死地に咲く花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)刀柄《とうのつか》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)二十六|隻《せき》 [#]:脚註 傍点の位置の指定、改頁など (例)矢が止まっていた[#「止まっていた」に傍点]。 【ルビを削除したい場合】 正規表現が使えるエディタ等で、 《.+?》 で、置換削除して下さい。 また、 | も、置換削除して下さい。 ------------------------------------------------------- [#改頁] 第一章 老雄  純白の大地に鮮血が散る。  その度《たび》に、激しい血の滾《たぎ》りを感じる。  眉にも霜附く寒さにあって、身内は熱く火照《ほて》り、革鎧から溢《あふ》れた熱気が凍れる空気を溶かさんばかりであった。  眩暈《めまい》にも似た昂奮に包まれて、知らず、刀柄《とうのつか》に手を掛けた。 「逸《はや》るなよ、アルカイオス」  祖父が静かに云った。  諭《さと》すでもなし、宥《なだ》めるでもなし、無論叱る風でもなし――だが、胸の奥に滲みるような声だった。  じわじわと体温が下がっていく。冷えた汗と気不味《きまず》さが、気持ち悪く纏《まと》わりつく。  それを紛《まぎ》らすように、森特有の清澄な空気を深く吸い込むと、先まで気にならなかった臭いがつんと鼻から脳へと突き抜けた。鼻腔の奥で洟《はな》が凍り、嗅覚などないに等しいはずだった。にも関わらず、強烈な臭いである。いかに馴染んだ臭いといえども、汗をたっぷり吸った革鎧の臭いほど酷《ひど》いものはない。気分はますます悪くなった。 「汝《なんじ》は援護《えんご》じゃ。しっかと弓矢を構えておれ」  祖父ステファノスは多くは語らない。「教え諭す」というようなことはしない。  たまに口を開けば、 「一点ばかりを観るでない。観るともなく全体を観よ」  と、難しいことを云う。  後は随《つ》いて来いとばかりに広い背中を見せるだけである。  解《わか》らぬままに随いて行くことがほとんどであるが、この戦いに於《お》いて、援護に回された意味が解らぬほど愚かではない。  人の上に立つ者の高貴さと力強さを持った顔つき。そこに精悍《せいかん》さを加味する、日に焼けた肌と錆附いたような銀の髪。そして、己が信義を頑《かたく》なに貫き通さんとする青い瞳。  そういった風貌は、彼の性情をそのまま表していた。敵と見ると闇雲に突っ込んでいってしまうのである。  人並み以上の上背《うわぜい》に、靭《しな》やさと力強さを併せ持った、無駄の無い筋肉――そういった、戦士として恵まれた肉体を持つ故《ゆえ》か、それを持て余しているようなところがあるのやも知れぬ。  猪突猛進は血気盛んな若者なればこそ、と断じることもできようが、領主の継嗣《けいし》とあらば、そうも言っていられない齢《とし》になった。もう十八である。  ――甘えがある。  祖父への甘えが。  背後に、戦神イスターリスと見紛《みまが》うばかりの祖父が居る。  炯炯《けいけい》たる眼光、猛猛《たけだけ》しい眉、眉間の皺《しわ》の深さは、ひとかたならぬ人生を窺わせる。頭髪、髭眉《しび》は白くとも、ぴんと伸びた背筋に老いなど微塵もない。  鉄鎖を縫い込んだ鞣《なめ》し革の鎧に青の戦衣、常に風を孕《はら》み、靡《なび》かぬことのなき青のマントを纏《まと》い、巍然屹立《ぎぜんきつりつ》として己が背後に在る。  そう想えばこそ、血の滾りに身を委《まか》せることができるのである。  アルカイオスは踝《くるぶし》に至らぬほどの雪を踏み締め、弓矢を構え直した。  その先には、手負いの獣一頭と、それを退治んとする槍兵三人がいる。  狙うはイゴール――暗雲垂れ込める北東の彼方《かなた》より来し魔獣。人間や家畜を好んで襲う、悪の種族に連なる獣である。  背筋に沿って二本の黒い条《すじ》が入り、茶褐色の毛で被《おお》われたその体は細長い。イタチによく似ているが、立ち上がれば人間の背丈を超える。  その高さから血の如く赤い三つ眼で睨まれると、どんな漢《おとこ》でも怖気《おぞけ》を禁じ得ない。しかし、そんなものを感じている間もなく鋭い爪が襲ってくる。くらえば肉ごとごっそり持って行かれる。  長柄《ながえ》や飛び道具で攻撃するのが常道だが、多少距離をとったからといって油断はできない。咬《か》みつきがある。  咬みつきは最も注意を要する攻撃である。正面から凄《すさま》じい速さでぐんと伸びてくる。常人に反応できる速度ではない。牙には遅効性の毒があるが、頸《くび》に咬みつかれたらひとたまりもない。  この獣に刀剣で立ち向かうのは愚かというより外ない。ましてや一人で立ち向かえるものでもない。  とはいえ、たった一人で勝利した勇者がおらぬわけでもなかった。アルカイオスの祖父ステファノスがその一人である。  幼い時分にはその時の話をよくせがんだものだが、その度に、ステファノスは苦笑するような微妙な顔つきをして、 「若気の至りじゃ。たまたまイスターリスの恩寵を賜わった――それだけのことよ」  と云うだけだった。  そんな祖父に倣《なら》うべく無謀な行動に走るわけではないが、憧れはある。誘惑もある。  ――死にたいわけではない。  それでは何なのか?  ――判《わか》らぬ。  判らぬから戦うのかも知れない。  木々と槍兵の合間を見定め、矢を放つ。左眼に命中。叫ぶべく露《あら》わになった喉に隙《す》かさず槍が入る。それが止めとなった。  残るは一頭。  一行の前に現れたイゴールは二頭である。  アルカイオス、ステファノス他、随身《ずいじん》五名と猟師二名は、狩猟のため、凍える山中を彷徨《さまよ》っていた。 「狩猟にでも行かぬか?」  と、ステファノスが、新年の挨拶にやってきた孫に声をかけたのである。  久久に顔を見せた孫と一緒に狩りを娯《たの》しもうと思ったのか、それとも、何か予感があったのかも知れぬ。  それは彼の祖父が出逢ったという、不思議な男──鍔《つば》の広い柔らかなフェルト帽と、長い幅広の青いマントを身に附けた男に己も逢えるかも知れぬという、期待だったのかも知れぬ。  果たして、出遭《であ》ったのはイゴールであった。憎むべき獣どもは、近隣から掠奪《りゃくだつ》したと思しき家畜を啖《くら》っている最中であった。  常にイゴールの脅威に曝《さら》されているこの地――デルギリアでは、さして珍しくもない光景だが、この地方を統べる領主一味としては捨て措《お》けぬことである。領民の生命と財産を護るのが領主たる務め、貴族たる使命だ。  二対九。  いや、猟犬を入れれば二対十二である。  ――悪くはない。抗し得る。  絶対的優位にあるとは言えぬが、ステファノスはそう判断した。  万が一を考えて応援の手配もする。これで二対十一になるが、毒をくらった場合、ここから最も近い集落までの距離を考えるとその方が無難に思える。また、討手《うって》は多いに越したことはない。  アルカイオスらには怯《ひる》むべき理由など何一つなかった。名にし負うイゴール殺し、ステファノスが居るというだけで否が応にも士気は上がる。  こうして、イゴール退治に当たることとなったのである。  深く突き刺さったのであろう、槍の引き抜きに難儀している兵を後目《しりめ》に、アルカイオスはもう一頭の方へ目を走らせた。  氷雪造りの美術品の如く聳《そび》える針葉樹林、その向こう五十歩ほど先では、二頭の猟犬がイゴールの耳や脇腹に咬みつき、そこへ二人の槍兵が狙い定めた攻撃を加えている。少し離れたところでは一頭の猟犬が血の中に斃《たお》れ、さらに離れたところでは覚束《おぼつか》無い様子の猟師が弓矢を構えている。  援護に行くまでもなく、すぐさま片はついた。  アルカイオスが合図を送ると、あちらからも合図が返ってくる。  一同の間に安堵の空気が流れた。  ――その時、風が吹いた。  突風だった。  ふわりと世界を被《おお》っていた雪が、凄《すさま》じい呻《うな》りをあげて天に復《かえ》る。  髪は逆立ち、マントも音を立てて舞い上がった。ともすれば、幾重《いくえ》にも革を重ね、鉄鎖を縫い込んだコート型の鎧――リオプの裾も翻りそうであった。  氷雪の礫《つぶて》を浴びて、アルカイオスは堪らず顔を覆った。  どれほどそうしていたのだろう。  不意に、風が熄《や》んだ。  恐る恐る顔を上げると、辺りは真っ白だった。  上下左右すべてが白い。白くないのは己だけである。  ――「白い闇」……?  麗《うるわ》しき大地母神メーサが眠りに就くと、氷雪の精霊たちが目を覚ます。女神の御手《みて》失われし世界で、彼らは自由気儘、縦横無尽に踊り狂う。  その狂乱の直中《ただなか》は、白一色の世界であるという。それは「白い闇」と呼ばれている。  白、白、白……  何も見えない。  何も聞こえない。  すぐ近くに仲間が居るはずなのに、まったく確信が持てない。先まで居た世界から切り離された感じがする。  ――お祖父様!  声が出ない。  口を開けると、白が飛び込んできて喉を塞《ふさ》ぐ。  白が、アルカイオスを圧迫していた。  もしや、己は雪の中に埋まっているのではないか?  そう思えて慄然《りつぜん》とした時、 「ぎゃあ!」  その声で、凍っていた時間が動き出した。  堰《せき》を切ったように、風の呻りが耳に押し寄せ、氷雪が顔を打つ。肺腑《はいふ》に冷たい空気が流れ込んでくる。血が一気に身内を循《めぐ》る。――どうやら息も止まっていたらしい。  あの声は? 襲われた? 敵? イゴール?  何が何やら判らない。疑問と恐怖が綯《な》い交《ま》ぜになる。  未だ視界は白く蔽《おお》われている。取り除かんと刀を抜いて振り回す。が、効果はない。苛立ちと焦りだけが募る。  どくどくどく……  動悸が早い。うるさい。耳につく。 「ぎゃうん!」 「ひぃ!」  また悲鳴。  一同に動揺が趨《はし》る。恐怖と混乱に支配される。  アルカイオスも例外ではなかった。抑えつけていた声が漏れそうになる。 「喝! 落ち着けぇい!」  ステファノスの大音声《だいおんじょう》が、恐怖と混乱を、そして、氷雪の精霊たちをも薙《な》ぎ払った。  視界がさっと開ける。  一同は息を呑んだ。  白い大地、灰色の木々、鼠色《ねずいろ》の空――無彩色の背景から赤が浮き上がって見える。血と、イゴールの三つ眼が。  針葉樹林の向こうに、一頭のイゴールが佇《たたず》んでいた。  赤く濡れた口は槍兵と思しき人間の喉輪を咥《くわ》えている。槍兵はぴくりとも動かず、ただ、己の血で白い地面を赤く染めていた。その周囲には、猟師一人と猟犬一頭が臥《ふ》す。いずれも絶命の様子であった。  残された槍兵一人と猟犬一頭は、逃げるに逃げられぬといった体であった。  槍兵は雄叫《おたけ》びとも悲鳴ともつかぬ声をあげて、闇雲に槍を揮《ふる》った。しかし、悉《ことごと》くイゴールには中たらない。イゴールが咥える槍兵――仲間である槍兵に中たった。その度に槍兵は、泣き叫ぶような声をあげた。  奸智《かんち》に長けたイゴールは、槍兵を盾にしているのである。それはまた、向かい来る槍兵を軽く応対《あしら》い、玩《もてあそ》んでいるようでもあった。  一方猟犬はといえば、槍兵の援護をするでもなく、後ろ足の間に尻尾を垂らし、ぎょろりと眼を剥《む》き、がちがちと鳴らしている牙の間から、夥《おびただ》しい涎《よだれ》と弱弱しい声を漏らしているだけだった。 「しばし堪《こら》えよ! 参る!」  孤軍奮闘する槍兵を激励しつつ、アルカイオスは駆けた。  ステファノスはその後を追い、 「弓を持て! 援護へ!」  と、こちら側にいる随身たちに指示を出しかけたが、 「大殿! こちらにも!」  反対側から、一匹のイゴールが雪面を滑るようにやってくる。  ステファノスから知らず舌打ちが漏れた。 「そちらは任せた! イスターリスの加護のあらんことを!」 「イスターリスの加護のあらんことを!」  ステファノスと随身たちが戦神に祈願し合っている間に、アルカイオスはイゴールの間近に迫っていた。  アルカイオスが近寄ると、イゴールは遊びはこれまでとばかりに咥えていた槍兵を放し、目前の槍兵に飛びかかる体勢をとった。  ――間に合わぬ!  イゴールまであと十歩はある。  考えている余裕などなかった。 「我が父祖の守り手、忿怒《ふんぬ》せるイスターリスよ! 我に力を!」  気がつけば、握り締めていた刀を槍投げの如く抛《ほう》っていた。  イゴールの横腹に突き刺さる――かに見えたが、不意にイゴールが消えた。  ――外した!? 「ぎゃっ!」  刀が虚しく地に突き刺さると同時に、槍兵の頸から血と蒸気が噴き出していた。  イゴールの動きは速かった。  槍兵の頸に咬みついたかと思えば、散《けち》らした粉雪と共に、撥《は》ね返るようにこちらに飛びかかってきていた。  手持ちの武器は弓矢と短刀のみ。  アルカイオスは腰の短刀を抜こうとした。  しかし、それよりもずっと速くイゴールの赤い三つ眼が迫ってくる。  イゴールの動きはよく観えていた。  半ば凍りついた目脂《めやに》、厭《いや》らしく迸《ほとばし》る涎《よだれ》、白茶《しらちゃ》けた牙にこびり付いた血と肉片、硬そうな茶褐色の毛の一本一本、その中に紛《まぎ》れている虱《しらみ》まで見えた。  頭では、意識では、己がどう動けばよいかは判っていた。  しかし、  ――体が、動かぬ。  意識に肉体が随《つ》いて来ない。  なんというもどかしさか。  イゴールが迫る。  背中が粟《あわ》立つ。  イゴールの眼を見据えて雄叫《おたけ》びをあげた。  それが唯一できる抵抗だった。  否《いな》、単なる悲鳴なのかも知れぬ。  ――そんなはずはない。  己が悲鳴などあげるものか。  ――動け! 動け!  頸に、腐肉臭のする息を吹き掛けられた――と感じた時、風切り音を聞いた。  頸のすぐ横で、矢が止まっていた[#「止まっていた」に傍点]。  イゴールの右眼を貫いて。  残る二つの眼が、ぎろりとアルカイオスを睨んでいた。  憎しみと口惜しさを籠めて。  その眼をまともに見つめて、アルカイオスは打たれたようになった。  赤い眼に呑み込まれる。  視界が赤一色に染まる。 「気を抜くな、アルカイオス!」  その声で我に返ると、雪上に立ち尽くす己が姿があった。  すぐ横で、雪にまみれ、右眼に矢を突き立てたイゴールが、のそのそと立ち上がるのが見える。  そこへまた矢が飛来し、イゴールの肩に刺さった。イゴールは一声|呻《うめ》いてよろめいた。ぽたぽたと右眼から血が滴り、ぽつぽつと白雪に赤が滲む。  その有り様を、どこか遠くの出来事のように呆然と見ていた。 「走れ! 槍まで走れ!」  はっとして導かれるままに走り出した。  斃《たお》れた槍兵の槍を拾え、ということだろう。それくらいの判断力は残っていた。  たった十歩、走ればよい。  しかし、体が思うように動かない。  がくがくと体が顫《ふる》える。  ふわふわと雲の上を走っている感じがする。  ――あ!  と思った時には、雪面に突っ伏していた。  足が縺《もつ》れた。  すぐさま立ち上がろうとしたが、またしても己の意思に肉体が反する。  大地に縛りつけられたように動かぬばかりか、大地に心地良さすら感じている体に愕然とする。  ふんわりと積もった雪は、身を切るような凍てつく大気よりも、優しく温かかった。  ギイィィ――――!!  背後からの獣の叫びに、びくりと体が跳ねた。 「イゴールよ! 混沌より出でし獣よ! 汝の相手は儂じゃ!」  喘《あえ》ぐようにして振り返ると、三十歩ばかり向こうに、青のマントを翻して弓矢を構えたステファノスが立っていた。  アルカイオスのすぐ傍では、右眼と肩と背中に矢を立てたイゴールが、低い呻きをあげて身じろいでいる。背後からアルカイオスに飛びかからんとしたところを、ステファノスに射《う》たれたのだろう。 「汝を射たのは儂ぞ! 穢《けが》らわしき悪の獣といえども、汝も雄ならば、やられたままでおることがあろうか。――来よ!」  と、ステファノスが言い放つや、轟《ごう》と大気を切り裂いて矢が飛来する。  イゴールは手負いとは思えぬ動きでそれを避け、ステファノスの許《もと》へと駆けた。  アルカイオスは己の許から離れていくイゴールに少なからぬ衝撃を受けた。  ――弱き者になど用は無い。  黒い条《すじ》が二本入った茶褐色の背中は、そんな風に言っているように見えた。  武器も持たず無様に倒れている己など、もはやイゴールの敵ではないのだ。従容《しょうよう》と啖《くら》われるべき、ただの獲物でしかないのだ。  体が顫《ふる》えた。  怒りと屈辱に、体が顫えた。  なんという不甲斐なさか。  意気込んで、先駆けて、この醜態とは……。  兵の背後で指揮すべき、御大将自らの手を煩《わずら》わすとは……。  冷えていた血がふつふつと滾《たぎ》ってくる。  重かった体が嘘のように動いた。  跳ねるように立ち上がると、槍でイゴールに対するステファノスが見えた。  ステファノスの方が押されている。いや、どうだろう。余力が観える。虎視眈眈《こしたんたん》と一撃必殺を狙っているように観える。  アルカイオスは矢を番《つが》えた。  このまま祖父に委《まか》せて退き下がるわけにはゆかぬ。いや、祖父に斃させるわけにはゆかぬ。  ――あれは、私の獲物だ。  譲れない。  イゴールの動きを見定めていると、目の端に影が過《よ》ぎった。イゴールだ。ステファノスの右斜め後方より駆けてくる。その反対側、左斜め後方では、未だ随身たちとイゴールが戦っている。となれば、新手であるらしい。 「お祖父様!」  ステファノスを振り仰ぐ。  刹那、青い目と合う。  ――恐ろしい方だ。  と思った。  背後であるにも関わらず、目前のイゴールに集中しているにも関わらず、新手の接近に気づいていた。  青い目は語っていた。  ――背後のイゴールを射て。  と。  無茶だと思った。  木が邪魔だ。  イゴールは木々を縫ってやってくる。しかも木々という障礙《しょうがい》など無いかの如き、速さと滑らかさである。  動き回る標的に中てるのは、ただでさえ難しい。  しかし、  ――中ててやろう。  目前のイゴールに後ろ髪引かれるが、この際、新手のイゴールでも構わない。  己が力を証明する。  アルカイオスは白の中に見え隠れする茶褐色の動物を見据え、矢先を向けた。  イゴールの動きに沿って矢先が揺れる。  なかなか定まらない。  イゴールが迫る。  ステファノスに迫る。  五十歩、四十歩、三十歩……。  革手袋の中が汗でべとつく。  読め。  感じ取れ。  イゴールの動きを。  大気の流れを。  森の佇《たたず》まいを。  己が力を。 「ウードラ殺しの大いなる神よ、我に力を……」  射手の加護神にして、狩猟神たるダルフォースに祈りを奉《ささ》げる。  不意に、拡散していたものがあるべきところ正しきところへすっと収まり、ひとつに繋がったような気がした。  イゴールに到る道筋が燦《きら》めく線となって視えた。  ――中たる!  自信でも自惚《うぬぼ》れでもない。己が力を超えた、必然とも理《ことわり》ともいうべきものだった。 「ウードラ殺しの大いなる神よ、願わくば、我が狙い、外させ給《たも》うな!」  祈りというより感謝を籠めて、そう唱えた。  弦音《つるね》が静かに響き渡った。  その音に乗って、矢は緩やかに弧を描き、吸い込まれるようにイゴールの腿《もも》に中たった。  イゴールは突《つ》んのめった。粉雪を捲《ま》き散らしてごろごろと雪面を転がった。  アルカイオスは呆然とその様《さま》を見ていた。神の御手に触れたような気がして、畏敬に打たれていたのである。  しかし、それも刹那、雪にまみれたイゴールがもぞもぞと動くのを見て取るや、我に返った。  素速いイゴールの足が止まった絶好の機会を逃してはならない。最前の如き神の力を借りた矢は、そうそう射てるものではないし、それを無意にするのは神への冒涜《ぼうとく》というものである。すぐさま次の矢を放って、このまま足留めするのだ。  ――いや、射殺してしまえ。  アルカイオスは背負った矢筒に手を伸ばした。  掴む、掴む、掴む……どういうことか、そこにあるべき矢を掴まず、悉く空《くう》を掴んだ。  訝《いぶか》しんで、後手《うしろで》に矢筒を振ってみた。果たして何の手応えもない。空《から》である。  ――馬鹿な!  矢は二束――二十六|隻《せき》持って来ている。使ったのは、初めのイゴールに三隻、今のイゴールに一隻、計四隻で、残りは二十二隻あるはずである。それは間違えようがない。  戦士たる者、すべからく己が身を護る武具を把握しているべきである。  初めて武器を手にした時、まずそのことを身体《からだ》に叩き込まれた。一隻でも矢数を間違えようものなら、馬用の鞭で引《ひ》っ叩《ぱた》かれたものである。  己が放った矢は何隻か、残りの矢は何隻かなど、頭で考えるまでもなかった。身体が覚えているのである。  アルカイオスははた[#「はた」に傍点]と思い当たった。  ――転んだ時だ。  慌てて振り返る。案の定、そこにあった。  一歩、二歩目で、落ちている矢を真上に蹴り上げ、引っ掴む。  そして振り返ると――  祖父の頸に、イゴールの牙が食い込んでいた。  アルカイオスはぽかんと口を開けた。  その光景が何を意味するのか、判らなかった。  直立不動の祖父は、かっと双眸を開き、ぐっと歯を食い縛り、頸から流れる血で青の装束を黒く染めていた。  その光景が何を意味するのか、判らなかった。  ――射たなくては。  と、真っ白な頭の中にふっと浮かんだ。  ああ、そうだ。イゴールを射たなくては。あのイゴールは己が狙っていたイゴールだ。  幸い、イゴールの動きは止まっている。祖父の頸に咬みついて止まっている。外すべくもない。  射たなくては。  殺さなくては。  極限まで引き絞った弓が、きしきしと悲鳴をあげる。  ――殺す!  大気が鳴った。  矢はイゴールの頸に突き刺さった。  そうしてイゴールの咬みつきが弱まった瞬間、塑像《そぞう》の如き様子であったステファノスの体が動いた。  もう一匹のイゴール――先までステファノスと対峙していた、死して間もないイゴールから槍が引き抜かれ、その石突《いしづき》が頸に咬みついているイゴールの腹に見舞われた。 「……動いた」  ステファノスが動く様を見て、アルカイオスの手から弓が落ちた。安堵で力が抜けた。  頭の片隅にありながら目を背けていた、「死」という言葉を抹消する。  ――死ぬわけがない。  あのお祖父様が、死ぬわけがない。  デルギリアの東では野蛮な騎馬民族トゥライが跳梁《ちょうりょう》し、北東では悪の種族が跋扈《ばっこ》する。彼らは、たびたび、デルギリア、すなわち、ローゼンディア王国への侵入を繰り返す。故《ゆえ》に、王国最北東に位置するデルギリアは、常に王国の鉄壁たることを課せられてきた。  その激闘の歴史、輝ける数多《あまた》の勇士たちの中にあっても、ステファノスの武勇は埋もれぬであろう。それほどの人である。  それほどの豪傑ステファノスが、死ぬわけがない。  ――死ぬわけが……  ぱっ、と、大気に鮮血が散った。  ステファノスの頸から、イゴールの顎《あぎと》が離れた瞬間のことであった。  血が勢いよく噴き出した。  冬の大気の中、熱い血は湯気さえ上げながら、見る間にステファノスの広い肩を被《おお》い、流れてゆく。足許の雪が、忽《たちま》ち赤い色に染まってゆく。  ――死ぬわけが……  直立の姿勢のまま、ステファノスの体がぐらりと傾《かし》いだ。そして、そのまま、血を噴き上げながら真後ろへと倒れていった。  ――死ぬわけが! 「おじいさまぁ――!!」  アルカイオスの叫びが森に響き渡った。  梢《こずえ》に潜んでいた鳥が、気狂《きちが》いじみた声をあげて騒がしく飛び立つ。 「大殿!?」 「大殿が!」  交戦中の随身たちが動揺で崩れ始める。形勢が逆転する。  アルカイオスはステファノスの許へ駆け寄った。  純白の雪の中に、真っ赤な血と真っ青な装束が、色鮮やかに拡がっていた。  ステファノスは生気の無い顔で、その中に埋れていた。口から漏れる息は弱弱しく、頸から流れる血は夥《おびただ》しかった。  その青い瞳は大きく見開かれ、虚空を見つめていた。いや、ここ[#「ここ」に傍点]ではないどこかを視ているようだった。  アルカイオスは恐れに顫《ふる》えつつ、しかし否応《いやおう》もなく引き寄せられるように、祖父の目を覗き込んでいた。  瞳に何かが映っている。  瞳の向こうから何かがやってくる。  この世すべての騒擾《そうじょう》を呑み込む、馬蹄の音が聞こえてくる。  善き死者の魂が集《つど》う冥界《ユノー》、その王ネストスの忠実なる僕《しもべ》、七の数を持つ死の御使い、オルディヌスがやってくる。 「……!」  アルカイオスは声にならぬ叫びをあげ、ステファノスの頸に手を当てた。そうして、溢《こぼ》れ落ちていく血を、生命《いのち》を、止めようとした。 「お祖父様……申し訳ありません……」  私の過失です――そう、顫《ふる》える声で云いかけた時、ステファノスの眼光が今一度輝き、アルカイオスを射竦《いすく》めた。 「愚か者め!!」  アルカイオスの全身がびくりと顫えた。  血とも唾ともつかぬものが、アルカイオスの顔に飛び散っていた。  いったいどこにそんな力が残っていたのか、激しい叱責の声だった。こんな祖父は初めてだった。  ステファノスは息も絶え絶えに言葉を紡いだ。 「何を、しておる……なんという声を、あげる……あれでは……随身らが、動揺する……儂のことなど、構うな……汝の所為《せい》で、儂が死ぬなぞ……」  ステファノスは、苦痛に顔を歪めながら哂笑《しんしょう》した。 「……戯《たわ》けた、ことは……申すでない……天命じゃ……我が、命運は……ここに尽きる、が……我らが、為すべきことは……尽きぬ……行《ゆ》けぃ!!」  我らが為すべきこと――騎士たる身、貴族たる身には、言われるまでもなく解りきったことである。  ステファノスに致命傷を与えたイゴールはすでに去った。追わなくてはならぬ。討たなくてはならぬ。  イゴール退治は騎士の使命であることは元より、デルギリアの誉《ほま》れたるステファノスを斃したイゴールを逃したとあっては、領主たる父に、家の者たちに、領民たちに、顔向けできぬ。  こんな血止めなど、している場合でもなければ無駄なことでもあった。祖父が助かるわけでもなし、己が過失が赦《ゆる》されるわけでもなし。  なんと無様な真似をしているのか。  そうこうしているうちに、彼《か》のイゴールに逃げ切られてしまうやも知れぬというのに。  血が滲むほど唇を噛んだ。  そうしなければ、激情に体が顫《ふる》え、涙が溢《あふ》れそうになる。  泣く資格は、己には無い。  アルカイオスは喉に引っ掛かっている嗚咽《おえつ》をぐっと呑み込み、祖父としっかり目を合わせた。 「お祖父様……」  声に顫えはない。 「お祖父様は、我らデルギリア、ひいてはローゼンディアの誉れです。……永遠《とわ》に」  そして止血の手を放した。再び血が流れ出した。  ステファノスは穏やかに微笑み、静かに目を閉じた。  それを確める間もなく、アルカイオスは立ち上がった。  ――仇《かたき》を討つ!  それが己が過失の償いになるなどとは、一毫《いちごう》たりとも思ってはいない。しかし、己が遣るべきことである。  彼《か》のイゴールの、雪上に残った足跡は東へ向かっている。まだそう遠くへ行ってはいまい。まだ間に合う。  アルカイオスは馬を繋ぎ止めているところまで走りながら、及び腰の随身らを叱咤した。 「怯《ひる》むな! ステファノス・セウェルスの弔《とむら》い合戦である! 負けることは赦さぬ! ――私は仇討ちに参る!」 「御意!」  アルカイオスは葦毛《あしげ》の愛馬に跨《また》がり、イゴールの跡を追った。  森が騷《ざわ》めいた。  雪が降り始めた。 [#改頁] 第二章 少女の見る夢  水が滴る音がする。  遠く……近く……遠く……近く……  高く……低く……高く……低く……  ぽたん……ぴちょん……ぽたん……ぴちょん……  心地好い響きに耳|擽《くすぐ》られながら、少女は夢と現《うつつ》の間《あわい》で微睡《まどろ》んでいた。  歌う。  踊る。  蒼天と緑野の狭間で。  涯《はて》しなき草原の草花に囲まれ。   いずこより、花の香ぞする、吹く風の   そよぐは千草《ちぐさ》、野辺に萌ゆ   赤、白、黄色、とりどりに   蒼《あお》に映えたる花咲けり   女神の御手なるこの大地   崇めん、讃えん、おお、メーサ   我らが母なる御女神《おんめがみ》  不意に、正面から背後へ、草原の上を影が走り抜けた。  振り返って仰ぎ見る。雲ひとつない青空を鷲《わし》が飛んでいく。  鷲を見送って視線を下げると、陽光を背にした騎馬の影がそこに在った。  美しい影だった。  地から生えるが如くどっしりと佇《たたず》み、それでいて鈍重さなど感じさせぬ精悍な馬の上に、均整のとれた逞《たくま》しい男の体躯がある。  いや、「馬の上に男が」というのは、どうもしっくりこない。男と馬はそれでひとつの生き物のようであった。  少女は男に話しかけようとした――その瞬間、ひんやりとしたものが頬を打った。  ――雨?  訝《いぶか》しんで、雲ひとつない空を見上げる。  すると、空が落ちてきた。  いや、浮いている感覚がある。己自身が動いている。空に吸い込まれる。  怖くなって目を閉じ、再び開くと、机に突っ伏している己が在った。  ぽたん……ぴちょん……ぽたん……ぴちょん……  水の滴る音が明確に聞こえる。  涯しない草原も、騎馬の影も、すべて夢だったのだと告げている。  頬に落ちた滴を拭い、身を起こせば、そこに在るのは石造りの小さな部屋だった。最低限の生活必需品と書物しかない、殺風景な部屋だった。花の色も香りもない、黴《かび》臭い、無彩色の部屋だった。  そこに装飾を加えてくれるのは、窓から見える空と山と森、窓から投げかけられる日月の光、そして、雨の日・冬の季節に馴染みの雨漏り・結露――その滴は、石壁に黒い涙を滂沱《ぼうだ》と描き、また、天井に張り繞《めぐ》らされた蜘蛛《くも》の糸に絡みついては、わずかな光にもきらきらと輝いて、小暗《おぐら》い部屋に星空を現出せしめるのだった。  それが、少女の世界のすべてだった。  特に不満はない。  不満など持ちようがなかった。  この世界しか知らない。  書物にある外の世界、人伝《ひとづて》に聞く外の世界は、空に浮かぶ雲、あるいは夜空に輝く星の如きもので、見えこそすれ触れることのできぬものであった。  この世界から出るなど思ってもみないことだし、そんなことが可能だとも思われなかった。  ここが己の生きる場所であり、死ぬ場所であった。  その場所に、今は赤い光が射し込んでいる。  異様なほど美しい陽の光であった。ここでは滅多に見られるものではない。背後に山脈を控えている所為《せい》か、いつもどんよりと雲が立ち込めて、燻《くすぶ》ったような天気が多いのである。  少女は立ち上がり、窓辺に寄った。  少女の肩幅ほどの辺、腕の長さ二倍ほどの奧行きの窓――というにもおこがましい吹き抜けの四角い穴には、朱金の後光も眩《まば》ゆく、三体の雪像が佇《たたず》んでいる。  一体は、鳥の翼を持つ両性具有の若者――ヴァリア教の主神ヴァリアである。  一体は、王冠を被り、マントを附け、蛇が絡みついた杖を持つ貴婦人――ヴァリア教の大地母神メーサである。  一体は、赤い木の実の眼を持つ雪兎――ヴァリア教とは関係ない。  いずれも窓に積もった雪で作った。冬の楽しみである。  少女は雪像を脇に退《の》けて、身を乗り出した。  天も地も、何もかもが赤く染まっていた。四階から眼下に拡がる森の原は、さながら緋《ひ》の絨毯であった。白く冷たいはずの雪が、何やら暖かな気さえしてくる。  しかし、そんな心とは裏腹に、体はぶるりと顫《ふる》えた。暖炉を見ると、火が消えかけている。目覚めた時点で気づいていたが、薪《まき》を取りに行くのが億劫《おっくう》で、先延ばしにしていたのだ。  冬は極力部屋から出たくない。  とはいえ、さすがにこのまま寝たら凍死してしまう。  凍死など、ここでは珍しくもない。よほど注意していても、二、三年に一度は誰彼が死んでいる。  己はよく生きているものだと思う。物心つく前からここに居て、もう十回以上の冬を越しただろうか。  少女はカップに残っていた香草入り果実酒をぐっと飲み干した。これで少しは体が温まる。  そうして覚悟を決めて扉を開けた。  途端、轟《ごう》と寒風が逆捲《さかま》き、少女の金の垂髪《すいはつ》を乱した。顫えあがりながら、すぐさま扉を閉じた。  足下には、闇の底に続いているかの如き螺旋階段がある。  人ひとりがやっと通れるほど狭く、欄《てすり》なしでは危険なほど傾斜がきつい。というのに、そんなものはないどころか、ところどころ罅《ひび》割れ、崩れてさえもいた。その上、十段ごとに小さな採光窓はあっても足許を照らすまでには至らず、ほとんど闇の中を歩くようなものであった。  しかし、少女にはなんの問題もない。  幾千幾万幾度となく通っている道である。目を瞑《つむ》ってさえ、後ろ向きでさえ、難なく歩ける。  とはいえ、冬になると生起する問題があり、それはまた別問題であった。  冬は、ただでさえ危険な階段が凍る。滑り止めに砂を撒《ま》いてはいるが、それでも滑らないということはなく、冷や冷やさせられることも屡々《しばしば》であった。  少女は何枚も重ね着している毛織の上衣《うわぎ》を掻き合わせ、身を縮こまらせつつ、 「さあさあ、通りますよ」  と、声と足音を反響させながら下りていく。  すると、そこここで、かさこそ、ずるぺたと、何かが蠢《うごめ》く音がする。  それらは少女にとって隣人ともいうべきモノたちであった。冬、それも、風凌《しの》ぎにしかならぬ粗末な塔とはいえ、闇の中で活動しているモノたちが居るのである。  それらの脇を通って一階まで下りると、その空間の大半は薪によって埋め尽くされている。  そこから両手で掴める分だけ取り上げる。  あまり多く持って行くわけにはいかない。  虫が湧く。  薪の中に潜んでいる愛すべき隣人たち――蚊《か》、蚤《のみ》、蟻《あり》、象虫《ぞうむし》、髪切虫《かみきりむし》……などといったモノが、暖かさに釣られて出てくるのだ。  少女の部屋にはすでに居候《いそうろう》が居る。石畳に敷いている湿った藁《わら》を寝床にし、居候の分際で家主を食料とする不届きモノたちである。  天井の主にして、ローゼンディア王国建国王の名を授《さず》けられた蜘蛛《くも》ベルディッカス、寝台下の主にして、ローゼンディア王国勇者王の名を授けられた蜘蛛プルビアコスが、名附け主にして家主である少女の身辺警護に当たっているが、戦力的に観て、これ以上居候は増やさぬ方がよいと思われる。  と、いつもの如く、凍えながら薪を取りに来なければならぬ面倒臭さを断ち切った後、夕食がまだであったことを思い出した。  ついでに持って行こうと、御膳が置かれるいつもの小卓を見ると……何もない。  ――忘れたのかしら?  ないことではない。稀《まれ》にそんなこともある。  今日から新年祭が始まっている。皆、祭りを楽しんでいるのだろう。  少女は、湧き上がる感情のままに、呼び鈴紐に手を掛け、勢いよく限界まで引っ張った。しかし、暫《しば》しの逡巡《しゅんじゅん》の後、静かに戻した。鈴は鳴らない。  そのまま踵《きびす》を返した。  ――今日は、早く寝よう。  先程居眠りしたばかりだが、寝台に横になればきっと眠れる。そして暁《あかつき》の女神アウラネが訪れて目が覚めたら、また一日中祈っていよう。  教師たる神官は言う。 「ひたすら祈りなさい」  その先に希望がある、と。  もう祈ることしか残されていない。  しかし、何を祈ればよいのか分らない。  とまれ、祭りはまだ続く。  昨日まで――昨年末の二十四日から大晦日《おおみそか》までは、太陽の復活祭であった。そして、今日から七日まで新年祭が行われる。この一連の祭りは、エネンゲーサと呼ばれている。  祭りの間は、ひとり静かに祈りを奉《ささ》げて過ごすのがよい。祭りの騒擾《そうじょう》を遠くに聞きながらそうするのは、いつものことだった。  少女の足がはた[#「はた」に傍点]と止まった。  ――何かがおかしい。  何かが引っかかる。  すぐさま一階に戻り、呼び鈴紐を引く。母屋《おもや》に通じる扉の向こうで、軽やかな鈴の音が響いた。しかし、それだけだった。待てど鳴らせど誰もやってくる気配がない。  というか、  ――静かすぎる。  祭りだというのに歌声や人声などが聞こえない。扉に耳を押しつけても、何も聞こえてこない。  こんなことは初めてである。  太陽神《アクシオーン》の車が天を駆けているうちは、いつも誰かしらが活動している。そういう音が聞こえてくる。  それが、今は、何も、聞こえない。  どくん  と、少女の胸が高鳴った。  恐る恐る扉を開けてみる。薄暗がりに、真っ直ぐ延びた廊下が浮かび上がっている。突き当たりには母屋の扉がある。  少女は母屋の扉まで静かに歩いていき、先程と同じように扉に耳を押しつけた。 「……」  やはり、何も聞こえてこない。  少女はごくりと唾を呑み込んだ。  これはいったい、どういうことなのか?  皆すでに床に就いてしまったのか。  それとも……  少女は向こう側を透かし視るように扉を視た。  この扉の先にはほとんど足を踏み入れたことがない。別段禁じられているわけではないが、自重しているのだ。ここより先は己が居てよい場所ではない。  しかし……  少女は躊躇《ためら》いがちに扉枠と開閉部の境に目を当てた。そして、隙間から覘《のぞ》き見るべく、わずかに扉を開けた――途端、赤い光が少女の目を射し貫いた。闇に馴れた目には強すぎる光だった。  暫くして光に馴れてくると、赤い光の中にふわふわと浮いている羽毛や綿毛の影が見えてきた。左右に目を動かすと、機織《はたおり》途中の四機の機械が長い影を落としているのが見える。  人影は、ない。  少女は扉を大きく開き、部屋の内《なか》に踏み入った。少女の挙動につられて、羽毛や綿毛がくるくると舞う。  埃《ほこり》と糸屑《いとくず》を踏み締めて反対側の扉に辿《たど》り着くと、今度もまた先の如く、扉の向こうの様子を窺《うかが》った。左右に延びた暗い廊下には、やはり人影はなかった。  しかし、いずれも予想通りのことである。祭りならば、皆広間に集まっているに違いないのだ。  漂ってくる香ばしい匂いを辿《たど》るようにして、少女は音も無く広間に向かい、その扉に耳を押しつけた。  ぱちり  と、薪が爆《は》ぜるような音がした。  途端、少女の胸は飛《と》び跳《は》ね、体は扉から跳《と》び退《の》いていた。  少女はけたたましい己の胸の鼓動を聞きながら、扉をじっと見つめた。いや、驚きのあまり足が動かず、そうしているより外なかったのである。我ながら小心だと思う。  扉が開かれる様子はなかった。ほっとして、再び扉に耳を押しつけた。先程と同じく、ぱちぱちと薪が爆ぜるような音がする。しかし、それ以外の音は聞こえない。  わずかに扉を開いて、内《なか》を覘《のぞ》き見る。  人影は……あった。  広間は、窓から射し込む光と暖炉の火に赤く照らし出されていた。  暖炉の前には香ばしい匂いの大元《おおもと》と思しき青銅の巨大な鍋があり、十四人掛けの卓上には饗宴の名残りがあった。  十三人の男女が、ある者は卓上に突っ伏し、ある者は椅子に凭《もた》れ、またある者は藁《わら》敷きの石畳に転がっていた。  皆、眠っているようだった。  しかし、どこか異様な眠りだった。  鼾《いびき》をかく者も居なければ、身動《みじろ》ぎをする者も居なかった。かといって息がないわけではなかった。十三人の静かな静かな寝息が溶け合い混じり合い、あたかもこの場に初めから存在していた空気であるかの如く広間に満ちていた。  少女はどこか別の世界に足を踏み入れているような気がしてきた。  しかし、太陽神《アクシオーン》の車はいまだ天を駆けている。魑魅魍魎《ちみもうりょう》が目覚めるにはまだ早い。  とはいえ今この時、昼と夜――二つの世界が交差しようとしていることは確かだった。  どくん  と、少女の胸が高鳴った。  物音を立てぬようにしながら扉の前から離れた。  ──今なら、外に出られるかも知れない。  考えた途端、肌が粟立つような興奮を覚えた。  強烈な衝動が体を走り抜け、それに引き摺られるようにして少女は走り出した。  突然に突きつけられた、大きな誘惑だった。  今なら、外に出られるかも知れない。  普段ならばそんなことは考えもしないだろう。いや、そもそもそれは考えてはいけないことなのだ。  望むまい、考えるまい、そう自らに言い聞かせ、心の底に封じ込めてきた望みだった。  外に出たいという想い──ただそれだけのものに、物心ついてから後《のち》、少女は蓋をしてきた。  厳重に鍵をかけ、そして、ただ、神に祈り続けた。  毎日。毎日。毎日──。  しかし、神の答えは常に沈黙を以て為されるだけだった。  今もまた、神は何も語ってはくれはしなかったが、そんなことはもう、少女の頭をかすめもしない。  少女は駆けた。  高らかに足音を響かせて、暗い廊下を駆けた。  その先に在るのが、この世なのか、あの世なのか、そんなことはどうでもよかった。  言い知れぬ何かに衝《つ》き動かされるままに、駆けていた。  そして扉を開けば、血の如く赤い光と青黒い闇が、溶け合い縺《もつ》れ合い、あるいは鬩《せめ》ぎ合いながら、氷雪細工の世界を蹂躪《じゅうりん》していた。  美しいような恐ろしいような光景だった。  少女はその中に身も心も呑み込まれ、息をすることも忘れて魅入《みい》っていた。  そして、赤と黒の間《あわい》に不思議なきらめきを見つけた。  東の空には星々が瞬《またた》き始めている。そのいずれかが粉々に砕け散ったのであろうか。星の破片《かけら》と思しきものが、粉雪の如く舞い降りている。  じっと見つめていると、きらめきに合わせて歌が聞こえてきた。   踊れ、踊れ、踊れや、踊れ   きらりん、ひらりん、舞い踊れ   凍れ、凍れ、世界よ、凍れ   凍れる世界の美しさ   白く、白く、世界を、白く   真白き世界の美しさ   踊れ、踊れ、踊れや、踊れ   きらりん、ひらりん、舞い踊れ 「あれは『輝跡《きせき》』ですよ」  氷雪の精霊たちが溢《こぼ》す足跡なんです――と、幼い頃、今は亡き老神官に教えてもらったことがある。なんとなしに思い出した。  少女は刹那《せつな》躊躇《ためら》い、しかし意を決して、氷雪に被《おお》われた大地に一歩踏み出した。  さしたる感触も無く脛《すね》の中程までが雪に埋まり、凍れる針を無数に含んだ空気が全身を包んだ。剥き出しになっている肌がぴりぴりする。  しかし、そんなことはまったく気にならなかった。氷雪の精霊たちの歌がこの身を守ってくれる――そんな気がしていた。  少女は歩き始めた。  歌に合わせて。  踊るように。  真《ま》っ新《さら》な大地に、小さな足跡をつけていく。  外に出るのは何年ぶりだろう。  少女は記憶の糸を手繰《たぐ》り寄せた。  サイス、ルキティア、ガイアス、オクタリウス、イーダ、ヘルディス、ラグオン、ユニ、フィルネー、ドルコス、ダヌオーン……  様々な顔が浮かんでは消えていく。  入れ替わり立ち替わりここ[#「ここ」に傍点]にやってくる人々――それが、少女にとっての「時の流れ」であった。  半分ほど手繰り寄せたところで少女は苦笑し、手繰り寄せた糸をぐちゃぐちゃに丸めて抛《ほう》り投げた。  ――馬鹿馬鹿しい。  こんなことをして何の意味があるというのだろう。  最後に外に出た日は、遥か昔であったかも知れぬし、つい昨日であったかも知れぬ。  その日以来、少女は外に出ることをやめた。諦めた。  誰かに抱き上げられて外に出ることが苦痛だった。堪《た》えられなくなった。  少女を抱き上げている腕から体温と共に伝わってくるあの恐怖。  少女はそれを忘れることができない。  抱き上げられることなく外に出る方法がないわけではないが、そういう問題ではなかった。諦めた[#「諦めた」に傍点]のだ。  しかし、今再び、少女は外に出た。  予感があった。  今日ならば、今ならば、ここではないどこかへ行けそうな気がしていた。  少女は次第に歩を速め、遂《つい》には駆けた。  木々の黒影《こくえい》とその狭間の赤光《しゃっこう》が、互い違いに競い合うように少女を染め上げる。  輝跡《きせき》はすぐそこにあった。  ――届く!  と手を伸ばした瞬間、何かに蹉《つまず》いた。息を呑んだ時には、真《ま》っ新《さら》な雪の大地が目前にあった。ふわふわの雪だから、それほど痛くないかも――と暢気《のんき》に思いつつ、雪飛沫《ゆきしぶき》を上げながら顔面から突っ込んだ。受け身をとるなどという考えも身体能力もなかった。全身を強打していた。  駆けたことによる激しい動悸と、痛みと痺れが綯《な》い交《ま》ぜになった奇妙な感覚を押さえながら、少女は漸漸《ようよう》首だけを動かした。すると、視界の片隅、隅の隅に、きらめきを捕らえることができた。  少女は手を伸ばそうとした。脱力しているような、硬張《こわば》っているような体を、なんとか動かそうとした。しかし、少女の意に反して体は動かず、きらめきは遠ざかっていく。  そして、触れることも叶わぬまま、きらめきは跡形も無く消え去った。  後には、雪に埋まった少女だけが残された。  暫《しばら》くして少女の激しい動悸《どうき》が収まると、辺りは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。  風の音も木々の騷《ざわ》めきもなければ、今日に限って、イゴールの雄叫《おたけ》びすら聞こえてこない。  そして、氷雪の精霊たちの歌も。  ――寒い。  外はこんなに寒かったのか……と、少女は今更の如く思った。  転倒による痛みと痺れが去ると共に、それに取って代わるが如く、寒気《かんき》がじわじわと少女の心と体を侵蝕していた。少女はされるがままに、ただ身を任せていた。抵抗しなかった。それだけの力がなかった。きらめきが消えると同時に、少女を動かしていた何かも消えていた。  睡魔が少女の瞼《まぶた》に優しく手を触れる。  ――このまま目を閉じたら……  夢を見られるだろうか。  涯しない草原の夢を。  目覚めることもなく、ずっと。  そんなはずはないことは百も承知である。  このまま目を閉じたら、死の御使いオルディヌスがやってきて、少女の魂を冥界《ユノー》へと連れ去るだろう。あるいは、悪霊に捕らえられ、地獄界《ヌーガ》へと連れ去られるやも知れぬ。オルディヌスが連れ去るのは善なる魂だけだ。  しかし、そうと解ってはいても、夢想せずにはいられなかった。  少女は睡魔の手を払い除《の》け、寒さで感覚の無くなりつつある体を大儀《たいぎ》そうに起こし、雪上に印《しる》された己の足跡を目で辿った。  行き着いた先は巨大な城門塔である。  かつて、それは城塞の一部を為していたものであったが、今や、城塞そのものは見る影も無く、またその用も為していなかった。五角形を形作っていた五点、その内の三点の塔はほぼ全壊、五点を繋いでいた分厚い胸壁もほぼ全壊、そして、その内に衛《まも》るべき建物もほぼ全壊していた。  巨人の手により破壊されたが如き城塞であったが、城門塔を含む二つの塔のみがその難を逃れたわけではなかった。ほとんど建て直すようにして修復されたのである。しかし、それはあまりにも杜撰《ずさん》な修復であったと一見にして判る、粗末なものであった。暖炉の煙が立ち上っていなければ、こんなところに人が住んでいるとは誰も思うまい。  そういった有様でありながらも、城塞たる面目をどうにか保とうとしているのか、城門塔の巨大な門扉だけはやけに立派であった。開けっ放しであろうと大して変わりもなかろうに、几帳面にも固く閉ざされている。  城門塔の右手からは、一階分の高さしかない胸壁兼渡り廊下が延び、四階建ての細長い塔に続いている。その最上階が少女の部屋であった。  少女は己の部屋を見上げた。暖炉の煙が細く立ち上っているのが見える。  途端に、冷え込みがさらにきつくなったような気がした。  外はあまりにも寒かった。  寒いだけだった。  萌える草花も、小鳥の囀《さえず》りも、ここにはない。生きとし生けるものが、あるいは眠り、あるいは死んでいる。目覚めているのは、ただひとり、少女だけである。  少女はかじかんだ素手で雪を握り締めた。拳《こぶし》の内で、冷たいような熱いような塊が徐々に小さくなり、それと共に指の間から水滴が漏れ出ていく。暫くして手を開くと、握り締めていたはずのものは無くなっていた。  少女は濡れた掌《てのひら》を見つめ、力無く声も無く哂《わら》った。  ――こんな偽りの「大地」でしか駆けることができない。  触れただけで消えてしまう、こんな「大地」でしか。  大地母神《メーサ》が目覚めたら消えてしまう、こんな「大地」でしか。  しかし、そんなことは解り切ったことだった。今更、何を期待したのだろう。所詮は、夢を見ることしか許されぬ身だというのに。  ならば、やはり、己の居場所はあの部屋しかないのだろうか。  少なくともあの部屋は、ここよりは暖かかった。微睡《まどろ》むことができた。涯しない草原を駆ける夢を見ることができた。  少女は白い溜息をひとつ溢《こぼ》した。  ――戻ろう。  夢を見るために。  少女は立ち上がり、体に附いた雪を払い落としながら、やってきた道を戻り始めた。  が、一歩踏み出したところで、その足が止まった。  何か[#「何か」に傍点]が雪の中から出ている。  途端に、思い当たった。きっと、あれに蹉《つまず》いて転んだのだ。  いったいなんに蹉いたのかと近寄ってみると……  手だった。  革手袋をした左手である。  ――行き倒れ……?  珍しい……というか、なんとも理解しがたいことである。このような時期に、このような辺鄙《へんぴ》なところへ、訪れる者がいようとは。  とはいえ、少女はこの行き倒れに、怖いもの見たさともいうべきものを感じていた。  屈《かが》み込んで、雪の中から突き出ている手を観察する。大きい。己の手よりも遥かに大きい。恐らく、男の手である。  少女は恐る恐るその親指を摘まみ、幾度か軽く引っ張ってみた。重い感触がある。手首から雪に埋れた先には、まだ続きがあるらしい。手だけが落ちているわけではないようである。  少し力を入れて引っ張り上げてみると、ずるり、と、芋蔓《いもづる》の如く、衣服に包まれた腕が出てきた。芋を掘ったことなどないが、塔の上から農作業の様子を見ている限りでは、こんな感じだったと思う。  しかし、芋ではなく人間であるらしいから、何やら墓を暴《あば》いてでもいるような気がしてきた。  ……いや、「ような」ではなく、まったくその通りなのではないか? 少なくとも、死者の眠りを妨げようとしているのは確かであった。  そう思い至ると、羞恥と畏怖が一度に噴き上がった。  なんと不謹慎なことをしているのだろう! 「神よ、お赦《ゆる》しを!」  すぐさま雪の中に埋め戻して、鎮魂の祈りを奉げなければ!  と、慌てて腕を埋め直そうとしたその時――  腕が、動いた。  少女は息を止めた。  気の所為《せい》ではないかと腕をじっと見つめる。何の反応もない。しかし、その沈黙と静止に相反して、少女の胸の鼓動は徐々に高く速くなっていく。  まさか、生きているわけがない。  今さっき行き倒れたのならまだしも、これはどう見てもそうではないだろう。周囲にあるべき足跡はすでに雪に埋もれているようだし、手が出ていなければ間違いなく見過ごしていたであろうほどに、本体は雪の大地にすっかり溶け込んでいる。これほどの雪が積もる間、これほどの酷寒に放置されていて、生きているとは思えない。  これで生きているのなら……  ――人間ではないのかも知れない。  少女は唾を呑み込もうとした。しかし、口の中はからからに乾いていた。  このような時、どうすればよいか?  神話や伝承は教えている。  即刻立ち去るべきである、と。  この世に在らざるものには、安易に近寄るべきではないのだ。神異・怪異に惑わされ、引き寄せられて、何処《いずこ》とも知れぬ世界に連れ去られてしまった人間の話は、よくあるものだった。  しかしそれは、少女にとって望むところであった。まさしく、それを求めて外に出たのではなかったか? 外の寒さを思い知るために出たわけではないはずだった。  ともかく、確認してみよう。  気の所為であるかも知れぬし、そうでないかも知れぬ。  どちらであろうと畏れ多いことではあったが、今更何を畏れるというのだろう。  神から見放された、この身であるというのに。  少女は腕の位置から推し量り、頭があると思しき辺りの雪を掘り始めた。ふんわりと積もった雪を掘るのは容易《たやす》かった。すぐさま指先が明らかに雪とは違うモノに触れ、顔が現れた。  どきりとした。  ぎょろりと大きく見開かれた両目、だらりと頤《あご》まで伸びた黒い舌、驚いているような呆《とぼ》けているような、どこか滑稽さのある男の顔がこちらを見ていた。  人間ではなかった。  そのような顔が刻まれた石碑である。  見覚えのある絵柄だった。なんだったろう? とても古いもののような気がした。  ともかく、掘るところを間違えたことは確かなようである。  少女は目星を附け直し、再び雪を掘り始めた。今度は誤《あやま》たず、生身の人間の顔が現れた。  勇《いさ》ましく頑《かたく》なな顔付きの男が、眠っている。悪夢に魘《うな》されながら。――そんな風に見えた。  存外に整った顔であった。すぐ横にある石碑の如き異相でもなければ、神神《こうごう》しさや禍禍《まがまが》しさを放っているわけでもない。しかし、人の上に立つ者の高貴さと力強さを備えている。  赤い陽の光の所為か、あたかも生きているかの如く血色がよく、凍りついた髪は明るい銅《あかがね》色に見えた。本来は、金髪か銀髪かの、どちらかであろう。  男の顔には、この近辺の人間であるらしい特徴があった。しかし、少女が見知っているそれとは――いや、「男」とは、少し違っていた。  この男からは、瑞瑞《みずみず》しさと危《あやう》さを感じる。  つまりは、「若い」のだ。  少女は「若い男」というものを見たことがなかった。ここ[#「ここ」に傍点]には、若い男はいないし、やってきたこともない。ここ[#「ここ」に傍点]に来る前には見たことがあったかも知れぬが、物心つく前のことで憶えていない。どのみち、これからも見ることはないのだろうと思っていた。  しかし、そのようなことによる感慨を持つ間はなかった。男の罅《ひび》割れた唇から、うっすらと白い息が漏れたのである。気の所為などではなかった。目を凝らさねば判らぬほど弱弱しくはあったが、白い息は断続的に漏れ続けている。 「……も、もし?」  恐る恐る話しかけ、恐る恐る頬を叩《はた》いてみた。しかし、何の反応も無い。  考えるよりも先に、少女は男の全身を掘り出しにかかっていた。雪の下から露わになっていくのは、武装した戦士の肉体であった。それが少女に閃《ひらめ》きを与えた。 「イスターリス!」  戦士の加護神といえば、戦神イスターリスである。  思い出した。男の横にある石碑に刻まれているのは、イスターリスだった。今となってはほとんど見られなくなった絵柄だが、イスターリスを崇拝する古い儀礼の中では、このような絵柄が用いられることがあったという。  ――この男《ひと》には、イスターリスの加護がある。  そうに違いない。それで納得がいく。  この男は、イスターリスの加護を受けている人間[#「人間」に傍点]なのだ。 [#改頁] 第三章 邂逅《かいこう》  いったい、どれほど駆けたのか。  仇《かたき》のイゴールをただひたすら追い駆けた。  復讎《ふくしゅう》と悔恨に埋め尽くされた心には、馬に対する気遣いも残っておらず、馬が泡を吹いて倒れるまで、拍車を掛け、鞭を揮《ふる》い、そして馬が潰れたことすら気づかずに、自らの足で駆け続けた。  急がねばならなかった。ちらほらと浮游《ふゆう》していた雪は、いつの間にか猛吹雪に変わり、視界を白く閉ざしていた。このままでは仇の足跡すら見失ってしまう。  どこをどう走っているかなど、まったく判らなかった。ただひたすら駆け続けた。  そして気がつけば、闇の底へと落ちていく己が在った。いや、そんな感じがするだけで、実際には落ちているわけではないのかも知れぬ。  とにかく、身体が重かった。動かなかった。もどかしかった。仇を追わねばならぬというのに。  この状況に対する答えとして、否応《いやおう》もなく頭に浮かんでくるものがあった。しかし、そんなものはあり得ぬことだった。祖父の仇を討たぬまま死んでしまうなど、そんなことはあってはならぬ。  全身に渾身の力を籠めようとした。しかし、力は止《と》め処《ど》なく流れ落ちていくばかりで、押し止《とど》めることも掬《すく》い上げることもできぬ。それどころか、遂には意識までもが流れ落ち始め、復讎も悔恨も「死」という言葉すらも闇へと落ちていった。  闇の懐《ふところ》で、どれほど揺蕩《たゆた》っていたのか。不意に、花のような甘い香りが鼻を突き、意識が呼び覚まされた。  ――ニゼリカ?  冥界《ユノー》に咲き誇るという花の名が、ふっと頭に浮かんだ。  その意味を深く考える前に、何かが体に絡みついていることに気づいた。何だろう? あたたかくて、やわらかくて、なめらかで……と、考えていくうちに、目を閉じているから暗いのだと気づいた。  目を開いた瞬間、跳び上がりそうになった。息が掛かりそうなほどの眼前に、眠れる乙女の顔があったのである。  ほのかに光を放つ白い肌と金の髪が、薄闇の中にその美しい顔を浮かび上がらせていた。  ここが冥界《ユノー》ならば、この少女は|死の乙女《フィリス》に違いない。しかし、何故かそんな気がしなかった。  この少女からは春の匂いがする。ニゼリカかと思っていた香りは、彼女から発せられているものらしい。  ――人間《ひと》に非ざる者やも知れぬ。  ふとそんな考えが頭を過《よ》ぎったが、それにしては眼前の相手はあまりにも無防備に過ぎた。疲れ果てて眠る子供の如き顔を見せているのである。  しかし、取り敢えずの問題は、彼女の正体よりもこの状況の方であるやも知れぬ。その少女が、見ず知らずの男であるはずの己に抱きついていて、共にひとつの毛布に包《くる》まって横になっているようなのである。 「……」  頭の中は真っ白だった。  何がどうしてこうなっているのか、どこに何が触れているのかなど、考えられないし、考えたくもなかった。  少女から逃れようにも、少女に触れるのも話し掛けるのも躊躇《ためら》われ、それどころか、眼前にあるこの美しい顔に息を吹き掛けるのもまずい気がして、ただひたすら息を止めて硬直しているより外なかった。  そうして息を止めているのも辛《つら》くなってきたその時、少女の瞼《まぶた》がわずかに痙攣《けいれん》した。どきりとした。この目が開いたら、いったいどうなるのか? 不安と期待が鬩《せめ》ぎ合いを始めた。しかし、そんなものなどお構いなしに、少女の目は花の蕾《つぼみ》が開くように開いていった。  そこに在ったのは、朝露を湛《たた》えた新緑の如き緑の瞳であった。  アルカイオスは大きく目を見開いて、その瞳を見つめていた。いや、すっかり呑まれて金縛りになっていたというのが正しいのかも知れぬ。  そうして見つめ合っていると、不意に少女が、 「気がつかれたのですね」  という、清清《すがすが》しい空気に凛《りん》と響き渡る鈴の音の如き声を出して、にこりと笑った。春の柔らかな陽光を想わせる、満面の笑みであった。 「……っ!」  アルカイオスは遂に堪《こら》えきれなくなった。  寝起きとは思えぬ素速さで、絡みつく手足と毛布を引き千切《ちぎ》るようにして地面を転がった。勢い余った体が何かにぶつかって止まった時、体は丁度《ちょうど》一回転したところであったらしく、距離を置いて再び少女と顔を合わせることになった。  アルカイオスは、少女によって温められていた体に、突如襲いかかってきた寒気に驚き凍えた。その一方で、激しい後悔と罪悪感に苛《さいな》まれた。少女の顔からあの光が完全に失せ、茫漠《ぼうばく》たる絶望がそれに取って替わっていたのである。反射的な行動であったとはいえ、何故少女の手から逃れるようなことをしたのか、己でも訳が判らなかった。  しかし、そのことを考える間も、少女に辯解《べんかい》するなり謝罪するなりする間もなかった。頭上から何かが落ちてきそうな気配を感じたのである。  アルカイオスは反射的に跳び起き、少女の上に覆《おお》い被《かぶ》さった。直後、乾いた木材がぶつかり合う響きと共に、頭に背中に鈍い衝撃が幾つも走った。  埃《ほこり》と共に目の前に転がってきたそれを見ると、薪である。どうやら、薪を積んだ山にぶつかり、山を崩してしまったということらしい。  アルカイオスは下になっている少女に目を向け、口を開いたが、 「だ……」  いじょうぶですか? ――と続くはずの言葉は、咽喉《のど》の奥で消えた。  少女がこちらを見ていたのである。円《つぶ》らな目をわずかに見開き、透明感のある白い肌をほんのりと朱に染めて。  ――勘辧《かんべん》して欲しい。  と思った。  そんな顔をされたら、こちらまで恥ずかしくなってしまうではないか。  しかもこの体勢……その上、何故か己は腰巻ひとつの素裸《すっぱだか》で……  ――いや、いかん!  それ以上考えるのは、まずい、やばい。何も考えるな。まずは心を落ち着けろ。  とはいえ、この美しい少女を目の前にして落ち着くのは至難であった。迂闊《うかつ》にも目を合わせてしまい、目を逸《そ》らすこともできぬとあってはもうどうにもならぬ。  そんなアルカイオスの心など知らぬげに、少女は口を開いた。 「ありがとうございます」  それが、落ちてきた薪から庇《かば》ったことに対する礼であると呑み込むのに、暫しの間を要した。 「は、あ、いえ……私が原因でのことですし」  我ながら、なんて声を出しているのだろうと思った。上擦《うわず》っているではないか。 「あの……お願いがあるのですが……」  少女は依然として顔を赧《あから》めつつも、どこか不安そうに云った。  ――お願い?  アルカイオスは、少女に気づかれぬよう、秘かに唾を呑み込んだ。  神話や伝承を思い起こしてみれば、人間《ひと》に非ざる者の「お願い」などというものは、碌《ろく》でもないものばかりであった気がする。  だが、取り敢えずは、その内容を聴くだけでも聴く必要はあるようだった。少女が懇願するようにこちらを見ている。 「……なんでしょう?」 「失礼ですが……わたくしを運んでいただけないでしょうか?」 「は?」 「体が、動かないのです」 「それは……」 「いえ、今のではありません」  少女はアルカイオスの云わんとするところをすぐさま察して、落ちてきた薪で怪我をしたわけではないのだと示した。 「申し訳ございませんが、今その理由を話している暇はありません。そろそろ人が来る時間なのです。――とにかく、わたくしの云う通りにしていただけませんか?」  何やら緊急を要するらしい。ここは従った方がよいのかも知れぬ。 「御意。――ですが、その前に……」  と、アルカイオスは少女から離れ、散らばっている薪を脇に退けながら、己が撒き散らした毛布を掻き集めた。どれもこれも、擦り切れ薄汚れた襤褸《ぼろ》である。少女の美しさに目を奪われていて気づかなかったが、少女の衣服も似たようなものであった。 「これをお貸し願えませんか? 軟弱なことと故《ゆえ》恥ずかしながら、裸で居るには些《いささ》か寒さが厳し過ぎるようです」  少女は羞恥と申し訳なさが入り混じったような顔をした。 「……申し訳ありません。ここにはそのような粗末なものしかないのです。それでよろしければ、お使い下さい」 「あ、いえ……お気になさらないで下さい。有り難く使わせていただきます」  掻き集めた毛布を腰に巻きつけ、肩に羽織り終わると、アルカイオスは少女の指示を仰いだ。  少女はわずかに目を伏せて、躊躇《ためら》いがちに口を開いた。 「あの……わたくしを、抱き上げて下さい」  ……だから、そういうことは顔を赧《あから》めながら云わないで欲しい――と、アルカイオスは切実に思った。騒《ざわ》めき乱れる心が忌忌《いまいま》しい。 「……では、失礼」  少女の顔を極力見ないようにしながら、少女の背中と膝裏の辺りに手を差し入れ、そのまま抱き上げた。  途端、 「あっ……ん……」  少女から甘く悩ましげな声が漏れた。  アルカイオスは危うく少女を落としそうになった。 「も、申し訳ありません! ……少し動くだけでも体が痛むのです」  少女自身も妙な声を出してしまったと思ったのか、緑の瞳を潤ませ、朱の染料樽に顔を突っ込んだが如く赤面して、慌てて辯解《べんかい》した。 「……」  ――拷問だ。  と、アルカイオスは思った。  ともすれば互いの白い息が混じり合う至近距離で、悩ましい声を聞かされ、可愛らしい赤面を見せられ、意識が遠退《とおの》くような甘い匂いを嗅《か》がされるのは……  ――これは、試練なんだろうか?  武骨一辺倒で生きてきたアルカイオスの手には余り過ぎるものだった。イゴールと一対一で戦う方がまだましである。  ともかく心中の動揺を必死に抑え込んで、そんな妙な声など聞いていない、気にしていないといった風を装いながら、 「それで、どちらへ参ればよろしいのでしょうか?」 「あちらへ」  と、少女が目で示す方へ進んだ。  少女とアルカイオスが横になっていたのは、天井高くまで山と積んだ薪の陰であった。そこから抜け出ると、その場所が石造りの小さな円形部屋であると判る。そこにはふたつの扉と上へ続く螺旋階段があったが、少女が示す通りに、アルカイオスは螺旋階段へ向かった。 「足元に気をつけて下さい。暗いですし、滑りますし、崩れているところもありますので」 「はい」  淀みのある暗さに満ちた螺旋階段には、凍《い》てついた風が流れていた。毛布を纏《まと》っただけのアルカイオスには、あまりにも苛酷《かこく》な風である。がたがたと全身が顫《ふる》えた。しかし、今はそれが有り難い。少女から気を逸《そ》らせる。  辿り着いたのは四階、そこに在ったのは、黴《かび》と埃《ほこり》の臭いのする奇妙な部屋であった。  天井には蜘蛛の糸が張り巡らされ、壁には湿気が滂沱《ぼうだ》の跡の如く黒黒と染み込み、床には取り替え時をとうに過ぎた藁《わら》が敷かれている。しかし、採光窓からの微弱な光に浮かび上がるそれらは、何故か不潔な印象を与えなかった。むしろ、そのように在るのが自然なように思えた。  そういった統一のとれた雑然とも云うべきものの内に、必要最低限の生活必需品と書物が整然と並ぶ殺風景な部屋ではあったが、不思議と生活感があった。それはあたかも、人知れぬ森の奥深く、打ち捨てられ忘れ去られた小屋に、何かが棲《す》みついている、といったようなものであった。  火が消えかけている暖炉の前には、机の上に拡げられ、椅子の背に掛けられた、鎖革鎧《リオプ》や衣服があった。一目見て、己のものであるとアルカイオスには判った。雪に濡れたそれらを干してくれているのだろう。己が裸になっているのも納得がいった。  アルカイオスは、凍りついた藁を踏みしだいて寝台に行き、少女をそっと降ろした。それでも痛みが走ったのか、一瞬、少女の柳眉がわずかに顰《ひそ》められた。しかし、すぐさま含羞《はにか》みに取って替わった。 「ありがとうございます。大変でしたでしょう?」 「いえ、そのようなことはありませぬ」  少女は軽かった。己が見知っている女性たちと比べて、やや小柄で痩《や》せ過ぎているようではあったが、女性というものはこんなにも軽いものなのかと思った。かといって、羽根の如くふわふわしているわけでなく、しっかりとした重みがあり、柔らかく、温かいのである。 「火を熾《おこ》しましょう」  少女の感触を思い出してしまい、照れ隠しを兼ねて暖炉へ向かった。  火を熾し終え、干されている己の衣服に手を触れてみると、まだ湿っていた。このまま着込んだら、風邪を引くに違いない。今暫し、毛布を被っているより外ないようであった。  となれば、後は少女から話を聴くばかりである。  アルカイオスは少女に向き直り、威儀を正して跪《ひざまづ》いた。 「申し遅れましたが、私は……」 「待って!」  少女の鋭い声に、アルカイオスは驚いて口を閉ざした。  少女ははっとして、思わず出てしまった声を恥じるように、気不味《きまず》い表情《かお》を浮かべて、しどろもどろに言葉を紡いだ。 「……あ、あの……申し訳ありません。……わたくし、名告《なの》ることのできぬ身なのです。ですから、どうか、お名告りにならないで下さい」  それがあまりにも切実に見えたので、アルカイオスは少少困惑したが、人間《ひと》の世とは異なる法《のり》があるのやも知れぬと思い直した。 「御意。――では、妖精の御方……いえ、ひょっとすると女神であられるのか」  少女の目がわずかに見開かれた。 「女神?」 「恥ずかしながら定命の身たる私には、貴女《あなた》様がいずれの理《ことわり》に身を置く御方であるのか、見定めることができませぬ。我が不明は元よりとして、非礼を重ねるのは甚だ申し訳なきことと存じまするが、どうか我が身をお連れになったこの地の名をお教え下さりませ。ここは何処《いずこ》でございましょう?」 「……」  少女は幾度か目を瞬《しばた》かせた後《のち》、漸《ようや》くアルカイオスの言を理解したように戸惑い顔になった。 「そのようなことはおっしゃらないで下さい。仮令《たとえ》世辞であっても、あまりにも畏れ多い言葉です。わたくしは不死なる女神ではありませんし、ここは冥界《ユノー》でも巨人界《セウタ》でも地獄界《ヌーガ》でもありません。わたくしは死すべき人間《ひと》の身で、ここは人間界《ノムス》なのです」  恐らくは――と、少女は最後に附け加えた。 「それでは……」  アルカイオスはごくりと唾を呑み込んだ。 「私はまだ、生きているのでしょうか?」 「はい。――わたくしが生きているのならば」  アルカイオスは唖然とした。  ――私が、生きている……?  信じ難いことであった。あり得ぬことであった。 「あなたはここを、冥界《ユノー》だと思われたのでしょうか? それとも地獄界《ヌーガ》だと思われたのでしょうか? いずれにしろ、そう思われるのも無理からぬことです。あなたは雪の中に埋まっていらしたのです。わたくしがあなたを発見した時、失礼ながら、魂はすでに|死の御使い《オルディヌス》に連れ去られた後なのだろうと思っておりました。しかし、あなたは生きていらした。恐らくは、戦神《イスターリス》の御加護がおありになったのでしょう」 「イスターリスが……?」 「あなたが倒れていらしたところに、往古《いにしえ》のイスターリスの石碑がありました」 「……」  少女の言葉が滴となってアルカイオスの胸に落ち、澄明《ちょうめい》さと痺れを含んだ波紋を全身に拡げた。  戦神イスターリスの加護が己にあった。  それはなんの不思議もないことであった。アルカイオスは、イスターリスを遠祖とするセウェルス家の継嗣《けいし》、|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》なのだから。  しかし、この身を循《めぐ》る血がイスターリスから連綿と続く流れの中にあり、まさしくその恩恵を受けているという事実を目の当たりにしたら、畏敬に打ち顫《ふる》えずにはいられなかった。  アルカイオスは頭《こうべ》を垂れ、イスターリスへ感謝の祝辞を奉《ささ》げた。  それから、思い出したように少女を見上げた。 「……では、倒れていた私をここまで運んできて下さったのは……貴女、なのですか?」  少女はアルカイオスの真っ直ぐな眼差しから目を逸《そ》らすようにわずかに目を伏せ、ほんのりと頬を染めてこくり[#「こくり」に傍点]と頷いた。  途端、 「……っ!」  少女の美しい顔が苦痛に歪んだ。 「失礼!」  アルカイオスは、はっとして少女の手を離した。感動のあまり、思わず手を取り、握り締めていたのである。  しかし、何かしらの違和感を感じて、再び少女の手にそっと触れようとした。  少女はそれに気づいて、己の手を隠そうとしたが、痛みで儘《まま》ならぬらしく、 「触らないで!」  と、鋭い声で制そうとした。  アルカイオスはそれを無視して、少女の手を取った。  少女の手は、見るも無惨な有様であった。  薄く滑らかな皮膚は見る影もなく破れ裂け、その下にある赤い肉を見せていた。ゼレーア海で獲れる小さな貝殼の如き爪は、あるいは割れ、あるいは剥がれている。消毒するくらいの応急処置はしたのか、一度は汚れを落とした跡が見えるが、腫れ上がった赤い肉からは、新たに血と膿《うみ》が滲み出ているようであった。――両手とも、である。 「これはいったい……」  と、口走ってから、なんて間抜けな物云いだろうとアルカイオスは自己嫌悪した。  ――この手で私を運んだ……?  いや、運んでこのような有様になってしまった、と考えるのが妥当なのかも知れぬ。  考えてみれば……  いかにも非力そうなこの少女が、どうやって己を運んだのか。  という疑問がある。  この、板金の如き筋肉を纏った体は、少女の倍――いや、それ以上の重さがあるだろう。その上、鎖革鎧《リオプ》まで着込んでいたのである。 「そろそろ人が来る」と云っていたから、ここには少女以外の人間が他にも居るようではあるが、その人間の手を借りたということは考えにくかった。その人間から逃れるように四階のこの部屋までやってきたのだし、少女のこの怪我を知っていて放置しておくとも思えぬ。  己が倒れていたところからこの建物までは馬で牽《ひ》くとしても、建物の中にまでは馬は入って来れない。あの薪の陰まで、そのか細い身ひとつで、手をぼろぼろにしながら、この体を引き摺ったのだろうか。少女の体が動かないのは、過剰な運動をした後にやってくる、あの筋肉の痛みと怠《だる》さの所為なのかも知れぬ。  アルカイオスは居たたまれない気持ちになった。  藝術の女神ディオーメの手なる、非の打ち所の無い少女の体に瑕疵《きず》を附けたのは、己なのか……。 「……申し訳ございません。どう詫《わ》びればよいのか……」 「お気になさらないで下さい。わたくしの身よりも、あなたの身の方が大切です」 「そんなことはないでしょう」  さぞ、名のある家の出とお見受け致しますが? ――と、言い掛けて、アルカイオスはやめた。名告るわけにはゆかぬということだった。  出自はともかく、少女が貴族であることは間違いないだろう。神とも見紛う美しさは、その身を流れる血に、神の血が混じっていることを明らかに示している。  とはいえ、そのような貴《とうと》い血を持つ者が、見窄《みすぼ》らしい恰好をしているのは解《げ》せぬ。よもや、このような牢獄の如き塔に住んでいるとは思いたくないが、恐らくは住んでいるのだろう。少女はこの部屋にえらく馴染んでいる。  なんとも奇妙ではあったが、名告れぬというのは、そのことと関係しているのかも知れぬ。 「この身はなんの役にも立たぬ身なのです」  少女はぼそりと呟いた。  その目は、アルカイオスを見ているようで見ていない。恐ろしいほどの透徹だけが在った。深緑の森を映す、湖面のような。  ――まずい。  と、アルカイオスは思った。  何がまずいのやらよく判らぬが、この目を見続けているのは危険であると、本能が告げている。それなのに目が離せない。ますますもってまずい。  ――やはり、人間《ひと》ではなく……もしや、|死の乙女《フィリス》……?  年若く美しい乙女、フィリスたちは、彼女らの主人にして、冥界《ユノー》の王たるネストスから、一年にひとり、人間《ひと》の生命《いのち》を奪うことを許されている。  彼女らに出逢ったら、必ずしも生命を奪われるわけではないが、若い男は特に注意する必要があるだろう。なんとなれば、フィリスは「乙女」だからである。  もしその年に、不運にも最初の相手としてフィリスに出逢ったならば、確実に魂を奪われると思った方がよい。  ローゼンディアの若者は、 「人気《ひとけ》無き水辺には近寄るなかれ」  と教えられる。  フィリスに誘われやすい場所だからである。  とはいえ、わざわざ近づく輩《やから》も居ることは居る。ある者は興味本位で、ある者は恋に破れて。中には、フィリスを求めて、この世すべての水辺を流離《さすら》わんとする男も居るという。  まったく以て馬鹿馬鹿しい限りではあるが、アルカイオスは彼らを馬鹿にしようとは思わぬ。その気持ちが解らぬでもないからである。しかし、唾棄すべき行為であるとは思う。この世ならぬものに現《うつつ》を抜かして己が使命を放棄するなど、ヴァリア教の教えに背《そむ》いている。  ともあれ、ここは水辺ではない。ならば、この少女は|死の乙女《フィリス》ではないはずだ。恐らく。きっと。たぶん。  そのように思い込もうとしていると、  ぽた  どきりとした。  何か冷たいものが頬に当たった。  知らず息を呑みつつ、恐る恐る頬に指を触れ、その指を見て見ると……  水[#「水」に傍点]が、附いていた。 「!」  ……いや、何を動揺しているのだろう。たまたま落ちてきた、単なる滴だ。たまたま……  ぽた、ぽた、ぽた……  冷たいものが幾つか、頭に顔に爆《はじ》けた。  真上を仰ぎ見ると、燦《きら》めく滴が雨の如く降ってくる。 「!!」  アルカイオスは思わず目を瞑《つぶ》った。 「申し訳ありません」  その言葉と落ちてきた滴の冷たさで、現実に引き戻された――ような気がした。  少女を見ると、先程の如き妖しい様子はない。あの世ではなくこの世をきちんと見ている。 「ここは雨漏りがひどいのです。部屋が暖まると特に……どうされました?」  少女は、呆けた様子のアルカイオスに怪訝《けげん》な顔をした。  アルカイオスははっとして我に返った。 「あ、いえ……なんでもありませぬ。――と、ともかく、お手をこのままにしておけば、大変なことになります故《ゆえ》、何か薬……」  があれば、このような状態であるわけがない。  アルカイオスは立ち上がり、干している己の衣服を取り寄せて、その中からふたつの革袋を取り出した。 「暫し堪えて下さい」  革袋のひとつに口をつけ、あおると、灼熱の液体が口中に拡がる。それを少女の手に吹きつけた。 「うっ……!!」  少女の顔が歪む。  アルカイオスはもうひとつの革袋から乾燥した薬草を取り出した。それを口に含んでよく噛み、吐き出して、少女の手に塗りつけた。 「医術の心得がおありなのですか?」  少女は痛みを堪えつつ聞いた。 「いえ、そのような上等なものではありませぬ。戦場《いくさば》に立つ者として、必要に迫られる程度のものです。尤《もっと》も、治すよりも殺す方が得意ですし多いのですが」 「……」 「失礼。女性に話すようなことではないですね。――ひとまず、これでよいでしょう。このまま動かさないようにして下さい」  と、アルカイオスは治療を終えた。 「ありがとうございます」  少女は微笑んだ。  その微笑みが、アルカイオスには痛い。  痕《あと》が残るやも知れぬ。  指先が変形するやも知れぬ。  優美な手であったに違いないのに。  アルカイオスは再び威儀を正した。 「改めて御礼申し上げます。私をお救い下され、誠に有り難く存じます。就《つ》きましては御礼の御印《おしるし》に、憚《はばか》り乍《なが》ら、御身《おんみ》のご全快まで、お尽くし致したく存じます」 「……そのお気持ちだけ、ありがたく頂戴《ちょうだい》致します」 「いえ、そういうわけには参りませぬ」 「あなたはわたくしの手を治療して下さいました。それでもう充分です」 「治療というほどの治療ではございませぬ。賜わった御恩に比ぶれば、微微たるものでございます」 「その御礼は、イスターリスにこそ奉げられるべきものです。わたくしはただ、イスターリスのお導きに従っただけに過ぎません。……もしかしたら、あなたをこうしてお救い申し上げることが、神がわたくしにお与えになった使命だったのかも知れませんね。なんの役にも立たぬこの身は、あなたのためだけに[#「あなたのためだけに」に傍点]この世に生を享《う》けたのかも知れません。そう考えれば、すべてに納得がいく気が致します。あなたをお救いできてよかった」  と、少女は微笑んだ。  アルカイオスにはそれがひどく哀しく見えた。  ――私のためだけに、この美しい少女が生まれてきた……?  ――こんな牢獄のような場所で、ただひたすら私を待ち続けていた……?  腹の底から沸沸《ふつふつ》と怒りが湧き上がってくるのを、アルカイオスは感じた。  ――そんな馬鹿なことがあってよいものか! 「あなたは重大な使命を背負っていらっしゃるに違いありませんわ。……どうか、わたくしのことはお捨て措き下さい。そうしなければ、善《よ》からぬ運命があなたに降り掛かるでしょう」 「……」  アルカイオスは、強い意志が籠もった熱い眼差しで少女を見つめた。 「確かに、私には使命があります。しかし、だからといって、恩義ある貴女を捨て措いてよい道理はありませぬ」  アルカイオスの眼差しがあまりにも強い所為か、少女は怯《おび》えるような顔をした。しかし、そんな少女にお構いなしに、アルカイオスは少女に迫った。 「貴女をここから連れ去ってでも御恩に報いる」 「わたくしをここから……?」  アルカイオスの言葉に少女は目を見開き、暫し呆然とした。そして崩れるように、泣き笑うが如き表情《かお》となった。 「わたくしは、ここでしか生きられぬ身なのです」  ――ここを、どこだとお思いですか? [#改頁] 第四章 帰還  ――若の云う通りにするのではなかった。  本来、落ち着いた色合いの灰色の瞳である。そこに今、苛立《いらだ》ちの炎《ほむら》が揺れている。それを押し隠すように、キュロスはわずかに目を伏せていた。  上品で端正な顔立ちをした男である。妙齢の女心を擽《くすぐ》る、油断ならぬ甘さを持っている。くどい甘さではない。漆黒の髪と、綺麗に整えられた口髭《くちひげ》によって、絶妙に引き締められた甘さである。青年というには分別があり過ぎ、中年というほど脂切ってはいない――そんな年頃の、すらりとした長身の騎士であった。  悍気旺盛《かんきおうせい》なアルカイオスの手綱たるべく守り役を任ぜられ、アルカイオスの行くところ、陰の如く附き随《したが》うのが常であったが、この時ばかりは事情が異なっていた。 「父上の諒解《りょうかい》は得ている。たまには祭りを大いに楽しめ。……そう案ずるな。お祖父様に顔を見せに行くだけだ。縦《よ》しんば、何かがあったとしても、あのお祖父様がいらっしゃるのだぞ?」  という、守り役に対する労《ねぎら》いよりも厄介払いできる嬉しさが滲んだアルカイオスの言に、祖父と孫との水入らずを邪魔することもなかろうと己に言い聞かせて従ったわけなのである。  しかし、祭りを楽しむ間もなく、ステファノスの隠居所から領主館に急報が入った。  ――大殿、戦死。  その上、若殿――アルカイオスは行方知れずだという。  騒然としつつも、すぐさまキュロスを長とする捜索隊が組まれ、隠居所へと発した。  それがもう三日前のことである。手掛かりは少なく、捜索は難航していた。  ステファノスに呼ばれた応援隊が到着した時には、すでにすべてが終わっていたという。アルカイオスの行方を知っていたであろう者たちはすでにこの世にはなく、唯一の手掛かりである、併走するが如きイゴールと馬の足跡は、風雪により中途で途絶えていた。恐らく若は、イゴールを追ってゆかれたのだろう――それくらいの推測しかできぬ状態であった。 「隊長、雪が……」  キュロスのすぐ横に居る騎士が言い掛けた。が、殺気が籠もった灰色の瞳で睥《にら》まれて、口を閉ざした。  雪は激しくなりつつあった。そろそろ引きあげねば、こちらの身も危うくなる。  キュロスは渋渋《しぶしぶ》口を開きかけた――その時、 「隊長! 何か来ます!」  降り頻《しき》る雪で判然としない視界の向こうから、木々を縫って何かが滑るようにやってくる。  ――イゴールか?  背筋がぞくりとした。歓喜で。  キュロスは怒りをぶつける場所を求めていた。この捜索中、イゴールに遭遇することは一度もなかった。苛立ちは募る一方でしかなかった。 「弓構え!」  昂奮を抑えつつ指揮の手を挙げる。  そして…… 「待て! あれは……」  イゴールなどではない。人間、それも見知った人影である。スキーで滑り降りてくる。 「若――っ!!」  キュロスは馬に鞭を当てた。  アルカイオスは人が居ることにほっとしたのか、力が抜けたように崩れ、雪煙を上げながら転がってきた。キュロスは馬から降り、転がり落ちてくるアルカイオスに飛びついた。 「若! よくぞご無事で!」  無精鬚《ぶしょうひげ》の浮いたアルカイオスの顔には、疲労の色が濃かったが、五体満足のようではあった。 「キュ、ロス、か……?」  泳いでいた目の焦点がキュロスに合う。安堵が浮かんでいるその顔に、アルカイオスはにやりと笑いかけた。 「女神に逢ったぞ」    * 「猊下《げいか》、お話がございます」  ローゼンディアの国教であるヴァリア教、その教父たる総大主教ジポイテスは、流石《さすが》に疲労を禁じ得なかった。  王都ガレノスより、王国最北東に位置するここデルギリアまで、十五日もの間馬車に揺られ、到着早早、その到着を待っていたとばかりに、休む間もなくステファノス・セウェルスの葬儀が始まった。七日に亙《わた》る葬儀は今夜で終わるが、その間《かん》、客とはいえ、ヴァリア教信徒すべての尊崇を集める総大主教、それ相応の応対というものがあった。  嫌なことではない。デルギリアの現領主クラティス・セウェルスとは親友で、セウェルス家とは浅からぬ親交があるし、ヴァリア教の教えに則り、皆を正しく導くのは誇りある使命である。とはいえ、齢《とし》は取りたくないと思う。  今夜の宴席でも、総大主教様の有り難いお話を拝聴したいと、ジポイテスの周囲から人が絶えることは無く、息つく暇もなく話し込んでいた。それが偶《たま》さか、ふっと途切れたのである。顔には一切出さぬが、心秘かに溜息を吐いた。そこを狙うが如く話し掛けられて、ジポイテスはどきりとした。 「おお、アルカイオス殿か。いかがされた? そのような暗い顔は葬儀の宴席には似合わぬぞ」  葬儀の宴席はできるだけ明るく盛り上げるのがしきたりである。その中で、故人の人柄や徳を讃え、大いに飲みかつ食らうのである。 「|暁の女神《アウラネ》が目覚めると共にご出立《しゅったつ》なさると耳にしました。葬儀の宴席で申し上げることではございませぬが、お叱りは覚悟の上、折り入ってお話がございます」  有無を言わせぬ力を秘めた目が、ジポイテスを射抜くが如く見ていた。不躾《ぶしつけ》ともいえる目である。  ――若いな。  内心苦笑した。しかし不快ではない。父親であるクラティスも、若い時分はこんな目をしていた。戦神の血が為すものなのかも知れぬ。なんといっても、セウェルス家は|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の宗家、イスターリスの血が濃い。 「廊下《そと》に出ようか」  円《まろ》やかな雰囲気を持った男である。総大主教としての威厳が無いというのではない。他者を威圧し、萎縮させるようなものが無いのである。優しく包み込むような大らかさに、ともすれば胸の内をすべて曝け出してしまいたくなる。  その雰囲気とは裏腹に、内実、邪悪なところがあるのならば、これほど危険な男も居まい。しかし、総大主教ラザラス・ジポイテスは、その名に恥じぬ清廉潔白な人物であった。  ヴァリア教の教えを受ける誰もが、尊敬している。無論、アルカイオスとて例外ではない。それが故に、芽生えてしまった疑念はアルカイオスの心を苛《さいな》んでいた。 「何かね?」  寒寒《さむざむ》とした廊下の突き当たりである。ジポイテスの重厚な声はよく響いた。 「私は祖父の仇を討たぬまま、恥を曝《さら》して帰って参りました。しかし、恥を曝したままでいるつもりは毛頭ありませぬ。仇の姿はよく憶えておりますし、どのあたりに居るかも大まかには存じております」 「ほう?」 「仇は雲居《くもい》山脈の方へ向かっておりました。そこで私は、雲居山脈の麓《ふもと》を拠点に、仇の捜索をするつもりでおります。無論、仇を討つまで居坐《いすわ》る所存」  ジポイテスは感心するように頷いた。 「頼もしうなられたな。ステファノス殿も、後顧の憂い無く、あの世での修行に励まれることであろう。汝《なんじ》に神の御加護があらんことを。遠くながら、仇討ちの叶わんことを祈っておるぞ」 「猊下自らご祈願戴けるとは、汗顔の至りにございます」  ジポイテスは破顔した。 「そう堅苦しいことは云わんでよい。――して、話はこれだけではあるまい?」 「はい。実は、仇討ちの拠点をザーレ要塞に置きたいと考えているのです」  広大な海原を想わせるジポイテスの目が、わずかに細められた。 「ザーレ要塞に?」 「ザーレ要塞は猊下の御管掌《ごかんしょう》であるとの由《よし》、御許可を願いたく参じました」 「ザーレ要塞がどういう場所か、解っておるのかね?」 「多少は存じ上げております」 「父君から聞いたか?」 「はい。――しかし、人の歯牆《はがき》は崩れ易きもの。出所《でどころ》は存じませぬが、噂が流れております」 「どのような噂か?」 「曰《いわ》く、ザーレ要塞は、五悪神がひとり、狂気と疫病の女神エレに魅入られた、と」 「……怪《け》しからんな」  ジポイテスは目を伏せた。いつもながらジポイテスの表情は読み難いが、この動作は溜息の如きものやも知れぬとアルカイオスは思った。 「また、ザーレ要塞が廃棄されたのはそれが理由なのではないか、と」 「ザーレ要塞が廃棄されたのは老朽化が原因と聞き及んでいる。そのことは、汝らデルギリアの子らの方がよく知っておろうに」 「ええ。……しかし、遥か昔のことです」 「ふむ。……で、汝は真実を知っておるのだな?」 「はい。何故《なにゆえ》怪しからぬ噂を放置しておくのかと父に問い質したところ、その方が都合がよいと申すのです。――木は森に隠すのがよい、と」  ジポイテスは含み笑いをした。 「奴らしいな」 「……しかし、解せませぬ。本当に、|ザーレ要塞《あそこ》しかなかったのですか? 忌み子とはいえローゼンディア国王の娘、王国で最も高貴な姫が、選《よ》りにも選ってあの[#「あの」に傍点]ザーレ要塞に幽閉されているとは嘆かわしいことです」  ザーレ要塞は、王国内で「ヌーガに最も近き場所」とも云われている。本来「ヌーガ」とは、悪を為した魂が死後に連れて行かれるあの世――地獄界のことであるが、この世にもヌーガと呼ばれている場所がある。悪の種族が跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》するその場所は、雲居山脈の北、フェルシナ内海を越えた北東にあった。  フェルシナ内海は王国の北側に存在する大内海であり、王国東部域は、すっぽりとその内部に収められるほどの面積を有している。  雲居山脈の方は、東方から王国に向かって伸びてきている大山脈である。  丁度《ちょうど》ヌーガとトゥライ高原とを仕切るような形で、大陸を南西から北東に向かって走っている。  デルギリアから見れば領土の東北部に、ぎりぎりで到達しているような位置にある。  つまり王国の東端、それも東北部に覆《かぶ》さるかどうかという程度である。  にもかかわらず、この山脈が問題になるのは、悪の種族どもが内部に張りめぐらした隧道《ずいどう》を使い、人間の領域に攻めてくるからである。  その雲居山脈を越えてやってくる悪の種族を迎え討つ最前線が、かつてのザーレ要塞であったのである。  そういうわけであるから、ここ数百年、大攻勢こそないとはいえ、予断のならぬ場所であった。 「声が大きい」  ジポイテスは目だけを動かして、素速く周囲を見回した。  アルカイオスははっとして口に手を当てた。知らず昂奮していたらしい。 「……申し訳ございません」  ジポイテスは声を潜めて話し始めた。 「汝はあれ[#「あれ」に傍点]を見ておらぬ故《ゆえ》、そう思うのも無理も無い。その忌わしさ故に、王領に置くことはできぬし、どの領主も自領に置くことを拒否したのだ」  アルカイオスは顔を顰《しか》めた。ジポイテスの云いようでは、まるで物[#「物」に傍点]扱いである。  その忌わしさとは具体的にどういったものなのか、アルカイオスは知らぬ。かといって、聞くのも躊躇われるし、ジポイテスが語るとも思えなかった。 「即刻、地獄界《ヌーガ》へ送り返すべきであるという話も挙がっていた」 「っ!!」  アルカイオスは、ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。  地獄界《ヌーガ》へ送り返す――つまりは、殺すということである。  あの少女――己の生命の恩人である少女――最後まで名告ってくれはしなかったが、「リュフィーナ」という名を持つであろう少女の顔と声が、ふっと浮かんだ。  ――この身はなんの役にも立たぬ身なのです。  その瞳はあまりにも空虚だった。 「しかし、陛下にとっては、今は亡き王妃の忘れ形見。その意見は激怒で却《しりぞ》けられたが、居場所がなければそうならざるを得ない状況だった。そこで私の伝手《つて》を使って、聞こえよく云えば友の誼《よし》みで、クラティスに折れてもらったのだ」  恐らくは、そこになんらかの取り引きがあったのであろうとアルカイオスは推察する。互いに友である前に、クラティスはデルギリアの民を保護する立場にあるし、ジポイテスは王国の繁栄を願う立場にある。 「……差し出たことを申しました」 「よい。私も姫の境遇には同情を禁じ得ぬ」 「……」  ――同情?  アルカイオスは、あの少女の生活の有様を思い出していた。  ジポイテスは清貧を尊ぶことでも知られている。王女という高貴な身分であれ、豪奢な生活はさせぬであろう。現王妃の奢侈《しゃし》に頭を抱えているという話も聞いている。  しかし、あの少女の生活は「清貧」という言葉で括《くく》れるようなものではなかった。 「私は姫の周囲に波風を立てたくないのだ。せめて心安らかに暮らしていただきたい」  ――解るな?  と暗に示すように、ジポイテスはアルカイオスを見つめた。つまりは、アルカイオスの願いは却下されたわけである。  しかし、ここで退き下がるアルカイオスではない。 「憚《はばか》り乍《なが》ら、私も猊下と気持ちを同じうしております。それ故、ザーレ要塞に拠点を置くのです」 「……解せぬな。そもそもザーレ要塞は廃棄要塞、仇を捜索するほどの人員を置ける場所ではなかろう」  ザーレ要塞は、姫の幽閉のため必要最低限の修復はされてはいたが、悪の種族や破落戸《ごろつき》の巣窟となって悪用されぬよう、破壊されている。 「いえ、その人員はヘルマディス要塞に置きます」  ヘルマディス要塞は、ザーレ要塞の廃棄に伴って新築された要塞である。 「ザーレ要塞には、現任と入れ替わって、私と私の兵が詰めるのです。ザーレ要塞とヘルマディス要塞は六メディオンほどしか離れておりませぬ。それこそ起き抜けの朝駆けにもならぬ距離故、伝令にさしたる問題はないでしょう」  六メディオンは、徒歩で一刻、駆け馬で半刻ほどの距離である。 「それにはどういう利点があるのかね?」 「ザーレ要塞危急の際、ヘルマディス要塞との連係が容易となるでしょう。毎日、実地を兼ねた伝令訓練を致します故」 「……父君はなんと仰《おっしゃ》っておる?」 「猊下のご許可があればそれでよい、と」 「……」  ジポイテスは何かを考えるようにアルカイオスの顔を見つめ、やにわに口を開いた。 「姫の母君トリュファイナ様は、女神の如くお美しい御方であった」 「……?」  唐突な話題の切り換わりに、アルカイオスは訝《いぶか》しんだ。 「私は乳呑み児の姫しか知らぬ。姫がどのようにご成長なさったのか知らぬ。トリュファイナ様に似ているのならば、さぞお美しかろう」 「……」 「今まで、姫にお仕えする者には若い男を選んだことがなかった」  ジポイテスは意味ありげにアルカイオスを見た。アルカイオスはどきりとした。しかし、何故どきりとせねばならぬのか解らなかった。 「恋愛は素晴らしいものだが、恐ろしいものでもある。愛の女神ペネルピアを見よ。彼女は英雄を殺し、怪物を生み、災厄を為した」 「……」 「私は信じておるぞ、クラティスの子よ」  最後に許可を与えると、ジポイテスは長衣の裾を翻して廊下の向こうへと消えた。 [#改頁] 第五章 母娘《おやこ》  この日を待ち続けていたのかも知れない。  ある日突然、この身が男神のお目に留まり、神々の住まいます宇宙山《ラヌスカロン》へと連れ去られるのではないか――そんなことを夢想するほどもう子供ではなかったが、心の奥底では望んでいたのかも知れない。  長く辛い日々だった。  怨み続けた日々でもあった。 「すべてはあの化け物[#「化け物」に傍点]の所為《せい》なのよ」  それが母の口癖のようなものだった。  今在るカトリナは、その言葉によって作り上げられたと云ってもよいかも知れぬ。  カトリナの母タニアは、リュトア領主ボグロスの愛人であった。カトリナを孕《はら》んで、母娘共共《ははこともども》捨てられた。  ヴァリア教に於いて、「愛人」というものはなかなかに微妙なものがある。一夫一婦があるべき家族の形であるヴァリア教に於《お》いて、不倫は地獄界《ヌーガ》行きを免れぬ大罪であったが、複数の恋人と附き合うことは許されていた。しかし、それが子を為す虞《おそ》れのある深い仲、つまりは「愛人」となると、信仰心が薄い者と見られる風潮があるのである。  愛人を持つことは、不信心な貴族にはままあることではあった。しかし、名誉を重んじてこそ貴族である。表立ってできることではない。  そこで秘かに愛人と附き合うわけだが、厄介なのは妊娠であった。子が宿るかどうかはすべて神の御心《みこころ》次第で、人間の都合でどうにかなるものではなく、やることをやるからには避けがたい問題とも云えたが、子が産まれれば、いろいろと面倒なことになる。場合によっては、結婚しなければならなくなる。結婚してしまえば、愛人を持つことはできなくなる。大概、愛慾《あいよく》のために愛人と附き合うのだから、大問題であった。  リュトア領主ボグロスも例に漏れず、愛人タニアとその子カトリナの処遇に頭を悩ましていた。養子に出すのが普通であるが、足元を見られぬようなこれといった当てはなく、実子としたら家中に騒乱が生じることは間違いなく、かといって殺して隠滅という危ない橋を渡る勇気は無かった。  故に、呪われた王女に仕える人員の供出を押しつけられた時は、迷惑顔をしながらも千載一遇の好機と腹の内で北叟《ほくそ》笑んだものだった。母娘共共《ははこともども》、送りつけてやろう。場所も場所であるし、王女の呪いが二人を抹殺してくれるやも知れぬ。  そうと決まれば、もうあの母娘《おやこ》のことなど頭から消え去り、性懲《しょうこ》りもなく、替わりの新しい愛人を作ることを考えていた。  また平民がよいかも知れぬ。貴族女よりも面倒がないし、貴族に対する憧れ故か、従順でもある。その身に流れる血がどうあれ、どうせ、やることに変わりはない。若い女、抱き具合のよい女ならばなんでもよい。  子ができても王女のところに送ればよいので懸念は無い。これからは心置きなく愛慾に耽《ふ》けることができるのだ。  まったく以てよい仕事を授かったものだと、ボグロスは神に感謝した。  そうしてタニア・カトリナ母娘《おやこ》は、ザーレ要塞に送り込まれた。  長い旅路の末に辿り着いたその場所に、タニアは愕然とした。  城の遺跡。  ……のように見えた。  木々を遠巻きにして、大小の石塊と莽莽《ぼうぼう》とした雑草が入り混じる開けた場所に、幼子の積み木の如き、今にも崩れそうな城門塔と細長い塔がひとつずつ、ぽつねんと聳《そび》えていた。  何なのかはよく分らないが、これがボグロスが云っていた「別荘」とは到底思えなかった。  何かの手違い? それとも……  タニアはそれ以上考えまいとした。 「お前の子は実子として迎えたいと思っておる。すでに家人の説得を試みておるのだが……一筋縄では行きそうにもなくてな。別れた妻の子がすでにおるし、その別れた妻が、子を介在していろいろ口出ししてきおってな。これがまた情の強《こわ》い女で、状況によっては何を仕出《しで》かすやら分らぬ故、ひとまずお前たちを別荘に避難させたいと思っておるのだが……どうだ? 説得が叶えば、すぐに迎えを使わす。……泣いておるのか? 可愛《かわゆ》い女よな。私とてお前と離れるのは哀しいのだぞ、愛しいタニアよ。早急に説得してみせよう。……何を案じておる? よもや、私を信じておらぬということはあるまいな、愛しいタニアよ。私を誰だと思っておるのだ? お前はこの地で最も力ある男の情婦《おんな》なのだぞ。泰然として待っておれ」  と云って、暫しの別れを惜しむように、いつも以上に熱く激しくこの身を抱いてくれたのだ。あれが嘘であるわけがない[#「あれが嘘であるわけがない」に傍点]。  しかし、実際のところ、タニアとカトリナが捨てられたことは誰の目にも明らかだった。  ボグロスのせめてもの情けなのか、タニアは、王女の世話と要塞内のすべてを執り仕切る、要塞内で最も権力のある地位に就かされた。にも関わらず、タニアは周りの者たちが恐ろしくて堪らなかった。  ――捨てられたんだねえ、可哀相《かわいそう》に。  ――捨てられるまでは、いい生活してたんだろ? あたしたちが想像もできないような。  ――子供を産んで貴族様の仲間入りをしようなんて厚顔《あつかま》しい。  ――貴族様が、神の血が流れていない者を本気で愛すると思っているのかい?  ――貴族様といくら媾合《まぐわ》ったって、あんたの血に神の血が混じりやしないのに、何を勘違いしてるんだか。  ――貴族様の愛人だったのが何だって云うんだ? あんたは所詮、俺たちと同じ平民なんだよ。お帰り[#「お帰り」に傍点]。  こちらの権力《ちから》が上である所為か、口に出して云いはしないが、そんな心の声が聞こえてくるのだ。  皆の視線が矢となって、  ――あんたは捨てられたんだ。  と、タニアの心を、ボグロスとの愛の日々を、寸断寸断《ずたずた》にするのだ。  しかし、すんでのところで完全崩壊を免れていたのは、我が子カトリナの存在故だった。  カトリナはタニアとボグロスの愛の結晶、見える、触《さわ》れる、感じられる、確かな愛の證《あかし》であった。自分の体は、確かにこの子を産んだことを感覚《おぼ》えている。信じられるのはカトリナだけだった。 「ボグロス様はとても困ってらしたのよ。厄介な仕事を押しつけられた、って。それで、あの美しいお顔を涙で濡らしながら、あたしに頼むの。頼めるのはお前しかいないんだ、って。愛しいボグロス様のお願いだもの、聴いてあげないわけにはいかなかったわ。そうしてあたしはここの仕事を任されたの。――そう、あの化け物さえ居なければ、あたしたちはボグロス様と愉《たの》しく暮らしていたのよ」  タニアはそのようにカトリナに語って聞かせ、何度も語るうちに、いつしかタニア自身もそれを信じるようになっていった。  すべてはあの化け物の所為。  あの化け物――王女が呪われてさえいなければ、毎日|折檻《せっかん》して鬱憤《うっぷん》を霽《は》らしたに違いない。しかし、さすがに恐ろしくて手が出せなかった。あの忌わしい力を目の当たりにしたらなおさら。  それに、総大主教ジポイテスの差し金の目もあった。「王女の教師」として、二ヶ月に一度やってきては十日ほど滞在していくのである。  故に、あまり大きなことはできない。精精《せいぜい》、総大主教の指示通りに[#「総大主教の指示通りに」に傍点]王女に清貧な生活[#「清貧な生活」に傍点]をさせ、毎月王都から送られてくる物資を着服するくらいのものであった。 「これくらいの旨味《うまみ》がなければやってられないもの、こんな仕事」  しかし、着服できるものなど微微たるものだった。 「きっと、あの腐れ坊主が着服しているに違いないわ」  総大主教ジポイテスが王女に関するすべてを執り仕切り、タニアはその指示に従って要塞内を執り仕切るだけだった。 「ほら、新しい服が来たわよ。着て御覧。よく似合っているわ、カトリナ。あんたがお父様似でよかった。それにしても、こんなところじゃ誰にも見せられないのが残念だわ。あの化け物の所為で。でも安心なさい。あんたが年頃になったら、お母さんがこんなところから出してあげるからね。あんたひとりだけなら、ここから出て行けるのよ。……お母さんも一緒に? そう云ってくれるのは嬉しいけれど、それはできないのよ。あの化け物の所為で」  そう云っていたタニアが病の床に臥《ふ》した時、カトリナは十二歳、結婚するにしろ、親の手から離れるにはまだ少し早い年頃だった。 「遂に、あの化け物の呪いが、お母さんの体を蝕《むしば》み始めたんだわ。でも、お母さんは、あんたをここから出すまでは死なないからね」  しかし、タニアは半年経っても床に臥したままだった。  それは風のない、雪の日だった。  厚い雲が、どんよりと空を覆うように広がっていた。音もなく、しんしんと雪が降り続けていた。 「なんか、ぶきみ。わたし、雪はきらいだわ。しずかすぎるんだもの」  開け放たれた窓から、ぼんやりとした陽光と、ひんやりとした空気がひたひたと入り込んでくる。しかし、部屋の中に満ちている闇や淀みを払拭することはできず、ただ部屋の中を冷たく掻き回すだけだった。 「……もういいでしょ、お母さん。これ以上まど開けてると、体によくないよ」  カトリナは窓を閉めるべく立ち上がり、タニアに背を向けた。  その時―― 「……カトリナ、話があるの」  ひどく静かな声だった。  音も無く降る、雪よりもなお。  窓扉《そうひ》に手を掛けたまま、カトリナは凍りついた。まだ子供とはいえ、タニアが何を話そうとしているのか、敏感に察していた。 「カトリナ……こちらを向いて」 「いやっ!」  カトリナは、タニアに背を向けたまま首を振った。 「聞きたくないわ。お母さんの話なんて、わかってるもの。聞きあきてるもの。『すべてはあの化け物のせい』――そうでしょ?」  極力明るい声で、冗談めいた口調を出そうと努めたが、声の震えはどうにもならなかった。 「カトリナ……」  カトリナはきつく目を瞑った。 「あの化け物を……いえ、姫様を――」  ――姫様を怨んでは駄目よ。 「……」  カトリナは我が耳を疑った。  お母さんは何をいってるのだろう?  姫さまをうらんでは、だめ[#「だめ」に傍点]?  お父さまに会えないのも……会ったこともないのも……お父さまといっしょにくらせないのも……友だちがいないのも……こんな何もないところにいるのも……せまくてきたない、こんなところでくらさなければならないのも……あのおそろしい力におびえなければならないのも……お母さんが病気になったのも……すべて……すべてあの化け物のせいなのに!?  もしや……  カトリナの体が顫《ふる》え出した。  もしや、あの化け物ののろい[#「のろい」に傍点]がお母さんの頭まで……  切迫して、母を振り返った。母の顔を見て、胸を突かれた。  まだ三十歳のはずだった。元元美人というわけではなかったが、艶《つや》はあるはずだった。しかし、今やそれはほとんど失われ、目の周りは落ち窪み、隈《くま》ができ、頬は痩《こ》け、唇は罅《ひび》割れ、肌はかさつき、金の髪は色褪せて……まるで老婆のようだった。  こちらをじっと見つめる眼光も弱弱しかった。  しかしその目に狂気の色はなかった。 「カトリナ、お母さんはもう長くないわ」  カトリナは俯いた。 「……そんなこと、いわないでよ」 「お母さんは、あんたに幸せになってもらいたいの」 「ふたりでしあわせになろうよ」 「お母さんは、あんたが幸せならそれでいいの」  カトリナは、俯いたまま首を振った。 「そんなのわたしはいや。お母さんといっしょじゃないといや」  タニアの顔が綻《ほころ》んだ。 「前にもそんなこと云ってたわね。でも、それは無理なのよ。あの化け物の所為で」 「そうよ! あの化け物のせいよ!」 「でも、あんたはあの化け物を怨んでは駄目。忘れるのよ。すべて。お母さんのことも」 「なんでっ!? なんで、そんなこというの!? わたしにはお母さんしかいないのに!!」  漸《ようや》く上げられたカトリナの顔は、涙と洟《はなみず》にまみれてぐちゃぐちゃだった。  そんなカトリナをタニアは愛しげに見、枯れ枝の如き手を伸ばして抱き寄せた。カトリナは母の痩せ細った体に、また涙した。 「あんたが幸せになるためよ、愛しいカトリナ。――いいこと? よく聴いて。春になったら、あんたはセウェルス家に行くの。あんたはそこで奉公するのよ。セウェルス家ってのはこの地の御領主様でね、そこにはあんたより少し年上の男の子がいるらしいの。未来の御領主様になられる若様よ。あんたは若様に近づいて、若様の心を射止めなくてはならないの」 「いとめる……?」 「気に入られて、仲良くなって、妻になるってことよ。あんたは若様の妻になるのよ。愛人は駄目よ。絶対に。お母さんは愛人にしかなれなかったけど、あんたなら妻になれるわ。お母さんが今まで、あんたを磨き上げて仕込んできたのだもの。あんたは貴族になるのよ」 「きぞく……?」 「神の末裔――神の血を持つ御方たちよ」 「わたし、そんなのになりたくない。お母さんといっしょにいたい」 「今のあんたを送り出すのは不安だけど、お母さん、あんたをここに置いたまま死にたくないのよ」 「そんなこといわないでよ! ……だいじょうぶよ。お母さん、病気ですこし気弱になってるだけよ」 「……」 「ねえ、お母さん、春になったら外に出てみましょうよ。中庭でもいいから。わたし、秋に花の種をまいたのよ」  結局、タニアがその花を見ることはなかった。  カトリナは泣き暮らしながら、セウェルス家からの迎えを待った。しかし、いくら待っても迎えがやってくることはなかった。今となっては、タニアもカトリナも知る由もなかったが、貯め込んだ着服物で、タニアがカトリナのセウェルス家への奉公入りを頼んでいた男が、タニアの死をよいことに約束を反故《ほご》にしたのである。  母は死に、母の夢も破れ、そして己は母の仕事を引き継ぐことになった。  カトリナは絶望した。  すべてはあの化け物の所為だった。  ――姫様を怨んでは駄目よ。  そんなの無理よ、お母さん。  この牢獄で、あの化け物を怨み続けて生きていく。  それが己が運命《さだめ》――と思っていた。 「この度、ザーレ要塞守備の任に就いた、デルギリアのアルカイオス・セウェルス[#「セウェルス」に傍点]と申す」  銀褐色の髪に青い瞳――|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の特徴を色濃く備えた、逞《たくま》しく勇ましげな若い男が、己の目の前で、そう名告《なの》るまでは。  ――お母さん、神はわたしたちを見捨てていませんでした。 [#改頁] 第六章 予感 「何やら不満そうだな、キュロス」  武具の手入れをしながら、アルカイオスは傍《かたわ》らの男に話し掛けた。見たところ不満げな様子は一切無いが、長年の附き合いによる察しである。 「……いえ、解せぬだけです」 「……」 「……」  武具を手入れする音だけが、かちゃかちゃと狭い部屋に鳴り響く。 「……申してみよ」  こう云わねば、この男が己の心中を明らかにすることはない。余計なことは云わぬ男なのである。 「では、憚《はばか》り乍《なが》ら。――何故《なにゆえ》|ザーレ要塞《ここ》なのかが解せませぬ。どう考えても、ヘルマディス要塞の方が比べるまでもなく最適と思えます」  仇討ちの拠点のことを云っているのだ。 「そう考えるのが当たり前だな。しかし、私は知ってしまったのだ」 「?」 「お前は、ここがどういう場所であるか知っていたか?」 「噂は聞き及んでおりましたが、よもや呪われた王女の幽閉先だったとはついぞ存じ上げませぬ」 「どう思う?」 「王女の住居《すまい》ではありませぬな」  四ヶ月前、あの少女――王女リュフィーナに救けられた時には、アルカイオスはザーレ要塞の全貌を窺い知ることはできなかった。  吹雪で三日ほど足留めされたその間、王女が幽閉されている塔から一歩も出ることはなく、また彼女以外の人間、つまりは彼女に仕えている人間と会うこともなかった。アルカイオスがそうした行動を取ろうとしたところ、止められたのだ。  ――わたくしのためとお思いなら、何も為さらないで下さい。  と。  アルカイオスは異邦人、というか招かれざる客であった。そこで、こうして正面から堂堂とやってきたわけである。  改めて判ったことは、王女に仕える人員が十三人しか配されていないこと、その内戦力となる人員はたったの六人であること、そして、王女が彼ら彼女らからも冷遇されているということであった。それは食事の内容からしても明らかであった。王女の部屋で、彼女に与えられた食事を摂ったことのあるアルカイオスには判ってしまった。  こんなことが許されていてよいわけがない。 「うむ。それが故、だ」  キュロスの目が鋭くなった。 「我らは大殿の仇討ちに参ったのではないのですか?」 「無論だ」  キュロスの怒気が滲んだ目を、心外とばかりにアルカイオスが見返す。 「しかし、不正を知って、看過ごすわけにはゆかぬ」 「不正とはなんですか?」 「お前がさっき申したであろう。こんなところは王女の住居ではないと」 「左様《さよう》ではありますが、我らが関わるべきことではないでしょう。ここは総大主教猊下の御管掌故」 「『総大主教猊下の御管掌』なら、不正が許されてもよいと申すのか?」 「よくはありませぬが、私は事情に蒙《くら》い故、不正であるかどうかは判りかねますな」 「これのどこが不正でないとっ!?」  アルカイオスは立ち上がり、平手でじめついた石壁を叩いた。その音とアルカイオスの怒声が、混じり合って大きく反響する。  しかし、キュロスは平然としたものだった。アルカイオスの激情には馴れている。 「総大主教猊下が不正でないと仰るのなら不正でないのでしょう」 「お前は猊下を信じておるのか?」 「いえ」 「父上に何か云われてきたのか?」 「いつもの如く『アルカイオスを頼む』とだけ」  アルカイオスは溜息を吐いた。張本人の己が思うのもなんだが、キュロスには苦労をかけていると思う。  クラティスは、アルカイオスには「好きにしろ」としか云わぬ。止めたところで無駄だと思っている節があるようである。実際その通りなのだが、そうなると必然的に守り役のキュロスに皺《しわ》寄せが行く。 「お前は不正を看過ごせと申すのか?」 「というより、余計な義侠心は起こさないで下されたく」  アルカイオスは憤然とした。 「どこが『余計』か!」 「それは若御自身がよくお解りのはず」 「む……」  キュロスの云う通りであった。王女の様子からも、総大主教の話しぶりからも、「今のままですべて丸く収まっている」ということが窺えた。「今のまま」が最善であるとしたら、そこに異を唱えることは余計なことである。水盤に張られた水鏡を波立たせるだけならまだしも、水盤を引っ繰り返すことにでもなったら大事《おおごと》である。  王女は、己の立場というものをよく解っているようだった。不遇を受けながらも不平不満を云うことは無く、そうあることは仕方の無いこととしているようだった。  ――ここでのことは、どうかお忘れ下さい。  別れ際に、彼女はそう云った。  そして今、その言葉に抗ったアルカイオスを拒むように、その姿を現すことも無い。  アルカイオスには、何もかもが腹立たしかった。王女リュフィーナの運命が。物分りの良さが。総大主教ジポイテスの正義が。祖父ステファノスの死が。世界の在り様《よう》が。己の無力が。 「私は正義を示すぞ」 「いかがなさるおつもりで?」 「……分らぬ」 「分らぬとはなんですか」  キュロスは呆れ顔をした。 「分らぬのなら、ヘルマディス要塞に移りましょう」  アルカイオスは窓辺に寄り、何かを求めるように縹《はなだ》色の天を眺めた。一羽の鷲《わし》が、我が物顔で春の空を翔けている。 「……なあ、キュロス。鳥が飛ぶことを罷《や》めたら、鳥でなくなるとは思わぬか? ……私は貴族でありたい。そうあることに誇りを持ちたい。正義を示さずして何が貴族か」 「ここは広大な天ではありませぬ」 「解っている。しかし、自由に飛び回れぬからといって、そこで諦めてもよいのか? 翼を授かっておきながら飛ばぬのは、神に対する冒涜《ぼうとく》であるとは思わぬか?」  アルカイオスは振り返り、キュロスの灰色の瞳を見つめた。真っ直ぐな眼差しがキュロスに突き刺さる。キュロスはアルカイオスのこんな目に弱い。何かを期待させる目である。  キュロスは小さく溜息を吐いた。 「……御随意に」    *  ――若様の妻になるのよ。  若様――アルカイオスが目の前に現れてからというもの、カトリナの心の中では、今は亡き母の言葉が絶え間なく響き続けていた。  未来の夫は、|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の名に恥じぬ魅力的な男であった。衣服の上からも筋骨隆隆たるが窺える優《すぐ》れた体躯も然《さ》ることながら、その精神も肉体に違わず戦士の鑑《かがみ》そのものであった。 「私は祖父の仇討ちに参ったのだ」  と云い、仇が去ったという雲居山脈を睥む眼差しには、山脈の頂きに冠された万年氷雪を融《と》かさんばかりの、滾《たぎ》るような怒りに満ちていた。  その眼差しが己だけには優しいものであるならば、どんなに素敵だろうとカトリナは思った。  ――この方の妻になる。  そう思うと、胸が苦しくなり、体が火照《ほて》り、居ても立っても居られなくなる。  それなのに……  アルカイオスにとって、己はどうでもよい存在なのだ。呪われた王女に仕える者の一人でしかないのだ。 「侍女頭殿《じじょがしらどの》」  と、アルカイオスに呼ばれるたびに、そのことを突きつけられる。初顔合わせで名告ったはずだが、「カトリナ」という名前など、もう忘れているに違いない。  とはいえ、それはなんとなく予期していたことではあった。  貴族の血が流れているとはいえ、己は「貴族の家の子」ではない。ヴァリア教の教えに則れば、居るはずのない、けれど現実には居る、「外の子」なのだ。母タニアは断乎《だんこ》として否定するに違いないが、そんなことが分らぬほどもう子供ではなかった。  しかし、母のその否定を否定する気も、母にそんな事実を突きつける気も、毛頭無い。事実がどうあるかなどどうでもよい。「事実」などというものが、いったい己に何をしてくれただろう。母は弱く愚かであったかも知れぬが、己にはただひたすら優しく、愛情深かった。信じるに足るのは母だけ、それだけが真実[#「真実」に傍点]なのだ。  本来ならば、領主の令息に領主の令嬢と、これほど似合いのふたりもなかろうはずであった。それを打ち砕いたのは、誰あろう、あの化け物である。  あの化け物の所為で、どこにも属すことができなくなった。  中途半端な己が、混じり気の無い純粋な貴族、しかもセウェルス氏族の本宗家、直系の|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》という名門中の名門の継嗣から、いきなり恋愛対象として見てもらおうなど癡《おこ》がましいことなのかも知れぬ。  ただ、一目惚れされるような魅力が己に無かったことが、少し[#「少し」に傍点]哀しくはあった。神話や伝承にあるようなことをまったく期待していなかったとは、|契約の神《ヴァリア》に誓って言えぬ。  しかし、そういったことを差し引いても、状況はそれ程悪いものではないはずだった。  アルカイオスの守り役であるという騎士にそれとなく聞いてみたところ、アルカイオスには今現在恋人や愛人が居ないどころか、居た例しもないとのことであったし、|ザーレ要塞《ここ》に居る女といえば、枯れた婆《ばばあ》、所帯染みた人妻、軽薄な小娘、そしてあの化け物だけで、凡《およ》そ己の敵となり得る女など居なかった。  いつ仇討ちが叶ってここを出て行くやも知れぬという焦りは附き纏《まと》うものの、ここは檻《おり》であった。じわじわと絶えず攻め続けていれば、いつかは落ちるだろうと思っていた。  ところが―― 「おやめ下さいませ!」 「そのようなことは……!」  アルカイオスらがやってきて、一週間ほど経った時のことである。通りすがった厨房《ちゅうぼう》から、そんな声が聞こえてきたのは。  何事だろうと顔を出してみると、慌《あわ》て忙《ふた》めく侍女二人に挟まれて、アルカイオスが居た。 「いかがされました?」  と、カトリナに声を掛けられて振り返ったアルカイオスの手には、王女専用の御膳があった。カトリナの目が丸くなった。 「侍女頭様! どうか、アルカイオス様をお止め下さいまし。アルカイオス様御自ら、姫様の御膳をお持ちになるとおっしゃるのです」  驚きのあまり、カトリナは唖然とした。  しかし、そんなカトリナのことなどどうでもよさそうに、アルカイオスはカトリナの脇を通り抜けて、厨房を出て行こうとする。 「お、お待ち下さい!」  カトリナはアルカイオスの腕を掴んだ。しかし、制止にならぬどころか、そのまま引き摺られてしまいそうになる。そこで、アルカイオスの前に回り、両手を拡げて立ち塞《ふさ》がった。  感情の籠もらぬ青い瞳が、カトリナに向けられた。カトリナは、知らず、体が顫《ふる》えそうになった。が、奥歯を噛み締めてそれを堪《こら》えた。 「通してくれぬか? スープが冷めてしまう故」 「お通しすることはできません。それはわたくしどもの仕事でございます」  アルカイオスの目がわずかに細められた。 「ほう……。では聞くが、そなたらはこの仕事に誇りを持っていると胸を張って言えるか?」  どういう意味だろうと思いつつ、カトリナは即答した。 「ええ、勿論です」 「ならば、何故《なにゆえ》、姫の食事がそなたらのものより粗末なのか?」 「……っ!」  カトリナは衝撃を受けた。  なんで……なんでそのことを、この方は御存じなのだろう!?  王女の食事を作る者、運ぶ者しか、知らぬはずのことだった。王女のところに運ばれる時に、たまたま目に入ったのだろうか。  カトリナは動揺を押し隠して口を開いた。 「……そ、それは、総大主教様の御指示なのです。姫様は、神の力を以てしか救われぬ身の上。神に愛されるべく、敬虔《けいけん》なヴァリア教信徒として、毎朝毎晩神に祈りを奉《ささ》げ、清貧な生活を送らねばならない、と」  嘘ではない。総大主教の云う「清貧」とは、どのようなものかは知らぬが。 「……」  アルカイオスは何かを考えるような顔つきをした。カトリナは固唾《かたず》を呑んで見守った。  アルカイオスは実に立派な貴族に見えた。不正など絶対に赦《ゆる》さぬに違いない。不正を知ったら、妻にはしてくれぬだろう。 「ふむ……とはいえ、そなたらは、主《あるじ》よりも贅沢《ぜいたく》な食事をしてなんとも思わぬのか?」 「あ……」  主が清貧な生活をしているのなら、臣従もそれに合わせるのが道理である。厚顔無恥と唾棄《だき》されても文句は云えぬ。  ――軽蔑、された……?  目の前が暗くなっていく。 「す、すみませ……」  と、声を出した瞬間、ぽろりと涙が転がり落ちた。思わず出てしまった涙に、カトリナは衝撃を受けた。  ――なんて無様……!  アルカイオスがわずかに眉を顰《ひそ》めている。もしかしたら、不快に思っているのかも知れぬ。その後ろでは、二人の侍女が興味深げにこちらを窺っている。カトリナはあまりの羞恥に俯いた。  そんなカトリナには構わず、アルカイオスはカトリナの脇を通り抜けようとした。 「お待ち下さい! いけません!」  涙の跡もそのままに、カトリナは再びアルカイオスの前に立ち開帳《はだ》かった。今度は、苛立ちの籠もった目がカトリナを見た。 「いい加減にしてくれぬか?」  追い打ちをかけられて、さらに涙が溢《こぼ》れそうになった。 「……申し訳ございません。ですが、アルカイオス様を姫様に近づけるわけにはいかないのです」  アルカイオスは口辺に笑みを浮かべた。 「呪い故、か? 私はそのようなものなど恐れておらぬ」  どきりとした。  こんな状況だというのに、その言葉に胸が高鳴ってしまった。  しかし、この方はあれ[#「あれ」に傍点]を見ていないのだから、そんなことを云えるのだろうとも思った。 「それもありますが、総大主教様の御指示なのです」  これも嘘ではない。アルカイオスらが来る前に、現任兵士とアルカイオスらが入れ替わる旨と共に、王女とアルカイオスの間に絶対に間違いがあってはならぬ旨、ジポイテスから通達があったのである。その「アルカイオス・セウェルス」が、よもや「セウェルス家の若様」その人であるとは、実物を目にするまで信じられなかったが。  とはいえ、ジポイテスからの指示が無くとも、アルカイオスを王女に会わせる気は毛頭無かった。  いや、会わせたところで、アルカイオスが王女に惚れるなどという、馬鹿げたことがあるとは思っていない。確かに、王女は王女だけに、|アクシオーンの末裔《アクスヘーレイ》だけに、己よりも少しばかり[#「少しばかり」に傍点]美しくはあった。しかし、それがなんだというのだろう。母タニアは、美人というわけではなかったにも関わらず、貴族の、それも領主の、愛人だったのである。立派な貴族であるアルカイオスが、外見なんぞに惑わされるわけがない。いくら美しかろうと、王女は「化け物」なのである。  しかし、化け物だけに油断ならぬのである。あの忌わしい力で、アルカイオスを手籠めにするやも知れぬ。王女は己と同じく十五歳――結婚していて当たり前の齢《とし》であるし、幼い頃はいざ知らず、少なくとも年頃になってからは若い男に触れるどころか見たこともないはずである。男に飢えていると見て間違いない。アルカイオスは絶好の獲物と成り得る。  ――アルカイオス様はわたしの夫となる御方。化け物なんかに触れさせない!  王女が自主的に、離れの塔から出て来ることが無いのは、有り難いことであった。化け物なりに己の立場を辨《わきま》えているのだろうと、カトリナは理解していた。 「総大主教猊下は、私と姫が恋仲になることを恐れておいでのようだが、そのようなことはあり得ぬ。私は恋愛遊戯をしにやってきたのではない故」 「男女の仲なんて、当てにはなりませんわ」 「男女の仲ではない。主従だ。そこにあるのは敬愛であって恋愛ではない」 「でも、アルカイオス様はよろしくても、姫様はどうでしょう?」 「どうであろうと、どうにもならぬ。恋愛とはふたりでするものであろう?」 「そうではございますが……僭越ながら、アルカイオス様は、女というものをよく解っていらっしゃらないようにお見受け致します」 「私が、姫の色香に惑わされるのではないかと?」 「ええ」 「姫は、仮にも大国ローゼンディアの王女であらせられる。御自身のお立場は辨《わきま》えていらっしゃるであろう。聡明な御方であられると信じたい。――話はこれで終わりだ。通せ」  カトリナは、断乎として通さぬという顔つきで、両手を拡げた。 「アルカイオス様は、姫様のお気持ちはどうでもよろしいのですか?」  アルカイオスは眉を顰《ひそ》めた。 「姫のお気持ち?」 「確かに姫様は、御自分のお立場をよく辨《わきま》えておいでです。離れの塔から一歩も出ていらっしゃらないのは、あの忌わしい力が皆に降りかからぬようにというお気遣い故です。ですから、もしアルカイオス様に恋心をお抱きになられても、自重なさるでしょう。でも、それがどれだけお辛いであろうことか、お解りですか?」 「……」 「恋愛など、所詮、遊びのひとつとお思いですか? 確かに、恋愛がそのまま結婚に結びつくわけではありませんが、年頃であられながらも、お若い殿方にお接しになられたことの無い姫様は、恋愛から結婚を意識せずにはいらっしゃれないでしょう。いえ、お若い殿方を御覧になっただけで、意識なさってしまうでしょう。年頃になれば結婚をし、子を為し育てるのが、人の身の在り方というものです。それなのに姫様は、呪い故にご結婚が叶わぬ身なのです。女でありながら子を為すことが許されぬ身なのです。姫様のことですから、それも仕方の無いことと思っていらっしゃるかも知れません。恐らく考えまいとしていらっしゃるでしょう。そこへアルカイオス様がいらっしゃるということは、心の奥深くに閉じ込めているそのことを、無理矢理|抉《こ》じ開けるに等しいこととお思いになりませんか?」  カトリナの言葉には、尋常ならぬ熱が籠もっていた。  それも当然だろう。「呪い故」ではなく「あの化け物故」ではあったが、他ならぬ己自身のことであったのだから。――いや、今となっては、「かつての己自身」とせねばなるまい。夫となるべき男性《ひと》が目の前に居るのだから。  しかし、そんな事情など知る由もなかろうアルカイオスは、すっかり気圧されてしまっているようだった。 「……解った。そなたの云う通りやもな。考えが足りなかった」  心なしか青冷めた顔で、持っていた御膳をカトリナに手渡し、 「スープを温め直して、持って行くがよい」  と、カトリナその他の侍女の仕事ぶりを監視することも無く、さっさと消えてしまった。 「……」  最前までの強硬な姿勢はどこへやら、いきなり退き下がってしまったアルカイオスに、カトリナは唖然とし、次いで一瞬にして悟って愕然とした。  ――アルカイオス様は、あの化け物に恋をしている? [#改頁] 第七章 苦悩  夜、あまりの寒さに目覚めることがある。昼の暖かさに油断して、それなりの準備を怠ったためである。  デルギリア領は、東に向かって高度の高くなる、東部高原イオルテスの北東部に位置している。広大な国土を持つが故に、地域による気候差が激しいローゼンディア王国だが、中でもイオルテス地方は気候の厳しい部類に入った。  その厳しさとは、ひとつに、一日の内の寒暖差が激しいことが挙げられる。太陽神《アクシオーン》の車が天の真上を駆けている時は、裸でないと居られないというのに、太陽神《アクシオーン》が去った途端に急激に冷え込み始め、火を熾《おこ》さなければならなくなる――などということは、極端な例ではあるものの、たまにある。  ザーレ要塞近辺は、この半年、夏ですら裸でないと居られないという日はなかったが、領主館のあるギルテよりも冷え込みはきつかった。  とはいえ、もう半年も過ごしているというのに、未だにここの気候に馴れぬというのは、気が弛んでいる証拠であると、アルカイオスは自戒する。  仇討ちが一向に進展せぬのも、気の弛みが原因なのかも知れぬ――と云ったら、キュロスに嘆息された。 「弛んでおられるのではなく、気忙《きぜわ》しくておられるだけです。仇は雲居山脈方面に消えたとしか判らぬのですよ? 確かに呪われた悪の種族とはいえ獣ですから、縄張りの中を季節に順《したが》って環《めぐ》ってはおるのでしょう。再びこの近くに姿を現すことも、あるだろうと思います。私もそれは否定しません。ですが、再びこの近くに出沒するのはいったいいつになることか……雲を掴むが如きことではありませぬか。たった半年でなんとかなるわけがないでしょう。よもや一年二年で仇を討つつもりで、『仇討ちが叶うまでザーレ要塞に居坐る』などと仰ったのではありますまいな」  そんなつもりは無かったが、実際のところはそうだったのかも知れぬ。  早く仇を討ちたかった。  仇を討てば、何かが変わる、何かから解放される――そんな気がするのだ。  不純だな、と思う。  目的のはずの仇討ちが、手段になってしまっている。  こんな気持ちで仇討ちをしても、なんの意味もない。祖父も浮かばれない。  アルカイオスは手を開き、握り締めていた革手袋を見遣った。稚拙な染め物の如き、黒い染みに覆われている。ステファノスの血である。あの日、ステファノスの生命《いのち》をわずかながらこの世に押し留めた、名残りであった。  この手袋を見ると、染み込んだ血の臭いを嗅ぐと、一瞬前のことのように、あの時のことがまざまざと想い出される。  凍《かじか》んだ手にはあまりにも熱かった血潮、徐徐に確実に弱まっていく生命《いのち》の鼓動《おと》、冬の湖の如き青い瞳の奥に見えた冥界《ユノー》への道、祖父の激しい叱責、そして己の無様さ。  祖父の死は、避けられないものだったのだろうか?  あの時、矢を落とさなければ、転ばなければ、投げた刀を外さなければ、もっとよく体が動けば、もっと冷静であれば、しっかりと武装していれば、もっと人を連れて行けば、狩りに出掛けなければ、キュロスを厄介払いしなければ、祖父に会いに行かなければ……!  こうしていれば、ああしていれば――そういったことは、いくらでも湧いてくる。  ――天命。  と、祖父は云った。 「天命」で片づけるのなら、すべては楽だった。しかし、「天命」に屈するのは嫌だった。  後悔し続けなければならない。それが弔《とむら》いだと思う。  それなのに、己はそれから逃れようとしている。仇を討てばそれで終わると思っている。仇討ちが成ったところで、祖父が還《かえ》ってくるはずもないというのに。  ――軟弱なものだな、アルカイオス・セウェルスよ。それでも、栄《は》えある|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の宗家、その継嗣なのか?  苦笑せずには居られない。  あの世で父祖に顔を合わせて、恥じるところの無い生き方ができているかといえば、断じて否である。  仇討ちのことだけではない。王女のことにしたってそうである。  ――姫様のお気持ちはどうでもよろしいのですか?  そう云ったのは、誰であったか。  この半年、王女には一度も会っていない。会えるはずもなかった。会うべきではないのだから。  冬のあの三日間、あの少女はどんな気持ちで過ごしていたのだろう?  頬を赤く染めていたあの少女を、潤んだ目でこちらを見ていたあの少女を想い出し、アルカイオスは遣る瀬無い気持ちになった。  己は、あの少女の体を傷附けただけでなく、心までも傷附けていたのか……。  それなのに、何も報いることができぬ。精精《せいぜい》、あの少女の周りの小さな不正を正すことくらいしか、己にはできぬのだ。 「腕をお上げ下さいませ」  突如、女の声が降ってきた。  我に返って声の方を見遣ると、すぐ傍に女が居た。金の髪をきっちりと頭の上に纏めた、召使い姿の女である。  ――誰だ……?  この女は何者で、何故、己の部屋に居るのだろう? と考えている内に、寝衣《しんい》を脱がされていた。肌が冷たい空気に漂《さら》される。 「失礼致します」  女は、アルカイオスの逞しい体を濡れ布巾で拭き始めた。 「……」  されるがままにして、アルカイオスはぼんやりと考えを回《めぐ》らせた。  ――姫の侍女頭、だったような……?  寝惚け頭が徐徐にはっきりしてくる。  そう、姫の侍女頭であるというのに、何故かいつの間にやら、朝夕、己の体を清めにやってくるのが日課になっていたのだった。  そういえば、最近、気がつくとこの女が傍に居ることが多いような気もする。  ……。  ……?  ……まあ、どうでもよいが。  部屋の外から扉が叩かれた。 「キュロスです」 「入れ」  扉が開かれ、キュロスが入ってきた。  キュロスはアルカイオスの体を清めるカトリナを見留め、小さく頷いた。 「侍女頭殿もおいでか。丁度よい」 「何かあったのか?」 「ギルテより早馬です」  ギルテは、デルギリアの領主館があるところである。  アルカイオスはただならぬものを感じた。 「申せ」 「トゥライのナヴィド族に不穏な動きがあるようです」  トゥライは、ローゼンディア王国の東、広大なトゥライ高原に彷徨《うろつ》く、野蛮で獰猛な遊牧騎馬民族である。族長を中心とした部族がいくつもあり、たまにそれらを束ねる強力な大首長が現れて、ローゼンディア王国などの周辺国家を津波の如く襲うことがあるが、ここ数十年、そのようなことは無くて久しい。各部族がそれぞれ勝手に動き回り、ある部族は友好的に物物交換にやってきたり、ある部族は敵対的に強盗掠奪にやってきたり、といった有り様で、ローゼンディアの最北東に位置するデルギリアでは、年に数回小競り合いがある程度であった。 「ナヴィド族といえば……確か、去年の今頃、強盗にやってきた奴らだな」 「ええ。我らが撃退しましたな」 「ああ。よく憶えている」  その時のことを想い出して、アルカイオスの身内は熱くなった。  強盗団は、族長の息子に将《ひき》いられた三十人程度の小集団で、アルカイオスはその族長の息子と刃を合わせ、引っ捕らえたのだった。彼の者は今、王都ガレノスで人質となっているはずである。 「人質を奪い返す算段やもな」 「ということで、注意を怠らぬように、とのことです」  アルカイオスは頷き、カトリナの手伝いで衣服を着始めた。    *  いつもの如く、仇討ちに出掛けるアルカイオスらを見送った後、カトリナは自室に戻った。  部屋に入ると、南国の甘く高貴な花の香りがかすかに鼻を擽《くすぐ》る。窓の方から流れてくるが、外からではない。風が吹く度に、アウラシール産の上等なクウァエ精油を染み込ませたレースカーテンが煽られ、部屋の中によい香りが拡がるのである。  身窄《みすぼ》らしいザーレ要塞には似合わぬ、華やかな部屋であった。  床に敷き詰められているのは、トゥライ製の風変わりな文様の絨毯である。ふかふかとして文理《きめ》細かなこの絨毯は、指が細くて靭《しな》やかな、うら若き乙女にしか織れぬという、稀少なものであった。  壁を覆い尽くしているのは、薄白茶色を基調とした綴《つづ》れ織である。これは、|藝術の女神《ディオーメ》の寵愛深い地、ローゼンディアのディオメルテで作られたもので、神話の一場面が描かれていた。  その他、寝台、箪笥《たんす》、小卓、戸棚などの家具も、王侯貴族が使うような上等なものである。  この部屋にあるほとんどのものが、国王からリュフィーナ王女に送られたもので、タニア・カトリナ母娘《おやこ》が横領したものであった。  小卓の上には、筆記道具と、総大主教ジポイテスの封印のある、樹皮の手紙が数通置かれている。カトリナは三ヶ月前に封を切った手紙を取り上げ、寝台に足を向けた。  が、そこはすでに占拠されていた。  精緻な花の刺繍が施された掛布団の真ん中で、黒猫が心地良さそうに丸くなって眠っている。艶やかで毛並みのよいこの猫は、アウラシール産のハピという短毛種で、貴族の愛玩用によく飼われているものである。これまた当然横領したもので、タニアが亡くなってからのカトリナにとって、唯一の慰めともなっている猫であった。  カトリナは仕方無しに寝台の端っこに腰掛け、ここ三ヶ月、何度も読み返している手紙を開いた。  流麗な筆致は、カトリナへ辞職を勧めていた。カトリナのようなよい人材を手放すのは惜しいが、カトリナがすでに年頃の娘になっていたことを失念していたと謝罪し、年頃になったら結婚して子を為し育てるのが人の道であると訓話を混じえて説き、よければ良い男性《ひと》を何人か紹介してもよいとあった。  初めてこの手紙を読んだ時は、嗤《わら》ってしまった。「失念していた」だなんて、よく云えたものだ。どうでもよかったに決まっている。  賊が襲ってきたらひとたまりもない廃棄要塞で、日々怯えながら危険性廃棄物の世話をしている者のことなど、一度たりともここに足を運んだことが無い、安全なところで安穏としている者が、何を気に掛けるというのだろう。何も問題が起こらなければよい――それだけだろうに。  王女の教師としてやってきている神官に、一度、そのようなことを真綿に包《くる》んでぶつけてみたところ、 「口を慎みなさい。総大主教猊下は寛大な御方ですから、あなたの物言いをお赦しになるでしょうけれど、わたくしは赦しませんよ。猊下はお忙しい御方故、わたくしが代わりに参っているのです。猊下はいつだって、姫様のことを、姫様にお仕えしている方々のことを、気に掛けていらっしゃいます。姫様が呪われた運命から解放される日を、毎日ご祈願なさっておいでです」  と、総大主教の弟子であるとかいう年増《としま》女は、片眉をぴくつかせながら云ったものだった。  愚かな女だと思った。騙されているに決まっているのに。もしかしたら、総大主教の不倫相手なのかも知れぬ。だとしたら愉快だった。この女も母タニアと同じなのだ。  総大主教にとって、ザーレ要塞で育った、どこにも行く当てのない己は、都合のよい存在に違いなかった。こんなところに進んでやってこようなんて人間は、まず居ないのだから。  運良く王女の忌わしい力に触れることなく勤務を終えた者の勧めで、御褒美がよいからと勇んでやってきて、その日の内に運悪く王女の忌わしい力に触れてしまい、恐怖のあまり要塞を飛び出してイゴールに喰い殺された――なんて者も居たくらいである。騙すようにして連れてきても、いつだって人手不足なのだ。  己はあの化け物と運命を共にせざるを得ないのだと、母が死んだ後から、ずっと思い続けてきた。半年前に、セウェルス家の若様、アルカイオスが現れるまでは。  今更だった。なんで今更こんな話が出てくるのだろう。今更辞職を勧められるまでもなく、アルカイオスの妻になれば、こんなところから出て行けるというのに。  しかし、カトリナは、暫く考えさせて欲しいと総大主教に返信した。  ――アルカイオス様の妻になれなかったら。  と、考えてしまったのだ。  そんなこと、あり得ない。考えたくもない。  しかし――  ――アルカイオス様は、あの化け物に恋をしている。  嘘だと思いたかった。  あの化け物とアルカイオスには、なんの接点も無かったはずである。どうして、見たことも会ったこともない、それも化け物と恐れられている女に、母と己をこんな境遇に陥れた女なんかに、恋などできるだろうか。あり得ぬことである。  とはいえ、己の予感は確かに思えたし、それを前提にアルカイオスを観察してみれば、ぴたりと当て嵌まった。王女に対する待遇改善要求はともかくとして、必要以上に王女のことを聞きたがったり、暇さえあれば王女の居る離れの塔を見ていたり……。  それでも、これはきっと神が与え給うた試練に違いないと奮起して、アルカイオスを己に振り向かせるべく、あの手この手を尽くしてみれば、果たして悉《ことごと》くなんの手応えも無く、意識すらしてもらえず、それどころか、己に女としての魅力が足りないのではないかと思わされ、やはりこの方はあの化け物に恋をしているのだと再確認させられて、心に深傷《ふかで》を負うばかりであった。  アルカイオスは己の夫となるべく、こんなところにやってきたのではなかったのか? それが運命なのではなかったのか?  とても高貴な、|イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の宗家の継嗣が、この世で最も慈悲深いはずの総大主教のみならず、実父である国王にまで見捨てられた、危険性廃棄物を封じ込めた廃棄要塞にやってくるなど、普通ではあり得ない。宇宙山《ラヌスカロン》から人間界《ノムス》に、男神が花嫁を捜しにやってくるようなものである。これを運命と呼ばずしてなんと呼ぼう。母と己の祈りが神に通じたに違いなかろうに!  しかし、必ずしもアルカイオスに拘《こだ》わる必要もないはずだった。タニアの夢は、カトリナを貴族の妻にすることだったのだ。アルカイオスを諦めて、外に出て他の貴族を捕まえる――そういう選択肢もある。複数の恋人たちと恋愛遊戯を娯《たの》しみながら、己の夫たるに最も相応《ふさわ》しい男性《ひと》を捜す――そういうことだってできるのである。  最悪なのは、拘わり続けた挙句《あげく》にアルカイオスを得られず、外に出る時にはとうに旬を過ぎていて、好色な爺《じじい》の後妻になるより外無いという場合である。これだけは御免だった。  いったい、どうしたらいいのだろう?  どうしたら、母の夢を叶えられ、己は幸せになれるのだろう?  そんな風に、この三ヶ月、カトリナの心は葛藤し続けていた。  不意に、肩に重さを感じた。柔らかな毛がさわさわと首筋に当たって、擽《くすぐ》ったい。黒猫ミューが、カトリナの肩に載っかってきたのだ。喉を撫でてやると、ゴロゴロと鳴く。  ミューの体温が、温かさが、カトリナの体を通って心にまで滲み込み、母のぬくもりを想い出させた。  ――ふたりでしあわせになろうよ。  と、死ぬ間際の母に云った。  今となっては叶わぬ夢。  ……いや、母の幸せがこの己の幸せならば、それで、ふたりで幸せになることになるのではないか。  ――あんたが幸せならそれでいいの。  と、母は云ったのだ。  己の幸せを求めることが、母の幸せに繋がるのだ。  ならば、己が心の欲するままに、  どうしたらいいのか?[#「どうしたらいいのか?」に傍点]  ではなく、  どうしたいのか?[#「どうしたいのか?」に傍点]  で、選ぶべきである。  カトリナは目を閉じて、心の声に耳を澄ましてみた。  そうして聞こえてきたのは……  ――アルカイオス様を愛している。  どうして諦めることなどできよう。  どうして他の相手を捜す気になどなれよう。  まったく無防備に、己に体を清められているアルカイオスの姿など、あまりにも憎らしくて可愛らしくて堪らないというのに。思わず、その逞しく瑞瑞しい体に抱きついて、頬擦りしてしまいたくなる――そういった衝動を堪えるのが大変だというのに。  カトリナは徐《おもむ》ろに目を開き、辞職を勧める手紙を、木目に沿って引き裂いた。  ――アルカイオス様の妻になる。 [#改頁] 第八章 祭り 「若、名誉ですぞ!」  と、青青とした葉でいっぱいの籠が、アルカイオスの目の前に差し出された。  アルカイオスは籠から葉を一枚摘まみ上げ、指先で玩《もてあそ》びつつ、キュロスを見上げた。 「私はやらぬ」 「最終日くらい、よいではありませぬか」 「若い兵士《ヤツ》にやらせておけ」 「今詰めている兵には、若い者はおりませぬ」  アルカイオスは笑みを浮かべながら、澄まし顔の口髭男を睥みつけた。 「略《はか》ったな、キュロス」  ザーレ要塞に詰める四人の兵士は、ヘルマディス要塞に詰めている兵士と順次交替させている。アルカイオスは、その兵士の選出をキュロスにすべて任せていた。 「では、お前がやれ」 「私はもう若くはありませぬ故」 「そんなことはない。お前はまだ充分若い。私が保證《ほしょう》する。先日のエネン・ゲーサでの競技では、皆、お前より若い者たちであったというのに、すべての競技でお前が一番であったろうに」 「いや……それは……競技に参加できる者といえば、|ザーレ要塞《ここ》には六人しかおりませぬし、その上若が参加なさらないとなれば、まあ……無理もない結果ではないかと思うのですが……」  キュロスは軽く咳払いした。 「煽《おだ》てには乗りませぬぞ。私はもう三十を越えております。若い部類には入らぬでしょう」 「とにかく私はやらぬ。理由は何度も言わせるな」 「……侍女頭殿が残念がりますなあ」  キュロスはぼそりと呟いた。  それを耳聡《みみざと》く聞きつけて、アルカイオスは怪訝《けげん》な顔をした。 「何故そこで侍女頭殿が出てくるのだ?」 「……」  キュロスは秘かに溜息を吐いた。 「私のことは気にせず、祭りを楽しめ。『緑の人』役は、ヘルマディス要塞から連れてくるがよい。まだ、太陽神《アクシオーン》は家に帰り着いておらぬ。さっさと行け」  アルカイオスはキュロスに籠を押しつけ、部屋から追い出した。  フィラデル祭。  毎年四月二十三日から一週間行われる、大地母神メーサの祭りである。  これは特に、女たちが楽しみにしている祭りで、祭りの期間、女たちはすべての家事から解放され、替わりに男たちが家事をする。日が出ている間は女たちのみで祭りを楽しみ、男たちはその間に家事をし、日が沈んでから祭りに参加し、夜通し火を焚いて、皆で楽しく過ごすのである。  祭りの最高潮では、全身に葉っぱを貼り附けた「緑の人」を先頭にして、皆で町中を練り歩く。「森の男」とも呼ばれる「緑の人」は、大地母神メーサの息子である、草木神プリオニムスの化身と見做《みな》され、春の到来を告げる存在として、大きな歓びの中で迎えられる。誉れ高いその役は、毎年ひとり、若い男たちの中から選ばれるのである。  アルカイオスは、窓から中庭を覗いた。未だ陽の残滓《ざんし》の見える夕闇に、頼り無げな篝火《かがりび》が、ぽうっと浮かんでいる。その周りには、それぞれ帚《ほうき》を手にした六人の女たちがいる。太陽神《アクシオーン》が家に帰り着くとともに、帚に跨《また》がって踊り出すのだ。  侘《わび》しいものだな、と思う。  領主館のあるギルテでは、篝火があちこちで輝き、ひとつの篝火を二三十人が囲んで踊っていたものである。  いや、ギルテと比べても仕方あるまい。そもそもが侘しいところなのだ。静寂があまりにも大きすぎて、祭りの賑賑《にぎにぎ》しさなど押し潰されてしまうほどに。  到底、春が到来したとは思えぬ冷たい風に乗って、歌声が聞こえてきた。女たちが踊り始めたのだ。  そこに、王女の姿はない。なんの祭りであれ、王女が皆と祭りを楽しむことはないらしい。誰も寄せつけず、ただひとり塔に籠もって、日がな一日祈りを奉《ささ》げているのだという。  一年と数ヵ月前――今や、夢だったのか現だったのか判らなくなりつつある、あの少女と過ごした三日間。その中で交わしたわずかな会話の中には、祭りの話もあった。なんといってもあの時は、新年の祭りの最中《さなか》であったから、ごく自然な話題であったといえよう。  皆と一緒に祭りに参加しないのかと問うと、  ――わたくしには、祈ることしか許されていませんから。  と、彼女は、高く澄んだ声に似合わぬ、重苦しい口調で云ったものだった。  そこにはいったい、どのような想いがあったのか、アルカイオスには知る由もない。しかし、彼女の目の前で、のほほんと祭りを楽しむ気には、到底なれなかった。 「祭りに参加なさらぬですと? |イスターリスの末裔《イスタリヘーレイ》の宗家の継嗣ともあろう御方が。怪《け》しからぬことですな」  ザーレ要塞にやってきて初めての祭りの日、キュロスは眉を顰《ひそ》めながら云ったものである。  祭りというのは神に対する儀礼である。それに参加しないということは、不信心であると云える。 「参加しないわけではない。ただ、ひとりにして欲しいだけだ」 「それは、参加なさっているとは申し上げ難い気がしますが」 「姫も同じだ。姫をおひとりにして、祭りを楽しむわけにはゆかぬ。私くらい、お附き合いせねば」 「ならば、私も」 「それは駄目だ。お前まで参加しないとなれば、他の者たちが気兼ねして、祭りを楽しめぬであろう。姫とて、そのようなことは望んでいらっしゃらぬはず」  そうして、ザーレ要塞に来て以来、アルカイオスは祭りに一度も参加していないのであった。  しかし、こんなことをしても、姫の心が癒されるわけでも、姫が救われるわけでも、何がどうなるわけでもないのだろうと思う。  ――何をやっているのやら……。  己自身でもよく解らぬ。  朧月《おぼろづき》のほのかな光に、亡霊の如く浮かび上がる離れの塔を見ながら、林檎《りんご》の香りのする蒸溜酒を煽った。    *  ぱたぱたぱた……  小走りの軽い足音で、アルカイオスは居眠りから覚めた。  頭ひと振りで眠気を飛ばし、小卓と椅子を蹴散らして、体当たりで扉を開ける。  腰の刀に手を掛けて身構えると、弱弱しい月明かりが射し込む薄暗い廊下の向こうに、ふわりと靡《なび》く長い金髪が――少女の背中が、一瞬見えて消えた。 「姫っ!?」  心中驚きつつも体は無意識に動き、疾風の如く廊下の端に到ったが、少女の姿はどこにも無く、闇に侵蝕されたが如き階段に、冷え冷えとした風がうねっているばかりであった。  ――まぼろし……?  寝惚けていたのかも知れぬと、首を振り振り部屋に戻ってみると、入り口の辺りに樹皮の切れっ端が落ちていた。  取り上げてみると、女らしい柔らかみのある文字が連なっていた。 「薪小屋でお待ち申し上げております」  と。  樹皮を持つ手がわずかに顫《ふる》えた。  幾度も幾度も、その文字を目で追った。  その言葉の意味するところが、よく解らなかった。 「待つ」とは「会う」ということで、「会う」には何かしら「理由」があるわけで……その「理由」がよく解らぬ。それが「今」であることもよく解らぬ。  何やら恐ろしい気がする。  しかし――  ――まぼろしではなかった。  先程見た少女の後ろ姿は、まぼろしではなかったのだ。  そう確信すると、心の深奥から言い知れぬ何かが一気に湧き上がった。それに衝《つ》き動かされるままに、アルカイオスは駆けていた。  中庭に出る。  見上げれば、朧月は中天にある。深更であった。  明日に備えてか、すでに祭りの火は消え、ザーレ要塞は静寂に呑み込まれていた。  月の顔前を過ぎる雲の流れは速く、青白く照らされる世界は、緩やかに明滅するように濃淡を変える。  アルカイオスはその中を駆けて、中庭とは名ばかりの荒れ地を抜けて、隅にある薪小屋に辿り着いた。 「……」  扉の前で立ち止まり、立ち尽くした。勢い込んでやってきたものの、扉を前にした途端に躊躇《ためら》いが生じた。  ――この向こうに、姫が……。  そう思うと、妙に心の奥が騒《ざわ》ついて、居ても立っても居られなくなるというのに、  ――会ってどうする?  ――会ってどうなる?  ――会ってよいものなのか?  そういった思考がぐるぐると回って体に絡みつき、アルカイオスをその場に足留めする。  時間だけが過ぎていく。  明滅する世界が時の流れを示し、アルカイオスを急き立てる。  ――あまりお待たせするわけにはゆかぬ。  考えても埒《らち》が開かない。  解り切っている。  この扉の先に、すべての答えがある。 「……」  アルカイオスは月を見上げ、その力を身内に取り込むように深呼吸をした。  すると、新たな考えが浮かんできた。  難しく考える必要は無いのではないのか? 「待つ」とは「参れ」ということだ。主《あるじ》から「参れ」と云われたのだ。ならば、臣下は素直に従わねばならぬ。あの時は、名も無き少女と名も無き騎士であったが、今は違う。王女リュフィーナと、王女にお仕えする騎士アルカイオスなのだ。  その考えが、アルカイオスの胸の内に、すとん、と納まった。  今まで何を考えていたのだろうと思いつつ、今までの逡巡《しゅんじゅん》が馬鹿らしくなるほど無造作に、アルカイオスは扉を開けた。  その瞬間、内から白い煙が流れ出てきた。一瞬、薪が燃えているのかと思ったが、そんな匂いはしない。未だ嗅いだことの無い不思議な匂いがする。香《こう》でも焚いているのであろうか。  白い煙が漂う小屋の内を見極めんとするが、外の月明かりに馴れた目には、暗くて判然としない。採光窓はあるものの、そこから射し込む光はあまりにも弱く、そこここに転がる薪の輪廓を、うっすらと浮かび上がらせているだけであった。冬が終わったばかりの薪小屋は、冬を控えた頃が嘘のように閑散としていた。 「姫……?」  恐る恐る言葉を放った。が、返されることは無く、薄闇と静寂の中に転がり落ちただけであった。  小屋の奥に進む。進むに連れて咳込んだ。煙は奥の方から流れてきているらしい。  何故また、こんなところで香を焚いているのだろう? と、思った瞬間――  パタン  背後で扉が閉まる音がした。 「……っ!」  なんたる不覚と青冷めるも、すぐさま振り返って身構えた。  扉の前に誰かが立っている。扉を閉めた張本人であろう。よくよく目を凝らせば、腰まで垂れた長い髪が――少女のものと思しき背中が、見えた。  アルカイオスは構えを解いて、口を開きかけた。が、それよりも早くあちらが口を開いた。 「何をしにいらっしゃったんです?」  アルカイオスは愕然とした。  その言葉と、声の冷たさに。  そして戸惑った。  そちらから一方的に「待っている」という手紙を寄越《よこ》しておきながら、「何をしに来た」もないだろう。  ……いや、そういうことを云っているのではないのか?  アルカイオスは思い直した。 「薪小屋[#「薪小屋」に傍点]に」ではなく、「ザーレ要塞[#「ザーレ要塞」に傍点]に、何をしに来た」なら、辻褄《つじつま》が合う。  アルカイオスは言葉に詰まった。  ――ここでのことは、どうかお