雪刃《せつじん》 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)配《あしら》った |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)直接|目懸《めが》けて [#]:脚註 傍点の位置の指定、改頁など (例)[#改頁] 【ルビを削除したい場合】 正規表現が使えるエディタ等で、 《.+?》 で、置換削除して下さい。 また、 | も、置換削除して下さい。 ------------------------------------------------------- [#改頁] 一.旗  日輪の輝きに十字を配《あしら》った旗が、風の中に翩飜《へんぽん》と飜《ひるがえ》っている。アラトナ教徒の紋章である聖光十字章《せいこうじゅうじしょう》だ。  旗は幾本も並び立ち、その下にはレメンテム帝国の軍勢が大きく拡《ひろ》がっていた。  距離はまだある。敵兵の顔を判別するには到らない。  だが、間違いなくそこに『敵』がいた。 「奴ら考えていたよりも足が速いですな」  従士のタデアスが脇《わき》に立ち、半ば感心したように、しかし侮蔑《ぶべつ》を籠《こ》めた口調でそう呟《つぶや》いた。  グレシオスは顔を向けてタデアスを見た。  若い。髪の毛も鬚《ひげ》も銀色だ。  お互い今では髪にも鬚にも、もうすっかり白い物が混じってしまっているが、この戦いの時にはグレシオスもタデアスも、まだ二十才だった。 「信仰心のなせる業《わざ》かも知れんな」  答える自分の声も若く感じる。タデアスは確《しっか》りとした頷《うなず》きを返し、それからまた挑戦的な眼差《まなざ》しを、レメンテムの軍勢に据《す》え直した。  両軍が対峙《たいじ》しているのは平原だった。朝の穏やかな風が草の上を渡り、そのまま自分たちの髪の毛までを、軽く揺らしてくる。  耳に聞こえるのは甲冑《かっちゅう》の鳴る音と、馬の吐く息、そして味方の旗が風に飜《ひるがえ》る音。  余計な口を利《き》く者はない。それは敵側も同じだったろうと思う。  しかし自分たちは会話をした。その事を憶えている。  今にして思えば興奮していたのだろう。  初めての戦《いくさ》ではない。  にもかかわらず血が逸《はや》ったのは、この戦の時、グレシオスは初めて、先槍をつける役目を王から与えられたからだ。  静粛の中、敢《あ》えてタデアスと言葉を交わしたのは、自らを落ち着かせるため。  大いなる名誉のために、どうにも身が落ち着かなかったからではなかったろうか……。  ベルガイアの戦い――。  今から三十年以上前のことだ。  西方レメンテム帝国の軍勢が、エリュオーン海に深く入り込み、ガレノス陸橋《りくきょう》を目指し、我がローゼンディア王国に攻めてきた事があった。  ガレノス陸橋とは、王都を含む地域一帯を呼び慣わしたものである。  王都ガレノスは北にフェルシナ大内海を、南にゼレーア海を控《ひか》える大陸橋上に存在している。  陸橋の地下深くには海流が流れ、フェルシナ海とゼレーア海とは繋《つな》がっているという伝説もあるが、真偽の程《ほど》は判らない。  ゼレーア海はドライデース半島を越えたところからエリュオーン海に入る。  半島突端の岬には、神話の時代に天の雄羊が幼い兄妹《きょうだい》を背に乗せて駆け渡ったという物語が伝わっており、ローゼンディア人にとっては馴染みの深い場所である。ここより先がエリュオーン海になる。  そしてエリュオーン海こそはローゼンディアの海である。  古来より数多《あまた》の伝説、そして物語の舞台となってきた海である。  エリュオーン海はまた、より宏大《こうだい》なミスタリア海の一部を成《な》している。  ローゼンディアもレメンテムも、ミスタリア海に面し、それを中心とする世界の中に存在している。  今から三十年以上前のことだ。  西方レメンテム帝国が、大軍を動員してローゼンディアに攻めてきた。  それも今までのように西方の大河《たいが》アルギオンを渡渉《としょう》せずに、多数の船団を組織してエリュオーン海を進み、ヘクティス地方に上陸、そこから直接にガレノス陸橋を目指すという大胆な作戦であった。  レメンテムとローゼンディアでは奉《ほう》ずる宗教が違う。レメンテムはアラトナ教を、ローゼンディアではヴァリア教を信教している。  アラトナ教は異教の存在を認めない。  そのためレメンテムは事《こと》ある毎《ごと》にローゼンディアに対して侵略を繰り返していたが、この時の軍勢は、それまでの規模を大きく超えるものであり、しかも王都を直接|目懸《めが》けて侵攻してきたので、ローゼンディアではかなりの危機意識を持って邀《むか》え撃《う》ったのだった。  戦いはローゼンディアの大勝で幕を閉じ、レメンテムは死者六万五千人、捕虜一万人以上の犠牲を出すこととなった。  ローゼンディア軍を指揮したのはゼメレス侯クレオラ。  輪廻《りんね》の輪を支配する偉大なる|狩猟神の末裔《ダルフォイヘーレイ》、角《つの》持つ一族の、東の宗主。  ゼメレス家は王国貴族の頂点に立つ七宗家の一つである。  王家や、グレシオスのセウェルス家を含めて、七宗家はいずれも、神々から直系にその血筋を引くと信じられている。  |狩猟神の末裔《ダルフォイヘーレイ》には、東のゼメレス家と西のヘカリオス家が並び立っているが、ゼメレス家では家長に女性が立つことが普通である。時には男性が家督を相続することもあるが、かなり稀《まれ》なことであると言われている。  事実、先代はクレオラの母であり、そのまた先代はその母であり、クレオラもまた女性である。  ゼメレス宗家は女子直系の名門であった。  目の前に兵を拡げるレメンテム帝国にあっては、考えられないことであろう。  聞くところによるとアラトナ教の教えでは、女性は知能的にも能力的にも問題のある、男性以下の存在であり、男性による保護と管理が必要なのだという。  これを聞くとローゼンディアの男たちは口を開け、女たちは目を丸くすると言われているが、グレシオスもそうであった。驚くべき教義と言わねばならない。  であるから、女性が家督に立つなど、ましてや一国の軍勢を率《ひき》いることなど、レメンテムにあっては到底《とうてい》信じられない事であろう。  だがローゼンディアにあってはそれが起こるのだ。  事実、王の左に馬を並べるクレオラは、ゼメレス家長であり、大軍を指揮する将軍であった。  無論、軍の最高位にあるのは王である。  だがこの戦《いくさ》では、王はむしろ象徴的な存在であり、実際に全軍を動かしていたのはクレオラだった。  今、クレオラは王の左に轡《くつわ》を並べているが、これは無礼にはあたらない。  七宗家は王家に匹敵する名族なのだ。だから臣従していると言うよりも、諸侯の盟主としての王家に協力していると言った方が正しい。  これはヴァリア教の教えによる。聖典によれば主神であるヴァリアを除き、神々の間に序列の差はないと記述されているからである。  故に|太陽神の末裔《アクスヘーレイ》たる王家と、他の六宗家との間には序列の差はない。  とはいえ王は王である。  グレシオスを含め、全ての兵士が太陽を仰ぎ見るが如く感じ、眩《まぶ》しい眼差しを向けている。  クレオラが王に何か囁《ささや》いた。聞こえはせぬが、何を言ったかの見当はつく。  その優美な肩に掛かった緑のマントが、朝の風を受けて揺れている。施《ほどこ》された銀の縫い取りが光を反射して、ちらちらと踊るように見えた。  ゼメレス宗家の聖章たる『銀の車輪』である。彼女のマントの中央には大きく、骨を組み合わせて作られた車輪の図案が、銀糸で刺繍してあるのだ。  振り返って自分達の陣に立つ旗を見上げた。セウェルス家の聖章たる『ワタリガラス』である。  味方の戦列を見渡すと、他にも『金鎚《かなづち》』や『三叉戟《さんさげき》』といった七宗家の聖章が立てられている。  急な戦《いくさ》でもあるし、全兵力をガレノス陸橋に集めるわけにもいかぬ。故《ゆえ》に軍勢の数としては王国の全兵力を動員できたわけではない。  だがこのように諸侯は全て参集していた。  歴史的な一戦であったと言っていいだろう。  ゼメレス侯クレオラはこの時二十四才。  この時点では、王国内でもクレオラの能力を知る者はほとんど居なかったであろうが、ベルガイアの戦い以後、彼女の名前は、ミスタリア海を中心とする世界に轟《とどろ》き渡ることになった。  圧倒的に数に優《まさ》るレメンテム軍を完全に包囲殲滅《ほういせんめつ》したからである。  レメンテム帝国はベルガイアの戦いで、建国以来の大軍を送り込みながら、約半数のローゼンディア軍に徹底的に殲滅され、その死者は六万五千人以上を数える事になった。  しかしながらローゼンディア軍の損失は、わずか五千七百人に過ぎなかったと言う。  ベルガイアの戦いは周辺諸国を震撼《しんかん》させた。近隣の国々は、若き天才の出現に大きな衝撃を受けたのだった。  この戦《いくさ》の後、レメンテムが大兵を動かすことはなく、平和は今に至るまで続いている――。  兵の一人が、首に朱を巻いた投槍を捧《ささ》げ持ってきて、静かにグレシオスに差し出した。  古来よりの慣わしにより、戦闘の開始を告げる最初の一槍を投じなくてはならないからだ。  この役目を王より命じられた時は、さすがに身体《からだ》が顫《ふる》えた。  既《すで》に幾度か戦場《いくさば》に立ったとはいえ、これほどの大戦で、しかもそれほどの大役を命じられるとは思っていなかったからだ。  年齢的には問題ない。立派に戦士として認められる齢《とし》に達してはいるし、これまでの幾《いく》つかの戦いで、己れの勇敢さを示してきたと自負してもいる。  しかしグレシオスはやはり、まだ若かった。  槍を受け取った掌《てのひら》や指に、細かい痺《しび》れのようなものを感じた。きっと、汗も掻いていたことだろう。  軽く周囲を見回して始めて、近くにいる者がみな、自分を見つめているのに気付いた。  すぐ近くには従士のタデアス、斜《なな》め後ろには叔父エウスタスが立っている。その他、近くにいる兵達の全てが、グレシオスを無言で見つめていた。  王の招集に馳《は》せ参《さん》じ、故郷デルギリアからずっと、長い騎乗を共にしてきた家臣達だ。  彼等は一人残らず強い、しかしグレシオスを支えるような眼差しを向けてきている。  そこには信頼と励ましとが籠《こ》められていると思った。  不意に叔父が、グレシオスの肩に手を置いた。  早くに亡くした父に代わってグレシオスを教え導き、平時戦時のいかなる場合においても範《はん》を示し続けた偉大なる叔父だった。  生涯《しょうがい》をかけてグレシオスを支《ささ》え護《まも》った人だった。  深く敬愛した叔父は、今はもうこの世にはいない。  叔父にとって最後の戦いとなったこの戦の時にも、やはりいつもの金猪《きんじし》の飾兜《かざりかぶと》を被《かぶ》っていた。  そして叔父はこの時も、やはりいつものように誇らしげな、暖かい眼差しをグレシオスに向けてくれていた。  それで気持ちが落ちついた。胸の奥に力の塊《かたま》りのような物が生じるのを感じ、無言で前へ出た。  その途端、グレシオスはローゼンディアの全軍勢の中で、もっとも敵に近い場所に立っていた。  そのまま投擲《とうてき》姿勢を取った。全身の偉大な筋肉が隆々《りゅうりゅう》と盛り上がるのを自覚した。  味方は、声一つ立てずに静まりかえっている。  敵は、揺れる旗の下で僅《わず》かな動きを見せている。  緊張があった。  それは人の世の緊張だった。朝の平原はどこまでも静謐《せいひつ》で、涼やかな大気がただ静かに拡がり流れているだけだ。  頬を撫《な》でる風が心地よい。  遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。 「おおおおおおっっっ!!!」  グレシオスは肚《はら》の底からの叫びを上げた。  地を蹴った。走った。そして全身の力を込めた一投を放った。  己れが砕け散るような高揚の中、槍が手を離れ、朝の空に吸い込まれていく――。  その光景を憶えている。  今でもはっきりと……。 「…………大殿」  ためらいがちに呼びかけられる声でグレシオスは目覚めた。タデアスが近くに立っていた。  どうやら椅子に坐《すわ》っている内に、うたた寝をしていたらしい。 「お休みのところ申しわけございません」  タデアスは頭を下げた。夢の中とは違い、すっかり白髪になってしまっている。  それは自分も同じだが。  グレシオスは頭を振って夢の残りを追い払うようにすると、タデアスに用向きを言うよう促《うなが》した。 「何があった?」 「はい。また例のお客人が訪ねておいでです」  またか、と思った。ここ数日グレシオスの屋敷を訪ねてくる男がいる。  夜になるとやって来て、遅くまで話し込んでは朝方に帰っていく。  泊まるように勧《すす》めても男は首肯《しゅこう》しない。必ず、朝が来る頃になると腰を上げ、元来た道を帰ってしまう。  屋敷の近くを除《のぞ》けば、この近辺には民家などない。テラモン大森林を北に控えた、寂しい寒村なのだ。  いったいどこから来ている者なのか皆目《かいもく》見当がつかぬ。  その意味では、薄気味の悪さも無いとは言えなかった。 「いつも通り暖炉の前に坐って待っておいでです」 「分かった。すぐ行く」  グレシオスは腰を上げた。  男はいつも同じ恰好《かっこう》をして訪れる。  深い青のマントを身につけ、鍔広《つばひろ》のフェルト帽をかぶっている。  背が高く、肩幅が広い。灰色の髪と長い灰色の鬚《ひげ》を生やし、青い瞳をしている。  齢《とし》はグレシオスとそう変わるまい。しかし、男にはグレシオスが失ってしまった活力のようなものが、まだ漲《みなぎ》っていた。 「眠っていたのか?」  グレシオスが向かいに坐《すわ》ると、男はそう尋《たず》ねてきた。 「少しな」 「まだ眠るには少し早い。子供ではないのだからな」  男の揶《からか》うような口調に、グレシオスは少し怒りを感じた。 「子供でなくとも眠りたくなるときはある」 「そうか」  男は軽く答えたが、しかしにやりと笑った。  なんだか侮《あなど》られているような気持ちになり、グレシオスは不愉快になった。 「そんな話はいい。それよりも今日こそ、お主の名前を聞かせてくれ」 「儂《わし》はガルハーイスと呼ばれている」  ガルハーイスは『灰色の鬚《ひげ》をした者』という意味である。確かに男は長い灰色の鬚をしているが、それがとても本名であるとは思えない。 「またか!」  グレシオスは渋い顔をした。男は再び、にやりと笑った。  男はまだ、グレシオスに本名を明かしていなかった。  客人からその名を聞き出せないと言うのは面白《おもしろ》くない。始めは何か、やむにやまれぬ理由があるのかと思ったが、そうではないらしい。  どうやら男は、グレシオスが色々と想像するのを楽しんでいるフシがある。 「儂はロヴォスと言われている」  始めはそう名告《なの》った。しかしロヴォスとは『物知り』という意味の古い言葉で、本名とは考えられない。そう問い質《ただ》すと男はあっさりと認めた。  しかし実際、男は物知りだった。  グレシオスが聞いたこともないような話を数多く知っており、それを次々に語ってくれた。  いずれも興味深く、時の経つのを忘れてしまいそうになる話ばかりであった。 「儂はコッフェスとも言われている」  ある時はそう語った。コッフェスとは『吊られた者』という意味で、とうてい人につけるような名前ではない。グレシオスが即座にそう言って否定しても、男は薄笑いを浮かべるだけで取り合おうとはしなかった。  奇妙な客であった。  不愉快な客でもある。もしグレシオスが二十年若ければ、戦いになっていたかも知れぬ。  しかしグレシオスは老いていた。もはや四肢《しし》にはかつてのような力は残っていないと感じていた。  さきほどの夢の中のような、燃え盛る若さはない。  暑い季節はとうに過ぎ去り、彼の人生は老境に、冬の時期に入ってきている。  暖炉の火が爆《は》ぜた。 「今日はどのような話を聞かせてくれるのだ?」 「お前が望むのなら、なんでも」  男は不敵に答えた。この謎の男はいつも不敵さを漂《ただよ》わせている。  自分と同じように老境に入っているというのに、まったく活力を失っていない。  肩は広く胸は厚く、軽く動かしただけで腕の筋肉がうねる様が見て取れる。  背丈《せたけ》も長身のグレシオスよりなお高い。  闘《たたか》ったとしても、今のグレシオスでは勝つことはできぬかもしれぬ。  だがそれが、この男と闘うことを避けさせている理由ではない。  この謎の男は不愉快な相手ではある。不遜《ふそん》と言ってもいい。  現在は隠退して家督を息子に譲《ゆず》っているとはいえ、グレシオスはローゼンディアの貴族なのだ。それも東方の要衝《ようしょう》デルギリアを支配する名門、セウェルス氏族の長《おさ》だった。  ローゼンディア王国の貴族たちはみな、例外なく神々や英雄の末裔《まつえい》に連《つら》なっている。  その中でもセウェルス氏族は、その遠祖を戦神イスターリスに求めるイスタリヘーレイである。  当然、セウェルス氏族の身内たちは、俗称が家名へと転じた者達を除けば、全ての者がセウェルス姓を名告《なの》っているが、中でもグレシオスはイスターリスの子、英雄ヴェルデスから直系に血筋を辿《たど》れる家の人間であった。  つまりはセウェルス姓の本宗家である。  王国でも最高位を形成する七宗家の一つであり、数あるローゼンディア貴族の中でも、屈指《くっし》の名族といっていい。  だから男の態度は本来は許されるべきものではない。しかしグレシオスは何故か、そのことで男に怒りを感じたことはない。  どこか挑戦的なものを感じさせる男の態度には、どういうわけかグレシオスを安心させ、何か大切なことを思い出させるような雰囲気があったからだ。  とはいえ揶《からか》うような言葉や、態度を示されるのは面白くない。  そのたびにグレシオスは奇妙な反発感を持ってしまう。  自分がこの男に齢《とし》若い相手として扱《あつか》われているような気分になるのだ。  齢を尋ねたことはないが、おそらく年齢は自分とそうは変わらないはずなのだ。  男の態度には、どこか明らかに齢若い者を相手にするような雰囲気がある。それがグレシオスを刺激するのである。  腹立たしさに似てはいるが懐かしいような、どこか不思議な感情を、男はグレシオスに抱かせた。 「齢を取った狼の話をしよう」  おもむろに、男はそう言った。  タデアスが盆に酒肴《しゅこう》を載《の》せて入ってきた。それらをテーブル上に手際《てぎわ》良く並べると、火の具合を見、それから一礼して部屋を出て行った。  息子のヘクトリアスに家督を譲ったのを機に、グレシオスがこの寒村ナウロスに移ったのは二年前になる。  以来、身の回りの世話は通いの老女と、このタデアスに任せきりであった。  妻のディフォネは息子夫婦と、そして孫と一緒に館《やかた》で暮している。時々様子を見に来るし、頼りも繁茂に寄越《よこ》してくるが、グレシオスは館に帰ろうとは思わなかった。  別段不満はない。家族に対して蟠《わだかま》りがあるわけではない。  ただ、家督を息子に譲り、父祖の霊にその報告をすませると、身体《からだ》から何かが抜け落ちたように感じてしまったのだった。  己の役目が終わってしまったような、漠《ばく》とした寂しさがあるばかりで、それまで自分を支えてきた梁《はり》のようなものが、消えて無くなってしまったのである。  日常過ごしていても、ただ漫然《まんぜん》と時の移ろいの中に身を置いているようであり、まるで、いつまでも続く暖かな冬の日の中にいるような気分であった。  それは戦士として、領主として気を張って生きてきたグレシオスには耐えられぬことだった。  二年前、ここナウロス村に移った。村を見下ろす丘の上に小さな館を建て、そこに住むようになった。  ギルテの領主館からは馬で三日ほどの距離である。それほど遠いというわけではないし、さりとて近いというわけでもない。そこが気に入ったのである。  妻や息子達は、そんな自分を扱《あつか》いかねているようだった。 「父上は急に偏屈《へんくつ》になられた」  偶《たま》に挨拶に来ると決まって、息子は困ったようにそう言うのだが、グレシオスにはそんな自覚はない。  己が偏屈者かどうかと言われれば、いささか返答には窮《きゅう》するものの、家督を譲ってから急激に偏屈者となったわけではない。  人は齢を取れば、自然と偏屈者の仲間入りをするものだと言う者もある。  だがグレシオスはそうは思わない。  人が偏屈になるとすれば、やはりそれには何らかの理由があり、必然であると考えている。  野山を駆け回る獣ではあるまいし、神々が特別に創りたもうた我々人間が、時の流れに応じてその有り様を変える事など、あるとは思えない。  神官達も言っているではないか。  人間には特有の属性として、精神が与えられている、と。  人の性向こそは、その精神の働きを示すものに他なるまい。となれば偏屈さというものは、やはり人間精神特有の事柄ではないのか。  人は、春になったら番《つがい》の相手を探し、冬になったら眠りに就《つ》く山谷の獣とは違うのである。  そう考えているのだが、この事を他人に説明した事はない。  いざ言葉にしようとすると上手く纏《まと》まらぬし、神官であるわけでもない己が、わざわざそんな講釈をするのも、おかしいのではないかと考えたからである。  とまれグレシオスは、生まれ育ち、それまで暮したギルテの領主館を離れ、この村に移って来た。  今でも村の連中は「御領主様」と呼んで有り難がってくれるが、自分ではもう隠居のつもりである。  相談事や祝事のたびに、誰もが丘の上に住むグレシオスの元までやって来る。  最近では隠居話を聞きつけたのか、近在の村からまで人がやって来る。  まったく困ったものではあるが、だからといって、自分を慕《した》ってくる者たちが憎かろうはずもなく、館を訪れる者があるたびに、グレシオスはできるだけ丁寧に応対をするようにしていた。  そんな自分が偏屈者だというのは、どうも納得がいかないのである。  ただ、自分は何か大事なものが欠落してしまったのではないかとは思っている。  それが何なのかは分からない。ひょっとすると単に老いただけであるのかも知れぬ。  身体《からだ》は、動く。  もはや武器を手に持つことは少なくなったが、馬の遠乗りなど、領主館に暮した頃から変わらぬ日課に加え、この村に来てからは薪《まき》割りなどもやるようになった。 「そのようなことは私がいたします」  グレシオスが薪割りをしていると、始めの頃はタデアスがそう言って、慌《あわ》てて走り寄ってきたものだった。  しかしここではあまりやる事がない。薪割りくらいはかえって気晴らしになるのだと答えると、やがて諦《あきら》めた。  今は冬だが、春になれば釣《つり》にも行くし、狩《かり》もする。  いささか訪《おとな》う人の数は多いものの、そういうわけで、傍目《はため》から見ればグレシオスは隠居暮しを満喫していると思えるかもしれなかった。  が、それはあくまで外から見た話であって、内心はそうではない。  寂しいような、焦《あせ》るような気持ちが日増しに強くなってくる。  さすがにタデアスは敏感にそれを感じているようであるが、どうにかできる類《たぐい》のものでもなく、主従は一見平穏な、しかし内心納得できないものを抱えた毎日を送っているのであった。 「……昔あるところに三匹の狼《おおかみ》がいた。三匹とも同じ齢《とし》だった。みな齢老いていた――」  男は話し出した。  いつものようにグレシオスは聴き役に回った。余計な口は挟まずに、ひたすら男の語るままを聴き続けるのである。  酒はお互い手酌《てじゃく》だった。肴《さかな》も好きに手を伸ばして食う。  それにしても片方だけがひたすら喋《しゃべ》り、もう片方は黙ったままというのは、ちょっと変わった光景である。  老境に差しかかった男二人が向きあって、酒を飲みつつ歓談するというのなら分かる。またはお互いに無言で酒を飲むというのならば、これも分かる。  この二人はそうではない。ひたすら、片方の男だけが喋るのである。  ちょっと珍しい光景だと言えるだろう。  多くの知識を持ち、話題がつきないというだけでなく、男の語り口は絶妙だった。  それだけではなく、詩を朗読したり、即興《そっきょう》で作ったりすることにも長《た》けていた。  全くもって謎の男である。 「――こうして三番目の狼は星になった。イスターリスの連れている二匹の狼は、この狼の子供たちである」  これも、初めて聞く話であった。  しかもイスターリスに関係している話である。  にもかかわらず、グレシオスはこの話を知らなかった。そしてその事を恥ずかしいと感じた。  己の立場からして、当然知っているべき話であると考えたからである。  無論広大なローゼンディア国土において、イスターリスに関係する話がどれほどあるのかなど、そういう話を調べて回る神官でもない限りは知り得ないだろう。  だがグレシオスは、この地上でイスターリスに最も近い人間の一人として、何となく後ろめたいものを感じてしまうのだった。 「……お主《ぬし》の博識振りには頭が下がる。王都の神官たちでさえ、お主ほどに、ものをよく知る者は多くないであろう」  グレシオスの賛辞を、男は微笑みで受けた。  素直に喜んでいるようであるが、どこか冷めたような、落ち着いた雰囲気も漂わせているように感じる。  これまでの付き合いからか、どうもそんな風に感じてしまう。グレシオスが勝手にそう思うだけなのかもしれないが。  いずれにせよ、あまりこの男のことを深く考えてしまおうとするのは良くない。  明日には来なくなる相手かもしれないのだし、何よりも、そんな風に相手を見るのは自分の流儀に反している。  グレシオスは左手で果実酒の壺《つぼ》を取り、空になった酒杯に注いだ。  口に運び、ゆっくりと飲む。タデアスなどは一気に呷《あお》ることが多いが、グレシオスはそうはしない。酒に限らず、飲み物はいつもゆっくりと飲み干すようにしているのだ。特に理由があるわけでなく、好みの問題である。  男もまた、話し終えた後はゆっくりと果実酒を楽しんでいた。  肴《さかな》は十分に用意してあるが、この分だと酒の方が先になくなるかもしれない。だがタデアスは、よく心付く男であるから、何も言わなくてもその辺を見越して、酒を持って来るであろう。 「大殿《おおとの》」  ほれ、思ったとおりだ。グレシオスは感心しながら振り向いた。  ところがタデアスは酒壺を提《さ》げてはいず、手ぶらであった。  様子がおかしい。  客をもてなす時の顔ではない。緊張した表情を浮かべている。 「どうした?」  客人を慮《おもんぱか》っているのか、僅《わず》かの時間、タデアスは逡巡《しゅんじゅん》を見せた。  だが重要なことなのであろう、すぐに強い眼差しをグレシオスに向けた。 「構わぬ。話せ」 「……ゾエ村がジャグルに襲われたそうです」  ぽつんと呟《つぶや》くような、しかしはっきりとした声音でタデアスは言った。  それで、場の空気が変わった。 [#改頁] 二.急報  ジャグルというのは人によく似た、しかし人ではない獣である。  邪悪なる存在であり、昔から人間たちに敵対するものとして恐れられ、忌《い》み嫌われてきた種族である。  神話によれば、ジャグル達は、太古の昔に邪神ゲオルギウによって造りだされたという。  かつて創世の時代、地上に現れた人間たちを見て、ゲオルギウは激しい嫉妬を抱いたのだという。  そして己が力を示すべく、人間たち以上の存在を作り出すべく、ゲオルギウはただ一神でもって創造の行為に挑《いど》んだのだという。  だが、生まれてきたのはジャグル達であった。  醜《みにく》い外見、邪悪な嗜好《しこう》……呪われた存在としか言いようのないジャグル達を見て、ゲオルギウは叫んだという。 「地の底へ消えてしまえ!」  以来、ジャグル達は地の底に棲《す》むようになった。  丘や山の内部、または地面の下に、蟻《あり》のように縦横に部屋と通路を周《めぐ》らせた棲処《すみか》を持っている。  ジャグルに限らず、イゴールやゴロドといった他の種族もそうであるが、悪神たちによって生み出された種族は、いずれも人間たちに敵対している。  そこには和解の生じる余地は全く無い。どこまでも敵対するほか無いのである。  何となれば、人間たちは神々の協力によって、その祝福によって生み出された存在であるが、彼らは違う。  善なる神々への嫉妬や対抗心、人間たちへの呪いから生み出された存在である。  祝福はなく、喜びもなく、嫉妬と呪いのみによって作り出されたものたちは、醜く、邪悪な存在であるのが道理だろう。  少なくともヴァリア教の教典はそう教える。  グレシオスは他の宗教に触れたことはないが、かつて足を伸ばした南方アウラシールでも、西方のヴァルゲン人の王達にあっても、ジャグルを含め、悪の種族たちに対して友好的な者は居なかった。  もちろん悪の種族をどう思うかなど、聞いて回ったわけではない。聞くまでもないことだからである。  そんなことをせずとも分かるのだ。  どこに行っても、人間たちは悪の種族に備え、現れたと聞けば真剣に対策を練り、戦うとなれば、一匹残らず皆殺しにして焼き捨てることを心がけていたのだから。  それは人間として当たり前の判断なのだ。  悪の種族に好意を持つ者はない。ただの一人も。  全ての者が嫌悪と恐怖、憎しみを示すはずなのだ。  もっとも、かつての大戦においては、悪の種族側に回った人間たちもいたと、歴史書には記されている。  遠く、ミスタリア海を越えてなお遠く南方へ向かうと、ジャグルと同じように呪われた人間たちが棲《す》むという。彼らは伝説の大戦において、悪神たちの下僕《げぼく》となった者たちの末裔《まつえい》であると言われている。  ここ数百年間は、悪の種族との大きな戦《いくさ》はローゼンディアでは生じていないものの、現在でも散発的ではあるが、連中との戦闘が発生することはある。  連中が根城《ねじろ》とする北のヌーガ、そして雲居《くもい》山脈、これらの地域から這《は》い出してくるためだ。  たいていはジャグル達による少数の部隊であるが、被害は馬鹿にはならない。  ジャグル達が襲うのは辺境の小村である場合が多く、近くに兵が控《ひか》えているような土地でない限りは、ほとんどの場合、住民は皆殺しにされる。  そしてこのナウロス村も含め、セウェルス家所領であるデルギリアは、東部イオルテス地方の最涯《さいはて》、北に雲居《くもい》山脈が覆《かぶ》さるように伸びてきている位置にある。  必然的に、悪の種族との戦闘の回数は多く、それに対する憎しみや備えも、人々の間に敷衍《ふえん》していると言えるが、だからと言って、安心していいわけではない。  今、タデアスはゾエ村がジャグルに襲われたと言った。それは同じ人間たち、例えば野盗などに襲われるというのとは、わけが違う。  人間たちがジャグルの存在を認めないように、ジャグル達もまた、人間たちの存在を認めてはいない。だから捕虜を作るという発想がない。ここは同じである。  つまりジャグルに破れると言うことは全滅を意味するのだ。  敗北は酸鼻《さんび》を極《きわ》める状況を意味する。  ……正確には、ジャグル達が捕虜を作ることはある。だがそれは奴隷として働かせるためではない。  我がローゼンディアでは決して認められていることではないが、西方レメンテム帝国ならば、戦争の敗者を奴隷にすることは普通である。アウラシールでもよく見られることである。  ジャグル達は違う。  ジャグルは人間を食糧にするのだ。好んで食すと言っていい。  やつらは潰《つぶ》す予定の蓄獣《ちくじゅう》を扱《あつか》うように人間を扱う。  どれほどの数に襲われたのかは分からぬが、ゾエ村もこのナウロス村と同じ、小さな村である。百匹もジャグルが集まっていたとしたら、半日も保《も》たないだろう。  グレシオスの今までの経験では、ジャグル達の戦闘集団は小さければ五匹ほど、大きければ三十匹といった規模だった。  大概《たいがい》が、近くの村を襲撃した帰りであるとか、偵察《ていさつ》か何かで地上に這《は》い出てきた斥候《せっこう》のような連中だった。  味方に犠牲を出したことはあるが、それでも今までの戦いでは破れたことはない。もっとも破れていれば、今頃|暢気《のんき》に隠居生活を送っているはずもなく、どこぞのジャグルの胃袋に収《おさ》まっていたことだろう。  不意を討たれぬ限りは負けぬ自信はある。イゴールの毒やゴロドの法外な膂力《りょりょく》には、最大の注意を払う必要があるが、薄汚い|地虫共《ジャグル》など、憎みこそすれ、恐れるには値しない。  いずれにしても生かして帰すつもりはない。  一匹残らず殺して、焼き捨てる。 「どれほどの数なのか? そして編制は? ゴロドやイゴールは混じっておるのか?」 「ゾエ村の者を待たせております。話はその者から直《じか》にお聞き下さい」  言ってタデアスは腰を折った。ここに急を知らせに来た本人が、待っているというなら話は早い。会うことにしよう。  グレシオスは腰を上げた。突然の事態とはいえ失礼かと思い、男の方に目をやったが、気にするな、という風に目顔で答えてきた。 「その者をここに通せ」  グレシオスが言うが早いか、タデアスはすぐに玄関の方へと呼びに向かった。  ゾエ村の使者というのは若者だった。齢《とし》は十六かそこらといったところだろう。  充血した目、細かく顫《ふる》える膝《ひざ》、肩、グレシオスを前にしても、膝を着いて礼をすることさえ忘れている。  どれほど恐ろしい思いをしてきたのか、一見して推察できる様子だった。  グレシオスにはおおよその見当がつくのだ。  四十年近くにわたって戦場を駆け続けてきた経験が、グレシオスに若者が見てきた地獄を想像させた。 「恐れることはない。ここはもう人の領域ぞ」  若者の目を見据え、グレシオスはゆっくりと言った。 「大殿の御前だ。きちんと礼をせぬか」  優しい口調でタデアスが言い、若者の肩に手をやった。無論、その緊張を解《ほぐ》す気遣いを兼ねている。  その狙《ねら》いどおりに若者は、いくらか自分を取り戻したのだろう、急いで礼の姿勢を取った。 「ごっ、御領主様にもうしあげまっす!」 「うむ」  無用だと思いつつもグレシオスは返事をした。  本当は前置きなどせずに、敵の数や編成、動きの雰囲気などの報告に入ってもらいたかったが、相手はただの村人、しかも齢若い上、混乱しているときている。  できうる限り相手の調子を崩さずに、聞き役に回るのが良いだろうと考えたのだ。 「ゾエ村がジャグルに襲われました。御領主様にお知らまするべと思い、ここまで駆けてめえりました」  グレシオスは隠居であるから領主ではない。本来ならばギルテの領主館を目指すべきだったのである。  しかし今更《いまさら》そんなことを言っても始まらぬ。近隣の住民が自分を頼ってくるのは今に始まったことではない。 「ジャグルの数はどれぐらいか?」 「はいっ!? そ、それはよくはわからねえけども……多分三十匹くらいではねえかと」  かなりの大人数である。となれば偵察の類《たぐい》ではなく、戦闘が目的であろう。  それで村を襲ったと言うことは……グレシオスは胸がむかつくような気がした。  ジャグル達の目的が分かったからだ。おそらく、食糧確保のために村を襲ったのだろう。 「ゾエ村の方はどうなっておるのか? 戦いはまだ続いておるのか?」 「そいつはわかりませんです。ジャグルにわーっと攻めてきて、みんな大騒ぎになって、それでおれと、御領主様にお知らませねばなんねえと村長に言われて……」  必死になって話しているためだろう。若者の発言は名詞の格変化が怪しかった。  とはいえ、その言わんとするところは判った。 「ゾエ村では誰が指揮を執《と》っているのか? 村長のボイオンか?」  ゾエ村村長のボイオンは数えで七十になる齢《よわい》ながら、いまだ矍鑠《かくしゃく》としている老翁《ろうおう》である。  さすがに杖《つえ》は手放せないが、頭はもちろん、目も耳もしっかりとしている。  その判断力には信頼が置けるが、しかし問題がないわけではない。ことは戦《いくさ》である。  阿鼻叫喚《あびきょうかん》の巷《ちまた》にあって、迅速かつ的確に判断を下し、戦闘指揮を執れるかどうかと言うと、まったく判らないと言わざるをえないだろう。 「ジャグル以外に敵の姿はあったか? イゴールは?」  イゴールは悪の種族に連なる獣である。ジャグルも獣であるが、こちらが曲がりなりにも人間に近い存在であるのに対して、イゴールは完全に獣の姿をしている。  外見はイタチによく似ており、血のように赤い三つの眼と、茶褐色の体毛を持ち、背筋に沿って二本の黒い条《すじ》が走っているのが特徴である。  大きさから言えば中型獣と言えるが、立ち上がれば、人間の背丈をいくぶん超える高さがある。  悪の種族の例に漏《も》れず、イゴールも極めて凶悪な性質を持ち、人間に対して攻撃的である。  鋭い爪と牙は、それ自身十分に危険ではあるが、特に危険なのは牙である。毒を持っているのだ。  イゴールの咬《か》み付きは、最も注意を要する攻撃なのである。  この魔獣に刀斧《とうふ》で立ち向かうのは愚かというより外ない。ましてや一人で立ち向かえるものでもない。  ゆえにイゴール狩りの際には必ず部隊を編成し、計画的に行なうようにしている。  デルギリアでは矢による攻撃、そして投槍による攻撃を規準として、止《とど》めを刺すときのみ、槍による直接攻撃を行なうようにしているが、おそらく他の地域でも似たようなものであろう。  毒を持つ分、ジャグルよりも余程《よほど》危険な相手だと言えた。 「……イゴールはおらなかったです。ただ――」  若者は躊躇《ためら》うように言葉を濁した。  グレシオスは不吉なものを感じた。 「何を見た?」 「あのう、おれの見間違いかもしれねえですが、なんかやたらとでかい、樹みてえな影が……。それがのっそりと歩いていたみてえです……」  思い出すように語る若者の横で、タデアスが表情を硬くした。そしてグレシオスに緊張した目を向けてきた。  グレシオスには、タデアスが何を考えたかが分かっていた。  無言で頷《うなず》くと、若者に目を戻して質問を続けた。 「そのやたらとでかいものというのは、村を襲ってきたのか?」 「いえ、だからおれの見間違いかも」  若者は首を振った。 「獣|避《よ》けの篝火《かがりび》の向こうにやつらが現れたときに、ちらっと見えたような気がしたんです。でもおれは戦いが始まってすぐに、北の木戸から馬で出て、ここまで駆けてきたんで。馬は村長が……」  なるほど。ではこの若者は戦いの模様はまるで知らぬというわけだ。  先程の怯《おび》えは地獄を見た所為《せい》ではなく、村を案ずる気持ちから出てきたものか。  でなければ、元々臆病な若者なのだろう。  それにしてもジャグル達が押し寄せて来てから、ほとんど間を置かずに使者を脱出させたのは、さすがはボイオンだと言えた。  だが、篝火の向こうに見えたという大きな影が、自分とタデアスの考えるとおりのものだとしたら……。  おそらく、ゾエ村は今頃|壊滅《かいめつ》しているだろう――。  いやもし己が予測が外れていたとしても、ジャグルの数が三十匹ほどだというのは大きい。  ゾエ村の安否《あんぴ》が気遣われるが、希望を差し引いて考えれば、全滅の可能性はかなり高いと言わざるを得まい。  だがそんな嫌な予感は口にするわけにいかぬ。無言でタデアスに目を向けた。緊張を宿した瞳には、自分と同じ考えが宿っているのが認められた。 「この村の村長は知っているか? ヨルスという名の者だが」 「はい。なんどかお話したことがあります」 「では今からそこへ行き、儂《わし》が呼んでいると伝えてくるのだ。そしてお前は、今夜ヨルスの家に泊めてもらえ。そのことも伝えろ」 「はい!」  若者は深く首《こうべ》を垂れ、それから立ち上がり、慌《あわ》てた様子で礼をすると、急いで部屋を出て行った。  玄関の戸が閉まる音を聞いてから、グレシオスはタデアスに話しかけた。 「お前はどう思う?」 「ゴロドであろうな」  答えたのはタデアスではなく、胡坐《あぐら》をかいていた男であった。謎の男、いまだ本名明かさぬ旅人である。 「お客人、不吉なことは言わないでいただきたい」  タデアスが呟《つぶや》いた。若干《じゃっかん》の非難が感じられる口調だった。 「そうかな? お主等も儂と同じ考えではないのか?」  男は皮肉げに口を歪《ゆが》め、首を少し傾《かし》げた。  ……もしもゴロドであれば、極めて珍しい事態だと言える。  ゴロドが地上に現れるのは滅多にあることではない。グレシオスにしても、ゴロドを見たことは二度しかない。  このたび相見《あいま》えることあらば、それが三度目ということになる。その場合は、四度目があるとは思えない。これには二つの理由がある。  一つ、再びゴロドが地上に姿を現す頃には、己の命数がつきている可能性が高い。  二つ、もし今ゴロドと戦うことになった場合、己が生き残れる自信はない。 「ゴロドが地上に姿を現すなど、滅多《めった》にあることではありません。ここデルギリアでも、最後に姿を現したのは二十六年前ですぞ」  そう。タデアスの言うとおりであった。そして、その最後に姿を現した際《さい》に、グレシオスは居合わせた。タデアスもである。  領民からの知らせを受けたグレシオスは、館《やかた》に兵を参集させ、即座に連絡のあった場所に向かった。  ゴロドは二匹。  兵三十五人で襲いかかった。いずれも経験豊富な兵《つわもの》である。  装備は万全だった。従者も連れ、槍も余分に持ち、鉤縄《かぎなわ》まで用意した。  それでいて死者二十三人。  重傷が三人。無事なのはグレシオスとタデアスを含め、九人という有り様だった。  初めてゴロドを目にしたのは、父親に連れられて旅行をした際《さい》だった。アウラシールの獣騎兵《じゅうきへい》が、一匹のゴロドを相手にしていた。  諸国に名の聞こえたアウラシールの獣騎兵は、さすがに見事《みごと》な動きでゴロドを翻弄《ほんろう》し、綺麗《きれい》に止《とど》めを刺していた。  今でも憶えている。飛槍弓《ひそうきゅう》が発《た》てる軽い弦音《つるおと》、砂を蹴立《けた》てて走る南方種の大蜥蜴《ジビルアヌ》。ゴロドの皮膚すら貫《つらぬ》くドゥミウルバの矢。  その時の印象がいけなかった。  いかにも容易に斃《たお》せそうな印象を持ってしまったからである。  信じるべきは父祖達から語り伝えられた教訓、そしてデルギリアに伝わる伝承の方であるべきだったのだ。  ゴロドは悪の種族の中でも最も危険な存在であり、神話によれば、暴虐神《ぼうぎゃくしん》ゴルドスの屍《しかばね》から生まれ出たという巨人である。  かつてこの世界には巨人族という者たちが存在した。  正確に言えば今でも存在はしているのだが、彼らの暮らすのは巨人界《セウタ》である。それは人間界《ノムス》とは異なる世界であり、そのため人は巨人たちと直接交流をすることはできない。  神話には人間に敵対的な巨人、友好的な巨人、そのどちらでもない巨人など、様々な巨人族が登場するが、ゴロドはその中でも最後に誕生した巨人であり、本来は神々と同じ存在に属する巨人たちにあって唯一《ゆいいつ》、生まれた時から悪の種族に属している。  つまりゴロドは、他の巨人族とは本質的に異なる存在なのである。  神話の語るところによれば、全ての巨人たちは己が取り分である世界、巨人界《セウタ》へとその住居《すまい》を移したという。  しかしゴロドのみは、今もなおこの世界にとどまり、恐怖と厄災をばら撒《ま》いている。  この事が、ゴロドが本来の意味では巨人ではないこと、呪われた悪の種族に連なる眷属《けんぞく》であることを示している。  それでもゴロドを巨人というのは、その外見が巨人としか言い様がないからである。  背は二階屋に届くほどであり、一言で言えば枯木のような巨体である。  節《ふし》くれ立った蜘蛛《くも》のように長い手足を持ち、やや前傾した姿勢をしている。  面長《おもなが》な顔をしており、目鼻の造作は人間に近い。ジャグルが犬や豚に似た面構《つらがま》えをしていることに比べれば、遥《はる》かに人間によく似た顔立ちをしているのだが、そういう印象はない。  ただし瞳はジャグルと同じく、黒目と白目の区別が無く、燃える熾火《おきび》のような赤色をしているので、人間と見間違えることはない。  ゴロドには表情というものがほとんどなく、生気と言えるものは全く感じられないが、その心中には常に呪われた思いが渦《うず》巻いており、極めて危険である。  皮膚《ひふ》の色はジャグルと大差なく、土気色《つちけいろ》から黒であるが、生物の皮膚と言うよりも、木や石に近い質感を持っている。  遠目に見れば、まるで沼から這《は》い出てきた浮浪者か、あるいは逃亡中の脱獄者のように見えるかもしれない。だがよく見れば、明らかに人間とは違う雰囲気を持っていることに気づくはずだ。  ゴロドに対する最も適切な形容は、動く屍である。  悪の種族とはいえ生物には違いないのだが、ゴロドにはどうしても屍体《したい》という印象がある。  まるで餓死者が、何かの力を得て再び起きあがり、地上を彷徨《さまよ》っているような雰囲気を持っている。  通常動きは鈍いが、いざ戦闘となると不気味《ぶきみ》な俊敏《しゅんびん》さを見せる。  その皮膚は分厚く、硬く、矢では大した傷を与えられない。  何よりもゴロドは痛覚が鈍いので、どれほど傷を受けようとも、己が死する寸前まで戦闘力が衰えることがほとんどない。  殺戮《さつりく》に特化した存在だと言えるだろう。  悪の種族の中にあっても、これほど恐ろしく、おぞましい生物は他にはない。  ゴロドは地上の生物を殺傷する悪意と攻撃力だけが、異常に、しかも無限に進化した帰結に他ならない。  今から二十六年前のこと、雲居《くもい》山脈へと向かうゴロド二匹を、グレシオス率《ひき》いるデルギリアの兵達が追った。  グレシオスの脳裡《のうり》には、子供の頃に見たアウラシールの獣騎兵の姿があった。  砂獅子《すなじし》の皮を纏《まと》った戦士たちが、車掛かりの戦法でゴロドを追いつめていた。  獣騎兵は飛槍弓を持っている。大蜥蜴《ジビルアヌ》の骨と、ドゥミウルバの木から作り出された特殊な合成弓であり、同じドゥミウルバの木から作り出された矢を放つための弓である。  強弓ではあるが、異常に強いというわけではない。ただし、矢と弓とが共に揃《そろ》った時には、恐るべき武器となる。信じられぬほどの強さで的に突き刺さるのだ。  その強さは『禦《ふせ》げる鎧《よろい》はなく、石壁に突立つ』と言われるほどであり、事実、そのとおりの威力を示す。  並の矢など払い落として見せるほど、強靱《きょうじん》な皮膚を持つゴロドが、まるで子羊の肉に串を刺していくように、易々《やすやす》と矢を付けられていったのである。  その名のとおり飛槍弓の矢は長い。並の矢よりも遥かに長く、そしてその長さの割には軽い。芯《しん》がなく、内部が中空になっているためだが、この矢を放てるのは専用の飛槍弓だけである。  大柄《おおがら》である所為《せい》か、ドゥミウルバの矢はあまり遠くには届かない。  その代わり、射程の内ならば素晴しい威力を発揮するのだ。獣騎兵はその特徴を熟知しており、当然ながらそれを活《い》かすような戦法を得意としている。  基本的には一撃離脱戦法である。大蜥蜴《ジビルアヌ》に乗って走り寄り、射《う》てる限りの矢を射《い》こむと、そのまま走り去る。  トゥライの戦法に似ていると言えるが、こちらはより徹底しており、敵の周辺を駆け回りながら幾度も矢を射こむのだ。  グレシオスの見たゴロド狩りもそうであった。  五騎、いや六騎だったかの獣騎兵が次々と襲いかかりながら、ゴロドの周囲を駆け回っていた。  このゴロドは武器を持たず、グレシオスが目にした時には、既《すで》に矢を幾隻《いくせき》も付けられていたが、後に相手にした二匹のゴロドは武器を持ち、しかも無傷であった。  それだけでも大きな違いであるのに、最初の印象というのは恐ろしいものである。  グレシオスは大した考えも無しに攻撃を仕掛け、その結果、どうにか斃《たお》しはしたものの、散々な目に遭《あ》ったのであった。  館《やかた》に帰参すると、祖父の激怒が降ってきた。普段は館の奧に暮らしている人であり、滅多に怒りを見せることのない人であったが、この時には広間にまで出てきて、凄《すさま》じい怒りを見せた。  タデアスや生き残りの兵達の取りなしがなければ、どのような罪に問われていたか分からない。  しかし、罪に問われても仕方のないことをしでかしたのだという、自覚はあった。それは今でも同じ思いである。 「貴様を信じて命を預けた戦士たちを、貴様は使い捨てにしたかっ!」  祖父の言葉は今もなお、胸の奥に刺さっている。  自分は子供の時の印象を改めもせずに、軽い判断を下し、優秀な戦士たちを無駄に死なせてしまったのだ。 「……お前はどう思うか?」  グレシオスは先ほど中断された質問を、再びタデアスに尋ねた。声の調子が自分でも意外なほど、慎重な色を帯びていると思った。 「……ゴロドが地上に出てくることは滅多にありません。ですが見間違いとして片附けるのも、危険な気がいたします」  タデアスもこちらの気持ちを察したのだろう、目を伏せるようにして答えた。  もしも襲撃した部隊にゴロドが混じっているのであれば、ゾエ村は全滅だろう。救援も間に合うまい。  もっとも、知らせに来た若者は「北の木戸」から馬で駆けてきたと言っていたから、おそらくジャグル達は村の南側から、正門から襲ってきたに違いない。  となると奴らは、ブレイオン街道沿いに北上して来ているのかもしれぬ。  大胆と言うしかない。身の程《ほど》を辨《わきま》えぬと言ってもいい。  汚らしい地虫《じむし》どもの分際《ぶんざい》で、人の世界の、それもれっきとした街道を堂々と歩いているなど赦《ゆる》せぬ。  ブレイオン街道というのは、デルギリアにある主要な往還の一つである。南からギルテに入り、ゾエ村、そしてナウロス村にまで続いている街道である。  ただし利用する者のほとんどは、ギルテを折り返し点としている事だろう。  ゾエ村もナウロス村も、特に必要がない限りは、訪れる理由の見当たらない小さな村だからだ。  しかし、だからこそジャグルも襲ってきたのかもしれない。街道の事実上の起点であるギルテはデルギリアの中心である。そこを襲うほど連中は愚かではない。  第一、ギルテを襲うとなれば、数千からの兵が必要になる。悪の種族がそれだけの動員をかけるのは並大抵《なみたいてい》のことではない。事実ここ数百年は一度も起こっていない。  ともあれジャグル達が、どこから這《は》い出してきたのかは知らぬが、およそ雲居《くもい》山脈の裾野《すその》であろう。だがそこからの道筋が分からぬ。  襲う順番を考えるならば、ゾエ村よりも先に、このナウロス村が襲われて然《しか》るべきだからだ。というのは、雲居山脈から出てきたジャグル達は、おそらくテラモン大森林の中を進んで来るであろうから。暢気《のんき》に道を歩いてくれば、たちまち人間たちに発見されてしまうからだ。  そしてゾエ村よりもこのナウロス村の方が北にあり、テラモン大森林に近い。先に襲われる方が自然である。  今までの例から考えて、連中が街道を使うとは考えにくい。だからこそ、村の南から攻め寄せてきたという話には意外性があるわけだが、それはつまり、それだけ大胆な行動を採らせるだけの、理由があることを暗示しているとも言える。  そこまで考えてグレシオスは、嫌な予想に突き当たった。  もしも部隊にゴロドが含まれているのならば、ジャグル達が意気軒昂《いきけんこう》に振る舞っていると考えるとしても、おかしくはない。  嫌な想像であった。若者の「見間違いかもしれない」という話が、急に重要な意味を持って迫ってくるように感じた。  となれば――。  次に襲われるのはこのナウロス村であろう。  ゾエ村を滅ぼした余勢を駆って襲いかかってくる……ありそうな話である。  襲撃部隊にゴロドが含まれていれば、間違いなくそうなるだろう。  そしてナウロス村を滅ぼした後はそのままテラモン大森林へ入り、森林内を進んで行って、雲居山脈に引き揚げていくのだろう。  そう考えると中々《なかなか》よく出来た襲撃計画だと思える。ゴロドという強力な存在あってこその、大胆な計画だ。 「もしゴロドがおるなら、奴らは間違いなくこの村も襲うであろう」 「ですがまだ決まったわけではありますまい」  タデアスは首を振った。ゴロドの恐ろしさを身を以《もっ》て体験しているだけに、否定したいのだろう。その気持ちはグレシオスにも分かった。 「たしかにお前の言うとおりだ。ゴロドがいると決まったわけではない。だがこのまま手を拱《こまね》いておるわけにもいかぬぞ」 「誰か調べに行かせてはどうでしょうか?」 「誰が行くというのだ?」 「もしよろしければ私が行ってまいります」  厳しい顔をしてタデアスが言った。  偵察は危険な役目である。もしジャグル達が警戒していた場合、射殺《いころ》されるかもしれない。  そんな役目をタデアスに命じる気には、とてもなれなかった。 「いや、偵察は無用であろう。どのみち地虫どもが巣穴に帰るためには、この村を通過せねばならぬ。明日の夜には嫌でも顔を合わせることになろうよ」  連中は夜行性であるから、ナウロス村を襲ってくるとすれば、明日の夜ということになるだろうからである。 「大殿はゴロドがいるとお考えですか?」  今度はタデアスが尋ねてきた。 「さてな……」  グレシオスは言葉を濁した。男の方に目を向けると、意味ありげにこちらを見ていた。  もしもゴロドが襲ってくれば、とんでもない事になるというのに、まるで恐れている風がない。いや、ジャグル達だけであったにせよ、明日の夜には襲ってくる公算は大きいのだ。  不敵なのか、それとも単に事態を把握する頭がないのか、判断が難しいところだった。 「それにしても何故《なぜ》奴らはゾエ村を襲ったのでしょう? 襲われるべきはこのナウロス村であると思うのですが」  タデアスも同じ疑問を持ったようだった。 「始めから二つとも襲うつもりであったのなら、先にゾエ村を潰《つぶ》すであろうよ」  男が再び口を挟んだ。 「何故でしょうか?」  タデアスが不満げに男に問うた。多分、会話に口を挟まれるのが気に入らないと言うよりも、男の態度や、言い方が気に入らないのだろう。 「ナウロス村を先に襲えば、ゾエ村に報《しら》せが行く。そこからギルテまでは遮《さえぎ》るものがない。連絡がまっすぐに届くではないか。首尾よくナウロス村を滅ぼしたとしても、その間にゾエ村がギルテからの援兵《えんぺい》を得ていたら、攻めるのは難しくなるであろう。逆にゾエ村を先に滅ぼしておけばナウロス村は孤立する。つまりブレイオン街道を押さえられておるから、ギルテには報せを送れぬ。ナウロス村は自分たちだけで、ジャグルどもの相手をせねばならなくなるというわけよ。ゾエ村を襲った時点で、奴らが街道から攻め上がってきたのはその為《ため》よ。ギルテに連絡をつけさせない為よ。万一ギルテがことの成りゆきを知って、急ぎ兵を送ってきたとしても、このナウロス村は連中にとっては帰り道にある。滅ぼすには至らなくとも、そのままナウロス村を蹂躪《じゅうりん》してから、テラモンに逃げ込めばよい。だから始めから二つの村を襲うつもりならば、ゾエ村から攻めるのが当然よ」  正論だった。文句のつけようがないと言えた。  この男は知識があるだけでなく、軍略にも通じているのだった。  そのことが意外だったのだろう、タデアスは驚いたような表情をしていた。 「お主《ぬし》の言うとおりだ。して、先ほどの若者の見たものがゴロドであると確証できる理由の方も話してほしい」  グレシオスはそちらの方の根拠も聞いておきたかった。男は頷《うなず》くと、話を続けた。 「このような大胆な策を実行に移すからには、それだけの力が要《い》る。先ほどの若者はジャグルの数は三十匹ぐらいではないかと言った。少ないとは言わぬが、二つの村を襲うには数が足りぬと思える。無論、あの若者が見ていないだけで、もっと多くいるのかもしれぬ。だが樹みたいだという、その大きな影がゴロドだと考えれば、少ない手勢《てぜい》にも納得がいくのではないかな?」  これまた納得できる予測内容であったが、タデアスが反論した。 「たしかに。だがそれでは、単にジャグルの数が多いというだけでも構わないではありませぬか。ゾエ村にしてもナウロス村にしても、ジャグルが百も集まれば禦《ふせ》ぎきることはできぬでしょう。滅多に地上に現れることのないゴロドを、わざわざ考える必要はないのではないでしょうか。先ほどの若者自身、確証が持てないという言い方だったではありませんか。ここはゴロドというよりも、ジャグルの集団と考えた方が良いと思えます」  男はタデアスの反論には答えず、持っていた杯《さかずき》を口に運び、酒を飲んだだけだった。  タデアスは男の答えを待っている様子だったが、男にそのつもりがないのを看《み》て取ったのだろうか、グレシオスの方に目を向けてきた。  ゴロドの参加を認めたくないであろう気持ちを差し引いても、タデアスの意見には採るべきところがある。  というのは、敵にゴロドが居るか居ないかで、こちらの防衛方針に変化が生じてくるからだ。  もしゴロドが居るなら戦いは避けるべきだ。  たとえ一匹であっても、今のナウロス村には斃《たお》せるだけの戦力はないと思える。  ゴロドが居ないのであれば、まだ打つ手はある。さすがにジャグルが百匹ということはあるまいが、たとえそれに近い数であったとしても、まだ相手をしやすいと言える。  第一その数で移動するのは人目に立ちすぎる。  ゾエ村に辿《たど》り着く前に、既に誰かがギルテへと報を運んでいるはずだ。  しぶとく戦いながら救援を待つという選択もあり得る。  タデアスはジャグルが百も集まれば、禦《ふせ》ぎきることはできないと考えているようだが、グレシオスはそうは思わない。  たとえ百のジャグルであっても、一日二日ならば禦ぎきれると思う。  その間に、ギルテから救援が来るであろう。  なんとなれば、それだけあればブレイオンの往還を使う行商人が、異常に気づくからだ。  ジャグル達の足跡にも気づくだろうし、またはギルテの側で、村からの人間が来ないことを不審がるかもしれない。  どちらにしても急を聞けば息子が、現デルギリア領主のヘクトリアスが兵を率《ひき》いて駆け付けてくるだろう。まだまだ未熟なところのある息子ではあるが、領主館は五百からの兵が即座に集められる体勢になっている。百匹程度のジャグルなど、物の数ではない。  もちろん、ジャグルの数がもっと多い場合や、自分が思うように戦《いくさ》の指揮ができない、または手を負うなどして指揮ができなくなった場合は考えていない。  これから生き残るための戦いを始めようと言うのに、死ぬ場合のことを考えるのは無意味だからだ。  想定外のことが起これば死ぬ。  それは戦場における真理である。予想外の事態が起きた時点で、生き残れるかどうかは、人の努力よりも|運命の三女神《デューノイ》の天秤《てんびん》に支配されることになるからだ。  無論、だからといって、生き残るための努力を放棄してもよいというわけではない。  最大限の努力を重ねてもなお、戦場で己の成すべきこと、働くべき位置を見失うような状態に陥《おちい》れば、後は全て運である。  努力が不要なのではなく、極限の努力に可算して、さらに運命の女神が味方してくれることが必要なのである。  それを厭《いや》と言うほどグレシオスは見てきた。体験してきた。  だから集められる限りの情報を集めた後は、迷いを持たずにひたすら戦闘に集中する。  後は我が父祖の守り手、忿怒《ふんぬ》せるイスターリスの加護を願うのみである。  今問題なのは敵の戦力がどれ位なのか、またその構成にゴロドという怪物が含まれているかどうかである。  グレシオスとしてはゴロドが居るのではないかという気分は強い。タデアスよりも、男の意見により説得力を感じるからである。  ゴロドが居るのであれば、村を捨てて逃げる他ない。明日の日が昇り始める頃、村人を率いて出発するしかないであろう。  ただしその場合には、逃避行の途中で多くの者が死ぬであろう。  今の季節は冬である。イオルテス地方の例に漏れず、デルギリアの冬は厳しい。  道なき道を、ジャグルの部隊に追い着かれぬよう急がなければならないわけだが、その中には女子供や老人、病人までが含まれる。  誰もが十分な防寒具を持っているとも思えない。  恐ろしい敵に追われ、厳しい寒さの中を、昼夜を徹《てっ》して行進しなければならなくなる。  一旦大きく西に向かい、そこから南に向かってパラケウス街道を目指すのが、最も現実的な逃避の案だが、冷静に考えて、パラケウス街道に出るまでに、かなりの者が死ぬであろう。  しかも途中でジャグルに追い着かれたら、全てが終わりである。  そう考えると村を捨てるというのは、確実に助かる方策とは言えない。それでもゴロドと戦うよりは、生き残れる者が出てくる見込みがある分、ましだと思える。  ゴロドが居なければ、これはもう籠城《ろうじょう》して抗戦した方が良いであろう。  ジャグルの数という問題を考えても、五百だ千だということは、さすがにありえない。最大でも百というところだろう。  ならば支えきれる。その間にギルテから援兵が来る。  だが、どちらにしても鍵《かぎ》になるのはゴロドである。果《は》たして今度の来襲に参加しているのか居ないのか。  これはもう実際に調べに行くしか方法はないし、その必要もある事柄であった。  そうなると前言を飜《ひるがえ》して偵察が必要になってくる。  先にタデアスがその役を買って出たが、行かせるつもりはない。そんな危険な役目を命じる気にはとてもなれぬし、もし籠城戦を行なうことになった場合、タデアスは絶対に必要である。  危険な偵察を命じて万一死なせたり、でなくとも傷を負わせるなどしてはならない。  情の問題だけでなく、戦略上もタデアスを失う愚は冒《おか》せない。  となれば村の中にいる者の中で、眼が良く、馬術の巧《たく》みな若者に命じるしかあるまい。 「この村には今、渡《わた》りの猟師はいるか?」  グレシオスはタデアスに尋ねた。渡りの猟師というのは特定の村に定住せず、村から村へと渡り歩く者のことである。  元々猟師は眼がよい。気配にも敏感だ。偵察に行かせても無事に帰ってくる見込みがある。  そして渡りの猟師であれば、馬術に秀《ひい》でている事が期待できる。  偵察を命じるには一番適した人材だと考えたのだ。  というのは、デルギリアの属するイオルテス地方は、元々、良馬の産地としてローゼンディアでも有名で、事実イオルテス地方は『馬|疾《はや》きイオルテス』と呼ばれてもいる。  だから王国全体で言えば、他の地域に比べれば馬術が巧みな者は多いのであるが、渡りの猟師ならば、他の猟師よりもさらに、騎乗の経験が豊富であろうと思ったのである。  無論、偵察、それも長距離偵察の経験を持つ兵が居ればそれに越したことはないが、そんな者が、このナウロス村に居るとは思えなかった。 「どうでしょうか。もうすぐヨルスが来るでしょうから、直《じか》にお聞きになるのがよろしいでしょう」  もっともな答えである。グレシオスは男の方に目を遣《や》った。  男は一人で酒を飲み、肴《さかな》に手を伸ばしている。  先ほどのタデアスの反論で気分を害したのかとも思ったが、どうも違うらしい。  むしろあれで「言うべき事は言った」とばかりに、気持ちを綺麗《きれい》に切り替えて、酒と肴を楽しむことにしている様子だった。  グレシオスは呆《あき》れた。  肝《きも》が太いという話ではない。むしろ現実感覚がおかしいと言った方がよい。  今、目前に大きな脅威が迫《せま》っているというのに、男のこの態度はどうにも理解しがたかった。 「……村長が来たようだぞ」  ふと男が杯《さかずき》を口から離し、ちらりとグレシオスの方を見て言った。  タデアスが玄関に向かった。 [#改頁] 三.過去  ヨルスは痩《や》せた小柄な老人であるが、肝《きも》は据《す》わっている。元猟師であるから目も良い。  今でも時折《ときおり》、弓を携《たずさ》えて狩りに出掛けることもある。  それは獲物を仕留《しと》めるよりも気散《きさん》じが目的であるようだが、腕は確かで、時々グレシオスの館《やかた》にも射落とした鳥や、罠《わな》で捕らえた兔《うさぎ》などを献上に来ることがある。  齢《とし》はグレシオスよりも幾分上である。白い髪は短く刈り込んであり、鬚《ひげ》も伸ばしてはいない。そのため村長と言うよりも、現役の老猟師のように見える。  猟師の多くがそうであるように寡黙《かもく》な男であり、人の言葉よりもむしろ鳥獣の言葉、山や木々や湖水の囁《ささや》きをよりよく解するような雰囲気がある。  今もグレシオスの前に膝《ひざ》を着き、意志の強そうな青い眼を向けて、その話をじっと聞いているのだった。  グレシオスは要点を纏《まと》め、できるかぎり分かりやすく話をした。ナウロス村に脅威が迫っていること、戦うか、それとも逃げ出すかの決断をせねばならぬこと、敵の規模はジャグルが三十匹以上であること、などである。ゴロドが混じっている可能性があることを告げると、ヨルスの面《おもて》にもさすがに緊張が見えた。まさかゴロドに遭遇したことがあるとは思わぬが、その恐ろしさを伝え聞いてはいるのであろう。 「それと、今この村に渡《わた》りの猟師は滞在しておるか?」 「いえ、今はおりませぬ」 「そうか。では村の猟師の中でもっとも目が良く、馬術に巧みな者をここに寄越《よこ》すのだ。これは今夜中にやってもらいたい。なおその者も含め、他の村人にも、今|儂《わし》が話したことを教えてはならぬ。そして明日の朝一番で、村人全てを広場に集めておくのだ。儂がそこへ出向いて説明する」 「かしこまりました。大殿《おおとの》の仰《おっしゃ》るようにいたします」 「頼んだぞ」  ヨルスは深く頷《うなず》き、立ち上がると、一礼して下がっていった。  さて、村人はともかく、これから来る猟師には、偵察の注意点を教えるなどの仕事が残っている。  村人とは違い、グレシオスは今夜は眠れそうになかった。  今夜はまだ村人に事件を知らせず、話を伏せるようヨルスに命じたのにはわけがある。  村人は兵士ではない。正規の訓練を受け、心技を練《ね》っている戦士たちではないのだ。  一日の仕事を終え、平和に眠っているところを叩き起こし、急を知らせたところで、機動的に動けるとは思えない。  もっとも村人を叩き起こすことで、大きく時間が稼《かせ》げるのならば、グレシオスも今夜の内に行動を起こしたかもしれない。  だが、いかんせん時間がなさすぎる。  連中が到着するのは早くても明日の夕方、おそらくは夜であろう。無理をして僅《わず》かな時間を稼いだところで、どうなるものでもない。  今すぐ村を捨てて逃げるにしても、この寒さと暗闇の中を進むことになる。その苦労と危険を考えると見合わぬし、戦闘の準備をするにしても、今から朝までの時間では、何程《なにほど》のことができるとも思えぬ。  ならばむしろ今夜はゆっくりと休ませて、明日の日が昇ると同時に行動した方が、良いだろうと考えたのである。  時間は惜しいが、それが正しいと信じた。これが愚かな判断であったかどうかは、あとではっきりするであろう。 「結局どうするのだ?」  タデアスも下がり、二人きりになると、男はグレシオスにそう尋ねた。 「偵察を出す」 「それでゴロドがいた場合はどうするのか?」  グレシオスは言葉に詰まった。だが、もしゴロドがいるとなれば答えは決まっている。 「すぐに村人を纏《まと》めて村を捨てる。パラケウス街道を目指して西に向かうことになるな」 「ほう……」  男の声には失望の色が感じられた。 「セウェルス族の長《おさ》、グレシオス・セウェルスとも思えぬ言葉だな」  男はがっかりしたように言った。ちくりと刺すような怒りをグレシオスは感じたが、今はそんな感情に振り回されている場合ではなかった。 「……失望するのはお主《ぬし》の勝手だ。儂《わし》は村人を守らねばならん」 「戦うという選択もあるではないか」  妙に冷えた感じの声であった。 「今は冬ぞ。ここからパラケウス街道まで、道も使わず歩かせる気か?」  老人も、子供も。  男の言葉には、言外にそういう意味が含まれていると思った。そして、それで間違いはあるまい。  閉じられた窓の向こうには、今だって雪が降っているかもしれないのである。  日が昇れば足元の見通しは良くなる。太陽神《アクシオーン》が天を横切っている間は、幾分寒さもましにはなる。だがここからパラケウス街道までは、一日では辿《たど》り着けないだろう。  何日かかるだろうか? それは馬の数や荷物の具合などにも左右されるだろう。  冷静に考えれば、村人を連れて、しかも道を使わずに踏破《とうは》できる距離ではない。  心理的な負担、体力的な負担、それに加えて寒さという難敵を相手にしなければならぬ。  街道に着いた時に、どれだけ人数が減っていることか。 「だがゴロドがいたら何とする? またはジャグルが予想を超えて集まっていた場合は?」 「どちらにしても殺せばよい。小村とはいえここはイオルテスの、デルギリアの村であろう。それなりの武器も、戦える男も揃《そろ》っているはずだ」  グレシオスは天を仰《あお》ぎたい気持ちになった。 「……お主は、ゴロドの恐ろしさを知らぬとみえる」  だがそうせずに、呆《あき》れたように吐き捨てるに留《とど》めた。 「知っているとも」  男は口の端《は》をわずかに曲げた。 「そうは思えぬがな」  もし本当にこの男がゴロドを理解していたら、あの法外な腕力、戦闘力を知っていたら、戦えなどと言うはずがない。 「思うにお前はゴロドを警戒しすぎてるようだな。いや、恐れていると言った方が良いかもしれん」  男の言葉に、グレシオスはまたも怒りを覚えかけた。 「ゴロドを斃《たお》すには兵が居る。正規の訓練を受けた兵がな。この村にはそんな者はおらぬし、何よりゴロドが複数いた場合はどうするのだ?」  が、なんとか抑《おさ》えてそう尋《たず》ねた。 「だから偵察を出し、その上で行動を決めるか……」  そうなのだ。つまるところは男の言うように偵察を出し、状況をつかまなければならない。  グレシオスの言う事を理解したのか、男は立ち上がった。暖炉の火に照らされた影が、大きく伸びた。  どこをねぐらにしているのかは分からぬが、今日はこれで帰るつもりなのだろう。 「儂《わし》の判断が気に食わぬようだな」 「そうではない。ただもう少し考えてみるべきではないかと思うだけよ」 「……今日はここに泊まってゆけ。村を出るのは明るくなってからの方が良いであろう」  これはグレシオスからの、せめてもの気遣いであった。  旅人である男には、村人たちと行動を共にする理由はない。  一人の方が身軽であるし、明日の朝一番で出発して西に向かえば、無事にパラケウス街道に辿《たど》り着けるだろう。  それだけ告げると、グレシオスは部屋を出た。  自室に戻って休むつもりだったが、どういうわけか、足が武器庫の方に向いた。 「大殿」  途中、燈《あか》りを掲《かか》げたタデアスに会った。 「お休みになりますか」 「ああ。だがその前に武具を見ておきたい」  タデアスの表情が引き締まった。 「……戦《いくさ》をなさるおつもりですか」 「さてな……それはゴロドが居るかどうかにかかっておるな」  タデアスは無言で頷《うなず》いた。 「もうすぐ村の猟師がここにやって来る。来たら知らせてくれ。それがすんだらお前も休め。明日は忙しくなるぞ」 「はい。かしこまりました」  タデアスの手から燈りを受け取り、グレシオスは武器庫へ向かった。  通常、貴族の館《やかた》にあっては武器庫は別棟《べつむね》を建てて、その中に武器を収蔵するものだが、この館を建てるにあたり、グレシオスはそうせず、屋内の空いた一室をそのまま武器庫に利用してある。  隠居所であるし、武器庫と言っても事実上の『思い出倉庫』であるから、わざわざ別棟を建てるまでもないと考えたからである。  入り口に立って燈《あか》りを翳《かざ》すと、揺らめく光に照らされて武具類が浮かび上がった。  壁に沿って整然と並べられた槍や刀、横に休ませた弓、束《たば》ねられた矢がある。  リオプの下に着ける帷子《かたびら》なども、綺麗《きれい》に畳んで棚の上に重ねてあった。  リオプというのは幾重《いくえ》にも革を重ね、鉄鎖《てっさ》を縫い込んだコート型の鎧《よろい》であり、言うならば鎖帷子《くさりかたびら》である。  王国の貴族はリオプを正規の甲冑《かちゅう》としている者がほとんどであるが、沿岸部の貴族などは鱗甲《りんこう》を身につけている者もある。  この武器庫には二|領《りょう》のリオプがある。タデアスの分もここに収《しま》ってあるからだ。  もちろんいつでも使用できるように、きちんと鎧立てに飾りつけられてある。  盾《たて》も二|帖《ちょう》ある。両方とも騎乗用であり、一帖は青一面に塗られ、その上に大きくワタリガラスが描かれている。これはグレシオスの盾である。  もう一帖は青と黒とで交差四分割された中に、違え三本槍とワタリガラスが描かれている。これは分割図形と呼ばれる図案の一種であり、デ・オレイスと呼ばれるものである。こちらはタデアスの所有であった。  明らかにタデアスの盾の方が複雑な構図となっているが、当然、グレシオスの盾の方が家柄の高さを物語っている。  これはどういう事かと言うと、紋章は、その図案が複雑である方が豪奢《ごうしゃ》な感じがあるが、一概にそうとも言えないという事を意味している。  正規の大紋章などは、どれもみな豪華であるから、紋章の意味や歴史を知らない平民たちなどは、複雑な具象図形や、分割がなされた物の方が立派だと解釈するかもしれない。  だが事実は逆である。  紋章の本質は盾に描かれる部分である。つまり、余計な装飾を剥《は》ぎ取った本質の部分がそこに表現されているのである。  紋章は戦場にあって貴族が、彼我《ひが》の識別のため、盾や肩板に描くことより始まったと言われている。  ということは古い家ほど単純で、判別のつきやすい図柄を採用しているということになる。  家門が分割されていく過程が、そのまま紋章の分割複雑化を表していると言っても良い。  故に同じセウェルス氏族でも、グレシオスの紋章こそが最古のものであり、それから派生を繰り返して生まれたのがタデアスの紋章であると言える。  さてリオプが二領あるのだから、当然、兜《かぶと》も二頭ある。  片方の兜が、ひやりと目に入ってきた。  金猪《きんじし》の飾《かざり》を付けた兜である。  ――叔父上……。  元は叔父の科《しな》である。叔父エウスタスは、ベルガイアの戦いで壮烈《そうれつ》な戦死を遂《と》げたのだった。  今でも目を閉じれば、あの戦《いくさ》の情景が浮かんでくる……。  クレオラの策が決まると、レメンテム軍は大混乱に陥《おちい》った。  恐慌状態だったと言って良い。  戦場において包囲される恐ろしさは、味わった者でなければ分からない。  彼女が立てた策自体は単純なものであった。  正面の部隊でレメンテムの重装歩兵を支えきり、その間にイオルテスとヘクティスの騎兵部隊が左右から回り込んで包囲陣を形成する。  たったこれだけのことであるが、手持ちの兵力はレメンテムの約半数、しかも急遽《きゅうきょ》掻き集めた傭兵部隊を含む編成とあっては、誰もが不安を感じていたはずだ。  しかも、もっとも重要な正面の防衛に傭兵部隊を回すという。  集められたのは西方辺境に住むヴァルゲン人の傭兵部隊だった。彼らは戦意は高いのであるが守備に脆《もろ》く、持久力に欠けている。  その上連中は、軍規を守る能力にも劣っていた。  これはヴァルゲン人が、大概は部族単位で行動し、好き勝手に暮らしているというところにも理由があるのだろう。  適当に集合して、その場の勢いで戦闘するのならば、連中はかなりの戦力を発揮するのだが、集団行動は苦手なのである。  要は攻撃一辺倒の突撃集団であった。それをもって最重要な正面の守備に充《あ》てるとクレオラは言ったのだ。  しかも相手にするのは、近隣諸国にその名も高きレメンテムの重装歩兵である。一糸《いっし》乱れぬ統率で方形陣を組み、正面から激突してくる。  それに対して戦闘意欲はともかく、統率の行き届かない傭兵部隊をあてるというのである。  あの時、軍議の場にあった多くの者が、クレオラの正気を疑ったのではないか。  軍議は落ちついた空気の中で始まった。  諸侯の内、主立った者から順に意見を陳《の》べていった。王は静かに諸侯の意見を聞き、質問を発する事はなかった。  時のローゼンディア王はメレニウス四世。後世に名が残るであろう名君の一人である。 「ゼメレス侯の意見を採る。諸侯に異存はあるか?」  クレオラがあの細い声で進言を終えると、王は即座にそう宣言した。  見事《みごと》という他ない。  当時クレオラは領内の治政三年目、普通ならばそろそろ領主としての仕事にも慣れ、安定してきた頃であろうが、まだまだ新米《しんまい》である。  女性である事は関係ない。ゼメレス家に女性が立つのは、遥《はる》かな昔からの決まり事である。  とはいえ実際に刀槍を振り回すのは男である。加えてまだ若い新米領主の意見とあれば、誰もがその話を真面目に取り合えるわけではない。  人には先入観という問題がある。  あの時もそうであった。重要な軍議であり、王国の生死を分ける決戦になる可能性もあった。それは諸侯いずれも承知していたはずだ。  だがそんな帷幄《いあく》の中にあっても、クレオラの話を面白くなさそうに聞いている者が多かった。  所詮は若造、聞くほどの意見ではない――。  そのように考えていたのだろう。  それだけに、王の決断は諸侯の度肝《どぎも》を抜いたと思う。実際、グレシオスも驚愕《きょうがく》したのだ。  セウェルス宗家の家長とはいえ、叔父に支えられての立場である。若輩《じゃくはい》であることは辨《わきま》えていたから発言もしなかった。  クレオラも似たような年齢だったから、場の雰囲気は察していたはずだ。にもかかわらず滔々《とうとう》と自分の考えを語った。  立派な行為である。  だがやはり、真面目に取り合う者は少なかっただろうと思う。  しかし王は、クレオラの意見の価値を正確に見抜いたのだ。  即座に裁可《さいか》を下した王に対し、意見を陳《の》べたのは二人だけであった。  一人はヘカリオス侯デュレス。  王国の西部、ヘクティス地方に所領を有する領主であり、角《つの》持つ一族の西の宗主、栄《は》えある|狩猟神ダルフォースの末裔《ダルフォイヘーレイ》である。  つまりゼメレス家とは縁深く、その始祖を同じくする。狩猟神ダルフォースの息子たる双子の英雄フォルスとダナディオスである。ヘカリオス家はフォルスを、ゼメレス家はダナディオスを始祖としているのだ。互いに鉄弓《てっきゅう》を分け合う名族である。  この頃ヘカリオス侯は四十才前後だったと思う。  西部人らしい金の巻き毛を長く垂らしており、鼻の下には見事に整えられた髭《ひげ》を蓄《たくわ》えていた。  身の丈《たけ》もあり肩幅も広く、聞くところによれば騎射《きしゃ》の技に秀でているという事だった。  とはいえヘカリオス家の当主が弓術に劣るなどとは、まず考えられない事ではある。  ヘカリオス侯は王国貴族の名に恥じぬ偉丈夫《いじょうぶ》であったが、どことなく優雅さがあり、武将と言うよりもむしろ教養人という雰囲気を持っている人だった。  今にして思えばヘカリオス侯は、クレオラの天才を知っていたのではないか。  でなければ彼の賛成が納得しがたい。ヘカリオス侯は王に続いてすぐに言ったのだ。 「私もゼメレス侯の意見に賛成いたします」  と。これはさすがに同族の誼《よし》みで片附けられる問題ではない。  続いて意見を陳べたのは、叔父エウスタスである。  叔父の意見は自然なものだった。つまり守備力統率力に欠けるヴァルゲンの傭兵達を、何のゆえを以《もっ》て、もっとも重要かつ重荷になる正面守備に回すのか?  しかもその後ろは王の本陣である。  突破された場合、王が危険に曝《さら》されることになるのである。  ところがクレオラは問題ないと言うのである。 「本陣には私が兵を置きます」  そういう問題ではない。問題はあの規律のないヴァルゲン人を、どう統率して戦わせるかという事にあるのだ。 「彼らには一つのことしか命じません。それを守れないということはないと思います」  守れなければどうするのか? 「督戦隊《とくせんたい》を置きます」  それで諸侯の顔色が変わった。嫌そうな顔をする者が幾人かあった。  督戦隊とは兵を励まし、戦わせる部隊の事であるが、早い話が逃げてくる味方を殺すのが仕事である。  退却封じの部隊であり、それを好きだという者など、まずいないのであった。 「守備の兵が足りぬとあれば、同盟のヴァルゲン王を加えましょう。ヴィルモーシュ王などがよろしいかと思います」  この発言も場の諸侯を驚かせた。呆《あき》れたような囁《ささや》きさえ起こった。  ヴィルモーシュ王はローゼンディアの近くに支配地を持つ、ヴァルゲン人の王である。  なおヴァルゲン人とは、ローゼンディアの西北方に住む人々である。  宏大《こうだい》な範囲に幾《いく》つもの部族や氏族が存在しており、それぞれに首長や王を立てている。  ヴィルモーシュはそんな王達の一人であったが、過去にローゼンディアと戦ったことがあった。  しかも裏切りである。  今回の戦《いくさ》ではローゼンディアに味方すると宣言しているが、いったいその肚《はら》の内がどういうものなのかなど、まるで見当がつかぬ。  土壇場《どたんば》でレメンテムに寝返る可能性は十分にあると言えた。 「彼は裏切りません」  クレオラは断言した。 「もしここでローゼンディアが破れれば、彼にとっては非常にまずい事態となるからです。彼は目端《めはし》の利く男ですから、その辺は良く承知しています。少なくともこの戦の間は真面目に我々の味方をしてくれるでしょう。ですから重要な役目を割り振っても問題はありません」  要するにヴィルモーシュに精々《せいぜい》働いてもらおうということだった。  奴にとっては命懸《いのちが》けだが、この事に関しては当然、王を含めて諸侯誰一人、異議を差し挟む者はなかった。  あのレメンテムの重装歩兵の正面に立つというのは、相当な覚悟と実力、そして何より神々の加護が必要だ。  よりにもよってヴィルモーシュに神の加護が与えられるとは思えなかったが、それは諸侯いずれも同じ意見であったらしい。 「それにしてもヴィルモーシュは我等が大神方の御加護を受けておらぬはず。一体どこの神に祈るのでしょうな?」  ヘカリオス侯が不思議そうに言うと、軍議の場に笑いが起こった。  それで緊張が解《ほぐ》れたのか、その後、諸侯の配置は速やかに決まっていった。  やはり諸侯の不安は正面の部隊の構成と、その防禦《ぼうぎょ》能力にあったようだが、クレオラが強調したのは、むしろ左右に展開した騎兵部隊であった。  とにかく騎兵部隊がいかに早くレメンテム軍の背後に回り込むか。  本陣から見て右の部隊は、主にイオルテスの戦士達で編成された。  その中心はセウェルス宗家の軍であり、つまりグレシオスとエウスタスが右騎兵部隊の総指揮を司《つかさ》どることになった。  左の騎兵部隊はヴァルゲン人達との混成部隊であり、ヘカリオス侯デュレスが司どることになった。  騎兵戦の決着を出来うる限り速くつけること、正面に立つ守備隊は敵を倒さず、その場に釘《くぎ》附けにすること。  この二点が作戦の要諦《ようてい》であった。  諸侯が心配していた正面の部隊に関しては、ヴァルゲン人部隊の背後に精強な歩兵部隊を並べた。  まず王を中心にゼメレス侯クレオラの部隊。その左右にそれぞれ|海神ゼフルの末裔《ゼフルヘーレイ》のグライアス侯、|火と鍛冶の神ロンディムの末裔《ロンディムヘーレイ》のアラルコス侯を配した。  いずれも七宗家を占める名族である。  七宗家の最後、|嵐神ドヌスの末裔《ドヌスヘーレイ》のエンデュオス侯は、左の騎兵部隊に加わってヘカリオス侯の指揮に従う事になった。  それ以外の諸侯達は、各自が連れてきた兵の編成を規準に、己が属する七宗家の部隊へと振り分けられた。 「この戦《いくさ》は早さが命。成否はヘカリオス侯とセウェルス侯、エンデュオス侯が握っておられます。そのことをくれぐれもお忘れなきよう」  軍議を解散して天幕を出るとき、クレオラは特にグレシオス達、騎兵部隊の諸侯を呼び止めてそう言った。  あまり心配をしているという風ではなく、かと言って励ましている風でもなかった。  クレオラは、あのどこか眠そうな印象を与える眼で静かにグレシオス達を見て、淡々と言ったのだった。 「承知しておるさ」  ヘカリオス侯は白い歯を見せた。 「婿殿《むこどの》にも期待させてもらう。では」  草色のマントを飜《ひるがえ》し、ヘカリオス侯は自分の陣へと去っていった。  婿殿、というのはグレシオスのことだった。  この戦が終わった後に、グレシオスはヘカリオス侯の娘ディフォネと結婚することが決まっていたからである。  どう答えて良いものか迷って叔父に目を向けると、叔父は無言で両眉を上げて見せた。  さて……困ったものだな。  言葉にすれば、そんな気持ちだったのかもしれなかった。  エウスタスとグレシオスが率《ひき》いてきたのは、デルギリアの兵達だけではない。  イオルテス地方を抜けてくる間、途中で集められる兵は出来るだけ加えるようにしながら、王都まで駆けてきた。  東部イオルテス地方は高原地域であり、東はそのままトゥライ高原へと繋《つな》がっている土地である。  デルギリアはその中でも東北部にある。東のトゥライだけでなく、北のヌーガも警戒しなくてはならない。王国の護《まも》りとして重要な土地なのだ。  その兵は強悍《きょうかん》であり、王国でも最強の騎兵部隊を有する地域なのである。  馬|疾《はや》きイオルテスと人は言う。  それはまさに、デルギリアにこそ当て嵌《は》まる言葉である。  セウェルス氏族の騎兵部隊は、その強力さを周辺諸国に知られているのだ。  戦《いくさ》はクレオラの想定どおりに進んだようである。  レメンテムの重装歩兵の激突を受けたのはヴァルゲン人傭兵部隊と、ヴィルモーシュなどの同盟の王達だった。  ヴィルモーシュ以外の二人の王も、やはり損得勘定であちらに付いたり、こちらに付いたりという節操のない連中であったから、最前線に配置するにあたっても、誰からも同情の声は出なかった。  ただし彼らの戦闘力に対する疑問の声は出た。  だがそれも問題なかろうということで落ちついた。  何しろ後ろに我が軍、前にはレメンテム帝国軍という状況なのだ。  戦闘が始まれば、必死に戦う他はない。  もし彼らが総崩れになっても、レメンテムの軍列が巻き添えを食うことは間違いない。  その時はそこを、後方に控《ひか》えた我が軍が襲いかかる。  レメンテム軍はその激突力を減殺《げんさい》されているはずである。ヴァルゲン人部隊との戦闘で、鉄壁の戦列を乱しているからである。  対して我が軍は無傷である。あとは味方の騎兵部隊が、敵軍後方に回り込むまでの時間を持ち堪《こた》えればよい。  または期待通りにヴァルゲン人達が必死に戦って、レメンテム軍を食い止める事に成功すれば、通常どおりに策を運用するだけである。  いずれにしても騎兵戦の決着が、この戦全体の趨勢《すうせい》を決めるというわけだった。  正面を守備するヴァルゲン人達に対して、クレオラが下した指示は単純であった。 「各自決して前進してはならぬ。持ち場を離れず、その場で戦うべし」  これだけである。  一方味方のローゼンディア重装歩兵には、それを指揮する諸侯に詳細な注意を与え、王の本陣からクレオラ自身が全軍を掌握《しょうあく》する体勢になっていた。  何せ戦《いくさ》は生き物であるから、始まってみなければ判らない。  その都度《つど》その都度、臨機応変に情勢を判断して指示を下す敏捷性《びんしょうせい》、いわば反射神経と、何より天与《てんよ》の勘とでも言うべきものが、将にとって必須の条件なのである。  そしてこの点においてもクレオラは傑出していた。  ヴァルゲン人達の戦列が、ぎりぎりで崩れ始めるかどうかというタイミングで、軍を動かしたらしい。  実際に見たわけではないが、そういう話だった。  その頃グレシオス達の騎兵部隊は、レメンテムの騎兵部隊と激突していたのだ。  喊声《かんせい》こそ耳に聞こえ、遠目にも大軍の激突が見えてはいたが、我が軍は敵の正面突破を許さなかった。柔軟に陣形を変化させ、レメンテム軍を包みこむようにしつつあった。  後に聞いた話では、この時突出してきていたのはレメンテムの将軍、バロネが率いる歩兵部隊であったという。  当然、バロネはこの戦で戦死した。  グレシオス達イオルテスの騎兵部隊が相手にしたのは、将軍ウーベルト率いる騎兵部隊であった。  敵騎兵部隊を目にしたときの興奮は忘れない。  レメンテム騎兵は真紅の飾兜《かざりかぶと》を被《かぶ》っている。おかしな話ではあるが、それが花のようだと思った。  土煙の向こうに赤い花が幾つも咲いていた。鉄の棘《とげ》で身を鎧《よろ》った赤い花だった。  対してグレシオスの周囲は青の軍装であった。  デルギリアの戦士達はイスターリスの末裔である。ワタリガラスの徽章《きしょう》を身に着け、青いマントを羽織《はお》っていた。  視線の先には赤花《しゃっか》の如き人馬の列、耳を聾《ろう》する人馬《じんば》の轟《とどろ》き。  味方から、古代ヴォルグヘル族の雄叫《おたけ》びがあがった。  グレシオスも叫んだ。天を駆けているような心地がした。  ――飛び越える神よ。  ――忿怒《ふんぬ》せるイスターリスよ。  槍の届く距離まで来たとき、一斉《いっせい》に味方が槍を投じた。レメンテム騎兵の上へと、雨のように槍が降った。  投擲《とうてき》直後に抜刀《ばっとう》した。そして、激突した。  盾の裂ける音、鉄と肉が断たれる音、怒号と絶叫とが馬蹄《ばてい》の轟《とどろ》きに重なりあい、津波のごとく耳を打った。  ――何も聞こえぬ。  いや、一つだけ聞こえる音があった。  己の心臓の鼓動だ。  その音だけは、確かに聞こえた。いや感じた。  そして心臓の音に耳を傾けるとき、グレシオスは不思議な静けさを体験した。  耳が壊れるほどの大音響である。静かさなどあるはずもない。  にもかかわらず、グレシオスは己の周囲に静謐《せいひつ》さを感じた。  音はなく、血の臭いも感じなかった。ただ人馬の動きだけが、異様なほどにはっきりと目に入ってきた。  いや、音も臭いもあることは判っていた。ただそれが届いてこない。気にならない。  奇妙な感覚であった。  静かであった。  ――極まった轟音《ごうおん》は、静穏《せいおん》さに等しい。  後になってそう思ったことを、憶えている。  爆発する音の本流の中、生と死とが、周囲至る所で炸裂《さくれつ》し、人の命が火の粉のように燃えて散った。次々と目の前に現れる騎馬武者を、切っては捨て、切っては捨てた。  湯のように熱い血が左右から体を打ったが、それよりなお己の体は熱く、熱せられた石のように感じた。  こうなると、後はひたすら目の前の敵兵を殺し続けるのみである。指揮など考えている余裕はなかった。  グレシオスが戦場における指揮や、状況の把握などの能力を磨く契機になったのはこの戦であるが、それは叔父エウスタスを喪《うしな》ったからである。  そのことが将としての成長を促《うなが》したとはいえ、グレシオスにとっては、大きすぎる代償だった。  戦いが始まってどれほど経ったのか。  ようやくレメンテムの騎兵部隊を討ち破り、敵重装歩兵の背後へと、大きく回り込んだ頃の事だったと思う。  ヴァルゲン人の傭兵部隊を指揮するため、正面に立っていたヘカリオス侯デュレスの部隊が敵に呑み込まれそうになっていた。  クレオラの包囲陣が完成し、敵は大混乱であったが、味方とて、落ちついていたとは言えなかった。  そもそも戦場では大まかな味方の動きを目で追って、後は現場の勘で動くものである。あらかじめ作戦があろうが無かろうがこれは変わらない。  ヘカリオス侯の周辺では、恐慌をきたして総崩れになる敵と、我先に襲いかかろうとするヴァルゲン人達の騎兵部隊とが入り乱れていた。  無論ヘカリオス侯も、領地から連れてきた重代《じゅうだい》の家臣達に守られてはいた。  だがその騎兵部隊にしても、高速で駆け抜けての戦闘を重ねてきたためだろう、かなり纏《まと》まりが弱くなっているようだった。  グレシオスの周囲にしても多くの兵が随《したが》っていたわけではない。部隊は大きく伸びていた。  そもそも包囲陣を作るように兵を動かしているのだから、厚みが減るのは当然でもあった。  その上でヘカリオス侯は、より統制の利かぬ兵達を指揮していたのだから、自身が突出しすぎたのかもしれなかった。  貴族たる者、戦場で先頭に立つのは当然である。  しかも頂点に位置する七宗家の者が、兵の後ろに隠れるなど、あってはならぬ事である。  それゆえ叔父もグレシオスも、常に先頭を駆けた。名誉ある貴族ならば当たり前の行為である。  ヘカリオス侯もまた名誉ある者だったのだろう。その結果|窮地《きゅうち》に陥《おちい》ったのだが、それも運命、あとは力の限り戦うのみである。  侯の周囲を固める家臣達も死を覚悟していたのであろう、凄《すさま》じい戦い振りであった。  遠目にそれが見えた。どれほど見ていたのか。それは分からない。  近くに騎馬が寄せられる気配でそちらを向くと、返り血を全身に浴びた叔父が、肩の周りから湯気を立たせていた。 「ヘカリオス侯が……」 「分かっている」  叔父は短く答えると、持っていた槍を捨てた。折れていた。すぐに近くの騎兵が駆け寄ってきて、新しい槍を差し出した。 「花嫁の父親が不在というのは恰好《かっこう》がつくまい」  兵から新たな槍を受け取りながら、叔父はグレシオスに言った。 「兵の指揮は任せた。この包囲を崩さぬようにせよ。余計な考えは起こさず、ゼメレス侯の指示を守る事だけを考えよ」 「無茶です」 「やってみねば判るまいよ」  いつもどおり頼もしげな様子だった。だからグレシオスは強く制止することができなかった。  危険なことは分かっていた。両軍が入り乱れ、激烈な殺し合いが展開されていた。叫《おめ》き声が雷雲のように響く中、土煙が渦《うず》を成していた。  ヘカリオス侯の部隊は渦の中心に位置していた。取り巻くレメンテムの層は厚く、それを突き抜けていくだけでも容易ではないのだった。 「心配するな。必ずヘカリオス侯はお救いする」  いつものようにグレシオスの肩に手を置き、叔父は僅《わず》かに微笑《ほほえ》んだ。  いい笑顔だった。  制止すべき言葉は、それで何も言えなくなってしまった。 「……御武運を」  グレシオスの呟《つぶや》きに、叔父は無言で頷《うなず》いた。力強い青い瞳。決死の覚悟を固めていたに相違《そうい》無い。  そうして叔父は僅かな騎兵だけを連れ、死地に赴《おもむ》いていったのだ。  返り血に彩《いろど》られた青いマントを飜《ひるがえ》し――。  誇らしく槍を掲《かか》げ――。  つき随《したが》う勇士たちもまた同じように――。  それが叔父エウスタスの生きた、最後の姿だった。  耳の奥に甦《よみが》える古代ヴォルグヘルの戦士の雄叫《おたけ》び。  鼻を突き刺す血と土の臭い。  嫌な予感に胸押しつぶされそうになりながら、見送った遠い記憶。  思いもかけず叔父の思い出が蘇《よみがえ》ってきて、グレシオスは胸が苦しくなった。  大盾に載《の》せられて戻ってきた叔父の姿が思い出された。  辛《つら》かった。身を引き裂かれるほどに。  ――叔父上、あなたは偉大でした。ヴェルデスの血を引く勇者として、その名に恥じぬお方でした。私など、叔父上の足元にも及びませぬ……。  偉大な叔父はきっと、父祖たちの坐《いま》す勇者の館《やかた》で、他の御先祖方と酒でも酌《く》み交《か》わしておられるのだろう。  あの偉大なエウスタス・セウェルスが、勇者の館に席を与えられぬことなど、あるはずがないのである。  それにしても時の流れは……。  不可思議としか言い様がない。  あれからもう三十年以上が経っていると思うと、何だか夢のようでもある。  目の前の飾兜《かざりかぶと》は磨き上げられ、細かな傷が表面にはついている物の、あの時とまるで変わらぬようにも見える。  叔父からグレシオスへ。  主人は変わっても、飾兜は立派にその役目を果たし、グレシオスの生命《いのち》を守り続けてくれたのである。  そう言えばゴロドと戦った時に、兜の右上を攻撃が掠《かす》めたことがある。  触れるか触れぬかの微妙な一撃で、実際には当たっていなかったのだろうが、あの時の凄《すさま》じい迫力には肝《きも》が冷えた。法外な一撃であった。  もし掠りでもしていたら、首が千切《ちぎ》れていたであろう。  棚の上に燈《あか》りを置き、グレシオスは飾兜を取り上げた。  迷っていた。  これから村の猟師が来る。その者に偵察を命じなければならない。  命懸《いのちが》けの役目である。  ジャグルの部隊までの距離を考えると、既に街道沿いには見張りが立っているかもしれない。  無論、ゾエ村が滅んだことを前提としての話である。  嫌な想定ではあるが、この考えが当たっている公算は大きいだろう。  何よりそう考えぬと、今考えている話そのものが成り立たぬのだから仕方ない。  ジャグルの部隊がナウロス村に到達するのは、おそらく明日の夕方以降。となると偵察役は、移動中のジャグル達に出会《でくわ》す危険性すらある。  臨機応変に行動できるよう訓練された兵でもない、一介の猟師には、荷が重すぎる仕事である。  ゴロドが居れば村を捨てる。居なければ籠城戦《ろうじょうせん》。  この決定は動かない。そして、一刻も早くどちらかに決めなければならない。  ――叔父上、私はいったいどうするべきなのでしょうか……。  もはや己の年齢は叔父の享年《きょうねん》を越えている。  だが今でもグレシオスは、あの偉大な叔父に並ぶ事ができたとは思えない。  他人が何と言うか、どう思うかは問題ではなかった。  グレシオス自身が、今でも叔父の存在を感じ続けている。そのことが重要だった。 「迷っておるのか」  背後から声をかけられた。振り向くと、武器庫の入口に誰か立っていた。  燈りを棚に置いてある所為《せい》か光量が足りぬ。入口の人影が誰であるか判《はん》じがたい。  今、この館《やかた》に居る者は分かっている。タデアスがこんな口調で話しかけてくるわけはない。  つまり声をかけたのが何者であるのかは分かっている。  そのはずなのに何故かグレシオスには、少し離れて立っている背の高い影が、先程《さきほど》まで客間で向きあっていたあの男だとは、どうしても思えなかった。 「イスターリスの裔《すえ》たるレオンティウスの息子、堅忍不抜《けんにんふばつ》の勇者グレシオスよ――」  影は静かに呼びかけてきた。  力強い低い声だった。優しさと励ましが籠《こも》っていた。  何より、聞き憶えのある声だった。  ――叔父上!?  グレシオスは総毛だった。馬鹿な。そんなはずはない。  だが今、耳にしたのは叔父の声だった。あの懐かしい声。暖かく、力強く励ます叔父の声だった。  グレシオスが挫《くじ》けそうになると、叔父は良く言ったものだった。 「イスターリスの裔たるレオンティウスの息子、堅忍不抜の勇者グレシオスよ――」  しっかりせよと。己がいかなる血を持っているのか、どれほどの名誉がそこに籠《こ》められてあるのか理解せよと。  身に余る言葉だと思った。  だからそのたびに、グレシオスは全身に力を籠《こ》め、運命に立ち向かってきた。  戦場での恐怖も疲労も、歯を食いしばって耐えてきた。  己は英雄ヴェルデスの血に連なる者、戦神イスターリスの末裔なのだと。  そのことを決して辱《はずかし》めてはならぬと。  だからそれを辛《つら》いと思っても、投げ出そうと思ったことは一度もない。  厳しい道であったのかも知れぬ。  それでも、そこには確かに栄光があった。光輝く栄光が。  あの偉大な輝きに身を捧《ささ》げることは、貴族にとって最高の行為であり、名誉であり、つまるところ己の存在する価値そのものなのだ。  だからそれを実行してきた。後悔はない。 「偵察を出してはならぬ。その者は帰って来られぬだろう。人の命を粗末に使うような真似《まね》をしてはならぬ」  影は叔父の声で語り続けた。そう、叔父ならそのように言うだろう。  あの人はいつも言っていた。 「我等は民の盾ぞ」  民によって貴族は養われているのだと。人々が額に汗して働いた成果を、我々は受けているのだと。  領内の人々が貴族の食べる物を作り、住むべき館《やかた》を建て、着るべき衣《ころも》を織り上げる。  だから貴族は民のために死ぬのだと。戦えぬ者達のために戦うのだと。  叔父は常にそう言ってグレシオスを教育した。  民に命を返す。  それが貴族の唯一の、そして絶対の責務であると。  叔父上……。  グレシオスは口に出そうとした。その言葉を。  だが影が動き、こちらへと歩み寄ってきた。すぐにぼんやりとした燈りの中に、あの男の姿が浮かび上がった。  それを見て急に緊張が抜けた。張り詰めていた何かが霧消《むしょう》した。  やはり……そんな納得感と共に、子供っぽい幻滅を感じた。  グレシオスは飾兜を戻してから、男に向きあった。 「眠らずに出発するつもりか?」 「いや、ちゃんと眠るさ」  男は広い肩を竦《すく》めた。 「偵察は出すな。無駄死にをさせるだけぞ」 「ではどうしろと言うのだ?」 「儂《わし》がギルテにまで駆けて急を報《しら》せよう」  グレシオスは耳を疑った。 「……何だと?」 「ここからパラケウス街道を目指すなどという無茶は止めるのだ。多くの村人が途中で死ぬであろう。それよりもこの村で踏み堪《こた》えよ。儂が必ずギルテの援兵《えんぺい》をここに送らせよう」  無茶な話だった。  ブレイオンの往還《おうかん》をギルテまで疾駆《しっく》するならば、途中でゾエ村を通過せねばならない。  つまりジャグルどもの中を、突っ切って行かなければならないのである。 「無茶だ」 「やってみねば判るまい」 「死ぬぞ」 「やってみねば判るまい」  男は笑って答えた。何故笑えるのか。グレシオスには理解できなかった。 「……ものを多く知ってはいても、考えの方は回らぬようだな」  グレシオスは皮肉を言った。男はさらに笑みを深くした。 「やってみねば判るまい」  三度そう言った。顔全体で作る笑顔は、どこか子供のようでさえある。  年端《としは》もいかぬ赤子のような笑顔だと思った。どうしてそんな風に笑えるのか。  グレシオスの胸の裡《うち》に、畏《おそ》れにも似た思いが細波《さざなみ》のように起こってきた。 「必ずこの村にギルテより援軍を来させよう。それでもお前は戦わないと言うのか?」  笑顔を吹き消し、男はグレシオスに真剣な眼差《まなざ》しを向けた。 「儂には、村人を守らねばならぬ責任がある」 「お前は本当に村人の事を考えているのか?」 「何?」  グレシオスは気色《けしき》ばんだ。これは聞き捨てならない言葉であった。 「ひょっとしてゴロドが、恐ろしいだけなのではないかと思ってな」 「貴様……もう一度言ってみよ」  グレシオスは男を睨《にら》みつけた。隠退したとはいえ、グレシオスは歴戦の勇士である。  ひとたび怒れば、その威圧感には凄《すさま》じいものがある。  屈強な兵士でさえ怯《ひる》むであろう。  そんなグレシオスの怒りの眼差しを向けられて、しかし、男はまったく気にしていない様子であった。  胆力があるのだとしたら、並の胆力ではない。  だが今までの男の様子から考えると、これは胆力があるというよりも、むしろ状況を解する感性に欠けているのかもしれなかった。  ……ならば身体《からだ》に教え込んでやるまでよ。  王国貴族の嗜《たしな》みとして、男子はレスリングに習熟していることが多い。  グレシオスも子供の頃からレスリングを教え込まれてきており、その腕にはいささかの自信があった。  男もまたレスリングに習熟している可能性は大いにあったが、その時はその時である。  どのみちお互い、多少は痛い目をみることに違いはないのだ。  グレシオスは全身に気魄《きはく》を漲《みなぎ》らせた。戦場《いくさば》を踏んだ経験のある者ならば、これで危険を察知するはずだった。  グレシオスがまさに動き出そうとする機を捉《とら》えて、 「明日、お前の指示に従って村を捨てる者達はどう考えているかな?」  と、男は呟《つぶや》いた。 「どう、とは?」  機先《きせん》を制される恰好《かっこう》になり、グレシオスも呟き返した。  口調に表れないように注意したが、内心は驚いていた。やはりこの男はただ者ではない。  グレシオスの胸の内を読み、それを踏まえて言葉を発しているのだ。  となれば――。  この男は事態を把握している事になる。  その上で、真剣に何かを伝えようとしているのだ。  この男なりにではあるが。しかもその遣り方は礼儀に律《のっと》ったものとは言いがたい。  だが遣り方は褒められたものではないにせよ、今、グレシオスは男の話を聞かねばならないと感じた。  理屈ではない。直感的にそう思ったのだ。 「助かるために村を捨てよ、と命じられた者達は、逃避行の厳しさを了見《りょうけん》はせぬだろう。己が死することになるかもしれぬ、とは考えないであろうよ。だが間違いなく多くの者が死ぬ。お前はそれで良いのか?」 「それでも全滅するよりはマシではないか」 「……分かってはおらぬようだな」  男は苦笑して首を振った。どこか困ったような笑い方で、グレシオスは、やはりこの男は自分の事を、己より齢《とし》若い相手として見ているのだと思った。 「お前に村を捨てて逃げるように命じられれば、村の者はこう思うだろう。『御領主様に従えば、皆助かる』とな。だがそうはならん。体力に劣る者達は、おそらく生きてパラケウス街道には辿《たど》り着けまい」 「……それは説明をする。明日、儂《わし》自身がな」  嫌な役目ではあるが、事情を正確に説明して納得してもらわなければならない。  その上で村人の希望を聞くしかあるまい。  だがもし村人が、「村を捨てずに戦う」と言った場合には、どうするべきか?  村人を指揮して無謀な戦いを挑《いど》むべきか?  ゴロドがいれば全滅は間違いないだろう。  それを話してなお、村を離れるのを拒《こば》むとは思えぬが、もし村人達が一戦構える事を主張するならば、己は如何《どう》するべきであろうか……。 「違う。お前は分かってはおらぬ」  男は首を振った。 「だからどう違うというのだ?」  焦《じ》れてきたのでグレシオスは急《せ》かした。 「村人はお前の事を信じているであろう。お前に従えば、必ず助かると思っているはずだ。その村人に対して、お前は、出来の悪い木の実を、篩《ふるい》にかけるような真似《まね》をすると言っているのだぞ」  男の言葉に、グレシオスは少なからず衝撃を受けた。  村を捨てるというグレシオスの判断の、本質を突いていたからだ。 「お前は戦場を駆け、長く戦士として生きてきたのであろう。だが村人はそうではない。戦場の理屈で彼らの命を、生活を考えてはならぬ。彼らは戦士ではないのだ。己の生死に、仲間の生死に目算《もくさん》を付けるなどということを、するわけがないであろう? 彼らはお前を信じるだろう。それはお前に従えば必ず生き延びられると信じるからよ。その者達の気持ちを、お前は本当に解《わか》っているのか?」  男の口調は決して居丈高《いたけだか》なものではなかった。先程《さきほど》のように挑発する風も無かった。  ただ静かにグレシオスに語りかけていた。  グレシオスが理解できるように、根気よく説明を重ねてもくれた。  その事を理解した途端、脳髄《のうずい》が痺《しび》れるほどの羞恥《しゅうち》を感じた。  何か言葉を発しようとしたが、口から漏《も》れるのは空気だけだった。  己の短慮《たんりょ》に恐怖すら感じた。 「村人の総意が村を捨てて逃げ出すということならば構うまい。そうすれば良い。まずそのように考えるであろうな。だがそれは短見であると儂《わし》は思う。武器を持った者達から逃げねばならぬという事の意味を、村人が理解できておるかどうかは疑問であろうよ」  そうなのだ。  単純にして明快な事実がある。  ――村人達は戦場を知らぬ。  だから彼らに判断を求めても、そのことを加えて考えなければならない。  追跡を振り切って逃げるということの難しさなど、彼らは考えた事もないであろう。  そんな彼らが逃避行を選択したとして、その覚悟を信用するわけにはいくまい。  例えるならば、それは子供に対して、難しい事柄の理非《りひ》判断を求めるようなものだ。  相手の意思を尊重するようでいて、その実、現実に対して目を瞑《つぶ》ることが隠れている。  無論、常に己の判断が正しい、己が優先するというつもりは更々《さらさら》無い。  だが、自分は騎士である。長い年月戦場を駆け続けてきた戦士である。  こと戦いに関してはいささか誇るものがあるし、その事を恥とは思わない。  自分は一度たりとも名誉を裏切り、神の道に背を向けた事はないと言うことができる。  自惚《うぬぼ》れではない。  戦場は聖域である。その場においては一才の虚飾《きょしょく》は剥《は》ぎ取られる運命にある。戦場では真実以外は存在できぬのだ。  生か死か。  極限にまで単純化された真理のみが、存在する世界なのだ。  決して美しい世界ではない。  逃れようのない真実の光が、全てを照らし出すのが戦場である。  その中で、自分は幾《いく》ばくかのことを学んできたとは思う。  ならばそれを活《い》かすべきなのだ。  人には誰もに、納得して生きるべき生がある。  刀槍《とうそう》を持てぬ者達のそれを守るのが己の務《つと》めだ。  領民のそれを守ってやるのが貴族たる己の務めだ。  そしてそのためには、己の知恵と経験は、村人達の希望する範囲内で活かされなければならないのだ。 「イスターリスの裔たるレオンティウスの息子、堅忍不抜の勇者グレシオスよ――」  言い聞かせるように、男はそう口にした。  先程、叔父の呼びかけと錯覚を起こした言い回しである。  これは古風な呼びかけの言葉であり、名家の者にあっては作法の一つとして、今でも使用されている決り文句なのだ。  だからこの男が使用したところで問題はない。  無礼ではない。むしろ礼に適《かな》っている。  ただしどちらかと言うと、若年者に対して使用される事が多い言い回しであるから、そこは微妙ではある。 「大切なのは判断を誤らぬことだ。そのためには心を澄ませて状況を見定めねばならぬだろう。不安に眼を曇らせてはならぬぞ。儂は何も必ず戦うべしと言うつもりはない。村人達が戦いたくないというなら仕方あるまい。勧《すす》められる事ではないが、村を捨てるのもよかろう。どちらにせよ必要以上に臆病になることはないと言うておるだけよ」 「お主《ぬし》の口振りでは、むしろ一戦構える事を主張しておるようだが」 「確かにな。そう聞こえるかも知れぬ。何故《なぜ》ならゴロドがおるとしても一匹であろうからな」  グレシオスは不思議に思った。何故、この男はそう思うのであろう?  今まで正しい事を言ってきたのだから、ゴロドは一匹だという判断にも、信が置けるとは思う。  だが一体何故? 「不思議か?」  男は片目を瞑《つぶ》って見せた。 「二匹のゴロドとジャグル達が共に行動するとなれば、かなりの大部隊になるからよ」 「何故そう思う?」 「古《いにしえ》の伝承を思い出せ。奴らは統制に欠ける。抛《ほう》っておくと共食《ともぐ》いを始めるくらいであるからな。強力な指導者が率《ひき》いているのでない限りは、大規模で動く事などまずあり得ん。そして高々《たかだか》三十や五十やのジャグル達だけでは、二匹のゴロドを統制するのは無理よ」  なるほど。  確かに地虫《じむし》どもは纏《まと》まりに欠ける連中ではある。グレシオスは父祖達のように恐るべき大軍を相手にしたことこそないが、それでもジャグルの小集団を退治たことは、幾度もあった。  連中は本能だけで行動しているようなところがある。獣に邪悪な知恵を加えたような存在なのだ。それでも充分危険ではあるが。 「あの若者が見ていないだけで、後続が控《ひか》えていたら?」  見えない敵という可能性はある。  それについての男の意見を聞いておきたかった。 「それはおそらくないであろう。もしそんな部隊がいるとすれば、疾《と》うに発見されて、ギルテに連絡が行っておることだろうさ」  グレシオスも同じ考えであった。  ならば――。 「ゴロドがいるとしても一匹、ということか……」 「そういうことだな」  廊下を足音が近づいてきた。タデアスであろう。 「大殿《おおとの》、村の猟師が来ております」  グレシオスはタデアスの顔を見た。タデアスは燈《あか》りを持っていたので、その緊張した表情をよく見ることができた。  男もまたグレシオスをじっと見ていた。 「…………猟師はそのまま帰してよい。儂の考え違いであった」  タデアスは怪訝《けげん》な顔をしたが、すぐに頷《うなず》いた。 「分かりました。そのように伝えて帰します」  タデアスが玄関に向かって去ってしまうと、グレシオスは男に目を向けた。 「本当にギルテまで駆けるつもりか?」 「お前もくどいな」  男は呆《あき》れたように眉を寄せた。 「儂は三度同じことを答えたぞ。この上さらに同じ言葉を言わせるつもりか?」 「武器、鎧はあるのか?」 「無論」  グレシオスは多少|安堵《あんど》した。馬があるのは当然である。聞くまでもない。  武器はともかく鎧《よろい》が用意されてあるのは心強い。  ジャグルの群《むれ》を駆け抜けて突破するのは、かなりの難事であろうが、この男ならばやるかも知れぬ。できるかも知れぬ。  心の中で、もうこの男を頼りにしている気持ちがある。  それに気付いた途端、苦笑が浮かんできた。 「何がおかしい?」 「いや、おかしな事になってしまったものだと思うてな……」 「それで結局、どうするつもりなのだ?」 「明日、村人を集めて十分に説明をつくしてみよう。その上で村人の決めた方に、儂は従うつもりだ」  グレシオスは棚上の燈りを取った。 「儂はこれで休む。お主も休め」 「そうしよう」 「初めてであるな」  ふと思いついて、グレシオスは口にした。 「何がだ?」 「お主がこの館《やかた》に泊まる事がよ。馬は大丈夫なのか?」 「信用のおけるところに預けてある。明日の朝取りにいくから心配は要《い》らん」 「そうか」  ならば問題はない。  さて、男を客間に案内せねばならぬが、タデアスはもう休んでいるだろう。 「寝室へ案内しよう。ついてくるがいい」 「明日は朝から忙しくなるな」  グレシオスの背後をついて歩きながら、男はそう呟《つぶや》いた。 「そうだな」  グレシオスは答えた。もちろん、明日の朝にゾエ村からの急使が来るのが一番良い。  無事ジャグル達を撃退し、人手《ひとで》を求めてくる使者が現れてくれるのが一番良い。  ――だがそうはならぬだろう。  グレシオスには、確信めいた強さでそう感じられるのだった。 [#改頁] 四.射  戦いをするにせよしないにせよ、緊急時を控《ひか》えた夜というのは久しぶりである。  興奮して眠れないのではないかという危惧《きぐ》があったのだが、それはあたらなかった。  寝床《ねどこ》に入ると、すぐに安らかな眠りがグレシオスを包みこんだのだ。  神の恩寵《おんちょう》か、それとも戦《いくさ》に対して、身体《からだ》の方が自然と準備をしたものかは判らぬが、有難《ありがた》いことではある。  目覚めも自然とやってきた。気持ちよく朝を迎えられた。  ――最後の朝かも知れぬがな。  そんな事を考える。だがそこに自嘲の色はない。良い傾向だ。  心の中に『傾き』があるのは良くない。  上手くは言えぬが、戦場働きの中でグレシオスが確信したことである。  ゾエ村からの使者は現れなかった。  その事はたった一つの残酷な事実を、否応《いやおう》なく突きつけてくる。  ゾエ村は全滅したのだ。昨晩使者に立ったあの若者を除《のぞ》いて。  次はこのナウロス村だ。うかうかしてはおれぬ。  すでに食事も軽く済ませてあった。  これから村の中心にある神殿にまで行き、集まっているであろう村人に、話をしに行くのだ。  男の姿は見えなかった。食事の後すぐに席を立ったから、おそらく馬を取りに行っているのであろう。 「大殿《おおとの》」  タデアスが呼びに来た。 「村人は一人残らず集まっておるか?」 「はい。大殿の仰《おお》せの通りに」  グレシオスは腰を上げた。タデアスから厚手の上着を受け取って着込むと、二人で館《やかた》を出た。  外はまだ心持ち薄暗かった。そろそろ日の出が見られるかという時間である。  昨夜の内に降った雪が積もっていた。  館の前に立って、ナウロス村の全景を見渡した。  雪が光を映す所為《せい》か、それとも昂《たか》ぶった精神が五感を鋭くしているのかは分からないが、グレシオスの目には村の様子がはっきりと入ってきた。  戦場になる場合、地形や建物をどう使うか、どう考えるかということが重要になってくる。  今までは何も考えずに見てきた景色である。  長閑《のどか》な小村の風景が、まさかこういう意味を持って己に迫ってくるとは、グレシオスは考えた事がなかった。  雪を踏みながら坂路《さかみち》を下りた。  途中、自然とあちこちに目がいってしまう。  戦場にするとなれば、どこをどう使うか、どこにどれだけ手を加えることができるかなどを考えてしまうのだ。  道の幅が気になる。傾斜の度合いが気になる。家と家の間隔が気になる。  普通の者からすれば、神経質なくらいの意識の向け方であるが、この程度の観察眼は戦士の常識である。  だから気疲れするということもない。この程度で神経をささくれ立てるような者は、早々と戦闘で命を落とすか、戦場から身を退《しりぞ》いてしまう者である。  村の広場に着くまでの間、グレシオスはそうやってあちこちに目を向けていたが、肩に力の入ることなく、ごく自然に状況を心に刻み込んでいった。  だが何よりも重要なのは、戦いになった場合、馬が使えぬということである。  グレシオスもタデアスも騎士であるから、本来、騎馬を得意としている。だがナウロス村で戦闘に使える馬は三頭しかいない。  残りの馬は戦《いくさ》用の訓練を受けたことのない、ただの馬である。  となればこちらが用意できる騎兵は三人ということになる。数が足りなすぎる。  しかも村内で戦わなければならない。動きが制限される。  騎兵は防禦《ぼうぎょ》に劣る。攻撃重視の突撃兵団だからだ。たった三人では、すぐに討ち取られてしまう虞《おそれ》がある。  ゆえに戦う場合には、徒歩《かち》の戦いになる。その方が村人も動きやすかろうが、問題は敵にイゴールが居た場合である。  昨夜受けた報告ではイゴールは居ないとのことだったが、まだ判らない。  安心は禁物だった。  村人が集まっている神殿は無論、ヴァリア教の神殿である。  小村であるから豪華とは言えないが、確《しっか》りした造りである。大きさも申し分ない。  イオルテス地方にしては珍しく、全て木材による建築であるが、それは近くにテラモン大森林があるためである。  デルギリアの北西部地域は、ほぼ全域が広大なテラモン森林に接しているため、建築材としては石を選択するよりも、木を選ぶ方が自然なのである。  イオルテス地方は大体において、ただ広大な高原が拡がっているだけであるから、これは恵まれていると言える。  神殿には王都から派遣されてきたメグレイスという神官が居て、村人に聖言を伝え、正しい道を教えている。  彼を助けるのはアルテーアという名の神官と、モイラスという名の神官である。  彼らの正確な年齢は判らぬが、グレシオスが接した感じでは、メグレイスは三十代半ばと思え、アルテーアとモイラスは二十を超えたかどうかというところであろう。  メグレイスは長神官《ちょうしんかん》である。小さくとも立派に一つの神殿であるから、当然のことではある。  たった三人の小さな所帯ではあるが、彼らはよく勤《つと》めていると思う。  神殿内部、祭壇の中心には至高のヴァリアを、そしてイスターリスとメーサーとが併祀《へいし》されてある。  ここはデルギリアであるから、イスターリス信仰は篤《あつ》い。メグレイスもイスターリス神殿に属する神官である。  その為か、メグレイスは屈強な肉体を有している。その力を示したことこそないが、グレシオスには判る。体つきや身のこなしなどからも、戦士としての力量が窺《うかが》えるのだ。  一方メグレイスを輔佐《ほさ》する二人はと言うと、アルテーアはデルギリアの出身ではあるが、女性であり、王都で学問を積んだ人間である。弓馬の術に優《すぐ》れているとは思えない。  モイラスも同じく王都で学問を学んだ者であるが、彼は南部沿岸地方の人間であり、今までに聞いた話や接した印象からすると、およそ戦闘とは縁のない類《たぐい》の人種である。  神殿の前には広場があり、坂の途中からも、集まっている人々を見ることができた。  騒《ざわ》ついている。  こんなに朝早くから招集をかけられれば、当然であろう。  広場の入口にはメグレイスが迎えに出て来ていた。彼はグレシオスには深い尊敬の念を抱いている様子であり、グレシオスに接する態度にはいつも恐縮しているというか、どこか己を恥じるような気配を滲《にじ》ませているのだった。  なんとなく、グレシオスはこの屈強な神官が苦手であった。 「大殿にはご機嫌|御宜《およろ》しゅう」 「うむ。長神官殿もな」 「タデアス殿、おはようございます」 「はい。おはようございます長神官様」  簡単に挨拶を返すと、グレシオスは広場に入った。  壇《だん》の傍《そば》にはヨルスが立っており、アルテーアとモイラスとは、村人の間を歩き回っていた。  特にモイラスはすぐに目についた。癖《くせ》の強い金褐色《きんかっしょく》の巻き毛が、長身と相俟《あいま》って凄《すご》く目立つのである。 「皆静かにせよ。これからギルテの大殿が大切なお話をなさる!」  ヨルスが大きな声でそう呼びかけると、囁《ささや》き交わしていた村人達も口を閉じ、壇上のグレシオスを注視した。 「皆、良く聞いてもらいたい――」  昨晩ヨルスに説明をしたとき以上に丁寧に、言葉を選んで説明をした。  ジャグルの群《むれ》が迫っていること。その中にはゴロドが含まれているかも知れぬこと。  選択肢《せんたくし》は二つあること。村を捨てて逃げるか、それとも踏み止《とど》まって戦うか。  村を捨てる場合、パラケウス街道に出るまでに、かなりの犠牲者が出るだろうということ。まず老人病人、幼児は命の危険が極めて大きいだろうこと。さらに街道に出ても、まだ助かるとは言い切れぬことまで詳しく説明をした。  戦う場合には犠牲者が出るのみならず、敗《やぶ》れれば間違いなく全滅するということ。敵にゴロドがいる場合、勝利を得るのが極めて難しいであろうということも、正直に説明をした。  話し終えて広場を見渡すと、誰もが暗い顔をしていた。当然だと思った。 「……すまぬが時間がない。長く話し合うことはできぬのだ。できるだけ早く決めて欲しい。どちらの道を選ぶにせよ、儂《わし》はお前達を助けたいと思っておる」  広場はしんと静まり返っていた。  質問をする者は無かった。  事態の重さを理解しきれていないのか、それとも深く理解しているかのどちらかであろうが、後者であるとグレシオスは思うことにした。 「村長、話が纏《まと》まったら呼びに来てくれ」  壇を下りると、グレシオスは神殿の中に入った。列柱室《れっちゅうしつ》の中を歩いていると、後ろからタデアスとメグレイスがついて来た。 「大殿」 「前室で待つ。結論が出たら呼びに来てくれ」 「しかし、話が割れたら如何《いかが》致しますか?」  メグレイスが慌《あわ》て気味《ぎみ》に言った。 「ふむ」  グレシオスは足を止めた。少し考える。  普通ならあり得ぬ事である。戦場ではと言った方が良いか。  纏《まと》まりとは則ち激突力であり、意思の統一がその根源である。そこでは納得できるかどうかというよりも、納得するかどうかの方が重要になる。  だが、村人達がそこまで理解しているかどうかは怪しい。 「では村にとどまる者達の指揮は儂が務《つと》めよう。村を離れる者達には、自分たちでパラケウス街道を目指してもらうことにするしかあるまい」 「村が割れることをお認めになるのですか!?」  タデアスが驚いたような声を上げた。無理もない。  だがグレシオスとしては、たとえ一人であっても、己が望まない選択に従う者を出したくはなかった。  逃げたい者は逃げればよい。戦う者は残ればよいのだ。  それに戦う者達は、逃げる者達の時を稼《かせ》ぐことにもなる。逃げる方はひたすらパラケウス街道を目指せばよいわけだから、軍略をめぐらす必要もない。  故にグレシオスは戦う側に残る。逃げる者達には自力で頑張ってもらう。  酷《こく》なようだが、両者の実情を考えた結果である。 「逃げたいという者を引き留めて戦わせるわけにはいくまい。我等の理屈で村人を縛るわけにもいかんだろう?」 「それは……そうでありますが」  タデアスは困ったような顔をした。気持ちは分かる。戦力の分散を危惧《きぐ》しているのだろう。 「とにかく全ての者になるべく早く、いずれか一つの道を必ず選ぶようにさせよ。無論、一つに纏まってくれた方が有難いがな」 「かしこまりました。そのように致します」  メグレイスは頷くと、小走りに広場へ戻っていった。 「ところであのお客人はどうしたのでしょう? 広場にも姿が見えませんでしたが……」 「ひょっとすると、もうギルテへ向かったのかも知れぬな」  タデアスはぎょっとした。無理もない。 「ジャグルどもがこちらに向かっているではありませぬか! 鉢《はち》合わせになりますぞ!」 「そうだな」  だがあの男は言ったのだ。やってみねば判らない、と。 「なに、おそらくそろそろ姿を見せるであろうよ。儂等に一言もなく出発するとは思えぬ」  そこで人の気配を感じた。グレシオスは気配の方、神殿の奥を見つめた。  あの男が歩いてくる。ちょうど前室から出てきたところだった。  何故神殿に居たのか。何となく不思議ではあった。  見ると見事な鎧《よろい》を身に着けている。銀色に輝くリオプであった。  一見してグレシオスには、男のリオプが、並の職人に作れるような科《しな》ではない事が判った。  簡単に手に入るような代物ではない。  実はこの男、かなり身分のある出なのではないだろうか?  その名を聞けば、すぐにそれと判るような名門の人間なのではないか?  知識の深さもさることながら、ぞんざいな口調や態度とは裏腹に、身ごなしには堂々とした威と、優雅さとがある。  男はグレシオスの前で足を止めた。 「よく眠れたか?」 「ぐっすりとな」  自分でも不思議ではあるが。 「馬は連れて来てあるのか?」 「もう広場に来ている頃だろうさ」  先程《さきほど》は馬の姿はなかった。  馬を引いてくるのを宿泊先の者に頼んだとしても、その者とて広場に来ているはずである。  ところが馬の姿が見えなかった以上、グレシオスが会っていないだけで、この男は、従者を連れて旅をしているのかもしれなかった。 「して、神殿で何をしておったのだ?」 「何、神に祈りを捧《ささ》げておったのよ」  男の返答はグレシオスの予期しないものであった。 「なんと……お主《ぬし》がそのようなことをするとはなあ」 「儂《わし》が神に祈るのはおかしいかね?」 「いや、そこまでは言わぬが……」  男が歩き出したので、グレシオスもついて歩いた。タデアスもついてくる。 「猶予《ゆうよ》はあるまい。急がねばならぬぞ」  その割にはあまり急いでいる風には見えない。  相変わらず、つかみどころがない男である。  広場に出ると、村人達の視線が一斉《いっせい》に向けられるのを感じた。  話はまだ纏《まと》まってはおるまい。急《せ》かしに出てきたわけではないので、グレシオスは手を挙げて、村人達の緊張を軽く制した。  広場の入口には大きな黒鹿毛《くろかげ》の馬が来ており、男が招くと、神殿の入り口にまで歩いてきた。よく馴れているようだった。  近くでよく見ると素晴しく立派である。イオルテスの黒鹿毛であり、並の馬よりも大きさがあった。  主人も大男であるから、釣り合いが取れているとも言えた。  馬は静かな、しかし力強い光を湛《たた》えた瞳で、グレシオスをじっと見ていた。 「良い馬ですなあ」  タデアスが感嘆の呟《つぶや》きを漏らした。村人も何人か集まってきた。  何と言ってもデルギリアである。イオルテス地方である。馬に興味がない人間の方が珍しい。  集まる村人を一向気にする風もなく、男は鞍《くら》にかけていた弓を取り出した。  大きい。相当な強弓《ごうきゅう》であろう。そう思ってグレシオスが見ていると、なんと自分の弓ではないか。  怒るよりも呆《あき》れた。 「それは儂の弓ではないか」  グレシオスが驚いて言うと、 「おう。昨日見かけたのでな。今少し借りるぞ」 「まさか持っていくつもりではあるまいな?」 「弓は不要よ」 「ならば何故?」 「出発の前にせねばならぬ事があってな」  言いながら、男は弓に弦《つる》を張った。グレシオスは驚いた。  この弓はヘカリオス侯から贈られた物である。ヘクティス式の強弓であり、滅多《めった》な者では扱《あつか》うことはできない。  グレシオスが最後にこの弓を使ったのは十年以上前である。  今では自在に扱うのは無理かもしれない。  それをこの男は易々《やすやす》と弦を張ったのである。さながら、熟練の楽師《がくし》が竪琴《たてごと》に弦を張るがごとくに。  グレシオスは驚くと同時に羨望《せんぼう》を感じた。  何故、この男には老いがないのか?  違う。この男は確かに老いている。  この男は力を失っていないのだ。  そのことが、グレシオスには理不盡《りふじん》に感じられた。  己の腕が、己の腿《もも》が、段々と力を失っていくのを日々感じている。目も随分《ずいぶん》と暗くなった。息が切れるのも、早くなった。  人の体は老いる物である。  そのことはよく分かっている。いや、「よく分かっているつもりである」と言った方がよいか。  ただ「分かる」という事と「納得する」という事とは違う。  同じだという者もある。昔アウラシールの賢者にそう教えられたことがある。  真に知る者は、それが行為となって現れる。知る事は体現する事。そこに在《あ》って定まる事であると。  理解は則《すなわち》ち十全《じゅうぜん》なり――。  何となく分かるような気もするが、分からない気もする。  深遠な言葉というものには、元々|迂遠《うえん》なところがあるし、自分は刀槍《とうそう》を振るう術《すべ》には熟達していても、言葉や思索によって真理を捉《とら》えようなどと思った事はないのである。  大神《イスターリス》をその始めに戴《いただ》くとはいえ、己が我が身は定命《じょうみょう》のものである。  老いに晒《さら》され、病《やまい》に怯《おび》え、人の手による武器に傷つく物である。  あの偉大なるヴェルデスでさえ死んだのだ。  戦神イスターリスの子にして、比類《ひるい》無き英雄であったヴェルデスでさえ、人の世の悪意と刃によって命を落としたのである。  死は必然である。  いかなる出自《しゅつじ》を持とうと人の身は滅びる物、死する物である。  だが、老いる事だけは我慢ならぬ。  己れの体が、生きながら腐敗していく事には耐えられぬ。  無様《ぶざま》な泣き言である。それは分かっている。だから口に出した事は一度もない。  しかし、老いの足音を聞くようになってから、グレシオスは常に恐怖に晒《さら》されてきたのである。  ――これであったか……。  息子に家督を譲《ゆず》り、父祖の霊にその報告を済ませたあの日から、ずっと心に引っ懸かっていたものの姿が見えた。正体が分かった。  己は、老いを憎んでいたのだ。  執務を執《と》らなくなったあの日から、ずっと。  広間の椅子を失ったからではない。ヘクトリアスが領主の席に着いた時は、誇らしくすらあったのだ。  にもかかわらず何かが欠落した。いや欠落したと感じた。  誰も、己からは何も、居場所を奪ったりなどしていないのにだ。  己が老いるのが恐ろしかった。この四肢《しし》から力が失われるのが、覇気《はき》が衰えることが恐ろしかったのだ。  ――詮《せん》無いことを。  願ったところで若さは返らない。季節がめぐるのと同じく、人の一生にも夏があり冬がある。  己は、冬だ。  既《すで》に人として新たに成す事など何もあるまい。あとはメーサーの御手《みて》に抱《いだ》かれて眠りに就《つ》くだけの老人である。  だがそれは仕方のない事なのだ。  抗《あらが》ってどうにかなるようなものではない。 「何を考えている?」  男の声に呼び戻された。  男は張った弦の具合を確かめるように、軽く指先で弾《はじ》いている。硬い音が鳴っていた。 「いや……詮無い欲を持っていたと思うてな」  苦笑が漏れた。己の弱さに、臆病さと幼さに哂《わら》うしかない。  望むことに意味のない欲ではないか。  だからこそ、今まではっきりと気付くこともなかったのだろう。  情けない。哂うしかない。 「ほう……」  男はそう云っただけで、質問を重ねては来なかった。  矢を一手《いって》取ると、弓を持ってずんずんと歩き出した。  一手というのは二|隻《せき》の矢である。ローゼンディア語ではクレスという。  一手、ないし二手が、射の基本単位であり、古くはクァースと言って数えたというが、これは元々ナーラキア語であり、両数《りょうすう》である。  ローゼンディア語はナーラキア語からの影響を強く受けているから、そう呼んだのだろう。  両数というのは、二つ揃《そろ》った物を数える時の表現であり、今ではダルメキアとローゼンディアの両言語にしか残っていない。  これらの言語では名詞は性別に加えて、単数、複数、両数、を区別するのである。  ともあれ男は何かを射るつもりらしかった。 「どこに行くのだ?」 「物見櫓《ものみやぐら》さ」  男を追いかける形でグレシオスも物見櫓の下までやって来た。  男はグレシオスに矢を渡すと、自分は弓を抱え、櫓を登って行く。仕方がないのでグレシオスも続いて登った。  櫓の上からは村全体が一望できた。床は決して広くはないが、人が三人横になって眠れるくらいの空間はある。  南西側の柱には急を報《しら》せる鉦《かね》が掛かっている。その他には何もない場所だった。  ジャグルどもが現れるまでは見張りを立てる必要があるので、その者のために、寒さを凌《しの》ぐための掻巻《かいまき》でも用意しなくてはならないと思った。  男は村の入口の方を向いて目を凝らしている。 「何を見ているのだ?」 「大したことではない。ただ、昨夜から気にはなっていたし、これを片附けてからでないと出立できぬからな」  言いながら矢をつがえて弓を引きしぼった。ゆっくりと引いていく。  これだけの強弓である。当然、全身から力を絞り出す様子が現れるとグレシオスは思っていたのだが、それが全く無い。  男は実に自然な動作で、しかも軽々と弓を引いていく。  グレシオスには信じられなかった。  とてつもない膂力《りょりょく》であると言わねばならない。  よく見ると確かに腕の筋肉には張《はり》がある。肩も盛り上がっている。それでいて力みが無い。  弓を十分に引くと、男はぴたりと動きを止めた。  見事《みごと》な姿勢であった。  腕を素直に伸ばし、胸を開いている。  全身を隈《くま》無く使っていながらも、無理を感じさせない姿勢だった。  その姿を見ただけで、この男が尋常ではない射術を身につけていることを窺《うかが》わせるに十分だった。  放った。  旋風《せんぷう》が生じたようであった。  男の指が、矢筈《やはず》から離れると同時に生じた旋風である。  矢が見えぬ。  飛んだとおぼしき方向を目で追うと、村の外、入口の柵《さく》から少し離れた樹から、子供のような影がぼたりと落ちるところだった。 「うむ」  低く呟《つぶや》くと、男は弓を下した。 「今のは……」 「村を見張っておったジャグルよ。昨夜遅く現れた。ずっとあの樹の上におったのだが、鬱陶《うっとう》しくてかなわぬ。いずれ帰すわけにもいかぬし、出立の前に始末しておこうと思うてな」  グレシオスは呆《ほう》けた。己が呆けた表情をしていることはうっすらと気付いてはいたが、それに気を回せなかった。  ――なんという業前《わざまえ》か!  尋常な射術ではない。これだけ距離の離れた的に中《あ》てるなど、しかもその敵の気配を頼りに放つなど、目にした今でも信じられぬ。 「おお……もう一匹が逃げていくわ」  笑いを含んだ声で男が言った。  目を遣ると、樹からするすると下りてくるものがある。  グレシオスの目の前に、ぬっとばかりに弓が突き出された。 「お前に譲《ゆず》ろう」  冗談ではない。どうかしている。 「この距離では中《あた》らぬ」 「中ったが」  首を振るグレシオスに対し、男は笑いながら樹下に転がっているジャグルとおぼしき影を指差した。 「儂《わし》にできてお前にできぬこともあるまい」  無茶である。 「お主《ぬし》の技には遠く及ばぬ」  悔《くや》しさすら感じなかった。ただ驚きがあるばかりである。  全盛時の己でさえ、この距離で敵を射殺《いころ》すことは難しいだろう。  それをこの男は、しかも樹の間隠れの相手を、その気配だけを頼りに射落として見せたのだ。 「やってみねば判るまい」  男は首を振ってグレシオスの言葉を否定した。  目の前に弓がある。  ベルガイアの戦いの後、ヘカリオス侯デュレスから送られた強弓である。  初めて引いた時には余りの強さに驚いたものだった。  甲冑《かっちゅう》を三つ重ねて立てて射たところ、矢は突き抜けた。無論甲冑は吹き飛んでばらばらになった。尋常な弓ではない。  だが何事も鍛錬《たんれん》と慣れである。やがてグレシオスはこの強弓を自在に扱《あつか》えるようになった。  しかし十年前ならまだしも、今の自分では、この強弓を扱うことは難しかろう。  ひょっとすると引く事すらできぬかも知れぬ。  己の衰えを見られたくない。いや、何より己自身にそのことを知らせたくない……。  ちらりと、そんな考えが頭を掠《かす》めた。 「儂にはもうこの弓を扱うことはできぬよ」  はっきりと言った。区切りをつけねばならなかった。  燃え盛る時は終わったのだ。現実を認め、その丈《たけ》に合わせて生きなければならない。  未練はある。  だがそれが如何《いか》に無様《ぶざま》かを、自分はたった今悟ったばかりではないか。  だからもう終わりにしよう。  ところが――。  グレシオスの手は自然と伸びて、弓束《ゆつか》をつかんでいた。  なぜだかは解《わか》らない。 「イスターリスの裔《すえ》たる、レオンティウスの子グレシオスよ。お前はもう少し自分のことを、よく知る必要があるようだな」 「どういう、意味か」 「お前は、自分は老いていると言った。だが髭《ひげ》の長さならば儂の方が勝っておるぞ」 「確かにそうだが」  この男を並の規格で考えることは、妥当《だとう》であるとは思われない。 「お主は特別であろう。無双《むそう》の剛力《ごうりき》を持っておるではないか」 「かも知れぬ。だがその弓を引くのに、それほどの剛力を必要とはせぬよ」  グレシオスは黙って弓を見つめた。 「逃げるぞ」  男が言った。樹から下りてきたジャグルであろう影が、仲間の屍体《したい》に向かって屈《かが》み込んだ。何かを漁《あさ》っているようだったが、すぐに身を起こして逃走に移った。  ――射らねばならぬ。  思うと同時に身体《からだ》が動いた。背骨を中心に大きな力が生まれ、それが速やかに両腕に流れるのを感じた。  気がつくと弓を構えていた。いつの間にやら矢も番《つが》えている。右手の指先に矢筈《やはず》の感触があるのが不思議であった。  無様な、しかし力強さを感じさせる動きで影が遠ざかってゆく。  人間にしては粗雑に過ぎ、足の悪い者のようであるが、猿にしては不自然な余裕のある動きだ。ジャグルの走りであった。  己が眉間《みけん》から目に見えぬ力が発しているように感じた。  それはまっすぐにジャグルの背中へと伸びていた。 「おお。いい姿勢だ」  男が感心したように言った。その言葉が合図になった。  放った。  旋風《せんぷう》が生じたようであった。  己の指が、矢筈から離れると同時に生じた旋風である。  矢が見えぬ。  ただ、胸の中から旋風を生み出したような感触だけがある。  視線の先でジャグルが突《つ》んのめり、倒れた。  動く気配はない。 「うむ」  低く呟くと、グレシオスは弓を下した。 「まだ自分が衰えていると思うかね?」  男が意地悪く聞いてきた。  グレシオスは返答ができなかった。  気分は良かった。己の業前《わざまえ》が信じられぬ。快哉《かいさい》を叫びたいくらいである。  だが堪《こら》えた。  今の今まで分別《ふんべつ》臭いことを考え、かつ話し、自分とは違う者だと決めてかかって男を見ていたのだ。  今更《いまさら》、喜ぶわけにはいかぬ。  子供ならともかく、いい歳《とし》をこいた大人である。孫まで居る老人である。  なので、にやつきそうになる頬に力を入れ、グレシオスはわざと不満そうな顔を作った。むっとして見せた。 「あまり、嬉《うれ》しそうではないな」  がっかりしたように男が眉を下げた。それが何とも滑稽《こっけい》で、グレシオスは耐えきれずに失笑した。  一度笑い出すと止められぬ。声を上げて笑った。  清《すが》しい。  久しく忘れていた、気持ちのいい笑いであった。 「グレシオスよ」  グレシオスが笑い終わるのを待って、男が穏やかに口を開いた。 「老いは必定《ひつじょう》である。そのことについてはお前の考えは正しい。だが老い方は人それぞれであるし、必ずしも老いに屈服《くっぷく》する必要はない」  グレシオスは頷《うなず》いた。 「力はいつか失われる。そのことについてもお前の考えは正しい。だがそれが必ずしも老いと結びついているわけではない。失われぬ力というものもあるし、失っても取り戻せる力というものも、ある」  再び、グレシオスは頷いた。 「現にお前は今示したではないか。自らの剛勇を。その射術の傑《すぐ》れたる事を今まさに。それでもなお、「自分は老人である」などと、離れの隠居爺《いんきょじじい》のような言葉を口にするかね?」  グレシオスは苦笑した。照れの混じった笑いである。 「確かに老いは、運命の女神が下す贈物の中でも、もっとも望まれざるものの一つだろう。あのメーサートゥエーンでさえ、老齢との試合においては膝《ひざ》を屈したのだから」  メーサートゥエーンはローゼンディア世界最大の英雄である。  あらゆる偉業を成し遂げて、最後は天界に昇って神々の席に連《つら》なった。  大英雄は、かつて人間の身であった頃、巨人族の城でレスリングを行なったという。  その時の相手が『老齢』であった。  小柄な老人の姿をした『老齢』に対し、メーサートゥエーンは死力を盡《つ》くして立ち向かうが、遂《つい》には敗《やぶ》れてしまう。 「だがな。メーサートゥエーンは片膝をついたのみで凌《しの》いだ。決して、投げ飛ばされはしておらぬぞ」  なるほど。  そういう見方も、あるか。  なんと愚かで、しかし気持ちの良い見方であろう。  だが――。  力を示せば、それは真実になる……。  思った途端、身体《からだ》の奥から何か、舐《な》めるような火が燃え拡《ひろ》がってくるのを感じた。 「おう。顔つきが変わったのう」  男がにやりと、どこか危険さを感じさせる笑みを浮かべた。  グレシオスは自分が射殺したジャグルに目を向けた。  先程倒れたまま、俯伏《うつぶ》せになって動いていない。  この場合、死んだふりという事もなきにしもあらずだが、何故だかそれはないと思った。  自分は間違いなく、あのジャグルの背中を射抜いたと感じていた。  グレシオスは弓を脇身《わきみ》に抱《かか》え、男の方を向いた。 「……広場に戻ろう。寄合《よりあい》の決が出ているかも知れぬ」  射の余韻《よいん》が、まだ残っていた。 [#改頁] 五.道化  広場は騒然としていた。村人達は判っているのだ。  村を捨てようが、戦いを選ぼうが、どちらにせよ恐ろしい結果が待ち受けているのだということを。  誰もが深刻そうに話し合っている。  子供たちは大人から離れて、広場の端の方に集められており、アルテーアとモイラスが世話をみていた。  メグレイスはヨルスとタデアスを相手に、何やら話をしていたが、グレシオス達が戻ってくると顔をこちらに向けた。 「話は纏《まと》まりそうか?」  グレシオスはヨルスに尋《たず》ねた。 「紛糾《ふんきゅう》しております」  無理もない。生死を懸《か》けた極限的な選択なのだ。 「やはり二つに割れる事になるのではないかと……」  タデアスは心配そうに眉を寄せていた。  おそらく戦力の分散を恐れているのだ。 「仕方《しかた》有るまい」 「どちらにせよ時間はないのです。いっそ決を採ってはどうでしょうか?」  メグレイスが言った。 「ふむ」  グレシオスは溜息《ためいき》を吐《つ》いた。できれば強引な多数決は採りたくない。  だがこのままでは結論が出るのに一日かかってしまいそうな雰囲気である。そして、そんなことを許していたらジャグル達が到着してしまう。  全体の意見配分が、どういう形になっているかを知るためだけでも、決を採るべきだろうか?  考えていると、突然子供の泣き声が聞こえてきた。  広場の端に集められている子供達だ。目を向けると三歳ばかりの幼児が一人、泣いていた。男の子である。  その子供のすぐ近くにいる、似たような歳の女の子が、もらい泣きをしそうになっていた。  まずいと思った。下手をすると、子供達が一斉《いっせい》に泣き始める事になるかもしれぬ。  大人達は相談に夢中で気付いていない。モイラスが子供の傍《そば》に膝《ひざ》を着いて話しかけているが、ぎこちない感じだった。  この若者は何をやらせても頼りないような感じがあるが、能力が劣っているわけではない。むしろ優秀な部類に入る。印象で損をしているのである。  今もこのまま任せておけば、上手に子供を宥《なだ》めてしまうだろう。  そう思ったが、何を考えたのか、不意に男が子供達の方に歩き出した。何か意見を聞かせてもらおうと思っていた矢先なので、グレシオスは少し慌《あわ》てた。  今度は何をするつもりであろうか。  興味を掻き立てられて、グレシオスもついて行った。 「大殿《おおとの》」 「すぐに戻る」  タデアスに振り向いて言った。  今は子供の相手をしてやる余裕はないというのに、つい男の後を追ってしまう自分が情けない。  男は口を開けて泣いている子供の前に立つと、急にしゃがみ込んだ。  尻が地に着くほど身を低めた。大きな体を長靴《ちょうか》の間に挟むようにして背中を丸め、髭面《ひげづら》を子供の前に突き出した。  驚いたのだろう、子供は泣きやんだ。  泣きやみはしたのだが、それは意表を衝《つ》かれたからであって、この驚きが消えれば、また泣き出すことは明白だった。  突然、男は顔を動かして奇妙な表情を作った。目玉を大きく動かし、口を曲げて舌を突き出した。  そんなおかしな表情を、何通りかやって見せた。 「……わあ」  子供は興味を持ったようだった。この年頃の幼児は興味の対象が移ると、それ以前の状況を忘却するという、面白い特質を有している生き物である。  たちまち笑い出した。  男は一言も発せず、幼児の前に顔を突き出したまま、次々と奇怪な面相を作って見せた。  意表を衝《つ》かれたのは幼児だけではない、近くにいた子供達も、子供をあやそうとしていたモイラスも、そしてグレシオスもである。  子供達は大喜びで笑い出したが、グレシオスとモイラスは笑わず、呆《ほう》けたようにそれを眺めていた。  男の作り出す面相は、恐ろしく奇怪なものであった。  奇怪としか言いようがない。  道化《どうけ》の物真似《ものまね》にしては毒がありすぎるし、何より迫力が半端ではない。  男の場合、元から顔に備えている目だの鼻だのといった自前の道具が、普通人に比べて、存在感がありすぎるからであろうか。  笑いを取るというよりも、ほとんど魔除《まよ》けに近い雰囲気がある。  無論、幼児を泣きやませるための努力であろうから、いずれ冷静な品評など男の耳に入れてやるつもりはない。その程度の慈悲心はグレシオスも持ち合わせている。  ともかく男の面相芸には、何やら真《しん》に迫《せま》る狂気があった。  今は目玉を上下反対に動かし、舌を頤《あご》の辺りまで垂れ下がらせている。  かなりの荒技である。少なくともグレシオスには不可能な技であった。  ――やはりこの男はどこかおかしい。  白《しら》けたような冷静さでグレシオスは思った。  思った途端、笑いがこみ上げてきた。  モイラスが笑い出した。グレシオスも笑った。  周りに居る者達が一頻《ひとしき》り笑うのを見届けると、男は面相芸を止めて立ち上がった。  つるりと頬など撫《な》でてすましている。それがまたおかしく、グレシオスは吹き出した。 「お主には本当に驚かされる」 「なあに、ただの嗜《たしな》みの一つよ」 「弾琴唱歌《だんきんしょうか》ならばともかく、面相芸が嗜みというのも変わっておるな」 「そんなことはない。だいたい子供を笑わせることもできぬでは、情けないではないか」 「うむ……たしかにな」  グレシオスは頷《うなず》いた。感じ入るところがあった。  戦士はただ刀槍《とうそう》を振り回しておれば良い、というのは浅薄《あさはか》な考え方である。  そのことを判ってはいてもなかなか、行為として現れるまでに到らぬ事が多いのだ。 「さて、邪魔者も始末したことであるし、儂はゆくとしよう」 「これを持ってゆけ」  グレシオスは懐《ふところ》から巻物を取り出して男に渡した。 「これは?」 「今朝《けさ》纏めたものだ。それを見せればすんなりと領主に面会できるはずだ」 「お前の息子だな」 「そうだ。一読すれば判るように書いてはあるが、質問が出るかも知れぬ。その時は簡単な説明を加えてやってくれ。儂にしてくれたようにな」  仕方のない事だな、とでも言わんばかりに男は、ふん、と鼻から息を吐いた。 「儂を含めて呑み込みの悪い者が多いのよ。武事に片寄った者達ばかりゆえ、細かく気を回せないことがある。大目に見てやってくれ」  その中に自分も入っているのだと思いつつ、グレシオスは言った。 「随分《ずいぶん》、儂を高く買ってくれるのだな」 「お主はそれだけの力を示したではないか」 「さて」  男は苦笑いを浮かべ、首を傾《かし》げた。 「それは援兵《えんぺい》が来てから言うべき言葉であろう」 「お主は辿《たど》り着くさ」  今はグレシオスも確信していた。  この男ならばやれるだろう。  ジャグル達は街道を進んでくるであろうから、それを上手く避《さ》けるか、または見事《みごと》に虚《きょ》を突いて駆け抜けるなどして突破するだろう。  そして間違いなくギルテの領主館へ辿り着くに違いない。  子供達が男とグレシオスとを取り巻いている。面相芸をもっと見せてもらいたいのであろう。  子供達の中には男のマントを引っ張って遊ぼうとする者がいるのだが、モイラスが注意して止めさせていた。 「お前はどうするのだ?」 「村人達の判断に従うつもりだ。とどまるというのなら彼らを指揮して戦う。逃げるというなら彼らを導いて村を捨てるつもりだ。だが、おそらく村人は二つに分かれることになるだろうな」 「あまり感心はせぬな」 「儂もそう思う。しかし、逃げたいという者を無理矢理戦わせるわけにもいくまい。逆もそうだ。とどまりたいものを無理に連れ出す事もできぬよ」 「その場合、お前はどうするのか?」 「村に残る者達を指揮する。この程度の規模とはいえ、戦《いくさ》には将が必要だからな」 「ということは村を捨てる者達は、自力でパラケウス街道を目指さねばならぬことになる。それは難しいのではないか?」 「だがどうにもならぬさ。儂が村を捨てれば、ジャグルの前に村人だけを残していくことになる。それはできぬよ」 「ならばそれを話してやることだ。そうすれば誰一人村を捨てるとは言わぬだろうさ」 「何故そう思う?」 「ここからパラケウス街道を目指す事の意味は、村の連中の方がよく分かっておるだろうということよ。お前が村に残るというのならば、誰もがそちらに選ぶだろうよ」 「随分、儂を高く買ってくれるのだな」  今度はグレシオスがそう口にした。 「それはお互い様よ。ともかく、その話を村人にするのだな。さすればすぐに話は終わる。時は待つことなく過ぎる。のんびりしてはおられぬはずよ」 「そうだな」  グレシオスは頷き、男を伴《ともな》ってヨルスやメグレイスのいる所へ歩き始めた。  ついて来ようとする子供達がいたが、それもモイラスが押しとどめた。 「あの数の子供を纏めておくのは大変であろう」 「まったくだ」  男に相鎚《あいづち》を返しながら大人達の方に目を遣《や》ると、アルテーアの方は鍛冶屋《かじや》のダイオンとあと数人と話をしている。猟師のイドナの姿もある。どの顔も真剣な様子だ。  おそらく、あの者達は村に残る方の話をしているのだろうと思った。 「すまぬがもう一つ話がある」  ヨルス達に声をかけた。 「先程のお話ですな」  メグレイスはすぐに察しがついたようだった。  ヨルスとタデアスが大声を上げて、村人達の意識をこちらに向けさせた。  グレシオスは再び壇上に上がった。  広場を見渡して、声を大きくして言った。 「難しい話であるから、皆もどちらにすべきか迷っている事と思う。そこで言っておく。誰もが自分の好きな方を選ぶが良い。村を去るにせよ、とどまって戦うにせよ、どちらでも良い。責めはせぬ。ただし、儂は村に残る者達と行動を共にする。逃げる者達よりも戦う者達の方が、より大きく儂の力を必要とするであろうからだ。そこのところは判ってもらいたい」  言葉を切った。何か質問があがらないかと思ったからである。 「御領主様は村を捨てないと仰《おっしゃ》るんで?」  一人の男が手を挙げて言った。 「そうだ」  正確には村を捨てないのではなく、村人を捨てないのだが、この際《さい》、細かい違いを問題にしても仕方がない。 「悪いがパラケウス街道を目指す者達にはついて行けぬ」  村人達は騒然《そうぜん》となった。どうやら意外であったようだ。  グレシオスの身体は一つしかないのだから、村が二つに割れた場合は、どちらに属するかを選ばねばならぬ。  そんな当然の事が、村人の達の頭には今まで上《のぼ》らなかったらしい。  グレシオスからすれば呆《あき》れるような話であるが、一般の村人に、系統立てた考えを期待するのは酷《こく》な事なのかもしれなかった。 「逃げる者達はパラケウス街道を目指すだけであるゆえ、何とか自力で頑張ってもらいたい。馬も全て連れて行って構わぬ。道が分からぬと言うのならば、今簡単な地図を描いて渡そう。厳しいようだが儂もタデアスも、村に残る者達を守って戦わねばならぬのだ」  グレシオスは壇を下りた。 「これで村を出て行こうという者はいなくなるであろうよ。それが良いかどうかは、分からぬがな」  とグレシオスに向けて言う男に、 「少なくとも老人や子供にとっては良い事でありましょう」  答えたのはメグレイスだった。 「長神官殿はそう考えるか?」  グレシオスが問うと、 「はい。どれだけの数が村を離れるかはともかく、道なき道程《どうてい》。常に馬に乗って進めるわけも