偽装の結婚 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)暫《しばら》く |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)常時|衛《まも》られている [#]:脚註 傍点の位置の指定、改頁など (例)[#改頁] 【ルビを削除したい場合】 正規表現が使えるエディタ等で、 《.+?》 で、置換削除して下さい。 また、 | も、置換削除して下さい。 ------------------------------------------------------- [#改頁] 第一章  もう日が沈んで暫《しばら》く経つというのに、家の周囲が妙に騒々《そうぞう》しい。人が動き回る気配が伝わってくる。  時折、衛士《えいし》と思しき人たちの走り回る音や、互いに呼び交わす声なども聞こえてくる。  何かあったのだろうか。  アイオナは手許《てもと》の台帳から顔を上げた。  台帳を照らしていた燈《あか》りに、その顔が浮かび上がる。白い肌と濡れたような黒髪の、いまだ少女らしさを残した面立ちである。しかし、その青い瞳には強い輝きがある。確固たる己自身を持つ者の輝きだ。  部屋の中は暗い。手許の燈り一つだけでは、この広い部屋の隅々《すみずみ》まで照らすには至らない。  壁にいくつも据《す》え付けられた、燭台《しょくだい》に火を点《とも》せば、獣脂《じゅうし》の癖のある匂いと共に、壁に掛けられた精緻な綴《つづ》れ織りや、棚に並べられた色とりどりの瑠璃細工《るりざいく》、棘《とげ》だらけの観葉植物などが浮かび上がるだろう。家の商売柄、まったく見馴れていないわけではないが、それでもローゼンディア人たるアイオナには不可思議な、アウラシールの品々である。  とはいえ壁の燭台に火を点すことなど滅多《めった》に無い。この部屋の調度や装飾に比べたら、蝋燭《ろうそく》くらい何ほどのものかと思われるかも知れないが、蝋燭とて無料《ただ》ではないし、使えば無くなる。吝嗇《けち》をしているつもりは無いが、不必要なことはすべきではないし、無駄は極力省くべきだと思っているのだ。  そもそも燈りを使わねばならぬ時間というのは、本来、床に就《つ》いているべき時間である。燈りを点して夜更かしした挙句《あげく》、朝寝をしようものなら、太陽神アクシオーンの恵みを蔑《ないがし》ろにする罰当たりと罵《ののし》られても、文句は言えない。  アイオナとて普段ならば、もう寝ている時間である。しかし今日は、店に大規模な納品があった。いくら遊びに来ているからといって、皆が忙しく働いているところに、ひとりのほほんとしているわけにもいくまい。アイオナは納品物の確認作業を手伝い、そして今、台帳に目を通しているところなのだった。  ……と言えば聞こえはよいが、実際のところは興味本位である。この店では、酒、塩、香辛料、織物、細工物などを始め、様々なものを取り扱っている。その中には、見るだけでも興味深い、珍しいものも少なくない。  日中の確認作業でいくつか目にしてはいたが、すべての納品物を確認したわけではない。まだ何かあるはずだと台帳を調べていたら、こんな時間になってしまったのだった。  外の様子が気になって、アイオナは立ち上がった。  羽織《はお》っていた衣がずり落ちかけて、慌《あわ》てて掻き合わせた。その下は、丈《たけ》の長い薄手の貫頭衣《かんとうい》である。日中ならばそれだけでよいが、日が落ちたら何かを羽織らなければさすがに寒い。  それでも、アウラシール特有の、日干し煉瓦《れんが》造りの重厚な家の中は、まだ一定の温度が保たれていると言ってよい。外はこんなものではない。昼は極端に暑く、夜は極端に寒く、人間はその間隙《かんげき》に出歩くより外無いといった世界なのだ。ローゼンディアでも穏やかな気候の地域である、カプリア地方で育ったアイオナにとっては、まったく信じがたい気候である。  部屋の扉が敲《たた》かれた。  アイオナはどきりとした。 「……お嬢さん?」  扉の向こうから、躊躇《ためら》いがちに声がかかる。聞き慣れた声だ。 「どうぞ」 「失礼します」  扉が僅《わず》かに開き、小さな燈りと共に、茶色い髪の男が顔を覗《のぞ》かせた。  この屋敷と店を切り盛りしている、ヒスメネスである。  アイオナより五つほど年上の二十二歳、若いながらもアイオナの父の片腕で、この異国に開いた出店《でみせ》を任されている。  商売人だが、客に媚《こ》び諂《へつら》うような下品さはどこにも無い。ものの価値を正確に見定めるような、ともすれば冷たくも見える目をしている。  その涼やかな顔付きからは、相変わらず何も窺えないが、用も無しにアイオナの居室にやってくるようなことはない。おそらくは外の騒ぎのことだろう。 「何かあったの?」 「区内に、アウラシール人の強盗殺人犯が逃げ込んだとのことです」  アイオナは息を呑み、僅《わず》かに身を顫《ふる》わせた。  ヒスメネスは顔色も変えず、落ち着いた様子である。とはいえ、事の重大さを理解していないわけではないのだろう。顔に出さない男なのだ。 「屋敷内の警備を強化しましたので、大丈夫かと思いますが、一応、部屋からお出にならないように」 「ええ」  アイオナは頷《うなず》いた。  辺りを強盗殺人犯が徘徊《はいかい》しているというのは良い気分ではないが、押し入られることはまずないだろう。大きな商家ならどこでもそうだが、この家も例に漏れず、幾人もの屈強な傭兵たちに常時|衛《まも》られているのだ。  アイオナの頷きを認めたヒスメネスは、一瞬、机の上の台帳に視線を飛ばした。  アイオナはそれを察して、 「大丈夫よ。約束通り、明日には返すから」  台帳はヒスメネスが管理している。他の者がおいそれと見られるものではない。が、アイオナは店主の娘である。無理を言って見させてもらっているのだ。  ヒスメネスは小さく頷き、扉を閉めて去っていった。  アイオナは机に向かい、再び台帳を調べ始めた。後少しで終わる。さっさと終わらせて寝てしまおう。  そして程《ほど》もなく調べものを終わらせると、アイオナは床に就いた。  目を閉じて眠りの訪れを待つ。  その間、明日のことを考えた。  明日はヒスメネスにお願いして、台帳で目星を付けたものを見せてもらおう。  |一つ目猫《レム》の毛皮、大蜥蜴《ジビルアヌ》の鱗《うろこ》、タムタラット鉱山の貴石タムシャラン、伝説の悪龍ヴァヤオーンが描かれている壺《つぼ》……と、目星を付けたものを頭の中で確認していく。すると妙に昂奮《こうふん》してきて、眠りは一向にやってくる風もない。何も考えないようにすると、今度は外の騒めきがいやに耳に入ってきて、神経を逆撫《さかな》でする。  アイオナはぱちりと目を開いた。  辺りは真っ暗闇である。  まったくの夜である。  それなのに……  ――眠れない。  夜に眠れぬとはなんとも忌々《ゆゆ》しきことである。  アイオナはむくりと起き上がり、手探りしながら蝋燭に火を点け、上着を羽織って部屋の外に出た。  ――部屋からお出にならないように。  ヒスメネスの言葉が脳裏をかすめたが、何も夜の散歩をしようというのではない。台所で果実酒を飲んだらすぐに戻るのだ。果実酒を飲めばきっと眠れるに違いない。  部屋のすぐ外は、中庭とひと続きになっている廊下である。恐ろしく寒く真っ暗であった。手持ちの燈《あか》りがあまりにも頼りない。  中庭には人気が無く、不気味だった。当然だ。人間の時間ではない。妙なモノに出遇《でくわ》したとて、不思議はない。とはいえ、出来るだけ出遇したくないものである。  アイオナは闇の中を足早に突っ切り、台所へ向かった。  台所に入ると戸棚を調べた。しかし、果実酒どころか、食べ物ひとつ見当たらない。どうやらこの屋敷では、屋敷内の人間に対する警備も怠《おこた》りないようである。当然と言えば当然だ。管理しているのはあのヒスメネスなのだ。  となれば、食糧貯蔵庫にも鍵はかかっているはずで……と、アイオナは、台所の奥にある食糧貯蔵庫を恨《うら》めしげに見遣《みや》った。  そして目を見張った。  食糧貯蔵庫の鍵が開いている。  アイオナは身体《からだ》を硬張《こわば》らせた。  途端、大きな力に襲われた。  口を塞《ふさ》がれ、後ろから抱き付かれた。いや、拘束するように締め付けられた。  まずいと思った。とにかく暴れようと思った。が、恐怖で思うように体が動かない。心臓だけがどくどくと激しく脈打っている。  燈《あか》りは落としてしまったらしい。真っ暗で何も見えない。 「危害を加えるつもりはない」  耳許でささやかれた。ローゼンディア語だった。少しアウラシール風の訛《なまり》がある。おそらく、この男が普段使っている言葉はイデラ語であろう。  ――アウラシール人……。  思った途端に、ヒスメネスの言葉が稲妻《いなづま》のように甦《よみがえ》った。  ――アウラシール人の  ――強盗殺人犯が 「大人しくするならば危害は加えぬ。お前|次第《しだい》だ」  イデラ語とはアウラシール語の一種であり、この都市アンケヌの公用語である。  広大なアウラシールでは大別して三つの言語が話されている。  西部のイデラ語、東部のハルジット語、そして南方アウラシール語である。  これら三つの言葉の母体となったのはアウラシール語であるものの、それぞれの地域性はかなり大きく、互いの意思疏通には通訳が必要になる。  そしてこのアンケヌはイデラ語圈に入る都市である。  付け加えるならば、アンケヌの言葉にはダルメキアやローゼンディアの言葉もかなり影響している。交易都市という性質からくるものであるが、市民の中には複数の言葉を操れる者も珍しくはない。  アイオナ自身、ダルメキア語とイデラ語を話すことが出来る。  だが今は、相手のことを考えて言葉を選択出来る余裕はなかった。  恐慌状態にある頭の中に、男の言葉が冷たく入ってくる。 「お前らの神、ヴァリアは、契約の神だったな? ヴァリアに誓え。叫ばない、暴れない、人を呼ばないことを誓え。誓うのなら頷け」  取り敢えず、男の言葉に従った方がよいだろう。というか、それしかない。  アイオナは頷いた。 「誓いを破ったら頸《くび》を圧《へ》し折るからな」  アイオナは何度も頷いた。  すると、体を締め付けていた腕が弛《ゆる》み、口を塞いでいた手が離れた。  アイオナは息を吐いた。  取り敢えず頸が繋《つな》がったのだろうか?  と、考えていると、口を塞いでいた手が、今度は頸に添えられた。大きな手だった。力を籠《こ》めれば、本当に自分の頸など圧し折ることが出来るかも知れない。 「悪いが、完全に信用したわけではないのでな。このまま話を聞いてもらおうか」  どうやら信用されてはいないらしい。  腹立たしいことではあるが、そんな気持ちにはならなかった。それどころではないのだ。  アイオナは静かに深呼吸した。  とにかく落ち着かなくては。頭を働かせなくては。  男はすぐさま自分を殺さなかった。容易にそう出来たのにそうしなかった。  それはつまり、今のところ自分を生かしておかねばならぬ理由があるのだ。  男がこれから話すことはそれに関係しているに違いない。慎重に受け答えしなければならない。 「俺は今、追われている」  案の定だ。ヒスメネスが言っていた強盗殺人犯に違いない。  大方《おおかた》、匿《かくま》えとでも言うのだろう。  アイオナの居る都市、アンケヌは、ナバラ砂漠の真ん中に位置する交易都市である。  都市の支配者はアウラシール人であるが、交易都市という性質上、外国人の数が多く、また長期に亙《わた》って留まる者も多い。  自然、外国人居留区が形成されることになる。  すでにそうなってより二百年。アンケヌではダルメキア人居留区、ローゼンディア人居留区がそれぞれ存在し、それなりの自治権を与えられているのだった。  都市の王としても、これら外国人居留区にはおいそれと手は出せない。無理に圧力を掛ければ、富を齎《もた》らす交易商人たちが、他の都市に逃げ出してしまう虞《おそれ》があるからだ。  アンケヌの位置を狙うオアシス都市は、ナバラ砂漠だけでも他に幾つもある。これらの都市もまた交易で潤《うるお》っており、そして更《さら》なる富を常に求めている。ナバラ砂漠中最大の交易都市であるアンケヌは、目標であり、最大の好敵手というわけなのだった。  この男がここに逃げ込んだのは偶然であろうが、ローゼンディア人居留区に逃げ込んだのは、偶然ではないだろう。  ローゼンディア人の誰かに手蔓《てづる》があるのかも知れない。  なんらかの保護を取り付けられれば、都市の警吏《けいり》とてそう簡単には手が出せない。その隙に逃げ延びようという魂胆《こんたん》ではないだろうか。  とはいえ強盗殺人犯だ。国や民族に拘《かかわ》らず、危険人物であることには変わりない。ローゼンディア側とて、そんな人間を区域に野放しにしてはおけないだろう。アウラシール側に要請されるまでもなく、犯人捕縛に力を入れているに違いない。  尤《もっと》も、ローゼンディア人居留区の自警団は、交易商人の傭兵たちが主体だ。  あくまで手の空いている護衛たちの片手間なので、自分たちの利害に絡むのでもない限りは、本腰を入れて捜索はしないだろう。  してみると、この区域には男の知己《ちき》、それも交渉可能なローゼンディア人の誰かが居ることになる。 「匿《かくま》ってもらいたい」  アイオナは無言で頷いた。  迷惑な話だが、今は頷くしかない。こんな状況で否《いな》と言えるはずがない。否と言えば殺されるに決まっているのだ。  今はこの状況を切り抜けることだけを考えればよい。この男を警吏《けいり》に突き出すのは、自分の生命《いのち》の確保が出来てからでよい。 「無論、充分な見返りは用意してある。匿う振りをして警吏に突き出されては、堪《たま》らんからな」  アイオナは頷き、ささやいた。 「……誰に話を伝えればいいの?」 「何のことだ?」  男は不思議そうに尋ねてきた。 「当てがあるんでしょ? その人物にあなたのことを話せばいい――違うの?」 「……なんでそう思う?」 「でなければ、あなたがここにいる理由が無いわ。おそらくその屋敷まで辿《たど》り着けず、我が家に避難した――そんなところじゃない?」  男は答えなかった。アイオナは不安になった。余計なことを言ってしまったのだろうか。  不意に男の手が頸を離れた。押し殺したような小さな含み笑いが聞こえた。背中に押しつけられた男の体が顫《ふる》えている。笑いを堪《こら》えているようだった。 「何が可笑《おか》しいの?」  戸惑いながら聞いた。 「すまん……お前があんまりおもしろいことを言うものだからな」 「おもしろい? ……わけがわからないわ」 「声が硬いな。俺が恐いか?」  何を言っているのだろう、この男は。  アイオナは戸惑いつつも、苛立《いらだ》ちを感じ始めた。 「いきなり拘束されて、頸を圧し折るとまで言われたのよ。恐くないわけないじゃない」 「そうだな。悪かった」  アイオナは我が耳を疑った。  ――悪かった?  なんだそれは。強盗殺人犯が言うことじゃない。 「恐がらせたくはなかったが、こういう手段を取らざるを得なかった。見ず知らずの人間が夜中に家に居たら、明らかに怪しいだろう?」 「実際は怪しくないとでも言いたげな口振りね」  男はまた小さく笑った。 「俺のこと、なんだと思っている?」 「強盗殺人犯だって聞いたわ」 「ふん。そうらしいな」 「違うの?」 「違うと言えば信じるのか?」  なんだかいちいち癇《かん》に触わる男だ。 「わたしに危害を加えないのなら、なんだっていいわ」  男は笑った。 「ローゼンディアの女は女のくせに生意気だと聞くが……お前、おもしろいな」  アイオナはむっとした。  ――女のくせに。  ローゼンディア以外の男は、その言葉をよく使う。どうも彼らには、女よりも男の方が偉いと思っているような節《ふし》がある。なんでそう思えるのか、理解不能だが。 「なあ……」  男はおもむろに口を開いた。 「俺と結婚しないか?」  アイオナは目が点になった。  この男は今なんと言った?  けっこん……?  結婚――!?  そんなこと初めて言われた――いや、そうではなくて――ついさっき初めて出逢った、それもやけに物騒《ぶっそう》な出逢い方をした男と、なんで結婚しなければならないのか――とか思いつつ、なんで自分はこんなにどきまぎしているのだろう。わけがわからない。  とまれ、何かしら裏があるに違いない。 「……ど、どういうつもり?」  なんとか声が出た。  男はアイオナの耳許に口を寄せ、その印象的な声でささやいた。 「お前が気に入った」  アイオナはどきりとした。  ローゼンディア語ではなく、アンケヌ方言のイデラ語だった。 「かッ……揶揄《からか》わないで!」 「別に揶揄ってはいないさ。気に入らなければこんな提案はしない」  と、今度はローゼンディア語でぬけぬけと言う。  状況に応じて言語を使い分けている辺り、確信的にやっているに違いない。腹立たしいことだ。 「お前、結婚してないよな?」  ローゼンディアでは一夫一婦制だが、アウラシールでは地方によって一夫多妻制が認められている。どちらであれ、女性は複数の夫を持つことが出来ないので、アイオナが既婚者なら男とアイオナは結婚出来ない。 「……どうかしら」 「呆《とぼ》けるなよ」  男は苦笑した。  アイオナは羞恥《しゅうち》を感じた。  呆《とぼ》けるだけ無駄らしい。完全に見抜かれている。 「俺にとってもお前にとっても悪い話ではないと思う。お前の読みでは、この近くに俺の身を護《まも》ってくれそうな人物の当てがあるんじゃないかってことだったが、そいつは深読みってもんだ。俺にはなんの当ても無い」  アイオナは驚いた。 「そう。随分《ずいぶん》と無謀ね」  男は苦笑したようだった。 「……俺もそう思う」  なにやら自嘲的である。 「ともかくそういうわけで、俺はお前を当てにするしかないんだ」 「当てにされても困るんだけど……拒否したら殺すんでしょ?」  男は咽《のど》の奥で低く笑った。 「物分かりがよくて助かるが、俺としてはお前を殺したくはない。かと言って無理強いもしたくはない。しかし、状況が決めたことには逆らえない」  つまり、この男の意思も、アイオナ自身の意思も、ふたりを取り巻く状況とは関係が無いのだ。その状況に従うより外無いのだ。  アイオナが男に協力しなければ、男はアイオナを殺さざるを得ない。  それは変えられない。  今夜のことは他言禁止ということで、見逃してもらえばよいという問題ではない。  見ず知らず、赤の他人のふたりには、なんの繋がりも無い。相手を信用出来るだけのものが何も無い。それでも信用出来るというのは、よほどのお人好しか、ただの馬鹿だ。  ――利害の無い関係なんて、ありませんよ。  とは、ヒスメネスの言葉だ。  さすがにそこまではどうかと思うが、ヒスメネスらしい考え方だ。  ともあれ、状況に従うより外無いとはいえ、そこに自由意思を参加させることは可能だ。  無理強いはしたくない――と、この男は言った。それはつまり、アイオナの自発的な協力を求めているのだ。無論、双方にとってその方がよいに決まっている。  となれば、取り引きだ。 「それで、わたしにどんな得があるっていうの?」 「お前の身を護《まも》ってやろう」  アイオナは鼻で嗤《わら》った。 「それのどこが得なの? 夫が妻を護るのは当たり前じゃない。愛してもいない、どこの馬の骨とも判らない、それどころか強盗殺人犯な男と、わたしは結婚しなきゃなんないのよ? それに見合うだけのものを用意してもらわないと、話にならないわ」 「あのな……」  溜息《ためいき》混じりに、男は呆《あき》れたような声を出した。 「何も本気で結婚しようってんじゃないんだ。アウラシール人の俺が、ローゼンディア人のお前と結婚すれば、ローゼンディア人の夫という立場を手に入れられる。そうなればこの居留区に居られるし、アンケヌの奴らは俺に手を出しづらくなる。それだけのことだ。俺の身の安全が確保出来たら、すぐに解消してやる」 「そんなことは解ってるわよ。でも形式とはいえ、結婚は結婚よ。世間的にはわたしが既婚者になることに変わりはないわ。あなたとの偽装結婚の所為《せい》で、わたしの未来の本当の結婚に差し障《さわ》りが出ないとも限らないわ」  我ながら相手の足許を見ている言い分だと思う。しかし、女なら誰もがそうであるように、自分とて結婚には思い入れがあるのだ。愛する男と結婚して、幸せな家庭を築きたいと願っているのだ。拘束されて、偽装結婚させられて、その上本当の幸せまで踏み躪《にじ》られるなんて冗談じゃない。 「そこまでの面倒は見切れんな……と、言いたいところだが、まあよかろう。お前の本当の結婚相手くらい、世話してやってもいい。――それで満足か?」 「……そうね」 「何やらまだ不満げだな。――いいか?」  と、男は低い声を出した。 「この取り引きで、俺はお前に絶対に損はさせない。絶対だ」  やけに力の籠《こ》もった言葉である。  いい男の当てでもあるのだろうか。  それならそれで願ってもない。  父が見つけてくる男には、悉《ことごと》くうんざりしていたところだ。アウラシールに遊びにやってきたのは、そんな見合いから逃げてきたというのもあるし、ここなら良い出逢いがあるかも知れないという期待もあってのことである。 「……まあいいわ」 「これで取り引き成立ってことでいいか?」 「待って。その前に顔くらい見せてよ。名前すらまだ聞いてないわ」 「そうだったな」  そこで漸《ようや》く、男はアイオナから離れた。  何やらごそごそやっていたかと思うと、石を打ち付けるような音と共にぱっと火花が飛び散った。それから暫《しばら》くして、蝋燭《ろうそく》に火が点《とも》された。  蝋燭の燈《ひ》とはいえ、暗闇に慣れた目には充分に眩《まぶ》しい。幾度か目を瞬《しばたた》いてから、光に浮かび上がった男の顔を見遣った。  アイオナは息を呑んだ。  さぞかし品の無い、悪辣《あくらつ》な顔をした男だろうと思っていたのだが――  美形だ。  アウラシール人らしい、すっきりとした目鼻立ちをしている。黒い睫毛《まつげ》に縁取られた目はくっきりとしており、その奥に黒曜石の輝きを湛《たた》えている。全体どこか気怠《けだる》げな感じで、黒く長い髪は、さも鬱陶《うっとう》しげにぞんざいに束ねられている。年の頃は自分と同じくらいに見えた。  しかし、その姿を目の当たりにしても、いまいち素性《すじょう》の窺えぬ男だった。戦士という感じはしないし、商人という感じもしない。 「惚れたか?」  と、男は意地の悪そうな笑みを浮かべた。  アイオナは我に返って頬を朱に染めた。 「なんなら、本当に結婚してやってもいいぞ。妻の一人や二人養えるだけの甲斐性《かいしょう》はあるつもりだ」  アウラシール人らしい言種《いいぐさ》である。  アイオナは男を睥《にら》んだ。 「自惚《うぬぼ》れないで! それから勘違いしてもらっては困るんだけど、結婚してやるのはわたしの方なんだからね」 「解っているさ」  男は不敵な笑みで応《こた》える。アイオナの反応を愉《たの》しんでいるのだ。アイオナはますます不機嫌になった。 「俺の名はダーシュ・ダナン。お前は?」 「アイオナ。アイオナ・メルサリス。トリュネイヘーレイよ」 「トリュねいヘーレイ?」  男、ダーシュは不思議そうに首を傾げた。 「トリュねいヘーレイ……そうか、お前たちローゼンディア人は氏族神の名を冠するのだったな」  思ったより教養のある男のようだ。強盗殺人犯の割には見識があるのかも知れない。  普通はトリュネイヘーレイと名告《なの》っても、何も知らない外国人には理解出来ないのだ。  アイオナの母国、ローゼンディアは神々に守護された王国である。  全てのローゼンディア人が何らかの神の血を引いていると言っていい。  特に神々の血を色濃く受け継いでいるのが王族を含めた貴族たちであるが、そうではない平民たちもまた、自分の血を溯《さかのぼ》れば何《いず》れかの神に辿り着くことを知っている。  そしてそのことを誰もが誇りにしている。  メルサリスは海の女神トリュナイアの系譜に連なる一族だ。  アイオナの祖父の代までは貴族でもあり、神殿への奉仕なども受け持っていたが、父の代からは貴族の籍から外れている。  ローゼンディアの慣習から言えばアイオナは平民ということになるが、だからといって神々を敬《うやま》う心が薄れることなどあり得ない。  そこでいつものように|海の女神の末裔《トリュネイヘーレイ》と名告ってしまったわけだった。 「待て……するとお前は何の神の末裔なんだ?」 「海神よ」 「海神? お前たちの海神はゼーフルではないのか?」  海神ゼフルは広くミスタリア海を中心とした地域で知られている。  だからその信仰はローゼンディア人にとどまらないとはいえ、こんな内陸の、しかもアウラシール人が名前を知っているというのも少し妙な気がした。  商人でもない限り、普通、他国の宗教になど人は興味を持たないものだ。  この男、元は商人なのだろうか?  少し興味が出てきたが、アイオナは尋ねるということはしなかった。こんな状況で要らぬ好奇心を見せるのは、とても危険なことだし、馬鹿げた行為だと思う。 「……海には多くの神々が坐《いま》すのよ」 「そういうものか」  ダーシュはそれ以上興味が無いらしい。納得したように頷いた。 「では、神の御名の下《もと》に誓いを立てよう」  ダーシュは威儀を正してアイオナと正対し、腰に佩《は》いた剣を抜いた。蝋燭の淡い光を撥《は》ね返し、刃は鋭く輝いた。  アイオナは息を呑み、思わず後退《あとずさ》りそうになった。  この男は強盗殺人犯なのだ。  本当にそうなのかは判らないが、もし本当だとしたら、今夜この剣で人を殺してきたということになる。  そう考えたら、血の気がすうっと足の方へ退《ひ》けていく感じがした。  でも――  本当に?  肉を断ち、血を吸った刃にしては、綺麗《きれい》なのではないか?  いくら丹念に拭《ぬぐ》っても、血の汚れはそうそう綺麗に落ちるものではない。鯉口《こいくち》の辺り、柄《え》の装飾の辺りには、絶対に残る。 「どうした?」  訝《いぶか》しげなダーシュの声で、アイオナは我に返った。どうやらダーシュの剣に見入っていたらしい。  アイオナはダーシュを見つめて言った。 「あなた、本当に強盗殺人をしたの?」  ダーシュはアイオナを見つめ返し、小さく笑みを浮かべた。 「そうか。それでやけに熱心にこの剣を見ていたわけだな」  ダーシュは剣の柄をアイオナに向け、差し出した。 「見たいのなら見てみればいい」  アイオナは剣とダーシュを交互に見た。 「まだ契約前よ。わたしに武器を渡してしまってもいいの?」  ダーシュは鼻を鳴らした。 「女如きに遅れは取らん」  女如き[#「女如き」に傍点]とはまた聞き捨てならぬことを言ったが、それは無視して、アイオナは差し出された剣を見つめた。  ――人を殺したかも知れない剣。  そんなものに触るのは気持ち悪いが、そうも言ってはいられまい。  アイオナは意を決して剣を受け取った。ずしりとした重みが両腕にかかった。取り立てて長大な剣というわけではない。よく目にするほどのものだ。それでも女のアイオナには充分に重い。こんなもの、よくもまあ振り回せるものだと思う。  蝋燭に近づけてよくよく調べる。綺麗なものだった。どこにも血の跡は見られない。  アイオナは確信した。  この剣はまだ人の血を吸っていない。  この男は強盗殺人犯なんかじゃない。  アイオナの心に暖かなものが満ちた。 「もういいわ」  アイオナは剣を返した。  ダーシュは無言で剣を受け取ると、剣先を天に向けて翳《かざ》した。 「我、ダーシュ・ダナンは、アルシャンキ、シャール、ナイに誓う」  アルシャンキは都市アンケヌの主神、シャールは太陽神、ナイは月神である。 「仮初《かりそ》めの結婚の見返りに、アイオナ・メルサリスの身を護ること、その本来の結婚相手を世話することを誓う」  アイオナは胸に手を当てた。 「我、アイオナ・メルサリスは、ヴァリアに誓う。ダーシュ・ダナンと仮初めの結婚をし、それによりその身を護ることを誓う」  誓いを立て合うと、契約成立を確認し合うように、ふたりは見つめ合った。 「さて妻よ」  と、ダーシュは剣を収《おさ》め、 「夜も更《ふ》けたことだし、寝《やす》ませてもらえぬかな?」  と、早くも亭主面《ていしゅづら》をする。  そんなダーシュにアイオナは不快感を露《あら》わにしつつ、 「従《つ》いて来て」  と、さっと背を向け、足早に台所を出た。 [#改頁] 第二章  言い争うような声、ばたばたと廊下を走り回るような音がする。  ――ああもう、うるさいなあ……。  アイオナは不快げに呻《うめ》き、毛布を頭から被《かぶ》った。  もう少し寝かせて欲しい。昨夜は遅かったのだ。  契約を交わし、商家の娘たる自分の立場をダーシュに説明するなどして、偽装結婚の口裏を合わせた後、どこで寝るかで揉《も》めた。 「俺たちは夫婦だぞ? 一緒の部屋でよいだろう」  などと、ダーシュはいけ洒々《しゃあしゃあ》と言ってのけたが、無論アイオナは断乎《だんこ》として反対した。  ダーシュはきっぱりと言った。 「同室でなければ駄目だ。俺の目の届く範囲に居てもらわなければ困る」 「それって、わたしを信用してないってこと? さっき契約を交わしたばかりなんだけど?」 「察しろよ。俺の立場の方が弱いんだぞ?」  確かにそうなのだ。ダーシュはアイオナの助けを必要としているが、アイオナはダーシュの助けを必要としていない。  客観的に見れば、それでもアイオナが従わざるを得ないのは、ダーシュに監視されているという状況ゆえである。アイオナとしては神の御名の下の契約を重視しているが、世間には神をも畏《おそ》れぬ不届き者がいることも承知している。だから、ダーシュの不安も理解出来なくはない。 「……わかったわ。同室でもいいわ。ただし、わたしは自分の寝台で寝るから、あなたはわたしから最も離れた床で寝ること。それから剣も寄越《よこ》して」 「剣は渡せんな」 「大丈夫よ。部屋には鍵を掛けるし――」  と、そこで、アイオナは人の悪い笑みを浮かべてダーシュを見た。 「女如きに遅れは取らないんでしょ?」 「む」  ダーシュは言葉に詰まったような顔をした。あの顔は実に見物《みもの》だった。  ダーシュが渋々《しぶしぶ》と剣を差し出し、アイオナが受け取ると、ふたりはそれぞれの場所で眠りに就《つ》いた。  とはいえアイオナは、剣を抱いて横になっただけだった。同じ部屋に男がいるのだ。眠れるわけがない。  そう眠れるわけがない。  それなのに――  なんで自分は眠ってしまっているのか!  と思ったところで、すぐに飛び起きることは出来なかった。眠くて気怠《けだる》いのだ。  それでもなんとか毛布から顔を出し、寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》でダーシュの姿を探した。  朝とはいえ部屋の中は薄暗い。窓を開けていないからではなく、窓自体が極端に小さく少ないからだ。これはアウラシールの建築物の特徴で、寒暑の激しい外気を出来るだけ遮断《しゃだん》するための工夫である。  寝床となっていたはずの場所には、ダーシュの姿は無かった。抜け殻《がら》のような毛布だけがある。  アイオナは驚き、慌てた。  ――わたしが起きるまで絶対に動くなと言っておいたのに……!  と、苛立《いらだ》ちながら見回すと、部屋の出入口でその姿を見つけた。召使いと何やら言い合っている。  そこに来て漸《ようや》く、アイオナの目は覚めた。  ぱっと飛び起きて、出入口に向かって駆けた。召使いとダーシュの間に割り込むと、扉を閉じて鍵を掛けた。扉の向こうから聞こえる召使いの声を無視して、アイオナはダーシュを見上げた。 「あ、あなた……いったい……!!」  動転していてうまく口が回らない。 「やっと起きたか」  ダーシュは平然としたもので、気怠げに髪を掻き上げたりしている。  アイオナは食ってかかった。 「いったいどういうつもり!? 動くなって言ったでしょ!?」 「そんなこと言ったってお前、召使いが部屋の前に来てるし、起こしてもお前は起きないしで――」 「起こしてもって……わたしを起こしたの? それってつまり……」  アイオナは青冷めた。  ダーシュは無言で意味深な笑みを浮かべた。  アイオナは一転、顔を赧《あから》めた。  ――寝顔を見られた!  いや、それだけならまだよいけれど……寝相は悪い方ではないけれど……変なことをされてなければいいけれど……  どうなのか?  って、そんなこと、聞けるわけもない。  自業自得だ。  己の迂闊《うかつ》さに眩暈《めまい》がした。 「召使いとは何を話していたの? 余計なことは話していないでしょうね?」 「お前の夫として挨拶したまでだ」  他に名告《なの》りようもなかろうが、召使いはさぞかし驚いたことだろう。アイオナお嬢様しか居なかったはずの部屋から、見知らぬ男が出てきただけでなく、そう名告られては。  アイオナは溜息《ためいき》を吐いた。眩暈と合わさって足許まで怪しくなってくる。  当初の予定では、召使いがやってくる前にダーシュの身を隠させ、あたかも朝早くに外からやってきたように見せかけるつもりだった。それからヒスメネスにだけはすべてを打ち明けて、使用人らに結婚の報告をするつもりだった。  無論、今まで影も形も無かった男との唐突な結婚報告をすることに変わりはないのだから、どうしたところで不審さは拭《ぬぐ》えない。  しかしそれでも、朝っぱらに見知らぬ男が部屋から出てくるよりはましだろう。  これでは初めて夜這《よば》いに来たような相手に熱を上げ、細かい考えもなしに結婚してしまう馬鹿女ではないか!?  だいたい、結婚の段取り自体まるで踏んではいない。父母もこのことを知らないし、これからどうやって穏便に報告を済ませようかと思っていたのだ。  それをこの男はすべてぶち壊しにしてしまったわけだった。  ローゼンディアの国教であるヴァリア教においては、子供は結婚している男女の間で為《な》されるものであるとされており、それ以外の為され方は認められていない。それゆえ、結婚する気がなかったとしても、子供が出来たら普通は結婚する。信心深い者ならばそれ以前、性交渉を持ったところで結婚する。  そういった事情から、唐突な結婚自体はローゼンディアでは珍しくはない。問題になるのは、唐突に現れた男の存在である。  こればかりはどうしようもない。どうあっても奇妙なことこの上ない。  屋敷の者たちが何を考えるかと思うと、アイオナは頭が痛くなってきた。氷砂糖をたっぷりと入れた茶が欲しい。朝から飲むような物ではないが、砂漠から帰った男たちが天幕の中で旨《うま》そうに飲んでいるあれだ。  問題は砂漠から帰ってきたのではなく、今が砂漠の真ん中だと言うことだった。 「なあ、開けてやらないのか? 召使いに冷たくすると、後が難しいぞ」 「難しくしたのはあなたでしょっっ!!」 「さっきから何を怒っているんだ?」  ダーシュは肩を竦《すく》めた。  アイオナは再び溜息《ためいき》を吐いた。  ダーシュを責めることは出来ない。自分さえ起きていれば回避出来たことだった。 「お嬢さん」  どきりとした。  抑揚《よくよう》の無いひやりとした声が、扉の向こうから針のように突き抜けてきた。  ヒスメネスだ。  召使いが呼んできたのだろう。  ヒスメネスはこの家の管理者である。不審な報告を受けたら確認にやってくるのは当然だ。  アイオナは素早く身形《みなり》を整え、鍵を外して扉を開けた。  扉の向こうには、相変わらずのヒスメネスが居た。召使いから報告を受けているだろうに、いつも通りに落ち着き払った様子である。ヒスメネスの後ろには、幾人かの召使いと護衛士が緊張した面持ちで控えている。  ヒスメネスはアイオナを見、そしてダーシュを見た。 「どういうことなのか、説明していただけますか?」    *  卓上には干した砂棗《すななつめ》と、氷砂糖と乳を入れた茶が用意されている。朝食は摂《と》る気になれなかった。 「ではダーシュ殿、あなたはお嬢さんの夫であると、こう御主張なさるわけですね?」 「ああ、そうだ。俺たちは昨夜、神の前で結婚した。ダーシュは――」  言いかけて、アイオナの方を見た。 「お前、なんて言う名前だったかな?」  アイオナは天を見上げた。自室の天井があり、青い空は見えなかった。見たかったのに。 「あなたは御自身の妻の名前を把握されておられない? これはまた随分《ずいぶん》と奇妙《おか》しなことですな」 「なに、これからお互い、よく知ればいい。時間はいくらでもあるさ」  ヒスメネスの皮肉を気にも留める風もなく、砂棗を食べている。意外と上品な食べ方だと思った。  顔立ちといい、雰囲気といい、この男にはどこか垢《あか》抜けた感じがある。  一体どういう出自の男なのだろう? 「私が不思議なのは、一体どうしてお嬢さんがあなたとの結婚を承諾したかということなのです」 「女心は気紛《きまぐ》れなものさ。気にしない方がいい。俺たちは昨日知り合って、そして結婚することになった。ただそれだけだ」  臑《すね》に軽い接触感があった。ダーシュが卓の下から合図してきたのだ。 「ええ。そう。女心は気紛れなものなのよ」  特に生命《いのち》が懸かっている時は、という言葉は胸の中で付け加えた。 「さすがは我が妻。俺の顔を立ててくれる」  ダーシュが大袈裟《おおげさ》に喜んで見せた。嫌味《いやみ》だろうか? 「なるほど……そういうことですか」  ヒスメネスは考え込むように目を閉じた。冷たい、静かな表情になる。彼はカサントス地方の出身だが、そうと感じさせない落ち着きがある。  一般にローゼンディアでは、イオルテスやカサントスといった地域の人間は、剽悍《ひょうかん》を以《もっ》て知られている。そういう印象を持たれている。  彼にはそういったものは感じない。それどころか王都の神官のような知性と品位を感じさせられるのだ。 「解りました。お嬢さんがいいと仰《おっしゃ》るのならば、私からは何も申し上げることはございません」  ヒスメネスは頷《うなず》いた。  ――通じた。  おそらく今ので彼は理解したはずだ。  アイオナは常日頃から軽挙妄動《けいきょもうどう》を慎むべきだと思っている。自分でもそうしている。少なくともそのつもりはある。  その自分が気紛れを肯定するような発言をすれば、ヒスメネスが怪訝《けげん》に思わないはずはない。  ダーシュの言葉尻を捉《とら》えての、咄嗟《とっさ》の合図だったが、ヒスメネスにはきちんと通じたようだった。 「では早速ですが、宮殿に届け出をしなければなりませんね。早い方がよろしいでしょう」  言うが早いかヒスメネスは腰を上げた。 「今馬車を用意させます。帰りは昼になるでしょうから、それまでには祝いの席を用意させておきましょう」 「ああ、頼む」 「では参りましょうか。お二人とも御用意をお願いします」  その言葉で、ダーシュの笑顔が一瞬、固まった。 「ん、ああ、お前たちだけで行ってくれるか?」 「何故です? 新郎新婦《しんろうしんぷ》が揃《そろ》って届け出るのが結婚の通例。何か他に御予定でもあるのでしょうか? でしたら何なりと私どもに申し付けてください。屋敷の者で務まるようなものならば私が命じて遣《や》らせておきます」 「いや……すまんが俺は屋敷を出るわけにはいかんのだ」  明《あ》け透《す》けな物言いだった。 「だからお前が行って来てくれ」 「なるほど。解りました」  ヒスメネスは頷いた。 「ではお嬢さんと私で行って参りましょう」 「いや、それは困る」 「何故です?」 「妻と離れたくないのだ。そこは察してくれ」 「そういうわけにはまいりません。旦那様に御報告申し上げねばなりません。それはお嬢さんが御自分でなさるべき事柄です。本来は――」  そこでヒスメネスは言葉を切り、静かにダーシュを見据えた。 「あなたもそこに行くべきなのですよ。ダーシュ殿」  ヒスメネスの反撃は見事だと思った。というか、反撃されていることをダーシュは気付いているのだろうか。  あくまで正論で攻めながら、ダーシュの身の上を探っているのだ。  それに父はアンケヌには居ない。遠くローゼンディアに在《あ》る。  ヒスメネスは罠を張っているのだ。 「その……義父殿にここへ来てもらうことは出来ないのか?」 「それは礼儀を欠く行為です」  ヒスメネスは戸惑ったような顔をした。無論、演技だろう。 「……失礼ですが、あなたには何か事情がおありになるのですか?」 「ああ。ある」  ダーシュはあっさりと認めた。 「俺は屋敷を離れるわけにはいかんし、妻を手放すつもりも無い。だから細々《こまごま》としたことはお前の方でやってくれ」 「重ねて申し上げますが、そういうわけにはまいりません。お嬢さんには御報告に行っていただきます。よろしいですね?」  自分の方を向いて尋ねた。目には強い光がある。きっと、もうすべて判っているのだ。 「……」  アイオナは答えなかった。何故か即答することが出来なかった。そうしてはいけない気がしたのだ。 「アイオナ」  どきりとした。ダーシュが名前を呼んだのだ。今さっきは言えなかった癖に。それともあれはわざと忘れたふりをしたのか? 「俺たちは夫婦になった。アルシャンキの名の下《もと》で。それを忘れるな」  言葉とは異なり、ダーシュの眼差しには糺《ただ》すような強さはなかった。むしろ柔らかなものを感じた。 「……連れて行け。俺は屋敷で待っている」  ヒスメネスに言い、茶を口に運んだ。優雅な仕草である。 「さすがにいい砂糖を使っているな」  微《かす》かに笑ってそう言った。 [#改頁] 第三章  白茶けた日干し煉瓦造りの、平たい箱形の家並みの間を、アイオナを乗せた馬車は走っていた。  日は高くなり始めている。出がけに肌を保護する油を塗ってきたし、日射し避《よ》けの布を被《かぶ》ってはいるのだが、砂混じりの乾いた熱風は、容赦無く肌を痛めつけてくる。 「どこに連れて行くのかしら?」  屋敷を離れて暫《しばら》く経ってから、アイオナは尋ねた。  隣にはヒスメネスが坐《すわ》っている。話しかけるのは、これが最初だった。 「取り敢えず、モダバに向かいましょう。どこかの店にでも入って、そこで事情をお聞きします」 「助かるわ」 「お嬢さんこそ災難でしたね。あれは昨夜の賊《ぞく》ですか?」 「そうよ」  ヒスメネスは溜息《ためいき》を吐いた。 「思ったよりも頭の回る男のようですね」 「そうかしら?」  アイオナは首を捻《ひね》った。どちらかというと生意気で、あとちょっと馬鹿正直なところがあると思うのだが。 「ともあれ、どこかで食事を致しましょう。朝は咽《のど》を通らなかったようですが、今なら大丈夫でしょう」  ヒスメネスはにこりともせずにそう言い、馭者《ぎょしゃ》に指示を出した。イデラ語だ。  いつもながら良く気が付く男だと思う。  これで微笑《ほほえ》みを付け加えてくれれば言うことなしなのだが。  モダバの市場はアンケヌの南西にある市場で、主に生鮮食料を中心に取り扱っている場所である。  ほぼ一日中開いてはいるが、本格的に市場が開くのは夕方からである。日中の日射しを避《さ》けるためだが、ローゼンディアとは違うその慣習に、最初は随分戸惑ったものだった。  ヒスメネスが手頃な店と見定めたのは、モダバでも富裕層が利用する高級店だった。 「いいのかしら……」 「どうしてです?」 「だってあなた、いつも無駄遣いはいけないと言っているじゃない」 「そうですよ」 「これは無駄遣いにならないのかしら?」 「この時間、お嬢さんの口に合うような料理を出せるのはここしかありませんよ。お気にせずにどうぞ」  さっさと中に入ってしまう。アイオナは後を追った。  日干し煉瓦《れんが》というものは想像以上に暑さから身を守ってくれるものだ。屋敷からの道中、馬車の中で半ば焙《あぶ》られていた状態だったため、店内の涼しさに生き返ったような心地がした。席に着くと日射し避けの布を外して脇に置いた。ヒスメネスは正面に坐っている。  接客の娘にイデラ語で註文《ちゅうもん》を出すと、アイオナに茶を注いでくれた。 「では詳しい事情を話していただけますか?」  アイオナは息を吸い込んだ。順序よく話せるかどうか不安だったが、生じた出来事自体は単純である。  昨夜のことを、出来るだけ主観が入らないようにして話した。  ヒスメネスは黙って聞いていたが、剣を検《あらた》めた件《くだ》りになると、質問をしてきた。 「柄《え》や装飾には血は付いていなかったのですね?」 「ええ。わたしもそう思ってよく見たんだけど……」 「解りました。続けて下さい」  アイオナは話を続けた。  すべてを聞き終わると、ヒスメネスは考え込むような顔になった。 「契約を交わしてしまったのはまずかったですね」 「でもそうしないと殺されていたのよ」 「ええ。お嬢さんの判断は間違ってはいません。問題は現在の状況です」 「どうしたらいいと思う?」 「方法は二つあります」  ヒスメネスは指を二本立てた。 「一つは、このまま本当に結婚をしてしまうことです。お嬢さんの夫という立場を持っている限り、彼の身は守られます。もう一つは契約の無効を申し立てることです。こちらは結果的にあの男を裏切ることになります」 「その場合どうなるかしら?」 「彼に怨《うら》まれるでしょうね」  アイオナは溜息を吐いた。ダーシュは無実なのだ。少なくとも自分はそう信じている。  どんな理由があるのかは知らないが、彼は追われている。  彼の味方になれるのは自分だけなのだ。 「……身の潔白が立つまで、仮初《かりそ》めの夫婦として過ごすのはどう思う?」 「難しいところですね」 「反対するの?」 「単純に言い切れないから難しいんですよ」  ヒスメネスは軽く笑った。 「お嬢さんが仰《おっしゃ》る通り、あの男が無実だとしたら、今度は別の問題が持ち上がってきます」 「というと?」 「あの男を追う理由ですよ。少なくとも都市の兵士に追われていたということは、なんらかの理由があってのことです。人殺しをしていないにせよ、彼は何かをやっているか……でなくとも何かの理由があることは間違いない」  その通りなのだった。言われてみて初めて気付いた。理由無く、都市の兵士が人を追っかけ回すことは無いのだ。 「……泥棒かしら?」 「どうでしょうね」  ヒスメネスは首を捻《ひね》った。 「そういう人物には見えませんでしたし……ただ――」 「ただ?」 「いえ、私の気の所為《せい》かも知れませんが、どこかで会ったことがあるような気がするんですよ」 「ダーシュに?」 「はい」  奇妙な話だった。一体どこに接点があるというのだろう。 「以前店に来たのかしら?」 「どうでしょうね」  二人して首を捻《ひね》った。 「しかし、なんにせよ厄介《やっかい》な問題に巻き込まれたことは疑いありません。どうします?」 「そんなこと言われても……あなたはどうしたらいいと思うの?」 「私はお嬢さんの判断に従います」  それが一番困るのだ。なんと言ったって、自分でもどうすればいいのか判らないのだから。  ただ……  損得勘定を抜きにして、個人的な感情に従うならば、あの男を助けたいと思う。  あの男は悪い男ではない。  直感的にそう思うのだ。  追われているのは、きっと已《や》むに已まれぬ事情あってのことに違いない。そんな人間に助けを求められて、その手を振り払うことなんて出来ない。  そう、感情の部分ではもう心は決まっている。問題はそれ以外の部分、それを選択したことによってどういうことが生じるか、ということである。  そうしてよくよく考えてみれば、あの男を助けようと助けまいと何かが生じることは確かで、それはなんであれ穏便に済むようなものではないということだった。  ならば―― 「わたし、ダーシュと結婚するわ」  ヒスメネスの目を見つめて、アイオナは宣言した。  ヒスメネスはアイオナを見つめ返した。 「そのお心は?」 「あの人、悪い人ではないもの。助けてあげたいわ」 「それだけですか?」 「ええ」  損得は特に考えていない。 「甘いと思う?」 「いえ、お嬢さんらしいと思います」 「ありがとう」 「問題はどうするかということですね。本当に結婚なさるおつもりなんですか?」  ――本当に[#「本当に」に傍点]。  その言葉にアイオナはどきりとした。僅《わず》かに目を伏せる。 「本当にって……本当の本当に結婚するってわけじゃないわ。あくまで形式だけよ」 「それを聞いて安心しました」 「良かった。反対されるかと思ったのよ」 「状況からの判断ではなく個人的な意見としては、私は結婚には反対ですよ」  安心して息を吐くと、それを待っていたかのようにヒスメネスが言った。  いつもながら感情を感じさせない、冷静な口調だった。 「……どうして?」 「一言で言えば、あの男がどういう人間なのか判らないからです」 「悪い人ではないわ」  ヒスメネスは悲しそうに少し微笑《ほほえ》んだ。 「残念ですが、私はお嬢さんほど楽観的には考えられません」 「でも……そうだ! あの剣! 剣には血が付いていなかったわ!」 「人を殺すのに必ずしも剣は必要ではありません」  その言葉に驚いた。ヒスメネスをじっと見た。 「人柄というものも、これまた当てにはなりません。外見はもちろん、言葉遣いや仕草だけから、相手のすべてを判断するのは危険です。特に利害が絡む状況になると、人は相手を出し抜こうとしますからね」 「あなた……わたしが騙《だま》されているって言うの?」 「正直なところを申し上げれば、あの男にとって、お嬢さんに好感を持たれた方が都合がよいことは確かです」  アイオナは怒りを感じた。どうしてヒスメネスがそんなことを言うのか理解出来なかった。 「お嬢さんが彼に善意を持つかどうかは重要です。ですがそれは彼にとって重要なのであって、お嬢さんにとって重要なのではありません。そこは間違えないようにしないといけません」  ヒスメネスの言うことは正論だ。決して間違ったことを言っているわけではない。  アイオナは冷静になろうと思い、茶を口に含んだ。甘さが口内に拡がった。 「……どうしてそこまで彼を疑うのかしら?」  ヒスメネスは困ったような顔をした。 「私の方こそ疑問ですよ。自分の生命《いのち》を脅《おびや》かした相手を、たった一晩でかくも信用するようになってしまうとは理解出来ません」  ヒスメネスの言葉には特別な意味はなかったのだろう。そういう含みを持たせた物言いをする男ではない。  だがアイオナは反射的に立ち上がってしまった。 「お嬢さん?」 「……帰るわ」 「何か――」  言いかけてヒスメネスは気付いたようだった。 「申し訳ございません。決してそのような意味ではないのです」 「ええ」  そんなことは解っている。だが解っているからといって、気分が良くなるわけではない。 「とにかく帰りましょう。それと宮殿への届け出をお願い」 「結婚の、ですね」 「そうよ」  アイオナはヒスメネスを見下ろした。 「それと公開会議場の使用許可もお願い」 「何をなさるおつもりですか?」 「結婚の報告をするのよ。それと昨夜の強盗殺人事件について調べてちょうだい」 「なるほど……解りました」  ヒスメネスは納得したように頷いた。おそらくこれで理解しただろう。 「実際に犠牲者が出ているかどうか調べるというわけですね?」 「そういうこと」  アイオナは唇を少し吊り上げた。 「これではっきりするでしょう?」  誉め言葉が返ってくるかと思ったのだが、ヒスメネスは何も言わなかった。考えるような目をしていた。 「とにかく私の方で調べておきましょう」  それだけを言った。 [#改頁] 第四章  思ったよりも広い屋敷だ。二区画あるが、両方とも同じ敷地になるらしい。ローゼンディア人の豪商と言うところだった。  二人を送り出した後、ダーシュは屋敷の中を歩いて回って、大まかな配置を頭に入れてしまっていた。  これで何かあっても、屋敷の中では混乱することはないだろう。  尤《もっと》も連中が警吏《けいり》を引き連れて戻ってくれば、すべてはお終《しま》いだが。  そうならないことを祈るだけだった。  あのヒスメネスとかいう家宰《かさい》と一緒に出て行く姿を思い出した。緊張している様子だった。おそらく父親に会いに行くというのは口実だろう。  それでも二人を行かせたのは何故か。ダーシュには判らなかった。  ――あいつを試したいのかも知れぬな。  そう考えてみる。らしくないと思う。  相手は女である。しかも外国人である。理解しようと考える方が奇妙《おか》しな話だ。  取り敢えず、数日間だけ匿《かくま》ってくれればいい。  あとは自分の仕事だ。  門の方が騒がしくなった。帰ってきたのかも知れない。  ダーシュは足早に玄関に向かった。  玄関に出ると予想通りだった。異国風の盛り土を回り込んで、馬車が屋敷に寄せて停まっていた。  盛り土は車回しと言うらしい。元はローゼンディア人の様式だと言うが、アンケヌでは真似《まね》をしている者も多いと聞く。確かに、馬車で訪れる者が多いような屋敷では便利だろう。  丁度《ちょうど》召使いたちが働く中を、アイオナとヒスメネスが馬車を降りてくるところだった。  日はまだ高い。召使いが二人の上に日避《ひよ》けを翳《かざ》している。  アイオナと目が合った。ダーシュは手を挙げて挨拶をした。アイオナは少し微笑んだ。  ヒスメネスが足早に近づいてきた。 「よろしいですか?」 「なんだ?」 「あなたに少しお話があるのです」 「俺の方でもお前と話したいと思っていた」  ヒスメネスは口を噤《つぐ》み、じっとこちらを見てきた。理知的な青い瞳。朝の時にも思ったが、この男は切れ者だ。少なくとも彼の女主人よりも三倍は賢いだろう。 「では私の書斎に行きましょう。そこならば邪魔は入りませんから」 「解った」  書斎というのは言い過ぎだろうと思っていたのだが、案内された部屋は確かに書斎というに相応《ふさわ》しい部屋だった。  壁際には大きな本棚があり、巻物や、皮で装幀《そうてい》された本がぎっしりと詰められている。  本棚に収まりきれなかった分は頑丈そうな台の上に平積みになっており、その高さはダーシュの胸近くにまで達している。  幾壁にはイデラ砂漠を中心にした大きな地図が貼られており、大きめの丸卓が一つと、来客用の椅子が三脚あった。  ヒスメネス自身が使うのであろう机は、ローゼンディア風の頑丈そうな木製であり、窓から少し離れたところに配置されてあった。  机の上には筆記用具が置かれてあるが、書類はなかった。用心深い性質なのだろう。おそらくは机の中に鍵を掛けて入れてあるのではないか。  片付いていると言うよりもむしろ、ほとんど何も置いていないその机は、壁際の本や巻物の山を考えると殺風景に過ぎる感じがした。  一応、机の角には手鉤《てかぎ》と受け皿の付いた棚があり、古風な細工《さいく》を施《ほどこ》された硝子《ガラス》張りの丸燈《がんとう》が置かれてあるが、これとて燈りを供給するためだけの物であり、殺風景には変わりがないと思えた。  そんな印象を勘定に入れても実に立派な部屋だった。家宰《かさい》とはいえ、使用人が使うような部屋ではない。それがまたヒスメネスの屋敷での立場を物語っていると思った。  ローゼンディア人の趣味だろうか、窓は多少大きく作ってあり、その分、光が多く入ってきている。 「そちらにお掛け下さい」  言われて示されたのはやはり来客用だと考えた椅子であった。シュリで出来ている。シュリは軽く丈夫で、加工しやすく、日用品に多く利用されている植物である。  この椅子は一見簡素な品ではあるが、丁寧な仕事がしてあり、高級品なのは明らかだった。 「まるでお前がこの屋敷の主人のようだな」 「私は主人ではありません。この屋敷と店を預かり、切り回しているだけです」 「なるほど」  ものは言い様だと思ったが、その言葉は胸に収《し》まっておいた。 「それよりもあなたこそ、腰の剣はどうされたのです?」 「部屋に置いてある。自分の家の中で剣は必要ないからな」 「確かに。ですがそれは早計というものでしょう。この屋敷は旦那様のものであり、仮令《たとえ》お嬢さんの夫となられたからといって、あなたの物にはなりません」 「ほほう。それがローゼンディアの仕来《しきた》りというやつなのかな?」 「そう考えていただいて結構です」 「それで? お前はどうしたいのだ? まだるっこしいのは嫌いだ。話を聞こうか」 「では単刀直入にお聞きします。お嬢さんと本当に結婚なさるおつもりなのですか?」 「それはあいつ次第《しだい》だな」  自分から言い出したことだ。遠回りな答え方はせずに、はっきりと言ってやるつもりだった。  それに、この男にはその方がいい。朝の時にも思ったことだが。 「あなたはお嬢さんに決して損はさせないと言ったそうですが」 「あいつはそんなことまで話したのか?」 「ええ、まあ」  ヒスメネスは苦笑するような顔になった。 「随分《ずいぶん》信頼されているんだな」 「付き合いが長いですからね」 「お前、この屋敷の主人の下《もと》で商売をしていると言ったな。かなり長いのだろう?」 「はい。十歳の時からになります」 「なるほど、すると我が妻とは幼馴染みというわけか」 「そういうことになりますね」  ダーシュは声を出さずに笑った。 「では俺が邪魔ではないのか? いろいろとな」 「ええ。いろいろと」  ヒスメネスは微笑《ほほえ》みかけてきた。なるほど、この男は厄介《やっかい》だと思った。 「あなたの作り出した状況はなかなかに複雑でしてね」 「すまんな。深く考えたわけではないんだ」 「そうでしょうね。ですが咄嗟《とっさ》の思い付きにしては、良い結果を生んだと言えるのではないでしょうか」 「俺もそう思う」 「取り引きをするつもりはありませんか?」 「お前と? なんのだ?」  ダーシュは興味を惹《そそ》られた。この男が何を提案してくるのか気になった。 「あなたを無事にアンケヌから脱出させて差し上げましょう。その代わりに、あなたがお嬢さんに提供するつもりだったものがなんなのか、話していただきたい」  やはりそう来たか……この男なら当然そこに気付くだろうとは思っていたが。 「……俺はあの女の生命《いのち》を助けると約束したんだ。あの女が契約を守る限りにおいてな」 「では、契約は現在実行中ということですか?」 「そういうことになるな」  答えた瞬間、ヒスメネスから射るような眼差《まなざ》しが向けられてきた。驚くほど強い眼差しだ。 「ほう……お前ただの商人じゃないな」 「交易商人ですからね。職業柄いろいろなものを見聞きしてはいます」 「ふん」  ダーシュは立ち上がった。ヒスメネスの傍《そば》に行き、その腕を取った。しっかりとした腕だった。上から差配《さはい》している商人にしては立派過ぎる。 「戦いの経験もあるようだな」 「言ったでしょう? 交易商人だと。道中、危険は付きものですよ」  よく言う。護衛に隠れてがたがた顫《ふる》えているだけの者もいるのだ。 「まあいい……とにかく怪訝《おか》しなことは考えないことだ。生命《いのち》が惜しければな」 「それは脅《おど》しですか?」 「いや忠告だ」  ダーシュは手を放した。 「俺としてもお前たちを殺したくはない。なんと言っても生命《いのち》を助けられた恩があるわけだからな」  そうだ。自分がここに居れば助けることが出来る。 「安心しろ。お前たちに危害を加えるつもりは無い。信じてはもらえんかも知れぬがな」 「あなただけならば今日にでも逃がして差し上げられるのだが」 「遠慮しておく。悪いが俺の方ではお前をそこまで信用は出来ない」  本意は違うところにあるのだが、そうとしか言えなかった。  今の時点でこの男に真意を悟られるわけにはいかない。 「そうですか。そのくせ私には御自分を信じろと仰《おっしゃ》るわけだ」 「そうさ」  ダーシュはからからと笑った。 「諦《あきら》めろ。これもアルシャンキの思《おぼ》し召《め》しだ」  ヒスメネスの書斎を出ると、ダーシュは自室に向かった。新たに割り当てられた部屋だが、客室であるらしかった。アイオナの居室ほど広くもないし、見た目も豪華ではないが、よく見れば家具や調度《ちょうど》は良いものを使っている。落ち着いた趣《おもむき》の部屋である。  とはいえダーシュの感覚では、己の立場に相応《ふさわ》しいとは思えぬ部屋であった。見窄《みすぼ》らしいとは言わぬまでも、これではただの客人扱いである。  アイオナの夫たる自分は、それなりの扱いを受けてよいはずだった。新たな血縁として尊重されて然《しか》るべきだ。  今はこの屋敷にアイオナの父親、つまり家長は暮らしていないようであるし、どうもアイオナには男の兄弟は居ないらしい。となると娘婿《むすめむこ》である自分が家長代理を務めるべきなのである。その責任があるのだ。これがダーシュの、アウラシール人の感覚なのである。  ローゼンディアではそうではない、ということは知っている。しかしとても理解出来るようなことではない。  奴らは男と女を同等に扱い、男の仕事を女にも任せている。女が家長を務めるだとか、女が戦場《いくさば》に立つだとか、まったく気狂《きちが》い地味《じみ》たことをしている。女にそんな仕事が務まるわけがないだろうに。  もちろん、物事には例外が付きものであることは承知している。そういう例を幾つか聞き知ってもいる。  しかしそれと長年の仕来《しきた》りとは別である。ローゼンディアの仕来りはそうであるのかも知れぬが、アウラシールはそうではない。  そしてここアンケヌはアウラシールである。  今更《いまさら》道義常識を説くつもりは無いが、これから先のことを考えると、この屋敷の連中には不利な面が多いと考えざるを得ない。  然《さ》りとて自己主張をする気にもなれない。主人面《しゅじんづら》をしたところで勘違いをされるのが落ちだ。  ――大人《おとな》しくしている外《ほか》無いか。  どのみち、数日内に動きがあるだろう。そうなれば否《いや》が応《おう》でも動かなければならない。  今は客分としてこの屋敷で暮らすのも、悪くないことなのかも知れなかった。 [#改頁] 第五章  宮殿に出した使いが帰ってきたのは夕刻、太陽神《アクシオーン》がその住まう島へと帰還する頃合《ころあ》であった。昼前に出したというのに随分と遅い帰りである。宮殿でかなり待たされたらしい。 「何か問題でもあったの?」  怪訝《けげん》な面持ちで、アイオナは少し身を乗り出した。  アイオナの居室である。卓を囲むのは、アイオナ、ダーシュ、ヒスメネスである。 「届け出だけでは結婚は認められないそうです。両当事者がアルシャンキ神殿まで罷《まか》り越《こ》さぬ限り、結婚は認めぬと」 「なぜ?」 「ダーシュ殿がアウラシール人だからだそうです。ローゼンディア人同士ならばともかく、片方でもアウラシール人ならば、神殿まで罷り越して三神に報告し、その祝福を受けるのが仕来《しきた》りであると」  道理であるとアイオナは思った。アウラシールの仕来りには詳しくないが、ローゼンディアであっても、神殿に罷り越して神々に結婚を報告するのが礼に適《かな》っている。 「――しかし、妙な話です」  アイオナは不思議そうにヒスメネスを見た。妙なところはどこにも無いように思えるのだが。しかし、ヒスメネスがそう言うのなら妙であるに違いない。 「アウラシール人[#「アウラシール人」に傍点]だからというのは理由として奇妙《おか》しいです。アンケヌ人[#「アンケヌ人」に傍点]だからというのなら解りますが」 「どういうこと?」 「我らがローゼンディアとは異なり、アウラシールでは地域によって奉《ほう》じている神が違います。アウラシール人だからといって、誰しもアルシャンキを奉じているわけではありません。奉じているわけでもない神の神殿に罷り越すのは奇妙《おか》しいですから、アルシャンキ信者たるアンケヌ人でもない限り、アルシャンキ神殿に罷り越す必要は無いでしょう」 「でも――」  と、アイオナはダーシュを見た。 「あなた、アルシャンキを奉じているわよね? アルシャンキに誓いを立てていたもの。それなら罷り越す必要があるのではないの?」 「ダーシュ殿がアルシャンキ信者であることは、宮殿には伝えていませんよ。ただ、アウラシール人であるとしか。アンケヌに居るアウラシール人ならば、全員がアルシャンキ信者だろうというのは、あまりにも乱暴です。アンケヌはこれだけの交易都市です。余所者《よそもの》のアウラシール人だってたくさん居ます」 「……それじゃあ、どういうこと? 宮殿はダーシュがアルシャンキ信者であることを知っているということなのかしら?」 「いえ、ローゼンディアと関係のあるアウラシール人ということで当たりを付けたのではないかと思います。世間では、昨夜の強盗殺人犯はローゼンディア居留区に逃げ込み、そのまま行方《ゆくえ》を眩《くら》ましているということになっていますからね。疑わしきはすべてを疑えということで、とにかく誘《おび》き出して直接確認しようというのでしょう」 「そう……」  アイオナは不満げな顔で重々しい溜息を吐いた。 「公開会議場の方はどうなの?」 「公開会議場? 何をするつもりだ?」  今まで黙り込んでいたダーシュが口を挟んできた。  アイオナはダーシュを見た。 「あなたの潔白を明らかにするのよ」  ダーシュは溜息《ためいき》でも吐くように鼻を鳴らし、薄い笑みを浮かべた。馬鹿にするような態度である。  アイオナはむっとした。潔白を證明《しょうめい》してやろうというのに、その態度は一体なんなのか。 「で、どうなの?」  アイオナはヒスメネスを見た。 「結婚後に使用を許可するとのことです」  アイオナは柳眉《りゅうび》を顰《ひそ》めた。 「結婚後って……宮殿がわたしたちの結婚を認めた後ってこと?」 「その通りです。まあ、結婚報告が名目ですから、当然と言えば当然です」  アイオナの顔に怒気《どき》が表れた。 「どうしたって神殿に罷り越さなければならないってわけね……」  アイオナは立ち上がった。 「いいわ。罷り越しましょう」 「御免蒙《ごめんこうむ》る」  ダーシュが即答した。 「危険は承知の上よ。でも、宮殿に結婚を認めてもらわないと、あなたの潔白を證明できないわ」 「潔白を證明する必要は無い」  アイオナは訝《いぶか》しげにダーシュを見た。ダーシュは卓上の茶器をつまらなそうに見ている。 「どうして? あなた、無実なんでしょう? 潔白であることを證明すれば、逃げ隠れする必要は無くなるわ」 「俺は匿《かくま》ってくれとは言ったが、潔白を證明してくれと言った憶えは無い」  ずくん――  と、心臓を鷲掴《わしづか》まれた気がした。  アイオナは目を見開き、かっと頬を赧《あから》めた。口を開くと、わなわなと唇が顫《ふる》えた。何かを言おうと思ったが、言葉が出て来なかった。唇を噛み締めて俯《うつむ》いた。ここで何かを言えば、善意の押し付けに過ぎない。  善《よ》かれと思ってしたことだった。いや、しようとしたことだった。  けれど、自分ひとりだけが先走っていた。  恥ずかしくて、ひどく哀しい。 「そのような物言いはないのではありませんか、ダーシュ殿」  ヒスメネスが言った。 「仮にもあなたの妻ではありませんか」  ダーシュは戸惑い半分、気不味《きまず》さ半分、自分の言葉がそこまでアイオナを傷付けるとは思ってもいなかったという顔である。 「……悪かった」  ぼそりと呟《つぶや》く。 「しかし、なんであれ外に出ることは出来ない。暗殺される虞《おそれ》がある」  ――暗殺。  不穏な言葉にアイオナは驚き、ダーシュを見た。 「今は動かない方がいい」  それだけ言うと、ダーシュはおもむろに立ち上がり、アイオナの居室を後にした。  ダーシュを見送ると、アイオナは再び項垂《うなだ》れた。 「思った以上に複雑な事情がありそうですね」  ヒスメネスが静かに口を開いた。 「ご依頼されていた調査の件ですが、実際には、昨夜は強盗殺人事件はありませんでした」  実際には、に力を入れてヒスメネスは言った。どういう方法を使ったのかは判らないが、おそらく確かな情報なのだろう。  ――やはり。  やはりダーシュは無実だった。  喜ばしいことである。しかし、アイオナの気持ちは沈んだままだった。 「どうします?」  どうもこうも無かった。  仮初《かりそ》めの妻として、仮初めの夫ダーシュをこの家に置いておく。自分が出来ること、望まれていることは、それくらいしかない。 「暫《しばら》く様子を見た方がよいのかも知れませんね」 「そうね……」  アイオナは力無く返事した。 「明日、祝いの宴《うたげ》を開きましょう」 「え……?」  驚いたように、アイオナはヒスメネスを見た。相変わらず落ち着いた顔付きをしている。 「結婚祝いですよ。まだ使用人たちには正式な結婚報告をしておりませんでしょう?」 「……そうだったわね」  仮初めの結婚である。本来は祝ってもらうようなことなど何も無いのだから、なんだか不思議な感じがした。 「無駄な出費になってしまうわね」  アイオナは小さく溜息を吐いた。 「いえ、丁度《ちょうど》良かったです。皆にそろそろ息抜きをさせようと思っていたところでしたから」 「そう……」  ヒスメネスからは特にこれといったものは窺《うかが》えないが、おそらくは気を遣ってくれているのだろうとアイオナは思った。 「いつも世話をかけるわね」 「滅相《めっそう》もありません」  ヒスメネスは軽く会釈をした。 [#改頁] 第六章  あくまでも仮初《かりそ》めである。  それでも何故かどきどきしてしまう。  宴のための正装をし、ダーシュの正装を見たら、いよいよ落ち着かなくなった。  頭は布で覆われ、長い黒髪はそのまま垂らされていた。風通しの良い、白い木綿着は変わらないが、金の首飾りをしている。貴石《きせき》が編み込まれた、胸を覆うような平たい首飾りだ。腰には綺羅《きら》びやかな腰帯を巻き、アウラシール風の刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された、裾《すそ》の長い腰布を垂らしていた。アウラシールの正装であった。  いや、アウラシールのというよりも、アンケヌの正装であるというのが正しいのかも知れない。この広大なアウラシールには、様々な都市があり、様々な部族民がいる。それぞれの習俗もまた様々なのだ。  無論、ダーシュ自身が持ち込んだ衣装ではない。ヒスメネスが用意したのである。宴が済んだら返すことになっている。  妻がきちんとした恰好《かっこう》をするのに、夫がそれに見合わぬ恰好をするわけにもいかないからだ。  ともあれ、アウラシールの正装はダーシュに似合っていた。いや、アウラシール人なのだからそれも当然なのだろうけれど、それだけではなく、きちんとした恰好をしている方がむしろ自然に見えた。きっと、元はそれなりの身分であるに違いない。  一方アイオナは、当然ながらローゼンディアの正装であった。ローゼンディア織りの裾の長い貫頭衣《かんとうい》に、幅広《はばひろ》の綺羅びやかな腰帯をし、ローゼンディア風の刺繍が施された肩掛けをしていた。  ダーシュはそんなアイオナを品定めするように見、我が妻としてはまあ及第点《きゅうだいてん》とでも言うような笑みを浮かべたものだった。アイオナは腹立たしくも恥ずかしくなった。  そのまま落ち着かぬ気持ちで祝いの席に着き、結婚報告をして皆からの祝福を受けると、もしかして本当に結婚してしまったのではないかと妙な気分になった。  宴から引き上げて自室に戻ると、今までアイオナが使っていた寝台が撤去され、代わりに二人用の大きな寝台が用意されているのが、暗がりの中にうっすらと見えた。  アイオナは思わず息を呑んだ。  もちろんこれは見せかけのものである。この部屋で寝るのはアイオナ一人である。万が一宮殿から警吏《けいり》が派遣されてきた場合に備えて用意した、言わば舞台装置である。  ダーシュがこの寝台を使うことはない。  にも拘《かかわ》らず緊張した。  と、急に背後で扉が閉まり、アイオナは飛び上がりそうになった。  振り返って燈《あか》りを翳《かざ》すと、ダーシュが立っていた。  別段驚くことではない。本来ならば。  本来ならば、夫婦は二人一緒に引き上げてきて、同じ部屋に入るのだ。  アイオナの緊張した顔付きを見て、ダーシュは意地の悪い笑みを浮かべた。 「お前、期待しているのか?」  アイオナの顔がぱっと赤くなった。 「そんなこと、かっ考えてないわよっ!!」  ダーシュは愉《たの》しげに笑い、肩に羽織《はお》っていた上着を脱いだ。アイオナはどきりとしたが、他意は無いようだった。首飾りを外すためのようだ。  首飾りは結構な重さがあった。ダーシュは宴の間中これを着けていたのだから、肩が凝《こ》ったかも知れない。金の鎖がじゃらりと鳴った。  黙って差し出すそれをアイオナは受け取った。後でヒスメネスに渡すのだ。 「すまんが俺の剣を返してくれるか?」  宴の前に、剣はアイオナの部屋に移されていた。アウラシールの慣《なら》わしだと言うが、夫婦は寝所を共にするものだから、結局は剣は夫の居る場所にあることになる。  本来ならば、だ。  アイオナはつかつかと歩き、寝台の脇に立て掛けておいた剣を取ってダーシュに手渡した。 「さあ、これで用は済んだでしょ。さっさと出て行って」 「ああ」  ダーシュは剣を腰に差した。 「早速だが夫としてお前に言っておくことがある」  再び心臓がどくんと動いた。 「何よ」  つっけんどんな口調になってしまったのが腹立たしかった。ダーシュはきっと気付いただろう。そう思うと今度は恥ずかしくなってきた。 「何よ。用があるなら明日にして」 「お前、今日はもう部屋から出るな」 「どうしてよ?」  出るつもりなど元から無いが、反論するような言い方になってしまった。 「理由は後で判る」  それだけ言い置くと、ダーシュは歩き去ってしまった。  庭の篝火《かがりび》を受けながら遠離《とおざか》るその背を、アイオナはぽかんと見つめた。  ダーシュの部屋の扉が閉まる音が聞こえて、アイオナは漸《ようや》く我に返った。  忽《たちま》ち怒りが込み上げてきた。なんなのだろう。あの態度は。これが結婚初夜の妻に対する態度なのだろうか――と思ったところで、これが偽装結婚であることを思い出した。  何故だか急に気分が落ち込んだ。選択を間違ってしまったような気がした。  いや、間違っていたのは選択ではない。手順だ。  結婚自体は已《や》む無きことだった。問題は今夜の宴に到るまでの流れだ。その中に手続き違いがあったのではないだろうか。  そういえば、ダーシュは酒をほとんど口にしなかった。  何か気に入らないことでもあったのだろうか?  そつ無く宴の主賓《しゅひん》を務めていたように見えたが、内心は辟易《へきえき》していたのだろうか?  そう思うと悲しくなった。急に泣き出しそうになり、アイオナは寝台に倒れ込んだ。そのままじっとしていた。  努力が空回りになることには慣れているけれども、今回のはかなり堪《こた》えそうだった。    *  アイオナにはちょっと可哀相《かわいそう》なことをしたかも知れないと思った。  状況を説明してやるべきだったかも知れぬ。だが話せば、あの女の性格からして黙っているとは思えない。何かと問題になる可能性が高い。  何より用心すべきはあの家宰《かさい》の男だ。奴も酒をほとんど口にしなかった。多分こちらの様子を見ての判断だろう。大した観察眼だと思う。  今夜は剣は手放せない。何事《なにごと》にも手違いはある。用心をしておくべきだ。  ダーシュは月を見上げた。庭には篝火《かがりび》が燈《とも》っている。今夜一晩燃やし続けられるはずだ。燈《あか》りがあるのは有り難いが、それだけ目立つと言うことでもある。  忙しい夜になりそうだった。 [#改頁] 第七章  人が激しく動き回る物音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。部屋の燈《あか》りはもう消えていたが、庭からの明かりが僅《わず》かに入ってきているので、室内の様子はなんとなくなら見て取ることが出来る。  それにしても花嫁衣装を着けたまま眠ってしまったのは情けないし、みっともない話だと思う。早く着替えなくてはならない。  こんな時間に誰か呼ぶわけにもいかないから一人で着替えるしかない。装身具を外すのが多少面倒ではある。  廊下を幾人かが勢いよく駆けていった。寝ている人に対する配慮がまったく感じられない。  普通なら注意するべきところだが、それよりもアイオナは気になった。  一体、何を慌てているのだろう?  廊下に出て話を聞こうと思った時、扉を激しく敲《たた》く音がした。 「お嬢さん! お嬢さん! 起きて下さい!」  召使いのエニルだった。アイオナは扉を開いた。 「どうしたの? いったい」 「野盗の襲撃です!」  イデラ語で叫ばれた。エニルは普段ローゼンディア語を話しているから、かなり気が動転しているのだろう。 「城の守備兵はどうなの?」  アンケヌには都市に隣接する形で王の城があり、兵も居る。今までだって襲撃はあったが、すべて城壁を越えることなく撃退してきた。  そう簡単に市内に攻め込まれるとは思えなかった。 「それが……奴らもう市内に入り込んでるんです!」  アイオナは耳を疑った。一体どうやって? 「お嬢さん!」  召使いを連れたヒスメネスが廊下を歩いてきた。二人ともアウラシール風の胸甲《きょうこう》を着け、腰には剣を佩《は》いている。 「いったいどうしたというの?」 「やられました。ダーシュ殿は?」 「自分の部屋に居ると思うけど……」  そこではっと気付いた。もしや……。  ヒスメネスは無言で頷いた。アイオナの表情から、その心中を察したらしい。 「おそらくもうこの屋敷には居ないでしょう」 「誰が居ないだって?」  反対側の廊下の先、暗がりから声がした。ダーシュだった。 「庭の篝火《かがりび》を消せ。それから男たちに武器を与えて屋敷を守らせろ。女子供と老人は中庭に集めておけ」 「すでにそうしてあります」  ヒスメネスの静かな物言いに、ダーシュは微《かす》かに笑った。 「さすがだな」 「一つだけ教えて下さい。あなたが手引きしたのですが」  アイオナは胸が詰まるような気がした。恐ろしい問いだと思った。  暫《しばら》くの沈黙の後、 「……いや、俺は手引きはしていない」  ダーシュは呟《つぶや》くように言った。  ヒスメネスはじっとダーシュを見つめた。 「解りました。それであなたはこれからどうされるのか?」 「俺は妻を護《まも》る」  アイオナは驚いた。急に自分のことに話が及んだからだ。 「言ったろう? この取り引きでお前に決して損はさせないと」 「あ、あなたはこのアンケヌが落ちると思っているのっ!?」  上擦《うわず》った声でアイオナは問い質《ただ》した。 「落ちるさ」  ダーシュの声は落ち着いたものだった。 「奴らは城の抜け道を使ってくる。何日か前からもうアンケヌに入っている者たちもいるしな。おそらく城壁前では戦いは起こっていない」  アイオナは絶句した。 「詳しい話は後で聞かせていただきます。私たちはどうするべきでしょうか?」 「どうするべきとは?」 「このまま都市を脱出するべきかどうかということです」  ヒスメネスとは思われない発言だった。店も屋敷も放り出して逃げるというのか!? 「ほう……俺が逃げろと言ったら、お前たちは逃げ出すわけか?」 「ええ。そうするつもりです。生命《いのち》には代えられませんから」 「ふん」  ダーシュは鼻を鳴らし、それから含み笑いをした。 「まったく大《たい》した男だよ。だが安心しろ。この屋敷は安全だ」 「あなたが居る限り、ということですね?」 「そうだ」  にやりとダーシュは笑った。 「だが迷い込んでくる奴がいるかも知れない。今夜一晩は用心するんだ」 「判りました」  ヒスメネスは頷き、召使いに手早く命令を伝えた。召使いが駆け足で去っていく。 「お前は部屋に居ろ」  ダーシュがアイオナに命じた。有無を言わせぬ気配があった。  アイオナは答えずに背を向け、そのまま自室に戻った。後ろ手で扉を閉めた。  不安が全身を捕らえていた。なぜ? 一体誰が攻めてきたのか? どこの集団なのか?  このアンケヌを落とそうというのか?  ナバラ砂漠にあるオアシス都市でも、最大のこの都市を?  ダーシュは落ちると言った。信じがたいことだが、信じたくないことだが、それは真実になりそうな予感があった。  庭を隔《へだ》てた塀の向こう、通りからは物々しい雰囲気が伝わってくる。  時折《ときおり》人の叫び声や馬の嘶《いなな》き、家畜の鳴き声などが聞こえてくる。かなり遠くだと思われるが、騎馬の轟《とどろ》きまで混じっている。  暫《しばら》くの間は寝台に腰掛け、それらの音を聞いていたが、やがて堪《た》えられなくなった。  アイオナは通りに面した側の庭に出た。篝火は消されているが、真っ暗闇というわけではない。星明かりに、ぼんやりと物の輪郭が浮かび上がっている。  息を殺して外の様子を窺《うかが》った。よもや火が放たれることはないと思うが、このようなことは初めてである。何が起こるか判らない。 「何をしているっ!」  突如側面から怒鳴られた。ダーシュだった。  つかつかと歩み寄ると乱暴にアイオナの手を取った。 「部屋で大人しくしていろと言ったはずだ。流れ矢に中《あ》たりたいのか?」  ダーシュの顔は暗くてほとんど見えない。だが口調の割には怒っているようには感じなかった。むしろ心配されていると思った。 「外の様子が見てみたかったの。すぐに戻るわ」 「何が起こったか知りたければ後で幾らでも話してやる。安全な時に、火にでもあたりながらな」  皮肉は気に入らなかったが、言い返す気にはなれなかった。ここで意地を張っても愚かなだけだ。今は非常事態なのだ。  部屋に戻ろうとした時、召使いが駆け込ん出来た。玄関の方から庭を回り込んで来たのだ。 「ダーシュ様!」 「なんだ?」 「正門に賊《ぞく》が!」 「解った。すぐ行く」  声をかける間も無くダーシュは走っていった。一瞬、後を追おうかと思ったが、思い止《とど》まった。そんなことをしても意味が無い。それどころか有害なだけだ。  アイオナは再び部屋に戻り、しっかりと鍵を掛けた。    *  屋敷の門前にはすでに血臭が漂《ただよ》っていた。切られたのは賊か? それとも屋敷の使用人か? 切り合いの音が耳に響いてくる。  ダーシュは足早に前庭に歩み入った。ここだけは篝火《かがりび》を残してある。視界の確保のためだ。もちろん火に呼び寄せられる虫のように、賊どもが集まってくるのは判っていた。  それでも火を残したのは暗闇の中で踏み込まれた場合には、まずお互いの姿を確認出来ないからだ。  こちらの立場を證《あかし》立てることが出来れば切り合いにならずに済む。  そう考えていたのだが遅かったようだった。  切られたのは屋敷の使用人らしい。他の使用人が取り付いているが、もう意識が無いようだった。  左の方ではヒスメネスが賊を相手に切り合っている。奴は事実上の屋敷の主人であるから、奴が倒れればこの屋敷はお終《しま》いだ。そこのところを自覚しているのだろうか?  だが――  ――背後に隠れて怯《おび》えている主人よりは、余程《よほど》いいか。  ダーシュは口許に微《かす》かな笑みを浮かべた。まったくあの女といい、この家宰《かさい》といい、ローゼンディアには出来た人間が多いようだった。  雄叫《おたけ》びをあげながら賊の一人が切りかかってきた。  ダーシュは下方から剣を跳ね上げて男の腕を切った。同時に横に踏み出して流れてくる剣を躱《かわ》した。血が左肩に降り掛かってくる。そして男の絶叫。  男の背後に回り込むと、止《とど》めの一撃を頸筋《くびすじ》に打ち込んだ。男は千切《ちぎ》れかけた首を揺らしながら血を撒《ま》き散らしつつ、倒れていった。  賊はあと三人残っていた。剣を構えてはいるが切りかかってくる気配は無い。おそらく逡巡《しゅんじゅん》しているのだろう。  ヒスメネスの剣に貫かれた賊が、呻《うめ》くような長い悲鳴を上げた。倒れたところを屋敷の使用人が斧《おの》で止めを刺した。 「おい、お前らの中にハダクと話せる奴はいるか?」  ダーシュはアウラシール語で話しかけた。三人はびくりと身を動かした。アウラシール語で話しかけられたことが意外だったらしい。 「俺はハダクとは知り合いだ。この屋敷は俺の屋敷だ。手を出すとお前ら後悔するぞ」  男たちは剣を構えたまま、互いの顔を見つめ合った。こそこそとささやき交わした。 「あんたの名前は?」  一人が声を張り上げた。 「ダーシュ。ダーシュ・ダナン」  それを聞くと賊たちは後退《あとずさ》り、屋敷の正門から通りの闇の中に消えた。駆け去る音が後に残った。  ダーシュは剣を振り、自分が切り殺した男の服で拭《ぬぐ》いをかけた。それから鞘《さや》に納めた。 「これからどうなりますか?」  ヒスメネスが話しかけてきた。今の会話は聞こえている。内心穏やかではないだろうが、それを感じさせること無く傍《そば》に立っている。 「今夜の内に誰か送られて来るかも知れんな。その時は俺が会おう」 「いきなり攻めてくるということは無いのですか?」 「おそらく無いな」  ヒスメネスが息を吐いた。安堵《あんど》したらしい。 「だが警戒は怠《おこた》らない方がいい」 「どこへ行くのです?」 「中に入るのさ。広間に居るから用がある時は呼んでくれ」  いつまでも前庭で立ちっ放《ぱな》しでいるつもりはなかった。  どのみちはっきりするのは明日の話だ。今夜中に物事が決まるとは思えない。  それにいざとなれば自分の身はどうとでもなる。逃げ出すだけなら、そう難しいことではない。だが一人で逃げるわけにはいかないのだ。  最悪の場合アイオナを連れて逃げなければならない。それを考えると気が重い。  ダーシュは屋敷の中に入った。男たちは出払っているし、女子供老人は中庭に集まっているので人気《ひとけ》が無い。  アイオナだけは自室に待機させてあるが、それを除けば屋内には誰も居ないのだ。  取り敢えず返り血を落としたいと思い、ダーシュは水場へと向かった。水場の傍《そば》には避難している者たちが固まって坐《すわ》っていた。 「お前たち、もう屋敷に戻っていいぞ」  教えてやると、皆のろのろと屋敷へと戻り始めた。何人かは頭を下げてゆく。  全員が居なくなった後でダーシュは服を脱いだ。ただでさえ寒いのだから、服を脱ぐと更《さら》に寒い。この上冷え切った水で体を拭こうものなら、凍《こご》えること間違いない。かといって血まみれでいるわけにもゆかぬ。上着を井戸の脇にかけて水を汲《く》み、布を水に浸して顔や肩、胸を素早く拭いた。  ふと嫌な気配を感じた。  素速く身を伏せて転がった。硬い物が井戸の石組みにぶつかる音がした。  ――投剣《とうけん》!  起き上がると同時にダーシュは剣を取った。すらりと抜き放つ。  目の先の暗闇に何かが居る。右手の木陰か、それとも左手の植え込みか。  空気、ではなく気配が動いた。雰囲気が変化した。  ダーシュは再び横に動いた。屋敷に向かって走った。己の居た場所を目懸《めが》けて再び投剣が飛来した。  ――暗殺者《ガズー》。  血の気が引くのを感じた。まさか暗殺者《ガズー》に狙われることになるとは……。  心当たりはある。誰が差し向けたのかの見当も付く。  暗殺者《ガズー》とは、アウラシールでは死の使徒としてよく知られた存在である。  その組織に狙われた者は、たとえ王族であっても死を免《まぬが》れ得ないという。  彼らは遠く東方の山脈に根城《ねじろ》を持つというが、一体それがどこなのかは誰も知らない。  アウラシールの長い歴史の中で、その闇に属する部分を受け持ってきた集団である。  柱の陰に隠れたまま、ダーシュは荒い息を吐いた。胸の前に剣を構えて動かなかった。  いや動けなかった。おそらく投剣には毒が塗ってあるだろう。擦《かす》れば終わりだ。  ――生命《いのち》は無い。  そう認識した途端、どっと汗が出てきた。恐怖? いや逃げ出したいとは思わない。頭は冷静だ。望ましい状況とは言えないが、怯《おび》えて萎縮《いしゅく》しているということは無い。 「誰か! 誰か居ないか!」  大声で叫んだ。 「誰か庭に来てくれ!」  恥ずかしいとは思わない。虚勢を張って、闇の中で暗殺者《ガズー》に向き合う方がどうかしている。愚かとしか言い様がない。  暫《しばら》く待った。やがて扉が開く音がして足音が近づいてきた。 「ダーシュ……何があったの?」  アイオナだった。  再び血の気が引くのを感じた。怒鳴りつけようとした時、植え込みが鳴る音がした。猿のような影が塀に跳び乗り、通りの方へと消えていくのが見えた。 「な、何?」 「行ったか……」  思わず呟《つぶや》いた。安堵した。    * 「誰か――!」  寝台に腰掛けて小さく縮こまっていたアイオナは、近場から聞こえたただならぬ叫び声に飛び上がった。  ダーシュの声だった。  一体何があったのだろう!?  しかし、立ち上がったはよいが、そのまま立ち尽くした。  見に行きたいが、外に出るなと言われている。そもそも駆けつけたところで何が出来よう? 足手纏《あしでまと》いになるのが落ちだ。それに――  なんと言っても恐ろしかった。  アイオナは首を振り、両手に握り拳《こぶし》を作った。  仮初めとはいえダーシュは我が夫だ。妻として夫を護るという契約をした。危急にある夫を助けにゆかぬわけにはいくまい。  アイオナは意を決して外へ出た。  声は外の庭から聞こえた。真っ暗な廊下を手探りで進み、星明かりが届くところまでやってくると、庭と一続きになった廊下の柱の陰に、蹲《うずくま》っている人影が見えた。おそらくはダーシュだろう。 「ダーシュ……何があったの?」  声をかけた途端、庭の植え込みが鳴った。そちらの方を見遣ったが、反応の遅れたアイオナには、そこから飛び出した影を見ることは出来なかった。 「な、何?」  ただひたすら驚いていると、ダーシュが安堵したような声を出した。 「行ったか……」  何が何やら判らないが、どうやら危機は去ったらしい。 「だいじょうぶなの?」  ダーシュの許《もと》へ駆けつけようとしたら、 「出てくるなと言っただろう!」  怒鳴りつけられた。  さすがに腹が立った。勇気を出してここまでやってきたというのに。それに、怒鳴りつけられるのは今夜二度目である。 「何よっ! 誰か来てくれってあなたが言うから、来てやったんじゃないの! わたしのお蔭《かげ》で助かったんじゃないの!?」 「結果的に助かっただけだ。あいつがお前も殺すつもりだったら、お前を護るどころか、俺もお前も死んでいた」  アイオナは青冷めた。 「さっきの音……やはり庭に賊が居たの?」 「お前、見なかったのか?」 「……何も」 「そうか……」  と、ダーシュは立ち上がり、井戸の方へ向かった。アイオナは何やら妙なものを感じて、ダーシュの後を追った。  ダーシュに近寄った途端、血の臭いがした。 「あなた、怪我でもしてるの!?」 「いや? ……そうか、血の臭いがするか? 俺の血ではない。返り血だ」  よく見ればダーシュは上半身裸で、井戸縁には黒ずんだ衣服が掛けられていた。衣服は白かったはずだから、おそらくは血だ。  人の血だ。  そう思うと、ぎゅっと心臓が収縮した気がした。 「恐いか?」  既視感のある言葉である。 「べ、別に恐くなんてないわよ。わたし、鶏《にわとり》の屠殺《とさつ》は得意なのよ」  ダーシュは鼻で笑った。 「そんなのと一緒にするなよ」  アイオナは釣瓶《つるべ》を落とし、水を汲《く》んだ。 「ちょっと坐《すわ》って。拭いてあげる」  ダーシュはまた笑った。 「優しいもんだな」  アイオナはむっとした。この男は、どうしてこういう態度しか取れないのか。 「そりゃあ、あなたの妻ですもの」  と、汲み上げた冷たい水を、ダーシュの頭にぶっかけた。 「っ――!!」  ダーシュは勢い良く飛び上がった。 「がっ……! おっ……!」  文句を言っているようだが、あまりの寒さに声が出ないようだ。がたがたと体を顫《ふる》わせている。  いい気味だとアイオナが思った瞬間、 「ひゃっ!!」  ダーシュに抱きつかれた。  アイオナは、予想だにしなかったその行動に驚くと同時に、ダーシュの体から伝わってきた冷たさにも驚いた。 「ちょっ……! 何すんのっ!!」  逃れようとするが、がっちりと拘束されていて動けない。 「妻なら文句を言うな」  耳許でささやかれた。  どきりとした。  揶揄《からか》われているのは判っているのに、否応《いやおう》もなく胸がどきどきする。冷やされた体が熱くなっていく。  不意に持ち上げられ、足が地面から離れた。ダーシュはそのまま歩き出す。  戸惑いながら、胸を高鳴らせながら、どこに行くのだろうと思っていると、屋敷の中に入り、暗い廊下を歩き、アイオナの自室までやってきた。  しかし、部屋の中に入ってさえ解放されなかった。ダーシュは寝台に向かい、そこにアイオナをそっと横たえた。  ここに来て漸《ようや》く、ダーシュはアイオナから離れた。しかし、アイオナの胸の高鳴りは収まるどころか、いよいよ息苦しくなるほどだった。  息を詰めて硬直していると、ふっとダーシュの笑い声がした。 「また期待しているのか?」  アイオナはかっとなって枕を投げた。ダーシュは笑いながら易々《やすやす》と避《よ》けた。 「いいか? 大人しくしてろよ」  と言い残すと、アイオナを置き去りにして部屋を出て行った。 [#改頁] 第八章  ダーシュとの戯《たわむ》れは扠措《さてお》き、アンケヌへの襲撃、ひいては屋敷への襲撃という事態に、アイオナは眠れぬ夜を過ごした。  翌日になると、状況はダーシュが言っていた通りになっていた。  アンケヌは盗賊団に占拠されていた。  王城は落ち、王は処刑され、広場に吊されているという。盗賊団の頭《かしら》が次の王になるとかいう噂である。信じられない話だった。  都市の門は閉ざされ、誰も出入り出来ず、市内は大混乱に陥《おちい》っているらしい。 「ひどい有様のようです」  ヒスメネスは淡々と報告を続けた。 「そこら中、強姦、殺人、掠奪《りゃくだつ》の嵐だったようで……いえ、今は収束しただけで、一部ではまだ続いているようですが」  アイオナは青冷め、罪悪感を覚えた。ダーシュと馬鹿なことをしている間にも、同じ市内でそんなことが起こっていたのだろうか。 「この辺りで難《なん》を逃れているのは、この屋敷くらいのようですね。――あなたの御蔭《おかげ》なんでしょうか?」  と、ヒスメネスはダーシュを見た。  ヒスメネスの視線を受けて、ダーシュは無言で笑みを返した。 「――しかし、盗賊にしてはどうも様子が奇妙《おか》しいです」 「どういうこと?」 「話を聞いていると、整然としたものを感じます。手際《てぎわ》が良いです。第一、これだけの都市を一夜にして落とすなど、その辺の盗賊に出来ることとは思えません。少なくとも烏合《うごう》の衆ではないでしょう。言葉や服装、雰囲気からして、幾つもの部族が寄り集まっているようではあります。ハルジット語が聞かれるという話も耳にしましたから、背後にはかなり大きな動きがあるものと思われます」 「ハルジット語が?」  アイオナは不思議に思った。  ハルジット語が話されているのはアウラシールの東方、大河の東側だ。そんなところからこのナバラ砂漠まで攻めてきたというのだろうか? 「私自身も彼らが固まって歩いているところを目にしましたが、どうやら傭兵団のようです。おそらく普段は都市の防衛などを受け持っている連中なのでしょう」 「そんな人たちがどうして?」 「それは判りません。そして彼らとは別に、ナバラ砂漠に住む周辺部族の姿も多くあります。こちらは寄せ集めのようで、やはりそれぞれ同族同士で行動しているようです。全体の指導者が誰なのかは判りませんが、おそらく一人ではないでしょう」 「では合議制で動いているというのかしら?」  アイオナは首を捻《ひね》った。想像しにくいことだった。  盗賊というのはそのような取り決めや、約束事とは無縁の連中に思えるのだ。 「ええ。おそらくは同盟のようなものに従って動いていたのでしょう。ですがこれからはどうなるか判りません」 「どういうことかしら?」 「果実を手に入れてしまえば、仲間はむしろ邪魔になるということですよ」  嫌な意見だと思った。正しいと思えるだけにますます気が重くなる。 「本当の混乱はおそらくこの後に来ます」 「……さすがだな」  黙って聞いていたダーシュが笑みを浮かべた。 「そろそろお聞かせ願えませんか?」 「何をだ?」 「あなたの身の上と、そして今回の事件との関連です」 「ふむ」 「私たちには聞く権利があると思いますが」 「無いな」  言下《げんか》にダーシュは否定した。ヒスメネスが僅《わず》かに硬直した。意外な返答だったのだろう。 「何故、俺が事情を説明する必要がある? 俺は差し当たっての身の安全の代わりに、お前たちの屋敷と財産、生命を護《まも》ってやった。それで充分だろう?」  ヒスメネスは言い返さなかった。静かに、ダーシュを見ていた。 「わたしはどうなの?」 「何がだ?」 「わたしには、事情を聞く権利は無いの?」  緊張した。ダーシュはアウラシールの、おそらくはアンケヌの人間だ。ローゼンディアの考え方が通用するとは限らない。  しかしローゼンディアでは夫婦は助け合い、共に協力するのが正しいとされる。  結婚の契約はまだ破棄されてはいない。  ならば自分には知る権利があるはずだ。 「そうか……やはりローゼンディアの女だな」  ダーシュは苦笑するような顔をして、瑠璃細工《るりざいく》が並んでいる棚の方に目を向けた。 「いいだろう。話してやる」 「ヒスメネスにも聞かせていいかしら?」 「禁じたところでお前が後で話すのは判っている」  図星だった。 「俺はあいつらの集団に属している」  いきなり、重い一言が来た。判ってはいたことだったが耳にしたくない一言だった。 「だが市内に兵を導き入れたのは俺じゃない。そのことには俺は反対だった。――なんだ? 喜ぶようなことか?」  内心が面《おもて》に表れてしまっていたらしい。アイオナは慌てて澄ました顔を作った。 「それであなた自身は何者なの?」 「まあ待て。その前に今アンケヌを蹂躪《じゅうりん》している連中について話す方が先だ。その方が助かるだろうしな。――だろう?」  ヒスメネスの方を見て言った。 「そうですね」 「周辺部族を束ねているのはハダクだ」 「あの野盗ですか?」  ハダクはナバラ砂漠に出没する盗賊である。かなりの数の手下を持ち、噂によると隠れ家のオアシスで王のように暮らしているという。 「ハルジット語を話すのはゴーサの傭兵団だ。と言っても知らないだろうが」 「いえ。知っています。都市ゴーサを根拠地にしている軍ですね」 「ほう。博識だな」  都市ゴーサと言えばアンケヌからは遥《はる》か東である。 「今の将軍はフブルヤギだが、今回指揮を執《と》っているのはその甥《おい》だ。ギドゥという」 「どうして彼らが協力することになったの?」  それが何より不思議だった。ナバラ砂漠の盗賊団と、東方の傭兵団。その二つが何故|繋《つな》がるのかが解らない。 「それを結びつけた奴がいるのさ」 「お知り合いですか?」  ヒスメネスの一言にダーシュは驚いたように見えた。 「ザハトという。俺の従兄弟《いとこ》だ」 「あなたは反対だったのですね」  ダーシュは苦い顔をした。暫《しばら》く言葉を探しているように見えたが、結局何も言わずに黙り込んだ。 「それで……どうしてあなたは都市の兵士に追い回されていたの?」 「別にいいじゃないか」 「よくないわよ」 「穿鑿《せんさく》好きな女だな」  打切棒《ぶっきらぼう》な一言に、アイオナは怒りを感じた。 「この状況を考えなさいよ。知りたがるのは当たり前でしょ!」 「お嬢さん、落ち着いて下さい」  宥《たしな》められ、アイオナは浮かしかけた腰を下ろした。ヒスメネスは意味ありげな表情をダーシュに向けた。 「焦らずともおそらく今日中にはすべてはっきりしますよ。――そうでしょう?」 「お前は嫌な奴だな」  ダーシュは溜息《ためいき》を吐いた。 「それはあなたに原因がある。私だって、誰にでもこのような態度を取るわけではありません」  ヒスメネスの言葉の意味はその日の内に明らかになった。  日が沈んで間も無く、ゴーサの傭兵団が屋敷を訪れたのだ。アンケヌに限らず、アウラシールの多くの地方では昼間活動するということはあまりない。大概が屋内や日陰で過ごし、本格的に活動をするのは夕方からだ。  傭兵たちは礼装と思しき白い服を着ていた。皆、鼻から下を白い布で覆い、腰には偃月刀《えんげつとう》を、手には槍を持っていた。  さすがに落ち着いた感じであり、野盗とは風格が違う。  傭兵たちを引き連れていたのは若いアウラシール人だった。この男だけが礼装ではなく普段着だったが、皮肉なことに一番品格を感じさせた。  傭兵たちの大半を前庭に残し、右往左往する使用人の間を抜けて、アウラシール人は広間へと入ってきた。左右には傭兵を一人ずつ付けていた。 「ダーシュ。無事で何より」 「ああ」  ダーシュと、彼の従兄弟《いとこ》であるというザハトは、対面するとアウラシール式の挨拶を交わした。互いの頬を左右交互に触れ合わせる挨拶である。  並んでみると、二人して似たような背格好をしている。長身で、靭《しな》やかそうな緊縮《ひきし》まった体付きである。ダーシュのように長髪ではないが、ザハトの髪も瞳も黒い。肌はよく日に焼けている。ダーシュにはそこはかとない気怠さを感じるが、この男には鋭利な輝きを感じる。 「結婚したと聞いて驚いたが花嫁はどこだ」 「お前の目の前にいる」  ザハトは驚いたようにアイオナに目を向けた。ダーシュの横で二人を見守っていたアイオナは、いきなり注目されて戸惑った。 「ローゼンディア人に見えるが?」 「ローゼンディア人だ」  ザハトは目を見開き、やがて苦笑するような顔をした。 「ローゼンディア人と結婚するとは随分《ずいぶん》と物好きだな」  アイオナはむっとしてザハトを睥《にら》んだ。じろじろ見た挙句《あげく》になんという言種《いいぐさ》か! ダーシュの従兄弟《いとこ》だけはある。失礼なところも似ている。 「信じられんな。女のくせに生意気な顔をする」  アイオナの視線を受けて、ザハトは不快げな顔をした。 「妻を侮辱するのはやめてくれ」  ダーシュが打切棒《ぶっきらぼう》に言った。  アイオナはどきりとした。仮初めとはいえ夫なのだから当然の言葉である。そこにそれ以上のものは無いことは承知している。それなのに、思わず嬉しさで顔が綻《ほころ》びそうになってしまった。  不思議だ。我ながらどうかしているとしか思えない情動だった。何だか自意識過剰のようで恥ずかしい。  ザハトはアイオナから目を外《そ》らすと、一転して明るい笑みを見せた。 「いや悪かった」  と、ダーシュに向かって言う。そしてそのまま話を続けようとする。アイオナにはなんの謝罪も無い。もはや眼中に無いといった様子である。アイオナは腹が立った。  これがアウラシールの遣り方だということは判っている。アウラシールにおいては、妻は夫の所有物でしかない。所有者に対して謝罪することは当然であっても、その所有物に対して謝罪するなどということは考えられないことなのだろう。  しかし自分はローゼンディア人だ。ローゼンディアでは夫婦はまったく対等な存在である。夫の所有物でしかない感覚など解りようもない。夫に謝罪して終わりにされては堪《たま》らない。侮辱されたのは他ならぬ自分なのだから、自分にこそ謝罪してもらいたい。  とはいえ、ここでそれを主張したところでどうなろう。相手はアウラシール人だし、ここはアンケヌだ。衝突しか有り得ないのは目に見えている。そしてそうなったらダーシュの手を患《わずら》わせてしまうかも知れない。いくら契約があるからといって、そこまで甘えるわけにはいくまい。アイオナはぐっと怒りを腹に収めた。  ダーシュは改めてザハトにアイオナとヒスメネスを紹介し、アイオナとヒスメネスにはザハトを紹介した。  そして挨拶の段になると、アイオナはまたしてもザハトから無視された。ダーシュの所有物でしかないアイオナには、わざわざ挨拶をする必要は無いということらしい。ダーシュからの紹介だけで充分なのだ。  腹立たしかったが、アイオナはなんとか堪《こら》えた。これが仮初めの結婚で良かったと熟々《つくづく》思う。結婚するならばやはりローゼンディア人しか考えられない。  ザハトはヒスメネスと挨拶を交わし合うと、ダーシュに向き直った。 「お前の義父上《ちちうえ》にも挨拶しておきたいのだが……」 「すまないが、義父殿はアンケヌにはおられぬのだ」 「そうか。ともあれ結納《ゆいのう》を用意せねばならんな。まだなんだろう?」 「ああ。坐《すわ》って話そう」  ダーシュが促《うなが》してザハトが卓に着くと、ダーシュ、アイオナ、ヒスメネスも着いた。  ザハトは訝《いぶか》しげにアイオナを見た。何故お前まで同じ卓に着く? とでも言いたげである。アウラシール人たるザハトからしてみれば、ダーシュの客人たる己と同じ卓に、ダーシュの所有物という、己とは対等では有り得ない者が着いているのが気にくわないに違いない。  しかし、ローゼンティア人たるアイオナにしてみれば、自分はダーシュと対等であるのだからその客人とも対等であるし、なんといってもこの家の所有者は自分の父であり、自分はその娘であるのだから、今現在のこの家の主人は自分を措《お》いて他に無いという自負がある。家の主人が客人を遇《もてな》さぬわけにはゆかぬだろう。  ということでアイオナは、棘《とげ》のある眼差《まなざ》しで以《もっ》て、不遜《ふそん》な客を遇《もてな》した。  ザハトはそんなアイオナを無視して話を始めた。 「結納だが、このアンケヌにあるもの、なんでも好きなものを選ぶといい。お前自身の屋敷も思うがままだ。アンケヌはもはや我々のものなのだからな」 「何を言っている。アンケヌは、アンケヌを作り上げてきた商人たちのものだ」  しかつめらしくそう言うダーシュに、ザハトは馬鹿馬鹿しいとでも言うように笑った。 「アンケヌは本来の持ち主の元に戻ろうとしている。簒奪者《さんだつしゃ》は禿鷹《ヤグ》と野犬《ウルガ》の餌《えさ》となっている。アルシャンキの正義が示されたのだ」  ヤグとウルガは、この一帯に棲息《せいそく》する屍肉《しにく》喰らいの獣たちである。 「お前が連れてきた盗賊どもはどうするんだ?」  と、今までイデラ語で話していたダーシュは、唐突に別の言語で話し始めた。驚いたことに古典ナーラキア語である。  古典ナーラキア語は、今は亡きナーラキア王国で使われていた言語である。現在のローゼンディア語やダルメキア語、アウラシール系諸言語の元となった言語であり、周辺諸国に大きな影響を与えた古代語なのだ。  ナーラキアは遥かな昔、ナバラ砂漠がまだ緑の平原だった頃、隆盛《りゅうせい》を極めた王国である。  しかし王国は滅んだ。その跡地は不毛の砂漠となり、今や見る影も無い。  王国滅亡の直接的な理由は、悪の種族の攻撃によるものだが、歴史書によれば自らの愚かさと身内同士の敵意が滅亡を招いたと言える。悪の種族はそれに付け込んだのだ。  ローゼンディアの歴史書ではナーラキア王国衰亡史を特に精《くわ》しく取り扱っており、アイオナもまた、ナーラキア王国についてはよく知っている。  しかしその言語となると別である。なんと言っても遥か古代の言語なのだ。ローゼンディアでも貴族階級か、または神官でもない限りは、古典ナーラキア語を話せる者はそうはいない。  そしてアイオナはその数少ない一人であった。ヒスメネスもである。  ダーシュの言葉で、ザハトの顔から笑みが消えた。 「奴らにもう用は無い。|砂漠の宝石《アンケヌ》は奴らには渡さぬ」  驚いたことに、ザハトもまた古典ナーラキア語で答えた。  その立居振舞《たちいふるまい》、雰囲気からも窺《うかが》えることだが、ダーシュもザハトも、その出自は賤《いや》しからぬものに違いない。  ともあれ話の内容は不穏である。わざわざ古典ナーラキア語で話しているということは、他人には聞かせたくない話であるということでもある。  アイオナは、ザハトの背後に控える二人の傭兵をちらりと見た。布で覆われた顔は目だけを覗かせているが、その目が戸惑い気味に少し揺れている。突如耳慣れぬ言葉で話し始めた二人に戸惑っているのだろう。おそらくは理解出来ていない。  ヒスメネスを見てみると、こちらは相変わらず何を考えているのやら判らぬ顔をしている。当然二人の会話は理解出来ているだろうに。  アイオナ自身はというと、素知らぬ顔をしていればよいのだが、そんな芸当が出来ているとは我ながら思えなかった。どうしたところで顔に出てしまう質《たち》なのだ。  しかしザハトからしてみれば、自分はダーシュのおまけに過ぎない。屈辱的な事実ではあるが、今はそれが助かる。アイオナが二人の会話を理解出来たところで意に介されることは無いだろう。  と、思っていたのだが―― 「ダーシュの妻よ」  どきりとした。  突如ザハトが話しかけてきた。イデラ語である。  アイオナは戸惑いつつも睥《にら》みを効かせた。ザハトは見定めるような目でこちらを見ている。 「どうしてダーシュと結婚する気になった?」  またまたどきりとした。  偽装結婚を疑われているのだろうか?  しかし妥当《だとう》な疑問ではある。ローゼンディアの女が外国人と結婚するのは、非常に稀《まれ》なことなのだ。その理由の大部分は、ローゼンディアでは男女は平等に扱われるが、諸外国ではそうではないというところにある。  ともあれ妙なことは言えないと思うと緊張した。 「どうしてって……す……」  言いかけた自分の言葉に気付いて、アイオナは顔を赧《あから》めた。 「す?」  ザハトが聞き返す。 「す……」  なんでもないはずのその一言が、恥ずかしい。ダーシュにもヒスメネスにも注目されていると思うと、ひどく恥ずかしい。さらりと言ってしまえばよかったのに、どうしてまた口籠《くちごも》ってしまったのか。  胸を高鳴らせながら硬直していると、横合いからいきなり抱き寄せられた。ダーシュである。アイオナは更《さら》に顔を赧めた。 「もう充分だろう? 我が妻は恥ずかしがりなのでな」  ザハトは笑みを浮かべた。 「随分《ずいぶん》と愛されているようだな」  ――愛!?  アイオナは目を剥《む》いた。聞き捨てならぬ言葉であった。強く否定したいところではあったが、ぐっと堪《こら》えた。 「結納は豪華なものでなければならない。城の宝物庫を開けさせよう」  と言うと、ザハトは立ち上がった。 「また来る」  ザハトを見送った後、アイオナはダーシュに詰め寄った。 「それで、これからどうなるの? どうするの? あなた、いったい何者なの?」  アイオナは混乱していた。続けざまにいろんなことがありすぎた。盗賊の襲撃、アンケヌ陥落、そこに来てダーシュが盗賊の仲間だの、ダーシュの従兄弟《いとこ》がやってくるだの、古典ナーラキア語で会話をするだの、何がなんだか解らない。  自分が今立っているところは、一体どんなところなのか。安全なところなのか、危険なところなのか。それが判らないと不安で堪《たま》らない。  契約では、ダーシュがアイオナの身を護ってくれることになっている。ダーシュを信用していないわけではないが、だからといって、何も考えずにただ従順に護られているというのは落ち着かない。アウラシールの男ならば大人しくしていろと言うだけだろうし、アウラシールの女ならば何も言わずに従うのだろうが、自分はローゼンディア人なのだ。  ダーシュは面倒臭そうにアイオナを見た。 「取り敢えずは、ここで大人しくしている外無いな」  それだけ言うと、自室の方へ足を向けた。これ以上話す気は無いといった様子である。  アイオナは追いかけた。 「重要なことに答えていないわ」 「そうか? 重要なことは特に無いと思うが」  歩きながら答える。  あくまで呆《とぼ》つもりらしい。 「あなたが何者かってことよ」  別段、興味本位で穿鑿《せんさく》しているわけではない。アンケヌ襲撃団の間で、アンケヌをめぐる争いが生じるかも知れぬという状況なのだ。契約者たるダーシュの立ち位置を知っておくことは重要だ。  ダーシュは鼻を鳴らした。 「何者でも無いさ」  どこか自嘲気味である。 「何者でも無い人が、古典ナーラキア語を話せるはずがないわ」 「ほう。やはり解っていたか。お前だけでなく、ヒスメネスも理解出来るんだろう? 貴族や神官でもないお前たちでも修得しているんだ。俺とザハトが修得していても奇妙《おか》しくはないと思わないか?」 「屁理窟《へりくつ》だわ。そんな態度って、ないんじゃないかしら? わたし、あなたの契約者なのよ?」 「ならば俺を信用して欲しい。俺はお前に損はさせないと言ったはずだ」 「信用はしてるわ。でも……」 「――で、どこまで跟《つ》いてくるつもりなんだ?」  と、言われて気がつけば、アイオナはダーシュの部屋の中にまで入っていた。沈みかけの日の光がうっすらと射し込む、暗い部屋である。  ダーシュは寝台に腰掛け、人の悪い笑みを浮かべた。 「添臥《そいぶし》でもしてくれるのか? 妻よ」  アイオナは顔を赧《あから》めた。羞恥と怒りでだ。 「誤魔化《ごまか》さないで!」  ダーシュは真面目な顔でアイオナを見つめた。 「悪いが今はまだ話せない。俺と、そしてお前の生命《いのち》に関わることだ」  アイオナは目を見開いた。 「口止めすればお前は言わないだろう。それは判っている。そこまでは信用している。――が、無意識であれ、お前は顔に出る質《たち》だ」  アイオナは言葉に詰まった。ダーシュの言う通りである。そればかりは、自覚していてもどうにもならないところなのだ。  口を尖らせつつ、小さく溜息を吐いた。 「……解ったわ」 「とにかく大人しくしてろ」  その言い方にむっとしたが、アイオナは何も言わずにダーシュの部屋を出た。 [#改頁] 第九章  面会人が来ているという。  大方《おおかた》、便宜《べんぎ》を図って欲しい商人が泣きを入れてきたのかと思ったが、違うようだ。 「花婿のことで話があると申しております」  兵は無表情にそう告げた。軽く一礼をすると去ってゆく。ザハトはそれを好ましい態度だと思った。盗賊どもではこうはいかぬ。  ゴーサの傭兵たちは優秀だ。なにしろ百年からの歴史がある。軍規の維持と、確固たる目的を定め、それを貫徹するべく力を尽くすことが軍団の強力さを支えることを知っている。  軍団は先のアンケヌ攻略戦でも目覚ましい働きを見せてくれた。掠奪《りゃくだつ》は二刻以内、強姦は禁止という取り決めも厳しく守られたようだ。  それに比べて盗賊どもと来たら……未だに民家に押し入っている者があると聞く。  ハダクは庇《かば》い立てをしているがまあいい。いずれ近い内に皆殺しにしてやろう。  馬鹿どもが悪業を重ねれば、それだけこちらには都合がよい面もある。住民は解放者を望むものだからだ。  ゴーサ歴代の将はすべて、実力でその立場を勝ち取ってきた者たちである。徹底した能力主義が採用されており、九人居る副将すべての賛同がなければ、将として立つことは出来ない。  現在の将はフブルヤギ。その強力な統率力で知られる名将である。  アンケヌ攻略を受け持ったのは副将の一人、ギドゥである。  彼はフブルヤギの甥《おい》にあたる。背が高く、顴骨《かんこつ》高く、頭蓋骨《ずがいこつ》に張り付くような肉の薄い頭部と、濃い口髭《くちひげ》が印象的な男である。  すらりとした体型ながら戦士としての力量は確かで、その点彼の伯父には似ていないと言える。  フブルヤギは自らの武力ではなく、自軍を勝利に導くことでもって指導者になった男である。彼の旗の下には常に勝利と栄光があるのだ。  これは極めて重要な点だが――ゴーサには報酬を支払った方がいい。そうすれば何の問題もなく彼らを排除することが出来る。  現状の問題は、ゴーサに支払うだけの富が無いということだ。  尤《もっと》もこれは最初から無かったのであるが……もしゴーサに報酬を支払えば、この己の取り分が大きく減ってしまう。  利益は欲しいが損失は御免だという、都合の良い理窟にザハトも与しているわけであった。 「お初にお目にかかります。私はローゼンディア人の商人でヒスメネスと申す者です。王にはご機嫌およろしゅう」  先日ダーシュの様子を見に行った折に同席していたローゼンディア人である。  ――お初に、王に、か……。  ヒスメネスの背後にはゴーサの兵が立っている。それを意識しての発言だろうが、ゴーサの兵は口が堅い。余計なことは言わぬ。  とはいえこの男の用心深さは気に入った。今回が初めての会見[#「初めての会見」に傍点]である、そうしておこうというわけだ。  王に、というのは悪くない。悪くない気分だった。 「まずは坐《すわ》れ。ローゼンディア人は椅子《いす》の方が良かったかな?」 「いえ、私はカサントスの出身ですので問題はありません」 「カサントス? 確かナバラ砂漠の北方だったな」 「はい。カプリアの東でございます」 「おお、あの豊かなるカプリアの隣か。聞くところによれば岩と山羊《やぎ》しかおらぬ地域だそうだな」  ヒスメネスは微《かす》かな苦笑を浮かべた。 「はい。貧しい土地でございます」 「貧しさならこのナバラ砂漠も変わらぬ。尤《もっと》もこのアンケヌを除いてのことだがな」 「仰《おっしゃ》る通りでございます。まさしくこのアンケヌは砂漠の宝石。私ども商人もそれゆえにこそ、遥々《はるばる》商をしにやって参りますもので」  二人は向き合って坐った。戸口、と言っても扉は無いが、その左右には矛槍《ほこやり》を持ったゴーサの兵が二人立っている。ザハトの席は片方の兵の半身が見える位置だった。 「それで今日は何の用だ」 「申し上げましたように花婿のことでお話がございます」 「花婿?」  ザハトは敢えて聞き返した。大げさに驚いた顔までしてみせた。 「ええ。花婿のことでございます」  何でもないようにヒスメネスは頷いた。ダーシュの名前を出さない。やはり用心深い。 「その花婿がどうしたのかな?」 「はい。実は少々困っておりまして……」  ヒスメネスの話はある面予想通りであり、またある面では予想を超える内容であった。  ダーシュが如何《いか》にしてあの屋敷に入り込み、あの女と夫婦になったかを、ヒスメネスは事細かに話してくれた。また王宮に請願に出た話もしてくれた。  先王が、あの男が許可を出さなかったこと、のらりくらりと逃げようとしたことは察しがつく。何を考えていたかは簡単に判ることだった。  しかしあの簒奪者も今や冥界に住まう身だ。今となっては奴のことなどどうでも良いことではあった。  いや、良くはない。正すべきは正し後世に真実を伝えなければならぬ。  あの簒奪者を王と呼ぶことなど決して堪《た》えられることではない。王統譜からは抹殺してくれる。 「このまま彼を夫として迎えて良いものかどうか、私《わたくし》どもは困り果てておるのでございます」 「で、私にどうして欲しいのだ?」  単刀直入に尋ねた。つまらん遣り取りに明け暮れる気はなかった。この男は頭がいい。迂遠《うえん》な手順は無駄というものであろう。 「私どもは異国の商人でございます。出来るだけ政《まつりごと》には関わりたくはございません。ただ安全に商売が出来ればそれで良いのでございます」 「外国人らしい言種《いいぐさ》だな」  勝手なものだと思った。だがそう言うように仕向けたのは自分である。 「申し訳ございません」 「構《かま》わん」 「しかし……アンケヌはどうなってしまうのでしょうか」 「市中に盗賊が溢《あふ》れ、民心が動揺している、か?」 「失礼致します」  女官の声がかかった。召使いが酒と食事を捧《ささ》げ持って入ってきた。 「昼はまだであろう。済ませていくがいい」 「有り難き幸せに存じます」  召使いたちが去ると、ザハトは酒と食事に手を付け始めた。見ているとザハトが最初の一口を味わってからヒスメネスは手を付けた。アウラシールの作法に通じているというわけだった。 「夫としてどうかと言ったな。女の方はどうなのだ?」  ザハトは話を戻した。 「私の見るところ、それほど嫌がってはいないようです」 「ほう……」  それは意外な話だった。ローゼンディアの女は気が強く、我《が》が強く、女の分際で男にもずけずけとものを言うと聞く。  我々砂漠の男たちと反《そ》りが合うとは思えない。砂漠の男たちは従順な女を好む。  従順で美しく、男に喜びを与える女を好むのだ。なればこそ財を支払って家に置く価値があるというものだ。  不思議なのは女に好きにさせているように見えるローゼンディアの男たちが、腰抜けでもなければ頭が悪いわけでもないということだ。これはまったく理解に苦しむことであるが、おそらく宗教の違いということなのだろう。 「ローゼンディアの女と合うとは思えぬがな」 「私もそう考えていたのですが……」 「仲睦《なかむつ》まじくやっているのか?」  だとすれば少々|厄介《やっかい》な問題を孕《はら》むことになるかも知れない。 「はい。仲が良いと言ってよろしいと思います」 「ほう……それでお前は二人が結婚するのに反対というわけか?」  僅《わず》かではあるがヒスメネスの表情に動きがあった。驚いたのだろうか。  ザハトは弱冠《じゃっかん》の興味を惹《ひ》かれたが、今はそんなことを話している時ではない。  この男もそんな話のために来たわけではない。 「まあいい。お前たちの事情はどうでもいい」  問題なのはこの自分の事情なのだ。 「私の見るところ現状は長くは続かぬ」 「と申されますと?」 「今は二人の王がこの都市に居る、ということだ」  ハダクと、ギドゥのことを言ったつもりだった。 「彼らは王にはなりません」  その言葉に、ザハトはただ凄味《すごみ》のある笑みで意を表した。 「そうか」  ならぬ、と来たか……。  あの二人の意思を知ってるわけでもあるまいに。特にハダクは、もう自分が王になったつもりでいる。愚かな話だ。 「外征の兵は国に帰る者ですし、盗賊が政《まつりごと》を行えるわけはございません」 「それで俺のところに来たというわけだな」 「はい」 「それは俺の側に付く、ということと受け取って良いのだな?」 「私《わたくし》ども商人を護《まも》り、その商を慈《いつく》しんで下さるのは陛下を措《お》いて他にはございません」 「俺はまだ王ではない」  今度は、ヒスメネスが凄味のある笑みで意を表した。 「ですからこそあなた様なのです」  なるほど。そういうわけか。  このザハトが王になるためならば、自分たちが力を貸すということか。  ダーシュを切るということか。いい覚悟だと思った。  いや覚悟ではない。単に無知なだけだ。 「僭越《せんえつ》な申し出ではございますが、私どもは王のお役に立てるのではないかと考えております」 「お前の店はローゼンディア商人の中でも大きなものであったな」  ダーシュの様子を見に行った後、すぐに調べたのだ。メルサリス家はカプリアに本拠を置く大商人であり、アンケヌに支店を持つローゼンディア人の中でも大手の一つだった。 「今のところそう言われておるようでございます」 「更に大きくするか」 「さあ……それは」  ヒスメネスは曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んだ。 「このアンケヌは交易によって栄えてきた都市だ。商人を大切にしない王など、王ではない」 「その通りでございます」 「兵は何も生まず、盗賊は奪うだけだ。商人にとっては王こそが有り難いというわけだな」 「仰《おっしゃ》る通りでございます」 「解った。悪いようにはしない」  ザハトは頷《うなず》いた。この男は味方にしておいて損はない。  この男が自分で言うように、本当に商《あきない》にのみ没頭するのであれば敵対することもおそらくあるまい。 「後で契約の證《あかし》を送らせよう。書記官にも記録させる。誓約の見届け人はそちらで自由に選ぶがいい」 「ありがとう存じまする」  ヒスメネスは深く頭を下げた。 [#改頁] 第十章  市内の様子は良くない。それは少し出歩いただけでも判った。  もちろん護衛を連れている。四人もだ。屋敷の護衛も増やしたかったが、今は護衛は引く手|数多《あまた》であり、とても傭《やと》う気になれないとヒスメネスは言う。 「信用出来ない者を傭うことは出来ませんから」 「でも護衛は必要でしょう?」 「そうとも限りません。他の方法でも構わないでしょう。要は同じ結果を得られれば良いのです」 「何か考えがあるのね」 「はい。お任せ下さいますか?」 「もちろん。あなたに任せておけば間違いはないもの」  即答すると、何故かヒスメネスは微妙な笑みを浮かべた。 「感謝します。必ず店のため、お嬢さんのためになるよう取り計らうことを御約束致します」  ダーシュが居るお蔭《かげ》か、店の方にも屋敷の方にも盗賊が来ることはなかった。 「アンケヌは現在二分されている状態にあります。ゴーサの傭兵団と、もう一方は周辺部族を加えた盗賊団です」 「とすると盗賊はともかく、傭兵と部族の連中は帰るところがあるわけよね?」 「はい。里心が付くのも時間の問題でしょう」  初期の頃ほど頻発しなくなったが、それでもあちこちで問題が起きてはいるようだ。商人でもない、旅行者でもない連中が大挙してアンケヌに押し寄せているのだから当たり前だと言える。 「それで……私は暫《しばら》く出歩くことが多くなると思うのです。その間、店の方をお任せしてよろしいでしょうか?」 「解ったわ。私で力になれることなら」 「お願い致します」  ヒスメネスは店に出なくなった。聞くところによると、他の商人たちとの寄り合いや王宮への陳情などで忙しいという。  かくいうアイオナも忙しい。ヒスメネスが居なくなれば代わりに店を切り回せる人間が必要になる。  これは半ば判っていたことではあるが、ヒスメネスは優秀過ぎるのだ。だから皆が彼に頼り切って自分で考えようとしない。これは店にとっては極めて大きな問題だった。 「あのう……お嬢様――」 「わたしに聞きに来る前に自分で考えたのかしら?」  小鼻を拡げて使用人を睥《にら》みつけるのが最近日課になりつつある。まずい徴候だ。  こんな風に怒ってばかり居ては美容に悪い。精神衛生上、良くもない。  しかし人間精神には、神々により思考するという能力が授《さず》けられている。家庭教師の神官からはそう習ったし、アイオナ自身同じように思う。  その折角の恩寵を用いることもせずに、やれ「お嬢様」「お嬢様」と質問ばかりされてはいい加減嫌気もさそうというものだ。 「凄《すご》いな、ローゼンディアの女は。大した主人振りではないか」  ダーシュの皮肉すら、最近では気分転換になるというのだから、さすがに少し疲れてきたのかも知れない。一人で店を切り回していたヒスメネスの偉大さが、段々とアイオナの中で大きくなってきていた。そのことに些《いささ》かの滑稽さを感じもするのだが。 「あら、ダーシュおはよう。今日は早いのね」 「日が沈んでからが仕事だからな。とはいえ今は朝ではないぞ」 「ごめんなさい。今日あなたの顔を見るのは今が初めてだからよ」  にこやかに言ってやる。 「そうか。俺の顔が見られなくて寂しかったか?」 「それにも謝らなくてはいけないわね。店の方が忙しすぎて、あなたのことなどころっと忘れていたわ」  忘れていた、に強勢を置いた。  ダーシュはまずそうに顔を顰《しか》めた。 「ところで、いつまであなたはそこに立っているつもりなのかしら。店の者が通るのに邪魔になるんだけど」 「これはすまなかった」  苦笑しつつダーシュがその場を動くと、案の定すぐに使用人が首を覗かせてきた。 「お嬢様……」 「塩なら八と二分の一の値段までなら売ってもいいわ。それより下なら他に行くように言いなさい」 「かしこまりました」  ひょいと首が引っ込む。ダーシュが声をあげて笑った。 「いやいや、本当に大したものだ。ローゼンディアの女は夫がなくとも一人で生きていけるというのは本当らしい」 「生きていけるかどうかは本人の問題であって、夫で決まるものじゃないわ」 「そうか。では俺が居なくても問題は無いな?」 「えっ?」  いきなり予想外の言葉を投げかけられてアイオナは固まった。 「少し出かけてくる」  アイオナは訝《いぶか》しんだ。あれほど外に出ることを嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。  ダーシュは外出しようとしないのだ。一日屋敷に居て、書を読んだり剣を振ったりしている。  アンケヌが攻め落とされる前ならばそれも解る。何せ指名手配だったのだから。  しかし今では都市の支配者は彼の味方のはずだ。それなのに一向、ダーシュは外に出ようとはしないのだった。  それが一体、何故、出歩く気になったのだろう? 「どこへ行くの?」 「それは言えない」  半ば予想していた答えではある。気にくわないが、隠し事の出来ぬ自分の質《たち》は辨《わきま》えているので、それ以上追及することは憚《はばか》られた。 「護衛は?」 「不要だ。だが駱駝《らくだ》を一頭借りたい」  アイオナは驚いた。 「あなた一人で行くの?」 「心配してくれるのか?」  冷やかす風なダーシュを、アイオナは睥《にら》んだ。 「そんなの当たり前じゃない。契約があるのよ? 行き先も告げずに勝手に死なれては困るわ」 「案ずるな。今日中には戻る。お前はここで大人しくしていれば問題無い」  お決まりの文句に、アイオナは顔を顰《しか》めた。 「言われなくたってここに居るわよ。店を任されているのだもの」  ダーシュはふっと笑った。 「何よ? 何が可笑《おか》しいの?」 「いや、ローゼンディアの女は口煩《くちうるさ》いが頼もしいものだなと思ってな」  アイオナは口を尖らせた。 「口煩いは余計よ。行くならさっさと行きなさいよ」 「ああ」  と、ダーシュは笑みを浮かべ、アイオナの前から去っていった。    *  指定された場所はアンケヌの外だった。町に入る手前、ガザル族が身繕《みづくろ》いをするために使っている小さな岩山だった。この岩陰に衣服や道具などを隠しておくのだ。  この場所は一部の気の利いた交易商人なども使っているようだが、大概《たいがい》の商人は垢《あか》と埃《ほこり》にまみれて町に入ってくる。  尤《もっと》もそれを責めるつもりは無い。彼らこそがアンケヌ繁栄の源なのだ。  ガザル族はナバラ砂漠を、いやもっと南のゴパル砂漠、イルメヤ地方までを旅して暮らす部族だ。傑《すぐ》れた戦士であり、恐るべき野盗でもある。  彼らが今回のアンケヌ攻めに参加してこなかったのは不思議だったが、アンケヌにとっては運が良かったと言える。  ガザル族の男たちは旅から戻る時、必ず近場の岩陰などで身繕いをする慣わしがある。  元は妻子に見苦しき姿を見せぬためだと言うが、奥ゆかしいことだと思う。男はそうでなくてはならぬ。  月が道を照らしてくれていたが、都市から少し離れただけで、もう城壁の輪郭は怪しくなる。道を知る者でなければ帰り着けないだろう。  目指す岩の背後に大きな月が浮かんでいる。ふと人影が現れた。丸っこい、樽《たる》に手足が付いたような体型だが、器用に岩を伝って降りてくる。 「ダーシュ!」  野太い声が響いた。ハダクだった。 「兵に見つかったと聞いて肝《きも》を冷やしたぞ!」 「何とか逃げ延びたさ」  駱駝《らくだ》から降りて歩み寄った。抱擁《ほうよう》を交わした。強《こわ》い鬚《ひげ》が頬を撫《な》でる感触と、砂の香りがした。 「お前に会いたかった。何故城の方へ来ない?」 「いろいろあってな。そちらはどうなんだ?」 「ゴーサの連中が鬱陶《うっとう》しくてかなわん!」  予想通りの返答だった。 「なあ城へ来いよ。もうお前を追い回す連中はいねえんだ。宝も女も全部俺たちのもんだぜ」  俺たちの、か。ハダクらしいと思った。  自分に好意を持ってくれているのは間違いないのだが、このようにそれは欲と連れ合いだ。付き合いが難しいところである。 「町へ戻ろう。酒と女を用意してある」  ならば最初から町で落ち会えばいいのだが、わざわざこういう場所を選んでくる辺り、現在の情勢を感じさせる。  ハダクが肩に手を回してきた。肉の硬い、太い腕だ。 「酒は有り難いが女はいい。妻がいるんでな」 「そうか! お前結婚したんだったな!」 「ああ」 「新妻に回すだけの力は取っておきてえんだな。解った解った。女は俺に任せろ!」  任せるも何も用意したのはそちらだろうと思った。 「すまんな」 「気にするな。そんなことよりお前に聞いて欲しい話が山ほどあるんだ」  ハダクが何を言いたいか。大方の予想はついているが、やはり実際に話を聞かねばならない。そのためにこそ呼び出しに応じたわけだった。 「ああ。話を聞かせてもらおう」  ダーシュは頷いた。    * 「ケザシュ」  ザハトはテラスに立って呼びかけた。いつものように外に向かい、夜に向かってささやくように名を呼んだ。  すぐに背後に気配を感じた。振り返ると一人のアウラシール人が立っていた。  男である。が年齢はよく判らない。浅黒い肌をしており、その顔立ちにはアウラシールでも南方人の特徴が現れている。体格は雄偉《ゆうい》とは言い難《がた》かったが、それでも不気味な凄味《すごみ》を感じさせるのは、異様なまでに鋭い眼光のためであろうか。頬は少し痩《こ》けていた。  黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布《ずきん》を巻いているが、腰帯に剣は差していない。無腰であった。 「俺を呼んだな」  陰気な声であった。 「お前に頼みたいことがある」  ザハトは嬉しげに両手を拡げ、ケザシュに歩み寄った。 [#改頁] 第十一章  ダーシュが帰ってきたのは夜遅くだった。隠れるように帰ってきたわけではないが、それでも物音を立てないようにしているのが判った。もう屋敷の者たちは寝静まっているからだ。 「おかえりなさい。遅かったわね」  ダーシュが部屋の前を通ろうとした時、アイオナは姿を見せて声をかけた。 「まだ起きていたのか?」 「ええ。さっきまで仕事をしていたの」  本当だった。ただ、床に入ってからも寝つけなかったわけだが。  ダーシュは少し酒臭かった。 「食事は外で済ませてきたの?」 「ああ」 「じゃあ後は寝《やす》むだけね。おやすみなさい」  言った直後、酒の臭いに混じって脂粉《しふん》の香りが漂ってきた。ダーシュからである。  アイオナは衝撃と共に事情を悟った。  ……なるほど、行き先が言えないわけだ。女を買いに行ったのか、恋人に逢いに行ったのかは判らねど、いずれにせよ女に逢《あ》いに行くとはさすがに言いにくいだろう。  アイオナは哂《わら》いたくなった。  てっきり自分たちの今後に関することで何かをしに行ったのだと思っていた。なればこそ深く追求もしなかった。なんと愚かしい思い込みであったことか。勘違いも甚《はなは》だしい。  ともあれ所詮は仮初《かりそ》めの夫婦である。本当の夫婦ではないのだから、ダーシュが自分以外の女に逢いに行っても問題は無いはずである。いや、夫婦間以外の性交渉が許されていないローゼンディアとは違い、アウラシールならば本当の夫婦であっても問題は無かろうが。  しかし、そうは思えど気分は良くない。なんだか裏切られたような感じがする。ダーシュは契約違反をしたわけではないのだから、そう感じるのは自分の勝手なのだけれど。 「おい、何を考えている?」  ダーシュが訝《いぶか》しげに声をかけてきた。また顔に出てしまっていたのだろうか。アイオナは羞恥を感じて顔を背《そむ》けた。 「……別に」  不機嫌な声が出てしまった。 「疲れてるんでしょ? さっさと寝たら?」  ダーシュは不思議そうにアイオナを見、それから何かに思い当たったように苦笑した。 「ふん、そうか。嫉妬か」  アイオナは顔を赧《あから》め、ダーシュを睥《にら》んだ。 「なんでわたしが嫉妬しなくてはならないのよ!」 「安心しろ。お前の勘違いだ。女に逢いに行ったわけじゃない」 「誤魔化《ごまか》すことはないわ。あなた、女臭いもの」  言われてダーシュは自分の匂いを嗅《か》ぎ、舌打ちした。 「女は居たが何もしてない」 「なんで?」  その後に続く言葉は、「嘘を吐《つ》くの?」でも、「何もしなかったの?」でも、どちらでもよかった。 「別にわたしに義理立てることはないわよ。仮初めの結婚なんだし、それ自体今や意味の無いものでしょ?」  アンケヌの兵から逃れるために結婚したのだ。アンケヌが盗賊の手に渡った今となっては、逃げ隠れする必要は無くなった。つまりは結婚している必要も無くなったはずである。  ダーシュは苦笑した。 「義理立ててるわけじゃないさ。単に気乗りしなかっただけだ」 「あ、そう……」  落胆混じりの羞恥を感じて、アイオナは俯《うつむ》いた。これでは自意識過剰ではないか。  ダーシュは笑った。 「期待に添えなくてすまんな。なんなら期待に応えてやってもよいぞ」  と、アイオナの髪に触れてきた。  その瞬間、怒りが噴き出した。アイオナはダーシュの手を乱暴に払い退《の》けた。 「余計なお世話よ!」  その剣幕《けんまく》にダーシュは驚いたように手を引いた。揶揄《からか》うような笑みも姿を消している。  アイオナは更《さら》にひと睥《にら》みを加え、自室に戻った。  後ろ手に扉を閉めると嫌な気持ちが胸を上がってきた。  最近、このような状態で部屋に戻ることが多いと思った。不愉快と言うよりも遣る瀬無い気持ちになる。  翌朝になっても気分は霽《は》れなかった。自分に怒る権利が無いことは解っているのだが、腹が立って仕方がない。誰の顔も見たくなかったので、部屋で朝食を摂ろうと思い鈴を鳴らしたが、誰もやって来ない。  こういう時に限って思うように事が運ばない。  アイオナは膝を抱えるようにして寝台に坐《すわ》り、じっと目を閉じた。  気持ちを振り回しては駄目だ。これは自分とダーシュの問題だ。屋敷の者たちは関係……なくはないけれど、このことには無関係だ。  自分を言い聞かせようとしていると、不意に部屋の扉が敲《たた》かれた。驚いた。 「誰?」 「俺だ」  なんとダーシュの声だった。しかも勝手に扉を開けて入ってくる。 「勝手に入ってこないで」 「夫が妻の顔を見るのに遠慮する道理は無い」 「出て行って」  大きな声は出なかったが、はっきりとした拒絶を込めて言った。 「鈴を鳴らしたのはお前だろう? 召使いが誰も行かないようだから、俺が代わりに来てやったというのにその言種《いいぐさ》はなんだ」  非難するようなダーシュの声を聞いていると無性に悲しくなってきた。  何故このような目に遭わなければならないのだろう。神罰が下るようなことをした憶えは無いのだが。それとも妖精が悪戯《いたずら》をしているのだろうか。 「おい……泣いているのか?」 「出て行って」  ところがダーシュは出て行かない。逆に近づいてきて、事もあろうに隣に坐った。アイオナは目を剥《む》いた。殴りつけてやろうと思って手を振り上げた。 「すまん」  アウラシールの男とも思えない言葉が出た。アイオナは手を止めた。 「もっと……あなたには良い結果を生むと思ったのだが、私の考えが足りなかったようだ。赦《ゆる》して欲しい」  ダーシュは静かな顔で、壁に掛けられた綴《つづ》れ織りを見ながら語りかけてくる。 「私はあなたの身命《しんめい》を護ると契約をした。それゆえにまだここを離れられぬのだ。状況は私が予想していたようには動いていない。この先、更なる混乱が起こる公算が高い。その時に私はあなたの傍《そば》に居なければならぬ」 「……」 「昨夜は無礼を働いた。異国の人間であるあなたに対して取るべき態度ではなかった。どうか赦《ゆる》して欲しい」  綺麗なイデラ語である。市井《しせい》の人間が使う言葉ではない。 「私が屋敷を離れれば、この家の者たちは皆殺しにされるやも知れぬ」  アイオナは息を呑んだ。 「ヒスメネスが動き回っているようだが、それがどう出るかは判らぬ。いずれにしろ私とあなたが結婚したことを、良く思わない者が居ることは確かだ」  その者にダーシュは心当たりがあるようだったが、問い質《ただ》せる雰囲気ではなかった。 「昨夜はハダクに会っていた。酒と女は奴が用意したものだ。ハダクは……ギドゥを殺すつもりらしい」  ハダクというのは盗賊団の首魁《しゅかい》である。そんな人物に会っていたというのか。  ギドゥは……たしかゴーサの傭兵団の頭目。すると……!  この先起こることを想像してアイオナは慄然《りつぜん》とした。  町は戦場になるかも知れない。今度こそ本当に。  それは先日征服された時のような、大人しいものではないだろう。 「約束しよう。何があってもあなたの身を護ると。ただし私の力ではあなた一人護るのが精一杯であるかも知れぬ。その時はやはり赦して欲しい」  ダーシュは言葉を切り、少し間を開けてから含み笑いをした。言葉がローゼンディア語になった。 「赦しを請うてばかりだな。情けない話だ。お前にとって必ず得になると約束したのにな……」 「あの時はそう思ったのでしょう?」  アイオナは呟《つぶや》いた。ダーシュが顔を向けた。 「読みが外れることはあることよ。よく調べて、よく考えて採った行動なら、それはあなたの所為《せい》じゃない」 「では誰の責任だ?」  アイオナは少し考えた。 「たぶん、すべてはヘキナンサの思し召しよ。商人にはそれぞれ事情というものがあるのよ。全員の利益になるようには、事が動くはずもないわ」  ヘキナンサはヴァリア教の商業神である。道行く者を、商《あきない》をする者を護りたもう。  アイオナはじっとダーシュを見つめた。ダーシュも目を外《そ》らさなかった。  ふっとダーシュの目が笑った。 「たぶん、か」 「ええ。たぶん」  アイオナも微笑《ほほえ》んだ。不思議と優しい気持ちになった。先程までの嫌な気分が消えていくのを感じた。  だがこれは聞いておかねばならない。 「……町を棄《す》てるの?」  ささやくように尋ねると、ダーシュの顔が硬張《こわば》った。真剣な顔付きになった。 「そういうことも起こりうる」 「そう」  アイオナは目を閉じた。  店の者たちを、屋敷に仕えた者たちを置いていかねばならないのか……それはとても辛《つら》い選択だったが、世の中、綺麗事《きれいごと》を言っていられないのは解っている。  都市内で戦いが始まればどうしようもない。 「ヒスメネスに期待するしかないな」  アイオナは答えなかった。ダーシュは立ち上がり、扉の方へ歩いていった。 「何か食べるものを持ってこよう。何がいい?」 「蜂蜜《はちみつ》と香草茶《こうそうちゃ》、それと何か野菜が欲しいわ」 「解った」  微《かす》かに頬を上げ微笑むと、ダーシュは部屋を出て行った。  朝食を摂っている間も、誰ひとり部屋には来なかった。おかしい。これは明らかに変である。 「今日は随分と静かだな」  ダーシュも異常を感じているようであった。 「ええ。怪訝《おか》しいわね」  さすがに不審を感じた。 「様子を見てこよう」  ダーシュが出て行き、アイオナはひとりになった。  すぐに戻ると思っていたのにダーシュは戻ってこない。  不安を感じ始めた頃、漸《ようや》くダーシュが戻ってきた。 「ハダクが殺された」  心なしか顔色が悪かった。  事件が起こったのは宮殿の中だという。ゴーサの傭兵団が突然に牙を剥《む》いたのだ。  ハダクとその側近は皆殺しになったという。  市民が話を聞きつけた時には、もうすでにかなりの数の盗賊たちが町を逃げ去っていた。  さすがに情勢を見る能力は優《すぐ》れている。部族兵たちはまだ都市内に留まり、普段通りにしていた。  そしてそれが命取りになった。 「町の各所でゴーサの傭兵たちと戦闘になっているらしい」  所詮は部族兵である。普段は遊牧などをして暮らしている連中だ。毎日殺し合いが日常の傭兵とでは勝負にならない。 「実際には一方的な虐殺だろう」 「遺《のこ》された家族は堪《たま》らないわね……」 「奴らだって市民を殺したり、掠奪《りゃくだつ》をしている。お互い様というわけさ」  ダーシュの言葉は淡々としたものだった。  ヒスメネスは例によって朝から出かけている。大丈夫だろうか? 「一応護衛を連れて行ったようだしな。奴自身腕は確かだ。自分から危険に近づくとも思えないから、まあ大丈夫だろう」 「……これからどうなるの?」 「判らん」  ダーシュは首を振った。 「どちらにしろ、俺はこの屋敷を出て行った方がいいだろう」  その言葉にアイオナはぎくりとした。胸が騒《ざわ》めくのを感じた。 「ともかくもう暫くは静観だ。この次に何が起こるか。それですべては決まる」 「もしあなたが出て行くのなら、最初の約束は果たしてもらえなくなるわね」  その背中を引き止めるようにアイオナは声をかけた。ダーシュが振り向いた。 「絶対にわたしに損はさせないって言ったじゃないの。あれが嘘になってしまうわ」  出来るだけ冗談に聞こえるように明るく言った。通じたのだろう、ダーシュは困ったような優しい顔をした。 「そうだな。すまないと思う。俺は生命《いのち》を助けられたのにな」 「そうよ。忘れては駄目よ」 「だから俺もお前の生命《いのち》を護らなければならん。今後の動きによっては、俺はこの屋敷を出て行く」 「そう」  アイオナは硬い表情で頷いた。  第二の変化が起こったのは夕方だった。今度はギドゥが殺されたのだ。 「いったい誰が……」  彼は敵対者を始末したはずだ。アイオナには解らなかった。  報を持ってきたのはエニルだった。身振り手振りを交《まじ》えて、自分が聞いてきた話を語った。 「やったのは若いアウラシール人の戦士だそうですよ。かなりの手練《てだ》れのようで、他にもゴーサの傭兵が二人切り殺されたそうです」  ヒスメネスは相変わらず帰ってこない。帰宅は夜遅くになるだろう。  ダーシュはと言うと、布で顔を覆って出かけている。情報を集めるためだそうだが、今まで極端に外出をしたがらなかったことから考えると、それだけ重大な事態に至っているということなのだろう。  自分だけが屋敷の中で、普段と変わらぬ暮らしをしているのがなんだか恥ずかしかった。 「それでその戦士はどうしたの?」 「逃げ延びたようです。見事《みごと》なものですな」 「市民の評判は良いでしょうね」 「ところがそうでもないんです。どうやらその男、元々連中の一味《いちみ》だったらしい。つまり仲間割れというわけですな」  その言葉がアイオナの耳に引っ掛かった。ダーシュの親戚だという、あのアウラシール人のことが思い出された。  彼はハダクやギドゥの仲間だったはずだ。事実護衛としてゴーサの傭兵を連れていた。  となると……彼がその戦士だろうか? 「お嬢様。どう致しました?」 「いえ、なんでもないの。気にしないで」  エニルは不思議そうな顔をしていたが、それ以上聞いてはこず、話が終わると仕事に戻っていった。  ダーシュが戻ったのはそれからすぐのことだった。 「やられた」  一言、言った。今までに見たことが無いほど真剣な、いや追いつめられた顔だった。 [#改頁] 第十二章 「ギドゥを殺したのは俺だということになっているらしい」 「ということは殺してないのね?」  ダーシュは心外そうな顔をした。 「当然だ。殺す理由が無い」 「ではどうして?」 「おそらくザハトだろう」 「あなたの親戚だというあの人が? いったいどうして?」 「いろいろあるのさ」  ダーシュは皮肉げに口許《くちもと》を歪《ゆが》めた。 「とにかく今はそんなことを話している余裕は無い。お前にはどうするか決めてもらわねばならん」 「どうするか、とは?」  アイオナは緊張した。 「俺と来るか、それとも屋敷に留まるかだ」  予想していた問いかけではあったが、はっきり言われると重かった。身体《からだ》が縮こまるように感じた。 「どちらにしても危険であることに変わりはない。ここに居ればザハトが殺しに来るかも知れんし、俺と来ても安全の保證《ほしょう》は無い。最悪の事態になった」 「なぜわたしの生命《いのち》が狙われなければならないの?」  その質問にダーシュは渋い顔をした。言いたくなさそうな感じだったが、ぼそりと答えた。 「俺と結婚したからだ。おそらくザハトは勘違いしている」  アイオナは少し考えた。言葉の意味を理解すると、腹が立ってきた。 「冗談じゃないわ」  ダーシュの生命《いのち》を助けるために結婚したというのに、それがために自分の生命《いのち》までもが脅《おびや》かされるだなんて!  アイオナはダーシュをじっと睥《にら》んだ。 「嘘吐《うそつ》き」  ダーシュは苦い顔をした。 「どういうこと? 話が違うじゃないの。絶対損はさせないって言ったじゃない!」 「すまない。よもやこんなことになるとはな」  ダーシュは真剣な眼差しでアイオナを見つめた。 「だがこれだけは信じてくれ。これから先の状況がどうなろうと、お前を護るという約束を反故《ほご》にするつもりは一毫《いちごう》たりとも無い」  力の籠《こ》もった言葉である。その言葉、その眼光の強さに、アイオナは魅了されたように固まった。胸だけがどきどきしていた。  ダーシュは僅《わず》かに哂《わら》った。 「反故にはしない、と断言出来ぬのが情けぬところだが……俺の力が及ばぬことはあり得る。アルシャンキの思し召しは、定命《じょうみょう》の人の身には計り知れぬものであるしな。だから、どうするかはお前が決めるのがよかろう」  アイオナは小さく溜息《ためいき》を吐いた。  降って湧いたような事態に驚いて、思わず文句を言ってしまったが、こうなってしまったのはダーシュの所為ではない。ダーシュは誠心誠意で自分に接してくれている。それは承知しているはずだった。今朝、すべてはヘキナンサの思し召しだと言ったのは、他ならぬ自分ではないか。それなのにダーシュに向かって怒りをぶつけるとは、なんと無様《ぶざま》なことだろう。 「……ごめんなさい。嘘吐き呼ばわりなんかして。あなたはよくしてくれてるのに」  気持ちを改めて、アイオナはダーシュを見つめた。 「わたし、あなたに従《つ》いていくわ」  その義務は無いものの、ダーシュの誠意には応えたいと思った。使用人たちのことが心配ではあったが、そちらはヒスメネスがなんとかしてくれるに違いない。  ダーシュは僅かに目を見開いた。アイオナはなんだか照れ臭くなった。 「……だって、あなたの所為だもの。責任取ってわたしを護ってくれないと困るわ」  ダーシュは微笑んだ。 「そうだな」 「それで、いつここを出るの?」 「今だ。すぐに用意をしろ」  アイオナは驚いたが、黙って頷いた。ダーシュを部屋から出すとすぐに準備を始めた。  持って行ける物は限られている。着た切り雀《すずめ》は覚悟の上だ。水と食べ物、後は途中の物物交換で役立つ砂金や宝石ぐらいしか持っては行けない。  駱駝《らくだ》の苦労を考えなくては。これらの荷物に加えて自分が乗るのだ。もしも欲張り過ぎれば砂漠の真ん中で後悔することになるだろう。駱駝は突然に死ぬ。馬とは違う。  荷物を纏《まと》め、紐《ひも》で括《くく》り終えた頃、ダーシュが部屋にやって来た。 「手伝おう」  とダーシュは言って、驚いたように固まった。 「お前……」 「この恰好《かっこう》?」  アイオナはローゼンディア風の貫頭衣《かんとうい》から、アウラシール風の、体を覆い尽くすような衣服に着替えていた。 「召使いの物をちょっと拝借してきたんだけど、いいわよね? 今は非常時なんだし。無事に事が済んだら、彼女に事情を話すわ」 「ああ。その方が目立たないでいい。それで荷物の方は?」 「もうすぐ纏め終わるわ」 「一人で出来たのか?」 「こう見えても交易商人の娘よ。荷物を纏めるくらい一人で出来るわ」  ダーシュは驚いたような顔をしている。おそらく今まで、自分のことはただのお嬢さんだと思っていたのだろう。  心外だ。このアイオナ、やがては家業を継ぐ身である。  幼い頃から厳しく仕込まれている。ちなみにヒスメネスも、ある時期机を並べて講義を共に受けていた。その頃から父が目を懸けていたということだ。  その判断は正しかった。ヒスメネスは今、父の右腕として働いてくれている。 「水はどのくらい持って行けるかしら?」  言葉にすればそれだけだったが、これにはどこを目指すのか? どの経路を想定しているのか? そしてこの言葉の意味を、ダーシュがきちんと理解出来ているかどうかの試しの意味がある。  ダーシュは暫《しば》し考えた。 「……そうだな。最低限でいい。更に要り用な分は途中で手に入れた方がいいだろう」 「当てがあるのね?」 「ああ。途中でオアシスに寄る」 「目的地は?」 「ダルメキアを目指そうと思う。ディブロスの町だ」  ディブロスはローゼンディア人の植民都市である。ミスタリア海沿岸にある都市で、長い歴史を持っている。 「そこならお前の身を護るのも容易《たやす》くなるだろう」 「問題はそこに行くまでということね」 「ああ、だが俺が考えていたよりも楽になりそうだ」 「旅の前からそんなことを言うもんじゃないわ」 「いや……」  ダーシュは軽く首を振った。 「お前は賢い。不要な手間がかかることは無いだろう」  それは自然な言い方だったので、最初アイオナは誉められているとは感じられなかった。  言葉の意味が解ってくると、誇らしさと同時に恥ずかしさを持った。 「誉めても何も出ないわよ」  自分でも、どうしようもない返事だと思った。もっと情緒のある言葉を返すべきだった。  折角《せっかく》、ダーシュが誉めてくれたのだから。 「おおアルシャンキよ。我が妻の舌に慈悲の力を与えたまえ」  しかし憎たらしい返事にも拘《かかわ》らず、ダーシュは笑っていた。 「駱駝《らくだ》はどうするの?」  屋敷の駱駝を連れて行ったら、後でヒスメネスが困るかも知れない。 「今はこの屋敷に駱駝はいない」 「え?」  いつも二頭ばかりは厩舎《きゅうしゃ》に繋《つな》いであるのだが。 「どうしたのかしら?」 「今朝になってヒスメネスが連れて行ったそうだ」 「なんでかしら?」 「そうだな……」  ダーシュは何か思うところがある様子だったが、何も言わなかった。  旅支度《たびじだく》を整えて外に出た。すると護衛たちが歩み寄ってきた。屋敷の前庭を警護していた三人だった。 「ご苦労さま。あなたたちのお蔭《かげ》で助かるわ」 「お嬢様?」  日はすでに落ちていたが、アイオナは目深《まぶか》に布を被《かぶ》っていたため、護衛の男たちには判らなかったようだ。 「悪いけれど退《ど》いてくれるかしら」  アイオナの言葉に、男たちは困ったように顔を見合わせあった。 「それは……お嬢さんお一人ならいいんですが……」 「ふん。やはりな」  ダーシュが短く吐き捨てた。アイオナはどきりとした。どういう意味だろうか。 「大方《おおかた》こいつらは、俺をこの屋敷から出さぬようヒスメネスから命じられておるのだろうさ」 「なんですって」 「薄々《うすうす》感じてはいたがな。奴はザハトと手を組んだということだ」  ダーシュの手がそろりと腰に動いた。剣を抜くつもりだ。アイオナは総毛《そうけ》立った。  反射的に手を伸ばし、ダーシュの右手首を掴《つか》んだ。こんなところで戦われては堪《たま》らない。  しかも相手は店の、屋敷の傭兵ではないか。敵ではないのだ。 「ダーシュ。ここはわたしに任せて」  有無を言わせぬ口調でささやくと、アイオナは護衛たちに向き直った。 「あなたたち、ヒスメネスから命じられているのね」  ダーシュを外に出さないようにと。  となると少し不思議だ。ダーシュは情報を集めに町に出ている。どうやって屋敷を出ていたのだろう? アイオナはダーシュに振り返った。 「ダーシュ、あなた一度も正門を通っていないわね?」 「この屋敷は広いからな。五人で見廻っていても穴はあるさ」  呆《あき》れた。何故そのことを自分に打ち明けなかったのだろう。腹が立ったが今はそれどころでない。アイオナは再び護衛たちの方を向いた。  さて、なんと言って説得したものだろう。出来るだけ高圧的な態度は避《さ》けたい。道理で解らせるのが最も良い。常々《つねづね》父もそう言っている。 「……あなたたちの雇い主は誰かしら?」  優しく問いかけた。護衛たちはお互いを見合わせてから、 「ヒスメネス様です」  と答えた。少しがっくりきたが、予想の内の答えでもあった。 「そのヒスメネスを雇っているのはわたしの父なのよ。そのことはご存じ?」 「はあ……」 「つまりあなたたちの雇い主は我が父ファナウス・メルサリスなのよ。だからあなたがたは父の命令にこそ従うべきであって、ヒスメネスの命令はそれに次ぐものとして扱われるべきだわ」  あくまで最上位者は自分の父親なのだ。それを思い起こさせなければならない。 「そしてやがては店を、家業のすべてを継ぐことになるのはこのわたし。つまりあなたがたが尊重すべきはヒスメネスではなくてこのわたしだということよ」 「うーん……」  護衛たちのリ