月下残影 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)練習剣《フルーレ》 [#]:脚註 傍点の位置の指定、改頁など (例)[#改頁] 【ルビを削除したい場合】 正規表現が使えるエディタ等で、 《.+?》 で、置換削除して下さい。 また、 | も、置換削除して下さい。 ------------------------------------------------------- [#改頁] 00.プロローグ  月が浮かんでる。  闇がかすんでる。  漆黒の闇をかすませる光が窓から入り込み、シャンデリアや壁に掛かった燭台の明かりをも侵食する。  どうせなら、この身も侵食して欲しい、この場から消し去って欲しい――闇空にぽっかりとうがたれた光の空虚に魅入られるようにして、ミルイヒはなんとはなしにそう思っていた。  それは強い願いではない。いや、願いですらない。単なる想い。冴え冴えとした月を見ていたら、そんな想いがおぼろげに浮かんできただけなのだ。  しかし、その想いは、すぐさまかき消されてしまった。 「お父上のご加減はどうだね?」  愛想笑いを浮かべた何某卿が、ワイングラスを片手に話しかけてきたのである。 「……まあまあです」  ミルイヒはうわの空でぶっきらぼうに答えた。 「君は今年でいくつだったかな?」 「……十六です」  先ほどと同じく、感情のない口調で答えた。 「ほう、今年で士官学校卒業か」 「……」 「それではお父上もようやく安心できるな。学資金工面にだいぶ苦労したと……おっと、失礼」  何某卿ははにかんだ。目が笑っている。 「……いえ、本当のことですから」  ミルイヒは眉間にしわ一つ寄せることなく答えた。  その反応は何某卿の期待したものではなかったらしい。何某卿は眉をひそめ、顎を軽く引いた会釈をして、きらびやかな人々の林の中へと紛れていった。  ミルイヒは密かにため息をついた。これは今日で何回目だろうか? どうして貴族たちは同じようなことばかり訊いてくるのだろう。しかも、わかりきっているだろうことさえも!  高い襟と袖口に金の刺繍のある黒い制服は、ミルイヒが士官学校最上級生であることを示しているし、二年前から、病床の父の代理で公私に渡る催し物に出席していることは周知の事実であったし、セイデーズ公爵家は使用人に満足に食事を与えてやれぬほどに落ちぶれていることは、百年も前から知られていることだった。  だが、今さら憤ったりはしない。他愛ない、くだらない会話も、貴族の仕事の一つだということをわかっているからである。  しかし、ミルイヒはおよそ社交的な人間ではなかったから、こちらから話しかけるようなことは絶対になかったし、応えは簡潔で無愛想だった。  そのようであったから、いつしかミルイヒは、「鉄仮面卿」の異名――まだ、「騎士」の称号さえももらっていないというのに――で密かに呼ばれるようになっていた。夜会で、誰がその鉄仮面をはずさせることができるか、というちょっとした賭けの対象になっていることは、ミルイヒの知る由もない。  楽士の奏でる舞曲が一区切りした。広間の中央で踊っていた男女は各々一礼し、次の相手を求めて散っていった。  ミルイヒはその様子をいつも通り、なんとはなしに眺めていた。どうせ、わたしと踊りたいという者はいない。それには羨望も怨恨もない。あるのは諦観だけだ。  貴族のたしなみである舞踏が得意でないというわけではなかった。しかし、誘いを受けたことは今までに一度もない。近寄りがたい雰囲気がまずいのだろうということはなんとなく気づいていたが、それはどうすることもできないことであったし、こちらから誘う気にもならなかった。舞踏の練習相手である使用人のシャラ以外の者と、たまには踊ってみたいとは思っているが。  広間の端の方がざわめき始めた。どうやら、今夜の主賓が現れたらしい。  今夜の舞踏会は、アルヴァ国第五王女、エルネラ・レイ・アルヴァーノの社交界初お目見えなのである。エルネラは身分の低い妾妃の娘であるが、六人の王女の中で一番美しいと噂されている。  ――そう、それは噂。  その姿を実際に見た者は、数えるほどしかいないという。真偽のほどを確かめようというのか、今夜の舞踏会の出席者はいつもの二倍はいるかと思われる。  だが、ミルイヒはなんの関心も持っていなかった。招待状が来たから、いつも通り、ちょっとうんざりしながら、のこのこやってきただけなのである。  色鮮やかなリボン、レースやフリルのごたごたとしたドレスを着た人々に囲まれて、エルネラはごくシンプルな、身体にぴたりとした白いドレスで広間の中央に現れた。  ミルイヒはその姿を人波からちらりとかいま見た。  やはり、まだ十二歳だけあって、その顔にはあどけなさがありありだが、あと数年したら国一番の――いや、近隣諸国においても稀なる美姫になるであろうに違いない片鱗があった。  金の髪は月の光に侵食されることなく、いや、むしろその光を吸い込んで、ほのかに輝いている。卵形の顔は白い陶器のようで、触れたらたちまち壊れてしまいそうだ。目はさほど大きいわけではないのだが、新緑の瞳はつややかで実に印象的だ。また、すらりとした肢体を包む、これといった意匠のほどこされていないドレスが、エルネラの美しさを損なわせず、むしろ際立たせている。  我が盟友のランディ・フェイスならば、人々をかきわけて姫の手を取り、いの一番に舞踏の誘いをするだろう、と思って、ミルイヒは小さく笑った。唇の端を少しだけ上げた、人知れない笑い。  その一瞬、エルネラと目があった。  ミルイヒの瞳に、鮮やかな緑が焼き付く。  しまった! と我に返り、すぐに目をそらした。  なぜ、そのような動揺を感じたのかはわからなかったが、それはまずいことのように感じられた。まるで、ずっと秘密にしていたものを見られてしまったかのような。  恐る恐る目を上げ、エルネラを見た。たくさんの人々に囲まれているのにも関わらず、気後れした風もなく、かといって威圧的でもなく、控えめな気品をもって受け答えをしている。  ほっとした。あれは本当にたまたま目があっただけで、彼女はその身を囲んでいるその他大勢と同じように、自分に目を向けたのに過ぎないのだ、と。  舞曲が流れ出した。遅いテンポの曲だ。エルネラは主催者である何某侯爵に手を取られて踊り始めた。ステップは確実で優美である。  ミルイヒはエルネラに注目する人々をさけて、ひとり、バルコニーに出た。まだ生暖かさの残る夜風が金髪をなでる。満月は中天にあり、ミルイヒの血色の悪い顔をさらに青白くさせ、消え入りそうなほどに侵食した。  それから二日後、ミルイヒの父は病死した。  母親はミルイヒが小さい時にすでにないため、ミルイヒが公爵の爵位を継ぐこととなった。 [#改頁] 01.婚約  月が半分だけ青白い顔を出していた。世界は不気味な明るさに照らし出され、人外のものが現れても何の不思議もないよう。  ミルイヒは王城の裏手門警備の仕事を終え、家に帰るところだった。  周りに立ち並ぶ貴族たちの壮麗な家々に、舗道を蹴る馬の蹄の音だけが虚しく響いている。どの家にも明かりがともされておらず、人が住んでいる区域とは思われない静けさがあたりを覆い尽くしていた。  もう少し早い時間ならば夜会から帰る貴族たちの馬車も通っていようし、もう少し遅い時間ならば朝帰りの貴族が歩いていよう。今はその間の時間であった。  秋を運ぶ冷たい風がにわかに吹いた。  ミルイヒは肩をすくめ、その身体に馴染んで二年となる、近衛隊の白い外套を胸元に寄せようとした。その途端、留めボタンが飛び、白い外套は青白く輝きながら、建物の闇に舞うように落ちた。  ミルイヒはため息をつき、馬から下りて外套を拾いに行った。身をかがめて外套を取り上げようとしたとき、  すべてが闇に包まれた。  しかし、その一瞬前、白刃がきらめくのをミルイヒは見逃さなかった。  甲高い音が夜のしじまを引き裂いた。ミルイヒが辛うじて白刃を受けたのである。闇の中で相手を失わぬよう必死に剣を合わせ、左手で短剣を抜く。  相手も同じ事を考えたらしい。剣を抜く鞘ずれの音がし、次の間には空気を引き裂く鋭い音がした。  ミルイヒは合わせた剣を押し、その反動で一気に後退した。空振った音が虚しくあとを引く。  闇にようやく目が慣れてきた。相手の姿ははっきりしないが、白刃は浮き上がって見える。  ふたりは数合剣を合わせた。息もつかせぬ勢いで、突然の襲撃者は剣を繰り出してくる。  ミルイヒの額から汗が流れる。冷たい汗だ。  ――手強い!  受けるだけで精一杯だった。  襲撃者は両手の長剣と短剣をうまく組み合わせて使う。ミルイヒが長剣を受けた次の瞬間には、短剣が脇腹を狙っている。長剣の間合いのはずなのに、いつの間にか懐に詰め寄られているのである。  ミルイヒは短剣を軽く放って逆手に持ち替えた。受けにまわらなければ防ぎきれない。しかし、それでも徐々に後退させられ、遂には壁に追い込まれた。  それが狙いだった。  迫り来る長剣をはねのけ、続く短剣を……  激痛が左の小手を襲った。  短剣が深々と腕を貫いている。手の感覚が麻痺し、握っていた短剣が落ちた。  受け損ねたわけでない。襲撃者の動きを一瞬でもよいから止めたかったのだ。  案の定、襲撃者はミルイヒの捨て鉢ともいえる受けにひるんだ。反射的に引き抜こうとする。しかし、ミルイヒは抜かせぬよう、引きに逆らわなかった。  襲撃者が短剣を諦め、長剣を使うための間合いを取ろうとしたときにはもう遅い。ミルイヒは襲撃者のみぞおちに鋭い膝蹴りを放ち、よろめいて後退したところを剣で突いた――が、左肩をかすっただけだった。ミルイヒは舌打ちした。  襲撃者は身を翻し、走った。ミルイヒもそのあとを追ったが、すぐに諦めざるを得なかった。馬を奪われたのだ。  ようやく現れた月の下、襲撃者の風になびく黒髪と、ほっそりとした背中は遠ざかり消えゆく。そのあとには、月光にかすむ闇が残るばかりである。  闇と青白さだけが世界を作っている。先ほどの出来事が嘘のように、幻想的な静けさがそこにあった。しかし、ミルイヒの腕から滴る赤黒い血が、夢でなかったことを主張している。  突き刺さったままの短剣と、血に汚れた白い隊服を見て、ミルイヒは深々とため息をつかざるを得なかった。  執事にまた何か言われる……。  今年の残暑はさほど厳しくはない。暑すぎず、寒すぎず、外で昼寝をするにはもってこいの天気が続いている。  まだ青々とした草木は柔らかな日差しに黄緑色に輝き、その狭間からわずかにこぼれ出た光は、木にもたれたミルイヒの、投げ出された足をまだら模様にした。  ミルイヒは眠りと覚醒の間をさまよい、鳥のさえずりと木々のざわめきを聴いていた。  と、そこへ、がさがさと下生えを踏む騒々しい足音が聞こえてきた。足音の正体はあの男に違いない。  至福の時を害されて、少しばかりむっとして、ミルイヒは重いまぶたを上げた。案の定、近衛隊の白い制服姿のランディが、あきれ顔でこちらにやって来るのが見えた。 「やっぱり、ここにいたか。非番とはいえ、こんなところで昼寝してたら、また班長にどやされるぞ」  そう言われても、王宮の中庭が一番寝心地がよいのだから仕方がない。友人の助言でもそれは譲れない。また、ランディもミルイヒの頑固さを知っているだろうから、それはからかい口調だった。  ランディは短く刈り込まれた芝生の上に座り込んだ。碧の瞳が奇妙なきらめきを帯び、唇の両端がきゅっと釣り上がっている。この男がこんな顔をする時はろくなことがない。 「聞いたぞ、聞いたぞ。おまえも隅に置けない奴だなぁ。親友である俺にひとっことも言わないなんてなぁ」  ランディは端から見れば悪友であるかもしれないが、ミルイヒにとっては士官学校時代からの唯一無二の親友であった。 「何のことだ?」  ミルイヒは気だるげに身体を起こした。 「何のことだ、じゃないだろう? 皆、噂してるぞ」  ミルイヒは首を傾げた。 「噂? 何の噂だ?」  ランディはこれ見よがしにため息をついた。ミルイヒが周りのことに非常に無頓着であることを思い出したのだろう。  気を取り直した様子で、 「昨夜の、エルネラ殿下十六回目の誕生会で……ああ、そうか、おまえは裏手門警備だったからな。話が届いていなかったか。エルネラ殿下とおまえが婚約してるってことさ」 「ああ、そのこと」  どうでもよいことのように淡々と答える。  事実、どうでもよかった。昨夜のことは、あの襲撃者のことと、執事がうるさかったことしか覚えていない。怪我のことを言いくるめるのが大変だった。  問題の怪我はそれほど大事ではないと思っていたのだが、そうでもなかった。家に帰り着いた途端、脂汗が流れるほどに痛み出し、そのため、よく眠れもしなかった。  いまだ、じくじくと痛む。昨日の今日のなのだから仕方がないが、他によい方法があったんじゃないかと後悔した。  もっともそれは、生きて今ここにいるから思えることである。 「どうりで、今日は皆の視線をやけに感じると思った。……なんだ、婚約の話って本当だったんだな」 「なーに、他人事のように言ってるんだ。当事者はおまえだろ? 真相を聞かせろよ」  ミルイヒは、興味深げに目を輝かせているランディをまじまじと見つめたが、すぐにさっと目をそらした。 「真相と言っても……ちょうど四年前、死ぬ間際の父の口から初めてそのことを聞かされたんだ。てっきり、ほらかと思っていたんだが……」 「死ぬ間際にほらなんか言う奴はいないぜ。それに、おまえの父親と国王陛下は仲が良かったそうじゃないか。そんな話が出ていてもおかしくはない」 「……」  確かにランディの言う通りかもしれない。  父と国王は乳兄弟であり、親友であった。国王はいつもセイデーズ家の家計を案じており、なにかしらの理由をつけては様々な物を送りつけてきた。だが、父はどのような物が送られてこようとも決して受け取らなかった。さほど厳しい人ではなかったが、公私をわきまえ、清貧を尊ぶ人だった。  幼いミルイヒに、よくこう言ったものだ。 「ミルイヒ、虚飾に溺れてはならんぞ。あのように堕落した、名ばかりの貴族となってはならぬ。忠誠、公正、勇気、武芸、慈愛、寛容、礼節、奉仕を忘れず、誇り高き貴族たれ」 「父上、それではまるで騎士ではないですか」 「貴族は本をただせば騎士なのだよ。貴族たちは長い虚飾の生活の中で騎士の精神を忘れ、または取り違えてしまったのだ」  そんな父だったから、他の貴族からは煙たがられていたし、国王の父への寵愛ぶりを嫉妬されていた。だが、意に介してはいないようだった。  父はあまり自分のことを話さなかった。だから、死ぬ間際の告白も、 「実は、おまえはエルネラ殿下と婚約していることになっている」  という、至って簡潔なものだった。詳細を問いただそうにも、父は告白の直後に亡くなってしまった。 「花嫁なら受け取るだろうと思われたのかもしれないな。だが、わたしは陛下からそんな話は一切聞いてはいない」 「事後承諾ってやつだな。おまえたち貴族には珍しくないことだろう」  その言葉には皮肉が込められている。ランディが貴族のことを口にするといつもこうだ。  ランディは元々は貴族ではない。大豪商の次男なのだ。跡継ぎではないことをよいことに遊び歩いている不良息子だったのだが、それを見かねたランディの父が、性根を叩き直してこいとばかりに士官学校にぶち込んだのだった。――大して成果はなかったようだが。  庶民が士官学校に入ることは非常に珍しいことである。士官学校は、貴族息子たちが騎士になるべく用意されているようなものだった。  だから、貴族の群の中に一人放り込まれた庶民のランディは、士官学校に庶民がいることを快く思わぬ者たちから様々な嫌がらせにあった。  だが、ランディはそのようなことにあって黙っているような人間ではない。二倍、いや、三倍ぐらいにしてお返ししてやった。それが恐れられて、士官学校に入って半年後には嫌がらせはぴたりとなくなっていた。  ランディいわく、 「まったく、根性のない奴らだぜ。集団でなきゃ何にもできないんだ。こっちはいつでも正々堂々サシで勝負してやるってのによ。『騎士』らしく、な!」  だが、生来人好きのする彼である。庶民だ何だと蔑まれていた彼であったが、次第にその気っ風の良さで貴族息子たちを引きつけていった。今ではどれくらい友人がいるのか、ミルイヒにはわからない。  そんな彼がどうして、こんな面白みも愛想もない自分の親友たるを望んだのだろう、と時々思う。それは、自分がこの男を好きである理由と同じくらい、わからないことである。  賭博、喧嘩、女遊び……およそためになるようなことを教わったためしはない。それが悪友と呼ばれる所以であろう。 「事後承諾……だとしても、なぜ今頃そんな話が?」 「それはやっぱり、エルネラ殿下が成人なさったからだろうよ。俺はご拝顔にあずかったことはないが、たいそう美しい方だそうじゃないか。群がる男どもは数知れず」 「それでは、わたしは殿下の防虫剤ということか?」  ランディは眉をひそめ、ため息をついた。 「どうしておまえはそううがった考え方をするかなぁ」 「うがっている? ……そう考えざるを得ないだろう。わたしは殿下と面識はない」  四年前のあの夜、ただ一度目を合わせたきりだ。 「殿下から婚約の話を出したということはないと言うんだな? やはり、陛下のご意向というわけか」 「真相は陛下に伺わなければわからないが……」  おそらくそうに違いない。陛下はセイデーズ家の窮状を何とかしたいと思っているのだ。余計なお世話といったところだが、忠臣たるミルイヒはそのようなことをおくびにも出さない。 「それで、婚約の話が本当だとしてだ。おまえはどうするんだ?」  ランディはミルイヒの鉄面皮をちらりと窺った。 「何も」  ランディは忌々しそうに芝生をむしった。 「結婚相手を勝手に決められて、何とも思わないのか?」 「陛下がお決めになったことなら、逆らう理由はない。幸い、心に決めた相手はない――いや、いたとしてもわたしは陛下の御意に従うだろう。それに、わたしはセイデーズ家の当主としてその血統を絶やすわけにはいかない。いずれは結婚しなければならない身だ」  ランディは不愉快そうに目を細めて、ミルイヒを見た。 「誰でもいいってわけだな。……おい、そのこと他の奴の前で言うんじゃないぞ」  ミルイヒは眉をひそめた。 「なぜだ?」 「刺される」  ミルイヒは目をしばたかせた。 「それほどの魅力がある人なんだろうよ、エルネラ殿下は」  と、何か含みのある様子で付け加えると、ランディは立ち上がり、純白のマントに付いた埃をはたき落とした。 「さあて、陛下に謁見たまわりに行こうぜ、相棒!」  鱗雲に覆われた黄昏空に、威勢の良いかけ声と、木と木がぶつかり合う乾いた音が響き渡っている。 「えいっ、やあっ、たあっ!!」  白金の髪を三つ編みにし、男物の服を着た少女は木剣で果敢に打ち込んだ。  それを受ける黒髪の青年は、男にしてはやけにほっそりとしていてる。だが、少女の激しい打ち込みに気圧される様子はない。優雅と言っていいほどの動作で、軽く受け流している。 「今日はやけに気合いが入っているんだね」  日焼けのあとが全く見られない青年は、白く整った顔をほころばせた。 「……気合いも……入る……わよ!」  青年の涼しい顔に反して、少女のそれは汗と埃にまみれ、紅潮している。 「やあっ!」  少女は上段に斬り込んだ。青年はさっとそれをかわし、勢いによろめいた少女の背を押した。少女は地面に倒れ込んだ。すぐに立ち上がって身を翻したが、 「今日はここまで」  少女の額に剣先が突きつけられた。  少女は一瞬ひるみ、柳眉をひそめて青年をにらんだ。 「まだ始めたばかりよ」  青年は木剣を下ろし、少女に背を向けて歩き始めた。 「雑念が多すぎる。これじゃあ修練にならないよ」 「修練にならなくたっていいわよ。とにかく鬱憤晴らしがしたいの! わたし、昨日の夜からずっとむしゃくしゃしてるんだから」  青年はいつもの優しげな顔から一転して、神妙な面持ちで踵を返した。 「鬱憤晴らしに剣を使ってほしくないな」  少女はその迫力に気圧されたが、拳を固めて負けじと声を張り上げた。 「相手をしてくれないって言うならいいわよ。下町にでも行って喧嘩を吹っ掛けてくるから!」  少女はずんずんと大股で、森と言っていいほどの広い庭の出口へと歩いた。  青年は慌てて追いかけ、 「待ちなさい! エルネラ!」  と、少女の細い腕をつかんで引きとめた。 「いたたたっ! そんなに強くつかまないでよ」  エルネラは眉間にしわをよせ、自分の腕を乱暴に取り戻した。まったく、どこからあんな馬鹿力が出てるのかしら。青年のか細く、長い指を見ながらそう思った。  青年はエルネラの非難を無視してため息をついた。 「下町へ行って喧嘩するだなんて……仮にも君はお姫様なんだから」  エルネラはむっつりとした顔で青年を見上げた。 「お姫様、お姫様! もう聞きたくないわ、そんな言葉」  がくりと肩を落としてうつむく。 「あーあ。どうしてわたしは『お姫様』なのかしらね。男だったら……いえ、何の肩書きもない女でさえあったら、どんなによかったことかしら……」  青年は首を振り、ため息をついた。 「いつも言う答えだけど、『何の肩書きもない女』にだってそれなりの苦労はあるんだ。君には隣のバラがより赤く見えているだけだよ。望んでもどうにもならないことはこの世にはたくさんある。君は『お姫様』として生まれてきたんだ。だから、『お姫様』として生きなくちゃならない」  エルネラは顔を上げ、青年の黒い瞳を毅然と見つめた。 「そんなのは嫌! わたしはわたしの生きたいように生きるわ。『お姫様』として生まれたからって……そんなの……納得いかないわ!!」  青年は目を細めて微笑んだ。 「うん。わたしもあまり納得してない。だから、こうやって君に剣を教えてる」  エルネラは満面の笑みを浮かべ、青年に勢いよく抱きついた。青年は驚いてよろめいた。 「だから大好きよ!」 「おいおい、エルネラ」  青年は困った声を出したが、その整った顔はほころんでいた。エルネラの頭をいとしげに撫でてやる。 「――で、何があったんだい?」  エルネラはひとしきり青年の胸に頬ずりしてから、名残惜しそうに青年から離れた。  そして、躊躇いがちに話し出した。 「昨日の夜、父上がね……」 「そうか、ジェラルドはおぬしに何も言わなんだか。あやつらしいな」  ミルイヒは国王の彫りの深い厳格な顔を見つめた。茶色の髪に幾本か白いものが混じっている。  国王はベルベットのソファから立ち上がり、紫の外衣の裾を引きずって、接客室の中をゆっくりと歩き回り始めた。  壁には細かな意匠のタペストリが掛けられ、サイドボードには花と金銀の小物が飾られている。その反対側の壁にはがっしりとした煉瓦造りの暖炉があるが、まだ火はおこされておらず、灰もきれいにならされたままである。部屋の中央には大理石の巨大なテーブルが置かれ、その模様に合わせた柄のソファに、ミルイヒは背筋を伸ばして座っていた。  広い部屋には、国王とミルイヒしかいない。  深紅のふかふかの絨毯は国王の足音を吸収したが、つぶやきまで消すことはできなかった。 「まったく、嫌なことを押しつけていきおった……」  国王は密やかにため息をつき、やにわにミルイヒを振り返った。 「この婚約は六年前、おぬしの父親と決めたものだ。しかし、その時はジェラルドはたいそう渋ってな」  ミルイヒはその様子が手に取るようにわかった。父は国王に敬意を示さないことはなかったが、否を否と言える人だった。また、国王はその権限をもって無理強いしたりはしなかった。 「わしらは一つの賭けをしたのだ」  ミルイヒは目をしばたかせ、国王の青い瞳を見つめた。いつも自信に満ちているその瞳は、今は揺らいでいる。 「この婚約は当事者が、つまりおぬしとエルネラが成人するまでわしらの胸にしまっておく。だが、成人する前にどちらか片方に想い人ができた場合、この婚約を破棄する、とな」  ミルイヒは驚いた風もなく、平然と聞いていた。 「おそらく、ジェラルドには自信があったのだろうよ」  確かにそうだろう。父はランディとの付き合いを喜んでいる節があった。今思えば、ランディがミルイヒに誰かを引き合わせてくれるだろうとの推測があったに違いない。当ては外れてしまったが。 「陛下、わたしには異論はありません。陛下の御意のままに、わたしはエルネラ殿下と結婚しましょう」  国王は当然のようにうなずいた。だが、すぐに目を他へさまよわせた。 「だがな、エルネラはたいそう反発してな。恥ずかしい限りだが、わしはエルネラに弱い。もしエルネラがあまりにも嫌がるようなら、破棄せねばならないやもしれん」 「わかりました。陛下はエルネラ殿下をわたしに振り向かせろとおっしゃるんですね」 「有り体に言えば」 「かしこまりました。それでは失礼致します」  ミルイヒは国王に敬礼すると、接客室を辞した。  ぴかぴかに磨かれた廊下を歩きながら、ミルイヒは奇妙な感情を抱いていた。それはどのようなものか、はっきりとはわからない。心をうずかせ、いつになくそわそわさせる。  国王にああは言ったものの、女性を口説いたことなどない。無論、生まれてこの方、付き合ったこともない――一夜限りを除いて。とても難しいことのように思えた。  しかし、陛下の期待には応えたい。ならば、やはりランディに力を借りねばなるまい。  大広間に通ずる大廊下に出ると、大人三人がようやく抱えられるほどの柱の下で、ランディが腕組みをして待っていた。 「どうだった?」  ミルイヒは深刻な面持ちでランディをじっと見つめた。 「わたしに女性の口説き方を教えてくれ」  ランディは目を丸くした。 「……それで、父上はこうも言ったのよ。わしはあれほど夜会に出ろと言ったのに、聞かなかったおまえが悪い、ってさ。そんなの卑怯よね。『賭け』なんてわたしの知ったことではないわ。夜会なんて大嫌いだし、結婚なんて考えたこともないわ」  黒髪の青年はため息をついた。  陽の残滓が、白亜のベンチに座った二人の影を、大きく引き延ばしている。肌寒い風が吹き始め、庭の木々はざわめいた。 「結婚しないわけにはいかないだろう。特に王族とあっては。君はまだ恵まれていると言っていい。他の国へ嫁ぐわけじゃないんだから」  エルネラは頬を膨らませた。 「仮に結婚するとしてもよ。あんな人は嫌」  青年はため息混じりに微笑んだ。 「君も好き嫌いが多いね」 「わがままだって言いたいんでしょ。わかっているわよ」 「君は婚約者を見たことがあるのかい? 行事に全く参加しない、深窓の姫君たる君が」  からかい口調である。 「一度だけね」  エルネラは不機嫌な声を出した。 「一度……初お目見えの時よ。わたしを見て、小馬鹿にしたように笑ったのよ、あの人。そして、さっさと姿を消しちゃったわ。不健康そうな青白い顔、ひょろひょろして頼りなさげな身体つきをしてた」 「それだったらわたしだってさして変わらないよ。彼よりも背は低いだろうし」 「あなたのは表面だけよ。頼りなく見えて、内実、随一の剣士じゃないの」 「お褒めにあずかり光栄です」  青年はおどけて最敬礼した。  エルネラはそれを無視して続けた。 「影薄い感じだったわね。武勇伝なんか聞いたことがないわ。事実、侍女の他愛ない噂話にも上らないし」 「何が言いたいの、君は? 影が薄くとも家柄はいいよ」 「そんなことはどうでもいいわ。わたしは弱い人が嫌いなの。わたしより弱い人なんて問題外!」  青年は困ったように苦笑いした。 「そいつは難しいな。君より強い人はそうそういないかもしれない。なにせ、わたしが手ずから教えているんだから」  そこには幾分の謙遜も含まれてはいない。 「でも、なんであれ、結婚しなくちゃならないよ」 「結婚してないあなたに、そんなこと言う権利はなくってよ」  青年は痛いところを突かれたとばかりに肩をすくめた。 「それを言われるとつらいな。でも、わたしは男だし、末っ子だから、あまり重要じゃない。今さら結婚しても厄介に思われるだけさ」  居座っている方が厄介じゃないかしら、とは思ったが、エルネラの本心は彼に結婚してもらいたくなかったので、思うにとどめた。 「どんな男か確かめてからでも遅くはないと思うよ。第一印象だけで決められては、あんまりというものだ」 「どうせろくでもない男よ。――ディアンだわ」  すっかり暗くなってしまった庭の木陰から、ランタンの明かりがちらちらと見えた。 「暗くなるのが早くなってきたな。さあ、行きなさい。君の侍女はたいそう気をもんでいるはずだ」  青年はエルネラを立ち上がらせ、エルネラが手にしている木剣を取り上げた。エルネラはそれを名残惜しそうに見た。 「明日も来てくれる?」 「たぶん……」  エルネラは振り返りもせず、一目散に明かりが揺れ動いているところへ向かった。  青年はその後ろ姿をじっと見つめ、木陰の中にそれが消えてしまうと、踵を返して反対方向に歩き出した。深緑のチュニックとズボン姿の彼は、闇の中にとけ込むように消えていった。  あとには、秋の虫の鳴き声が虚しく響くのみである。  ランディはため息をついて言ったものだった。 「口説き方と言ってもな、女性にもよるし、一概にこうとは言えないな。おまえ、話したこともないんだろう? おまえのことだ。どんな人かもわからないんだろう? 相手のことがわからないとなると難しいな――あいにく、俺も知らない。あまり人前に出ない人らしいからな。こういうのには下調べも必要だ。侍女から話を聞くのがいいだろう。そんな不安そうな顔をするなよ。なーに、俺がうまく侍女と接触して聞き出してやるから。一番大事なのはな、相手を不快にさせないことだ。その無愛想な顔はやめた方がいいぞ。もっとにこやかに。……おい、にこやかとにやけるのは違うぞ。もっと愛想のいい顔はできないのか? ……ああ、もういい。いつも通り無愛想でいろ。そっちの方がマシだ」  ミルイヒはお馴染みの木にもたれかかり、ランディとの昨日のやりとりを思い出していた。そんなにわたしは愛想がないんだろうか? と、顔を撫でる。  ランディはやけに張り切っている風だった。思えば、恋愛に関する頼み事や相談はこれが初めてだ。  ランディの方からは、そのような話を持ち出すことはない。せいぜいが、付き合っている女性の家柄――どういうわけか、貴族のお嬢さん方やご夫人方にも受けがいいらしい――を聞いてくるくらいのものだ。ミルイヒもランディの恋愛事情――それはかなり華麗にして危険なものであるらしい――には興味がなく、問いただすことも戒めることもなかった。  エルネラ・レイ・アルヴァーノ――いったい、どのような女性なのだろうか?  四年前の記憶を何とか引きずり出そうとしたが、思い出されるのは、一瞬目が合ったあの新緑の瞳だけだった。  ミルイヒは目を細く開け、頭のずっと上の方でちらちらと日の光に輝く葉っぱを見た。 「秋の陽の落ちるがごとく  草木のしおれるがごとく  君の顔は憂い」 「そして  愛せし人の名を呼ぶ」  ミルイヒは後ろから聞こえた詩に応えた。  顔をあおのかせて見上げると、もたれていた木の後ろから現れた顔があった。凛々しく釣り上がった眉に反して、その黒い瞳は女性のようになまめかしく、厚めの唇はかすかに笑みを浮かべ、白く繊細な顔立ちを包む髪は漆黒だった。  ――美男子だ。  ランディもそれに属するが、この男には貴族的な倒錯じみた美しさがある。 「貴殿がミルイヒ・セイデーズ公爵?」  声を出せずにうなずくと、黒髪の青年――二十五、六といったところだろう――は、いつのまにかミルイヒの隣に腰を下ろしていた。  若草色のチュニックを着、同じ色のズボンを茶色のブーツの中にたくしこんでいる。  ミルイヒは起き上がり、目をしばたかせた。  ――見覚えがある。  だが、この地方では黒髪の者はとても珍しいにも関わらず、思い出すことができなかった。 「あなたは?」  青年は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。 「デュー」  ミルイヒはその名を反芻し、小首を傾げた。聞いたことのない名前だ。  青年はミルイヒの疑問に頓着する様子はなかった。 「エルネラ……殿下と婚約しているそうだね」  ミルイヒははっとして青年を見つめた。もしかして、ランディが言っていたエルネラ信奉者だろうか?  青年はくすくすと笑った。屈託のない無邪気な笑いである。 「そんな怖い顔をしないでくれよ。わたしはなにも、殿下を賭けて決闘を申し込もうとしているわけじゃない」  見透かされて、ミルイヒはどのような顔をしてよいかわからなかった。 「……」 「貴殿はこの婚約をどう思っているの?」 「どうって……何も――いえ、光栄なことだと思っています」  ランディの言葉を思い出し、言い直した。この男がエルネラに好意を持っているのは間違いないはずだ。 「本当に?」  好奇に満ちた黒い瞳が、ミルイヒの灰色の瞳をのぞき込んだ。 「殿下とは会ったことがないんだろう?」  ミルイヒは眉をひそめた。この男は何が知りたいんだろうか? 終始微笑みを浮かべている顔からは、何も読みとることはできない。 「だからどうだと言うんです? 結婚式の日に初めて顔を合わせるなんて、珍しいことではないでしょう」 「確かに」  ミルイヒは立ち上がり、白マントの埃をはたいた。 「公爵?」  青年はミルイヒの不意の行動に驚いた様子で、つられて立ち上がった。 「そのように呼ばないで下さい。今は一介の騎士に過ぎません。そろそろ勤務に戻ります」 「不快に思ったのなら許してくれ、えーと、ミルイヒ殿」 「いえ、不快には思っていません、デュー卿」 「わたしもそのように呼んでほしくないな」  青年は黒髪を掻き上げ、微笑んだ。 「それでは、デュー殿。失礼します」  ミルイヒは素っ気なく軽く会釈をすると、足早に立ち去りかけた。しかし、青年の涼しげな声が一瞬それを引き留めた。 「わたしはただ、貴殿のことが知りたかっただけだよ。エルネラ……殿下のために」  生ぬるい風が吹き荒れ、木々がざわめき、ミルイヒの金の髪を輝かせながらなぶった。早くも力尽きた葉がはらはらと空に舞い、ミルイヒはその中を颯爽と歩いた。 「おい、これは見込みがあるかもしれん」  ランディはゴブレットを傾けながら言った。 「ほう?」  酔客の罵声や哄笑、給仕女の叫声が上がる中、その大衆酒場の奥まった角の席は、それとは隔離された空間のようであった。ミルイヒとランディは周りの喧噪には慣れている様子で、静かに話をしている。  彼らの格好といえば、下町の若者たちが着るような、シャツと半ズボンといった簡素なものだった。無論、ランディには馴染んだ格好なのだが、ミルイヒの貴族的な顔にはたいそう似合わない服装である。いかにもお忍びの王子様といった風なのだ。そのことで最初のうちは酔客たちにからかわれたものだったが、今は皆、慣れっこで、意識する様子はなかった――ミルイヒの身分を推し量るように見る以外は。  ミルイヒはレモン汁が少々入った水を一口飲んだ。 「どのように?」 「殿下の侍女はディアンと言ってな、それはまた可愛らしい女性だった」  ランディは彼女のことを思い出した様子で、うっとりとした――いや、スケベったらしい顔をしていた。すでにほろ酔い状態でもあり、ほのかに顔を赤らめている。 「貴婦人の繊細な手で大切に育てられた、一輪の白く小さな花。まさしくそれだ。はかなげで、触れるとあっという間に散ってしまいそうな……」  ランディは芝居がかった様子で言う。  ミルイヒは、お馴染みの病気が始まったかとばかりにため息をつき、 「それで、おまえは手折ってしまったのか、その花を?」 「失礼な!」  ランディはゴブレットをドンと木のテーブルに置いた。その勢いで中に入っていた赤ワインがこぼれ、テーブルに黒い染みを作った。 「いくら俺でも、後宮でそんなことする勇気はないぞ」 「後宮!?」  ミルイヒは目を丸くした。 「男子禁制だぞ、あそこは! どうやって入り込んだんだ!?」  ランディは得意げに笑った。 「んっふっふ。秘密」  それから少し真顔に戻って、 「やっぱり、お姫さんを直接見といた方がいいかなあ、と思ったんだ――言っとくが、他意はないぞ。ホントにホント! だが、それはかなわなかった。仕方なく、当初の予定通り、ディアンから聞き出してきたぞぉ」  ミルイヒはうなずいて先を促した。前置きが長くてうんざりだ。 「一言で言うと、深窓の姫君だな。ディアンと同じタイプ。疑うことを知らない清純な乙女。こういうのは簡単だ。押し倒してしまえばこっちのもの――あくまで優しくな」  ミルイヒは頭を抱えた。 「おいおい、結婚前に押し倒すわけにはいかんだろう」 「なーにをおっしゃる。今日日、結婚前に何かあるのは当然だろ?」 「却下だ。却下、却下!」  ミルイヒは手を振った。  ランディは口を尖らせた。 「おまえは人の好意を無にするのか?」 「好意も何も、好きでやってるくせに。それはともかく、本当に『疑うことを知らない清純な乙女』なのか? それならすんなり婚約を認めているはずだ。陛下の話では違うようだったぞ。手を焼いているわがまま娘のような……」 「愛しのディアンが嘘をついているとでも? 何のために?」  ランディは疑いの眼差しを相棒に送った。 「さあな。おまえの働きには感謝している。ご苦労様。あとは自分で何とかするよ」  ランディはうろんな目つきでミルイヒを見ながら、ゴブレットにワインをつぎ足し、小声で言った。 「なぁんか、あまり感謝しているようには聞こえないなぁ」 [#改頁] 02.決闘  王城はいつもと変わらぬ優麗と荘厳に満ちていた。  広大な王都の外からさえ見え、旅人の目印ともなっている、王城の白い三つの尖塔。今朝はその尖塔の先に薄く靄がかかっている。ミルイヒは王城への道すがら尖塔を見上げ、一雨来るかもしれないと思った。  馬を厩舎に預けると、勤務先へと向かった。  近衛隊第六班に籍を置くミルイヒの通常勤務は、今のところ、国王の執務室の警備である。それは昼少し前に終わり、昼の休憩をおいたあと、次に練兵が始まる。それで一汗流したら、ミルイヒの王城での一日は終わりとなるのであった。  ミルイヒは王城の中に入ってもうわの空だった。今日こそエルネラと会おうと思っているのだが、どうにも決意しかねている。  国王にああは言ったものの、自信などない。はなから、ミルイヒと会ってもみないうちから、エルネラは拒否している。そんな彼女が、果たして自分と会ってなどくれるのだろうか?  また、彼女は後宮の奥深くに住まい、ほとんどその外に出ることはないという。となると、またしてもランディの協力を乞わなければならない。だが、昨夜、自力で何とかするといった手前、言い出せないことであった。  ミルイヒはため息をつき、その時になって初めて、執務室への通路を通り過ぎていたことに気づいた。 「セイデーズ公爵様」  足早に戻るミルイヒに話しかける男がいた。従者のようである。男はかしこまって手紙を差し出した。 「我が主人、ワイズ伯爵からの書状です」  ミルイヒはその名を聞いてわずかに眉をひそめた。  ミルイヒほどではないにしても、若い伯爵である。たいそうな金持ちらしいと聞く。だが、面識はさほどなく、手紙をもらうようなことはなおさらだった。  不可解ながらも手紙を受け取った。上質の大理石模様の紙、封蝋印はアマリリス。間違いなくワイズ伯爵からのものだ。親指で封を破り、中の紙を取り出して広げた。  ミルイヒは目を見張った。    ――挑戦状  貴公、ミルイヒ・セイデーズ公爵殿はエルネラ・レイ・アルヴァーノ殿下と婚約されたとうかがう。聞くところによると、それは殿下の意の染まぬものであるという。ならば、婚約しているとはいえ、我らの立場は対等であるといえよう。  我、グラディス・ワイズは殿下をお慕い申し上げている。貴公より殿下を幸せにする自信はある。  そこで、貴公が身を引く気がないというのなら、決闘を申し出る。  期日はルシエラの月十日、十七の刻、場所はフォボスの庭。  立会人はエルネラ殿下本人。  貴公の勇気と賢明を信ずる。          グラディス・ワイズ伯爵  と、神経質な字で書かれていた。  ――ばかげた話だ。  こんなのは屁理屈に過ぎない。本人たちの意志を無視した婚約など山ほどある。しかも、これは国王自らが決めたことなのだ。どうしてそれに第三者が立ち入ることができよう?  だが、立会人にエルネラということは、彼女はこれを認めたのだ。何やら言いようのない想いが、ミルイヒの心をかすめた。  手紙から目をはずすと、従者はすでにいなかった。  ミルイヒはため息をついた。期日は今日の夕方だ。グラディスのところまで行って断る暇はない。否応もなく応じろというのか。  ミルイヒは手紙を懐に入れると、執務室へ急いだ。 「グラディス・ワイズがおもしろいことを言って来たわ」  いつになく楽しそうなエルネラを、黒髪の青年は不思議そうに見た。 「グラディス・ワイズ……誕生会で君にプロポーズした男か?」 「そう。派手好きで悪趣味で鬱陶しいあの男。ミルイヒと決闘するそうよ」  青年の目が丸くなった。だが、黒い瞳には好奇の光が輝いている。 「決闘! おもしろそうだなぁ」 「わたしは立会人になったわ。ふふ、間近で見ることができる。ミルイヒがどれほどの腕をもっているのか。……ああ、どうせならわたしがミルイヒと決闘したかったわ」  エルネラは本当に残念そうに柳眉をひそめた。 「またそういうことを言う。ミルイヒが負けたらどうするつもりだい? 決闘は神聖なものだ。いくら君でも、誓いを破るというようなわがままは通らないよ。どちらかと必ず結婚しなきゃならなくなる」 「わかってる。でも、まだ婚約止まりよ」  エルネラは何か考えがあるとでもいう風に微笑んだ。青年はその微笑みの正体がわかったかのようにため息をついた。 「そろそろ十七の刻だわ。あなたはどうするの?」 「もちろん、見に行くさ。こっそりとね」  二人はベンチから立ち上がり、いつもの庭をあとにした。  ミルイヒは決闘になど応じる気はさらさらなかった。だから、断るためにフォボスの庭――別名「決闘の庭」へと向かった。それは王城の敷地の奥まったところにある。  実のところ、騎士間の決闘は禁止されているのだが、今となってはなきに等しいものだった。憲兵たちでさえも見て見ぬ振りをする。決闘は今や、貴族たちのゲームの一つとなりつつある。だから、決闘と小耳に挟めば、誰もがこの「決闘の庭」に集まるのだ。  「決闘の庭」にたどり着いて、ミルイヒは肩を落とした。ミルイヒとしては事はすべて秘密裏に行うつもりだったのだが、お祭り好きの悪友に口を滑らしたのがまずかったようだ。  決闘の庭は中央をあけて、貴族はもちろんのこと、騎士や侍従、馬丁までもが、広大な庭を埋め尽くさんばかりにごちゃごちゃと集まっていた。中央から遠い者たちは、背伸びをしたり、近くの木に登ったりしている。あちこちで賭けをする声、罵声叫声が上がっている。  これでは断るに断れなくなってしまった。断ろうものならどのような目に遭うかわかったものではない。  決闘の場としてあけられてあるところに、赤と黄色の縞模様の長衣を着、首からは金銀のネックレスを垂らし、両の手指に様々な宝石を身につけた男が現れた。  ――グラディス・ワイズだ。  ミルイヒも決闘の場に進み出、グラディスと対峙した。  観客たちは主役の登場にどよめいた。 「こいつは近年まれにみるすごい決闘だな」 「国一番の美姫をかけて、宮廷一の金持ち貴族と貧乏名門貴族との対決!」 「殿下にとってどちらが幸せなのやら……」  ふたりはさらに中央に進み出た。 「ごきげんよう、セイデーズ公爵」  グラディスはふっくらした顔を少し傾げて、愛想良く挨拶した。 「ごきげんよう、ワイズ伯爵」  ミルイヒは無愛想に返した。しかし、ミルイヒの無愛想ぶりは広く知られていることなので、グラディスは気を悪くした風ではなかった。 「いったいどういうことなのですか?」 「手紙に書いてあった通りのことです」  グラディスは目を細めて微笑んだ。貴族特有の、なにか含みのある笑みだ。 「この婚約は陛下がお決めになったことです。それには何人たりとも口出しできません」 「貴公はエルネラ殿下を愛しておられるか?」  ミルイヒは眉をひそめた。 「わたしは……殿下と面識がありません。いえ、そのようなことはどうでもいいことです」  グラディスのお愛想顔が消え、ミルイヒをにらむような目つきになった。 「よくない。わたしは殿下を愛しています。心から!」 「だからといって、殿下もあなたを愛しているというわけではないんでしょう?」  図星だったらしい。グラディスは顔を赤く染めた。 「しかし、殿下を全く愛していない人間よりかはいいでしょう? 殿下もこの決闘を認めておられる」 「しかし……」  ミルイヒが反駁しようとしたとき、ざわめきがひときわ大きくなり、ミルイヒの言葉をうち消した。  人々の波が左右に割れ、侍女を引き連れたエルネラが姿を現した。  エルネラは薄ピンクのドレスを身にまとい、金の髪には何もつけず、風に吹き流されるままにしている。一歩一歩ゆっくりと歩いてくる。人々に囲まれて、ともすればエルネラは押しつぶされ、はかなく消えてしまいそうだった。  エルネラが決闘の場にたどり着くと、ミルイヒとグラディスは片膝をつき、右手を左肩の下に当てて礼をした。 「おふたりとも立って下さい」  か細い、優しい声で言われて、二人はすぐに立ち上がった。  ミルイヒはエルネラの顔を見て目を見張った。女性の顔とはこうまで変わるものなのか。四年前のそれとはだいぶ大人び、輝きはいや増していた。  新緑の瞳を縁取る金の睫毛が、憂いを含んだように白い頬に影を落とし、薄桃色の紅をはいた小さな唇は、優しい笑みを浮かべている。しかし、どこかしら辞令的な感じのする笑みだ。また、濡れた青葉のような瞳の奥に、そのはかなげな振る舞いと優しい眼差しとは不似合いな、強い意志のきらめきを感じた。  ――何かが違う。  しかし、それが何であるのか、突き止めることはできなかった。  ミルイヒはいまだかつてない――いや、前にもあったような気がする、不思議な想いに囚われていた。 「殿下、わたしは代理人を立てます」  グラディスの声でミルイヒは我に返った。  貴族同士の決闘の場合、本人たちが直接戦うようなことはあまりない。昔ならいざ知らず、騎士階級を除く今の貴族たちは、教養程度にしか剣を習っていないし、その身が傷つくことを嫌った。そこで、自らが雇った代理人に代わりに戦ってもらうのである。  エルネラは優雅に微笑みと共にうなずき、幾分冷めた目つきでミルイヒを見た――ようにミルイヒには見えた。 「セイデーズ公爵は?」 「いえ、わたしは自分で」  グラディスは勝ち誇ったように鼻で笑った。 「金がかからなくて良いことですな。――代理人、前へ」  グラディスが指を鳴らすと、群衆の中から背の高い、茶色い髪の男が出てきた。  ミルイヒは目を見開き、その男の名を叫ばずにいられなかった。 「ランディ!」 「よっ」  ランディはさわやかな笑みを浮かべて手を挙げ、堂々と三人のところにやってきた。  観客の中で、ランディとミルイヒを知るものたちは――多くは近衛隊の者たちだったが――ざわめき、事情を知らぬ者たちに口々に話した。 「なぜ、おまえが……」 「どうした? 青い顔をさらに青くさせて」  たじろいでいるミルイヒを楽しんでいるかのように、ランディは人の悪い笑みを浮かべた。 「青くならずにいられるか」 「何? もう負ける気でいるのか?」 「……」  ミルイヒは唇を噛んだ。  そこに、グラディスが二人を見比べるようにして間に入った。 「知り合いなのか……?」 「知り合いもなにも、相思相愛の親友です」  ランディは軽い口調で言ってのけた。 「親友だと!? まさか貴殿……!」  グラディスは凄まじい剣幕でランディに詰め寄った。ランディはそれに微笑みで応じた。 「ご心配なく。親友とはいえ、手加減などしません。騎士の名にかけて!」 「しかし……」  グラディスは疑う目つきである。 「あなたはわたしの腕を見込んだ。わたしはその期待に応えるだけの働きをします。騎士の名にかけて」  ランディが真面目な顔できっぱりと言うと、グラディスはたじろぎ、不承不承うなずいた。 「それでは始めましょうか」  エルネラは何事もなかったかのように言った。  ミルイヒとランディは立会人であるエルネラに剣を渡した。剣を持つ手は白くほっそりとしていて、剣の重みに耐えかねぬようだった。エルネラは剣に仕掛けがされてないかをよく調べ、ふたりに返した。  そして、決闘を始める前の恒例の言葉を述べる。 「この決闘はエルネラ・レイ・アルヴァーノの婚約者たるにふさわしい者を決めるものである。  ランディ・フェイス、ミルイヒ・セイデーズ、ここに裁きの神ジェイダに誓え。  一つ、相手を殺さぬこと。  一つ、禍根なきこと。  以上」  本来、決闘とは生死をかけた勝負である。  しかし、戦争がなくなって久しい現在、生死をかけた戦いなど、まったくもって馬鹿らしいこととなった。安穏とした平和の中で、大儀よりも、人命の方が重要となったのである。  ――騎士道は地に堕ちた。  かつての栄光も名誉もかすみ、今はただ、陽炎のように地の上をゆらゆらと漂うのみである。  生死と名誉をかけた神聖な決闘は、騎士道のなんたるかを知らぬ者たちの娯楽となって汚された。  ミルイヒとランディが声高らかに宣誓すると、グラディスとエルネラはふたりから離れ、それぞれの従者と侍女が待つところに戻り、いつの間にか用意された簡易椅子に腰を下ろした。  エルネラが始めの合図をすると、二人は剣を鞘走らせた。  歓声がどっと上がった。 「何を考えているんだ、ランディ?」  軽く剣先を合わせて、ミルイヒは小声で訊いた。 「楽しいこと」  ランディはきゅっと唇の両端をつり上げ、その剣先を弾く。 「楽しい? 馬鹿げたことだ。この婚約はおまえには関係ないはずだろう?」 「ああ、そうだ。だから手加減なんて一切しないぜ。俺は本気だ。ディアンに格好悪いところは見せたく、ないっ!」  ランディの鋭い突きを、ミルイヒは唇を噛んで受け流す。金属と金属の擦過音が耳に痛い。 「この婚約を破棄にはしたくないだろ? それなら本気を出すんだ」 「わたしはいつでも本気だ!」  ミルイヒは真横に薙ぎ払った。ランディは後ろに飛んでかわし、剣を構え直してにやりと笑った。ミルイヒはその様子を忌々しく見た。  そうだ、ランディの言う通り、こんなことで婚約を破棄したくはない。陛下と約束したのだから。  だが、わたしはこの男に勝つことができるのだろうか? 試合では一度も勝ったことのない、この男に。 「ランディ・フェイス……おもしろい男が出てきたものね」 「姫様……」  後ろに控えるディアンが、悲しげな声を出した。 「そんな声出さないで、ディアン。わたしは楽しいのよ、ものすごく。あなたはランディ・フェイスを知っていて?」 「お噂はかねがね……。昨日、直接お話しをしました」 「まあ、ディアン! あんな男に引っかかっては駄目よ。でも、剣の腕が立つことは確かよね」  ディアンは顔を赤らめ、こくりとうなずいた。 「近衛隊で今一番力を付けてきているのは彼らしいわ。ミルイヒは勝つことができるのかしら?」  剣と剣がぶつかる音がエルネラを高揚させていた。だが、貴婦人らしく扇子で顔を覆っているため、紅潮したそれは他の者には見えない。扇子を握る手が汗ばみ始めていた。  あっという間に勝負がつくと思っていたが、ミルイヒは意外とよく戦っている。ランディと比べてだいぶ細身の彼は、辛うじてランディの剣を受けているように見えた。  先ほど間近で見たとき、この人は本当に騎士なのかしら、と思った。およそ日の下で生活しているとは思われない血色の悪い顔、こけた頬、薄い唇、そして何よりもあの灰色の瞳! 覇気のない、虚ろな瞳。  しかし、無愛想な顔から受ける冷たさとは別のものを、エルネラは感じていた。この人はわたしに好意を持っている……? 四年前、誰もがわたしを見ている中、ひとり背を向けたこの人が?  観客のざわめきが変わった。物思いから返ると、状況が一転していた。終始押し気味だったランディが、防戦一方にまわっている。  エルネラは我が目を疑った。先ほどまで躊躇いがちに受けるだけの剣だったミルイヒのそれは、鋭く正確に急所を狙うものとなっていた。また、見事な足捌きであった。じりじりとランディを追いつめていく。  エルネラは華麗とも言えるミルイヒの剣技に魅入られていた。知らぬ間に、彼の一挙一動に目が行っている。滴り落ちる汗のきらめき、空気を求めてあえぐ口、剣を振るう腕、立ち止まることなく動き続ける脚。あの人の方がずっと華麗だし、うまいのに、どうしてこの人のは目が離せないのかしら?  これほどの剣技を持つにも関わらず、話題にすら上らなかったのは妙な話である。しかし、それはなぜかうれしいことのように思えた。こんなにたくさんの観客がいなければもっといい。  ついに決着はついた。  観客はどよめいた。  ミルイヒがランディの剣をからめ取ったのである。 「勝負あり! 勝者、ミルイヒ・セイデーズ」  と、エルネラは立ち上がり、二人がたたずむところへ向かった。なぜか、足取りは軽かった。 「やっぱり……やればできるじゃないか」  ランディは額の汗を拭い、肩で息をしながら言った。 「やっぱり?」  ランディ以上に汗を流し、息も絶え絶えなミルイヒはようやく声を発した。  ランディはにやりと笑い、独り言のように言った。 「推測に過ぎなかったんだが、当たりだったようだな」  ミルイヒはその言葉の意味するところをはかりかねて、眉をひそめた。 「……俺はおまえの本気が見たかったんだ。おまえは剣の才がある。だがおそらく、おまえの自信のなさがそれを抑圧しているんだ。おまえって、いつも自分に自信がないんだよな」  その言葉を聞いて、ミルイヒは未完成のパズルをようやく完成させたような気分だった。しかし、それは完成させてはならないパズルのように思えた。わたしの自信のなさ――それはたぶん、おまえのせいだ、ランディ。そこにはどこか、悲しみとも恨みともつかぬ暗い想念がある。  ミルイヒは無理矢理それを振り払った。紅潮していた顔が、いくぶん青ざめる。 「いつだって自信なんかないさ……。それがどうして今突然、自信を持つことができるんだ?」  ランディはまたにやりと笑う。 「恋する男の強みというやつさ。本当に俺は本気でやったんだからな」 「恋?」  意外な言葉に、ミルイヒは目を丸くした。 「セイデーズ公爵」  気づくと、エルネラが側までやってきていた。  ミルイヒとランディは片膝をついた。  エルネラはミルイヒの方に寄り、手を伸ばしてミルイヒの顔を上げさせた。  ミルイヒは、エルネラが手を触れている部分に異様な熱さを感じた。急激な火照りが一瞬にして全身を襲う。動揺した。――先ほどの決闘での熱が収まっていないのだ……おそらく。  エルネラが、真っ赤になっているであろう自分の顔を間近で見てる。そう思うと、エルネラの顔を直視できず、ぎゅっと目をつぶらなければならなかった。意識すればするほどに、顔が熱くなる。呼吸が乱れる。――先ほどの決闘での疲労が残っているのだ……おそらく。  エルネラはミルイヒの額に軽くキスした。さわやかなレイエンの花の香が、ミルイヒの鼻孔をくすぐり、頭の中をくらくらさせた。  なんなのだろう、これは? 先ほどから、わたしはいったいどうしたんだ? ――激しい動揺と動悸を感じた。 「エルネラ殿下!」  グラディスが青ざめた顔でやってきた。 「ワイズ伯爵、ご覧の通りセイデーズ公爵の勝利に終わりましたわ。金輪際、わたしに私的な贈り物をしたり、面会を求めたりしないで下さい。わたしはセイデーズ公爵の婚約者なのですから」  伏し目がちに、戸惑うような声音で言うと、エルネラはグラディスに背を向けた。 「殿下、お待ち下さい!」  泣き出しそうな顔でグラディスはエルネラに追いすがり、そのほっそりとした腕をつかんだ。  エルネラは小さく悲鳴を上げた。その目は怯えに潤んでいる。 「殿下、お慕いしております! わたしはこんなにもあなたを愛している。それなのに、なぜ、愛してもいない者が婚約者なのですか!?」  グラディスは無様に取り乱した。必死にその手から逃れようとするエルネラの腕をさらに強くつかみ、抱いて頬ずりせんばかりである。  観客たちは困惑顔でざわめき、近衛隊とおぼしき者たちは決闘場へ進み出ようとした。しかし、それより一歩早くミルイヒが動き、グラディスの腕を払ってエルネラから放した。  一足遅れたランディは、驚いたようにミルイヒを見た。  グラディスは一瞬何が起こったかわからない様子だったが、すぐさま非難の目でミルイヒをにらんだ。 「あなたから言い出した決闘はもう終わったのです。わたしの勝利でね。言ったでしょう、愛は関係ないのだと」  エルネラは一瞬、驚いたような顔をした。それから、腕をさすりながら、グラディスに残酷とも言える笑みを向けた。先ほどまでの、聖女のような笑みとは対照的なものだ。ミルイヒは、エルネラの隠れた一端を見た気がした。 「そう、愛は関係ないの。本人の意思とは関係ないのよ、この婚約は」  その言葉には明確な意志があった。今までの消え入りそうな声音でもなかった。  呆然と立ちつくすグラディスを無視して、エルネラはミルイヒに顔を向けた。ミルイヒはたじろいだ。エルネラは冷たい眼差しでミルイヒを見ている。笑みすら浮かんでいない。  やはり、この方はわたしが嫌いなのだな……。ミルイヒは決闘に勝利したことをひどい罪悪のように感じた。 「セイデーズ公爵、こちらへ」  言い捨てるように言うと、ミルイヒに背を向けて歩き出した。  ミルイヒは動けずに立ちつくしていた。それに気づいたエルネラは、不機嫌な顔つきで振り返った。ミルイヒが自分についてくるのは当たり前という様子である。 「公爵?」  エルネラの不機嫌な顔もよいものだと、ひそめられた形のよい柳眉を眺めていたミルイヒは我に返った。 「は、はい……何かご用ですか?」  エルネラの顔はさらに不機嫌になったように思えた。 「……腕から血が出ています。治療して差し上げますわ」  はっとして、ミルイヒは自分の腕を見た。純白の袖に血がにじんでいる。傷口が開いたのだ。ミルイヒは傷を隠すように、手で覆った。 「いえ、大した傷ではありません。殿下のお手を煩わすだなんて……」 「わたしはあなたの婚約者です。それくらい、させて下さい」  「婚約者」という言葉が不自然に強調されていた。また、有無を言わせぬ口調だった。 「……はい」  ミルイヒはエルネラのあとに従った。  ふたりのやり取りに気づいた者はいなかった。観客たちは決闘の勝負がつくやいなや、決闘の内容を吟味したり、悲喜こもごもに金銭のやり取りをしたり、久々に楽しいものを見れたと足取りも軽く仕事場に帰って行ったりした。一方、グラディスは、従者にもたれかかるようにして、すでにその場を去っていた。  当事者たちのその後の様子に興味を抱く者はいない。――いや、意味ありげな笑みを浮かべるランディと、人目をはばかる様子の黒髪の青年を除いては。  遠雷が鳴った。まもなくしてぽつりぽつりと雨が降り始め、人々は大急ぎで「決闘の庭」をあとにした。 「ちょっと寒くなってきたわね。ディアン、暖炉に火を」  エルネラの侍女、ディアンはすぐさま火をおこす準備をし始めた。  雨で暗くなったため、すでに燭台の火はともされており、ぼんやりと部屋の中を映し出している。  ミルイヒが連れてこられた部屋は、後宮にほど近い控え室のようであった。国王の接客室ほどの規模も装飾もないが、ミルイヒの私室以上のものであることは確かである。 「さあ、腕を出してご覧なさい」  エルネラはミルイヒの向かいの肘掛け椅子に座った。木の目の美しいテーブルには、救急箱が置かれている。  エルネラは救急箱を開き、塗り薬や真新しい包帯を取り出した。ミルイヒは袖をまくり、急いで血に染まった包帯をほどき始める。しかし、片手であるし、血が固まって包帯同士がくっついているので、うまくいかない。  悪戦苦闘していると、エルネラに腕を取られた。ミルイヒはどきりとした。細くあたたかな指が、自分の腕に触れている……。 「で、殿下……こういうのは、女性には見せられません」  自分の腕を取り戻そうとするミルイヒの言葉を無視して、エルネラは包帯をほどき始めた。 「決闘での傷ではなかったのね。それに、どこが大したことないですって? ひどい傷だわ。練習か何かで?」  エルネラは眉をひそめて、赤く口を開いている傷を見ている。 「……ええ、まあ」 「あなたにこんな傷を負わせるなんて、相手は相当なものね」  消毒液で傷口を拭き、塗り薬をたっぷり塗ったガーゼをあて、包帯を巻く。なかなか手つきがよい。  手当てが終わると、そっと腕を押し戻された。ようやく腕を取り戻したミルイヒだったが、いまだエルネラの指が触れているような、腕のまわりに妖精でもまとわりついているような、奇妙な錯覚を覚えた。  その頃合いを見計らったかのように、ディアンがやってきて、テーブルに紅茶を置いていった。 「わたしに話があるのでしょう?」  ミルイヒは驚いてエルネラを見た。  エルネラは紅茶を一口飲み、立ちのぼる湯気から透かし見るようにミルイヒを見ている。 「ないの? 仮にも婚約者に何か質問はないのかしら? それともどうでもいい? わたしは単なる婚約者で、たかが政略結婚の相手で、血脈をつなぐ道具?」 「いえ!」  エルネラのあからさまな物言いに、ミルイヒは戸惑った。  嫌われている? それはそうだろう。見ず知らずの男と無理矢理結婚させられるのだ――別段、世間一般では珍しくもないことだが。  だいたい、エルネラは自分に対して冷たい感じがする。他の者にはやさしい微笑みを向けるのに。その微笑みは上辺だけのものかもしれないが、どうして自分には向けてくれないのだろう? 取り繕うことなく、不機嫌をぶつけてくる。決闘場に現れたときの、はかなげな雰囲気すらかけらもない。  ランディならば、どうやってこういう女性を落とすのだろうか? と、思いかけて、ランディは気の強い女性が苦手であることを思い出した。  話をしたかったのは事実である。だが、何を話したらよいのかわからず、紅茶に目を落とした。琥珀色の液体は、燭台の淡い光をわずかに反射させている。 「……」 「どうしたの? はっきりしないのね。ワイズ伯爵に啖呵を切った、さっきのあなたはどうしたの?」  ミルイヒはその言葉で、先ほどの自分を思い出した。あの時は我にもあらず熱くなっていた。あれはきっと、婚約者たる使命感からだったはずだ。  ミルイヒは目を伏せた。 「……すみません」  エルネラは眉をひそめた。 「なぜ、謝るの?」 「殿下はわたしを愛しておられない。それなのに結婚を……」  エルネラの瞳が揺れ動いた。 「それはあなたも同じでしょう? 愛してもいないのに結婚するなんて、わたしたちには当たり前のことだわ。ええ、当たり前のことよ。ワイズ伯爵が言っていることがおかしいのよ」  投げやりな言い方である。 「しかし、殿下とわたしとでは違います。わたしはこの結婚をけっして拒否しません。ですが、殿下は……」  エルネラはその先を奪った。 「結婚したくなんかないわよ。誰とも」  きっぱりとした口調であるが、どこか悲しげでもある。それから躊躇いがちに付け加えた。 「……あなたはそれを変だと思う?」  ミルイヒは小さく笑みを浮かべた。 「いえ、失礼ながら、殿下は仮面をかぶっておられるようにわたしには見えます」  エルネラはにらむように目を細めた。 「あなたもそうではなくて?」 「わたしが?」  ミルイヒは目を見開いた。それは思ってもみないことだ。 「どのような?」 「冷たい、何もかにもに無関心な仮面。あれだけの剣の技量を持っていて、どこか自分に自信がなさそうなのね」 「仮面じゃありませんよ。わたしはその通りの男です。何にも関心がありませんし、自分に自信もありません」  エルネラは不敵に笑った。 「それじゃあ、あなたは仮面をかぶっていることを忘れてしまっているのね。でも、わたしにはわかるわ。本当に冷徹で無関心な人を知っているから。その人は自信過剰だけど」  ミルイヒは再び紅茶に目を落とした。ほとんど湯気が出なくなっている。 「殿下はやはり、思った通りの人ですね」 「どのような?」 「おとなしげな面立ちと振る舞いとは裏腹に……」 「粗野でわがまま」 「いえ……ただ、意志の強い方だと」  エルネラは感心したようにうなずいた。 「わかっているじゃないの。父上に何を言われたかは知らないけど、だいたい想像はつくわ。でも、わたしに結婚を認めさせることは絶対に無理ね。特にあなたでは!」  もう話すことはないといった体でエルネラは立ち上がり、ミルイヒをかえりみることなく部屋をあとにした。  一人部屋に取り残されて、ミルイヒは大きく息を吐き出した。何か悪いことでも言ってしまっただろうか? エルネラはえらく不機嫌だった。  相手を不快にさせないこと――ランディの助言を守れなかった。このようでは、エルネラが言う通り、結婚を認めさせるなどということは、どこか遠くの話のように思えた。  エルネラは思わず叫び声を上げるところだった。 「驚かせないでよ! こんな暗いところからのっそり現れて」  廊下の曲がり角から現れた黒髪の青年は、目をしばたかせた。 「やあ、何を怒っているんだい?」 「怒ってなんかいないわ!」  だが、自分でも心の内の不可解な怒りを感じていた。本当に、わたしはいったい何に怒りを感じているの? 「なかなかの腕前だったじゃないの、彼」  足早に後宮へと向かうエルネラのあとを追いながら、青年は話しかける。 「わたしほどじゃないわ」 「うーん、それはどうかな?」 「やってみればわかるわよ」 「彼は応じないと思うよ。騎士道精神篤そうな男だもの。――ね、話してみてどんな男だったの?」 「意気地なし」  考えるまもなくその言葉が出ていた。  ミルイヒは馬に拍車を当て、吹きすさぶ風雨や、蹄が跳ね上げる泥水にも気にかけず、ライジェック公爵邸へと急いだ。  エルネラと話をした王宮の一室で、エルネラのことを考えているうちにそのまま寝てしまい、気が付いたらとっぷりと日が暮れていたのだ。今夜、ライジェック公爵の夜会に招待されているにもかかわらず。  招待されたといってもライジェック公爵とは特に親しいわけではなく、社交辞令としてのものである。だが、律儀な彼は招待されれば断ることはほとんどなかった。断るとしても、仕事のことでしかない。  王城の三つの尖塔の真ん中の塔には、巨大な釣り鐘が付いている。その鐘が重々しい音で鳴り始めた。二十三の刻を知らせている。いつもの彼ならば、夜会から切り上げている時間だ。  最後の鐘が鳴り終わったとき、ミルイヒはライジェック公爵邸にたどり着いた。すぐさま馬を馬丁に預け、屋敷の中へと入る。玄関で召使いにずぶぬれの外套を渡し、タオルを受け取って髪を拭きながら、案内の従者のあとを追う。  ミルイヒの身長の一・五倍はある、重々しい樫の扉が開けられた。案内の従者がミルイヒの名を上げ、ミルイヒはいつもの通り会場に入ろうとしたのだが、その一歩が踏み出せなかった。  ――驚きのあまり。  会場内のすべての人が、ミルイヒに注目していた。  先ほどまで談話していただろう紳士淑女、ダンスをしていただろう男女、果ては給仕の者までが、まるで時が止まったかのように動きを止め、楽師が奏でるワルツだけが虚しく流れている。  いつにないことだ。いつもならば、ミルイヒの入退席に人々は道端の石ころほどにも気を止めない。また、ミルイヒとしてもその方が気が楽だった。  たじろぎを顔に表すことなく、恐る恐る会場に足を踏み入れると、時は再び流れ出した。談話していた者たちはミルイヒの方をちらちら見ながら会話に戻り、ダンスをしていた者たちは流れる曲に身を任せ、給仕はそれぞれの仕事に戻った。  ミルイヒは三歩と歩かぬうちにきらびやかなドレスに三方を囲まれ、立ち止まることを余儀なくさせた。  初めてのことに目をしばたかせていると、目の前の黄緑のドレスを着た金髪の女性が、微笑みを浮かべて話しかけてきた。 「ミルイヒ様、聞きましてよ、今日の決闘のこと」  ミルイヒはこの女性の名を思い出すことができなかった。  夜会に顔を出す貴族の名はたいてい覚えているのだが、顔と一致させることはなかなかに難しい。話をしたことがなければなおさらである。  左隣のピンクのドレスの女性も口を開いた。 「あら、わたくしはこの目で見ましてよ」  黄緑のドレスの女性に自慢するように言う。 「剛の剣で知られるランディ・フェイス殿をいとも簡単にあしらわれたのよ。――素敵でしたわ」 「本当に、まるで舞踏のようでしたわ。さぞかしダンスの方もお得意なんでしょうね」  右隣の青いドレスの女性が言った。 「ええ、まあ、たしなみ程度には……」 「わたくしと踊って下さる?」  黄緑とピンクのドレスの女性たちは、抜け駆けされたとばかりに青いドレスの女性をにらんだ。  ミルイヒは心臓が飛び跳ねるのを感じた。「ええ、喜んで」  青いドレスの女性の手を取り、中央へ進み出た。 「おい、聞いたぞ聞いたぞ」  ミルイヒは何も話したくはないという風に、ランディに背を向けて寝返りをうった。湿り気を帯びた芝生がちくちくと頬に当たる。 「眠いんだ。あとにしてくれ」 「お、朝帰りか?」  ランディはミルイヒの不機嫌にもかかわらず、横に腰を下ろしてひやかした。 「婚約してる身でそんなことできるか」 「昨夜のライジェック公爵邸ではすごかったらしいじゃないか。ダンスに引っ張りだこだったとか」  ミルイヒは密かにため息をついた。誰から聞いてきたのか……。ランディの耳は早い。 「なんだ、あれはやはり本当だったんだな。夢かと思っていた」 「おまえがダンスも得意とは知らなかったよ」 「舞踏は剣と通じるところがあるからな。剣舞っていうのがあるくらいだ。だが、わたしだって自分が得意であるなんて知らなかった。いつも同じ人としか踊っていなかったから」  ランディは納得したようにうなずいた。  ミルイヒは続けた。 「しかし、皆、現金なものだな。決闘に勝った途端これだ。一度も話したことがない者すら話しかけてくる。わたしは何も変わってはいないのに」  ランディはその最後の言葉に含み笑いをした。 「そういうものさ。人は表面でしか他人を見ない。おまえは特に人を寄せ付けないオーラを発しているからな。……昨日、殿下と何かあったのか?」  ミルイヒはランディをちらりと見、それから再び背を向けた。 「嫌われた……。誰とも結婚したくないんだとさ。――そうそう、おまえが言っていたような人じゃなかったぞ。自分をしっかり持っている方だ。そういうのって何かうらやましく思える。わたしは何かに動かされないと生きていけない」  ランディはため息をついた。 「おまえも……自分の思う通りに動いてみたらどうなんだ?」 「……さあ、自分が何を思っているかなんてわからないよ」  ミルイヒは目を伏せ、そのまま眠りについた。 「何かと話題に上るようになったんじゃないの、彼」 「それがどうしたというの?」  エルネラは汗と埃にまみれた顔をタオルで拭きながら、冷たく言った。  黒髪の青年は髪を掻き上げ、木剣を地面に突き立てて寄りかかった。 「気にならないの?」 「なぜ?」 「好きなんだろう、彼のこと」  エルネラは口をぽかんと開け、タオルを落とした。間をおいて、どきどきと心臓が高鳴るのを感じた。 「な……」  声が出なかった。先ほどの剣の修練の時の熱がよみがえってきたように、顔が火照るのがわかった。  青年はあっけらかんと笑った。 「正直だなぁ」 「ど、どうして? わたし、彼のことなんか……好きだなんて……」 「どうしてわかったかって? そんなのは君の振る舞いを見れば明白だよ。ワイズ伯爵を始めとするその他の貴族たちには君はやさしすぎるのだもの。やさしい社交辞令の仮面。その下には何の感情もない。けれど、彼には冷たい。何の関心もない風だ」 「その通り。彼には関心を持ってないわ」  エルネラはできるだけ平静を保って言った。だが、嘘だ、と頭の奥で声がする。青年の指摘は正しい。ミルイヒへの自分の感情は好意以上のものだ。しかし、認めたくはない。あんな…… 「あんな……自分を偽っているような人なんて」  青年は微笑んだ。 「同族嫌悪ってやつだね」  それには反論できなかった。 「そうね。わたしは彼が嫌いだわ。それ以外の何でもないの」 「はいはい、ひねくれ者のお姫様。無関心と嫌悪はまるで違うけど、好意と嫌悪は表裏一体なんだよ」  エルネラはその言葉を無視し、青年が腰に下げている真剣を奪った。青年はすぐさま奪い返し、口を尖らせた。 「剣士の命に勝手に触れないでほしいな」 「だって、あなた、わたしに練習剣《フルーレ》すら触らせてくれないんですもの」 「何か企んでいるような人に真剣は渡せません」  エルネラが頬を膨らませて再び木剣を手にしたとき、庭の入り口のところからディアンの叫び声が聞こえてきた。 「姫様ー、セイデーズ公爵様が面会を求めておいでです!」  昨日、ミルイヒと話をした部屋に入ると、ミルイヒは肘掛け椅子から立ち上がり、会釈した。  エルネラはミルイヒを見た途端、息苦しさを感じた。妙に意識している。あの人があんな事を言うから……。  動揺と顔の火照りを抑えようと、必死に心を落ち着けようとした。だから、その顔は非常に不機嫌そうに見えた。 「まだ、怒っておいでですか?」  ミルイヒは恐る恐る言った。 「怒ってなんかいないわ」  エルネラは眉をひそめてそのように言いかけたが、 「――いえ、そうね、怒っているわ」  ミルイヒは床に目を落とした。 「何かお気に触るようなことを言ったのならお許し下さい」  エルネラはその言葉を推し量るようにしばらく沈黙した。この人はわたしが何に怒っているのか、わかっているのかしら?  今日のミルイヒの仮面は強固だった。何かを読みとることができない。エルネラの怒りに心痛めているのか、それとも、単なる形式でそのように言ったのか。何もわからないのがもどかしい。 「……まあ、お座りなさい」  二人が椅子に座ると、ディアンが紅茶を運んできた。エルネラはディアンが紅茶の用意を済ませて部屋を立ち去ってから、おもむろに言い出した。 「あなた、わたしのことをどう思っているの?」  言ってしまってから後悔した。わたしはこの人に何を望んでいるのかしら?  ミルイヒは突然の質問に驚いたように目をしばたかせた。 「……前に、わたしは殿下を愛していないと言いました。訂正しましょう。わたしは殿下を愛します」  思ってもみない言葉に衝撃を受けたが、エルネラは嘲笑った。 「これから愛する努力をすると言うの?」  ミルイヒはわずかに首を傾げた。 「努力によって愛が生まれるかはわかりません。けれど、全くないよりはいいのではないでしょうか」  エルネラは怒りがこみ上げてくるのがわかった。椅子の肘掛けをぎゅっと握った。 「無理しなくていいのよ。あなたもこの婚約に乗り気ではないのでしょう。だったら破棄すればいいわ!」  ミルイヒはエルネラの語気に気圧されたようだった。 「乗り気でないからといって破棄することはできません。これはそのような問題でないことぐらい、殿下にもわかっておられるはずです」 「そうね。あなたにとっては、傾いている家を立て直すのに必要な婚約ですものね」  ミルイヒの灰色の瞳が暗く淀んだ。何とも言えぬ哀愁があった。エルネラはその瞳に胸が締めつけられる思いだった。  ミルイヒは目を伏せた。 「わたしは……富が欲しくて結婚したいわけではありません。家のことはどうでもいいことです。わたしは……」  ミルイヒは何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。  エルネラはミルイヒを見続けることができず、立ち上がって身を翻し、扉に向かった。 それからノブに手をかけ、背を向けたまま、 「あなたなんか嫌いよ」  と、限りなく冷たい声で言い放つと、控え室をあとにした。  エルネラは扉を閉めるとため息をついた。  ミルイヒが富のために結婚を望んでいるのではないことくらいわかっている。そのような人でないくらいわかっている。彼はただ、国王の言葉に従順たらんとしているだけなのだ。それが許せなかった。決闘の前に見せた好意の素振りは嘘だったのか、それとも、自分の思い違いだったのか。  ミルイヒの言動に振り回されている自分に気づき、エルネラは首を振った。わたしはいったい何を考えているのかしら? わたしは彼が嫌いなはずよ。彼が何を思っていようとどうだっていいはずよ。それなのになぜ、こんなに胸が苦しいのかしら?  その理由がわからぬエルネラではなかった。だが、認めたくはなかった。  ミルイヒは漆喰の塗られた天井を見上げ、ため息をついた。また怒らせてしまった。昨日怒らせてしまったこと――その理由はいまだわからないが――を謝りに来たというのに。  しかし、自分が結婚するのは富のためだと思われていたのはショックなことだった。お金なんて今さら欲しいとは思わない。自分は国王に従うまでだ。国王がエルネラとの婚約を決めた。そして、結婚を望んでいる。逆らう理由はない。そのようなことは考えたこともない。  だが、ミルイヒの心は揺らいでいた。エルネラがああまで自分のことを嫌っているのに、無理強いするのはどうか? 彼女の心を考えていなかった。彼女のことを思うなら、この婚約は破棄した方がいい。  「彼女のことを思うなら」――自分は彼女のことをどう思っているのだろう。「愛する」とは言った。結婚したらあかの他人ではないのだから、それは当然だろう。しかし、今現在の自分の気持ちは?  ミルイヒはまぶたを閉じかけてすぐに開いた。このままではまた寝てしまう。どうもここは居心地が良すぎる。  廊下に出て、後宮とは反対方向に歩いた。  そろそろ練兵の時間である。練兵場へと向かう道すがら、ランディと出会った。 「おい、捜したぞ」 「何か用か?」 「何かじゃないだろう。第六班は王城周りの警備になったじゃないか」  ミルイヒは目をしばたかせた。 「聞いてない」  ランディはあきれた顔をした。 「殿下に嫌われたのがよっぽどショックだったようだな。――今朝、班長が言ってたじゃないか。切り裂き魔の厳重警戒令が出されたって。それで、練兵の時間も警備にあたるって」  ミルイヒは眉をひそめた。 「切り裂き魔?」  ランディは疑うように半眼になり、恐る恐る訊いた。 「まさか、今話題の切り裂き魔を知らないとは言わないよな?」 「知らない」  ランディはため息をついた。 「もう少し周りに目を向けろよな。――昨今、王都を騒がせている人斬りだよ。貴賤を問わずに手当たり次第に人を殺している。本来、王都のことは王都警備隊の管轄だが、切り裂き魔はかなり腕の立つ者らしい。王都警備隊だけではお手上げなんだとさ。それで我が近衛隊も狩り出されたわけだ」 「ふーん、つゆ知らなかったな。それで、どれくらいの規模なんだ? 近衛隊が出るくらいだ。かなりのものなんだろう?」 「それが驚いたことに、たった一人らしい」  ミルイヒは我が耳を疑った。 「一人? たった一人に王都警備隊五千人が手こずっているのか? 今さら近衛隊五百人が増えたとて大して変わらんだろうに」 「まあそうだろうけど、切り裂き魔は神出鬼没だ。陛下をお守りする我らとしては、がっちりと王城の守りを固めていないと」  ミルイヒはうなずきかけ、小首を傾げた。そして、傷のまだ癒えぬ左腕をさすった。 「……まさか、あれが……まさかな」 「どうかしたのか?」  ミルイヒは何でもないという風に手を振った。  二、三日前、自分を襲った人物が切り裂き魔と同一の者と裏付けるものは何もないし、同一人物だからといってどうということもない。だが、あれだけの技量を持つのなら、王都警備隊が手こずるのもうなずける。 「急ごうぜ。まーた班長に怒られちまう」 [#改頁] 03.破棄  最後にエルネラと会ってから二週間が経とうとしていた。  近衛隊が王城警備を厳重にしても切り裂き魔はいっこうに捕まらず、二、三日前にまた一人殺された。だが、貴族たちにさほどの危機感を与えているようには思えなかった。毎夜、夜会はどこかの貴族の屋敷で繰り広げられる。だが、ミルイヒはこの二週間、夜会に出席することはなかった。  秋色はいよいよ濃くなり、雲一つない空は高く、草木は色を変え始めた。澄んだ秋風は昼とはいえ肌寒さを帯びている。  ミルイヒはぶるっと身体を震わせて目覚めた。外套を身体に巻き付けていても、外で昼寝をするには寒くなってきた。 「そろそろこんなところで昼寝をするのはやめた方がいいぞ。風邪を引く。まったく、公爵様の姿には見えねぇな」  ミルイヒは目をこすり、腕組みをして自分を見下ろしているランディを見上げた。例の、何か企んでいる笑みを浮かべている。 「まだ、落ち込んでいるのか?」 「落ち込んでいる? 別に落ち込んでいやしない」  ランディはため息をつきながら何度もうなずいた。 「ああ、わかってるさ。おまえは自分をわかってない奴だ。しかし、気づいたときには遅いときもある。それをよーく覚えておくんだな」  ミルイヒは眉をひそめた。この男は時々、訳のわからないことを言う。 「ほれ、愛しの想い人からのラヴ・レターだ」  ランディは懐から手紙を取り出し、無造作にミルイヒに投げ渡した。ミルイヒは慌てて受け取り、ランディをにらんだ。ランディはその様子を面白がるように鼻で笑った。 「そう怖い顔するなよ。なんにもしてないって」 「……わかってる。ディアンだろう?」  ため息をつきながら手紙に目を落とした。羽のような模様が散っている紙に、レイエンの花の封蝋印。封を切り、開くと、レイエンの花の甘酸っぱい香りがふわりと流れ出た。なんだか、せつない気分にさせる香りだ。  手紙を読み終わり、丁寧にたたんで封筒に戻した。それからしばらく封蝋を見つめていたが、意を決したように立ち上がった。 「なんだ、なんの反応もなし?」  ランディは不服そうに口を尖らせた。 「何を期待しているのかわからないが、殿下が望んでおられるんだ」  ランディはため息をついた。 「時には反抗心を持つのもいいもんだぜ? おまえ、反抗期を知らないだろ?」  ミルイヒはその言葉を無視して歩き出した。殿下が望むなら殿下の望むままに、わたしは決闘するし、婚約を破棄しよう。それでいいんだ。それはどこか投げやりな感情だった。  心の底にわだかまるもやもやが足取りを重くさせていた。知らず手に汗を握っている。明るい日差しにも関わらず、世界が暗くなったように思えた。 「後宮に忍び込むのは結構簡単なんだ。王城内にある五つの庭がすべてつながっていることは意外と知られていない事実だ」 「つながっている? すべて離れたところにあるじゃないか。接点はないぞ」  ミルイヒはいつもの昼寝の庭を出ようとしてランディに止められ、庭の中央にある噴水に連れてこられた。 「これだ」  ランディは足で指し示した。それは、噴水に水を送っているポンプと下水道があるところへの入り口だった。鉄でできた入り口の蓋は、ところどころ錆と苔が付いていた。  ミルイヒは眉をひそめ、不審そうにランディを振り返った。 「この中に入るのか?」  ランディは片目をつぶり、不敵に笑った。 「へへ、なかなかの盲点だろう? おきれいな貴族さん方は入ろうだなんて思いもよらないだろうな」  ランディは鉄の板に埋め込まれている取っ手を持ち上げ、一息に引き上げた。ぽっかりと暗い穴が口を開ける。横の壁に、昇降のための簡易の取っ手が付いている。降りるときに取れたりしないだろうな、とミルイヒは心なしか不安になった。  ランディはミルイヒの不安をよそに、慣れた様子で飛び降りるようにして降りていった。ミルイヒはため息をつき、人目をはばかるように周りを見回してから、思い切って飛び込んだ。  底について、ミルイヒはあまりの異臭にすぐさま外套で鼻を覆った。辺りを照らす明かりは、今入ってきた入り口からの頼りない光しかない。一歩先は淀んだ細い川が緩やかに流れている。左右に延びる通路の先は真っ暗で何も見えやしない。 「ちょっと待てよ。今、カンテラに火をつけるから」  おそらく、ここに置きっぱなしにしてあるものだろう。ランディは昇降取っ手の脇にしゃがみ込み、カンテラに火をつけ始めた。 「しょっちゅう来ているようだな」 「まあな。けど、入るのはここからだけだ。あとの三つは人目に付くからな」  王城にある五つの庭のうち、ランディの言うところの「昼寝の庭」が一番人気がない。昼寝に最適なのにほとんど人が寄りつかないのはどういうことか、ミルイヒには不思議だった。  ようやく火がともされ、ミルイヒはランディの案内で歩を進めた。  二人のブーツの音が、高らかに下水道内に響き渡る。時折、ネズミと思しきものが足元を走り抜けていく音、天井に付いている水滴が下水に落ちる音がする。通路はほとんど一本道で、分かれていることはあまりなかったが、ランディは迷うことなく進んだ。 「こうやって、幾度となく危ない橋を渡ってきたのだな。おまえが今まで生きているのが不思議だよ」  ミルイヒはあきれ果てたように言った。 「命に関わるほど危ないことはしてないって。あまり知られていないことだが、俺は堅実派なの。冒険はしない主義なの」 「どうだか」  ミルイヒの聞こえよがしのため息は大きく響き渡った。この分では後宮の半分の女性が餌食になっているに違いない。 「そろそろだぜ。本当にいいんだな? 覚悟はできてるのか?」 「なんの覚悟だ?」  その問いに、ランディはにやにや笑いを返すだけだった。  エルネラは噴水の縁に腰掛け、いつもの練習着姿で鉄の蓋が開くのをじっと待っていた。  この二週間考えた結果がこれだった。やはりこれしかなかった。  ――ミルイヒとの決闘。  これだけが婚約を破棄できる唯一の手段。父王を泣き落とす手もなくはない。だが、それは卑怯な手だ。父王はエルネラの言うことなら何でも聞くのだから。  自らの手でミルイヒに婚約の破棄を言わせたい。忠誠心篤い彼に何を言っても無駄だということはわかった。それならばその騎士道精神を逆手にとってやればいい。  すなわち、決闘だ。  しかし、もしそれに応じなければ?  エルネラは首を振った。――いや、彼はきっと応じる。婦女子に剣を向けることは騎士道精神に反することだが、今はエルネラは騎士だ。剣を持つ騎士なのだ!  エルネラは重みを確かめるように今一度剣を抜き、天にかざした。中天より傾いた太陽が剣先にかかっている。銀の剣身は発光し、白い輝きでエルネラの目を射る。エルネラは目をすがめてその剣身の美しさに見惚れ、慎重に鞘に戻した。  この二週間、必死に剣の修練をした。一朝一夕でどうなるものではないが、何かに打ち込んでいないと心が萎えてしまいそうだった。  ――ミルイヒへの想いで。  それが好意であれ、嫌悪であれ、心に迷いを生じさせるには十分なものだった。  正直言って、ミルイヒと自分の技量を比べるなら、ミルイヒの方が間違いなく上だ。相手の技量を正確に推し量れないほど愚かではない。だからこそ、神経を研ぎ澄ませ、無心になる必要がある。そこに一つの活路がある。  鉄の蓋がカタカタと動いた。  エルネラは吹き流しの髪を無造作に一つにまとめて立ち上がり、近くに寄った。  鉄の蓋が開き、まず、ランディの気取った顔が現れた。 「殿下、お連れ致しました」  ランディは首尾よくいったとのウィンクを送ってきた。  エルネラは目を細めて微笑んだ。 「ご苦労様」  ミルイヒは頭上の光に目を細め、手をかざした。下水道の散策はとても長く感じられたが、実際はさほど経ってはいないようだった。  ランディのあとを追って縦穴を上り、ランディの手を借りて外に顔を出すと、目の前にエルネラが立っていた。  いつもの彼女とは違う。腰まである美しい金髪を首の後ろで束ね、薄茶の男物のチュニックを着、編み上げのブーツに少し大きめのズボンの裾をたくしこみ、いささか彼女には長すぎると思える細身剣《レイピア》を佩いている。そのレイピアにはなぜか見覚えがあった。  まさか、殿下自身が決闘するだなんて言わないだろうな。しかし、そうとしか思えない格好だ。 「お久しぶりです」  ミルイヒは会釈した。  エルネラはそれに応えず、いつになく厳しい顔でレイピアをおもむろに抜き、ミルイヒに鞘を投げつけた。  それは古来からある、決闘の申し出の合図だった。  ミルイヒはそれを受け止めた。漆塗りに銀細工を細かくあしらった鞘――ランディの鞘に似ている。ちらりと横目でランディを見ると、丸腰だった。  ミルイヒは密かにため息をついた。何を考えているのやら……。 「まさか、代理人を立てないとは言わないでしょうね?」 「わたし自ら決闘します」  エルネラは有無を言わせぬ口調できっぱりと言った。新緑の瞳が鮮やかに輝く。 「からかわないで下さい」  ミルイヒは鞘を地面に放り投げた。乾いた音を立てて転がる。 「わたしは真面目よ。遊びではなく、きちんと剣を習ったし、毎日の修練も欠かしてはいないわ」 「ミルイヒ、それは本当のことだ」  疑う目つきのミルイヒに、ランディは鞘を拾いながら言った。それから、はにかんで付け加えた。 「……おそらく、な」 「あまり甘く見ないことね。わたしは最高の剣士から習ったのよ」 「しかし、女性に刃を向けることはできません。しかも、王家の方にだなんてなおさらです」  エルネラはレイピアをひゅっと振り、切っ先をミルイヒに向けた。さまにはなっている。 「忘れなさい。わたしは今、騎士だわ」  きゅっと口を引き結び、眉間に一本しわが入った厳しい顔は、普段の彼女にあらぬ峻烈な美しさがあった。はかなさはどこにもない。  ミルイヒはその顔をじっと見つめた。もしかしたら見とれていたのかもしれない。  ――これが本来の彼女の姿だ。 「……できません」  エルネラはきっとミルイヒをにらみ、ミルイヒの胸元でレイピアを振るった。ミルイヒは動かなかった――いや、動けなかったのだ。エルネラの気迫がミルイヒを立ち尽くさせた。  ぴっとボタンが一つ弾け飛び、ミルイヒの白い外套は無造作に地面に落ちた。  ミルイヒは息を吐き出すことができなかった。 「……」  エルネラはレイピアの先で落ちた外套をついと拾い上げ、そのまま空に大きく放り上げた。外套は限りなく青い空にひらと舞い、エルネラの目の前まで落ちてくると、エルネラの鋭い一突きによって串刺された。その切っ先はミルイヒの首を指している。 「わたしと決闘しなさい。これは……」  エルネラは一瞬言い淀み、 「命令よ」 「わかりました」  ミルイヒは目を伏せた。一つ深呼吸をすると腰のレイピアの柄に手をかけ、一気に抜き放った。そして、黒い無地の鞘をエルネラにほうった。  エルネラは喜びをあらわにそれを受け取った。ミルイヒはその様子を苦々しく思った。 「それで、ここで行うんですか?」  ミルイヒは辺りを見回した。  この「後宮の庭」は非常に広いようだった。辺りは一面草木に覆われ、庭と言うより森であった。木々の合間から後宮の建物と思しきものが見えなければ、樹上高くにそびえる三つの尖塔がなければ、ここが王都であるということを疑ってしまう。  だが、なんであれここは後宮なのだ。国王以外の成人男子禁制の場所。そこに二人も男がいることが見つかれば、決闘どころの騒ぎではない。  昼日中の噴水のそばでは人も来ようし、剣と剣がぶつかり合う音は、この場所では人がいるところまで届いてしまいそうだった。 「いえ、もっと奥の方よ。――安心して。ここの人間は庭の入り口付近からそうそう中に入ったりしないわ。薄気味悪がってね。この通り、入り口付近はともかく、荒れ放題だから。この庭は王城にある他の四つの庭を合わせたよりも広いのよ。ずっと昔はこの広大な庭を管理していた庭師がいたらしいんだけど、奇妙な事件が……いえ、そのような話はどうでもいいわね」  エルネラは先に立って、庭の奥深くへと進んでいった。進むごとにいよいよもって森の様相を呈し、辺りは昼間とは思えないほど暗くなった。小鳥や様々な虫の鳴き声が辺りを埋め尽くし、時折、小動物が丈高い草の中を走っていくような音も聞こえた。 「この辺でいいでしょう」  エルネラは、突如ぽっかりとひらけた場所に来て、立ち止まった。  日がさんさんと何にも遮られることなく差し、下生えはさほど生えてはおらず――いや、もとは生えていたのだろうが、踏みにじられて徐々になくなったという感じの、裸の地面が見えている。その端に、白亜のベンチがうち捨てられるようにしてある。 「さて、始めましょうか」  立会人であるランディが、中央に進み出て言った。  エルネラとミルイヒは、ランディにレイピアを渡した。  ランディがレイピアを調べる間、ミルイヒは徐々に心臓が高鳴るのを感じていた。なぜこんなにも落ち着かないのだろうか? 何を迷っているのだろうか? 殿下と決闘することか、それとも婚約の破棄か、それとも……。  ミルイヒはすべてを心の外に閉め出そうとした。何も考えるな。しかし、その意思とは裏腹に、ミルイヒの心をかき乱すものがあった。その正体はわからない。だが、心なしかせつなかった。  ランディはふたりにレイピアを返した。 「この決闘はエルネラ・レイ・アルヴァーノとミルイヒ・セイデーズの婚約を破棄するか否かを決めるものである。エルネラ・レイ・アルヴァーノが勝てば破棄、ミルイヒ・セイデーズが勝てば継続となる。  エルネラ・レイ・アルヴァーノ、ミルイヒ・セイデーズ、ここに裁きの神ジェイダに誓え。  一つ、相手に殺さぬこと。  一つ、禍根なきこと。  以上」  ミルイヒは復唱しながら、もう決して後戻りはできないのだと思った。これは絶対の宣誓。これを破ることは騎士の称号を剥奪されるよりも不名誉なこと。  もう迷うな。剣がすべてを決めてくれるはずだ。それが正しい道なのだ。  エルネラとミルイヒはレイピアを構えて向かい合った。  エルネラにはつゆの迷いもなかった。心は夜の湖面のごとく静かだった。  身も心も剣と一体になっていた。修練の時でさえ、これほどの一体感を感じたことはない。  二人は初動の構えのままぴくりとも動かなかった。風が吹いてもその存在を知らぬかのように。張りつめたまま見つめ合い、幾ほどの時が流れただろうか。  ランディは業を煮やし、金のコインを二人の間に空高くほうった。コインは陽光にきらめき、くるくると回りながら二人が見つめ合う視線の間を通り、乾いた音を立てて地面に落ちるかに見えた。  ――その一瞬!  コインが地面にあたった音の代わりのように、レイピアは鋭い音を立てて重なり合った。  そのあとは凄まじいものだった。  互いに必殺の突きの体勢に持ち込ませぬよう、牽制の突きを次々と繰り出した。しかし、その突きだとて軽いものではない。受け損ねればたちまち致命的なものとなる。突きを繰り出しつつ、相手の隙を見計らう。しかし、今のところ互いに隙はなかった。  エルネラはミルイヒの剣技に辛うじてついていった。ミルイヒの手首の返し、足捌きは想像以上に速く、驚嘆に値する。しかし、エルネラも負けてはいなかった。風に舞う羽毛のごとく柔軟に動き、ミルイヒがこれぞと思う攻撃を受け流し、すり抜けた。  エルネラは早く決着をつけたかった。今、辛うじてミルイヒの剣を受けていることすら驚異に思える。自分がこれほどまでできるとは思ってもみなかった。  しかし、エルネラは女でミルイヒは男であるというどうしようもない事実が、大きな壁となって立ちはだかっている。体力的にはどうやったってエルネラに勝ち目はない。  早く決めなければ! しかし、その隙はまるでない。  エルネラに徐々に焦りが募り始めた。その焦りが心・技・体の一体を崩した。その三位一体がエルネラの実力を遺憾なく発揮させていたのに。そして、三位一体の崩れは無駄な動きを生じさせ、体力は急速に奪われていった。  エルネラの額に汗が玉のように浮かんでいた。呼吸は荒々しくなり、剣の切れには精彩がない。  それなのに、どうしてわたしはまだこの人の剣を受けていられるのだろう? わたしはこんなにも隙だらけなのに、どうしてこの人は……。  その疑問の答えを探すように、エルネラはミルイヒを見た。  エルネラは驚いた。  ミルイヒの剣にも精彩がなく、舞うような足捌きはすっかりなりを潜めていた。だからこそ、エルネラはその剣を受けることができていたのだ。剣を受けるだけで精一杯で、今まで気づかなかった。突然、どうしたというの?  一つの答えがエルネラの脳裏をかすめた。しかし、それはあってはならないことだし、許せないことだった。  まさか、負ける気でいるの?  エルネラはかっと顔を赤くした。怒りにわなわなと唇が震える。あなたはこの婚約を破棄したいの? 婚約の破棄はエルネラが望んだことだ。だが、ミルイヒがそれを望むことは許せない――いや、許さない。絶対に!  いいわ。それなら決着をつけてやる。  エルネラは自暴自棄となり、まっすぐにミルイヒに突っ込んだ。案の定、ミルイヒはそれを好機とは取らず、身を引いた。エルネラはそこへ渾身の突きを入れた。ミルイヒはそれを受けることができなかった――いや、できただろうが、エルネラが思うに受けなかったのだ。  エルネラはミルイヒの胸に切っ先が触れるか触れないかのところで剣を止めた。 「勝負あり。勝者、エルネラ・レイ・アルヴァーノ!」  ランディのよくとおる低い声が、神への荘厳な宣誓のように響き渡った。  エルネラはレイピアをのろのろとした動作で収め、天を仰いで目をつぶった。動きを止めた身体は急激に火照り、それを癒す涼風が心地よかった。  だが、心の瞋恚は癒されなかった。勝ったというのに、婚約は破棄されたというのに、ちっともうれしくなどなかった。  ミルイヒもレイピアを収め、一息つくとエルネラのそばに寄ってきた。エルネラはにらんだ。だが、ミルイヒはそれに気づかぬ様子で握手を求める手を差し出してきた。 「見事でした」  汗一つない涼しい顔で、ミルイヒは言ってのけた。 「……」  エルネラはミルイヒをにらんだまま、勢いよくその手をはたいた。ランディは驚いて目を丸くしたが、ミルイヒはなんの反応も表さなかった。 「もう……もう二度とわたしの前に現れないで」  できるだけ平静に言おうとしたが、うまくいかなかった。その声は怒りに震え、途切れ途切れにしか口から出なかった。  エルネラはさっと踵を返し、走るようにしてその場を去った。  ミルイヒはうなだれ、ため息をついた。エルネラはかなり怒っている様子だった。婚約が破棄できたというのに、何をそんなに憤っているのだろう?  しかし、彼女の剣技はすばらしかった。女でなければさぞかしすばらしい剣士となり、彼女の兄にして近衛隊隊長であるヴァルアのように、王国の一軍を任されもしたろう。 「おい」  声をかけられて振り向くと、不機嫌な顔をした者がもうひとりいた。 「どうしてこんなバカなことをしたんだ?」  ランディはいつになく真剣な顔をしていた。 「バカなこと?」  ランディは苛立ちもあらわに舌打ちし、脳髄に響くような低い声で言った。 「手を抜いただろう」  ミルイヒは目を丸くし、勢いよく首を振った。 「嘘をつくな! 最初はともかく、そのあとはどうだ!? まるで初めて剣を握った見習い騎士のようだったぞ! 型は滅茶苦茶、足はふらふらと定まらない。そのようじゃ近衛にはいられないぞ」  それはいくら何でも誇張が過ぎるのではないか? ミルイヒは眉をひそめた。  だが、身体が思うように動かなかったのは事実だった。なぜかレイピアがとてつもなく重く感じられ、振るうのがやっとだった。 「わたしは真剣にやった。これがわたしの実力なんだ。殿下の剣技はすばらしかった」 「確かにすばらしかったさ。しかし、俺とやったときのおまえはもっとすばらしかったはずだ」  ミルイヒは力なく首を振った。あれは何かの間違いだったんだ。 「なんであれ、すべてはもう終わった。グラスからこぼれたワインは元には戻らない」 「そして、絨毯に染みが残る」 「わたしは後悔などしていない。――いいじゃないか。殿下は婚約を嫌がっておられたし、わたしだとて自ら望んだわけじゃない。誰も困ることはない。……まあ、陛下は残念がられるだろうが」  ランディは疑うような目つきでミルイヒを見、それから諦めたようにため息をついた。 「おまえがいいって言うならいいさ。今はいい。そのうちわかる。そのうち、な。そして、それを知ったとき、おまえは……」  と、独り言のようにつぶやき、踵を返した。 「そろそろ勤務時間だ。戻るぞ」  その背中が無言の圧力をかけてくるようだった。  ミルイヒは苦々しく唇を噛んだ。何が不満なんだ、ランディ。おまえはいつも肝心なところをはっきり言わない。  ――婚約は破棄された。  ミルイヒはそれで憑き物が落ちるような気がしていた。エルネラを初めて見た時に目覚めさせられ、初めて会った時から自分をとらえ続けている想い。その訳のわからぬ、自分を悩ませてやまない想いから解放されるだろうと思っていた。  しかし、それどころか、その想いはいや増した。抑えようのない、激しく熱い風がミルイヒの心の中に吹き荒れていた。その風は行き場のないまま、ミルイヒを苛ませた。  どうしたらこの風を解放できるのだろう?  エルネラはいつのまにか庭の中を闇雲に走っていた。視界はかすんでよく見えない。嗚咽しながら走るのは苦しかった。しかし、どこでもいい、どこか遠くへと行きたかった。呼吸にあえぎ、想いにつぶれる――こんな心は張り裂けてしまえばいい!  エルネラは下草に足を取られ、見事に転んだ。そしてそのまま、大の字になって叫ぶように泣いた。今は何も考えたくない。泣き叫ぶわけを。ミルイヒのことを。  ひとしきり泣き叫ぶと、顔を上げた。その顔はひどいものだった。汗と涙と土埃が混ざり合い、金の髪のほつれが顔に張り付いていた。目は真っ赤に充血している。  目の前にはあの忌まわしい決闘の場があった。闇雲に走るうちに一回りしてきたらしい。  エルネラは嗚咽しながらよろよろと立ち上がり、そのひらけた場所に歩を進めた。  こんな時、あの人がいてくれたら……。  黒髪の青年は神出鬼没。気まぐれに現れては何も告げずに去っていく。だが、たとえいたとしても、青年は本当に慰めてなどくれないだろう。いつも何もかもわかった振りをして、なにかれと手をかけてくれるが、その実、何の関心も持ってはいないのだから。  エルネラはベンチにくずおれるように腰掛けた。涙はまだ止めどなくあふれる。だが、拭いもせずにそのまま流れるに任せた。  空は変わらず青く、涼風はエルネラの髪を乱し、小鳥は何事もなかったかのようにさえずっている。自分がひどく愚かに思え、笑いがこみ上げてきた。 「豪毅な方かと思っていたら、意外とかわいらしいところもお持ちなんですね」  エルネラは突然の声に飛び上がらんばかりに驚いた。振り向くと、そこには人の悪い微笑みを浮かべたランディがたたずんでいた。  ランディはエルネラの顔を見ると、はにかんで肩をすくめた。 「これは失礼。お邪魔するつもりはなかったんです」  ランディは懐からハンカチを取り出し、差し出そうと近寄ったが、 「近寄らないで!」  エルネラの鋭い声に気圧されるように立ち止まった。  エルネラは顔を袖で拭いながらランディをにらんだ。ランディはたじろぎ、無抵抗を示すように両手を上げた。 「別にとって食いはしませんよ。俺にも好みというものがあります。顔だけならあなたは好みなんですがね」 「何の用?」  エルネラはランディの言葉を無視して冷たく言った。ランディは困ったような笑みを浮かべた。 「商売道具を忘れていったものですから」  エルネラは鼻を鳴らし、腰に佩いているレイピアを取り、無造作に投げてやった。それから、もう用はないとばかりに背を向けた。 「もうあんな事はなさらないで下さい」 「決闘のこと?」 「いえ、人の寝込みを襲うことです」 「後宮で女性を襲っている男とは思えない言葉ね」 「しかし、ディアンを使うなんて卑怯です」 「彼女はあなたのものではないのよ。わたしの侍女なんだから」  エルネラは昨日の夜のことを思い出した。ディアンがランディと数日前から付き合っている事は知っていたが、その情事のあとを見るのはショックだった。たとえ、ランディのレイピアを奪って脅迫し、立会人として認めさせるためであっても。  だけど、ランディのあの驚きようったらなかったわ。エルネラは含み笑いした。  ランディは恐る恐る言いだした。 「なぜ……皆を欺いているのですか? ディアンは殿下のことを、『たおやかで、おやさしい方』と俺に言いました。ワイズ伯爵の決闘の時もあなたはそのように振る舞っていた。決闘をするにもこのような人気のないところで……」 「それが『お姫様』としての正しい姿だから」  と言って、エルネラは吹き出した。バカげている。 「――なんてね。ディアンにも言ってないことを、あなたに言うと思うの?」  ランディはため息をついた。 「もう、何も言いますまい。――ただ、最後に一つ言わせてください。あまり、ミルイヒを責めないでやって下さい。あいつはあいつで自分の心もわからない、哀れな奴なんです。それから、弄ぶのもやめて下さい。あいつは見た目よりもずっと傷つきやすいんです」 「……」  ランディはエルネラの言葉を待つように、じっとエルネラの背中を見つめていた。だが、それを得られないと知ると、静かに去っていった。  エルネラは目を伏せた。もうすでに涙は乾き、その跡がくっきりと目尻や頬に残っている。  わたしだって傷ついているわ。そう、傷ついているのよ。でも、どちらかを選ばなければならない……。どちらも選ぶ事なんてできないの。  エルネラとミルイヒの婚約破棄は、二日後には宮中で知らぬ者はほとんどいなかった。だが、その婚約破棄の詳細を知る者は、当事者たち以外にはいなかった。  これは得たりとばかりに、エルネラに求婚を求める貴族たちは引きも切らなかった。しかし、エルネラは後宮から一歩も出ることも、その貴族たちに会うこともなかった。 「婚約したままなら静かで良かったのに、どうしてわざわざ破棄するの?」  エルネラが素振りをする姿を眺めながら、黒髪の青年は言った。 「決まってるじゃない。結婚したくないもの」 「本当に良かったのかい? 彼、他の人と結婚してしまうよ。婚約破棄になった今、引く手はあまただ。ランディ・フェイスとの決闘以来、何かともてていると聞くし」 「それが何? わたしには関係ないわ。ミルイヒが誰と結婚しようと」  青年は肩をすくめた。 「彼が結婚したときが見物だなぁ」  その様子を想像するように青年は微笑んだ。 「それはともかく」  突然、青年の顔が険しくなった。エルネラは驚いて素振りの手を止めた。 「婚約破棄に決闘をしただろう?」  エルネラは青年の顔を直視できず、あらぬ方を見やり、何かを言おうと唇を何度もなめた。 「それも、わたしがいない時を見計らって」「それは……違うわ。だって、あなたはいつも予告もなく現れるのだもの。見計らうなんて……」  舌が回らない。 「わ、悪かったわ。でも、あなた、わたしに真剣を振るわせてくれないんですもの。いつもこんな木剣で。もうそろそろ真剣を振るわせてくれてもいいんじゃないの?」  青年は何かを考えるような顔でじっとエルネラを見つめ、仕方ないという風にため息をついた。 「真剣を振るってみてどうだった?」  エルネラはほっと胸をなで下ろした。青年はいつもやさしく滅多なことでは怒らないが、一度怒ればそら恐ろしいのだ。 「そうね。やはり木剣とは重さが違うし、風切り具合が違ったわ」 「他には……何か、気分が変わったとか……」 「? 何も……あ、そういえば、いつもより剣と一体になれた感じがしたわ」 「ま、いいだろう。明日から練習剣《フルーレ》を使うことを許そう」  エルネラはぱっと顔を輝かせた。 「本当?」  青年は微笑んだ。 「ああ。ミルイヒを打ち負かしたご褒美だ」  その言葉で、エルネラの顔は急に不機嫌になった。 「どうしたんだい?」 「……彼、手を抜いたのよ」  エルネラは忌々しげにつぶやいた。 「まさか。彼は君のことが好きだったんだろう?」 「そう思ってたけど、わからなくなってしまったわ。本当は、そんな素振りを見せてわたしをからかったのかもしれない」  エルネラはまた涙がこみ上げてくるのを感じた。それは腹立たしいことだったが、自分の意志ではどうにもならなかった。 「そういう人間には見えなかったなぁ。――あんまり君がひねくれた態度をとるからだよ。君の言動を真に受けたんだ。君が嫌がるなら、負けて婚約破棄にした方がいいと思ったんじゃないの? なんていうか、物事を後ろ向きに考えるタイプだね、彼は」 「でも、決闘なのよ! 神聖なものなのよ。それに自分の感情を持ち込んで、あろうことかわざと負けるなんて!」  エルネラは吐き捨てるように言った。 「それは唾棄すべき行為だけど、いいじゃない。結果的には君の思い通りになったんだからさ」  エルネラは唇を噛んだ。青年の言う通りだが…… 「こんな無様な結果をわたしは望んでいなかったわ」 「ミルイヒが勝って、表面上は嫌々だけど、心はうきうきで結婚するのを望んだの?」  エルネラはおもしろがる様子の青年をにらんだが、否定しなかった。それが自分の心の中になかったとはいえない。  けれど、絶対に認めたくはなかった。あんな根性なしを自分が好きであるなんて思いたくもない。いったい彼のどこが好きだというのかしら? 不可解なことである。  自分は迷っていて、決闘でどちらかを選びたかった――いや、選んでもらいたかったのだ。それは一つの賭けだった。それなのに、わざとらしく負けられては決心が鈍るではないか。 「ともかく! もう彼のことは考えたくも、口に出したくもないわ」  エルネラは剣の素振りに戻った。その風切り音は鋭く、周りの虫たちの鳴き声と競うかのようだった。  青年は微笑んだ。 「はいはい。恋を捨て、結婚も捨て、修道院にでも入るつもり?」 「聞きましたわ。エルネラ様との婚約を破棄なされたんですって?」  ベランダに出て月を見上げるミルイヒに、声をかける貴婦人がいた。  ミルイヒが振り向くと、空色のドレスの裾を軽くつまみ、なまめかしい笑みを浮かべて近づいてきた。亜麻色の髪はきっちりとまとめられ、あらわになった白いうなじが実に色っぽい女性だ。おそらく、ミルイヒより十近く年上だろう。  先日、一緒に踊ったたくさんの女性のうちの一人だ。確か、グレンダール男爵夫人アレーナ。 「踊り疲れましたの? 憔悴しきった顔をなさって。それとも、婚約破棄に心を痛めておられるのかしら?」  アレーナは小首を傾げて言った。  ミルイヒはアレーナの青い瞳を見つめた。 「わたしはそんなにひどい顔をしてるんですか? 友人にも言われました。――婚約破棄については何も思ってはいません。殿下がそのように望まれるのならいいんです。……ただ、行き場のない想いがあるんです。どうしたらいいのか……」  ミルイヒは常ならぬせつない顔をした。夜会でははずしたことのない――いや、それだけではなく、親しい者たちだけにしかはずしたことのない鉄仮面がはずれてしまったことに、ミルイヒは気づかなかった。  アレーナは目を細めて微笑み、ミルイヒの頬を、レースの手袋をはめた両の手で包み込んだ。 「おかわいそうな方……」  そしてそのまま、ミルイヒの唇に口づけた。  ミルイヒは一瞬驚いたが、抵抗しなかった。甘くやわらかな唇に、心の中でくすぶっている何かが溶けていくのを感じていた。それは立っていることができないほどの心地良さがあった。  ミルイヒはアレーナの細腰を引き寄せ、肩を抱いた。あたたかく、やわらかい。今は人肌のぬくもりが欲しかった。それだけがこの想いをどうにかしてくれるにちがいない。ミルイヒはむさぼるように口を吸った。  二人の熱く長い接吻を見ているのは、満天を照らす満月だけだった。ベランダのタイルに落ちているのは、二人が一つとなった影と、時折かさかさと動く落ち葉。壁一つ向こうの、人声のさざめきや舞曲が遠くに聞こえる。  二人はほうっと熱いため息をつき、名残惜しそうに離れた。  アレーナはほんのり紅潮した顔で、妖艶な笑みをミルイヒに向けた。 「意外と情熱的なんですのね」  ミルイヒは陶然としていたが、はたと我に返った。  今、自分はいったい何をした? 男爵夫人と、夫のある方とキスを!? しかも、あのような……。  ミルイヒは目眩がし、顔が急激に火照るのを感じた。 「も、申し訳ありませんっ! ……あ、あの、なんと申したらっ……」  舌がうまく回らない。消えてしまいたい気分だった。アレーナが戯れにしたであろうキスに、あのように淫らに応えてしまった。どうにも弁解しようがない。  アレーナは鈴を転がすように笑った。 「そのようにお顔を赤くなさって……。こんなにもかわいらしい方だったとは存じませんでした。あら、殿方にかわいいだなんて……失礼しました」 「いえ……こちらこそ」  夜風に冷えた手で頬を押さえるが、顔の火照りはまだ収まらない。  その手にアレーナが手を重ねた。ミルイヒはどきりとして、間近にあるアレーナの美しい顔を見た。そして、先ほど塞いだその赤い唇を。 「今夜、主人は帰りませんの。いらして下さる?」  アレーナはミルイヒの耳にささやいた。その吐息がくすぐったく、またしても立っていられないような気分になった。  その意味するところがわからないわけではない。だが、ミルイヒはうなずいていた。 [#改頁] 04.満たされぬ想い  ミルイヒはカボチャのスープを木匙ですくい取り、優雅にすすった。おいしい。騎士専用食堂のカボチャスープはひと味違う。  彼のここ一ヶ月の昼食は、このスープとパン一切れだった。いつもならば、それを見たランディが、 「なんだ、それっぽっちしか食わないのか?小鳥の餌ほどもないじゃないか。もっと食わないとやっていけないぞ。そのひょろい身体にちっとは肉を付けろよ。ほれ、俺のを分けてやる」  と、いらぬお節介を焼くのだが、幸い今はいない。エルネラとの決闘のあと、田舎で法事《ラヴィエ式》があるとかで一ヶ月の休暇を取ったのだ。  そういえばそろそろ戻ってくる頃だなぁ、と思っていると、噂をすれば何とやらで、ミルイヒの名を呼ばわりながら騒々しくやってきた。  昼食を取るには少し遅い頃合いの食堂は人もまばらだった。ランディはすぐにミルイヒを見つけた。なぜか不機嫌そうな顔で、足早に近づいてくる。ランディの知り合いと思しき騎士が声をかけるが、気づいていないらしく、そのまま通り過ぎた。  ランディはミルイヒの前にやってくると両手で木のテーブルを叩いた。テーブルが悲鳴を上げてきしみ、カボチャスープの容器が一瞬浮き上がった。周りの者たちは驚き、食事の手を止めてふたりを見た。 「おい、どういうことだ? 俺のお株を奪うつもりか?」  ランディは限りなく冷たく、低い声で言った。  ミルイヒは目をしばたいた。ランディは自分に対して怒っている。それは珍しくはないことだが、顔がこのようにどす黒くなるまで怒るのはついぞない。わたしはいったい何をした? 思い当たる節はない。 「久しぶりに会ったのに、開口一番何だい?」  ミルイヒは穏やかに言い、カボチャスープをすすった。 「表に出ろ」  ランディは顎で出口を示した。 「話ならここで聞くよ。物騒なことは嫌だ」  ランディは唇を噛んでミルイヒをにらんだ。ミルイヒは意に介さず、再びスープをすすった。  ランディは周りを威圧的に見回した。ふたりの様子を窺っていた者たちは知らぬ振りで目をそらし、必死に残りの食事をしたり、急いで食堂をあとにしたりした。  ランディは舌打ちひとつして、ミルイヒの向かいに乱暴に腰を下ろした。 「この一ヶ月の話を聞いた」  ランディはぶっきらぼうに切り出した。 「ああ、それでお株を奪ったと? 別にそんなつもりはなかった。わたしから誘った覚えはない。あちらが望んだんだ。わたしはそれに応えただけだ」 「それで、何人と寝た?」 「そんなの覚えちゃいないよ。……そうだな。おまえとは義兄弟になったかもしれないな」 「おまえの冗談なんか聞きたくもない!」  ランディは苛立たしげに言った。  ミルイヒは眉をひそめた。 「何を怒っているんだ? 言っておくが、ディアンには何もしてないぞ」 「してたらぶち殺してる」  ミルイヒはため息をついた。 「……こういうことはいつもおまえがしていることだろうに。どうしてわたしがおまえに責められなければならないんだ?」  ランディは何かを言い返そうと口を開けて息を吸い込んだが、すぐに口を閉ざし、それから躊躇いがちに言った。 「おまえが人の愛し方を知らないからさ」  ランディはまっすぐな眼差しでミルイヒを見た。ミルイヒは驚いたようにランディを見た。わたしが人の愛し方を知らないだって? だが、だからといって何だと言うのだ。 「愛と快楽は必ずしも一致しないと教えてくれたのはおまえだろう?」  ランディは目を見張り、それからおもしろくもなさそうに笑った。 「おまえは優秀な生徒だな。快楽のために寝たのか」  ミルイヒはランディの理不尽な物言いに怒りを感じ始めた。 「彼女たちだって求めるものは同じだろうに」 「そいつは違う」 「どう違うのかわからないな。そういうおまえはどうなんだ?」 「俺? 無論、皆愛しているさ。俺はおまえと違って愛なくして抱くことはできない」 「所詮、遊びじゃないか」 「俺は遊んでいるつもりはない」  ミルイヒは嘲るように鼻で笑った。 「本気でそう思っているなら、おまえは本当におめでたい奴だな。おまえが相手にした貴婦人たちは単なる恋愛ゲームでしかないと思っている。おまえの愛は独りよがりなものさ」 「そんなことはない」  と、つゆもその言葉を疑っていない顔でランディは言う。  ミルイヒはその顔から目をそらし、軽く唇を噛んだ。ランディは、自分は誰からも愛されていると思っている。事実そうなのだが、それを自覚しているところが鼻につく。 「わたしは……わたしなりに彼女たちを愛している」  ミルイヒは消え入りそうな声で言った。本当にそうなのか? 「おまえが彼女らを愛しているというのなら、そいつは偽りだな。最中はよくても、そのあとは虚しいだけだったろう? おまえには複数の相手を愛するなんて器用なことはできない。おまえの心にはたったひとりしかいないはずだ」  ミルイヒは眉をひそめた。誰のことを言っているんだ? 「おまえは彼女たちを代用してるに過ぎないんだよ。そんなかわいそうな事はやめろ。慰めてもらいたいなら商売女を相手にしろ」 「代用って……誰の代わりだと言うんだ?」  これ以上ないくらい真剣な面持ちのミルイヒを、ランディはじっと見つめ、唇を噛み、不意に顔の緊張を弛めた。 「……言わなければならないか?」  疲れたような声だった。  ミルイヒはなんと答えて良いかわからなかった。 「……そうだな。ここで言わなければおまえは一生気づかないかもしれない」  ランディはため息をつき、決心したようにミルイヒを見た。 「エルネラ殿下」  その言葉はミルイヒの心の奥底に不思議な響きをもって受け止められた。もしかしたら予期していたのかもしれない。しかし、不可解な感情をも再び巻き起こし、いてもたってもいられない気分になった。心地よいような、泣き叫びたいような、バカみたく笑いたいような、吐き気を催すような、我を忘れて怒鳴り散らしたいような……  ――すべての感情がない混ざったような。  しかし、ミルイヒは驚いたように目をしばたかせただけだった。 「わたしがエルネラ殿下を愛している、と?」  ランディはうなずいた。 「どうして……あ、いや……そうだったな……」  ミルイヒは思い出した。 「わたしは殿下に言ったんだ。殿下を愛する、と。殿下を愛してみせる、と」  ランディは天を仰ぎ、深いため息をついた。何かを言いかけて首を振り、改めて声を出した。 「……それで、それを聞いた殿下はなんと答えたんだ?」  その声には何かが抑制されていた。 「無理して愛する必要はない、と。乗り気でないなら婚約を破棄すればいい、と。怒った風に言っていた」  ランディはおもむろにテーブルに肘をつき、額に手をあて、肩を震わせて静かに笑った。  ミルイヒはいぶかしんで眉をひそめた。 「おまえのことだ。カボチャスープを頼むように淡々と言ったのだろう。……まあ、それはいいさ。それで、おまえはエルネラ殿下を愛しているんだな?」  ミルイヒはランディの反応を恐れるように小さく首を振った。 「正しくは愛する努力をしていた、だ。今は何とも」  すでに婚約は破棄されたのだ。今さら何を思えというのだ? もはや一介の臣従に過ぎないのに。 「そうか」  ランディは深いため息をついた。 「もし、エルネラ殿下がおまえのことを……あ、いや――」  と、言いかけて首を一振りし、 「……たまには家に帰れよ。執事さんにまたにらまれちまったじゃないか」  ランディはそう言い残すと、食堂をあとにした。ミルイヒはその背中を不思議そうに見た。あいつ、わたしの家にわざわざ来ていたのか。本当に物好きな奴だ。  ランディの世話好きには時折辟易させられる。だが、不快なものではなかった。ミルイヒは小さく微笑んだ。自分を思ってくれる存在がこの上もなく頼もしく、愛おしく思う。……本当にかわいい奴。  ミルイヒはカボチャスープの最後の一すくいをすすった。 「家に帰れと言ったのはおまえじゃないか」  ミルイヒは眉をひそめ、ため息をついた。 「別に帰るなとは言ってないだろう? ちょっとくらい帰るのが遅くなったってかまいやしない。だいたい、おまえんとこの執事は俺の顔を見る度にゴミでも見るような顔をしやがる。俺が何をしたって言うんだ!」  ランディは言い捨てると再びエールをあおった。  お馴染みの居酒屋は今日も人々でにぎわっている。酒の飲めないミルイヒは、ランディとの付き合いでしかここに来ることはない。酔っぱらって騒ぐ者たちを見ると、なんとなくうらやましく思える。 「悪かったな。ヘイデンに伝えておく」  ヘイデンは祖父の代からセイデーズ家に仕えている老執事だ。幼くして母親を亡くしたランディは、彼によって育てられたと言っても過言ではない。ヘイデンはランディを悪友であると見なし、ことあるごとに付き合いをやめるように言ってくる。 「ぼっちゃま――いえ、旦那様、由緒正しい貴族たるセイデーズ公爵が、あのようなどこの骨ともわからぬたわけた者と付き合うなど、言語道断ですぞ。幸い、ぼっちゃま――いえ、旦那様は彼の者の毒気にあてられずに立派に騎士の務めを果たしておられる。しかしですな、周りの者の目もあります。いくらぼっちゃまが立派であっても、その友人があれでは正当に評価されますまい。ああ、おいたわしや。神々の園におわす、お父上、お母上も嘆いていることでしょう」  と、涙ながらに言うのだからたまったものではない。  今夜はいつものように聞き流し、あいまいに相槌を打つことはできないだろう。ここ一ヶ月の噂はヘイデンの耳に届いていることは間違いない。愛しい旦那様は悪友の毒気についにあてられてしまったのだ。  何を言われるやら。そう思うと、家に帰りたくなくなってしまった。 「しかし、休暇から帰ってきて早々、なぜにいきなり飲むんだ? 十分楽しんできたんじゃないのか?」 「そうでもないぜ。なにせ、一族では俺は嫌われもんで通ってるから」 「日頃の素行が悪いからだ」 「悪いかな……俺は正直に生きてるだけだぜ」  軽く言ったのに、真面目に返されてしまった。ミルイヒは何となくその言葉が心に刺さったような気がした。目を細め、特製のレモン水を一口飲む。 「……なあ、なぜ、わたしがエルネラ殿下を……愛していると思うんだ?」  ランディは上目遣いにミルイヒを見た。大人の反応を見る子供みたいだ。 「なぜって……う……ん、まあいいじゃないか。おまえが殿下を好いてないってんならさ」  珍しく歯切れが悪い。 「別に、嫌いだとは言ってないだろう? 何とも思っていないというだけで」 「相手にとってはどちらも同じだろ? ――俺、ちょっと深入りしすぎたわ。昼のことは謝る。言い過ぎた」  珍しく殊勝な態度だ。こんな酔い方をする奴だったか? 「深入りって?」 「う……おまえも本当にわからない男だな」  ランディは辟易した様子で言った。 「俺、本来は他人の恋愛については口出ししない主義なの。だけど今回は、おまえがあまりに歯がゆかったし、殿下のあんなところ見てしまって……」  声がだんだん小さくなり、最後の方は聞き取れなかった。ランディは口直しのようにエールを飲んだ。 「ああ、もう、はっきりしない奴だな。何が言いたい?」  ミルイヒは苛立ち、額をこすりつけんばかりにランディに詰め寄った。  ランディは間近にあるミルイヒの顔を見つめ、やにわにその唇に口づけた。 「んん!?」  ミルイヒは驚いて離れようとしたが、ランディに頭を両手でがっちり捕まれていたので逃げることはできなかった。口の中に液体が入り込み、思わず飲んでしまった。それからようやくミルイヒは解放された。 「ひっく」  しゃっくり一つ、ミルイヒの瞳がとろりと半眼になった。ランディはその様子を固唾を呑んで見守った。  いきなり、ミルイヒの瞳が危険な輝きを帯び、かっと見開かれた。 「なにすんだ、こんちくしょー!!」  ミルイヒは常ならぬ下品な言葉を吐いた。  ランディは繰り出された拳をよけることができず、左頬にもろにくらい、椅子から転げ落ちた。  その音は盛大に酒場中に響き渡った。  酒場は静まり返った。皆、恐れるようにふたりをうかがう。 「お、おい、ランディ、まさかオージサマに酒飲ませたんじゃないだろうな?」  酔いがすっかり醒めた様子で、近くの席に座っていた男が訊いた。  ミルイヒはきっとその男をにらんだ。男は貧相な叫びを上げた。 「やっぱり、そうだ!」  その一声で、酒場にいる者たちはミルイヒとランディのそばからあたふたとできるだけ離れた。  ランディはよろめきながら、ようやく立ち上がった。左頬は腫れ上がり、唇の端が切れて血が流れている。 「いてて……ご挨拶だな。久しぶりだってのに」  ミルイヒは人がよいとは決して言えぬ笑みを浮かべ、赤くなった右手を軽く振った。 「いつから宗旨替えしたんだ、おまえ」 「失礼な。俺はいつでもおとなしい女性が好きさ。――時に、おまえ、エルネラ殿下を好きか?」  ミルイヒは嬉々として即座に答えた。 「もちろん、愛しているとも! この一ヶ月というもの、なんとわびしかったことか! 会いたくて、一目でも見たくて……ああ、畜生! これから行って寝込みを襲ってやる!」  と、狂おしく情熱的に言うと、出口の方にきびきびと向かった。人々はさざ波のように退いて、ミルイヒの通路を作った。  ランディはそのあとを追った。 「この賭け、吉と出るか、凶と出るか……」  密かにつぶやき、ほくそ笑んだ。だが、頬が痛んですぐに顔をしかめた。 「彼もきっとショックが大きかったんだよ。だから、慰めて欲しくて……」 「慰めて欲しくて手当たり次第なわけ!? どっちかっていうと、吹っ切れたんじゃないの? 本当は嫌だったのよ、わたしとの婚約なんて。ランディの奴、なーにが、『あいつは見た目よりもずっと傷つきやすいんです』よ! どうせなら、もっといじめてやればよかったわ」  と、吐き捨てるように言うと、エルネラはワイングラスになみなみと注がれた赤ワインをぐいと一気に飲んだ。それから酌を求めるように、黒髪の青年に空のグラスを向けた。  青年は眉をひそめ、ボトルに残っているワインを、後ろで飛沫を上げている噴水の池に注ぎ捨てた。 「あー!! ちょっと、何すんのよ! ……ああ」  エルネラは腰掛けていた噴水の縁から身を乗り出し、名残惜しそうに見た。  ランタンの頼りない灯と淡い月の光の下、赤い液体は波紋の渦に消えていった。ディアンの目を盗んでやっと奪ってきたワインだったのに。  エルネラは青年を座った目でにらんだ。しかし、意に介する青年ではない。 「こんな遅くまで付き合った上に、酔っぱらって返したんじゃ、ディアンに顔向けできないよ」 「酔ってなんかいないわ!」 「そうかい。それにしてはよく絡むね。そんなに好きだったの、彼が?」  エルネラはほの赤かい顔をさらに赤くさせた。それから何とも言えぬ、困ったような顔つきをし、うつむいた。 「……ん……そうよ」  エルネラはか細い声で言った。 「ん、何? 聞こえないな」  青年はエルネラの顔をのぞき込み、意地悪く訊き返した。 「そうよ! わたしはミルイヒが好きなの!」  エルネラは叫ぶように言った。  その余韻は噴水の音にかき消されたが、エルネラには庭中に響き渡ったように思えて、顔が火照るのを感じた。水が水を打つ音が沈黙をさらに助長させ、ひどく長い間黙っていたような気がし、声を出すのが躊躇われた。 「……認めたくなかった」  ようやく、ぽつりと言った。 「よりによってあんな男を……根性なしで……軽薄で……頼りなさげで……わたしの理想とは対局に位置するわ。けれど、なぜなのかしら? こんなにせつないのは。あの人の噂を聞く度に……一喜一憂して」  青年はため息をつき、エルネラの頭をその胸に引き寄せた。エルネラは声を押し殺して泣いた。 「バカな娘だ。――どうする? もう一度陛下にお願いして婚約させてもらう?」  エルネラは青年の胸に顔を埋めたまま、青年のチュニックの裾をぎゅっとつかんだ。 「いくらわたしでもそんなことはできない。もういいの。忘れるわ。忘れることにしたの。だって、わたしには……」  エルネラは肩を小刻みに震わせ、青年を見上げた。新緑の瞳はもはや涙に潤んではいない。しかし、泣いているのと同じ顔をしている。 「ねえ……忘れさせてくれない? あの人のことを」  エルネラは青年の白い頬に手を伸ばした。滑らかな肌触りだが、冷たい。白磁のようだ。小さく息を吸い込み、青年の色気のある唇に顔を近づけた。 「駄目」  青年は厳しい顔で、エルネラの口を手で塞いだ。エルネラは反発して何かを言いかけたが、口を塞がれているのでままならなかった。 「わたしはいいけれど、君は絶対後悔するよ」  エルネラは青年の手をのけた。 「後悔なんてしないわよ! わたし、後悔なんて嫌い」  青年はエルネラを無造作に引き離し、立ち上がった。 「それならなおさらだ。――それに、わたしがここにいることさえ、君に剣を教えることさえ、本来はいけないことなんだ。正直言って、これ以上陛下にばれたらどうなるかわからないことはしたくないな」  エルネラはうつむいた。すべては、青年の気まぐれに過ぎない厚意であることはわかっている。それなのに、自分はそれにつけ込んだ。自分が望めば何でもしてくれるに違いないと思い上がっていた。青年の冷たさはわかっていたはずなのに。  ミルイヒに対する想いは自分でどうにかしなければならない。  エルネラは信じていた。いつかきっと忘れる日が来るのだ、と。他にどうすることもできない。今はただ、堪え忍ぶばかりだ。 「さあ、お帰り。わたしにもやらなければならないことがある」  月の光がところどころに射し込み、光と影を幻想的に作り出している木々の間に、青年はまるで人ならぬ者のように、不可思議な世界へ溶け込んでいくように見えた。  消えかけた青年に、エルネラは声をかけた。 「あなたには好きな人がいないの?」  青年は肩越しに振り返った。 「わたしが愛するのは、冷たく鋭く、こんな月夜に輝くもの――それはそれは美しいものさ」  青年の瞳は月明かりに妖しくきらめいていた。  気づいたら、下水道を歩いていた。  ミルイヒはカンテラを掲げて辺りを照らした。淀んだ川と薄汚れた石壁が鈍い光を跳ね返す。 「ここは……『後宮の庭』への下水道?」  その声は虚しく響き渡った。  何となく見覚えがあった。しかし、なぜ今ここに立っているのかがわからなかった。できれば二度と来たくはないところだったのに。  必死に記憶を探った。ランディと居酒屋にいたのは覚えている。話をしていて…… 「そうだ! あいつ、わたしにキスしたんだ」  ミルイヒは忌々しそうに唇を拭った。いったい何を考えてあんな事を……。さらに記憶を探った。思い出したくもないキスを思い出し、それから…… 「何かを飲んだ。それから……」  額を押さえて考えたが、どうやってもその先が思い出せない。  舌打ちした。 「酒を飲ませたな」  ミルイヒは酒に弱い。ほんの少し飲んだだけで前後を忘れるほどに酔ってしまう。その時何をしたかなど、覚えていようはずもない。  ミルイヒはため息をつき、来た道を引き返そうとした。しかし、踵を返したものの一歩も踏み出せず、立ち尽くしてしまった。  何を迷っているんだ?  「後宮の庭」への道を肩越しに振り返って見る。  ランディは、自分がエルネラを愛しているのだと言った。その自覚はない。しかし、それは本当なのか? なぜか否定できない自分がいる。己の心さえもわからぬ自分が忌々しい。しかし、己の心を悩ませているものの正体がそれだとしたら、はっきりとさせたい。  どうしたらその答えがわかるのだろう? エルネラに会ってみるか? ――と、思いかけてすぐさま首を振った。それは駄目だ。エルネラには二度と目の前に現れぬように言われた。  だが、会わずとも見るだけならどうなのだろう。それならば可能なはずだ。それだけでは到底答えなど出ないような気がするが、きっかけにはなるかもしれない。  決心して、ミルイヒは「後宮の庭」への道を歩きだした。  ほどなく出口の縦穴にたどり着き、カンテラの灯を消して石畳に置き、昇降取っ手を上っていった。  鉄の蓋をわずかに開けると月明かりが差し込んだきた。眉間にしわを寄せて、目を細める。  水が流れ落ちる噴水の音が盛大に聞こえる意外は何の音もない。  外界の意外な明るさに目が慣れてくると、目だけを出したまま辺りを見回した。  目の前に天高く水を噴き上げている噴水、そしてそこから少し目をはずすと……  ――人がいた!  ミルイヒは驚いて鉄の蓋を閉めた。慌てていたのでそれは静かなものではなかった。どきどきと心臓が高鳴り、呼吸が乱れる。今の音は聞かれなかっただろうか?  しばらく息をひそめて待機していたが、人が近寄る気配はない。とりあえずほっとして、今度はかなり慎重に蓋を開けた。  もう一度、人がいた場所を確かめる。噴水の縁に二人が腰掛けていた。ミルイヒは目を見開いた。こちらに背を向けているが、彼にはわかった。月光にきらきらと輝く美しい金髪、やわらかな背中の線、くびれた腰。今日は白いドレスを着ている。  ――エルネラ殿下!  そして、エルネラの隣に座り、こちらからは横顔が見える人物――それはいつぞやミルイヒの目の前に現れた、デューと名乗る黒髪の美青年だった!  なぜ彼が?  男子禁制である後宮に?  エルネラ殿下と一緒に?  疑問が頭の中を埋め尽くし、心がハンマーで打たれているかのようだった。足ががくがくと震え、危うく足を踏み外しそうになった。  ミルイヒは必死に落ち着きを取り戻そうとした。待て、まだそうとは決まってはいない。そのように思って首を傾げた。「そう」とは何だ? この動揺は何なのだ?  二人は何やら話している。しかし、いくら耳を澄ましても噴水の音でうち消され、何を言っているのかはわからない。このような行為は紳士にあるまじき事だ。しかし、ミルイヒは確かめずにはいられなかった。  青年はワインを噴水の池に注いだ。血のように赤いワインはあっという間に水の中に消えたようだった。  エルネラは噴水に身を乗り出した。その時、横顔が見えた。月光が水面に反射して、エルネラの顔を光と影の揺れ動くモザイク模様に映し出した。白い顔はほんのり赤みを帯びている。相も変わらず美しかったが、心なしか愁寂がある。それに、一ヶ月前と比べてぐんと大人っぽく、色っぽくなった。秋気がなりを潜めているようなのは気のせいか? ミルイヒは我を忘れて見とれていた。  エルネラは再び背を向けた。青年が何かを言うとうつむき、しばらくして叫んだ。 「……好きなの!」  その言葉だけがはっきりとミルイヒの耳に突き刺さった。  どくんっと心臓が跳ね上がった。エルネラの痛切な叫びが頭の中でガンガンとこだました。ざわっと総毛立ち、血が逆流した。鉄の蓋をつかんだまま、強くひっかいた。爪が割れ、血がにじむのもかまわず。  ミルイヒの灰色の瞳には薄暗い危険な輝きがあった。ミルイヒは己が恐ろしい嫉妬の念にとらわれたことに気づかなかった。ただただ、エルネラをこの腕に抱きたい、自分のものだけにしたい、という強い願望――欲望があった。  しかし、二人の前に現れるなどということは思いもよらない。そこまでの理性はまだある。  青年はエルネラを抱き寄せた。その瞳は限りなくやさいしいものだ。  ミルイヒは狂おしく黒髪の青年をにらんだ。目で射殺さんばかりに。その役目は本来は自分であるはずだとばかりに。  エルネラは青年の頬に手を触れた。ミルイヒは息を呑んだ。  そして、エルネラは青年の唇に……  ミルイヒは目をそらし、気づかれるのもかまわず荒々しく蓋を閉じた。それから、転げ落ちるようにして縦穴を降り、真っ暗闇の下水道を闇雲に走った。 「あいつ、うまくやってるかな。帰れとは言われたものの、なんとなく不安なんだよな。なんとか、酒が切れる前に押し倒すとこまで行けば……。ちょっと酒量が足りなかったかもな。四十度くらいの酒にしとけばよかったなぁ。エール程度じゃいくらなんでも……」  と、ランディがぼやき始めた時、不意に鉄の蓋が開いた。ランディは驚いて立ち上がった。 「おいおい、早かったじゃないか。あんまり早いとあきれられるぞ。――って」  ランディは目を見開いた。 「どうしたんだ……?」  ミルイヒはずぶぬれだった。頭からつま先まで泥水にまみれ、うつむいたまま声を発しない。 「……下水に落ちた? 勇みすぎたか?」  ランディは苦笑いして近寄った。 「このままじゃ、風邪を引く」  ランディは外套を脱ぎ、ミルイヒにかけてやろうとした。だが、ミルイヒはランディの手を乱暴に払いのけた。外套は地面に落ちた。  驚きに呆然とするランディに、ミルイヒはつかみかかった。押し倒さんばかりの勢いだったが、もとより体格が違う。ランディはなんとか堪えた。 「……お、い、何だよ!」  ミルイヒはランディの襟をつかんで首を締め上げた。ランディは苦しげに声を発した。ミルイヒの細い手首をつかんで放そうとするが、びくともしない。  ミルイヒは上目遣いにランディをにらんだ。 それはいまだかつて見たことのないものだった。恐ろしい憎しみが自分に向けられている。ランディは思わず手を放した。 「本当におまえは親切な奴だ。おまえのおかげでわたしは気づいた。気づいてしまった! エルネラ殿下を愛しているということを! しかし、そんなものは気づかなくて良かったんだ。あのままずっとわたしの中でくすぶっていれば、いつかは消えてしまうものだったんだ」  その声は大きなものではなかったが、はっきりとした口調だった。  ランディは気づいた。ミルイヒが涙を流しているということを。ずぶぬれなので気づかなかったが、確かに泣いている。 「何があったんだ? 話してみろ」  ミルイヒは勢いよくかぶりを振った。  ランディは渾身の力を込めてミルイヒの手をはずし、 「話してみろよ!」  ミルイヒの頬を軽くはたいた。  すると、ミルイヒは力が抜けたようにへなへなと座り込んだ。下生えをわしづかみ、肩を震わせる。もしかしたら、声を殺して泣いているのかもしれない。  しばらくして、うつむいたまま話し出した。 「殿下は誰とも結婚しないとおっしゃっていた。……心のどこかで安心していたんだ、わたしは。そんなことは出来やしないとわかっているにもかかわらず。殿下の意志の強い瞳を見たら、この方はご自分のなさりたいようになさる方だと、ご自分の意志を曲げるようなことは許さない方だと思った」  さっきとはうって変わって、感情の欠落した声だった。 「殿下が誰のものにもならないならいいと思ったんだ。それならば、婚約なんて破棄したっていい。嫌われてたってかまわない。……けれど、恋愛をしないとは言わなかったんだ。ただ、結婚しないというだけで。殿下は誰かを愛し、愛される。もちろん、それはわたしじゃない」  声が震えた。 「わたしじゃないんだ!」  ミルイヒは夜のしじまを引き裂くように叫んだ。ランディはその声を聞いてつらくなった。 「殿下はあの男を愛している。きっとわたしと出会うずっと前から。最初から、わたしが立ち入る隙なんてこれっぽっちもなかったんだ」  その声はかすれていた。  ミルイヒはおもしろくもなさそうに肩を震わせて笑う。それはどこか気違いじみていた。 「考えてみれば似合いの二人だ。美男美女で……貧相なわたしなんかよりずっと。――わたしは、単なる道化だ」 「ちょっと待て! 殿下はな、おまえのことを……!」  と、慌てて言いかけたランディの言葉をミルイヒは遮った。 「何も言うな!」  ミルイヒはさっと立ち上がり、濡れた前髪を掻き上げた。あらわになった眼光はいつにない熱を帯びている。金の髪は泥にまみれてくすみ、汚れた顔に張り付いているにもかかわらず、どこか美しさを感じさせる。  ランディは息を呑み、眉をひそめた。 「殿下は……」 「慰めなんて聞きたくもない! そんな憐れんだ目でわたしを見るな! おまえにそんな顔をされると虫酸が走る」  ランディは開きかけた口を閉ざし、目をしばたかせた。 「おまえは何事においてもわたしより勝っている。剣を握ればわたしを打ち負かし、同僚や後輩たちには愛され、上官の受けもよく、おまえを愛さぬ女性はいない。誰にも愛されぬ貧相なわたしを見て、さぞかし優越感に浸っていたことだろうよ。だから、なにかれとわたしに手をかける。なんてかわいそうな奴なんだってね。わたしはいつだっておまえに劣等感を抱いていた。劣等感に押しつぶされそうだった!」  ランディは唇をきゅっと引き締め、慎重に口を開いた。 「……おまえ、それ、本気で言ってるのか? それとも、まだ酔っているのか?」 「わたしは素面だ」  きっぱりと言った。  冷たい風が吹き、落ち葉がかさかさと音を立てた。水の柱が出ていない噴水の池は波立ち、その上に落ちた葉がゆらゆらと揺れた。  ランディは鋭く目を細めた。 「そうかい、そうかい。わっかりました。公爵閣下。閣下の御意のままに。もう何も口出し致しません」  ランディは最敬礼をすると、外套を拾い上げて「昼寝の庭」を辞した。 [#改頁] 05.真実と偽りの間で  ミルイヒはふと目覚めた。  鎧戸の隙間から射し込む光はまだ弱々しい。太陽の光ではない。だが、常夜灯の明かりよりも幾分強かった。  ミルイヒは、自分の胸にもたれている薄茶色の髪の女を不思議そうに見た。静かな寝息を立て、その豊かな胸をゆっくりと上下させている。  女にかまわず、寝慣れぬベッドの上で寝返りをうった。女は不服を申し立てるかのようにぶつぶつと寝言を言い、ミルイヒに背を向けた。ミルイヒは広いベッドの中の冷たい部分を求めるかのように、端の方に移動した。  唇を噛んだ。  ――空虚だ。  何度抱いても、虚しさはどうしようもなくつきまとう。何度その下に組み敷く女をエルネラに見立てても、どうにも埋められない想いがある。ランディが言ったことの意味が分かった。笑うわけだ。ミルイヒは苦笑した。  ランディのことを思い出して、さらに唇を強く噛んだ。  おとといの晩は言い過ぎた――いや、言ってはならないことを言ってしまった。どうしてあんな事を言ってしまったのだろう? 単なる八つ当たりだ。ひがみだ。  昨日はランディと顔を合わせることができなかった。恐ろしくて。たった一人の親友を失ってしまったという事実と向き合いたくはなかった。  激しい後悔の念に襲われたが、もはやどうすることもできない。ランディは自分を許してくれはしまい。あんなにも親身になってくれたのに、余計なお節介だと言ってしまったのだ。そんなのは嘘だ。本当はうれしくて……。  すべてのことに受け身なミルイヒには、何くれとかまってくれる存在が、何よりも心をあたたかくさせ、支えとなるのだった。  ミルイヒはやわらかな掛布を握りしめた。愚かだ。なんて愚かなんだ。激情に身を任せて、心に秘めておくべき事をすべて吐露してしまうだなんて!  すべては自分に非がある。後悔しても、すべては元に戻らない。エルネラとのことも。  エルネラ――どうして、決闘するまでに気づかなかったのだろう。彼女を愛していると。  あの不可解な感情は愛だった。しかし、それに気づくのが怖かった。恐れていた。だからこそ、不可解なままにしておきたかった。  しかし、今さら何を思っても始まらない。これ以上心を痛めないためには早く忘れるに限る。あれはすべて夢だったのだ。そう思いたい。そうなって欲しい! でなければ、到底立ち直れそうにもなかった。  ミルイヒはため息をつき、起き上がった。こちらに背を向けたまま寝入っている女をちらりと見やり、ベッドから降りた。そして、素早く服を身につけると、静かに部屋をあとにした。  屋敷をこっそりと抜け出し、あてもなくふらふらと通りを歩き出した。  明かりなど必要のないほどに明るい夜だった。見上げると、冴え冴えとした月が中天にある。赤みがかった大きな満月。強烈な月明かりに星々はかすんで見えない。辺りはしんとして、世界には自分ひとりだけのような気がする。  ひび割れた舗道には落ち葉がそこここに積もり、踏むとパリパリと音がする。その音を楽しむように、落ち葉を見つけては踏んだ。  このまま、わたしはどこへ行くのだろう?  エルネラのことがまたしても心に浮かぶ。うち消してもうち消しても浮かんでくる。そのたびにやるせない気持ちになる。  建ち並ぶ貴族たちの屋敷を眺めながら、通りの角を曲がろうとしたとき、その角の向こうで甲高い金属音が聞こえた。  ミルイヒは我に返り、角を曲がった。しかし、その時にはすでに音は消えていた。  月明かりの下、血濡れた剣を片手にたたずむ黒衣の男がいる。その足下に体格のよい男がひとり、転がっていた。ぴくりともしない。見る間に地面が赤く染まってきた。  ミルイヒは目を見開いた。  ――死んでいる!?  たたずむ男の背中にはなんとなく見覚えがあった。黒い髪が風になびいている。  ――切り裂き魔だ!  息を押し殺して剣を抜いた。  そのわずかな鞘ずれの音に反応して、男は素早く振り向いた。  ミルイヒはその顔を見て息を呑んだ。月の光を正面から受けているその端正な顔は、デューと名乗った、あの、今となっては忌々しい黒髪の青年のものだった。  エルネラが愛する青年は切り裂き魔だった!?  衝撃が駆け抜け、切り裂き魔を前にして動くことができなかった。 「貴殿か……」  青年はミルイヒの顔を認めると、安心したような笑みを浮かべた。そして、あろうことかこちらに背を向け、死んでいる男の外套で剣の血を拭い始めた。  ――チャンスだ!  しかし、この絶対の好機を目の前にして、ミルイヒは動けなかった。剣を握る手が汗ばむ。  何を迷っているんだ!?  ここでこの男を殺せば、エルネラは悲しむだろう。だが、エルネラの愛を受けるこの男が憎らしい。だが、この男を殺したからといって、エルネラの愛はミルイヒに向けられはしないだろう。それどころか、自分を憎むに違いない。  憎まれる――その考えにミルイヒはうち震えた。それは何の関心も持たれないよりずっといいのではないのか? エルネラが自分に強い感情を持ってくれる。それが愛であれ、憎しみであれ、何でもいいのだ。自分に関心を持ってくれるのならば。 「何だい? 妙な顔をして」  ミルイヒは我に返った。青年はすでに血を拭い終え、剣を収めていた。  青年は死体とミルイヒを見比べた。 「そうか、こういうのに出くわしたことがなかったか。貴殿は近衛だったな」  近衛――そうだった。  ミルイヒは目が覚めた。わたしは近衛隊の一員。目の前の男は切り裂き魔。何を迷うことがあろう。エルネラのことは関係ない。  だが、訊かずにはいられなかった。  ミルイヒは唇を舐めた。 「……殿下は……エルネラ殿下は知っているのですか?」  青年は怪訝な顔をした。 「何を?」 「あなたがこのような……人殺しをしていることです」 「さぁて、どうだろう? 知らないだろうな」  青年は淡々と答えた。  ミルイヒは唇を真一文字に引き締め、剣を青年に向けて構えた。月明かりに白刃が輝く。  青年は驚いたような顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。その微笑みはミルイヒにはひどく恐ろしいもののように見えた。 「何のつもり?」 「あなたのような危険な人物に、エルネラ殿下のそばにいてもらいたくない」  青年は微笑みを浮かべたまま、目を細めた。 「危険な人物……そうかもしれないね。そう、わたしはエルネラのそばにいるべきではない。……わかっているさ。この平和な都、誰も彼もが血を望まぬこの国に、わたしの居場所なんてない。しかし、この平和と繁栄は永遠のものじゃないんだ。来る時に備える軍隊は弱体化している。かつては精鋭を誇った近衛隊といえども目を覆うばかりだ。聖騎士の称号すら、名ばかりのものとなりつつある。過去の栄光は過去のもの。いつまで他の国を欺いておけるのやら……。やはり、何かしらの刺激は必要だと思う」  それは独り言じみていた。 「だからといって、切り裂き魔をのさばらせておくわけにはいきません」 「しかし、警告にはなるだろうよ。この国の者たちは平和ぼけが過ぎる」 「剣を抜いて下さい」  ミルイヒは毅然として剣を構え直した。もはや恐れはない。 「貴殿と剣を交えるのは楽しそうだ。しかし、わたしは手加減というものを知らない。この男のようになりたくなければ、剣をひくんだ」  と、青年は死体をつま先で小突いた。 「あなたが勝つとは限らないでしょう」 「いや、勝つさ。ランディ・フェイスとの決闘は見させてもらった。貴殿の技量はわかっている。なかなかのものだが、わたしにはかなわないよ」 「過信は命取りですよ」 「過信じゃないよ。わたしは自分の技量を知っているだけだ。どうやったって、貴殿に勝ち目はない」  青年の漆黒の瞳が冷たく輝いた。ミルイヒは背筋に寒気を感じた。青年には常人にあらぬ、狂気じみた気迫がある。自分と剣を合わせることを拒否しているにもかかわらず、その気迫はどこかそれを否定しているような気がする。  喉の奥がひりつくのを感じた。額に玉のような汗が浮かぶ。知らず、呼吸が荒くなる。必死に気を落ち着けようとしたが、ことごとく失敗した。  青年の、すべてを呑み込んでしまいそうな夜空の瞳は、自分をひどく矮小なものに思わせる。この瞳の前ではまったくの無力だ。叫び出して、一目散に逃げ去りたい。しかし、ミルイヒは見つめることをやめなかった。  青年はため息をつき、ひどくやさしく微笑んだ。 「頑固だな。わたしの目を見ただけで、わたしの技量はわかっただろうに」  青年はミルイヒにゆっくりと近づいてきた。ミルイヒは金縛りにかかったように動けなかった。空気を求めてあえぐだけだった。冷たい汗がじっとりと流れる。  青年はミルイヒをじっと見つめる。その眼差しがどこか愛しそうなのは気のせいか?  間近で見る青年の顔は本当に美しかった。  透き通るように白い肌は女のようにきめが細かく、なめらかで、なまめかしい目を縁取る睫毛は長く、月の光を受けて輝いているように見える。  とても同じ人間であるとは思えない。月の夜が見せる、まやかしのようだ。ミルイヒは我を忘れて見とれていた。  青年はミルイヒの剣を握る手に触れ、その手を開かせて鞘に剣を戻した。それから、ミルイヒの両肩を軽く叩いた。  ミルイヒは金縛りが解けたかのように地面にくずおれた。途端、どっと汗が流れ出し、両手をついて肩で激しく息をしなければならなかった。  凄まじい圧迫感から解かれた気分である。  こんな……こんなことってあるのか? 気迫だけでこうまで……呼吸ができなくなるようなことってあるのか? その事実を今自ら体験しても、信じることができなかった。 「それじゃ、死体の処理、よろしく」  青年は陽気ともいえる声で言うと、静かに去っていった。月夜の散歩をしている風流な貴族といった趣で。  ミルイヒは去りゆく青年の後ろ姿を見てぶるっと震え、自分の肩をかき抱いた。震えが止まらない。  二ヶ月ほど前に剣を交えたとき、よくぞ生きていたものだ。癒えたはずの左腕がうずいた。  死体を警備隊に引き渡したあと、約一ヶ月ぶりに家に帰り着くと、ヘイデンが恐ろしい顔で待っていた。始終小言を言っていたが、ミルイヒはほとんど聞いていなかった。  あの美しい切り裂き魔のことを考えていたのである。  絶対に野放しにはしておけない。この平和な王都を乱す危険な存在だ。  ミルイヒはため息混じりに首を振った。思ってもいないことを思っている。本当は王都のことなんてどうだっていいのだ。エルネラさえ無事ならいいのだ。  エルネラに傾倒するごとに、国王への絶対的な忠誠が揺らいでいく気分だった。エルネラのためなら、国王へ叛旗を翻すことだってできそうな気がしてくるのだから恐ろしい。  しかし、エルネラは本当に無事なのであろうか? 今はよくても、手当たり次第の切り裂き魔は、本当にエルネラへその刃を向けることはないのだろうか?  あの切り裂き魔がエルネラを愛しているとは到底思えなかった。切り裂き魔に対するひがみや妬みの感情を引いたとしてもだ。  エルネラに近づく切り裂き魔の狙いはいったい何なのだ?  さっぱりわからない。  どうも、あの切り裂き魔は愉快犯のような気がする。何の目的もなく、自己満足のためだけに人を殺している――そんな気がする。  やはり、エルネラが危険だ。しかし、あの切り裂き魔を退ける自信はまったくない。情けないことだが、あの気迫を思い出すだけでも震えが走る。  どうしたらよいのだろう?  相談すべき友人はすでにない。個人の問題でなくすればよいのかもしれないが、事を公にするにはすべてを話さなければならないだろう。当然、後宮へ忍び込んだこともだ。だが、それは口が裂けても言えない。  エルネラにあの青年の正体をばらすか? だが、エルネラは信じないような気がする。それに、証拠もない。ミルイヒの言葉より、切り裂き魔である青年の方を信じるに違いあるまい。  だが、エルネラが信じようと信じまいと、言わなければならない。そうしなければ自分の気が収まらない。  ミルイヒの心に、どす黒いものがひとしずく落ちた。最初は小さな染みであったそれは、あっという間に心を浸食し、黒一色に染め上げた。  ――息苦しい。  この感情を誰かに吐き出さねばならない。そして、自分と同じように、いや、それ以上に真っ黒に染め上げなければならない。  その想いには、危険な心地よさがある。素面であるというのに、酔っているかのようだ。  愛しい青年が切り裂き魔だと知ったら、エルネラはどんな顔をするだろう? あの美しい顔がどんな風に歪むだろう?  知らず、笑いがこみ上げてきた。 「姫様、セイデーズ公爵が面会を求めておいでです」  ディアンのその言葉に、エルネラは紅茶のカップを取り落とすところだった。 「なんですって!?」  信じられぬ面持ちで、私室の入り口に控えるディアンを振り返った。 「いつもの控え室でお待たせしていますが」  エルネラは椅子の背を握り、考え込むようにうつむいた。その顔は青ざめている。  今さら、いったいなんだというの?  ――忘れる決心をしたというのに。  なぜ、今さらわたしの前に現れようとするの?  ――もう二度と会いたくはない。  なぜ、わたしの心をかき乱そうとするの?  ――思い出したくもない。 「あ……会いたくないわ」  その言葉を発するには多大な努力が必要だった。  声が震えている。  わかっている。  ――会いたい。  だが、会ったからといって、自分が望むようなことは何もありはしないだろう。あの凍り付いた灰色の目で見られるだけ。自分の想いが空回りするだけ。やるせなくなるくらいなら会わない方がいい。 「……姫様、本当にいいのですか?」  ディアンが気遣わしげに訊いてくる。  エルネラは目をつむり、 「会いたくないの!」  いささか躁病的《ヒステリック》に叫んだ。 「そのようにおっしゃると思いました」  聞こえるはずのない声を聞き、エルネラは驚いて振り向いた。  驚きを通り越して青ざめているディアンの後ろに、その声の主は悠然と立っていた。 「……セイデーズ公爵様!? どのようにしてこちらに?」  ミルイヒは近衛隊の隊服のまま、あろうことか後宮に乗り込んできたのだ。それも、後宮の奥深くにあるエルネラの部屋まで。 「失礼ながら、あとをつけさせていただきました、ディアン嬢」  ミルイヒは濃い紅色の絨毯の敷かれたエルネラの部屋に踏み込んだ。  エルネラは半分腰を上げて椅子の背をつかんだまま、動くことができなかった。緑の目は大きく見開かれ、小さな桃色の唇は空気を求めるかのように震えている。  ミルイヒはエルネラの顔を見て、目を細めた。無機質な目をしている。 「そのような顔をせずとも、何もしませんよ。婚約はとうの昔に破棄されました。今や、わたしはあなたの一臣下に過ぎません。許されないことですが、直接ここに来てしまっ