月下残影

03.破棄

 最後にエルネラと会ってから二週間が経とうとしていた。

 近衛隊が王城警備を厳重にしても切り裂き魔はいっこうに捕まらず、二、三日前にまた一人殺された。だが、貴族たちにさほどの危機感を与えているようには思えなかった。毎夜、夜会はどこかの貴族の屋敷で繰り広げられる。だが、ミルイヒはこの二週間、夜会に出席することはなかった。

 秋色はいよいよ濃くなり、雲一つない空は高く、草木は色を変え始めた。澄んだ秋風は昼とはいえ肌寒さを帯びている。

 ミルイヒはぶるっと身体を震わせて目覚めた。外套を身体に巻き付けていても、外で昼寝をするには寒くなってきた。

「そろそろこんなところで昼寝をするのはやめた方がいいぞ。風邪を引く。まったく、公爵様の姿には見えねぇな」

 ミルイヒは目をこすり、腕組みをして自分を見下ろしているランディを見上げた。例の、何か企んでいる笑みを浮かべている。

「まだ、落ち込んでいるのか?」

「落ち込んでいる? 別に落ち込んでいやしない」

 ランディはため息をつきながら何度もうなずいた。

「ああ、わかってるさ。おまえは自分をわかってない奴だ。しかし、気づいたときには遅いときもある。それをよーく覚えておくんだな」

 ミルイヒは眉をひそめた。この男は時々、訳のわからないことを言う。

「ほれ、愛しの想い人からのラヴ・レターだ」

 ランディは懐から手紙を取り出し、無造作にミルイヒに投げ渡した。ミルイヒは慌てて受け取り、ランディをにらんだ。ランディはその様子を面白がるように鼻で笑った。

「そう怖い顔するなよ。なんにもしてないって」

「……わかってる。ディアンだろう?」

 ため息をつきながら手紙に目を落とした。羽のような模様が散っている紙に、レイエンの花の封蝋印。封を切り、開くと、レイエンの花の甘酸っぱい香りがふわりと流れ出た。なんだか、せつない気分にさせる香りだ。

 手紙を読み終わり、丁寧にたたんで封筒に戻した。それからしばらく封蝋を見つめていたが、意を決したように立ち上がった。

「なんだ、なんの反応もなし?」

 ランディは不服そうに口を尖らせた。

「何を期待しているのかわからないが、殿下が望んでおられるんだ」

 ランディはため息をついた。

「時には反抗心を持つのもいいもんだぜ? おまえ、反抗期を知らないだろ?」

 ミルイヒはその言葉を無視して歩き出した。殿下が望むなら殿下の望むままに、わたしは決闘するし、婚約を破棄しよう。それでいいんだ。それはどこか投げやりな感情だった。

 心の底にわだかまるもやもやが足取りを重くさせていた。知らず手に汗を握っている。明るい日差しにも関わらず、世界が暗くなったように思えた。

 

「後宮に忍び込むのは結構簡単なんだ。王城内にある五つの庭がすべてつながっていることは意外と知られていない事実だ」

「つながっている? すべて離れたところにあるじゃないか。接点はないぞ」

 ミルイヒはいつもの昼寝の庭を出ようとしてランディに止められ、庭の中央にある噴水に連れてこられた。

「これだ」

 ランディは足で指し示した。それは、噴水に水を送っているポンプと下水道があるところへの入り口だった。鉄でできた入り口の蓋は、ところどころ錆と苔が付いていた。

 ミルイヒは眉をひそめ、不審そうにランディを振り返った。

「この中に入るのか?」

 ランディは片目をつぶり、不敵に笑った。

「へへ、なかなかの盲点だろう? おきれいな貴族さん方は入ろうだなんて思いもよらないだろうな」

 ランディは鉄の板に埋め込まれている取っ手を持ち上げ、一息に引き上げた。ぽっかりと暗い穴が口を開ける。横の壁に、昇降のための簡易の取っ手が付いている。降りるときに取れたりしないだろうな、とミルイヒは心なしか不安になった。

 ランディはミルイヒの不安をよそに、慣れた様子で飛び降りるようにして降りていった。ミルイヒはため息をつき、人目をはばかるように周りを見回してから、思い切って飛び込んだ。

 底について、ミルイヒはあまりの異臭にすぐさま外套で鼻を覆った。辺りを照らす明かりは、今入ってきた入り口からの頼りない光しかない。一歩先は淀んだ細い川が緩やかに流れている。左右に延びる通路の先は真っ暗で何も見えやしない。

「ちょっと待てよ。今、カンテラに火をつけるから」

 おそらく、ここに置きっぱなしにしてあるものだろう。ランディは昇降取っ手の脇にしゃがみ込み、カンテラに火をつけ始めた。

「しょっちゅう来ているようだな」

「まあな。けど、入るのはここからだけだ。あとの三つは人目に付くからな」

 王城にある五つの庭のうち、ランディの言うところの「昼寝の庭」が一番人気がない。昼寝に最適なのにほとんど人が寄りつかないのはどういうことか、ミルイヒには不思議だった。

 ようやく火がともされ、ミルイヒはランディの案内で歩を進めた。

 二人のブーツの音が、高らかに下水道内に響き渡る。時折、ネズミと思しきものが足元を走り抜けていく音、天井に付いている水滴が下水に落ちる音がする。通路はほとんど一本道で、分かれていることはあまりなかったが、ランディは迷うことなく進んだ。

「こうやって、幾度となく危ない橋を渡ってきたのだな。おまえが今まで生きているのが不思議だよ」

 ミルイヒはあきれ果てたように言った。

「命に関わるほど危ないことはしてないって。あまり知られていないことだが、俺は堅実派なの。冒険はしない主義なの」

「どうだか」

 ミルイヒの聞こえよがしのため息は大きく響き渡った。この分では後宮の半分の女性が餌食になっているに違いない。

「そろそろだぜ。本当にいいんだな? 覚悟はできてるのか?」

「なんの覚悟だ?」

 その問いに、ランディはにやにや笑いを返すだけだった。

 

 エルネラは噴水の縁に腰掛け、いつもの練習着姿で鉄の蓋が開くのをじっと待っていた。

 この二週間考えた結果がこれだった。やはりこれしかなかった。

 ――ミルイヒとの決闘。

 これだけが婚約を破棄できる唯一の手段。父王を泣き落とす手もなくはない。だが、それは卑怯な手だ。父王はエルネラの言うことなら何でも聞くのだから。

 自らの手でミルイヒに婚約の破棄を言わせたい。忠誠心篤い彼に何を言っても無駄だということはわかった。それならばその騎士道精神を逆手にとってやればいい。

 すなわち、決闘だ。

 しかし、もしそれに応じなければ?

 エルネラは首を振った。――いや、彼はきっと応じる。婦女子に剣を向けることは騎士道精神に反することだが、今はエルネラは騎士だ。剣を持つ騎士なのだ!

 エルネラは重みを確かめるように今一度剣を抜き、天にかざした。中天より傾いた太陽が剣先にかかっている。銀の剣身は発光し、白い輝きでエルネラの目を射る。エルネラは目をすがめてその剣身の美しさに見惚れ、慎重に鞘に戻した。

 この二週間、必死に剣の修練をした。一朝一夕でどうなるものではないが、何かに打ち込んでいないと心が萎えてしまいそうだった。

 ――ミルイヒへの想いで。

 それが好意であれ、嫌悪であれ、心に迷いを生じさせるには十分なものだった。

 正直言って、ミルイヒと自分の技量を比べるなら、ミルイヒの方が間違いなく上だ。相手の技量を正確に推し量れないほど愚かではない。だからこそ、神経を研ぎ澄ませ、無心になる必要がある。そこに一つの活路がある。

 鉄の蓋がカタカタと動いた。

 エルネラは吹き流しの髪を無造作に一つにまとめて立ち上がり、近くに寄った。

 鉄の蓋が開き、まず、ランディの気取った顔が現れた。

「殿下、お連れ致しました」

 ランディは首尾よくいったとのウィンクを送ってきた。

 エルネラは目を細めて微笑んだ。

「ご苦労様」

 

 ミルイヒは頭上の光に目を細め、手をかざした。下水道の散策はとても長く感じられたが、実際はさほど経ってはいないようだった。

 ランディのあとを追って縦穴を上り、ランディの手を借りて外に顔を出すと、目の前にエルネラが立っていた。

 いつもの彼女とは違う。腰まである美しい金髪を首の後ろで束ね、薄茶の男物のチュニックを着、編み上げのブーツに少し大きめのズボンの裾をたくしこみ、いささか彼女には長すぎると思える細身剣(レイピア)()いている。そのレイピアにはなぜか見覚えがあった。

 まさか、殿下自身が決闘するだなんて言わないだろうな。しかし、そうとしか思えない格好だ。

「お久しぶりです」

 ミルイヒは会釈した。

 エルネラはそれに応えず、いつになく厳しい顔でレイピアをおもむろに抜き、ミルイヒに鞘を投げつけた。

 それは古来からある、決闘の申し出の合図だった。

 ミルイヒはそれを受け止めた。漆塗りに銀細工を細かくあしらった鞘――ランディの鞘に似ている。ちらりと横目でランディを見ると、丸腰だった。

 ミルイヒは密かにため息をついた。何を考えているのやら……。

「まさか、代理人を立てないとは言わないでしょうね?」

「わたし自ら決闘します」

 エルネラは有無を言わせぬ口調できっぱりと言った。新緑の瞳が鮮やかに輝く。

「からかわないで下さい」

 ミルイヒは鞘を地面に放り投げた。乾いた音を立てて転がる。

「わたしは真面目よ。遊びではなく、きちんと剣を習ったし、毎日の修練も欠かしてはいないわ」

「ミルイヒ、それは本当のことだ」

 疑う目つきのミルイヒに、ランディは鞘を拾いながら言った。それから、はにかんで付け加えた。

「……おそらく、な」

「あまり甘く見ないことね。わたしは最高の剣士から習ったのよ」

「しかし、女性に刃を向けることはできません。しかも、王家の方にだなんてなおさらです」

 エルネラはレイピアをひゅっと振り、切っ先をミルイヒに向けた。さまにはなっている。

「忘れなさい。わたしは今、騎士だわ」

 きゅっと口を引き結び、眉間に一本しわが入った厳しい顔は、普段の彼女にあらぬ峻烈な美しさがあった。はかなさはどこにもない。

 ミルイヒはその顔をじっと見つめた。もしかしたら見とれていたのかもしれない。

 ――これが本来の彼女の姿だ。

「……できません」

 エルネラはきっとミルイヒをにらみ、ミルイヒの胸元でレイピアを振るった。ミルイヒは動かなかった――いや、動けなかったのだ。エルネラの気迫がミルイヒを立ち尽くさせた。

 ぴっとボタンが一つ弾け飛び、ミルイヒの白い外套は無造作に地面に落ちた。

 ミルイヒは息を吐き出すことができなかった。

「……」

 エルネラはレイピアの先で落ちた外套をついと拾い上げ、そのまま空に大きく放り上げた。外套は限りなく青い空にひらと舞い、エルネラの目の前まで落ちてくると、エルネラの鋭い一突きによって串刺された。その切っ先はミルイヒの首を指している。

「わたしと決闘しなさい。これは……」

 エルネラは一瞬言い淀み、

「命令よ」

「わかりました」

 ミルイヒは目を伏せた。一つ深呼吸をすると腰のレイピアの柄に手をかけ、一気に抜き放った。そして、黒い無地の鞘をエルネラにほうった。

 エルネラは喜びをあらわにそれを受け取った。ミルイヒはその様子を苦々しく思った。

「それで、ここで行うんですか?」

 ミルイヒは辺りを見回した。

 この「後宮の庭」は非常に広いようだった。辺りは一面草木に覆われ、庭と言うより森であった。木々の合間から後宮の建物と思しきものが見えなければ、樹上高くにそびえる三つの尖塔がなければ、ここが王都であるということを疑ってしまう。

 だが、なんであれここは後宮なのだ。国王以外の成人男子禁制の場所。そこに二人も男がいることが見つかれば、決闘どころの騒ぎではない。

 昼日中の噴水のそばでは人も来ようし、剣と剣がぶつかり合う音は、この場所では人がいるところまで届いてしまいそうだった。

「いえ、もっと奥の方よ。――安心して。ここの人間は庭の入り口付近からそうそう中に入ったりしないわ。薄気味悪がってね。この通り、入り口付近はともかく、荒れ放題だから。この庭は王城にある他の四つの庭を合わせたよりも広いのよ。ずっと昔はこの広大な庭を管理していた庭師がいたらしいんだけど、奇妙な事件が……いえ、そのような話はどうでもいいわね」

 エルネラは先に立って、庭の奥深くへと進んでいった。進むごとにいよいよもって森の様相を呈し、辺りは昼間とは思えないほど暗くなった。小鳥や様々な虫の鳴き声が辺りを埋め尽くし、時折、小動物が丈高い草の中を走っていくような音も聞こえた。

「この辺でいいでしょう」

 エルネラは、突如ぽっかりとひらけた場所に来て、立ち止まった。

 日がさんさんと何にも遮られることなく差し、下生えはさほど生えてはおらず――いや、もとは生えていたのだろうが、踏みにじられて徐々になくなったという感じの、裸の地面が見えている。その端に、白亜のベンチがうち捨てられるようにしてある。

「さて、始めましょうか」

 立会人であるランディが、中央に進み出て言った。

 エルネラとミルイヒは、ランディにレイピアを渡した。

 ランディがレイピアを調べる間、ミルイヒは徐々に心臓が高鳴るのを感じていた。なぜこんなにも落ち着かないのだろうか? 何を迷っているのだろうか? 殿下と決闘することか、それとも婚約の破棄か、それとも……。

 ミルイヒはすべてを心の外に閉め出そうとした。何も考えるな。しかし、その意思とは裏腹に、ミルイヒの心をかき乱すものがあった。その正体はわからない。だが、心なしかせつなかった。

 ランディはふたりにレイピアを返した。

「この決闘はエルネラ・レイ・アルヴァーノとミルイヒ・セイデーズの婚約を破棄するか否かを決めるものである。エルネラ・レイ・アルヴァーノが勝てば破棄、ミルイヒ・セイデーズが勝てば継続となる。

 エルネラ・レイ・アルヴァーノ、ミルイヒ・セイデーズ、ここに裁きの神ジェイダに誓え。

 一つ、相手に殺さぬこと。

 一つ、禍根なきこと。

 以上」

 ミルイヒは復唱しながら、もう決して後戻りはできないのだと思った。これは絶対の宣誓。これを破ることは騎士の称号を剥奪されるよりも不名誉なこと。

 もう迷うな。剣がすべてを決めてくれるはずだ。それが正しい道なのだ。

 エルネラとミルイヒはレイピアを構えて向かい合った。

 

 エルネラにはつゆの迷いもなかった。心は夜の湖面のごとく静かだった。

 身も心も剣と一体になっていた。修練の時でさえ、これほどの一体感を感じたことはない。

 二人は初動の構えのままぴくりとも動かなかった。風が吹いてもその存在を知らぬかのように。張りつめたまま見つめ合い、幾ほどの時が流れただろうか。

 ランディは業を煮やし、金のコインを二人の間に空高くほうった。コインは陽光にきらめき、くるくると回りながら二人が見つめ合う視線の間を通り、乾いた音を立てて地面に落ちるかに見えた。

 ――その一瞬!

 コインが地面にあたった音の代わりのように、レイピアは鋭い音を立てて重なり合った。

 そのあとは凄まじいものだった。

 互いに必殺の突きの体勢に持ち込ませぬよう、牽制の突きを次々と繰り出した。しかし、その突きだとて軽いものではない。受け損ねればたちまち致命的なものとなる。突きを繰り出しつつ、相手の隙を見計らう。しかし、今のところ互いに隙はなかった。

 エルネラはミルイヒの剣技に辛うじてついていった。ミルイヒの手首の返し、足捌きは想像以上に速く、驚嘆に値する。しかし、エルネラも負けてはいなかった。風に舞う羽毛のごとく柔軟に動き、ミルイヒがこれぞと思う攻撃を受け流し、すり抜けた。

 エルネラは早く決着をつけたかった。今、辛うじてミルイヒの剣を受けていることすら驚異に思える。自分がこれほどまでできるとは思ってもみなかった。

 しかし、エルネラは女でミルイヒは男であるというどうしようもない事実が、大きな壁となって立ちはだかっている。体力的にはどうやったってエルネラに勝ち目はない。

 早く決めなければ! しかし、その隙はまるでない。

 エルネラに徐々に焦りが募り始めた。その焦りが心・技・体の一体を崩した。その三位一体がエルネラの実力を遺憾なく発揮させていたのに。そして、三位一体の崩れは無駄な動きを生じさせ、体力は急速に奪われていった。

 エルネラの額に汗が玉のように浮かんでいた。呼吸は荒々しくなり、剣の切れには精彩がない。

 それなのに、どうしてわたしはまだこの人の剣を受けていられるのだろう? わたしはこんなにも隙だらけなのに、どうしてこの人は……。

 その疑問の答えを探すように、エルネラはミルイヒを見た。

 エルネラは驚いた。

 ミルイヒの剣にも精彩がなく、舞うような足捌きはすっかりなりを潜めていた。だからこそ、エルネラはその剣を受けることができていたのだ。剣を受けるだけで精一杯で、今まで気づかなかった。突然、どうしたというの?

 一つの答えがエルネラの脳裏をかすめた。しかし、それはあってはならないことだし、許せないことだった。

 まさか、負ける気でいるの?

 エルネラはかっと顔を赤くした。怒りにわなわなと唇が震える。あなたはこの婚約を破棄したいの? 婚約の破棄はエルネラが望んだことだ。だが、ミルイヒがそれを望むことは許せない――いや、許さない。絶対に!

 いいわ。それなら決着をつけてやる。

 エルネラは自暴自棄となり、まっすぐにミルイヒに突っ込んだ。案の定、ミルイヒはそれを好機とは取らず、身を引いた。エルネラはそこへ渾身の突きを入れた。ミルイヒはそれを受けることができなかった――いや、できただろうが、エルネラが思うに受けなかったのだ。

 エルネラはミルイヒの胸に切っ先が触れるか触れないかのところで剣を止めた。

「勝負あり。勝者、エルネラ・レイ・アルヴァーノ!」

 ランディのよくとおる低い声が、神への荘厳な宣誓のように響き渡った。

 エルネラはレイピアをのろのろとした動作で収め、天を仰いで目をつぶった。動きを止めた身体は急激に火照り、それを癒す涼風が心地よかった。

 だが、心の瞋恚は癒されなかった。勝ったというのに、婚約は破棄されたというのに、ちっともうれしくなどなかった。

 ミルイヒもレイピアを収め、一息つくとエルネラのそばに寄ってきた。エルネラはにらんだ。だが、ミルイヒはそれに気づかぬ様子で握手を求める手を差し出してきた。

「見事でした」

 汗一つない涼しい顔で、ミルイヒは言ってのけた。

「……」

 エルネラはミルイヒをにらんだまま、勢いよくその手をはたいた。ランディは驚いて目を丸くしたが、ミルイヒはなんの反応も表さなかった。

「もう……もう二度とわたしの前に現れないで」

 できるだけ平静に言おうとしたが、うまくいかなかった。その声は怒りに震え、途切れ途切れにしか口から出なかった。

 エルネラはさっと踵を返し、走るようにしてその場を去った。

 

 ミルイヒはうなだれ、ため息をついた。エルネラはかなり怒っている様子だった。婚約が破棄できたというのに、何をそんなに憤っているのだろう?

 しかし、彼女の剣技はすばらしかった。女でなければさぞかしすばらしい剣士となり、彼女の兄にして近衛隊隊長であるヴァルアのように、王国の一軍を任されもしたろう。

「おい」

 声をかけられて振り向くと、不機嫌な顔をした者がもうひとりいた。

「どうしてこんなバカなことをしたんだ?」

 ランディはいつになく真剣な顔をしていた。

「バカなこと?」

 ランディは苛立ちもあらわに舌打ちし、脳髄に響くような低い声で言った。

「手を抜いただろう」

 ミルイヒは目を丸くし、勢いよく首を振った。

「嘘をつくな! 最初はともかく、そのあとはどうだ!? まるで初めて剣を握った見習い騎士のようだったぞ! 型は滅茶苦茶、足はふらふらと定まらない。そのようじゃ近衛にはいられないぞ」

 それはいくら何でも誇張が過ぎるのではないか? ミルイヒは眉をひそめた。

 だが、身体が思うように動かなかったのは事実だった。なぜかレイピアがとてつもなく重く感じられ、振るうのがやっとだった。

「わたしは真剣にやった。これがわたしの実力なんだ。殿下の剣技はすばらしかった」

「確かにすばらしかったさ。しかし、俺とやったときのおまえはもっとすばらしかったはずだ」

 ミルイヒは力なく首を振った。あれは何かの間違いだったんだ。

「なんであれ、すべてはもう終わった。グラスからこぼれたワインは元には戻らない」

「そして、絨毯に染みが残る」

「わたしは後悔などしていない。――いいじゃないか。殿下は婚約を嫌がっておられたし、わたしだとて自ら望んだわけじゃない。誰も困ることはない。……まあ、陛下は残念がられるだろうが」

 ランディは疑うような目つきでミルイヒを見、それから諦めたようにため息をついた。

「おまえがいいって言うならいいさ。今はいい。そのうちわかる。そのうち、な。そして、それを知ったとき、おまえは……」

 と、独り言のようにつぶやき、踵を返した。

「そろそろ勤務時間だ。戻るぞ」

 その背中が無言の圧力をかけてくるようだった。

 ミルイヒは苦々しく唇を噛んだ。何が不満なんだ、ランディ。おまえはいつも肝心なところをはっきり言わない。

 ――婚約は破棄された。

 ミルイヒはそれで憑き物が落ちるような気がしていた。エルネラを初めて見た時に目覚めさせられ、初めて会った時から自分をとらえ続けている想い。その訳のわからぬ、自分を悩ませてやまない想いから解放されるだろうと思っていた。

 しかし、それどころか、その想いはいや増した。抑えようのない、激しく熱い風がミルイヒの心の中に吹き荒れていた。その風は行き場のないまま、ミルイヒを苛ませた。

 どうしたらこの風を解放できるのだろう?

 

 エルネラはいつのまにか庭の中を闇雲に走っていた。視界はかすんでよく見えない。嗚咽しながら走るのは苦しかった。しかし、どこでもいい、どこか遠くへと行きたかった。呼吸にあえぎ、想いにつぶれる――こんな心は張り裂けてしまえばいい!

 エルネラは下草に足を取られ、見事に転んだ。そしてそのまま、大の字になって叫ぶように泣いた。今は何も考えたくない。泣き叫ぶわけを。ミルイヒのことを。

 ひとしきり泣き叫ぶと、顔を上げた。その顔はひどいものだった。汗と涙と土埃が混ざり合い、金の髪のほつれが顔に張り付いていた。目は真っ赤に充血している。

 目の前にはあの忌まわしい決闘の場があった。闇雲に走るうちに一回りしてきたらしい。

 エルネラは嗚咽しながらよろよろと立ち上がり、そのひらけた場所に歩を進めた。

 こんな時、あの人がいてくれたら……。

 黒髪の青年は神出鬼没。気まぐれに現れては何も告げずに去っていく。だが、たとえいたとしても、青年は本当に慰めてなどくれないだろう。いつも何もかもわかった振りをして、なにかれと手をかけてくれるが、その実、何の関心も持ってはいないのだから。

 エルネラはベンチにくずおれるように腰掛けた。涙はまだ止めどなくあふれる。だが、拭いもせずにそのまま流れるに任せた。

 空は変わらず青く、涼風はエルネラの髪を乱し、小鳥は何事もなかったかのようにさえずっている。自分がひどく愚かに思え、笑いがこみ上げてきた。

「豪毅な方かと思っていたら、意外とかわいらしいところもお持ちなんですね」

 エルネラは突然の声に飛び上がらんばかりに驚いた。振り向くと、そこには人の悪い微笑みを浮かべたランディがたたずんでいた。

 ランディはエルネラの顔を見ると、はにかんで肩をすくめた。

「これは失礼。お邪魔するつもりはなかったんです」

 ランディは懐からハンカチを取り出し、差し出そうと近寄ったが、

「近寄らないで!」

 エルネラの鋭い声に気圧されるように立ち止まった。

 エルネラは顔を袖で拭いながらランディをにらんだ。ランディはたじろぎ、無抵抗を示すように両手を上げた。

「別にとって食いはしませんよ。俺にも好みというものがあります。顔だけならあなたは好みなんですがね」

「何の用?」

 エルネラはランディの言葉を無視して冷たく言った。ランディは困ったような笑みを浮かべた。

「商売道具を忘れていったものですから」

 エルネラは鼻を鳴らし、腰に佩いているレイピアを取り、無造作に投げてやった。それから、もう用はないとばかりに背を向けた。

「もうあんな事はなさらないで下さい」

「決闘のこと?」

「いえ、人の寝込みを襲うことです」

「後宮で女性を襲っている男とは思えない言葉ね」

「しかし、ディアンを使うなんて卑怯です」

「彼女はあなたのものではないのよ。わたしの侍女なんだから」

 エルネラは昨日の夜のことを思い出した。ディアンがランディと数日前から付き合っている事は知っていたが、その情事のあとを見るのはショックだった。たとえ、ランディのレイピアを奪って脅迫し、立会人として認めさせるためであっても。

 だけど、ランディのあの驚きようったらなかったわ。エルネラは含み笑いした。

 ランディは恐る恐る言いだした。

「なぜ……皆を欺いているのですか? ディアンは殿下のことを、『たおやかで、おやさしい方』と俺に言いました。ワイズ伯爵の決闘の時もあなたはそのように振る舞っていた。決闘をするにもこのような人気のないところで……」

「それが『お姫様』としての正しい姿だから」

 と言って、エルネラは吹き出した。バカげている。

「――なんてね。ディアンにも言ってないことを、あなたに言うと思うの?」

 ランディはため息をついた。

「もう、何も言いますまい。――ただ、最後に一つ言わせてください。あまり、ミルイヒを責めないでやって下さい。あいつはあいつで自分の心もわからない、哀れな奴なんです。それから、弄ぶのもやめて下さい。あいつは見た目よりもずっと傷つきやすいんです」

「……」

 ランディはエルネラの言葉を待つように、じっとエルネラの背中を見つめていた。だが、それを得られないと知ると、静かに去っていった。

 エルネラは目を伏せた。もうすでに涙は乾き、その跡がくっきりと目尻や頬に残っている。

 わたしだって傷ついているわ。そう、傷ついているのよ。でも、どちらかを選ばなければならない……。どちらも選ぶ事なんてできないの。

 

 エルネラとミルイヒの婚約破棄は、二日後には宮中で知らぬ者はほとんどいなかった。だが、その婚約破棄の詳細を知る者は、当事者たち以外にはいなかった。

 これは得たりとばかりに、エルネラに求婚を求める貴族たちは引きも切らなかった。しかし、エルネラは後宮から一歩も出ることも、その貴族たちに会うこともなかった。

「婚約したままなら静かで良かったのに、どうしてわざわざ破棄するの?」

 エルネラが素振りをする姿を眺めながら、黒髪の青年は言った。

「決まってるじゃない。結婚したくないもの」

「本当に良かったのかい? 彼、他の人と結婚してしまうよ。婚約破棄になった今、引く手はあまただ。ランディ・フェイスとの決闘以来、何かともてていると聞くし」

「それが何? わたしには関係ないわ。ミルイヒが誰と結婚しようと」

 青年は肩をすくめた。

「彼が結婚したときが見物だなぁ」

 その様子を想像するように青年は微笑んだ。

「それはともかく」

 突然、青年の顔が険しくなった。エルネラは驚いて素振りの手を止めた。

「婚約破棄に決闘をしただろう?」

 エルネラは青年の顔を直視できず、あらぬ方を見やり、何かを言おうと唇を何度もなめた。

「それも、わたしがいない時を見計らって」「それは……違うわ。だって、あなたはいつも予告もなく現れるのだもの。見計らうなんて……」

 舌が回らない。

「わ、悪かったわ。でも、あなた、わたしに真剣を振るわせてくれないんですもの。いつもこんな木剣で。もうそろそろ真剣を振るわせてくれてもいいんじゃないの?」

 青年は何かを考えるような顔でじっとエルネラを見つめ、仕方ないという風にため息をついた。

「真剣を振るってみてどうだった?」

 エルネラはほっと胸をなで下ろした。青年はいつもやさしく滅多なことでは怒らないが、一度怒ればそら恐ろしいのだ。

「そうね。やはり木剣とは重さが違うし、風切り具合が違ったわ」

「他には……何か、気分が変わったとか……」

「? 何も……あ、そういえば、いつもより剣と一体になれた感じがしたわ」

「ま、いいだろう。明日から練習剣(フルーレ)を使うことを許そう」

 エルネラはぱっと顔を輝かせた。

「本当?」

 青年は微笑んだ。

「ああ。ミルイヒを打ち負かしたご褒美だ」

 その言葉で、エルネラの顔は急に不機嫌になった。

「どうしたんだい?」

「……彼、手を抜いたのよ」

 エルネラは忌々しげにつぶやいた。

「まさか。彼は君のことが好きだったんだろう?」

「そう思ってたけど、わからなくなってしまったわ。本当は、そんな素振りを見せてわたしをからかったのかもしれない」

 エルネラはまた涙がこみ上げてくるのを感じた。それは腹立たしいことだったが、自分の意志ではどうにもならなかった。

「そういう人間には見えなかったなぁ。――あんまり君がひねくれた態度をとるからだよ。君の言動を真に受けたんだ。君が嫌がるなら、負けて婚約破棄にした方がいいと思ったんじゃないの? なんていうか、物事を後ろ向きに考えるタイプだね、彼は」

「でも、決闘なのよ! 神聖なものなのよ。それに自分の感情を持ち込んで、あろうことかわざと負けるなんて!」

 エルネラは吐き捨てるように言った。

「それは唾棄すべき行為だけど、いいじゃない。結果的には君の思い通りになったんだからさ」

 エルネラは唇を噛んだ。青年の言う通りだが……

「こんな無様な結果をわたしは望んでいなかったわ」

「ミルイヒが勝って、表面上は嫌々だけど、心はうきうきで結婚するのを望んだの?」

 エルネラはおもしろがる様子の青年をにらんだが、否定しなかった。それが自分の心の中になかったとはいえない。

 けれど、絶対に認めたくはなかった。あんな根性なしを自分が好きであるなんて思いたくもない。いったい彼のどこが好きだというのかしら? 不可解なことである。

 自分は迷っていて、決闘でどちらかを選びたかった――いや、選んでもらいたかったのだ。それは一つの賭けだった。それなのに、わざとらしく負けられては決心が鈍るではないか。

「ともかく! もう彼のことは考えたくも、口に出したくもないわ」

 エルネラは剣の素振りに戻った。その風切り音は鋭く、周りの虫たちの鳴き声と競うかのようだった。

 青年は微笑んだ。

「はいはい。恋を捨て、結婚も捨て、修道院にでも入るつもり?」

 

「聞きましたわ。エルネラ様との婚約を破棄なされたんですって?」

 ベランダに出て月を見上げるミルイヒに、声をかける貴婦人がいた。

 ミルイヒが振り向くと、空色のドレスの裾を軽くつまみ、なまめかしい笑みを浮かべて近づいてきた。亜麻色の髪はきっちりとまとめられ、あらわになった白いうなじが実に色っぽい女性だ。おそらく、ミルイヒより十近く年上だろう。

 先日、一緒に踊ったたくさんの女性のうちの一人だ。確か、グレンダール男爵夫人アレーナ。

「踊り疲れましたの? 憔悴しきった顔をなさって。それとも、婚約破棄に心を痛めておられるのかしら?」

 アレーナは小首を傾げて言った。

 ミルイヒはアレーナの青い瞳を見つめた。

「わたしはそんなにひどい顔をしてるんですか? 友人にも言われました。――婚約破棄については何も思ってはいません。殿下がそのように望まれるのならいいんです。……ただ、行き場のない想いがあるんです。どうしたらいいのか……」

 ミルイヒは常ならぬせつない顔をした。夜会でははずしたことのない――いや、それだけではなく、親しい者たちだけにしかはずしたことのない鉄仮面がはずれてしまったことに、ミルイヒは気づかなかった。

 アレーナは目を細めて微笑み、ミルイヒの頬を、レースの手袋をはめた両の手で包み込んだ。

「おかわいそうな方……」

 そしてそのまま、ミルイヒの唇に口づけた。

 ミルイヒは一瞬驚いたが、抵抗しなかった。甘くやわらかな唇に、心の中でくすぶっている何かが溶けていくのを感じていた。それは立っていることができないほどの心地良さがあった。

 ミルイヒはアレーナの細腰を引き寄せ、肩を抱いた。あたたかく、やわらかい。今は人肌のぬくもりが欲しかった。それだけがこの想いをどうにかしてくれるにちがいない。ミルイヒはむさぼるように口を吸った。

 二人の熱く長い接吻を見ているのは、満天を照らす満月だけだった。ベランダのタイルに落ちているのは、二人が一つとなった影と、時折かさかさと動く落ち葉。壁一つ向こうの、人声のさざめきや舞曲が遠くに聞こえる。

 二人はほうっと熱いため息をつき、名残惜しそうに離れた。

 アレーナはほんのり紅潮した顔で、妖艶な笑みをミルイヒに向けた。

「意外と情熱的なんですのね」

 ミルイヒは陶然としていたが、はたと我に返った。

 今、自分はいったい何をした? 男爵夫人と、夫のある方とキスを!? しかも、あのような……。

 ミルイヒは目眩がし、顔が急激に火照るのを感じた。

「も、申し訳ありませんっ! ……あ、あの、なんと申したらっ……」

 舌がうまく回らない。消えてしまいたい気分だった。アレーナが戯れにしたであろうキスに、あのように淫らに応えてしまった。どうにも弁解しようがない。

 アレーナは鈴を転がすように笑った。

「そのようにお顔を赤くなさって……。こんなにもかわいらしい方だったとは存じませんでした。あら、殿方にかわいいだなんて……失礼しました」

「いえ……こちらこそ」

 夜風に冷えた手で頬を押さえるが、顔の火照りはまだ収まらない。

 その手にアレーナが手を重ねた。ミルイヒはどきりとして、間近にあるアレーナの美しい顔を見た。そして、先ほど塞いだその赤い唇を。

「今夜、主人は帰りませんの。いらして下さる?」

 アレーナはミルイヒの耳にささやいた。その吐息がくすぐったく、またしても立っていられないような気分になった。

 その意味するところがわからないわけではない。だが、ミルイヒはうなずいていた。

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