月下残影

04.満たされぬ想い

 ミルイヒはカボチャのスープを木匙ですくい取り、優雅にすすった。おいしい。騎士専用食堂のカボチャスープはひと味違う。

 彼のここ一ヶ月の昼食は、このスープとパン一切れだった。いつもならば、それを見たランディが、

「なんだ、それっぽっちしか食わないのか?小鳥の餌ほどもないじゃないか。もっと食わないとやっていけないぞ。そのひょろい身体にちっとは肉を付けろよ。ほれ、俺のを分けてやる」

 と、いらぬお節介を焼くのだが、幸い今はいない。エルネラとの決闘のあと、田舎で法事(ラヴィエ式)があるとかで一ヶ月の休暇を取ったのだ。

 そういえばそろそろ戻ってくる頃だなぁ、と思っていると、噂をすれば何とやらで、ミルイヒの名を呼ばわりながら騒々しくやってきた。

 昼食を取るには少し遅い頃合いの食堂は人もまばらだった。ランディはすぐにミルイヒを見つけた。なぜか不機嫌そうな顔で、足早に近づいてくる。ランディの知り合いと思しき騎士が声をかけるが、気づいていないらしく、そのまま通り過ぎた。

 ランディはミルイヒの前にやってくると両手で木のテーブルを叩いた。テーブルが悲鳴を上げてきしみ、カボチャスープの容器が一瞬浮き上がった。周りの者たちは驚き、食事の手を止めてふたりを見た。

「おい、どういうことだ? 俺のお株を奪うつもりか?」

 ランディは限りなく冷たく、低い声で言った。

 ミルイヒは目をしばたいた。ランディは自分に対して怒っている。それは珍しくはないことだが、顔がこのようにどす黒くなるまで怒るのはついぞない。わたしはいったい何をした? 思い当たる節はない。

「久しぶりに会ったのに、開口一番何だい?」

 ミルイヒは穏やかに言い、カボチャスープをすすった。

「表に出ろ」

 ランディは顎で出口を示した。

「話ならここで聞くよ。物騒なことは嫌だ」

 ランディは唇を噛んでミルイヒをにらんだ。ミルイヒは意に介さず、再びスープをすすった。

 ランディは周りを威圧的に見回した。ふたりの様子を窺っていた者たちは知らぬ振りで目をそらし、必死に残りの食事をしたり、急いで食堂をあとにしたりした。

 ランディは舌打ちひとつして、ミルイヒの向かいに乱暴に腰を下ろした。

「この一ヶ月の話を聞いた」

 ランディはぶっきらぼうに切り出した。

「ああ、それでお株を奪ったと? 別にそんなつもりはなかった。わたしから誘った覚えはない。あちらが望んだんだ。わたしはそれに応えただけだ」

「それで、何人と寝た?」

「そんなの覚えちゃいないよ。……そうだな。おまえとは義兄弟になったかもしれないな」

「おまえの冗談なんか聞きたくもない!」

 ランディは苛立たしげに言った。

 ミルイヒは眉をひそめた。

「何を怒っているんだ? 言っておくが、ディアンには何もしてないぞ」

「してたらぶち殺してる」

 ミルイヒはため息をついた。

「……こういうことはいつもおまえがしていることだろうに。どうしてわたしがおまえに責められなければならないんだ?」

 ランディは何かを言い返そうと口を開けて息を吸い込んだが、すぐに口を閉ざし、それから躊躇いがちに言った。

「おまえが人の愛し方を知らないからさ」

 ランディはまっすぐな眼差しでミルイヒを見た。ミルイヒは驚いたようにランディを見た。わたしが人の愛し方を知らないだって? だが、だからといって何だと言うのだ。

「愛と快楽は必ずしも一致しないと教えてくれたのはおまえだろう?」

 ランディは目を見張り、それからおもしろくもなさそうに笑った。

「おまえは優秀な生徒だな。快楽のために寝たのか」

 ミルイヒはランディの理不尽な物言いに怒りを感じ始めた。

「彼女たちだって求めるものは同じだろうに」

「そいつは違う」

「どう違うのかわからないな。そういうおまえはどうなんだ?」

「俺? 無論、皆愛しているさ。俺はおまえと違って愛なくして抱くことはできない」

「所詮、遊びじゃないか」

「俺は遊んでいるつもりはない」

 ミルイヒは嘲るように鼻で笑った。

「本気でそう思っているなら、おまえは本当におめでたい奴だな。おまえが相手にした貴婦人たちは単なる恋愛ゲームでしかないと思っている。おまえの愛は独りよがりなものさ」

「そんなことはない」

 と、つゆもその言葉を疑っていない顔でランディは言う。

 ミルイヒはその顔から目をそらし、軽く唇を噛んだ。ランディは、自分は誰からも愛されていると思っている。事実そうなのだが、それを自覚しているところが鼻につく。

「わたしは……わたしなりに彼女たちを愛している」

 ミルイヒは消え入りそうな声で言った。本当にそうなのか?

「おまえが彼女らを愛しているというのなら、そいつは偽りだな。最中はよくても、そのあとは虚しいだけだったろう? おまえには複数の相手を愛するなんて器用なことはできない。おまえの心にはたったひとりしかいないはずだ」

 ミルイヒは眉をひそめた。誰のことを言っているんだ?

「おまえは彼女たちを代用してるに過ぎないんだよ。そんなかわいそうな事はやめろ。慰めてもらいたいなら商売女を相手にしろ」

「代用って……誰の代わりだと言うんだ?」

 これ以上ないくらい真剣な面持ちのミルイヒを、ランディはじっと見つめ、唇を噛み、不意に顔の緊張を弛めた。

「……言わなければならないか?」

 疲れたような声だった。

 ミルイヒはなんと答えて良いかわからなかった。

「……そうだな。ここで言わなければおまえは一生気づかないかもしれない」

 ランディはため息をつき、決心したようにミルイヒを見た。

「エルネラ殿下」

 その言葉はミルイヒの心の奥底に不思議な響きをもって受け止められた。もしかしたら予期していたのかもしれない。しかし、不可解な感情をも再び巻き起こし、いてもたってもいられない気分になった。心地よいような、泣き叫びたいような、バカみたく笑いたいような、吐き気を催すような、我を忘れて怒鳴り散らしたいような……

 ――すべての感情がない混ざったような。

 しかし、ミルイヒは驚いたように目をしばたかせただけだった。

「わたしがエルネラ殿下を愛している、と?」

 ランディはうなずいた。

「どうして……あ、いや……そうだったな……」

 ミルイヒは思い出した。

「わたしは殿下に言ったんだ。殿下を愛する、と。殿下を愛してみせる、と」

 ランディは天を仰ぎ、深いため息をついた。何かを言いかけて首を振り、改めて声を出した。

「……それで、それを聞いた殿下はなんと答えたんだ?」

 その声には何かが抑制されていた。

「無理して愛する必要はない、と。乗り気でないなら婚約を破棄すればいい、と。怒った風に言っていた」

 ランディはおもむろにテーブルに肘をつき、額に手をあて、肩を震わせて静かに笑った。

 ミルイヒはいぶかしんで眉をひそめた。

「おまえのことだ。カボチャスープを頼むように淡々と言ったのだろう。……まあ、それはいいさ。それで、おまえはエルネラ殿下を愛しているんだな?」

 ミルイヒはランディの反応を恐れるように小さく首を振った。

「正しくは愛する努力をしていた、だ。今は何とも」

 すでに婚約は破棄されたのだ。今さら何を思えというのだ? もはや一介の臣従に過ぎないのに。

「そうか」

 ランディは深いため息をついた。

「もし、エルネラ殿下がおまえのことを……あ、いや――」

 と、言いかけて首を一振りし、

「……たまには家に帰れよ。執事さんにまたにらまれちまったじゃないか」

 ランディはそう言い残すと、食堂をあとにした。ミルイヒはその背中を不思議そうに見た。あいつ、わたしの家にわざわざ来ていたのか。本当に物好きな奴だ。

 ランディの世話好きには時折辟易させられる。だが、不快なものではなかった。ミルイヒは小さく微笑んだ。自分を思ってくれる存在がこの上もなく頼もしく、愛おしく思う。……本当にかわいい奴。

 ミルイヒはカボチャスープの最後の一すくいをすすった。

 

「家に帰れと言ったのはおまえじゃないか」

 ミルイヒは眉をひそめ、ため息をついた。

「別に帰るなとは言ってないだろう? ちょっとくらい帰るのが遅くなったってかまいやしない。だいたい、おまえんとこの執事は俺の顔を見る度にゴミでも見るような顔をしやがる。俺が何をしたって言うんだ!」

 ランディは言い捨てると再びエールをあおった。

 お馴染みの居酒屋は今日も人々でにぎわっている。酒の飲めないミルイヒは、ランディとの付き合いでしかここに来ることはない。酔っぱらって騒ぐ者たちを見ると、なんとなくうらやましく思える。

「悪かったな。ヘイデンに伝えておく」

 ヘイデンは祖父の代からセイデーズ家に仕えている老執事だ。幼くして母親を亡くしたランディは、彼によって育てられたと言っても過言ではない。ヘイデンはランディを悪友であると見なし、ことあるごとに付き合いをやめるように言ってくる。

「ぼっちゃま――いえ、旦那様、由緒正しい貴族たるセイデーズ公爵が、あのようなどこの骨ともわからぬたわけた者と付き合うなど、言語道断ですぞ。幸い、ぼっちゃま――いえ、旦那様は彼の者の毒気にあてられずに立派に騎士の務めを果たしておられる。しかしですな、周りの者の目もあります。いくらぼっちゃまが立派であっても、その友人があれでは正当に評価されますまい。ああ、おいたわしや。神々の園におわす、お父上、お母上も嘆いていることでしょう」

 と、涙ながらに言うのだからたまったものではない。

 今夜はいつものように聞き流し、あいまいに相槌を打つことはできないだろう。ここ一ヶ月の噂はヘイデンの耳に届いていることは間違いない。愛しい旦那様は悪友の毒気についにあてられてしまったのだ。

 何を言われるやら。そう思うと、家に帰りたくなくなってしまった。

「しかし、休暇から帰ってきて早々、なぜにいきなり飲むんだ? 十分楽しんできたんじゃないのか?」

「そうでもないぜ。なにせ、一族では俺は嫌われもんで通ってるから」

「日頃の素行が悪いからだ」

「悪いかな……俺は正直に生きてるだけだぜ」

 軽く言ったのに、真面目に返されてしまった。ミルイヒは何となくその言葉が心に刺さったような気がした。目を細め、特製のレモン水を一口飲む。

「……なあ、なぜ、わたしがエルネラ殿下を……愛していると思うんだ?」

 ランディは上目遣いにミルイヒを見た。大人の反応を見る子供みたいだ。

「なぜって……う……ん、まあいいじゃないか。おまえが殿下を好いてないってんならさ」

 珍しく歯切れが悪い。

「別に、嫌いだとは言ってないだろう? 何とも思っていないというだけで」

「相手にとってはどちらも同じだろ? ――俺、ちょっと深入りしすぎたわ。昼のことは謝る。言い過ぎた」

 珍しく殊勝な態度だ。こんな酔い方をする奴だったか?

「深入りって?」

「う……おまえも本当にわからない男だな」

 ランディは辟易した様子で言った。

「俺、本来は他人の恋愛については口出ししない主義なの。だけど今回は、おまえがあまりに歯がゆかったし、殿下のあんなところ見てしまって……」

 声がだんだん小さくなり、最後の方は聞き取れなかった。ランディは口直しのようにエールを飲んだ。

「ああ、もう、はっきりしない奴だな。何が言いたい?」

 ミルイヒは苛立ち、額をこすりつけんばかりにランディに詰め寄った。

 ランディは間近にあるミルイヒの顔を見つめ、やにわにその唇に口づけた。

「んん!?」

 ミルイヒは驚いて離れようとしたが、ランディに頭を両手でがっちり捕まれていたので逃げることはできなかった。口の中に液体が入り込み、思わず飲んでしまった。それからようやくミルイヒは解放された。

 

「ひっく」

 しゃっくり一つ、ミルイヒの瞳がとろりと半眼になった。ランディはその様子を固唾を呑んで見守った。

 いきなり、ミルイヒの瞳が危険な輝きを帯び、かっと見開かれた。

「なにすんだ、こんちくしょー!!」

 ミルイヒは常ならぬ下品な言葉を吐いた。

 ランディは繰り出された拳をよけることができず、左頬にもろにくらい、椅子から転げ落ちた。

 その音は盛大に酒場中に響き渡った。

 酒場は静まり返った。皆、恐れるようにふたりをうかがう。

「お、おい、ランディ、まさかオージサマに酒飲ませたんじゃないだろうな?」

 酔いがすっかり醒めた様子で、近くの席に座っていた男が訊いた。

 ミルイヒはきっとその男をにらんだ。男は貧相な叫びを上げた。

「やっぱり、そうだ!」

 その一声で、酒場にいる者たちはミルイヒとランディのそばからあたふたとできるだけ離れた。

 ランディはよろめきながら、ようやく立ち上がった。左頬は腫れ上がり、唇の端が切れて血が流れている。

「いてて……ご挨拶だな。久しぶりだってのに」

 ミルイヒは人がよいとは決して言えぬ笑みを浮かべ、赤くなった右手を軽く振った。

「いつから宗旨替えしたんだ、おまえ」

「失礼な。俺はいつでもおとなしい女性が好きさ。――時に、おまえ、エルネラ殿下を好きか?」

 ミルイヒは嬉々として即座に答えた。

「もちろん、愛しているとも! この一ヶ月というもの、なんとわびしかったことか! 会いたくて、一目でも見たくて……ああ、畜生! これから行って寝込みを襲ってやる!」

 と、狂おしく情熱的に言うと、出口の方にきびきびと向かった。人々はさざ波のように退いて、ミルイヒの通路を作った。

 ランディはそのあとを追った。

「この賭け、吉と出るか、凶と出るか……」

 密かにつぶやき、ほくそ笑んだ。だが、頬が痛んですぐに顔をしかめた。

 

「彼もきっとショックが大きかったんだよ。だから、慰めて欲しくて……」

「慰めて欲しくて手当たり次第なわけ!? どっちかっていうと、吹っ切れたんじゃないの? 本当は嫌だったのよ、わたしとの婚約なんて。ランディの奴、なーにが、『あいつは見た目よりもずっと傷つきやすいんです』よ! どうせなら、もっといじめてやればよかったわ」

 と、吐き捨てるように言うと、エルネラはワイングラスになみなみと注がれた赤ワインをぐいと一気に飲んだ。それから酌を求めるように、黒髪の青年に空のグラスを向けた。

 青年は眉をひそめ、ボトルに残っているワインを、後ろで飛沫を上げている噴水の池に注ぎ捨てた。

「あー!! ちょっと、何すんのよ! ……ああ」

 エルネラは腰掛けていた噴水の縁から身を乗り出し、名残惜しそうに見た。

 ランタンの頼りない灯と淡い月の光の下、赤い液体は波紋の渦に消えていった。ディアンの目を盗んでやっと奪ってきたワインだったのに。

 エルネラは青年を座った目でにらんだ。しかし、意に介する青年ではない。

「こんな遅くまで付き合った上に、酔っぱらって返したんじゃ、ディアンに顔向けできないよ」

「酔ってなんかいないわ!」

「そうかい。それにしてはよく絡むね。そんなに好きだったの、彼が?」

 エルネラはほの赤かい顔をさらに赤くさせた。それから何とも言えぬ、困ったような顔つきをし、うつむいた。

「……ん……そうよ」

 エルネラはか細い声で言った。

「ん、何? 聞こえないな」

 青年はエルネラの顔をのぞき込み、意地悪く訊き返した。

「そうよ! わたしはミルイヒが好きなの!」

 エルネラは叫ぶように言った。

 その余韻は噴水の音にかき消されたが、エルネラには庭中に響き渡ったように思えて、顔が火照るのを感じた。水が水を打つ音が沈黙をさらに助長させ、ひどく長い間黙っていたような気がし、声を出すのが躊躇われた。

「……認めたくなかった」

 ようやく、ぽつりと言った。

「よりによってあんな男を……根性なしで……軽薄で……頼りなさげで……わたしの理想とは対局に位置するわ。けれど、なぜなのかしら? こんなにせつないのは。あの人の噂を聞く度に……一喜一憂して」

 青年はため息をつき、エルネラの頭をその胸に引き寄せた。エルネラは声を押し殺して泣いた。

「バカな娘だ。――どうする? もう一度陛下にお願いして婚約させてもらう?」

 エルネラは青年の胸に顔を埋めたまま、青年のチュニックの裾をぎゅっとつかんだ。

「いくらわたしでもそんなことはできない。もういいの。忘れるわ。忘れることにしたの。だって、わたしには……」

 エルネラは肩を小刻みに震わせ、青年を見上げた。新緑の瞳はもはや涙に潤んではいない。しかし、泣いているのと同じ顔をしている。

「ねえ……忘れさせてくれない? あの人のことを」

 エルネラは青年の白い頬に手を伸ばした。滑らかな肌触りだが、冷たい。白磁のようだ。小さく息を吸い込み、青年の色気のある唇に顔を近づけた。

「駄目」

 青年は厳しい顔で、エルネラの口を手で塞いだ。エルネラは反発して何かを言いかけたが、口を塞がれているのでままならなかった。

「わたしはいいけれど、君は絶対後悔するよ」

 エルネラは青年の手をのけた。

「後悔なんてしないわよ! わたし、後悔なんて嫌い」

 青年はエルネラを無造作に引き離し、立ち上がった。

「それならなおさらだ。――それに、わたしがここにいることさえ、君に剣を教えることさえ、本来はいけないことなんだ。正直言って、これ以上陛下にばれたらどうなるかわからないことはしたくないな」

 エルネラはうつむいた。すべては、青年の気まぐれに過ぎない厚意であることはわかっている。それなのに、自分はそれにつけ込んだ。自分が望めば何でもしてくれるに違いないと思い上がっていた。青年の冷たさはわかっていたはずなのに。

 ミルイヒに対する想いは自分でどうにかしなければならない。

 エルネラは信じていた。いつかきっと忘れる日が来るのだ、と。他にどうすることもできない。今はただ、堪え忍ぶばかりだ。

「さあ、お帰り。わたしにもやらなければならないことがある」

 月の光がところどころに射し込み、光と影を幻想的に作り出している木々の間に、青年はまるで人ならぬ者のように、不可思議な世界へ溶け込んでいくように見えた。

 消えかけた青年に、エルネラは声をかけた。

「あなたには好きな人がいないの?」

 青年は肩越しに振り返った。

「わたしが愛するのは、冷たく鋭く、こんな月夜に輝くもの――それはそれは美しいものさ」

 青年の瞳は月明かりに妖しくきらめいていた。

 

 気づいたら、下水道を歩いていた。

 ミルイヒはカンテラを掲げて辺りを照らした。淀んだ川と薄汚れた石壁が鈍い光を跳ね返す。

「ここは……『後宮の庭』への下水道?」

 その声は虚しく響き渡った。

 何となく見覚えがあった。しかし、なぜ今ここに立っているのかがわからなかった。できれば二度と来たくはないところだったのに。

 必死に記憶を探った。ランディと居酒屋にいたのは覚えている。話をしていて……

「そうだ! あいつ、わたしにキスしたんだ」

 ミルイヒは忌々しそうに唇を拭った。いったい何を考えてあんな事を……。さらに記憶を探った。思い出したくもないキスを思い出し、それから……

「何かを飲んだ。それから……」

 額を押さえて考えたが、どうやってもその先が思い出せない。

 舌打ちした。

「酒を飲ませたな」

 ミルイヒは酒に弱い。ほんの少し飲んだだけで前後を忘れるほどに酔ってしまう。その時何をしたかなど、覚えていようはずもない。

 ミルイヒはため息をつき、来た道を引き返そうとした。しかし、踵を返したものの一歩も踏み出せず、立ち尽くしてしまった。

 何を迷っているんだ?

 「後宮の庭」への道を肩越しに振り返って見る。

 ランディは、自分がエルネラを愛しているのだと言った。その自覚はない。しかし、それは本当なのか? なぜか否定できない自分がいる。己の心さえもわからぬ自分が忌々しい。しかし、己の心を悩ませているものの正体がそれだとしたら、はっきりとさせたい。

 どうしたらその答えがわかるのだろう? エルネラに会ってみるか? ――と、思いかけてすぐさま首を振った。それは駄目だ。エルネラには二度と目の前に現れぬように言われた。

 だが、会わずとも見るだけならどうなのだろう。それならば可能なはずだ。それだけでは到底答えなど出ないような気がするが、きっかけにはなるかもしれない。

 決心して、ミルイヒは「後宮の庭」への道を歩きだした。

 ほどなく出口の縦穴にたどり着き、カンテラの灯を消して石畳に置き、昇降取っ手を上っていった。

 鉄の蓋をわずかに開けると月明かりが差し込んだきた。眉間にしわを寄せて、目を細める。

 水が流れ落ちる噴水の音が盛大に聞こえる意外は何の音もない。

 外界の意外な明るさに目が慣れてくると、目だけを出したまま辺りを見回した。

 目の前に天高く水を噴き上げている噴水、そしてそこから少し目をはずすと……

 ――人がいた!

 ミルイヒは驚いて鉄の蓋を閉めた。慌てていたのでそれは静かなものではなかった。どきどきと心臓が高鳴り、呼吸が乱れる。今の音は聞かれなかっただろうか?

 しばらく息をひそめて待機していたが、人が近寄る気配はない。とりあえずほっとして、今度はかなり慎重に蓋を開けた。

 もう一度、人がいた場所を確かめる。噴水の縁に二人が腰掛けていた。ミルイヒは目を見開いた。こちらに背を向けているが、彼にはわかった。月光にきらきらと輝く美しい金髪、やわらかな背中の線、くびれた腰。今日は白いドレスを着ている。

 ――エルネラ殿下!

 そして、エルネラの隣に座り、こちらからは横顔が見える人物――それはいつぞやミルイヒの目の前に現れた、デューと名乗る黒髪の美青年だった!

 なぜ彼が?

 男子禁制である後宮に?

 エルネラ殿下と一緒に?

 疑問が頭の中を埋め尽くし、心がハンマーで打たれているかのようだった。足ががくがくと震え、危うく足を踏み外しそうになった。

 ミルイヒは必死に落ち着きを取り戻そうとした。待て、まだそうとは決まってはいない。そのように思って首を傾げた。「そう」とは何だ? この動揺は何なのだ?

 二人は何やら話している。しかし、いくら耳を澄ましても噴水の音でうち消され、何を言っているのかはわからない。このような行為は紳士にあるまじき事だ。しかし、ミルイヒは確かめずにはいられなかった。

 青年はワインを噴水の池に注いだ。血のように赤いワインはあっという間に水の中に消えたようだった。

 エルネラは噴水に身を乗り出した。その時、横顔が見えた。月光が水面に反射して、エルネラの顔を光と影の揺れ動くモザイク模様に映し出した。白い顔はほんのり赤みを帯びている。相も変わらず美しかったが、心なしか愁寂がある。それに、一ヶ月前と比べてぐんと大人っぽく、色っぽくなった。秋気がなりを潜めているようなのは気のせいか? ミルイヒは我を忘れて見とれていた。

 エルネラは再び背を向けた。青年が何かを言うとうつむき、しばらくして叫んだ。

「……好きなの!」

 その言葉だけがはっきりとミルイヒの耳に突き刺さった。

 どくんっと心臓が跳ね上がった。エルネラの痛切な叫びが頭の中でガンガンとこだました。ざわっと総毛立ち、血が逆流した。鉄の蓋をつかんだまま、強くひっかいた。爪が割れ、血がにじむのもかまわず。

 ミルイヒの灰色の瞳には薄暗い危険な輝きがあった。ミルイヒは己が恐ろしい嫉妬の念にとらわれたことに気づかなかった。ただただ、エルネラをこの腕に抱きたい、自分のものだけにしたい、という強い願望――欲望があった。

 しかし、二人の前に現れるなどということは思いもよらない。そこまでの理性はまだある。

 青年はエルネラを抱き寄せた。その瞳は限りなくやさいしいものだ。

 ミルイヒは狂おしく黒髪の青年をにらんだ。目で射殺さんばかりに。その役目は本来は自分であるはずだとばかりに。

 エルネラは青年の頬に手を触れた。ミルイヒは息を呑んだ。

 そして、エルネラは青年の唇に……

 ミルイヒは目をそらし、気づかれるのもかまわず荒々しく蓋を閉じた。それから、転げ落ちるようにして縦穴を降り、真っ暗闇の下水道を闇雲に走った。

 

「あいつ、うまくやってるかな。帰れとは言われたものの、なんとなく不安なんだよな。なんとか、酒が切れる前に押し倒すとこまで行けば……。ちょっと酒量が足りなかったかもな。四十度くらいの酒にしとけばよかったなぁ。エール程度じゃいくらなんでも……」

 と、ランディがぼやき始めた時、不意に鉄の蓋が開いた。ランディは驚いて立ち上がった。

「おいおい、早かったじゃないか。あんまり早いとあきれられるぞ。――って」

 ランディは目を見開いた。

「どうしたんだ……?」

 ミルイヒはずぶぬれだった。頭からつま先まで泥水にまみれ、うつむいたまま声を発しない。

「……下水に落ちた? 勇みすぎたか?」

 ランディは苦笑いして近寄った。

「このままじゃ、風邪を引く」

 ランディは外套を脱ぎ、ミルイヒにかけてやろうとした。だが、ミルイヒはランディの手を乱暴に払いのけた。外套は地面に落ちた。

 驚きに呆然とするランディに、ミルイヒはつかみかかった。押し倒さんばかりの勢いだったが、もとより体格が違う。ランディはなんとか堪えた。

「……お、い、何だよ!」

 ミルイヒはランディの襟をつかんで首を締め上げた。ランディは苦しげに声を発した。ミルイヒの細い手首をつかんで放そうとするが、びくともしない。

 ミルイヒは上目遣いにランディをにらんだ。

それはいまだかつて見たことのないものだった。恐ろしい憎しみが自分に向けられている。ランディは思わず手を放した。

「本当におまえは親切な奴だ。おまえのおかげでわたしは気づいた。気づいてしまった! エルネラ殿下を愛しているということを! しかし、そんなものは気づかなくて良かったんだ。あのままずっとわたしの中でくすぶっていれば、いつかは消えてしまうものだったんだ」

 その声は大きなものではなかったが、はっきりとした口調だった。

 ランディは気づいた。ミルイヒが涙を流しているということを。ずぶぬれなので気づかなかったが、確かに泣いている。

「何があったんだ? 話してみろ」

 ミルイヒは勢いよくかぶりを振った。

 ランディは渾身の力を込めてミルイヒの手をはずし、

「話してみろよ!」

 ミルイヒの頬を軽くはたいた。

 すると、ミルイヒは力が抜けたようにへなへなと座り込んだ。下生えをわしづかみ、肩を震わせる。もしかしたら、声を殺して泣いているのかもしれない。

 しばらくして、うつむいたまま話し出した。

「殿下は誰とも結婚しないとおっしゃっていた。……心のどこかで安心していたんだ、わたしは。そんなことは出来やしないとわかっているにもかかわらず。殿下の意志の強い瞳を見たら、この方はご自分のなさりたいようになさる方だと、ご自分の意志を曲げるようなことは許さない方だと思った」

 さっきとはうって変わって、感情の欠落した声だった。

「殿下が誰のものにもならないならいいと思ったんだ。それならば、婚約なんて破棄したっていい。嫌われてたってかまわない。……けれど、恋愛をしないとは言わなかったんだ。ただ、結婚しないというだけで。殿下は誰かを愛し、愛される。もちろん、それはわたしじゃない」

 声が震えた。

「わたしじゃないんだ!」

 ミルイヒは夜のしじまを引き裂くように叫んだ。ランディはその声を聞いてつらくなった。

「殿下はあの男を愛している。きっとわたしと出会うずっと前から。最初から、わたしが立ち入る隙なんてこれっぽっちもなかったんだ」

 その声はかすれていた。

 ミルイヒはおもしろくもなさそうに肩を震わせて笑う。それはどこか気違いじみていた。

「考えてみれば似合いの二人だ。美男美女で……貧相なわたしなんかよりずっと。――わたしは、単なる道化だ」

「ちょっと待て! 殿下はな、おまえのことを……!」

 と、慌てて言いかけたランディの言葉をミルイヒは遮った。

「何も言うな!」

 ミルイヒはさっと立ち上がり、濡れた前髪を掻き上げた。あらわになった眼光はいつにない熱を帯びている。金の髪は泥にまみれてくすみ、汚れた顔に張り付いているにもかかわらず、どこか美しさを感じさせる。

 ランディは息を呑み、眉をひそめた。

「殿下は……」

「慰めなんて聞きたくもない! そんな憐れんだ目でわたしを見るな! おまえにそんな顔をされると虫酸が走る」

 ランディは開きかけた口を閉ざし、目をしばたかせた。

「おまえは何事においてもわたしより勝っている。剣を握ればわたしを打ち負かし、同僚や後輩たちには愛され、上官の受けもよく、おまえを愛さぬ女性はいない。誰にも愛されぬ貧相なわたしを見て、さぞかし優越感に浸っていたことだろうよ。だから、なにかれとわたしに手をかける。なんてかわいそうな奴なんだってね。わたしはいつだっておまえに劣等感を抱いていた。劣等感に押しつぶされそうだった!」

 ランディは唇をきゅっと引き締め、慎重に口を開いた。

「……おまえ、それ、本気で言ってるのか? それとも、まだ酔っているのか?」

「わたしは素面だ」

 きっぱりと言った。

 冷たい風が吹き、落ち葉がかさかさと音を立てた。水の柱が出ていない噴水の池は波立ち、その上に落ちた葉がゆらゆらと揺れた。

 ランディは鋭く目を細めた。

「そうかい、そうかい。わっかりました。公爵閣下。閣下の御意のままに。もう何も口出し致しません」

 ランディは最敬礼をすると、外套を拾い上げて「昼寝の庭」を辞した。

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