月が半分だけ青白い顔を出していた。世界は不気味な明るさに照らし出され、人外のものが現れても何の不思議もないよう。
ミルイヒは王城の裏手門警備の仕事を終え、家に帰るところだった。
周りに立ち並ぶ貴族たちの壮麗な家々に、舗道を蹴る馬の蹄の音だけが虚しく響いている。どの家にも明かりがともされておらず、人が住んでいる区域とは思われない静けさがあたりを覆い尽くしていた。
もう少し早い時間ならば夜会から帰る貴族たちの馬車も通っていようし、もう少し遅い時間ならば朝帰りの貴族が歩いていよう。今はその間の時間であった。
秋を運ぶ冷たい風がにわかに吹いた。
ミルイヒは肩をすくめ、その身体に馴染んで二年となる、近衛隊の白い外套を胸元に寄せようとした。その途端、留めボタンが飛び、白い外套は青白く輝きながら、建物の闇に舞うように落ちた。
ミルイヒはため息をつき、馬から下りて外套を拾いに行った。身をかがめて外套を取り上げようとしたとき、
すべてが闇に包まれた。
しかし、その一瞬前、白刃がきらめくのをミルイヒは見逃さなかった。
甲高い音が夜のしじまを引き裂いた。ミルイヒが辛うじて白刃を受けたのである。闇の中で相手を失わぬよう必死に剣を合わせ、左手で短剣を抜く。
相手も同じ事を考えたらしい。剣を抜く鞘ずれの音がし、次の間には空気を引き裂く鋭い音がした。
ミルイヒは合わせた剣を押し、その反動で一気に後退した。空振った音が虚しくあとを引く。
闇にようやく目が慣れてきた。相手の姿ははっきりしないが、白刃は浮き上がって見える。
ふたりは数合剣を合わせた。息もつかせぬ勢いで、突然の襲撃者は剣を繰り出してくる。
ミルイヒの額から汗が流れる。冷たい汗だ。
――手強い!
受けるだけで精一杯だった。
襲撃者は両手の長剣と短剣をうまく組み合わせて使う。ミルイヒが長剣を受けた次の瞬間には、短剣が脇腹を狙っている。長剣の間合いのはずなのに、いつの間にか懐に詰め寄られているのである。
ミルイヒは短剣を軽く放って逆手に持ち替えた。受けにまわらなければ防ぎきれない。しかし、それでも徐々に後退させられ、遂には壁に追い込まれた。
それが狙いだった。
迫り来る長剣をはねのけ、続く短剣を……
激痛が左の小手を襲った。
短剣が深々と腕を貫いている。手の感覚が麻痺し、握っていた短剣が落ちた。
受け損ねたわけでない。襲撃者の動きを一瞬でもよいから止めたかったのだ。
案の定、襲撃者はミルイヒの捨て鉢ともいえる受けにひるんだ。反射的に引き抜こうとする。しかし、ミルイヒは抜かせぬよう、引きに逆らわなかった。
襲撃者が短剣を諦め、長剣を使うための間合いを取ろうとしたときにはもう遅い。ミルイヒは襲撃者のみぞおちに鋭い膝蹴りを放ち、よろめいて後退したところを剣で突いた――が、左肩をかすっただけだった。ミルイヒは舌打ちした。
襲撃者は身を翻し、走った。ミルイヒもそのあとを追ったが、すぐに諦めざるを得なかった。馬を奪われたのだ。
ようやく現れた月の下、襲撃者の風になびく黒髪と、ほっそりとした背中は遠ざかり消えゆく。そのあとには、月光にかすむ闇が残るばかりである。
闇と青白さだけが世界を作っている。先ほどの出来事が嘘のように、幻想的な静けさがそこにあった。しかし、ミルイヒの腕から滴る赤黒い血が、夢でなかったことを主張している。
突き刺さったままの短剣と、血に汚れた白い隊服を見て、ミルイヒは深々とため息をつかざるを得なかった。
執事にまた何か言われる……。
今年の残暑はさほど厳しくはない。暑すぎず、寒すぎず、外で昼寝をするにはもってこいの天気が続いている。
まだ青々とした草木は柔らかな日差しに黄緑色に輝き、その狭間からわずかにこぼれ出た光は、木にもたれたミルイヒの、投げ出された足をまだら模様にした。
ミルイヒは眠りと覚醒の間をさまよい、鳥のさえずりと木々のざわめきを聴いていた。
と、そこへ、がさがさと下生えを踏む騒々しい足音が聞こえてきた。足音の正体はあの男に違いない。
至福の時を害されて、少しばかりむっとして、ミルイヒは重いまぶたを上げた。案の定、近衛隊の白い制服姿のランディが、あきれ顔でこちらにやって来るのが見えた。
「やっぱり、ここにいたか。非番とはいえ、こんなところで昼寝してたら、また班長にどやされるぞ」
そう言われても、王宮の中庭が一番寝心地がよいのだから仕方がない。友人の助言でもそれは譲れない。また、ランディもミルイヒの頑固さを知っているだろうから、それはからかい口調だった。
ランディは短く刈り込まれた芝生の上に座り込んだ。碧の瞳が奇妙なきらめきを帯び、唇の両端がきゅっと釣り上がっている。この男がこんな顔をする時はろくなことがない。
「聞いたぞ、聞いたぞ。おまえも隅に置けない奴だなぁ。親友である俺にひとっことも言わないなんてなぁ」
ランディは端から見れば悪友であるかもしれないが、ミルイヒにとっては士官学校時代からの唯一無二の親友であった。
「何のことだ?」
ミルイヒは気だるげに身体を起こした。
「何のことだ、じゃないだろう? 皆、噂してるぞ」
ミルイヒは首を傾げた。
「噂? 何の噂だ?」
ランディはこれ見よがしにため息をついた。ミルイヒが周りのことに非常に無頓着であることを思い出したのだろう。
気を取り直した様子で、
「昨夜の、エルネラ殿下十六回目の誕生会で……ああ、そうか、おまえは裏手門警備だったからな。話が届いていなかったか。エルネラ殿下とおまえが婚約してるってことさ」
「ああ、そのこと」
どうでもよいことのように淡々と答える。
事実、どうでもよかった。昨夜のことは、あの襲撃者のことと、執事がうるさかったことしか覚えていない。怪我のことを言いくるめるのが大変だった。
問題の怪我はそれほど大事ではないと思っていたのだが、そうでもなかった。家に帰り着いた途端、脂汗が流れるほどに痛み出し、そのため、よく眠れもしなかった。
いまだ、じくじくと痛む。昨日の今日のなのだから仕方がないが、他によい方法があったんじゃないかと後悔した。
もっともそれは、生きて今ここにいるから思えることである。
「どうりで、今日は皆の視線をやけに感じると思った。……なんだ、婚約の話って本当だったんだな」
「なーに、他人事のように言ってるんだ。当事者はおまえだろ? 真相を聞かせろよ」
ミルイヒは、興味深げに目を輝かせているランディをまじまじと見つめたが、すぐにさっと目をそらした。
「真相と言っても……ちょうど四年前、死ぬ間際の父の口から初めてそのことを聞かされたんだ。てっきり、ほらかと思っていたんだが……」
「死ぬ間際にほらなんか言う奴はいないぜ。それに、おまえの父親と国王陛下は仲が良かったそうじゃないか。そんな話が出ていてもおかしくはない」
「……」
確かにランディの言う通りかもしれない。
父と国王は乳兄弟であり、親友であった。国王はいつもセイデーズ家の家計を案じており、なにかしらの理由をつけては様々な物を送りつけてきた。だが、父はどのような物が送られてこようとも決して受け取らなかった。さほど厳しい人ではなかったが、公私をわきまえ、清貧を尊ぶ人だった。
幼いミルイヒに、よくこう言ったものだ。
「ミルイヒ、虚飾に溺れてはならんぞ。あのように堕落した、名ばかりの貴族となってはならぬ。忠誠、公正、勇気、武芸、慈愛、寛容、礼節、奉仕を忘れず、誇り高き貴族たれ」
「父上、それではまるで騎士ではないですか」
「貴族は本をただせば騎士なのだよ。貴族たちは長い虚飾の生活の中で騎士の精神を忘れ、または取り違えてしまったのだ」
そんな父だったから、他の貴族からは煙たがられていたし、国王の父への寵愛ぶりを嫉妬されていた。だが、意に介してはいないようだった。
父はあまり自分のことを話さなかった。だから、死ぬ間際の告白も、
「実は、おまえはエルネラ殿下と婚約していることになっている」
という、至って簡潔なものだった。詳細を問いただそうにも、父は告白の直後に亡くなってしまった。
「花嫁なら受け取るだろうと思われたのかもしれないな。だが、わたしは陛下からそんな話は一切聞いてはいない」
「事後承諾ってやつだな。おまえたち貴族には珍しくないことだろう」
その言葉には皮肉が込められている。ランディが貴族のことを口にするといつもこうだ。
ランディは元々は貴族ではない。大豪商の次男なのだ。跡継ぎではないことをよいことに遊び歩いている不良息子だったのだが、それを見かねたランディの父が、性根を叩き直してこいとばかりに士官学校にぶち込んだのだった。――大して成果はなかったようだが。
庶民が士官学校に入ることは非常に珍しいことである。士官学校は、貴族息子たちが騎士になるべく用意されているようなものだった。
だから、貴族の群の中に一人放り込まれた庶民のランディは、士官学校に庶民がいることを快く思わぬ者たちから様々な嫌がらせにあった。
だが、ランディはそのようなことにあって黙っているような人間ではない。二倍、いや、三倍ぐらいにしてお返ししてやった。それが恐れられて、士官学校に入って半年後には嫌がらせはぴたりとなくなっていた。
ランディいわく、
「まったく、根性のない奴らだぜ。集団でなきゃ何にもできないんだ。こっちはいつでも正々堂々サシで勝負してやるってのによ。『騎士』らしく、な!」
だが、生来人好きのする彼である。庶民だ何だと蔑まれていた彼であったが、次第にその気っ風の良さで貴族息子たちを引きつけていった。今ではどれくらい友人がいるのか、ミルイヒにはわからない。
そんな彼がどうして、こんな面白みも愛想もない自分の親友たるを望んだのだろう、と時々思う。それは、自分がこの男を好きである理由と同じくらい、わからないことである。
賭博、喧嘩、女遊び……およそためになるようなことを教わったためしはない。それが悪友と呼ばれる所以であろう。
「事後承諾……だとしても、なぜ今頃そんな話が?」
「それはやっぱり、エルネラ殿下が成人なさったからだろうよ。俺はご拝顔にあずかったことはないが、たいそう美しい方だそうじゃないか。群がる男どもは数知れず」
「それでは、わたしは殿下の防虫剤ということか?」
ランディは眉をひそめ、ため息をついた。
「どうしておまえはそううがった考え方をするかなぁ」
「うがっている? ……そう考えざるを得ないだろう。わたしは殿下と面識はない」
四年前のあの夜、ただ一度目を合わせたきりだ。
「殿下から婚約の話を出したということはないと言うんだな? やはり、陛下のご意向というわけか」
「真相は陛下に伺わなければわからないが……」
おそらくそうに違いない。陛下はセイデーズ家の窮状を何とかしたいと思っているのだ。余計なお世話といったところだが、忠臣たるミルイヒはそのようなことをおくびにも出さない。
「それで、婚約の話が本当だとしてだ。おまえはどうするんだ?」
ランディはミルイヒの鉄面皮をちらりと窺った。
「何も」
ランディは忌々しそうに芝生をむしった。
「結婚相手を勝手に決められて、何とも思わないのか?」
「陛下がお決めになったことなら、逆らう理由はない。幸い、心に決めた相手はない――いや、いたとしてもわたしは陛下の御意に従うだろう。それに、わたしはセイデーズ家の当主としてその血統を絶やすわけにはいかない。いずれは結婚しなければならない身だ」
ランディは不愉快そうに目を細めて、ミルイヒを見た。
「誰でもいいってわけだな。……おい、そのこと他の奴の前で言うんじゃないぞ」
ミルイヒは眉をひそめた。
「なぜだ?」
「刺される」
ミルイヒは目をしばたかせた。
「それほどの魅力がある人なんだろうよ、エルネラ殿下は」
と、何か含みのある様子で付け加えると、ランディは立ち上がり、純白のマントに付いた埃をはたき落とした。
「さあて、陛下に謁見たまわりに行こうぜ、相棒!」
鱗雲に覆われた黄昏空に、威勢の良いかけ声と、木と木がぶつかり合う乾いた音が響き渡っている。
「えいっ、やあっ、たあっ!!」
白金の髪を三つ編みにし、男物の服を着た少女は木剣で果敢に打ち込んだ。
それを受ける黒髪の青年は、男にしてはやけにほっそりとしていてる。だが、少女の激しい打ち込みに気圧される様子はない。優雅と言っていいほどの動作で、軽く受け流している。
「今日はやけに気合いが入っているんだね」
日焼けのあとが全く見られない青年は、白く整った顔をほころばせた。
「……気合いも……入る……わよ!」
青年の涼しい顔に反して、少女のそれは汗と埃にまみれ、紅潮している。
「やあっ!」
少女は上段に斬り込んだ。青年はさっとそれをかわし、勢いによろめいた少女の背を押した。少女は地面に倒れ込んだ。すぐに立ち上がって身を翻したが、
「今日はここまで」
少女の額に剣先が突きつけられた。
少女は一瞬ひるみ、柳眉をひそめて青年をにらんだ。
「まだ始めたばかりよ」
青年は木剣を下ろし、少女に背を向けて歩き始めた。
「雑念が多すぎる。これじゃあ修練にならないよ」
「修練にならなくたっていいわよ。とにかく鬱憤晴らしがしたいの! わたし、昨日の夜からずっとむしゃくしゃしてるんだから」
青年はいつもの優しげな顔から一転して、神妙な面持ちで踵を返した。
「鬱憤晴らしに剣を使ってほしくないな」
少女はその迫力に気圧されたが、拳を固めて負けじと声を張り上げた。
「相手をしてくれないって言うならいいわよ。下町にでも行って喧嘩を吹っ掛けてくるから!」
少女はずんずんと大股で、森と言っていいほどの広い庭の出口へと歩いた。
青年は慌てて追いかけ、
「待ちなさい! エルネラ!」
と、少女の細い腕をつかんで引きとめた。
「いたたたっ! そんなに強くつかまないでよ」
エルネラは眉間にしわをよせ、自分の腕を乱暴に取り戻した。まったく、どこからあんな馬鹿力が出てるのかしら。青年のか細く、長い指を見ながらそう思った。
青年はエルネラの非難を無視してため息をついた。
「下町へ行って喧嘩するだなんて……仮にも君はお姫様なんだから」
エルネラはむっつりとした顔で青年を見上げた。
「お姫様、お姫様! もう聞きたくないわ、そんな言葉」
がくりと肩を落としてうつむく。
「あーあ。どうしてわたしは『お姫様』なのかしらね。男だったら……いえ、何の肩書きもない女でさえあったら、どんなによかったことかしら……」
青年は首を振り、ため息をついた。
「いつも言う答えだけど、『何の肩書きもない女』にだってそれなりの苦労はあるんだ。君には隣のバラがより赤く見えているだけだよ。望んでもどうにもならないことはこの世にはたくさんある。君は『お姫様』として生まれてきたんだ。だから、『お姫様』として生きなくちゃならない」
エルネラは顔を上げ、青年の黒い瞳を毅然と見つめた。
「そんなのは嫌! わたしはわたしの生きたいように生きるわ。『お姫様』として生まれたからって……そんなの……納得いかないわ!!」
青年は目を細めて微笑んだ。
「うん。わたしもあまり納得してない。だから、こうやって君に剣を教えてる」
エルネラは満面の笑みを浮かべ、青年に勢いよく抱きついた。青年は驚いてよろめいた。
「だから大好きよ!」
「おいおい、エルネラ」
青年は困った声を出したが、その整った顔はほころんでいた。エルネラの頭をいとしげに撫でてやる。
「――で、何があったんだい?」
エルネラはひとしきり青年の胸に頬ずりしてから、名残惜しそうに青年から離れた。
そして、躊躇いがちに話し出した。
「昨日の夜、父上がね……」
「そうか、ジェラルドはおぬしに何も言わなんだか。あやつらしいな」
ミルイヒは国王の彫りの深い厳格な顔を見つめた。茶色の髪に幾本か白いものが混じっている。
国王はベルベットのソファから立ち上がり、紫の外衣の裾を引きずって、接客室の中をゆっくりと歩き回り始めた。
壁には細かな意匠のタペストリが掛けられ、サイドボードには花と金銀の小物が飾られている。その反対側の壁にはがっしりとした煉瓦造りの暖炉があるが、まだ火はおこされておらず、灰もきれいにならされたままである。部屋の中央には大理石の巨大なテーブルが置かれ、その模様に合わせた柄のソファに、ミルイヒは背筋を伸ばして座っていた。
広い部屋には、国王とミルイヒしかいない。
深紅のふかふかの絨毯は国王の足音を吸収したが、つぶやきまで消すことはできなかった。
「まったく、嫌なことを押しつけていきおった……」
国王は密やかにため息をつき、やにわにミルイヒを振り返った。
「この婚約は六年前、おぬしの父親と決めたものだ。しかし、その時はジェラルドはたいそう渋ってな」
ミルイヒはその様子が手に取るようにわかった。父は国王に敬意を示さないことはなかったが、否を否と言える人だった。また、国王はその権限をもって無理強いしたりはしなかった。
「わしらは一つの賭けをしたのだ」
ミルイヒは目をしばたかせ、国王の青い瞳を見つめた。いつも自信に満ちているその瞳は、今は揺らいでいる。
「この婚約は当事者が、つまりおぬしとエルネラが成人するまでわしらの胸にしまっておく。だが、成人する前にどちらか片方に想い人ができた場合、この婚約を破棄する、とな」
ミルイヒは驚いた風もなく、平然と聞いていた。
「おそらく、ジェラルドには自信があったのだろうよ」
確かにそうだろう。父はランディとの付き合いを喜んでいる節があった。今思えば、ランディがミルイヒに誰かを引き合わせてくれるだろうとの推測があったに違いない。当ては外れてしまったが。
「陛下、わたしには異論はありません。陛下の御意のままに、わたしはエルネラ殿下と結婚しましょう」
国王は当然のようにうなずいた。だが、すぐに目を他へさまよわせた。
「だがな、エルネラはたいそう反発してな。恥ずかしい限りだが、わしはエルネラに弱い。もしエルネラがあまりにも嫌がるようなら、破棄せねばならないやもしれん」
「わかりました。陛下はエルネラ殿下をわたしに振り向かせろとおっしゃるんですね」
「有り体に言えば」
「かしこまりました。それでは失礼致します」
ミルイヒは国王に敬礼すると、接客室を辞した。
ぴかぴかに磨かれた廊下を歩きながら、ミルイヒは奇妙な感情を抱いていた。それはどのようなものか、はっきりとはわからない。心をうずかせ、いつになくそわそわさせる。
国王にああは言ったものの、女性を口説いたことなどない。無論、生まれてこの方、付き合ったこともない――一夜限りを除いて。とても難しいことのように思えた。
しかし、陛下の期待には応えたい。ならば、やはりランディに力を借りねばなるまい。
大広間に通ずる大廊下に出ると、大人三人がようやく抱えられるほどの柱の下で、ランディが腕組みをして待っていた。
「どうだった?」
ミルイヒは深刻な面持ちでランディをじっと見つめた。
「わたしに女性の口説き方を教えてくれ」
ランディは目を丸くした。
「……それで、父上はこうも言ったのよ。わしはあれほど夜会に出ろと言ったのに、聞かなかったおまえが悪い、ってさ。そんなの卑怯よね。『賭け』なんてわたしの知ったことではないわ。夜会なんて大嫌いだし、結婚なんて考えたこともないわ」
黒髪の青年はため息をついた。
陽の残滓が、白亜のベンチに座った二人の影を、大きく引き延ばしている。肌寒い風が吹き始め、庭の木々はざわめいた。
「結婚しないわけにはいかないだろう。特に王族とあっては。君はまだ恵まれていると言っていい。他の国へ嫁ぐわけじゃないんだから」
エルネラは頬を膨らませた。
「仮に結婚するとしてもよ。あんな人は嫌」
青年はため息混じりに微笑んだ。
「君も好き嫌いが多いね」
「わがままだって言いたいんでしょ。わかっているわよ」
「君は婚約者を見たことがあるのかい? 行事に全く参加しない、深窓の姫君たる君が」
からかい口調である。
「一度だけね」
エルネラは不機嫌な声を出した。
「一度……初お目見えの時よ。わたしを見て、小馬鹿にしたように笑ったのよ、あの人。そして、さっさと姿を消しちゃったわ。不健康そうな青白い顔、ひょろひょろして頼りなさげな身体つきをしてた」
「それだったらわたしだってさして変わらないよ。彼よりも背は低いだろうし」
「あなたのは表面だけよ。頼りなく見えて、内実、随一の剣士じゃないの」
「お褒めにあずかり光栄です」
青年はおどけて最敬礼した。
エルネラはそれを無視して続けた。
「影薄い感じだったわね。武勇伝なんか聞いたことがないわ。事実、侍女の他愛ない噂話にも上らないし」
「何が言いたいの、君は? 影が薄くとも家柄はいいよ」
「そんなことはどうでもいいわ。わたしは弱い人が嫌いなの。わたしより弱い人なんて問題外!」
青年は困ったように苦笑いした。
「そいつは難しいな。君より強い人はそうそういないかもしれない。なにせ、わたしが手ずから教えているんだから」
そこには幾分の謙遜も含まれてはいない。
「でも、なんであれ、結婚しなくちゃならないよ」
「結婚してないあなたに、そんなこと言う権利はなくってよ」
青年は痛いところを突かれたとばかりに肩をすくめた。
「それを言われるとつらいな。でも、わたしは男だし、末っ子だから、あまり重要じゃない。今さら結婚しても厄介に思われるだけさ」
居座っている方が厄介じゃないかしら、とは思ったが、エルネラの本心は彼に結婚してもらいたくなかったので、思うにとどめた。
「どんな男か確かめてからでも遅くはないと思うよ。第一印象だけで決められては、あんまりというものだ」
「どうせろくでもない男よ。――ディアンだわ」
すっかり暗くなってしまった庭の木陰から、ランタンの明かりがちらちらと見えた。
「暗くなるのが早くなってきたな。さあ、行きなさい。君の侍女はたいそう気をもんでいるはずだ」
青年はエルネラを立ち上がらせ、エルネラが手にしている木剣を取り上げた。エルネラはそれを名残惜しそうに見た。
「明日も来てくれる?」
「たぶん……」
エルネラは振り返りもせず、一目散に明かりが揺れ動いているところへ向かった。
青年はその後ろ姿をじっと見つめ、木陰の中にそれが消えてしまうと、踵を返して反対方向に歩き出した。深緑のチュニックとズボン姿の彼は、闇の中にとけ込むように消えていった。
あとには、秋の虫の鳴き声が虚しく響くのみである。
ランディはため息をついて言ったものだった。
「口説き方と言ってもな、女性にもよるし、一概にこうとは言えないな。おまえ、話したこともないんだろう? おまえのことだ。どんな人かもわからないんだろう? 相手のことがわからないとなると難しいな――あいにく、俺も知らない。あまり人前に出ない人らしいからな。こういうのには下調べも必要だ。侍女から話を聞くのがいいだろう。そんな不安そうな顔をするなよ。なーに、俺がうまく侍女と接触して聞き出してやるから。一番大事なのはな、相手を不快にさせないことだ。その無愛想な顔はやめた方がいいぞ。もっとにこやかに。……おい、にこやかとにやけるのは違うぞ。もっと愛想のいい顔はできないのか? ……ああ、もういい。いつも通り無愛想でいろ。そっちの方がマシだ」
ミルイヒはお馴染みの木にもたれかかり、ランディとの昨日のやりとりを思い出していた。そんなにわたしは愛想がないんだろうか? と、顔を撫でる。
ランディはやけに張り切っている風だった。思えば、恋愛に関する頼み事や相談はこれが初めてだ。
ランディの方からは、そのような話を持ち出すことはない。せいぜいが、付き合っている女性の家柄――どういうわけか、貴族のお嬢さん方やご夫人方にも受けがいいらしい――を聞いてくるくらいのものだ。ミルイヒもランディの恋愛事情――それはかなり華麗にして危険なものであるらしい――には興味がなく、問いただすことも戒めることもなかった。
エルネラ・レイ・アルヴァーノ――いったい、どのような女性なのだろうか?
四年前の記憶を何とか引きずり出そうとしたが、思い出されるのは、一瞬目が合ったあの新緑の瞳だけだった。
ミルイヒは目を細く開け、頭のずっと上の方でちらちらと日の光に輝く葉っぱを見た。
「秋の陽の落ちるがごとく
草木のしおれるがごとく
君の顔は憂い」
「そして
愛せし人の名を呼ぶ」
ミルイヒは後ろから聞こえた詩に応えた。
顔をあおのかせて見上げると、もたれていた木の後ろから現れた顔があった。凛々しく釣り上がった眉に反して、その黒い瞳は女性のようになまめかしく、厚めの唇はかすかに笑みを浮かべ、白く繊細な顔立ちを包む髪は漆黒だった。
――美男子だ。
ランディもそれに属するが、この男には貴族的な倒錯じみた美しさがある。
「貴殿がミルイヒ・セイデーズ公爵?」
声を出せずにうなずくと、黒髪の青年――二十五、六といったところだろう――は、いつのまにかミルイヒの隣に腰を下ろしていた。
若草色のチュニックを着、同じ色のズボンを茶色のブーツの中にたくしこんでいる。
ミルイヒは起き上がり、目をしばたかせた。
――見覚えがある。
だが、この地方では黒髪の者はとても珍しいにも関わらず、思い出すことができなかった。
「あなたは?」
青年は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「デュー」
ミルイヒはその名を反芻し、小首を傾げた。聞いたことのない名前だ。
青年はミルイヒの疑問に頓着する様子はなかった。
「エルネラ……殿下と婚約しているそうだね」
ミルイヒははっとして青年を見つめた。もしかして、ランディが言っていたエルネラ信奉者だろうか?
青年はくすくすと笑った。屈託のない無邪気な笑いである。
「そんな怖い顔をしないでくれよ。わたしはなにも、殿下を賭けて決闘を申し込もうとしているわけじゃない」
見透かされて、ミルイヒはどのような顔をしてよいかわからなかった。
「……」
「貴殿はこの婚約をどう思っているの?」
「どうって……何も――いえ、光栄なことだと思っています」
ランディの言葉を思い出し、言い直した。この男がエルネラに好意を持っているのは間違いないはずだ。
「本当に?」
好奇に満ちた黒い瞳が、ミルイヒの灰色の瞳をのぞき込んだ。
「殿下とは会ったことがないんだろう?」
ミルイヒは眉をひそめた。この男は何が知りたいんだろうか? 終始微笑みを浮かべている顔からは、何も読みとることはできない。
「だからどうだと言うんです? 結婚式の日に初めて顔を合わせるなんて、珍しいことではないでしょう」
「確かに」
ミルイヒは立ち上がり、白マントの埃をはたいた。
「公爵?」
青年はミルイヒの不意の行動に驚いた様子で、つられて立ち上がった。
「そのように呼ばないで下さい。今は一介の騎士に過ぎません。そろそろ勤務に戻ります」
「不快に思ったのなら許してくれ、えーと、ミルイヒ殿」
「いえ、不快には思っていません、デュー卿」
「わたしもそのように呼んでほしくないな」
青年は黒髪を掻き上げ、微笑んだ。
「それでは、デュー殿。失礼します」
ミルイヒは素っ気なく軽く会釈をすると、足早に立ち去りかけた。しかし、青年の涼しげな声が一瞬それを引き留めた。
「わたしはただ、貴殿のことが知りたかっただけだよ。エルネラ……殿下のために」
生ぬるい風が吹き荒れ、木々がざわめき、ミルイヒの金の髪を輝かせながらなぶった。早くも力尽きた葉がはらはらと空に舞い、ミルイヒはその中を颯爽と歩いた。
「おい、これは見込みがあるかもしれん」
ランディはゴブレットを傾けながら言った。
「ほう?」
酔客の罵声や哄笑、給仕女の叫声が上がる中、その大衆酒場の奥まった角の席は、それとは隔離された空間のようであった。ミルイヒとランディは周りの喧噪には慣れている様子で、静かに話をしている。
彼らの格好といえば、下町の若者たちが着るような、シャツと半ズボンといった簡素なものだった。無論、ランディには馴染んだ格好なのだが、ミルイヒの貴族的な顔にはたいそう似合わない服装である。いかにもお忍びの王子様といった風なのだ。そのことで最初のうちは酔客たちにからかわれたものだったが、今は皆、慣れっこで、意識する様子はなかった――ミルイヒの身分を推し量るように見る以外は。
ミルイヒはレモン汁が少々入った水を一口飲んだ。
「どのように?」
「殿下の侍女はディアンと言ってな、それはまた可愛らしい女性だった」
ランディは彼女のことを思い出した様子で、うっとりとした――いや、スケベったらしい顔をしていた。すでにほろ酔い状態でもあり、ほのかに顔を赤らめている。
「貴婦人の繊細な手で大切に育てられた、一輪の白く小さな花。まさしくそれだ。はかなげで、触れるとあっという間に散ってしまいそうな……」
ランディは芝居がかった様子で言う。
ミルイヒは、お馴染みの病気が始まったかとばかりにため息をつき、
「それで、おまえは手折ってしまったのか、その花を?」
「失礼な!」
ランディはゴブレットをドンと木のテーブルに置いた。その勢いで中に入っていた赤ワインがこぼれ、テーブルに黒い染みを作った。
「いくら俺でも、後宮でそんなことする勇気はないぞ」
「後宮!?」
ミルイヒは目を丸くした。
「男子禁制だぞ、あそこは! どうやって入り込んだんだ!?」
ランディは得意げに笑った。
「んっふっふ。秘密」
それから少し真顔に戻って、
「やっぱり、お姫さんを直接見といた方がいいかなあ、と思ったんだ――言っとくが、他意はないぞ。ホントにホント! だが、それはかなわなかった。仕方なく、当初の予定通り、ディアンから聞き出してきたぞぉ」
ミルイヒはうなずいて先を促した。前置きが長くてうんざりだ。
「一言で言うと、深窓の姫君だな。ディアンと同じタイプ。疑うことを知らない清純な乙女。こういうのは簡単だ。押し倒してしまえばこっちのもの――あくまで優しくな」
ミルイヒは頭を抱えた。
「おいおい、結婚前に押し倒すわけにはいかんだろう」
「なーにをおっしゃる。今日日、結婚前に何かあるのは当然だろ?」
「却下だ。却下、却下!」
ミルイヒは手を振った。
ランディは口を尖らせた。
「おまえは人の好意を無にするのか?」
「好意も何も、好きでやってるくせに。それはともかく、本当に『疑うことを知らない清純な乙女』なのか? それならすんなり婚約を認めているはずだ。陛下の話では違うようだったぞ。手を焼いているわがまま娘のような……」
「愛しのディアンが嘘をついているとでも? 何のために?」
ランディは疑いの眼差しを相棒に送った。
「さあな。おまえの働きには感謝している。ご苦労様。あとは自分で何とかするよ」
ランディはうろんな目つきでミルイヒを見ながら、ゴブレットにワインをつぎ足し、小声で言った。
「なぁんか、あまり感謝しているようには聞こえないなぁ」