を屈《かが》めて静かにこちらにやってきた。  イーヴは小声で言った。 「向こうに天幕がある」  クリステルの顔に驚きと緊張が走った。 「人は……居るんでしょうか?」 「観た感じでは、居ないようではあるな」 「確かめてみましょう」  ふたりは草木に身を隠しながら、辺りに注意を払いながら、慎重に天幕に近づいていった。  天幕は全部で二つあった。いや、辛《かろ》うじて原型を留めているものが二つ、と言うべきか。土砂崩れに捲《ま》き込まれたものがいくつかあるらしかった。天幕の残骸《ざんがい》と思しきものが、土砂の中から見えていた。  原型を留めているその二つも、天幕の形を成してはいるものの、どこもかしこも風化して、破れたり傷《いた》んだりしている。張られてそれなりの時が経っているに違いなかった。  天幕内に人の気配は感じられない。恐る恐る内《なか》を覗《のぞ》いてみれば、兎《うさぎ》が数匹出てきたくらいで、やはり人の姿はどこにも無い。生活道具が無雑作《むぞうさ》に転がっているだけであった。  注目すべきは、天幕に描かれた紋章である。黒い盾に赤い孔雀《くじゃく》――クリステルの捜し人の家紋に違いなかった。 「どうお考えになります?」  クリステルが聞いてきた。 「外で飯でも食ってる時に、土砂崩れが起こった――そんな感じじゃないか?」 「やはり、事故だと思われますか?」 「そりゃあ、まあ、見たまま解釈すれば……」  イーヴははたと気づいて、 「『大いなる敵』の仕業《しわざ》、か?」 「いえ、そうではなく、彼らの死が人為的なものである可能性はあるのかどうか、ということです」  人為的な死――それがクリステルにとって特別な意味を持つであろうことは、容易に推察できた。クリステルには、殺人に対する忌避《きひ》意識がある。 「この土砂崩れを人の手で起こせるとは到底思えんな」 「では、人の手で殺された後に、土砂崩れが起こったというのは?」  イーヴは考え込むように唸《うな》った。 「奴ら、十数人という話だったよな? 全員、黙って首を差し出したってんなら話は変わってくるが、それだけの人数を殺すとなると、相手方にもそれなりの人数が必要だし、その人数で戦闘になれば、土砂で埋まらなかったところにもなんらかの形跡があって然《しか》るべきだと思うが……」  見たところ、そんな形跡はどこにも無かった。 「一応、あの屍体を掘り出してみるか」  ふたりで屍体を掘り出し、調べてみた。  屍体はすべて白骨化していた。体液によるものであろう、黒ずみと異臭が染み込んでいる衣服に包まれていた。  人為的な傷痕《きずあと》は無いようであった。土砂に押し潰《つぶ》されたためと思しき、骨や衣服の損傷が見られるだけであった。  腰には剣が佩《は》かれていたが、使われた形跡はまったく無かった。  イーヴは確信した。 「やはり、事故だな」 「……」  クリステルからの応《いら》えは無かった。  振り返ってみると、クリステルは泣き笑うような顔をしていた。形振《なりふ》り構わぬ大きな安堵《あんど》が、そこにあった。  イーヴはすぐさま目を外《そ》らした。所詮は行きずりの関係である。その己が見てよいものではないと思ったのである。  イーヴはクリステルを置いて、静かにそこを去った。    *  その時を境に、ふたりはそれぞれに行動を始めた。  イーヴは「大いなる敵」の探索に、クリステルは出口の探索に向かった。  別行動ではあったが、数日に一度、顔を合わせて情報交換はする。  しかし、その度《たび》に互いの徒労を知るばかりのこととなった。  もしや、あちらには何か収穫があるのではないか?  少なからず、そんな期待が互いにあった。  それが顔を合わせる度に打ち砕かれるのだ。徒労感はいや増した。  諦めれば楽になることは承知していた。  しかし、諦めれば大切なものが崩壊する。  その狭間《はざま》で心が揺れた。  イーヴにとっての諦めは、「大いなる敵」の不在を認めることである。「大いなる敵」に懸《か》けてきた、これまでのすべてを無に帰《き》すことである。延《ひ》いては、「大いなる敵」に挑んだはずの戦士たちの名誉を汚すことであった。  彼らは「大いなる敵」との正正堂堂たる闘いに敗《やぶ》れたのではなく、ジャンザビの神秘に、訳も解らず、抗《あらが》いようもなく、消されたのだと――。  認めるわけにはゆかなかった。  それゆえイーヴは歩き続けた。  日が昇り、暮れるまで、当てもなくジャンザビを彷徨《さまよ》った。  そうしてまた一月《ひとつき》が過ぎた頃である。  イーヴはある異変に気づいた。  クリステルに寝床として提供したことのあるあの洞窟、今は待ち合わせ場所のひとつとして使っている洞窟に、いつの間にやら、細細《こまごま》とした道具や薪《たきぎ》、食糧、薬草などが備蓄され始めたのである。しかも綺麗《きれい》に整理整頓《せいりせいとん》されている。そして、これまたどこからそんなものを持ってきたのか――いや、いつの間にそんなものを作ったのか、何十本もの枝を格子《こうし》状に組んだ造りの棚が置かれ、その中には、干された肉や魚、薬草が収《おさ》められている。いかにも風通しの良さそうな棚は、干物《ひもの》を置いておくには最適なものと思われた。  イーヴは呆気《あっけ》にとられつつ、深い感動を覚えた。己には到底《とうてい》できそうにもないことである。  こんなことをするのはただひとり、あの女、クリステルしかいまい。  ――これが貴族というものなのか……。  貴族というものは、多くの人間に傅《かしず》かれて威張っているだけの存在だと思っていたが、どうやらその認識を改めねばならぬようである。やはり、そうされ、そうするだけの能力が、貴族にはあったのだ。  イーヴはそう考えた。  無論、安易な考えである。しかし、貴族のことなどよく知らぬイーヴである。その考えの安易さなど判らぬし、そう考えてしまうのも無理からぬことではあった。  それはともかく、イーヴはこの状況を訝《いぶか》しんだ。  これはいったいどういうことなのか?  ――これではまるで…… 「どうされました?」  いきなりの声に、イーヴは驚いた。  振り返ると、影のように頼り無げな様子で、クリステルが立っていた。  精神的にも肉体的にも、隠しようも無いほどに疲労が露《あら》わである。無論、イーヴとて似たようなものであったが。 「……いや、これはどういうことなのかと思ってな。ここに腰を据《す》えるつもりなのか?」  クリステルは頷《うなず》いた。 「……もちろん脱出を諦めたわけではありません。待つことにしたのです」 「待つ? 太陽が二つになる時をか? 誰かが救《たす》けにやってくる時をか?」 「脱出できるその時を」 「待ち続けた先に、脱出があるとは限らんのだぞ?」 「歩き続けた先に、脱出があるとも限らないでしょう」  ふたりは硬い表情のまま、暫《しば》し目を合わせた。  先に目を外らしたのはクリステルの方だった。 「……いえ、嫌味《いやみ》を言いたいわけではないのです。この山の不思議は人智を超えたものです。それに対して、どうすることが最善かなんて、判りようがありません。また、それと同様に、脱出できるその時がいつ来るかも、判りようがありません。取り敢えずはっきりしているのは、その時が来る前に死ぬわけにはゆかないということです。この状況です。つい気ばかりが焦って、自分の足許《あしもと》を見失いがちになりますが、それで死んでしまっては元も子もありません」 「……ふむ」  イーヴは唸《うな》った。唸らされた。  クリステルはかなり追い詰められている。それは見ただけで判る。  だがその精神は明晰《めいせき》さを失っていないのだ。諦めてもいない。  見事《みごと》だと思った。 「なあ……」 「なんでしょうか?」 「その、貴族ってのはみんな……お前みたいなのか?」  そのように強い心を持っているものなのか? 「おっしゃることの意味がよく解りませんが……」 「いや、いい。気にするな」  イーヴは話を切り上げた。自分でも、なぜそんなことを口に出してしまったのか解らなかった。  感心している場合ではない。己とて同じ立場にあるのだ。 「……暫《しばら》く休むか」  イーヴの呟きにクリステルが目を向けた。 「どういう意味でしょうか?」 「このまま山歩きを続けても、奴が姿を現すとは思えない。ならばその間、お前の手伝いでもしようかと思ってな」  出口探しとやらはともかく、日々の食糧集めやその加工など、やるべきことはあった。  今までは探索の片手間に行っていた作業を集中してやるわけだ。  そしてそういうことは、クリステルの方が得意そうであった。 「お前の指示に従おうと思う」  イーヴが言うと、クリステルはちょっと驚いたようだったが、何も言わずに頷《うなず》いた。  クリステルは馬鹿ではない。一緒に生活をしてきて、そのことははっきりと判る。  その能力は信頼に足るものだし、人柄の方も信頼に値すると思う。  とにかく効率的に食糧を蓄え、生活の基盤を強化しなくてはならない。  無論、いつまでもこの山で暮らすつもりはない。 「大いなる敵」を斃《たお》すまでの話だ。  奴はいつか必ず、この己の前に姿を現すだろう。  必ず……。 [#改頁] 第一章 第六節 「おい、これ、食えるやつなんじゃないか?」  イーヴは目の前の野草を指し示した。クリステルが教えてくれた、食べられる野草に見えたのである。  近くで野草採りをしていたクリステルは、すぐさまやってきた。 「ゼナムと勘違いしたようですね。葉の先を見て下さい。ほら、円《まる》いでしょう? ゼナムは尖《とが》ってますから」 「……そうか」  イーヴは小さく溜息《ためいき》を吐いた。  クリステルの手伝いを始めて一週間が経つ。  食べられる野草について、クリステルの教えを受けたものの、まだうまく見分けられない。 「そう、気を落とさないで下さい。人には得手不得手というものがあります。わたくしは狩猟がうまくありませんから、わたくしたち、互いに補《おぎな》い合えているではありませんか。それでよいではありませんか」  慰めるようにクリステルは至極《しごく》尤《もっと》もなことを言うが、イーヴとしては釈然《しゃくぜん》としない。 「ここではこれくらいにしましょう。次はあちらです」  採集物を入れてある、干し草で編んだ籠《かご》と、柴《しば》の束《たば》を小脇に抱え、クリステルは歩き出そうとした。 「貸せ」  イーヴはクリステルから柴を取り上げた。 「ありがとうございます」  クリステルは微笑み、先に立って歩くべく、身を翻《ひるがえ》した。金の髪がふわりと揺れた。  いつの間にこんなに伸びたんだろう、と、イーヴはふと思った。  出遇《であ》った頃は、肩にも届かぬほどの髪だった。それが今や、肩に触れている。  ――それほど時が流れたということか……。  よもや、これほどジャンザビに留《とど》まることになろうとは、思いも寄らぬことであった。いまだ「大いなる敵」と相見《あいまみ》えること叶《かな》わず、その代わりのように貴族の女と出遇って、こうしてふたりで生活することになろうとは。  どうにも落ち着かぬ気分だった。  もしや己は、どこか違う場所に入り込んでしまったのではないか?  クリステルの話を真《ま》に受けるわけではないが、そう感じてしまう時がある。  己が立っているはずのこの現実に、ひどく違和感を感じてしまう時がある。  それゆえクリステルが不可解であった。  このような望ましくない状況にも拘《かかわ》らず、どこかでそれを受け容《い》れているようなところが、彼女から感じられるのである。しっかりと地に足を着けて、この状況を生き抜こうとする逞《たくま》しさが感じられるのである。  いったい、その細く小さな体のどこに、そんな力が秘められているのか……。  クリステルの背中を見ながらそう思っていると、次第にその先が明るくなり、視界が開けた。  見晴らしの良い場所だった。  山の外が、遥か彼方までよく見える。  まだ乾季であるから、当然、天気も良く、群青色の空の下《もと》、白茶けた荒野がどこまでも拡がっている。  ひょっとしたら部族の村まで見えるのではないか? ――そんな風に思えるが、見えないことはすでに判っている。ここにやってくるのは初めてではないのだ。  それでも何かしら見えやしないかと目を向けると、そう遠くもないところで巨大な土煙が上がっていた。 「ありゃなんだ?」  一瞬、たくさんの蟻《あり》が動き回っているように見えた。  もちろん考えるまでもなくそんなはずはない。人間である。  まるで穀物の実を撒《ま》いたかの如《ごと》くに大勢の人間が蠢《うごめ》いている。馬も混じっている。  濛濛《もうもう》たる土煙の中、様様《さまざま》な旗や幟《のぼり》がいくつも立ち、刀槍《とうそう》や甲冑《かっちゅう》が燦《きら》めいていた。  戦争であろう。  イーヴは戦争というものを見るのは初めてであったが、それでも容易に判断がついた。  遠雷のように雄叫《おたけ》びが聞こえてきた。  すると押し合い圧《へ》し合いをしていた一角が動き、絶叫と、金属の激突する鋭い音が、激しい雨のように立て続けに鳴った。  大きな音ではない。  遠く重く、しかし強烈な存在感を持って聞こえてくる。  イーヴは意識を奪われた。最大の注意をもって目の前の戦争を注視した。考えることよりも観察することが優先した。  と、不意に背後で荷物を抛《ほう》り出すような音がした。クリステルだ。彼女しかいないのだから。  しかし物を投げ出すような真似《まね》をするとは意外であった。そういうぞんざいさとは無縁の人間だと思っていたからだ。  訝《いぶか》しみながら、その意味するところを考えようとした時、クリステルが形振《なりふ》り構わず駆け出した。 「おい、どうしたっ!?」  イーヴの呼び掛けにも答えない。麓《ふもと》に向かっているようだった。  あの戦争に何かあるのだろうか?  ともかく後を追った。  女の足だ。追い付くのは雑作《ぞうさ》もない。  追い付いたところで、イーヴは何かしらの気配を感じ取った。  ――「大いなる敵」!?  そう思うが早いか、クリステルの腕を掴《つか》んだ。呻《うめ》くような悲鳴があがった。細い腕だった。折れるのではないかと一瞬|危《あや》ぶんだが、気にしている場合ではない。すぐさま引き寄せて口早《くちばや》にささやいた。 「何か来る。ここで待て」  クリステルを置いて、秘《ひそ》やかに、かつ速《すみ》やかに山を下った。気配は下の方からやってくる。  胸の高鳴りが、歓《よろこ》びが、抑えられない。  ところがほとんど間を置かずに失望させられた。 「大いなる敵」ではなかった。  人の気配、それも複数だ。  ――外から人が……?  己とクリステル以外の人間は、ここにはいなかったはずである。つい最近、外から入ってきた者たちに違いなかった。となれば、あの戦争の兵士である可能性が高い。  イーヴは草木に身を潜《ひそ》めながら、慎重に近づいていった。  案の定、それらしき人間が四人見えた。  イーヴと同じくらいの年恰好の若武者が一人と、彼を護るように取り囲んでいる壮年の戦士が三人。その様子と身扮《みな》りから、若武者の身分の高さが窺《うかが》えた。  返り血なのか自身の血なのか判らぬが、四人とも血と埃《ほこり》にまみれ、疲労の極限にありながらも何かに急《せ》っつかれるように歩を進めている。  落武者《おちむしゃ》だと思った。  あの戦争から逃げてきたのだろう。  選《よ》りに選《よ》ってこんなところに逃げ込んでくるとは。知ってて破れかぶれなのか、知らずに運が無いのか……。  ともかく、接触するべきか否か、どうしたものかと考えながら観察していると、己の背後からも人の気配が近づいてきた。おそらくはクリステルだろう。待てと言われておとなしく待っているような女ではないし、そもそも飛び出していったところを無理矢理止めたのだ。急いで下山せねばならぬ何かがあるのだろう。  警告はした。それをどう判断するかは彼女の自由である。  無論、こちらの足を引っ張るような真似をされては困るが、頭の悪い女ではない。そうでなければ野放しにはしておかぬ。  クリステルがいると思しき辺りを振り返ってみれば、気配があるだけでその姿は見えない。身を潜めながら慎重にこちらにやってきているようだった。  が―― 「セルジュ!!」  叫ぶなり、クリステルは飛び出した。  驚くイーヴを後目《しりめ》に、落武者たちに向かって駆けていく。  落武者たちは驚き身構えた。  だが若武者が何かに気づいたらしい。驚き顔に、さらなる驚愕が浮かんだ。 「……クリス? クリスなのか!?」  どうやら知り合いのようである。  イーヴは安堵《あんど》して、クリステルの後を追った。  突如現れたイーヴに、落武者たちは再び驚き身構えた。 「待って! 彼は味方です」  クリステルが留《とど》めた。  四人は安堵して構えを解いた。  しかしイーヴは抜剣《ばっけん》して警告した。 「気を抜くなッ!! 追われているな!?」  落武者たちの後方から、武装した男たちが六人やってくる。  追っ手であることは一目で看て取れた。獲物を追い詰める者特有の獰猛《どうもう》さがある。不思議とどこか憶えのある感じがしないでもないが、随分《ずいぶん》と泥臭く、野蛮な感じのする連中だった。おそらくは落武者狩りだろう。 「奴ら、もうそこまで!」  落武者たちも抜剣した。  イーヴは舌打ちをした。もはやこうなっては戦いを避けることはできないだろう。  己は部外者だと主張したところでどうなるものでもない。落武者狩りは、それ自体一つの商売なのだ。だったら獲物が多い方が良いに決まっているではないか。  イーヴはクリステルに目を向けた。頬が白い。表情が硬張《こわば》っている。  なぜか不思議な衝動が胸の内から込み上げてきた。  クリステルの身を守らなければ。そんな考えが頭をかすめたのだ。  ――らしくない。  そう思う。  これまでイーヴは一度も他者のために戦ったことはなかった。戦いとは全て「大いなる敵」へと続いているものであり、目の前の敵を倒すこと、それ以外のものが心に去来したことはなかった。  だが今はクリステルを守りたいと思う。  いや守らなければならない。  それは核心めいた強い思いだった。  なぜそんな思いが込み上げてきたのかイーヴには判らない。  この気持ちは何なのか。  興味はある。だが──考えている時間はなさそうだった。 「やつらが来る!」  若武者が叫ぶように警告した。その声に焦りは感じられたが怯《おび》えは感じられなかった。  そのことは若武者が腰抜けではないらしいことをイーヴに感じさせた。  イーヴは右手に剣を持ち、自ら追っ手へと歩を進めた。  落武者たちを救《たす》けてやる義理などかったが、あの落武者狩りが己とクリステルを見逃すとは思えない。  連中にとっては利益になるか、ならぬかである。  要するにこの戦闘は成り行きであった。  落武者狩りたちが雄叫びを上げながら駆け寄ってくる。  一人目がイーヴに剣で斬りかかってきた。  それなりに速度も力も乗った一撃ではあるが隙だらけの動きである。  一応は剣技を身に付けているのかも知れないが、イーヴの目から観れば問題外の技倆であった。  これでは剣技も何もあったものではないと思えた。  イーヴは右に半歩動いて敵の剣をやり過ごすと同時に、下から喉元《のどもと》目懸《めが》けて剣を振り抜いた。男の頭が跳ねるが如《ごと》くにがくんと上を向き、喉から血が噴き出した。  二人目が胸前から剣を突き出すようにして突進してきた。これも隙が大きい。  どうもこいつらは近隣の農民とか、そういう連中であるらしかった。  イーヴはそう判断した。戦士としての鍛錬をしている者たちとは思えなかった。  それなりに戦い慣れているような感じではあるが、その戦い方は、力と度胸に頼っただけの御粗末なものだ。  だが勢いはあるし迷いも無い。そして殺しに対する抵抗感がないというだけでも、下手な剣技の十倍は役に立つ。  つまり手加減をしてやる必要はないということだ。元元そのつもりもないが。  突き技は隙が大きい。  イーヴは敵の剣先を外しながら踏み込み、相手の右手首を切り落とした。  剣をひらりと回旋《かいせん》させ男の頸筋にと打ち込もうとしたが、その時間はなかった。三人目四人目が同時に斬り込んできたのだ。が、これまた連携《れんけい》も何もあったものではない動きだ。  二人の剣が振り下ろされるよりも速く、イーヴは一方に踏み込んでその頸《くび》を裂き、返す刃を、空振って体勢を崩したもう一方の頸筋に叩き込んだ。二人分の夥《おびただ》しい血を頭から被《かぶ》った。  それにしても、こうも容易《たやす》く頸への一撃を許すとは……。  これでは到底、戦士とは謂《い》えぬ。  五人目となるべき相手が、弱弱しい悲鳴をあげて逃げていくのが見えたが見逃した。追い駆けてまで殺す必要は無いし、敵は後二人いる。  しかし、見回してみればもう片は付いていた。落武者たちによって、手首を落とされた二人目は止《とど》めを刺され、残る一人も始末されたところであった。  クリステルを見れば、顔を青冷めさせて、恐れるような恨むような目でこちらを見ていた。  その理由は明らかであった。  人を殺したからだ。  しかし飛び出して出てこなかっただけ上等ではある。己の信条よりも状況判断の方が勝《まさ》ったというところであろうか。それとも単に足が竦《すく》んだのか。  そう思って苦笑した。  ――所詮《しょせん》、その程度のものだ。  実際の殺し合いの前では、ご立派な不殺のお題目など消し飛んでしまう。  殺し合いとはそれだけの重みがあるものなのだ。  とは言え信条など打《う》っ遣《ちゃ》って、己に正直であるのは結構なことだと思う。  自然なことだと思う。神殿の聖職者たちのように、禁欲だのなんだのと、己を虐《いじ》めて生きるのはどうかと思う。  尤《もっと》も、彼らとしてはその抑圧が堪《たま》らないようなので、イーヴとしては何も言うことが無い。心の中で変態だと思うのみである。 「忝《かたじけな》い」  若武者が礼を述べてきた。  血と汗と埃にまみれているにも拘《かかわ》らず、爽《さわ》やかな感じのする男だった。  金髮碧眼、目元は涼やかで、イーヴよりも少し小さく細身ではあるが、だからと言って頼りないというわけではない。締まった感じである。  どこかクリステルと通じるものがあるが、それはおそらく貴族らしさ、高貴さというものであろう。 「私はセルジュ。ジョルジュ・バルドールの息子、セルジュだ」  セルジュは礼儀正しく名告《なの》った。 「俺はエク族のイーヴ」  イーヴは打切棒《ぶっきらぼう》な調子で応《こた》えた。 「貴様、その態度はなんだ! この御方《おかた》はバルドール伯爵であらせられるぞ!」  イーヴの態度に不満を感じたらしい。壮年の戦士の一人がイーヴにくってかかった。  セルジュは手を挙げてそれを制した。 「殿……」  壮年の戦士は怪訝《けげん》な顔でセルジュを窺《うかが》う。 「よい、下がれ」 「……御意《ぎょい》」  壮年の戦士は渋渋《しぶしぶ》と退き下がった。  セルジュはイーヴに向き直った。 「臣下が失礼した」 「……」  イーヴとしてはなんとも言い様が無い。  妙な茶番を見せられた気分だった。  だいたい「バルドール伯爵」などと言われても、なんのことやら分らぬ。 「エク族と申されたな? 失礼ながら、寡聞《かぶん》にして耳にしたことは無いが、しかし、なかなかの腕前。さぞ――」 「セルジュ、話は後にしましょう。今はそれどころではないのです。早急に下山しなくては」  クリステルが遮《さえぎ》った。  セルジュは心なしか驚いた様子でクリステルを見た。目の前にあるものが信じられないといった様子で、クリステルを見つめる。 「……ああ」  そして躊躇《ためら》いがちに何かを言いかけたが、それよりも先にクリステルの目がセルジュから離れた。 「――あなたも下山するのです」  この場を去ろうとするイーヴの背中に、クリステルは言った。  イーヴは目だけをクリステルに向けた。 「同じことを何度言わせるつもりだ?」 「ご自分でも、もう解っていらっしゃるんでしょう?」 「『解っている』? 何をだ?」 「この山には『大いなる敵』は居ない、ということを」  イーヴの顔が険しくなった。  返り血を浴びた顔がさらに凄惨になった。  ――この山には『大いなる敵』は居ないのではないか?  一度ならずそう思ったことはある。しかし、思っただけで認めたわけではない。  クリステルが言うように「解っている」わけではない。思う度《たび》にすぐさま打ち消してきた。 「『大いなる敵』? なんだそれは?」  セルジュが興味深げに割り込んできた。  クリステルは無視して続けた。 「いえ、あなたが迷い込んだこの山には[#「あなたが迷い込んだこの山には」に傍点]『大いなる敵』は居ない、と言うべきでしょうか。あなたは『大いなる敵』の居ない山に迷い込んでしまったのです」 「……」 「下山しましょう。おそらく今なら下山できます。ここに居てもなんの望みもありませんが、下山すれば望みは出てきます。一度下山して再度入山すれば、この山は今のこの山ではなくなるのです。あるいはその山なら、『大いなる敵』が居るかもしれません。その望みに懸《か》けてみませんか?」  ぐらりと心が揺れた。  そんな己に苦笑した。  荒唐無稽として却《しりぞ》けてきたクリステルの話を、望みがあるというだけで信じようとしている。  いや――  荒唐無稽として却けた? 本当にそうなのか?  この山には「大いなる敵」はいない。  そのことを否定したいがために却けたのではないのか? 「お前の話が本当だという……証拠は、あるのか?」  愚かな言葉が唇から漏れた。恥ずべき言葉だと思う。だが本音でもある。  クリステルは真っ直ぐな眼差しを向けてきた。 「父にお会い下さい。すべてはわたくしの父からお聞きになると良いでしょう。きっと納得なさると思います」 「……」  イーヴはクリステルの眼差しを不思議そうに見た。  なぜこうまで、この女は己を下山させようとするのか。  急いでいるはずだ。  説得している暇など無いはずだ。  話の分らぬ男として、さっさと見切りをつければよいものを。  この山に在って、共に過ごした仲ではある。と言っても別段、情を交わしたわけではない。状況に甘んじていたのならば、あるいはそうなっていたかも知れぬが、己もクリステルも諦めてはいなかった。そんな気分にはならなかった。共同生活者としての、好意と信頼があるだけだった。  人が好《よ》いのだろうと思う。 「あなたは『大いなる敵』を斃《たお》さなくてはならないのでしょう? でしたらそのためにも、一度体勢を立て直した方がよいのではありませんか? あなたは問題にならないとおっしゃいましたが、あの時の傷だってまだ完全には癒《い》えておりません。何よりも心身に疲れがありましょう」  痛いところを衝いてきたと思った。  傷はほとんど癒えている。普通に動く分には問題は無い。  だが闘いとなるとどうか。  万全だとはとても言えぬ。これは気合いや努力で何とかなる問題ではない。動かし難い事実だ。  何よりも、この山に入るまで己を支えていた張りのようなものが、弛《ゆる》んできているのではないかという不安がある。  クリステルの「心身に疲れがありましょう」という言葉は、そこをまさに言い当てていた。 「もう一度申し上げます。あなたはこの山を一旦《いったん》出るべきです。確実に、あなたの敵と出逢うために」 「……お前の父親は何を教えてくれる?」 「あなたの求める答えをです」  クリステルは言い切った。真摯《しんし》な眼差しを向けられて、イーヴは不思議な胸の痛みを覚えた。  縋《すが》り付いていると思った。無論クリステルがではない。己がである。 「大いなる敵」に。斃《たお》すべき、恐るべき偉大なる敵に。  だが……。  少なくとも今、この山に奴が居るとは思えない。 「わたくしたちとともに下山しましょう。今ならば下山できるはずです」  クリステルはセルジュの方に目を遣った。セルジュは戸惑いを隠せぬ様子であった。当然だが、会話の内容についてこれぬようである。  クリステルが息を吸う気配がした。意を決したように口を開いた。 「……縦《よ》しんばこの山に『大いなる敵』が居るとしても、今のあなたの前に姿を現してはおりません。そのことの意味をお考えになってはいかがでしょうか?」  縦しんば居るとしても姿を現していない――とは、どういう意味か?  イーヴは一瞬、クリステルの言葉の意味を掴《つか》みかねた。  だが、すぐに解った。  それは、「大いなる敵」が己を敵として認めてはいないということ、戦うに足る相手として認めていないということだ。  忿怒《ふんぬ》の火が胸の中に燃え拡がった。  赦《ゆる》せぬ。  殺気を含んだ眼差しでクリステルを見た。無論クリステルに対して怒っているわけではない。その言葉を無視できぬことへの怒りである。その言葉に幾《いく》ばくかの妥当性《だとうせい》を認めざるを得ないからである。  呼吸が荒くなった。イーヴは目を閉じた。気を鎮《しず》めなくてはならない。怒りは正しく用いられなくてはならない。今は怒るべき時ではない。誇り高き戦士は怒るべき時に怒り、行動を以《もっ》て示す。それが戦士の誇りである。  暫《しば》しの沈黙が場に流れた。 「……解った。お前と一緒にこの山を出よう」  歯牆《はがき》の間から搾《しぼ》り出すように声を出した。  苦痛であった。それでも、今は他に取るべき手がない。  一方クリステルは、安堵の混じった歓《よろこ》びの笑みを見せた。 「……話はついたようだな」  セルジュが口を開いた。先程《さきほど》クリステルに無視されて以来、黙って成り行きを見守っていたのだが、どうも納得しかねるようであった。  少々不機嫌な様子で、イーヴをちらりと見た。見定めるような鋭い目だった。  除《の》け者にした所為《せい》であろうか、と、イーヴは思ったが、そんなことで憤《いきどお》るような幼稚な男とは思われなかった。 「さあ、クリス」  セルジュは血にまみれた手袋を脱ぎ、常のことであるかのように、クリステルに手を差し伸べた。  クリステルはその手に手を伸ばしかけたが取ることはしなかった。静かに押し戻したのである。 「セルジュ、ここは都ではありませんよ」  微笑《ほほえ》みながら言った。  セルジュは驚いたような顔をした。クリステルとイーヴを交互にさっと見て、 「……そうだな」  クリステルの微笑みに応《こた》えるように微笑んだ。どこかぎこちない微笑みだった。  そんなふたりの遣り取りから、イーヴはふたりの仲の良さを感じた。恋人とまではゆかぬでも、それなりに親密な仲なのであろう。  イーヴは先に立って山を下り始めた。 [#改頁] 第二章 第一節  ――クープランは暗殺されたのではあるまいか?  そんな噂が真《まこと》しやかに宮廷内に流れていた。 「誰に」とは誰も言わぬ。  言わずと知れたことであった。  外務大臣ドニ・クープランと内務大臣レイモン・ギュベール――ふたりが犬猿の仲であることは、周知の事実であった。  また、いまだ兵を集めている段階ではあるものの、折《おり》しも隣国リンドベリとの戦時下にあり、戦略に関する激甚《げきじん》な意見対立もあった。 「気にすることはないさ。単なる噂だ」  友人たちはそう言ってくれるが、それが好意から出た慰めであることはクリステルにも解っている。  レイモン・ギュベールは、愛すべき自分の父である。噂如きで揺らぐような愛情など持ち合わせていないが、公《おおやけ》では「単なる噂」で済むような噂ではない。  父は全くの異国人でありながら、まるで年来の友好でもあったかのごとくに、王家と誼《よし》みを通じることに成功した才人である。  先王の寵愛《ちょうあい》を受け、当時はまだ王子であった現王ロドルフからも深く信頼されるまでになった。  それが面白くない者は多い。  ただでさえ、宮廷貴族たちには自分たちこそが宮廷であるとの自負がある。  そして普段は激しい派閥争いをしている癖に、いざ外敵が現れると一致団結して排除しようとするという、恐ろしい性質を持ち合わせてもいる。  もしも父レイモンと王家との間に、強い絆がなかったならば、素性の知れない異国人など忽《たちま》ちの内に排除されていただろう。  クープランに限らず父には敵が多い。  どこからともなく現れた流れ者であるのに、瞬《またた》く間に出世した感のある父である。恨《うら》まれたり羨《うらや》まれたりするのは無理からぬことで、失脚の火種があれば、ここぞとばかりに焚《た》き付けられ、大きくなることは目に見えていた。  政敵と言ってもいい外務大臣ドニ・クープランの失踪は、父を敵視する人々にとって最高に美味しい話であった。  不名誉な噂が囁かれ、まことしやかな嘘が貴族たちの間を流れ始めた。  宮廷という池の色が淀み始めた、まさにその時を見計らうようにして、国王ロドルフは一石を投じた。 「クープランは王家の禁足地に足を踏み入れたのだ」  宮廷人たちの間に動揺が趨《はし》った。  クープランは戦場視察に赴《おもむ》いたはずであった。そしてそのまま行方不明となっているのである。  戦場と指定されたのはヴァルカンティとリンドベリ両国の国境付近である。  クープランが名も無き一兵士であるなら、敵と遭遇して殺されたという見方もできようが、クープランは大貴族であった。それも、その首を獲《と》れば大きな名誉を得られるという類《たぐい》の武人ではなく、殺すよりも捕虜にして身代金をふんだくった方が遥《はる》かに得という類の文人であった。それゆえ暗殺説が仄《ほの》めかされていたのである。  しかしながら王家の禁足地に足を踏み入れていても何の不思議も無い。クープランが赴いた場所と、王家の禁足地はすぐ近くにあるし、王家の禁足地にして聖地であるジャン・ザ・ビオンには、一度足を踏み入れれば外に出られぬという噂と共に、王家の財宝が隠されているという噂がある。  ――戦場視察と称して、宝探しに出掛けたのだ!  多くの者はそう考えた。行方不明の当人にとっては実《まこと》に気の毒な話ではあるが、これは揶揄《やゆ》でも嫌味でもなく、彼をよく知る宮廷人たちの、偽《いつわ》らざる本心からの感想であった。  つまりはクープランとはそういう類《たぐい》の男であったのだ。  彼にとっては富とか世俗的な名声といったものこそがまず第一であり、神聖さへの畏怖《いふ》とか、羞恥心といったものはそれらに比べて数等、優先度が落ちるのだった。  当然、彼のことを好きと言うよりも、苦手としている者の方が遥かに多いし、なお一歩進んで積極的に憎んでいる者たちも少なからずいるという話だった。  であるから今回の行方不明に関して、疑いの目が向けられるべき人物は、両手の指を使っても足りぬほどであるのだが、それでもやはり暗殺者として、父が有力な候補と見做《みな》されることに変わりはない。  今までのクープランとの対立から、また父の急激な宮廷での出世、力の伸長から、人々の意識を集めてしまうことは理解できる。  それゆえ王の言葉は、寵臣《ちょうしん》ギュベールを擁護するものであるとされた。  表立ってそう評する者はいないが、宮廷人の間では暗黙の了解となっていよう。  だから父による暗殺説が消えたわけではない。  現国王ロドルフは、父の手によって王位に就《つ》いたと言っても過言ではない。王にとって父は、無くてはならぬ存在なのだ。  ともあれ、そうした噂が交わされるうちに進軍の途上にある領地以外の各領地から、都に続続《ぞくぞく》と兵が参集してきた。  そしていよいよ戦場へ向けての出立の時を迎えたのであった。    *  ――漸《ようや》く、この時が来た。  逸《はや》る気持ちを抑えるように、クリステルは胸に両手を当てた。  その身扮《みな》りは貴族の姫君らしからぬものである。  金の髪は耳朶《みみたぶ》辺りまでの短髪で、衣服は男物の着古しである。そして、その細く小さな体には大き過ぎて、ほとんど、革の胸当てではなく革の胴巻きになってしまっている防具を、衣服の上から身に付け、腰には短剣を差している。元より自慢できるほどの胸ではないが、布を巻いて縛っているので、胸の膨《ふく》らみはほとんど見えない。  見るからに、これが初陣《ういじん》の従士といった風であった。  その立居振舞《たちいふるまい》からは、よく教育が施《ほどこ》されているらしいことが判るが、貧相な武装をしているところを見れば、さしたる家の出ではないと看て取れる感じがある。戦《いくさ》に必要なものはすべて自前であるから、そこを見れば家の力が一目瞭然なのである。 「坊主《ぼうず》、祈りを捧《ささ》げるのはまだ早《はえ》えぞ」  いきなりばしりと背中を叩かれた。  息を詰まらせながら振り返ると、やたらと濃い鬚面《ひげづら》の、熊のような男が不敵な笑みを浮かべていた。ジュノン家に仕える騎士、アランである。  クリステルは従士として彼に付き随《したが》うことになっている。  無論、今回限りの臨時である。従士は特定の騎士に仕えて騎士になるための修行をするのが普通であるから、これは異例と言えよう。この男は真相を知らぬが、友人の家の家臣に金を渡して、無理矢理軍の中に入れてもらったのである。 「しかしお前、本当に女みてえだな」  クリステルの背中を叩いた手をちらりと見て、アランは言った。 「ジャックの親戚ってことで加えてやったがな、輜重隊《しちょうたい》だからって甘く見るんじゃねえぞ」  アランはぎろりとクリステルを睥《にら》んだ。  輜重隊とは物資の輸送と供給を司《つかさど》る部隊である。 「そりゃあ、こっちから敵にぶつかって行くことはねえが、襲撃を受けやすいからな」  戦に必要な物資が無くなれば、戦を続けることはできなくなる。退《ひ》かざるを得なくなる。だからこそ狙われやすい。 「ま、お前ひとり死んだところで、どうということもねえがな」  アランはクリステルが物見遊山で参加していると思っているらしかった。  そう思われるのも無理からぬことであった。  従士の仕事は、仕える騎士の身の回りの世話、武具の手入れや持ち運び、馬の世話などであるが、およそ従士らしからぬことに、クリステルは身の回りの世話以外のことは何もできないのである。騎士に仕える従士でないことは明らかであった。貴人に仕える見目良い小姓といったところだ。  クリステルは否定も何もしない。相手の思うに任せ、むしろそれに合わせている。人は自分が見たいものしか見ない。見たいものが見られれば安心する。だからそれでいい。  戦《いくさ》に参加するつもりは端《はな》から無い。  すべてはジャン・ザ・ビオンに辿《たど》り着くためだ。  戦場に程《ほど》近いジャン・ザ・ビオンへ行くには、そこへ向かう軍の中に紛《まぎ》れ込むのが一番安全だと思ったのである。  ジャン・ザ・ビオンへ行き、確認すべきことがある。  父レイモン・ギュベールが、本当にクープランを暗殺したのか否か。  噂を真に受けたわけではない。  噂だけなら疑いもしない。  しかし、実際にこの目で見てしまった。聞いてしまった。  クープランが戦場視察に向かった、その翌日の夜のことである。  なぜか眠れず、夜の邸内を彷徨《さまよ》っていると、すっかり闇の中に落ちた我が家の庭に、人目を忍ぶように集ういくつかの影を見つけた。暗くてはっきりとは見えなかったが、父と、武装しているらしい男たちだった。  父は彼らに命じた。  ――クープランを追え。  と。  静かな声だった。  だが、夜の静寂《しじま》を破るには充分な声だった。  確かにそう言った。  今でも耳にはっきりと残っている。  聞いた時にはなんのことやらよく判らなかった。それが噂によって明確な形を持った。  あの夜、父はクープランの暗殺を命じたのではないか?  そう思い至って、クリステルは衝撃を受けた。  ――お父様が人を殺した……!?  いったい、なんのために?  公私共に仲は悪いが、それだけの理由で殺すとは思えない。殺してよいはずもない。  クープランのジャン・ザ・ビオン入りを阻止すべく殺したということも、あくまで要素のひとつとしては挙げられるが、やはり考えにくい。  父はジャン・ザ・ビオンの秘密を知っている。おそらくはこの世界の誰よりも知っている。  そこを踏まえて考えれば、阻止こそすれ、殺すことは無いという結論が出てくる。殺す必要などどこにも無いのだから。  ともあれ考え付くのはその二つくらいのもので、他に理由となりそうな要素を挙げることはできなかった。  となれば、後は自分が与《あずか》り知らぬことが理由となっているのかも知れない。  しかし、殺さねばならぬほどの理由とは、いったいどういうものなのだろう?  クリステルにはまるで想像が付かなかった。  世の中には暴力でしかどうにもならないことがある。哀しいことにそれが現実である。  それは理解しているつもりである。今ある戦《いくさ》など、その最たるものだろう。  しかし、どうにもならないから、仕方無いからということを免罪符とはしたくない。そこで諦めてしまったら、進むことができなくなる。愚かなままで立ち止まることになる。それでよいはずがない。  誰も死にたくなどない。ならば、誰も死ななくてもよい方法が、きっとあるはずだ。  クリステルはそう信じて疑わない。美しいものにしか触れたことのない、貴族の姫君らしい真摯《しんし》さで。  その真摯さと盲目的な愛情から引き出されるのは、父は愚かな人間ではないということである。暴力的な手段を、それも暗殺などという卑怯《ひきょう》な手段を、採《と》ったりはしないということである。  そう信じてはいる……いるのだが、面と向かって確かめる勇気は無かった。  いや、仮にそうしたところで、うまく逸《はぐ》らかされるかも知れなかった。  遠い異郷からひとりこの地にやってきて、伊達《だて》に生きてきたわけではなかろう。  父は淡淡《たんたん》と事実しか語らぬが、そこに艱難辛苦《かんなんしんく》があったことは想像に難くない。にも拘《かかわ》らず、そんなことはおくびにも出さないのである。  だから、直接、この目で、確かめる必要があった。  それは余計な行為であるかも知れない。わざわざ見なくてもよいものを見てしまう行為であるかも知れない。逸らかされてそれで納得するのが、お互いのためというものかも知れない。  しかし、疑念は生まれてしまった。  この先、愛すべき父を疑いながら生きていくのは嫌だった。  確かめなければならなかった。  仮令《たとえ》、真実が自分の期待を裏切ることになろうとも。 [#改頁] 第二章 第二節  セルジュは何度目かの深呼吸をした。  緊張している。  まだ敵と見《まみ》えてもいないのに。  無理もなかった。  初陣《ういじん》である。  この戦《いくさ》に懸けているものもある。  手柄を立てて、認めてもらう。認めさせる。  宮廷貴族としての日々を取り戻すのだ。  宮廷への帰参を――。  彼女との結婚を――。  いや、まだその一歩にしかならない。  だが、確実な一歩を得たい。  彼女――クリステルとは、幼馴染みであった。昔から仲が良く、家同士も昵懇《じっこん》していたので、いずれは結婚するのが自然な風でもあった。  だが、それも今となっては昔のこととなった。  転機は五年前、王位継承争いの折である。  第一王子ロドルフと第二王子セドリックが王位を争うこととなり、貴族たちは三つの選択肢からの選択を迫られた。ロドルフに与《くみ》するか、セドリックに与するか、そして、どちらにも与せず情勢を見守るか、である。  セルジュの家――バルドール家にとっては、厳しく難しい選択であった。  ロドルフと、クリステルの父レイモン・ギュベール、何やら意気投合するところがあるらしいこの二人を引き合わせたのは、そもそもセルジュの父、ジョルジュ・バルドールであった。その誼《よし》みで、バルドール家はロドルフの覚えが良かった。  当然の如くロドルフ派に与したレイモンは、こちらに与するよう、ジョルジュを説得した。そこにはロドルフの期待もあった。  その一方で、バルドール家はセドリックとも浅からぬ縁があった。セドリックの母方の祖母はバルドール家の出で、つまりはセドリックとは縁戚関係にあった。  バルドール家は、双方に引っ張られる状態になってしまったわけである。  ジョルジュは悩みに悩んだ。  この選択には、予《かね》てより零落《れいらく》しつつある、家の存亡も懸かっていた。  ロドルフ派でもセドリック派でもない、第三派を選ぶのが無難と言えば無難であった。しかし、それは双方に対して不義理というものである。  結局のところ血縁の義理を取ったわけだが、争いは民にまで及ぶような大規模なものには到らず、ロドルフが王位に就き、セドリックは蟄居《ちっきょ》させられることで終わった。  ギュベール家は大きく繁栄し、バルドール家は大きく零落することとなった。  ギュベール家は単に勝ち組に属していたというだけでなく、ロドルフの期待に多いに応《こた》え、多大な功績を挙げたということもあって、王国|重鎮《じゅうちん》の座を与えられた。  バルドール家は単に負け組に属していたというだけでなく、ロドルフの期待を裏切る形でセドリックに与したということもあって、世間の目は殊更《ことさら》に厳しく、ロドルフの覚えも悪くならざるを得なかった。  ロドルフは愚昧《ぐまい》な男ではない。バルドール家の立場は理解している。しかしそれは理性の上での話で、感情の上ではやはり蟠《わだかま》りがある。  レイモンはふたりの間を取り持とうと、今なお努《つと》めてはいるものの、世間の目がそれを許さなかった。  かくの如く両家の社会的地位や立場は大きくかけ離れ、表立っての付き合いは憚《はばか》られるものとなった。互いの親愛に変わりは無かったものの、これまた世間の目が両家の付き合いを許すはずも無い。セルジュにとってのクリステルは、手の届かぬ高嶺《たかね》の花となってしまったのである。  バルドール家は王都の邸を引き払い、己が領地に引っ込んだ。このことによって、ふたりは互いの姿を遠目に見ることすらできなくなってしまった。ギュベール家とバルドール家の領地は遠く離れているため、ふたりの付き合いは、共に王都に暮らしているということで成り立っていたからである。  ところがそれから約一年後のことである。十四歳となったセルジュは王都の宮廷に召し出された。近衛兵として仕えよという、王のお召しであった。  セルジュはごく少数の家臣と召使いを引き連れて、王都の邸に戻った。  だが、王都に戻ったからといって、そこからすぐに宮廷貴族として返り咲けるわけではない。  宮廷に戻れたわけではないのだ。  王から宮廷に帰参するよう命じられたわけではないからだ。  だからクリステルとの付き合いまで復活したわけではなかった。かつてのように互いの邸を往《い》き来《き》するなど、今や周りが許さぬことであったし、ふたりも互いの立場をよく辨《わきま》えていた。  それでも、顔を合わせることがまったく無かったわけではない。王が主催する催《もよお》しでなら、会話をすることは無くとも、遠くから互いを確認することはできた。クリステルは参加者として、セルジュは警備兵として、であったが。  ある時、王主催の夜会が催された。そこで久しぶりにクリステルの姿を見掛けたときのことを、今でもセルジュは印象深く憶えている。  いくら王による催しとは言え、本来は王の身辺警護が任務の近衛兵が、娯楽の催しの警備までするのは妙な話である。  だがそこにはちょっとした事情がある。兵の間で日常的に行われる賭け事で、当番任務が賭け対象となることはままあり、それで本来は当番でもないのに任務に就《つ》いているということがあり得るのである。  これには事情があった。さすがに近衛兵が篝火《かがりび》の傍《そば》で立ちん坊を決めこむことはない。それは一般兵の役目であり、近衛兵の仕事はそんな一般兵たちの監督である。そのため近衛兵は会が催されている広間にまで入ることが許されている。  そしてそのことを利用するのは、近衛兵たちにとっては当たり前のことでもあった。ほとんど参加者に等しい振る舞いをする者が多いのだ。  宮廷人たちの方でも、その辺は辨《わきま》えているし、このような催しには軍人が花を添えられるという面も期待されているため、誰も文句を言う者は無いのだった。  そういうわけでこの手の任務は近衛兵の間でも人気がある。だから賭けの対象になるのだが、セルジュは賭け事をする方ではない。  それでも当番外の警備任務が回ってきたのは、先輩近衛兵から押し付けられたからである。  それは先輩から後輩へのよくある贈り物[#「贈り物」に傍点]とも取れるが、そこにはそれ以外のものも含まれていた。  近衛兵の多くは、王の近くに控えるがゆえに、王に取り立ててもらおうという気持ちを強く持っている。王のお気に入りになれば、さらなる地位や領地を与えられることもあるのである。  それがそもそも近衛兵となることすら難しいというのに、先の王位継承争いの件があるにも拘《かかわ》らず、しかもそれ以後もこれといった手柄を立てたわけでないにも拘らず、セルジュは王の直々《じきじき》のお召しで近衛兵となったのである。  王の贔屓《ひいき》は明らかであった。他の近衛兵からしたら、おもしろいはずもない。  ……かくなる上は、早早《そうそう》に潰《つぶ》して領地に帰してやるのみである。  つまるところ任務の押し付けは、こうしたことの一環なのである。  好意のように見えて、実は悪意が含まれている。これこそ宮廷風の作法と言うべき嫌がらせであった。  まるで砂糖菓子に一滴だけ垂らされた毒のように。  だからもしもセルジュが喜んで警備任務を引き受けたり、賭け事で任務を獲得しようとするような性格であったならば、このように任務を押し付けられることはなかっただろう。  もっともこれは、数数《かずかず》の虐《いじ》めや嫌がらせの中にあっても、かなり生易《なまやさ》しい類《たぐい》のものではある。  しかしこれには不幸中の幸いが隠されていた。  遠目ではあるが、クリステルを見ることができるという、それである。  王が退出すると催しの場からは堅苦しさが消える。それに乗っかって警備監督の近衛兵も、任務そっちのけでちゃっかり参加するのが通例なのだが、セルジュはそんなことはしなかった。いや、できなかった。  だからクリステルに近づくこともなかった。  無論、そうして近づくことができても、大っぴらに親しくすることはできない。さり気なさを装《よそお》って飲み物を渡したり、一休みで外に出たところを掴《つか》まえるのが精精《せいぜい》であろう。  ともあれセルジュは根が生真面目な男であった。  押し付けられた任務であろうが、途中で投げ出したりはできぬ男であった。であるから、いつも隅の方に突っ立っているばかりなのである。  そうしたセルジュの目に映るクリステルは、いつだって華やかであった。多数の人々に取り囲まれていた。  そのほとんどは、彼女の心を射止めんとする男たちである。今を時《とき》めくギュベール家の一人娘ということもあったが、なんと言っても、クリステルは美しく聡明な女であった。権勢があるというだけでも、美しく聡明であるというだけでも、心動かすに充分であるというのに、その二つを兼ね備えているのである。飛び付かぬ者が居ようはずもない。  こういったことは王位継承争い前にはあまり見られぬものであった。クリステルの傍《そば》には、常に、当たり前のようにセルジュが居て、他の者たちを牽制《けんせい》する形になっていたし、何よりもまだほんの子供であった。王位継承争いが起こったのは、ふたりが十二歳の時である。  王位継承争いの後、クリステルは日を追う毎《ごと》に、見る見ると花開いていった。  美しい花を咲かせるであろうことは、元より充分に予想されたことであったが、それでもなお目を見張る変貌ぶりであった。  一年振りにクリステルを目にしたセルジュは、ただ呆然とするばかりであった。  あれ[#「あれ」に傍点]は本当に己の幼馴染みなのであろうか?  信じ難い気持ちだった。  彼女と共にあったということが、どうにも想像し難かった。  そしてセルジュは、いまだかつてない感情が己の内にあることに気づいた。  クリステルと共にあった日々、その中にあった感情が、ひどく幼いものであったことに気づかされた。  ――どうして今頃……。  苦苦しく歯噛みした。  そうと気づくと、遠くからクリステルを見ているのが、いよいよ辛《つら》くなった。  辛いのなら見なければよい。このような警備の任務に当たらねばよい。  任務を務めるのは己でなくともいいのだ。  同僚をあたれば他にやりたがる者はいくらでもいるだろう。  それだけの話であるが、そうするのが怖かった。  ただの幼馴染みでしかなかった。  行く行くは結婚するのが自然だという空気はあったが、所詮は形の無い空気でしかなかった。はっきりと、結婚の約束などしていなかった。  そもそもクリステルの己に対する好意は、幼馴染みとしてのそれでしかなかったに違いない。己も、今の今までそうだったのだから。  それゆえ怖かった。  ただでさえ遠くなってしまったというのに、この上顔を合わせることすらなくなってしまったら、彼女から忘れられてしまうのではないか――そんな不安があった。  そして、そうした気持ちで顔を合わせてみれば、クリステルを取り囲む男たちのように、言い寄ることも近寄ることもできぬ己の立場を、無力さを、思い知らされるばかりであった。  脳天気にも、そうあるのが当たり前という顔をして彼女と共にあったことが、夢のようであり、腹立たしくもあった。よもやこんな日が来ようとは夢にも思わなかったのだ。あの頃は。  ただひたすら無邪気であれた時は、疾《と》うに過ぎ去っていた。  今までの己のままでよいはずがなかった。  彼女は多くの男たちの心を動かすだけの女となっていた。  彼女に相応《ふさわ》しい男にならなければならなかった。  セルジュはそうあるべく励み、己が力を発揮させられる時を、地位と名誉を得られる時を、待ち続けた。  そうして漸《ようや》く訪れたその時こそ、この戦《いくさ》なのである。  夜明けの薄明《はくみょう》の中、五千もの兵が、いよいよこれから始まる戦支度《いくさじたく》をしていた。  五千人ともなるとさすがに騒騒《そうぞう》しい。朝の静けさはどこにも無い。  どこからともなく、食べ物を煮炊《にた》きしているような匂いも流れてくる。一面荒野のこの辺りは、水も食糧も乏《とぼ》しく、現地調達は難しいから、余裕を持って水と食糧を持ち込めた、どこかの大貴族だろう。  そういった贅沢《ぜいたく》さとは無縁なセルジュは、硬い干し肉を齧《かじ》りながら、己が率いるべき兵らを見回した。  騎士五名、従士八名、歩兵五十名である。  騎士・従士らはともかくとして、歩兵らの武装は貧弱極まりない。歩兵は農民であるから仕方無いが、それにしても、どうにも頼りない戦力であった。  皆バルドール家の家臣と領民たちである。  ――死なせたくない。  彼らの顔を見てそう思った。  しかし己は、彼らを生きて領地に帰すことができるのか……。  そう考えて振り払った。  己が不安になってどうする。不安な