ミルイヒはふと目覚めた。
鎧戸の隙間から射し込む光はまだ弱々しい。太陽の光ではない。だが、常夜灯の明かりよりも幾分強かった。
ミルイヒは、自分の胸にもたれている薄茶色の髪の女を不思議そうに見た。静かな寝息を立て、その豊かな胸をゆっくりと上下させている。
女にかまわず、寝慣れぬベッドの上で寝返りをうった。女は不服を申し立てるかのようにぶつぶつと寝言を言い、ミルイヒに背を向けた。ミルイヒは広いベッドの中の冷たい部分を求めるかのように、端の方に移動した。
唇を噛んだ。
――空虚だ。
何度抱いても、虚しさはどうしようもなくつきまとう。何度その下に組み敷く女をエルネラに見立てても、どうにも埋められない想いがある。ランディが言ったことの意味が分かった。笑うわけだ。ミルイヒは苦笑した。
ランディのことを思い出して、さらに唇を強く噛んだ。
おとといの晩は言い過ぎた――いや、言ってはならないことを言ってしまった。どうしてあんな事を言ってしまったのだろう? 単なる八つ当たりだ。ひがみだ。
昨日はランディと顔を合わせることができなかった。恐ろしくて。たった一人の親友を失ってしまったという事実と向き合いたくはなかった。
激しい後悔の念に襲われたが、もはやどうすることもできない。ランディは自分を許してくれはしまい。あんなにも親身になってくれたのに、余計なお節介だと言ってしまったのだ。そんなのは嘘だ。本当はうれしくて……。
すべてのことに受け身なミルイヒには、何くれとかまってくれる存在が、何よりも心をあたたかくさせ、支えとなるのだった。
ミルイヒはやわらかな掛布を握りしめた。愚かだ。なんて愚かなんだ。激情に身を任せて、心に秘めておくべき事をすべて吐露してしまうだなんて!
すべては自分に非がある。後悔しても、すべては元に戻らない。エルネラとのことも。
エルネラ――どうして、決闘するまでに気づかなかったのだろう。彼女を愛していると。
あの不可解な感情は愛だった。しかし、それに気づくのが怖かった。恐れていた。だからこそ、不可解なままにしておきたかった。
しかし、今さら何を思っても始まらない。これ以上心を痛めないためには早く忘れるに限る。あれはすべて夢だったのだ。そう思いたい。そうなって欲しい! でなければ、到底立ち直れそうにもなかった。
ミルイヒはため息をつき、起き上がった。こちらに背を向けたまま寝入っている女をちらりと見やり、ベッドから降りた。そして、素早く服を身につけると、静かに部屋をあとにした。
屋敷をこっそりと抜け出し、あてもなくふらふらと通りを歩き出した。
明かりなど必要のないほどに明るい夜だった。見上げると、冴え冴えとした月が中天にある。赤みがかった大きな満月。強烈な月明かりに星々はかすんで見えない。辺りはしんとして、世界には自分ひとりだけのような気がする。
ひび割れた舗道には落ち葉がそこここに積もり、踏むとパリパリと音がする。その音を楽しむように、落ち葉を見つけては踏んだ。
このまま、わたしはどこへ行くのだろう?
エルネラのことがまたしても心に浮かぶ。うち消してもうち消しても浮かんでくる。そのたびにやるせない気持ちになる。
建ち並ぶ貴族たちの屋敷を眺めながら、通りの角を曲がろうとしたとき、その角の向こうで甲高い金属音が聞こえた。
ミルイヒは我に返り、角を曲がった。しかし、その時にはすでに音は消えていた。
月明かりの下、血濡れた剣を片手にたたずむ黒衣の男がいる。その足下に体格のよい男がひとり、転がっていた。ぴくりともしない。見る間に地面が赤く染まってきた。
ミルイヒは目を見開いた。
――死んでいる!?
たたずむ男の背中にはなんとなく見覚えがあった。黒い髪が風になびいている。
――切り裂き魔だ!
息を押し殺して剣を抜いた。
そのわずかな鞘ずれの音に反応して、男は素早く振り向いた。
ミルイヒはその顔を見て息を呑んだ。月の光を正面から受けているその端正な顔は、デューと名乗った、あの、今となっては忌々しい黒髪の青年のものだった。
エルネラが愛する青年は切り裂き魔だった!?
衝撃が駆け抜け、切り裂き魔を前にして動くことができなかった。
「貴殿か……」
青年はミルイヒの顔を認めると、安心したような笑みを浮かべた。そして、あろうことかこちらに背を向け、死んでいる男の外套で剣の血を拭い始めた。
――チャンスだ!
しかし、この絶対の好機を目の前にして、ミルイヒは動けなかった。剣を握る手が汗ばむ。
何を迷っているんだ!?
ここでこの男を殺せば、エルネラは悲しむだろう。だが、エルネラの愛を受けるこの男が憎らしい。だが、この男を殺したからといって、エルネラの愛はミルイヒに向けられはしないだろう。それどころか、自分を憎むに違いない。
憎まれる――その考えにミルイヒはうち震えた。それは何の関心も持たれないよりずっといいのではないのか? エルネラが自分に強い感情を持ってくれる。それが愛であれ、憎しみであれ、何でもいいのだ。自分に関心を持ってくれるのならば。
「何だい? 妙な顔をして」
ミルイヒは我に返った。青年はすでに血を拭い終え、剣を収めていた。
青年は死体とミルイヒを見比べた。
「そうか、こういうのに出くわしたことがなかったか。貴殿は近衛だったな」
近衛――そうだった。
ミルイヒは目が覚めた。わたしは近衛隊の一員。目の前の男は切り裂き魔。何を迷うことがあろう。エルネラのことは関係ない。
だが、訊かずにはいられなかった。
ミルイヒは唇を舐めた。
「……殿下は……エルネラ殿下は知っているのですか?」
青年は怪訝な顔をした。
「何を?」
「あなたがこのような……人殺しをしていることです」
「さぁて、どうだろう? 知らないだろうな」
青年は淡々と答えた。
ミルイヒは唇を真一文字に引き締め、剣を青年に向けて構えた。月明かりに白刃が輝く。
青年は驚いたような顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。その微笑みはミルイヒにはひどく恐ろしいもののように見えた。
「何のつもり?」
「あなたのような危険な人物に、エルネラ殿下のそばにいてもらいたくない」
青年は微笑みを浮かべたまま、目を細めた。
「危険な人物……そうかもしれないね。そう、わたしはエルネラのそばにいるべきではない。……わかっているさ。この平和な都、誰も彼もが血を望まぬこの国に、わたしの居場所なんてない。しかし、この平和と繁栄は永遠のものじゃないんだ。来る時に備える軍隊は弱体化している。かつては精鋭を誇った近衛隊といえども目を覆うばかりだ。聖騎士の称号すら、名ばかりのものとなりつつある。過去の栄光は過去のもの。いつまで他の国を欺いておけるのやら……。やはり、何かしらの刺激は必要だと思う」
それは独り言じみていた。
「だからといって、切り裂き魔をのさばらせておくわけにはいきません」
「しかし、警告にはなるだろうよ。この国の者たちは平和ぼけが過ぎる」
「剣を抜いて下さい」
ミルイヒは毅然として剣を構え直した。もはや恐れはない。
「貴殿と剣を交えるのは楽しそうだ。しかし、わたしは手加減というものを知らない。この男のようになりたくなければ、剣をひくんだ」
と、青年は死体をつま先で小突いた。
「あなたが勝つとは限らないでしょう」
「いや、勝つさ。ランディ・フェイスとの決闘は見させてもらった。貴殿の技量はわかっている。なかなかのものだが、わたしにはかなわないよ」
「過信は命取りですよ」
「過信じゃないよ。わたしは自分の技量を知っているだけだ。どうやったって、貴殿に勝ち目はない」
青年の漆黒の瞳が冷たく輝いた。ミルイヒは背筋に寒気を感じた。青年には常人にあらぬ、狂気じみた気迫がある。自分と剣を合わせることを拒否しているにもかかわらず、その気迫はどこかそれを否定しているような気がする。
喉の奥がひりつくのを感じた。額に玉のような汗が浮かぶ。知らず、呼吸が荒くなる。必死に気を落ち着けようとしたが、ことごとく失敗した。
青年の、すべてを呑み込んでしまいそうな夜空の瞳は、自分をひどく矮小なものに思わせる。この瞳の前ではまったくの無力だ。叫び出して、一目散に逃げ去りたい。しかし、ミルイヒは見つめることをやめなかった。
青年はため息をつき、ひどくやさしく微笑んだ。
「頑固だな。わたしの目を見ただけで、わたしの技量はわかっただろうに」
青年はミルイヒにゆっくりと近づいてきた。ミルイヒは金縛りにかかったように動けなかった。空気を求めてあえぐだけだった。冷たい汗がじっとりと流れる。
青年はミルイヒをじっと見つめる。その眼差しがどこか愛しそうなのは気のせいか?
間近で見る青年の顔は本当に美しかった。
透き通るように白い肌は女のようにきめが細かく、なめらかで、なまめかしい目を縁取る睫毛は長く、月の光を受けて輝いているように見える。
とても同じ人間であるとは思えない。月の夜が見せる、まやかしのようだ。ミルイヒは我を忘れて見とれていた。
青年はミルイヒの剣を握る手に触れ、その手を開かせて鞘に剣を戻した。それから、ミルイヒの両肩を軽く叩いた。
ミルイヒは金縛りが解けたかのように地面にくずおれた。途端、どっと汗が流れ出し、両手をついて肩で激しく息をしなければならなかった。
凄まじい圧迫感から解かれた気分である。
こんな……こんなことってあるのか? 気迫だけでこうまで……呼吸ができなくなるようなことってあるのか? その事実を今自ら体験しても、信じることができなかった。
「それじゃ、死体の処理、よろしく」
青年は陽気ともいえる声で言うと、静かに去っていった。月夜の散歩をしている風流な貴族といった趣で。
ミルイヒは去りゆく青年の後ろ姿を見てぶるっと震え、自分の肩をかき抱いた。震えが止まらない。
二ヶ月ほど前に剣を交えたとき、よくぞ生きていたものだ。癒えたはずの左腕がうずいた。
死体を警備隊に引き渡したあと、約一ヶ月ぶりに家に帰り着くと、ヘイデンが恐ろしい顔で待っていた。始終小言を言っていたが、ミルイヒはほとんど聞いていなかった。
あの美しい切り裂き魔のことを考えていたのである。
絶対に野放しにはしておけない。この平和な王都を乱す危険な存在だ。
ミルイヒはため息混じりに首を振った。思ってもいないことを思っている。本当は王都のことなんてどうだっていいのだ。エルネラさえ無事ならいいのだ。
エルネラに傾倒するごとに、国王への絶対的な忠誠が揺らいでいく気分だった。エルネラのためなら、国王へ叛旗を翻すことだってできそうな気がしてくるのだから恐ろしい。
しかし、エルネラは本当に無事なのであろうか? 今はよくても、手当たり次第の切り裂き魔は、本当にエルネラへその刃を向けることはないのだろうか?
あの切り裂き魔がエルネラを愛しているとは到底思えなかった。切り裂き魔に対するひがみや妬みの感情を引いたとしてもだ。
エルネラに近づく切り裂き魔の狙いはいったい何なのだ?
さっぱりわからない。
どうも、あの切り裂き魔は愉快犯のような気がする。何の目的もなく、自己満足のためだけに人を殺している――そんな気がする。
やはり、エルネラが危険だ。しかし、あの切り裂き魔を退ける自信はまったくない。情けないことだが、あの気迫を思い出すだけでも震えが走る。
どうしたらよいのだろう?
相談すべき友人はすでにない。個人の問題でなくすればよいのかもしれないが、事を公にするにはすべてを話さなければならないだろう。当然、後宮へ忍び込んだこともだ。だが、それは口が裂けても言えない。
エルネラにあの青年の正体をばらすか? だが、エルネラは信じないような気がする。それに、証拠もない。ミルイヒの言葉より、切り裂き魔である青年の方を信じるに違いあるまい。
だが、エルネラが信じようと信じまいと、言わなければならない。そうしなければ自分の気が収まらない。
ミルイヒの心に、どす黒いものがひとしずく落ちた。最初は小さな染みであったそれは、あっという間に心を浸食し、黒一色に染め上げた。
――息苦しい。
この感情を誰かに吐き出さねばならない。そして、自分と同じように、いや、それ以上に真っ黒に染め上げなければならない。
その想いには、危険な心地よさがある。素面であるというのに、酔っているかのようだ。
愛しい青年が切り裂き魔だと知ったら、エルネラはどんな顔をするだろう? あの美しい顔がどんな風に歪むだろう?
知らず、笑いがこみ上げてきた。
「姫様、セイデーズ公爵が面会を求めておいでです」
ディアンのその言葉に、エルネラは紅茶のカップを取り落とすところだった。
「なんですって!?」
信じられぬ面持ちで、私室の入り口に控えるディアンを振り返った。
「いつもの控え室でお待たせしていますが」
エルネラは椅子の背を握り、考え込むようにうつむいた。その顔は青ざめている。
今さら、いったいなんだというの?
――忘れる決心をしたというのに。
なぜ、今さらわたしの前に現れようとするの?
――もう二度と会いたくはない。
なぜ、わたしの心をかき乱そうとするの?
――思い出したくもない。
「あ……会いたくないわ」
その言葉を発するには多大な努力が必要だった。
声が震えている。
わかっている。
――会いたい。
だが、会ったからといって、自分が望むようなことは何もありはしないだろう。あの凍り付いた灰色の目で見られるだけ。自分の想いが空回りするだけ。やるせなくなるくらいなら会わない方がいい。
「……姫様、本当にいいのですか?」
ディアンが気遣わしげに訊いてくる。
エルネラは目をつむり、
「会いたくないの!」
いささか
「そのようにおっしゃると思いました」
聞こえるはずのない声を聞き、エルネラは驚いて振り向いた。
驚きを通り越して青ざめているディアンの後ろに、その声の主は悠然と立っていた。
「……セイデーズ公爵様!? どのようにしてこちらに?」
ミルイヒは近衛隊の隊服のまま、あろうことか後宮に乗り込んできたのだ。それも、後宮の奥深くにあるエルネラの部屋まで。
「失礼ながら、あとをつけさせていただきました、ディアン嬢」
ミルイヒは濃い紅色の絨毯の敷かれたエルネラの部屋に踏み込んだ。
エルネラは半分腰を上げて椅子の背をつかんだまま、動くことができなかった。緑の目は大きく見開かれ、小さな桃色の唇は空気を求めるかのように震えている。
ミルイヒはエルネラの顔を見て、目を細めた。無機質な目をしている。
「そのような顔をせずとも、何もしませんよ。婚約はとうの昔に破棄されました。今や、わたしはあなたの一臣下に過ぎません。許されないことですが、直接ここに来てしまったご無礼をお許し下さい」
ミルイヒはエルネラのそばに寄ってひざまずき、その手の甲にキスをしようとした。しかし、エルネラはミルイヒの手が触れるやいなや、素早く払いのけた。
ミルイヒはさらに目を細めた。
「言ったはずよ……もう、二度と……会わないって……」
――息苦しい。
声がようやく途切れ途切れに出た。
――熱い。
ミルイヒの手が触れた部分を軽くさする。
心臓の音がやけに耳に響く。
「ええ、私的には。しかし、わたしは一臣下としてやってきたのです。わたしだとて殿下に会いたいわけではありませんでした。しかし、どうしても話さなければならないことがあるのです」
「会いたいわけではない」――その言葉が心に深く突き刺さった。
限りなく冷たい声と瞳。これが仮面であるはずなどない。ミルイヒはいつになく厳しい顔をしている。エルネラは怯えた。
「話さなければならないこと……?」
「ええ」
と、ミルイヒはエルネラの向かいにある、瀟洒な椅子を見やった。
「座っていいですか?」
戸惑うようにエルネラはうなずき、自分も座り直した。
勢い込んで我にもあらず大胆に、何とか無事に乗り込んではみたものの、いざ会ってみると言い出すことができなかった。
黒髪の青年は切り裂き魔である、ということを言ってエルネラの反応を見ても、自分がさらに惨めになるだけではないのか? ここにきて、ミルイヒは臆病になっていた。
エルネラの部屋はほのかなレイエンの花の香に満ちていた。思ったほど大きな部屋ではない。
薪がくべられた暖炉は赤々と燃え、その上には山の中の渓流が描かれたタペストリが掛けられている。反対の壁には書棚と鏡台がある。意外と簡素な部屋の中央には、二人用の足の細い丸テーブルがあった。
ミルイヒとエルネラは互いに互いを正視できずに、黙してそのテーブルについていた。その上にはディアンが用意していった紅茶があったが、口をつけられないまま、すでに湯気は消えてしまっている。
エルネラは乾いた唇を舐め、恐る恐るミルイヒを見た。
「……なんなの、話って?」
その声には何かが抑制されているようだった。
ミルイヒははっと我に返り、エルネラを見つめた。エルネラはわずかに眉間にしわを寄せ、できるだけ目を合わせないようにしている。
そんなにもわたしといるのが嫌なのだろうか? わたしの顔を見るのも嫌なのだろうか? わかっているさ。だからこそ、危険を冒して後宮の奥深くまでやってきた。こうでもしなければエルネラとは永久に会えなかっただろう。
ミルイヒは震える唇を噛んだ。
言ってやる……ああ、言ってやる! 黒髪の青年が切り裂き魔であることを知ってもまだ、自分を無視できるだろうか?
再び、暗い感情がわき上がり、はち切れんばかりに心を満たした。これを抑えつけているのは苦しい。つらい。解放してしまいたい。すべてを吐き出したあと、どれだけ心地よくなれるだろう。
「重要な話なんでしょ? さっさと話したらどうなの?」
エルネラは目をそらしたまま、苛立ったようなかすれた声を出した。
ミルイヒは目を細め、唇を舐めた。
早く帰って欲しいというわけか。そうしよう。わたしもあなたがどんな顔をするか、早く見たい。その美しい顔がどんな顔になるのか……。
「……ええ」
ミルイヒは渇いた喉を潤すために、紅茶のカップを取り、一息に飲んだ。ひと呼吸置き、決心して口を開いたとき――
「ひっく」
エルネラは、空のカップをソーサーに戻すミルイヒを、せつない気持ちで見ていた。
ついに何かを言おうとしている。「話さなければならないこと」を話してしまったら、彼はさっさとこの部屋を出て行ってしまう。
ああ、どうして、それを促すようなことを言ってしまったのだろう? しかし、何かを話さなければ、あの重苦しい沈黙に押しつぶされそうだった。
エルネラは恐る恐るミルイヒの瞳を見た。今までは怖くて見ることができなかった。だが、氷の矢で射るようなその瞳を、これが最後とばかりに見ておこうと思ったのだ。
エルネラは息を呑んだ。
これはどうしたことだろう? ミルイヒはせつない、熱っぽい瞳で自分を見ている。今までこんな目をした彼を見たことがない! ――いや、一度だけこれに似たようなものを見たことがある。ランディとの決闘の前だ。
あれでわたしは勘違いしたのよね。この人はまたしてもわたしを惑わそうというのかしら?
しかし、それが嘘だろうと本当だろうと、エルネラは目が離せなかった。
ミルイヒは丸テーブルを蹴って払いのけた。丸テーブルは横倒しになり、紅茶のカップとソーサーは絨毯に白い破片と液体を飛び散らせた。しかし、厚い絨毯に吸収されて、その音はさほどのものではなかった。
エルネラはミルイヒのその乱暴ぶりに驚かされ、怖くなったが、それでもまだ目が離せなかった。椅子に縛り付けられたように、身体が動かなかった。
ミルイヒは身を乗り出すと、荒々しくエルネラの腕をつかんで引き寄せた。エルネラは呆然としてされるがままに、絨毯に膝をついていた。
ミルイヒはエルネラを見下ろした。その瞳はエルネラをひどく不安がらせた。いつもの彼ではない。しかし、目を離すことのできぬ不思議な引力を持っていた。
「愛してる」
「!?」
エルネラは目を大きく見開き、息を呑んだ。その半開きになった唇に、ミルイヒは己のそれを吸い付くように重ねてきた。
思いがけぬ事の連続で、エルネラの頭の中は混乱していた。しばらくして、唇を奪われているという驚くべき事実に気づいて抵抗を試みるも、ミルイヒはびくともしない。それどころか、ミルイヒの甘く熱い口づけに力が抜け、袖口をつかんでいるのがやっとの状態になってしまった。そして、いつの間にやら押し倒されていた。
されるがままに、エルネラはミルイヒに身をゆだねた。
ひどく心地よい夢を見ていた気がする。どんな夢かは思い出せないが、すがすがしく、満ち足りた気分だった。最近では珍しいことだ。特に、婚約の破棄からこっちは。
ミルイヒは薄く目を開いた。鎧戸の隙間から光が漏れ、部屋の中をぼんやりと照らし出している。常夜灯はなく、それだけが唯一の光だった。小鳥たちの声が、その光が一日の始まりのそれであることを告げている。
ようやく慣れてきた目に見えるのは見知らぬ白い天井。また、どこかの貴族娘の家だろうか? ……思い出せない。
右半身に人肌のぬくもりを感じる。あたたかく、気持ちいい。
ふと見やると、薄暗闇に輝く金髪の小さな頭があった。ほのかにレイエンの花の香がする――ミルイヒは寝ぼけ眼をぱっちりと開いた。
なんだって!? レイエンの花!?
胸にもたれかかっている女を、起こしてしまわぬよう静かに引き離す。そして、その顔を見るやいなや、青ざめた。
エルネラ殿下……!!
目をこれ以上もないくらい見開いて、健やかな寝息を立てているエルネラの白い顔を見た。間違いなくエルネラだ。
ミルイヒはあえいだ。そんなバカな! どうして……いったい何が……!?
何も思い出せない。エルネラに、青年が切り裂き魔であるということを話そうとしたところまでしか覚えていない。
男女が一糸まとわぬ姿で並んで寝ているならば、やはり、それなりのことがあったのは間違いないだろう。
額を押さえて息を整えつつ、起きあがった。そして、掛布だと思っていたのが自分の近衛の外套であることに気づいた。
周りを見回すと、衣類が散乱し、すぐ横に見覚えのある丸テーブルと椅子が転がっている。暖炉の火はほとんど消えかけている。ここはエルネラと向かい合って話をしようとしていた部屋だった。
ため息をついた。最悪だ。床の上でだなんて……。
ミルイヒはのろのろとした動作で服を着始めた。思考は完全に停止している。頭の中は空っぽだった。
最後に外套を取り上げようとしたとき、決定的な証拠を発見してしまった。息を呑んだ。
純白の外套に赤茶色い染みがぽっつりとあった。
それはエルネラが純潔だった証。エルネラはまだ誰にも奪われてはいなかったのだ。
ミルイヒは震え、外套を取り落とした。それは元通り、エルネラの上に覆い被さった。それでエルネラを起こしてしまったらしい。うっすらとその新緑の瞳を開けた。ミルイヒは後ずさった。
エルネラは軽く眉をひそめてからぱっちりと目を開けた。不安な面持ちで見下ろすミルイヒの顔を見つけると、恥ずかしそうにほんのり頬を染めた。
今までに一度も向けられたことのないやさいしい顔にどきりとして、思わず抱きしめたくなった。しかし、そのような思いに駆られたことを恥じ、エルネラから目をそらした。
エルネラは片肘をついて、ゆっくりと身を起こそうとした。
「いたっ……」
柳眉をひそめ、己の身体をいたわるように抱きしめた。
ミルイヒは身に覚えのない罪悪感に唇を噛んだ。初めてだというのに、乱暴に抱いてしまったらしい。だが、何一つ覚えていないのが一番もどかしかった。
何と言っていいのかわからない。唾を飲み込み、恐る恐る口を開いた。
「あ……あの、殿下……その……」
声はかすれ、震えていた。言葉が出てこず、あえぐように口を動かすだけだった。
「何も言わなくていいわ」
エルネラはすがすがしい微笑みを浮かべた。今までとは違う、ずいぶん大人びた微笑みだった。
ミルイヒはその笑顔に驚くと同時に不安になった。殿下はわたしを許して下さるというのだろうか?
エルネラは笑みをさっと消し、唖然とするミルイヒを毅然とした瞳でまっすぐに見つめた。何かを決意している目である。
つややかな唇がゆっくりと動く。
「さよなら」
その言葉はずしりと響いた。暗い谷底に突き落とされた気分だ。
「あ……」
声が出なかった。ミルイヒは蒼白になり、大きくあえいだ。許して下さるだなんてとんでもない! これは決して許されない罪だ。ミルイヒはよろめいた。
エルネラはそんなミルイヒを無視し、ミルイヒの外套を身体に巻き付け、よろめきながら続きの部屋へと消えていった。
ミルイヒはひとり、部屋に取り残され、しばらく呆然と立ち尽くしていた。