エルネラは走った。
暗い路地をひたすら走った。
その手には、真ん中からぽっきりと折れた血刀が握られている。動悸は激しく、足は徐々に重くなり、その重さに堪えかねて、ついには歩いていた。
汗まみれの顔を包む髪は肩ほどの長さしかなく、輝く金髪はくすんだ褐色になっている。エルネラは王城を出たあと、旅の準備を整えるために美しいその髪を切って売り、見つけられぬように染めたのだった。
足を止め、薄汚い壁に身をもたれた。大きく深呼吸をし、青ざめた顔で、今初めて見るかのように剣を握る手を見た。堅く握りしめられ、血管がうっすらと浮き出ている。心なしか震えている。
――人を殺してしまった。
肉を断つ感触を覚えている。あの刹那、振るった剣が己の身体の一部であるかのように、剣を通して肉体の悲鳴が聞こえた。
――おぞましい悲鳴。
それをかき消したくて、無我夢中に剣を振るった。その度に悲鳴は大きくなる。それでも、剣を振るわずにはいられなかった。
何も聞こえなくなったとき、闇雲に走っている己がいた。
静かすぎて、耳が痛かった。だが、ひどく心地よかった。
――怖かったのだ。
人を殺してしまったことが、ではない。
それには驚くほど感慨がない。空虚である。いや、考えたくないのだ。頭の片隅でわめき声をあげている黒い影を凝視しようとすると、吐き気がこみ上げてくるから。
――怖かったのだ。
嵐のような悲鳴の渦にさらわれて、己を見失ってしまうのが。
そうなったら、おしまいだと思った。どうなるかはわからないが、直観的にそう思っていた。
左手を使って、ようやく剣から手を引き離した。乾いた音を立てて、剣は地面に落ちた。静寂に満ちているあたりに、その音はさほどの影響も与えなかったように思える。
乾いた唇を舐め、軽蔑するような眼差しでその剣を見た。安いだけあって、なまくらである。
黒髪の青年は木剣しか保持させてくれなかった。だから、エルネラは髪を売ったなけなしのお金で、安い剣を買うしかなかったのである。しかし、その剣ももう使いものにならない。
エルネラはほんの少し、後悔し始めていた。あまりにも考えなしに、勢いのままにいつもの練習着を着ただけで城を飛び出してしまった。そして、右も左もわからぬまま、得体の知れぬ場所に紛れ込んでしまった。
王都にこんな場所があったなんて……。さきほど、無言で襲いかかってきた者たちのことを思い出し、身震いした。
エルネラは周りを見回した。辺りは薄暗い闇に包まれている。夜空の方がずっと明るく見えた。無人の建物が威圧するように建ち並んでいる。時折風が吹いて、落ち葉がかさかさと音を立てる以外の音はしない。
とりあえず、襲撃者たちから逃れることはできたようだった。しかし、またいつ襲われるかわかったものではない。しかも、今度は迎え撃つことなどできはしない。
渇きにひりつく喉を押さえ、歩き出した。
――早くこの場所から出なければ!
しかし、どこが出口なのかは皆目わからない。闇雲に歩き回るしかない。
ああ、神よ、あの呪われた輩に会いませんように。エルネラはいつにない信心深さを心にのぼらせた。
紺の外套を引き寄せ、息を押し殺して早歩きをする。できるだけ月明かりをさけ、暗いところを歩く。
路地の角にたどり着いたとき、その角の陰から一人の男が勢いよく現れた。驚くまもなく、エルネラはその男にぶつかって尻餅をついた。
素早く立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。すくんでいるのだ。息が止まる。目をつぶる。
だめ! 殺される!
「すみません。大丈夫ですか?」
エルネラは息を呑んだ。その声には聞き覚えがある。
恐る恐る目だけを男に向け、男を認めるやいなや、さっとうつむいた。無言の襲撃者たちよりも、ある意味質が悪かった。にもかかわらず、安堵に涙が出そうだった。
エルネラに手をさしのべている男は、ランディだったのである。
躊躇いがちにその手を取る。
――あたたかい。
その手のひらのあたたかさは、じんわりとエルネラを包み込み、瞳を潤ませた。エルネラは嗚咽しそうになるのをぐっと堪え、己の弱さを呪った。
エルネラ、この程度の覚悟だったの? やっぱりあなた、所詮「お姫様」なのね。
自問自答のような言葉がふっと胸の内に浮かび、安堵の涙は悔し涙に変わった。
――戻りたくない。
それには、「今さら戻れない」という気持ちが含まれている。
ランディはまだ自分に気づいてはいない。気づかれる前に離れるのだ。
「どこかお怪我は?」
エルネラは素早く首を振り、さっと身を翻した。しかし、ランディの手が行くことを許さない。立ち上がるときに手を取ったまま、ランディは手を放さなかったのだ。
「どこへ行こうというんです? あなたが帰る場所はそちらではないでしょう? エルネラ殿下」
エルネラは息を呑んで振り返った。
「どうして……?」
ランディはため息混じりに微笑んだ。
「たとえわたしが殿下のことをにが……いえ、殿下のような方は、どのような姿をしていてもわかりますよ。しかし、あの美しい
ランディの顔には、困惑とたじろぎがない混ざっていた。
「放しなさい!」
エルネラはぐいと腕を引っ張った。しかし、ランディは放そうとはしない。
「だめです」
きっぱりと言った。
「なぜこんなまねをしたんですか? よもや、ミルイヒのせいとは言わないでしょうね?」
エルネラは腕に力を込めることをやめた。
ミルイヒの名を聞いて、身体が熱くなるのを感じた。昨夜のあの夢のような出来事を思い出したのである。
そうね、あれはすばらしい夢とも、悪夢とも言えたわ。
「そうだとしたら?」
意地悪く訊いてみた。
「訳がわかりません。望んでいたことでしょうに」
エルネラは眉をつり上げ、ランディをきつくにらんだ。ランディは一瞬ひるんだようだったが、唇を引き締めてエルネラを見返した。
「わたしが望んでいたですって!? 冗談じゃないわ! 無礼を言うにもほどがあるわ」
エルネラはかすれ声で叫んだ。ランディは怯えるような顔で目をそらしかけたが、再びエルネラの燃える瞳をまっすぐに見た。
「……す、すみません。無礼は承知です。しかし、このままではあまりにもミルイヒが哀れでならないんです。あいつを見るに堪えないんです」
「ミルイヒが後悔してるとでも言いたげな口振りね。だけど、わたしがどれだけ傷ついたと思っているの? どれだけ忘れようと努力したと思っているの? ようやく立ち直れるところだったの。それなのに、あの人はわたしの心を無理矢理踏みにじったのよ! それなのに……」
涙が浮かんだ。奥歯をぎりっと噛みしめる。
何を言っているのかしら、わたしは。本当はうれしかったのよ。嘘でもうれしかったのよ!
ランディはその涙にさらにひるみ、慌てて付け加えた。
「違うんです! 勘違いしないで下さい。殿下を抱いたミルイヒは、ミルイヒであってそうじゃないんです」
「どういうこと?」
エルネラの顔は泣き笑いに近かった。
「紅茶にお酒が入っていたでしょう?」
「ええ。いつもディアンにそうしてもらっているわ」
ランディは唾を一呑みした。
「ミルイヒは……ミルイヒは極端にお酒に弱いんです」
エルネラは眉をひそめた。
「お酒を少しでも飲むと、仮面がはずれるんです」
エルネラは目を見開き、息を呑んだ。
「あれは……あれは本心だったというの?」
ランディは力強くうなずいた。
エルネラは青ざめ、弱々しく首を振った。かすれた声が出た。
「う……そよ。そんなはずないわ。あれはあの人のいつもの手なのよ。ああやって女を籠絡するのよ。わたしはずっと騙されていたのよ。わたしを愛しているんだと、ずっと騙され続けていたのよ。わたしを抱いたのだって、快楽のためだけ。そうでなければ、あんな……あんなひどい抱き方をするものですか! わたし……初めてだったのに……!」
ついには涙声となり、一筋の涙が伝い落ちた。あれはまさしく悪夢のようだった。ミルイヒは、つらさに涙を流すエルネラにはお構いなしだった。
わたしを愛しているならば、もっといたわるはずよ。
エルネラは凄惨な笑みを浮かべた。
「だから、わたしも仕返しに引っ掻いてやったわ。当分、治らないでしょうね。当分、他の女を抱けないわ。ふふ……」
ランディは痛みを堪えるかのように眉間に深いしわを寄せ、小さく首を振った。そんなランディを、エルネラは面白がるように見た。
仕返し――あの時は全くそんなつもりはなかった。ただ、今組み敷いている女を自分だと認めて欲しかった。十把ひとからげに抱いた女たちと一緒にして欲しくなかった。忘れて欲しくなかった。しかし、今思うと仕返しという言葉はぴたりと合うような気がする。
あの傷をさらして他の女を抱くことなんてできないもの。
ランディはエルネラから目をそらして頭を掻いた。どう弁解したものか、悩んでいるように見えた。
「えーと……あいつはその……そう! 愛情表現が下手なんです。
あいつの母親はひどい癇癪持ちだったらしく、母親に関する記憶はつらいものしか持ち合わせていないようで……なにしろ、幼いときに亡くなっていますから。それに、父親はひどく厳しい人でして――あいつはそうは思っていないようですが――満足に愛情を受けていなかったのです。
甘えたい盛りに誰にも甘えることができなかった。だから、十になる前に子供らしいところはほとんどなかったようです。
俺が士官学校で初めて会ったときも、ひどく感情をあらわにしない奴でした。友達もいなかった。徹底的にすべてから距離を取っていた。愛に応えてもらえないのじゃないかという疑念が常にあって、ひどく臆病でした。裏切られて傷つくよりも、孤独を選んだんです。
そして、父親が倒れて、公爵代理となった頃からでしょうか。いつしかそれは諦観に変わっていったんです。おそらく、社交界での歪んだ愛にうんざりしたのでしょう。
――しかし、あいつは変わりました。
殿下によって」
エルネラは目を見開いた。
「――ですが、あいつは戸惑いました。忘れてしまったその感情がいったいどういうものであるのか、知りたくなかったのです。知ってしまえば、絶対に傷つくと思っていました。そして、自分の心がわからぬまま、婚約破棄となった。
しかし、そのまま消え去るような想いではありませんでした。その想いをどうにか鎮めようとして、慰めてくれる相手を手当たり次第に求めたんです」
ランディはため息をついた。
「あいつはある日、殿下と他の男が一緒にいるところを目撃してしまいました」
エルネラはそれが誰であるのか気づいた。
「それがすべての枷を解き放つ鍵でした。……男の嫉妬とは見苦しいものです」
ランディは苦々しい顔をした。
「あいつは感情に翻弄されています。お酒を飲んだことで、それは増長したのでしょう」
エルネラは含み笑った。
「それじゃあ、わたしが悪かったとでも言うの? わたしが愛してるとでも言えばよかったの?」
「有り体に言えば、そうですね」
「まっぴらごめんよ!」
エルネラは声の限りに叫んだ。唇がわなわなと震える。
「愛してないと言いきれるんですか?」
再び涙がこみ上げてきた。
「愛してるわ! ずっと愛してたわ! けれど、嫌なの! わたしを愛しているならそう言えばいいわ。それを素面で言えないあの人が嫌なの!」
ランディはあきれたようにため息をついた。
「それではいつまで経っても平行線ですね。あいつからは絶対に言いませんよ」
「それならば、それでもいいわ」
エルネラはうつむいた。ランディは眉をひそめて、その顔をのぞき込むように身を乗り出した。
「いいんですか?」
「いいの……よ!」
エルネラはランディの股間を思い切り蹴り上げた。
「……!」
ランディはエルネラから手を放し、声を出すこともできずに地面にくずおれた。肩を小刻みに震わせている。想像以上の効果だった。
エルネラは素早くランディの剣を奪い、暗い路地の奥へと消えていった。
ランディは為すすべもなく、脂汗を流してうずくまるしかなかった。
「わたしには話すことなんて何もありませんっ!」
ミルイヒは左腕をひねりあげられている痛みと、背中の一点に体重をかけられている痛みに堪えながら、ようよう声を出した。
「わたしにはあるんだ。どうやら貴殿は大きな勘違いをしているようだ」
「勘違い?」
ミルイヒは吐き捨てるように言った。自分は切り裂き魔ではない、とでも言うのだろうか?
「エルネラはわたしを、貴殿が思っているような意味で愛してなんかいないよ」
「何を……!」
ミルイヒは歯を食いしばり、青年の下から抜け出ようと必死にもがいた。しかし、己より頼りなげな身体つきをしているのに、青年はびくともしない。まるで、石像がミルイヒの腕を取り、上にのっかっているかのようだ。いったいどこからこんな力が出ているのだろう?
ミルイヒは辛うじて視野に入っている青年をにらんだ。青年はそれに微笑みをもって応えた。
「そう怖い顔をしないでくれよ。本当の本当に、エルネラとわたしの間には何もないのだから」
「……嘘だ。わたしは見たんだ。あなたと殿下が『後宮の庭』で会っているところを。……抱き合って……その、キ、キスを……」
ミルイヒは顔をしかめ、唇を噛んだ。思い出すに腹立たしい。
そこには、密通であるとか、男子禁制の場にいたとかいうことで、青年を責める思いはない。あるのは個人的な狂おしい感情だけである。
青年は驚いたように目をしばたかせた。
「それはいつの話だい?」
「……つい最近のことです」
ミルイヒは青い顔で目をそらした。あれは、いちいち覚えていないほどいつもあることなのだろうか?
青年は目を細めた。
「ははぁん、あの時か……。しかし、感心しないな、のぞき見なんて」
ミルイヒは決まり悪そうに赤面した。
「ま、別にいいけどね。やましいことはしてないから」
ミルイヒは再び青年をにらんだ。
「ぬけぬけと……!」
青年はその先を遮るように腕に力を込めた。ミルイヒは痛みに顔をしかめた。切り裂き魔自身の手による古傷が、ぴりぴりと引きつれる。
「わたしからではないよ。抱きついてきたのはエルネラだし、キスしようとしてきたのも――未遂だけど――エルネラだ。あまつさえ、貴殿のことを忘れさせてくれとまで言う」
ミルイヒは目を見開いた。わたしのことを忘れさせてくれだって!?
「わたしは応えてやってもよかったのだけれど、それはエルネラのいつものひねくれ心だということはわかっていたから、突き放してやったよ。あの娘はね、本当に困ったひねくれ屋なんだ。その上、頑固だ。本当に好きな人を前にして、好きだなんて言えない娘なんだ」
ミルイヒはひどい喉の渇きを感じた。
「あなたも……殿下がわたしを愛していると言うんですか?」
「ああ。エルネラは貴殿を愛しているよ。確かだ」
「それならば……どうして殿下はわたしに言ってくださらないのですか?」
ミルイヒは眉間にしわを寄せ、痛々しく目を伏せた。
「だから、そこがエルネラのひねくれなんだ。しかし、貴殿から一言言えば、きっと応えてくれるだろうよ。……まあ、困った応え方だろうけど」
ミルイヒは弱々しく首を振った。
――言えない。
エルネラを前にして、言うことなどできはしない。泣きたい気分だった。どうしてわたしはこうまで臆病なのだ?
ランディと青年の話――エルネラが自分を愛しているという話が本当ならば、強姦まがいにエルネラを抱いて、自らそれをつぶしてしまったことになる。きっとあきれてしまったに違いない。もう愛してなどいないに違いない。最後に見たのはそういう顔だった。
自分の気持ちをさっさと告げていたのならば、こんな事にはならなかったかもしれない。だが、それはあくまでも推測の域を出ないし、もはや取り返しのつかない過去のことであった。
ミルイヒは青年を静かな瞳で見つめた。
「あなたはいったい殿下の何なのです?」
「剣の師匠、とでもいったところかな? 気が向いたときだけだけど。わたしはエルネラに特別な感情は持ち合わせていない。エルネラが失踪しようとのたれ死のうと、かまいやしない」
ミルイヒはその言葉に嘘はない気がした。この男は切り裂き魔なのだ。エルネラでさえも眉一つ動かさずに殺すことができるだろう。
ミルイヒに卒然、寒気が襲った。青年に身体の自由を奪われていることを思い出したのである。
エルネラを悲しませるようなことはしたくないと言っていたが、それは本当なのだろうか? このまま自分は殺されるということはないのだろうか? 何しろ相手は、手当たり次第に人を斬っている切り裂き魔である。
死ぬことは恐ろしい。しかし、このまま殺されたっていいと思う。エルネラにあのような手ひどい仕打ちをしておいて、のうのうと生きていることなんてできない。
ミルイヒは唾を呑み込み、恐る恐る声を発した。
「わたしを……」
殺すのですか?
――と言いかけたとき、
「ミルイヒを放せ!」
気迫のある声がミルイヒの言葉を詰まらせた。
青年の肩越しに、青年の長くほっそりとした首に剣を突きつけている、ランディの姿が見えた。
エルネラはあてもなく暗い路地をさまよっていた。その乳白色の頬は涙に濡れ、緑の瞳は焦点を結んでいない。
ミルイヒも自分を愛していた。
――その事実に打ちのめされた。
なぜ今、それを知らなければならないの? もうすべて吹っ切ったはずだったのに、なぜまた引き戻されなければならないの? ミルイヒを忘れ、自由を得るはずだったのに……。
苦悩と甘美がない混ざったあの夜、熱い吐息でささやかれた愛の言葉。それはまだ耳に残っている。
エルネラはぎゅっと目をつむり、熱く火照った耳朶を人差し指と中指で挟んで軽くつねった。消そうにも消せやしない。あれがすべて本心だったなんて……。
嘘であったらどれだけ気が楽だっただろう。嘘であると思っていたからこそ、王城を飛び出すことが、ミルイヒを忘れる決心をすることができたのだ。
後悔は好きではない。しかし、激しく後悔していた。
わたしが素直に告白していれば……決闘などしなければ……婚約破棄などしなければ……わたしは今頃……。だが、もし過去にさかのぼることができたとしても、自分は同じことをしたに違いないだろうし、ミルイヒを前にして愛してるなどとは死んでも言えないだろう。
エルネラは首を振った。今さら戻ることなんてできない。
王城にも。ミルイヒのところにも。
すでに一歩は踏み出してしまった。踏み出したからには前だけを見つめるしかない。
エルネラは涙を拭い、顔を上げた。
大きな月は中天にさしかかっていた。月明かりを真っ向から浴びるエルネラの姿は、凛とした美しさと気高さに満ちている。
エルネラはランディから奪った剣を握りしめ、この一帯から抜け出すべく、きびきびと歩き出した。
どこを歩いても同じような風景が続いているように思えた。
入り組んだ狭く暗い路地。威圧的に立ちはだかる建物群。この建物の一つに入って屋上から旧市街を見下ろし、方向を定めようと一度ならず思った。だが、もしその建物の中にあの襲撃者たちが潜んでいたら? そう思うと到底入る気にはならなかった。
エルネラは、ともかく己の足に任せて歩いた。大きな路地に出れば何とかなるかもしれない。しかし、どんどん奥深くに入っていっているような気がしてならなかった。
突然、鋭い寒気を感じて立ち止まった。冷たい汗が背中を伝い、エルネラは大きくあえいだ。なんなの、この感じは?
空気がぴんと張りつめていた。皮膚の表面がぴりぴりする。唇が乾く。
なんの気配も感じられない。しかし、何かが違う。先ほどと同じ場所であるはずなのに、まったく異なったところへ突然移されたような気分である。
エルネラは背後でわずかな鞘ずれの音を聞いた。反射的に、剣を抜き放ちながら振り向いた。
白光がエルネラの瞳に飛び込んできた。耳障りな金属音が辺りに響く。すんでの所で白刃を受け止めていた。しかし、エルネラの耳には、激しく脈を打つ己の心音が他人事のように響いていた。
少しでも遅れていたら死んでいた!!
合わせた剣越しに、月明かりに黒々と輝く目があった。エルネラは言いしれぬ恐怖に身をすくませた。その瞳には今まで現れた襲撃者たちにはない、底なしの狂気があった。
エルネラの頭の中で警鐘が鳴り響いた。
だめ、だめ! この男と剣を交えてはだめ! 死ぬわ!!
だが、為すすべはなかった。
男は息つくまもなく剣を繰り出してきた。これを受けぬわけにはいかない。受け損ねたら即、死が待っている。受けるのすら精一杯なのだから、攻撃して相手がひるんだ隙に逃げるなどということはできるはずがなかった。
恐怖はいや増しに増した。しかし、その心とは裏腹に身体は何とか動いているようだった。自分の身体ではないような気がした。
活路が見えない……。どのようにここを切り抜けたものか考えを巡らすが、空回りするだけだった。
男の剣技は実に鋭いものだった。その一刀一刀に無駄がない。一刀一刀に狂気と殺意がこもっている。それを受ける度に、一時的な安堵と、次に迫る一撃への恐怖を感じた。
エルネラの呼吸は次第に荒くなり、足元もおぼつかなくなってきた。腕がしびれ始め、気力だけで剣を振るっているようなものだった。
だめなの? やっぱりだめなの? わたしはこんなものだったの?
絶望にとらわれたその時、白刃がその身を切り裂いた。
エルネラは目を見開いた。
――熱い……。
斬られたと思しき部分が、熱を放っているかのようだった。
手から剣が落ち、エルネラはそのまま倒れた。その動きがひどく鈍く感じられた。まるで、時がゆっくりと流れているかのように。
エルネラは目をしばたいた。目の前に白い靄がかかってきた。何度しばたいてもそれは晴れない。徐々に徐々に世界は白くなっていく。
すべてが真っ白になったとき、ミルイヒの顔が浮かんだ。エルネラは弱々しく笑った。
あなたは最後まで無愛想なのね……。
エルネラの頬に、一筋の涙が月光に輝きながら流れ落ちた。まるで、最後の力を振り絞って燦然たる輝きをもって落ちていく、流れ星のように。
急転直下、世界は闇に包まれた。