月下残影

02.決闘

 王城はいつもと変わらぬ優麗と荘厳に満ちていた。

 広大な王都の外からさえ見え、旅人の目印ともなっている、王城の白い三つの尖塔。今朝はその尖塔の先に薄く靄がかかっている。ミルイヒは王城への道すがら尖塔を見上げ、一雨来るかもしれないと思った。

 馬を厩舎に預けると、勤務先へと向かった。

 近衛隊第六班に籍を置くミルイヒの通常勤務は、今のところ、国王の執務室の警備である。それは昼少し前に終わり、昼の休憩をおいたあと、次に練兵が始まる。それで一汗流したら、ミルイヒの王城での一日は終わりとなるのであった。

 ミルイヒは王城の中に入ってもうわの空だった。今日こそエルネラと会おうと思っているのだが、どうにも決意しかねている。

 国王にああは言ったものの、自信などない。はなから、ミルイヒと会ってもみないうちから、エルネラは拒否している。そんな彼女が、果たして自分と会ってなどくれるのだろうか?

 また、彼女は後宮の奥深くに住まい、ほとんどその外に出ることはないという。となると、またしてもランディの協力を乞わなければならない。だが、昨夜、自力で何とかするといった手前、言い出せないことであった。

 ミルイヒはため息をつき、その時になって初めて、執務室への通路を通り過ぎていたことに気づいた。

「セイデーズ公爵様」

 足早に戻るミルイヒに話しかける男がいた。従者のようである。男はかしこまって手紙を差し出した。

「我が主人、ワイズ伯爵からの書状です」

 ミルイヒはその名を聞いてわずかに眉をひそめた。

 ミルイヒほどではないにしても、若い伯爵である。たいそうな金持ちらしいと聞く。だが、面識はさほどなく、手紙をもらうようなことはなおさらだった。

 不可解ながらも手紙を受け取った。上質の大理石模様の紙、封蝋印はアマリリス。間違いなくワイズ伯爵からのものだ。親指で封を破り、中の紙を取り出して広げた。

 ミルイヒは目を見張った。

 

 ――挑戦状

 貴公、ミルイヒ・セイデーズ公爵殿はエルネラ・レイ・アルヴァーノ殿下と婚約されたとうかがう。聞くところによると、それは殿下の意の染まぬものであるという。ならば、婚約しているとはいえ、我らの立場は対等であるといえよう。

 我、グラディス・ワイズは殿下をお慕い申し上げている。貴公より殿下を幸せにする自信はある。

 そこで、貴公が身を引く気がないというのなら、決闘を申し出る。

 期日はルシエラの月十日、十七の刻、場所はフォボスの庭。

 立会人はエルネラ殿下本人。

 貴公の勇気と賢明を信ずる。

グラディス・ワイズ伯爵

 

 と、神経質な字で書かれていた。

 ――ばかげた話だ。

 こんなのは屁理屈に過ぎない。本人たちの意志を無視した婚約など山ほどある。しかも、これは国王自らが決めたことなのだ。どうしてそれに第三者が立ち入ることができよう?

 だが、立会人にエルネラということは、彼女はこれを認めたのだ。何やら言いようのない想いが、ミルイヒの心をかすめた。

 手紙から目をはずすと、従者はすでにいなかった。

 ミルイヒはため息をついた。期日は今日の夕方だ。グラディスのところまで行って断る暇はない。否応もなく応じろというのか。

 ミルイヒは手紙を懐に入れると、執務室へ急いだ。

 

「グラディス・ワイズがおもしろいことを言って来たわ」

 いつになく楽しそうなエルネラを、黒髪の青年は不思議そうに見た。

「グラディス・ワイズ……誕生会で君にプロポーズした男か?」

「そう。派手好きで悪趣味で鬱陶しいあの男。ミルイヒと決闘するそうよ」

 青年の目が丸くなった。だが、黒い瞳には好奇の光が輝いている。

「決闘! おもしろそうだなぁ」

「わたしは立会人になったわ。ふふ、間近で見ることができる。ミルイヒがどれほどの腕をもっているのか。……ああ、どうせならわたしがミルイヒと決闘したかったわ」

 エルネラは本当に残念そうに柳眉をひそめた。

「またそういうことを言う。ミルイヒが負けたらどうするつもりだい? 決闘は神聖なものだ。いくら君でも、誓いを破るというようなわがままは通らないよ。どちらかと必ず結婚しなきゃならなくなる」

「わかってる。でも、まだ婚約止まりよ」

 エルネラは何か考えがあるとでもいう風に微笑んだ。青年はその微笑みの正体がわかったかのようにため息をついた。

「そろそろ十七の刻だわ。あなたはどうするの?」

「もちろん、見に行くさ。こっそりとね」

 二人はベンチから立ち上がり、いつもの庭をあとにした。

 

 ミルイヒは決闘になど応じる気はさらさらなかった。だから、断るためにフォボスの庭――別名「決闘の庭」へと向かった。それは王城の敷地の奥まったところにある。

 実のところ、騎士間の決闘は禁止されているのだが、今となってはなきに等しいものだった。憲兵たちでさえも見て見ぬ振りをする。決闘は今や、貴族たちのゲームの一つとなりつつある。だから、決闘と小耳に挟めば、誰もがこの「決闘の庭」に集まるのだ。

 「決闘の庭」にたどり着いて、ミルイヒは肩を落とした。ミルイヒとしては事はすべて秘密裏に行うつもりだったのだが、お祭り好きの悪友に口を滑らしたのがまずかったようだ。

 決闘の庭は中央をあけて、貴族はもちろんのこと、騎士や侍従、馬丁までもが、広大な庭を埋め尽くさんばかりにごちゃごちゃと集まっていた。中央から遠い者たちは、背伸びをしたり、近くの木に登ったりしている。あちこちで賭けをする声、罵声叫声が上がっている。

 これでは断るに断れなくなってしまった。断ろうものならどのような目に遭うかわかったものではない。

 決闘の場としてあけられてあるところに、赤と黄色の縞模様の長衣を着、首からは金銀のネックレスを垂らし、両の手指に様々な宝石を身につけた男が現れた。

 ――グラディス・ワイズだ。

 ミルイヒも決闘の場に進み出、グラディスと対峙した。

 観客たちは主役の登場にどよめいた。

「こいつは近年まれにみるすごい決闘だな」

「国一番の美姫をかけて、宮廷一の金持ち貴族と貧乏名門貴族との対決!」

「殿下にとってどちらが幸せなのやら……」

 ふたりはさらに中央に進み出た。

「ごきげんよう、セイデーズ公爵」

 グラディスはふっくらした顔を少し傾げて、愛想良く挨拶した。

「ごきげんよう、ワイズ伯爵」

 ミルイヒは無愛想に返した。しかし、ミルイヒの無愛想ぶりは広く知られていることなので、グラディスは気を悪くした風ではなかった。

「いったいどういうことなのですか?」

「手紙に書いてあった通りのことです」

 グラディスは目を細めて微笑んだ。貴族特有の、なにか含みのある笑みだ。

「この婚約は陛下がお決めになったことです。それには何人たりとも口出しできません」

「貴公はエルネラ殿下を愛しておられるか?」

 ミルイヒは眉をひそめた。

「わたしは……殿下と面識がありません。いえ、そのようなことはどうでもいいことです」

 グラディスのお愛想顔が消え、ミルイヒをにらむような目つきになった。

「よくない。わたしは殿下を愛しています。心から!」

「だからといって、殿下もあなたを愛しているというわけではないんでしょう?」

 図星だったらしい。グラディスは顔を赤く染めた。

「しかし、殿下を全く愛していない人間よりかはいいでしょう? 殿下もこの決闘を認めておられる」

「しかし……」

 ミルイヒが反駁しようとしたとき、ざわめきがひときわ大きくなり、ミルイヒの言葉をうち消した。

 人々の波が左右に割れ、侍女を引き連れたエルネラが姿を現した。

 エルネラは薄ピンクのドレスを身にまとい、金の髪には何もつけず、風に吹き流されるままにしている。一歩一歩ゆっくりと歩いてくる。人々に囲まれて、ともすればエルネラは押しつぶされ、はかなく消えてしまいそうだった。

 エルネラが決闘の場にたどり着くと、ミルイヒとグラディスは片膝をつき、右手を左肩の下に当てて礼をした。

「おふたりとも立って下さい」

 か細い、優しい声で言われて、二人はすぐに立ち上がった。

 ミルイヒはエルネラの顔を見て目を見張った。女性の顔とはこうまで変わるものなのか。四年前のそれとはだいぶ大人び、輝きはいや増していた。

 新緑の瞳を縁取る金の睫毛が、憂いを含んだように白い頬に影を落とし、薄桃色の紅をはいた小さな唇は、優しい笑みを浮かべている。しかし、どこかしら辞令的な感じのする笑みだ。また、濡れた青葉のような瞳の奥に、そのはかなげな振る舞いと優しい眼差しとは不似合いな、強い意志のきらめきを感じた。

 ――何かが違う。

 しかし、それが何であるのか、突き止めることはできなかった。

 ミルイヒはいまだかつてない――いや、前にもあったような気がする、不思議な想いに囚われていた。

「殿下、わたしは代理人を立てます」

 グラディスの声でミルイヒは我に返った。

 貴族同士の決闘の場合、本人たちが直接戦うようなことはあまりない。昔ならいざ知らず、騎士階級を除く今の貴族たちは、教養程度にしか剣を習っていないし、その身が傷つくことを嫌った。そこで、自らが雇った代理人に代わりに戦ってもらうのである。

 エルネラは優雅に微笑みと共にうなずき、幾分冷めた目つきでミルイヒを見た――ようにミルイヒには見えた。

「セイデーズ公爵は?」

「いえ、わたしは自分で」

 グラディスは勝ち誇ったように鼻で笑った。

「金がかからなくて良いことですな。――代理人、前へ」

 グラディスが指を鳴らすと、群衆の中から背の高い、茶色い髪の男が出てきた。

 ミルイヒは目を見開き、その男の名を叫ばずにいられなかった。

「ランディ!」

「よっ」

 ランディはさわやかな笑みを浮かべて手を挙げ、堂々と三人のところにやってきた。

 観客の中で、ランディとミルイヒを知るものたちは――多くは近衛隊の者たちだったが――ざわめき、事情を知らぬ者たちに口々に話した。

「なぜ、おまえが……」

「どうした? 青い顔をさらに青くさせて」

 たじろいでいるミルイヒを楽しんでいるかのように、ランディは人の悪い笑みを浮かべた。

「青くならずにいられるか」

「何? もう負ける気でいるのか?」

「……」

 ミルイヒは唇を噛んだ。

 そこに、グラディスが二人を見比べるようにして間に入った。

「知り合いなのか……?」

「知り合いもなにも、相思相愛の親友です」

 ランディは軽い口調で言ってのけた。

「親友だと!? まさか貴殿……!」

 グラディスは凄まじい剣幕でランディに詰め寄った。ランディはそれに微笑みで応じた。

「ご心配なく。親友とはいえ、手加減などしません。騎士の名にかけて!」

「しかし……」

 グラディスは疑う目つきである。

「あなたはわたしの腕を見込んだ。わたしはその期待に応えるだけの働きをします。騎士の名にかけて」

 ランディが真面目な顔できっぱりと言うと、グラディスはたじろぎ、不承不承うなずいた。

「それでは始めましょうか」

 エルネラは何事もなかったかのように言った。

 ミルイヒとランディは立会人であるエルネラに剣を渡した。剣を持つ手は白くほっそりとしていて、剣の重みに耐えかねぬようだった。エルネラは剣に仕掛けがされてないかをよく調べ、ふたりに返した。

 そして、決闘を始める前の恒例の言葉を述べる。

「この決闘はエルネラ・レイ・アルヴァーノの婚約者たるにふさわしい者を決めるものである。

 ランディ・フェイス、ミルイヒ・セイデーズ、ここに裁きの神ジェイダに誓え。

 一つ、相手を殺さぬこと。

 一つ、禍根なきこと。

 以上」

 本来、決闘とは生死をかけた勝負である。

 しかし、戦争がなくなって久しい現在、生死をかけた戦いなど、まったくもって馬鹿らしいこととなった。安穏とした平和の中で、大儀よりも、人命の方が重要となったのである。

 ――騎士道は地に堕ちた。

 かつての栄光も名誉もかすみ、今はただ、陽炎のように地の上をゆらゆらと漂うのみである。

 生死と名誉をかけた神聖な決闘は、騎士道のなんたるかを知らぬ者たちの娯楽となって汚された。

 ミルイヒとランディが声高らかに宣誓すると、グラディスとエルネラはふたりから離れ、それぞれの従者と侍女が待つところに戻り、いつの間にか用意された簡易椅子に腰を下ろした。

 エルネラが始めの合図をすると、二人は剣を鞘走らせた。

 歓声がどっと上がった。

「何を考えているんだ、ランディ?」

 軽く剣先を合わせて、ミルイヒは小声で訊いた。

「楽しいこと」

 ランディはきゅっと唇の両端をつり上げ、その剣先を弾く。

「楽しい? 馬鹿げたことだ。この婚約はおまえには関係ないはずだろう?」

「ああ、そうだ。だから手加減なんて一切しないぜ。俺は本気だ。ディアンに格好悪いところは見せたく、ないっ!」

 ランディの鋭い突きを、ミルイヒは唇を噛んで受け流す。金属と金属の擦過音が耳に痛い。

「この婚約を破棄にはしたくないだろ? それなら本気を出すんだ」

「わたしはいつでも本気だ!」

 ミルイヒは真横に薙ぎ払った。ランディは後ろに飛んでかわし、剣を構え直してにやりと笑った。ミルイヒはその様子を忌々しく見た。

 そうだ、ランディの言う通り、こんなことで婚約を破棄したくはない。陛下と約束したのだから。

 だが、わたしはこの男に勝つことができるのだろうか? 試合では一度も勝ったことのない、この男に。

 

「ランディ・フェイス……おもしろい男が出てきたものね」

「姫様……」

 後ろに控えるディアンが、悲しげな声を出した。

「そんな声出さないで、ディアン。わたしは楽しいのよ、ものすごく。あなたはランディ・フェイスを知っていて?」

「お噂はかねがね……。昨日、直接お話しをしました」

「まあ、ディアン! あんな男に引っかかっては駄目よ。でも、剣の腕が立つことは確かよね」

 ディアンは顔を赤らめ、こくりとうなずいた。

「近衛隊で今一番力を付けてきているのは彼らしいわ。ミルイヒは勝つことができるのかしら?」

 剣と剣がぶつかる音がエルネラを高揚させていた。だが、貴婦人らしく扇子で顔を覆っているため、紅潮したそれは他の者には見えない。扇子を握る手が汗ばみ始めていた。

 あっという間に勝負がつくと思っていたが、ミルイヒは意外とよく戦っている。ランディと比べてだいぶ細身の彼は、辛うじてランディの剣を受けているように見えた。

 先ほど間近で見たとき、この人は本当に騎士なのかしら、と思った。およそ日の下で生活しているとは思われない血色の悪い顔、こけた頬、薄い唇、そして何よりもあの灰色の瞳! 覇気のない、虚ろな瞳。

 しかし、無愛想な顔から受ける冷たさとは別のものを、エルネラは感じていた。この人はわたしに好意を持っている……? 四年前、誰もがわたしを見ている中、ひとり背を向けたこの人が?

 観客のざわめきが変わった。物思いから返ると、状況が一転していた。終始押し気味だったランディが、防戦一方にまわっている。

 エルネラは我が目を疑った。先ほどまで躊躇いがちに受けるだけの剣だったミルイヒのそれは、鋭く正確に急所を狙うものとなっていた。また、見事な足捌きであった。じりじりとランディを追いつめていく。

 エルネラは華麗とも言えるミルイヒの剣技に魅入られていた。知らぬ間に、彼の一挙一動に目が行っている。滴り落ちる汗のきらめき、空気を求めてあえぐ口、剣を振るう腕、立ち止まることなく動き続ける脚。あの人の方がずっと華麗だし、うまいのに、どうしてこの人のは目が離せないのかしら?

 これほどの剣技を持つにも関わらず、話題にすら上らなかったのは妙な話である。しかし、それはなぜかうれしいことのように思えた。こんなにたくさんの観客がいなければもっといい。

 ついに決着はついた。

 観客はどよめいた。

 ミルイヒがランディの剣をからめ取ったのである。

「勝負あり! 勝者、ミルイヒ・セイデーズ」

 と、エルネラは立ち上がり、二人がたたずむところへ向かった。なぜか、足取りは軽かった。

 

「やっぱり……やればできるじゃないか」

 ランディは額の汗を拭い、肩で息をしながら言った。

「やっぱり?」

 ランディ以上に汗を流し、息も絶え絶えなミルイヒはようやく声を発した。

 ランディはにやりと笑い、独り言のように言った。

「推測に過ぎなかったんだが、当たりだったようだな」

 ミルイヒはその言葉の意味するところをはかりかねて、眉をひそめた。

「……俺はおまえの本気が見たかったんだ。おまえは剣の才がある。だがおそらく、おまえの自信のなさがそれを抑圧しているんだ。おまえって、いつも自分に自信がないんだよな」

 その言葉を聞いて、ミルイヒは未完成のパズルをようやく完成させたような気分だった。しかし、それは完成させてはならないパズルのように思えた。わたしの自信のなさ――それはたぶん、おまえのせいだ、ランディ。そこにはどこか、悲しみとも恨みともつかぬ暗い想念がある。

 ミルイヒは無理矢理それを振り払った。紅潮していた顔が、いくぶん青ざめる。

「いつだって自信なんかないさ……。それがどうして今突然、自信を持つことができるんだ?」

 ランディはまたにやりと笑う。

「恋する男の強みというやつさ。本当に俺は本気でやったんだからな」

「恋?」

 意外な言葉に、ミルイヒは目を丸くした。

「セイデーズ公爵」

 気づくと、エルネラが側までやってきていた。

 ミルイヒとランディは片膝をついた。

 エルネラはミルイヒの方に寄り、手を伸ばしてミルイヒの顔を上げさせた。

 ミルイヒは、エルネラが手を触れている部分に異様な熱さを感じた。急激な火照りが一瞬にして全身を襲う。動揺した。――先ほどの決闘での熱が収まっていないのだ……おそらく。

 エルネラが、真っ赤になっているであろう自分の顔を間近で見てる。そう思うと、エルネラの顔を直視できず、ぎゅっと目をつぶらなければならなかった。意識すればするほどに、顔が熱くなる。呼吸が乱れる。――先ほどの決闘での疲労が残っているのだ……おそらく。

 エルネラはミルイヒの額に軽くキスした。さわやかなレイエンの花の香が、ミルイヒの鼻孔をくすぐり、頭の中をくらくらさせた。

 なんなのだろう、これは? 先ほどから、わたしはいったいどうしたんだ? ――激しい動揺と動悸を感じた。

「エルネラ殿下!」

 グラディスが青ざめた顔でやってきた。

「ワイズ伯爵、ご覧の通りセイデーズ公爵の勝利に終わりましたわ。金輪際、わたしに私的な贈り物をしたり、面会を求めたりしないで下さい。わたしはセイデーズ公爵の婚約者なのですから」

 伏し目がちに、戸惑うような声音で言うと、エルネラはグラディスに背を向けた。

「殿下、お待ち下さい!」

 泣き出しそうな顔でグラディスはエルネラに追いすがり、そのほっそりとした腕をつかんだ。

 エルネラは小さく悲鳴を上げた。その目は怯えに潤んでいる。

「殿下、お慕いしております! わたしはこんなにもあなたを愛している。それなのに、なぜ、愛してもいない者が婚約者なのですか!?」

 グラディスは無様に取り乱した。必死にその手から逃れようとするエルネラの腕をさらに強くつかみ、抱いて頬ずりせんばかりである。

 観客たちは困惑顔でざわめき、近衛隊とおぼしき者たちは決闘場へ進み出ようとした。しかし、それより一歩早くミルイヒが動き、グラディスの腕を払ってエルネラから放した。

 一足遅れたランディは、驚いたようにミルイヒを見た。

 グラディスは一瞬何が起こったかわからない様子だったが、すぐさま非難の目でミルイヒをにらんだ。

「あなたから言い出した決闘はもう終わったのです。わたしの勝利でね。言ったでしょう、愛は関係ないのだと」

 エルネラは一瞬、驚いたような顔をした。それから、腕をさすりながら、グラディスに残酷とも言える笑みを向けた。先ほどまでの、聖女のような笑みとは対照的なものだ。ミルイヒは、エルネラの隠れた一端を見た気がした。

「そう、愛は関係ないの。本人の意思とは関係ないのよ、この婚約は」

 その言葉には明確な意志があった。今までの消え入りそうな声音でもなかった。

 呆然と立ちつくすグラディスを無視して、エルネラはミルイヒに顔を向けた。ミルイヒはたじろいだ。エルネラは冷たい眼差しでミルイヒを見ている。笑みすら浮かんでいない。

 やはり、この方はわたしが嫌いなのだな……。ミルイヒは決闘に勝利したことをひどい罪悪のように感じた。

「セイデーズ公爵、こちらへ」

 言い捨てるように言うと、ミルイヒに背を向けて歩き出した。

 ミルイヒは動けずに立ちつくしていた。それに気づいたエルネラは、不機嫌な顔つきで振り返った。ミルイヒが自分についてくるのは当たり前という様子である。

「公爵?」

 エルネラの不機嫌な顔もよいものだと、ひそめられた形のよい柳眉を眺めていたミルイヒは我に返った。

「は、はい……何かご用ですか?」

 エルネラの顔はさらに不機嫌になったように思えた。

「……腕から血が出ています。治療して差し上げますわ」

 はっとして、ミルイヒは自分の腕を見た。純白の袖に血がにじんでいる。傷口が開いたのだ。ミルイヒは傷を隠すように、手で覆った。

「いえ、大した傷ではありません。殿下のお手を煩わすだなんて……」

「わたしはあなたの婚約者です。それくらい、させて下さい」

 「婚約者」という言葉が不自然に強調されていた。また、有無を言わせぬ口調だった。

「……はい」

 ミルイヒはエルネラのあとに従った。

 ふたりのやり取りに気づいた者はいなかった。観客たちは決闘の勝負がつくやいなや、決闘の内容を吟味したり、悲喜こもごもに金銭のやり取りをしたり、久々に楽しいものを見れたと足取りも軽く仕事場に帰って行ったりした。一方、グラディスは、従者にもたれかかるようにして、すでにその場を去っていた。

 当事者たちのその後の様子に興味を抱く者はいない。――いや、意味ありげな笑みを浮かべるランディと、人目をはばかる様子の黒髪の青年を除いては。

 遠雷が鳴った。まもなくしてぽつりぽつりと雨が降り始め、人々は大急ぎで「決闘の庭」をあとにした。

 

「ちょっと寒くなってきたわね。ディアン、暖炉に火を」

 エルネラの侍女、ディアンはすぐさま火をおこす準備をし始めた。

 雨で暗くなったため、すでに燭台の火はともされており、ぼんやりと部屋の中を映し出している。

 ミルイヒが連れてこられた部屋は、後宮にほど近い控え室のようであった。国王の接客室ほどの規模も装飾もないが、ミルイヒの私室以上のものであることは確かである。

「さあ、腕を出してご覧なさい」

 エルネラはミルイヒの向かいの肘掛け椅子に座った。木の目の美しいテーブルには、救急箱が置かれている。

 エルネラは救急箱を開き、塗り薬や真新しい包帯を取り出した。ミルイヒは袖をまくり、急いで血に染まった包帯をほどき始める。しかし、片手であるし、血が固まって包帯同士がくっついているので、うまくいかない。

 悪戦苦闘していると、エルネラに腕を取られた。ミルイヒはどきりとした。細くあたたかな指が、自分の腕に触れている……。

「で、殿下……こういうのは、女性には見せられません」

 自分の腕を取り戻そうとするミルイヒの言葉を無視して、エルネラは包帯をほどき始めた。

「決闘での傷ではなかったのね。それに、どこが大したことないですって? ひどい傷だわ。練習か何かで?」

 エルネラは眉をひそめて、赤く口を開いている傷を見ている。

「……ええ、まあ」

「あなたにこんな傷を負わせるなんて、相手は相当なものね」

 消毒液で傷口を拭き、塗り薬をたっぷり塗ったガーゼをあて、包帯を巻く。なかなか手つきがよい。

 手当てが終わると、そっと腕を押し戻された。ようやく腕を取り戻したミルイヒだったが、いまだエルネラの指が触れているような、腕のまわりに妖精でもまとわりついているような、奇妙な錯覚を覚えた。

 その頃合いを見計らったかのように、ディアンがやってきて、テーブルに紅茶を置いていった。

「わたしに話があるのでしょう?」

 ミルイヒは驚いてエルネラを見た。

 エルネラは紅茶を一口飲み、立ちのぼる湯気から透かし見るようにミルイヒを見ている。

「ないの? 仮にも婚約者に何か質問はないのかしら? それともどうでもいい? わたしは単なる婚約者で、たかが政略結婚の相手で、血脈をつなぐ道具?」

「いえ!」

 エルネラのあからさまな物言いに、ミルイヒは戸惑った。

 嫌われている? それはそうだろう。見ず知らずの男と無理矢理結婚させられるのだ――別段、世間一般では珍しくもないことだが。

 だいたい、エルネラは自分に対して冷たい感じがする。他の者にはやさしい微笑みを向けるのに。その微笑みは上辺だけのものかもしれないが、どうして自分には向けてくれないのだろう? 取り繕うことなく、不機嫌をぶつけてくる。決闘場に現れたときの、はかなげな雰囲気すらかけらもない。

 ランディならば、どうやってこういう女性を落とすのだろうか? と、思いかけて、ランディは気の強い女性が苦手であることを思い出した。

 話をしたかったのは事実である。だが、何を話したらよいのかわからず、紅茶に目を落とした。琥珀色の液体は、燭台の淡い光をわずかに反射させている。

「……」

「どうしたの? はっきりしないのね。ワイズ伯爵に啖呵を切った、さっきのあなたはどうしたの?」

 ミルイヒはその言葉で、先ほどの自分を思い出した。あの時は我にもあらず熱くなっていた。あれはきっと、婚約者たる使命感からだったはずだ。

 ミルイヒは目を伏せた。

「……すみません」

 エルネラは眉をひそめた。

「なぜ、謝るの?」

「殿下はわたしを愛しておられない。それなのに結婚を……」

 エルネラの瞳が揺れ動いた。

「それはあなたも同じでしょう? 愛してもいないのに結婚するなんて、わたしたちには当たり前のことだわ。ええ、当たり前のことよ。ワイズ伯爵が言っていることがおかしいのよ」

 投げやりな言い方である。

「しかし、殿下とわたしとでは違います。わたしはこの結婚をけっして拒否しません。ですが、殿下は……」

 エルネラはその先を奪った。

「結婚したくなんかないわよ。誰とも」

 きっぱりとした口調であるが、どこか悲しげでもある。それから躊躇いがちに付け加えた。

「……あなたはそれを変だと思う?」

 ミルイヒは小さく笑みを浮かべた。

「いえ、失礼ながら、殿下は仮面をかぶっておられるようにわたしには見えます」

 エルネラはにらむように目を細めた。

「あなたもそうではなくて?」

「わたしが?」

 ミルイヒは目を見開いた。それは思ってもみないことだ。

「どのような?」

「冷たい、何もかにもに無関心な仮面。あれだけの剣の技量を持っていて、どこか自分に自信がなさそうなのね」

「仮面じゃありませんよ。わたしはその通りの男です。何にも関心がありませんし、自分に自信もありません」

 エルネラは不敵に笑った。

「それじゃあ、あなたは仮面をかぶっていることを忘れてしまっているのね。でも、わたしにはわかるわ。本当に冷徹で無関心な人を知っているから。その人は自信過剰だけど」

 ミルイヒは再び紅茶に目を落とした。ほとんど湯気が出なくなっている。

「殿下はやはり、思った通りの人ですね」

「どのような?」

「おとなしげな面立ちと振る舞いとは裏腹に……」

「粗野でわがまま」

「いえ……ただ、意志の強い方だと」

 エルネラは感心したようにうなずいた。

「わかっているじゃないの。父上に何を言われたかは知らないけど、だいたい想像はつくわ。でも、わたしに結婚を認めさせることは絶対に無理ね。特にあなたでは!」

 もう話すことはないといった体でエルネラは立ち上がり、ミルイヒをかえりみることなく部屋をあとにした。

 一人部屋に取り残されて、ミルイヒは大きく息を吐き出した。何か悪いことでも言ってしまっただろうか? エルネラはえらく不機嫌だった。

 相手を不快にさせないこと――ランディの助言を守れなかった。このようでは、エルネラが言う通り、結婚を認めさせるなどということは、どこか遠くの話のように思えた。

 

 エルネラは思わず叫び声を上げるところだった。

「驚かせないでよ! こんな暗いところからのっそり現れて」

 廊下の曲がり角から現れた黒髪の青年は、目をしばたかせた。

「やあ、何を怒っているんだい?」

「怒ってなんかいないわ!」

 だが、自分でも心の内の不可解な怒りを感じていた。本当に、わたしはいったい何に怒りを感じているの?

「なかなかの腕前だったじゃないの、彼」

 足早に後宮へと向かうエルネラのあとを追いながら、青年は話しかける。

「わたしほどじゃないわ」

「うーん、それはどうかな?」

「やってみればわかるわよ」

「彼は応じないと思うよ。騎士道精神篤そうな男だもの。――ね、話してみてどんな男だったの?」

「意気地なし」

 考えるまもなくその言葉が出ていた。

 

 ミルイヒは馬に拍車を当て、吹きすさぶ風雨や、蹄が跳ね上げる泥水にも気にかけず、ライジェック公爵邸へと急いだ。

 エルネラと話をした王宮の一室で、エルネラのことを考えているうちにそのまま寝てしまい、気が付いたらとっぷりと日が暮れていたのだ。今夜、ライジェック公爵の夜会に招待されているにもかかわらず。

 招待されたといってもライジェック公爵とは特に親しいわけではなく、社交辞令としてのものである。だが、律儀な彼は招待されれば断ることはほとんどなかった。断るとしても、仕事のことでしかない。

 王城の三つの尖塔の真ん中の塔には、巨大な釣り鐘が付いている。その鐘が重々しい音で鳴り始めた。二十三の刻を知らせている。いつもの彼ならば、夜会から切り上げている時間だ。

 最後の鐘が鳴り終わったとき、ミルイヒはライジェック公爵邸にたどり着いた。すぐさま馬を馬丁に預け、屋敷の中へと入る。玄関で召使いにずぶぬれの外套を渡し、タオルを受け取って髪を拭きながら、案内の従者のあとを追う。

 ミルイヒの身長の一・五倍はある、重々しい樫の扉が開けられた。案内の従者がミルイヒの名を上げ、ミルイヒはいつもの通り会場に入ろうとしたのだが、その一歩が踏み出せなかった。

 ――驚きのあまり。

 会場内のすべての人が、ミルイヒに注目していた。

 先ほどまで談話していただろう紳士淑女、ダンスをしていただろう男女、果ては給仕の者までが、まるで時が止まったかのように動きを止め、楽師が奏でるワルツだけが虚しく流れている。

 いつにないことだ。いつもならば、ミルイヒの入退席に人々は道端の石ころほどにも気を止めない。また、ミルイヒとしてもその方が気が楽だった。

 たじろぎを顔に表すことなく、恐る恐る会場に足を踏み入れると、時は再び流れ出した。談話していた者たちはミルイヒの方をちらちら見ながら会話に戻り、ダンスをしていた者たちは流れる曲に身を任せ、給仕はそれぞれの仕事に戻った。

 ミルイヒは三歩と歩かぬうちにきらびやかなドレスに三方を囲まれ、立ち止まることを余儀なくさせた。

 初めてのことに目をしばたかせていると、目の前の黄緑のドレスを着た金髪の女性が、微笑みを浮かべて話しかけてきた。

「ミルイヒ様、聞きましてよ、今日の決闘のこと」

 ミルイヒはこの女性の名を思い出すことができなかった。

 夜会に顔を出す貴族の名はたいてい覚えているのだが、顔と一致させることはなかなかに難しい。話をしたことがなければなおさらである。

 左隣のピンクのドレスの女性も口を開いた。

「あら、わたくしはこの目で見ましてよ」

 黄緑のドレスの女性に自慢するように言う。

「剛の剣で知られるランディ・フェイス殿をいとも簡単にあしらわれたのよ。――素敵でしたわ」

「本当に、まるで舞踏のようでしたわ。さぞかしダンスの方もお得意なんでしょうね」

 右隣の青いドレスの女性が言った。

「ええ、まあ、たしなみ程度には……」

「わたくしと踊って下さる?」

 黄緑とピンクのドレスの女性たちは、抜け駆けされたとばかりに青いドレスの女性をにらんだ。

 ミルイヒは心臓が飛び跳ねるのを感じた。「ええ、喜んで」

 青いドレスの女性の手を取り、中央へ進み出た。

 

「おい、聞いたぞ聞いたぞ」

 ミルイヒは何も話したくはないという風に、ランディに背を向けて寝返りをうった。湿り気を帯びた芝生がちくちくと頬に当たる。

「眠いんだ。あとにしてくれ」

「お、朝帰りか?」

 ランディはミルイヒの不機嫌にもかかわらず、横に腰を下ろしてひやかした。

「婚約してる身でそんなことできるか」

「昨夜のライジェック公爵邸ではすごかったらしいじゃないか。ダンスに引っ張りだこだったとか」

 ミルイヒは密かにため息をついた。誰から聞いてきたのか……。ランディの耳は早い。

「なんだ、あれはやはり本当だったんだな。夢かと思っていた」

「おまえがダンスも得意とは知らなかったよ」

「舞踏は剣と通じるところがあるからな。剣舞っていうのがあるくらいだ。だが、わたしだって自分が得意であるなんて知らなかった。いつも同じ人としか踊っていなかったから」

 ランディは納得したようにうなずいた。

 ミルイヒは続けた。

「しかし、皆、現金なものだな。決闘に勝った途端これだ。一度も話したことがない者すら話しかけてくる。わたしは何も変わってはいないのに」

 ランディはその最後の言葉に含み笑いをした。

「そういうものさ。人は表面でしか他人を見ない。おまえは特に人を寄せ付けないオーラを発しているからな。……昨日、殿下と何かあったのか?」

 ミルイヒはランディをちらりと見、それから再び背を向けた。

「嫌われた……。誰とも結婚したくないんだとさ。――そうそう、おまえが言っていたような人じゃなかったぞ。自分をしっかり持っている方だ。そういうのって何かうらやましく思える。わたしは何かに動かされないと生きていけない」

 ランディはため息をついた。

「おまえも……自分の思う通りに動いてみたらどうなんだ?」

「……さあ、自分が何を思っているかなんてわからないよ」

 ミルイヒは目を伏せ、そのまま眠りについた。

 

「何かと話題に上るようになったんじゃないの、彼」

「それがどうしたというの?」

 エルネラは汗と埃にまみれた顔をタオルで拭きながら、冷たく言った。

 黒髪の青年は髪を掻き上げ、木剣を地面に突き立てて寄りかかった。

「気にならないの?」

「なぜ?」

「好きなんだろう、彼のこと」

 エルネラは口をぽかんと開け、タオルを落とした。間をおいて、どきどきと心臓が高鳴るのを感じた。

「な……」

 声が出なかった。先ほどの剣の修練の時の熱がよみがえってきたように、顔が火照るのがわかった。

 青年はあっけらかんと笑った。

「正直だなぁ」

「ど、どうして? わたし、彼のことなんか……好きだなんて……」

「どうしてわかったかって? そんなのは君の振る舞いを見れば明白だよ。ワイズ伯爵を始めとするその他の貴族たちには君はやさしすぎるのだもの。やさしい社交辞令の仮面。その下には何の感情もない。けれど、彼には冷たい。何の関心もない風だ」

「その通り。彼には関心を持ってないわ」

 エルネラはできるだけ平静を保って言った。だが、嘘だ、と頭の奥で声がする。青年の指摘は正しい。ミルイヒへの自分の感情は好意以上のものだ。しかし、認めたくはない。あんな……

「あんな……自分を偽っているような人なんて」

 青年は微笑んだ。

「同族嫌悪ってやつだね」

 それには反論できなかった。

「そうね。わたしは彼が嫌いだわ。それ以外の何でもないの」

「はいはい、ひねくれ者のお姫様。無関心と嫌悪はまるで違うけど、好意と嫌悪は表裏一体なんだよ」

 エルネラはその言葉を無視し、青年が腰に下げている真剣を奪った。青年はすぐさま奪い返し、口を尖らせた。

「剣士の命に勝手に触れないでほしいな」

「だって、あなた、わたしに練習剣(フルーレ)すら触らせてくれないんですもの」

「何か企んでいるような人に真剣は渡せません」

 エルネラが頬を膨らませて再び木剣を手にしたとき、庭の入り口のところからディアンの叫び声が聞こえてきた。

「姫様ー、セイデーズ公爵様が面会を求めておいでです!」

 

 昨日、ミルイヒと話をした部屋に入ると、ミルイヒは肘掛け椅子から立ち上がり、会釈した。

 エルネラはミルイヒを見た途端、息苦しさを感じた。妙に意識している。あの人があんな事を言うから……。

 動揺と顔の火照りを抑えようと、必死に心を落ち着けようとした。だから、その顔は非常に不機嫌そうに見えた。

「まだ、怒っておいでですか?」

 ミルイヒは恐る恐る言った。

「怒ってなんかいないわ」

 エルネラは眉をひそめてそのように言いかけたが、

「――いえ、そうね、怒っているわ」

 ミルイヒは床に目を落とした。

「何かお気に触るようなことを言ったのならお許し下さい」

 エルネラはその言葉を推し量るようにしばらく沈黙した。この人はわたしが何に怒っているのか、わかっているのかしら?

 今日のミルイヒの仮面は強固だった。何かを読みとることができない。エルネラの怒りに心痛めているのか、それとも、単なる形式でそのように言ったのか。何もわからないのがもどかしい。

「……まあ、お座りなさい」

 二人が椅子に座ると、ディアンが紅茶を運んできた。エルネラはディアンが紅茶の用意を済ませて部屋を立ち去ってから、おもむろに言い出した。

「あなた、わたしのことをどう思っているの?」

 言ってしまってから後悔した。わたしはこの人に何を望んでいるのかしら?

 ミルイヒは突然の質問に驚いたように目をしばたかせた。

「……前に、わたしは殿下を愛していないと言いました。訂正しましょう。わたしは殿下を愛します」

 思ってもみない言葉に衝撃を受けたが、エルネラは嘲笑った。

「これから愛する努力をすると言うの?」

 ミルイヒはわずかに首を傾げた。

「努力によって愛が生まれるかはわかりません。けれど、全くないよりはいいのではないでしょうか」

 エルネラは怒りがこみ上げてくるのがわかった。椅子の肘掛けをぎゅっと握った。

「無理しなくていいのよ。あなたもこの婚約に乗り気ではないのでしょう。だったら破棄すればいいわ!」

 ミルイヒはエルネラの語気に気圧されたようだった。

「乗り気でないからといって破棄することはできません。これはそのような問題でないことぐらい、殿下にもわかっておられるはずです」

「そうね。あなたにとっては、傾いている家を立て直すのに必要な婚約ですものね」

 ミルイヒの灰色の瞳が暗く淀んだ。何とも言えぬ哀愁があった。エルネラはその瞳に胸が締めつけられる思いだった。

 ミルイヒは目を伏せた。

「わたしは……富が欲しくて結婚したいわけではありません。家のことはどうでもいいことです。わたしは……」

 ミルイヒは何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。

 エルネラはミルイヒを見続けることができず、立ち上がって身を翻し、扉に向かった。

それからノブに手をかけ、背を向けたまま、

「あなたなんか嫌いよ」

 と、限りなく冷たい声で言い放つと、控え室をあとにした。

 エルネラは扉を閉めるとため息をついた。

 ミルイヒが富のために結婚を望んでいるのではないことくらいわかっている。そのような人でないくらいわかっている。彼はただ、国王の言葉に従順たらんとしているだけなのだ。それが許せなかった。決闘の前に見せた好意の素振りは嘘だったのか、それとも、自分の思い違いだったのか。

 ミルイヒの言動に振り回されている自分に気づき、エルネラは首を振った。わたしはいったい何を考えているのかしら? わたしは彼が嫌いなはずよ。彼が何を思っていようとどうだっていいはずよ。それなのになぜ、こんなに胸が苦しいのかしら?

 その理由がわからぬエルネラではなかった。だが、認めたくはなかった。

 

 ミルイヒは漆喰の塗られた天井を見上げ、ため息をついた。また怒らせてしまった。昨日怒らせてしまったこと――その理由はいまだわからないが――を謝りに来たというのに。

 しかし、自分が結婚するのは富のためだと思われていたのはショックなことだった。お金なんて今さら欲しいとは思わない。自分は国王に従うまでだ。国王がエルネラとの婚約を決めた。そして、結婚を望んでいる。逆らう理由はない。そのようなことは考えたこともない。

 だが、ミルイヒの心は揺らいでいた。エルネラがああまで自分のことを嫌っているのに、無理強いするのはどうか? 彼女の心を考えていなかった。彼女のことを思うなら、この婚約は破棄した方がいい。

 「彼女のことを思うなら」――自分は彼女のことをどう思っているのだろう。「愛する」とは言った。結婚したらあかの他人ではないのだから、それは当然だろう。しかし、今現在の自分の気持ちは?

 ミルイヒはまぶたを閉じかけてすぐに開いた。このままではまた寝てしまう。どうもここは居心地が良すぎる。

 廊下に出て、後宮とは反対方向に歩いた。

 そろそろ練兵の時間である。練兵場へと向かう道すがら、ランディと出会った。

「おい、捜したぞ」

「何か用か?」

「何かじゃないだろう。第六班は王城周りの警備になったじゃないか」

 ミルイヒは目をしばたかせた。

「聞いてない」

 ランディはあきれた顔をした。

「殿下に嫌われたのがよっぽどショックだったようだな。――今朝、班長が言ってたじゃないか。切り裂き魔の厳重警戒令が出されたって。それで、練兵の時間も警備にあたるって」

 ミルイヒは眉をひそめた。

「切り裂き魔?」

 ランディは疑うように半眼になり、恐る恐る訊いた。

「まさか、今話題の切り裂き魔を知らないとは言わないよな?」

「知らない」

 ランディはため息をついた。

「もう少し周りに目を向けろよな。――昨今、王都を騒がせている人斬りだよ。貴賤を問わずに手当たり次第に人を殺している。本来、王都のことは王都警備隊の管轄だが、切り裂き魔はかなり腕の立つ者らしい。王都警備隊だけではお手上げなんだとさ。それで我が近衛隊も狩り出されたわけだ」

「ふーん、つゆ知らなかったな。それで、どれくらいの規模なんだ? 近衛隊が出るくらいだ。かなりのものなんだろう?」

「それが驚いたことに、たった一人らしい」

 ミルイヒは我が耳を疑った。

「一人? たった一人に王都警備隊五千人が手こずっているのか? 今さら近衛隊五百人が増えたとて大して変わらんだろうに」

「まあそうだろうけど、切り裂き魔は神出鬼没だ。陛下をお守りする我らとしては、がっちりと王城の守りを固めていないと」

 ミルイヒはうなずきかけ、小首を傾げた。そして、傷のまだ癒えぬ左腕をさすった。

「……まさか、あれが……まさかな」

「どうかしたのか?」

 ミルイヒは何でもないという風に手を振った。

 二、三日前、自分を襲った人物が切り裂き魔と同一の者と裏付けるものは何もないし、同一人物だからといってどうということもない。だが、あれだけの技量を持つのなら、王都警備隊が手こずるのもうなずける。

「急ごうぜ。まーた班長に怒られちまう」

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