月下残影

00.プロローグ

 月が浮かんでる。

 

 闇がかすんでる。

 

 漆黒の闇をかすませる光が窓から入り込み、シャンデリアや壁に掛かった燭台の明かりをも侵食する。

 どうせなら、この身も侵食して欲しい、この場から消し去って欲しい――闇空にぽっかりとうがたれた光の空虚に魅入られるようにして、ミルイヒはなんとはなしにそう思っていた。

 それは強い願いではない。いや、願いですらない。単なる想い。冴え冴えとした月を見ていたら、そんな想いがおぼろげに浮かんできただけなのだ。

 しかし、その想いは、すぐさまかき消されてしまった。

「お父上のご加減はどうだね?」

 愛想笑いを浮かべた何某卿が、ワイングラスを片手に話しかけてきたのである。

「……まあまあです」

 ミルイヒはうわの空でぶっきらぼうに答えた。

「君は今年でいくつだったかな?」

「……十六です」

 先ほどと同じく、感情のない口調で答えた。

「ほう、今年で士官学校卒業か」

「……」

「それではお父上もようやく安心できるな。学資金工面にだいぶ苦労したと……おっと、失礼」

 何某卿ははにかんだ。目が笑っている。

「……いえ、本当のことですから」

 ミルイヒは眉間にしわ一つ寄せることなく答えた。

 その反応は何某卿の期待したものではなかったらしい。何某卿は眉をひそめ、顎を軽く引いた会釈をして、きらびやかな人々の林の中へと紛れていった。

 ミルイヒは密かにため息をついた。これは今日で何回目だろうか? どうして貴族たちは同じようなことばかり訊いてくるのだろう。しかも、わかりきっているだろうことさえも!

 高い襟と袖口に金の刺繍のある黒い制服は、ミルイヒが士官学校最上級生であることを示しているし、二年前から、病床の父の代理で公私に渡る催し物に出席していることは周知の事実であったし、セイデーズ公爵家は使用人に満足に食事を与えてやれぬほどに落ちぶれていることは、百年も前から知られていることだった。

 だが、今さら憤ったりはしない。他愛ない、くだらない会話も、貴族の仕事の一つだということをわかっているからである。

 しかし、ミルイヒはおよそ社交的な人間ではなかったから、こちらから話しかけるようなことは絶対になかったし、応えは簡潔で無愛想だった。

 そのようであったから、いつしかミルイヒは、「鉄仮面卿」の異名――まだ、「騎士」の称号さえももらっていないというのに――で密かに呼ばれるようになっていた。夜会で、誰がその鉄仮面をはずさせることができるか、というちょっとした賭けの対象になっていることは、ミルイヒの知る由もない。

 楽士の奏でる舞曲が一区切りした。広間の中央で踊っていた男女は各々一礼し、次の相手を求めて散っていった。

 ミルイヒはその様子をいつも通り、なんとはなしに眺めていた。どうせ、わたしと踊りたいという者はいない。それには羨望も怨恨もない。あるのは諦観だけだ。

 貴族のたしなみである舞踏が得意でないというわけではなかった。しかし、誘いを受けたことは今までに一度もない。近寄りがたい雰囲気がまずいのだろうということはなんとなく気づいていたが、それはどうすることもできないことであったし、こちらから誘う気にもならなかった。舞踏の練習相手である使用人のシャラ以外の者と、たまには踊ってみたいとは思っているが。

 広間の端の方がざわめき始めた。どうやら、今夜の主賓が現れたらしい。

 今夜の舞踏会は、アルヴァ国第五王女、エルネラ・レイ・アルヴァーノの社交界初お目見えなのである。エルネラは身分の低い妾妃の娘であるが、六人の王女の中で一番美しいと噂されている。

 ――そう、それは噂。

 その姿を実際に見た者は、数えるほどしかいないという。真偽のほどを確かめようというのか、今夜の舞踏会の出席者はいつもの二倍はいるかと思われる。

 だが、ミルイヒはなんの関心も持っていなかった。招待状が来たから、いつも通り、ちょっとうんざりしながら、のこのこやってきただけなのである。

 色鮮やかなリボン、レースやフリルのごたごたとしたドレスを着た人々に囲まれて、エルネラはごくシンプルな、身体にぴたりとした白いドレスで広間の中央に現れた。

 ミルイヒはその姿を人波からちらりとかいま見た。

 やはり、まだ十二歳だけあって、その顔にはあどけなさがありありだが、あと数年したら国一番の――いや、近隣諸国においても稀なる美姫になるであろうに違いない片鱗があった。

 金の髪は月の光に侵食されることなく、いや、むしろその光を吸い込んで、ほのかに輝いている。卵形の顔は白い陶器のようで、触れたらたちまち壊れてしまいそうだ。目はさほど大きいわけではないのだが、新緑の瞳はつややかで実に印象的だ。また、すらりとした肢体を包む、これといった意匠のほどこされていないドレスが、エルネラの美しさを損なわせず、むしろ際立たせている。

 我が盟友のランディ・フェイスならば、人々をかきわけて姫の手を取り、いの一番に舞踏の誘いをするだろう、と思って、ミルイヒは小さく笑った。唇の端を少しだけ上げた、人知れない笑い。

 

 その一瞬、エルネラと目があった。

 

 ミルイヒの瞳に、鮮やかな緑が焼き付く。

 しまった! と我に返り、すぐに目をそらした。

 なぜ、そのような動揺を感じたのかはわからなかったが、それはまずいことのように感じられた。まるで、ずっと秘密にしていたものを見られてしまったかのような。

 恐る恐る目を上げ、エルネラを見た。たくさんの人々に囲まれているのにも関わらず、気後れした風もなく、かといって威圧的でもなく、控えめな気品をもって受け答えをしている。

 ほっとした。あれは本当にたまたま目があっただけで、彼女はその身を囲んでいるその他大勢と同じように、自分に目を向けたのに過ぎないのだ、と。

 舞曲が流れ出した。遅いテンポの曲だ。エルネラは主催者である何某侯爵に手を取られて踊り始めた。ステップは確実で優美である。

 ミルイヒはエルネラに注目する人々をさけて、ひとり、バルコニーに出た。まだ生暖かさの残る夜風が金髪をなでる。満月は中天にあり、ミルイヒの血色の悪い顔をさらに青白くさせ、消え入りそうなほどに侵食した。

 

 それから二日後、ミルイヒの父は病死した。

 母親はミルイヒが小さい時にすでにないため、ミルイヒが公爵の爵位を継ぐこととなった。

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