月下残影

09.切り裂き魔

 薄闇に沈んでいる通り。

 冷たい風が落ち葉と共に吹き抜けた。落ち葉はひらひらと空高く舞い上げられたが、突然やんだ風にほっとしたように再び石畳の上に落ち着こうとした。しかし、折り悪く、軍靴によって蹴散らされた。

 軍靴の音が辺りの建物に反響していた。荒い呼吸がそれに不協和音を加える。しかし、その発信者たるミルイヒには、早鐘を打つ己の心臓の音さえも耳に入っていない。

 汗で張り付き、重くなった服が暑苦しく、鬱陶しかった。マントはすでに投げ捨てている。

 幾度となくエルネラの名を呼ばわったが、返ってくるのは静寂だけだった。喉は涸れ果て、もはや唾すら出ない。

 あてもなく走り続けてもエルネラを見つけることはできない。十分承知している。しかし、エルネラはこの一帯のどこかにいる。切り裂き魔がいるこの一帯に! それだけで、いてもたってもいられようはずがない。

 青年の話を信じているわけではない――信じていないからこそ、一刻も早くエルネラを捜し出さねばならない。エルネラが死んでしまうなんて、あの、気高く汚れなき瞳で――そこに秘められる想いがなんであれ――見つめられることがなくなってしまうなんて、考えられないことだ。

 ああ、殿下! エルネラ殿下! どこにいらっしゃるんです? 幾百、幾千の神よ、どうかエルネラ殿下にご加護を!

 ――と、建物の陰から姿を現した月に祈ったとき、ミルイヒは何かにつまずいて転んだ。完全に不意をつかれ、受け身をとる暇もなく、ひび割れた石畳に突っ伏していた。

 急に動きを止めた身体は、猛烈な熱と汗を発したように感じられた。地面の冷たさは心地よく体温を奪う。立ち上がらなければならないという意思に反して、身体は気だるく、身動きを許さない。

 新鮮な空気を求めてあえぐ口をぐっと引き締め、かさかさに乾いた唇を舐めた。鼻から大きく息を吸い、静かに口から吐き出す。それを何回か繰り返すことで、ミルイヒはようやく身体を動かすことができた。

 鉛のように重い身体を叱咤して、立ち上がるところまではいかなくとも、上体を起こした。そして、つまずいたものを見ようと振り返った。

 ミルイヒのかすみを帯びた目が、くっきりと焦点を結んだ。そこにあったものは――ミルイヒがつまずいたものは、断末魔の表情を浮かべた死体だった。

 ミルイヒは息を呑んだ。しかし、それだけだった。見ず知らずの死体に感慨など持ちようはずもない。おそらく、同僚が斬ったものだろう。

 ミルイヒは立ち上がった。もはやその死体に目もくれない。エルネラを捜すのが何よりも大事なのだ。

 気は急くが、身体はまだままならなかった。走ることができそうにもない重さが足にある。一歩踏み出そうとして、足を止めた。そして、大きく目を見開いた。恐るべき光景が目の中に入ってきたのである。

 月明かりに不気味な青白さをもって映し出された死体が、通りのそこここに転がっている。その数は八体。石畳は血にまみれ、赤黒く月明かりを反射している。

 今までまったく気づかなかった。エルネラのことしか考えずに走り続けていたミルイヒには、その惨憺たる光景は目の外だったのだ。

 死体には同僚の姿もいくつかある。白い隊服はすぐに目に付く。しかし、今は弔っている暇はない。エルネラを捜さねばならない。

 ミルイヒは死体の間を通り抜けようとしたが、なぜか死体から目が離せなかった。何かが違う。何かが引っかかる。

 ここで大きな斬り合いがあったのは確かだろう。だが……

 ひらめきがミルイヒの目を見開かせた。

 死体が握る剣のいずれにも血糊がない! ――いや、あることにはあるが、それは人を斬った剣の血糊ではない。おそらく、己の返り血だろう。

 ということは、互いを斬り合ったというわけではなさそうだ。襲撃者たちの技量はどうあれ、近衛隊の一員たる技量を持つ者が誰ひとり、一太刀も浴びせることができなかったなどということがあり得るだろうか?

 あるとしたらそれは……

 

 ――切り裂き魔しかいない。

 

 その考えに確信の寒気を感じた。と同時に、激しい動悸に襲われた。左腕がうずく。

 切り裂き魔がこの近くにいる!?

 静かに剣を抜く。その手はねっとりと汗ばんでいる。

 ミルイヒは辺りを注視しながら歩き始めた。

 先へと導くように連なる死体を通り抜けた先に、通りのど真ん中に横たわる死体があった。それは先ほどのどの死体よりも、ずいぶん小柄なようだった。

 

 ――女だ。

 

 それはいわれなき確信。しかし、それを認めたくはなかった。そんなはずがない!

 近づいてその顔を見れば明らかである。だが、ミルイヒにはその勇気がなかった。

 一歩も動くことができない。動悸は否応もなく高鳴り、冷たい汗が背中を流れるばかりである。剣を握る手が心なしか震える。

 奥歯を噛みしめ、必死に己に言い聞かせた。あれがエルネラ殿下であるはずがない。殿下はどこか他にいらっしゃるはずだ。生きているはずだ! 絶対に!!

 意を決し、その小柄な死体のそばに近寄った。唾を呑み込み、恐る恐るその顔を見る……安堵の深いため息を吐いた。

 ――エルネラではなかった。

 三十代半ばくらいの女である。襲撃者の一味に違いない。

 恐ろしい脱力を覚えたが、すぐに気を引き締めた。まだ楽観できない。切り裂き魔がいることには違いないのだから。

 再び先を急いだ。足はまだ少し重いが、小走りはできた。

 しばらく走ると、またぞろ切り裂き魔の手によると思しき死体の連なりに出会った。切り裂き魔は今夜、いったいどれだけの人を斬ろうとしているのだろう? 一人二人で収まるような殺鬼ではないのだろうか?

 その死体も通り過ぎて、小さな路地に入り込んだ。その瞬間、いいしれぬ寒気に襲われた。汗が急速に冷え、震えが全身に走る。肌がちりちりと総毛立つ。まるで凍り付けにされた気分だ。

 息苦しさを感じ、ようよう息を呑んだ。なぜか入ってはならない場所に思えた。

 見開いた目は乾きを訴えるが、瞬きできなかった。薄暗いその路地には、そこかしこに深い闇が漂っている。目に見えぬ、深い闇が。目を閉じてしまえば、あっという間にそれに取り込まれてしまいそうな雰囲気があった。

 その闇の一部に、死体が一つ転がっていた。またしてもどきりとさせられた。それは小柄だった。

 しかし、今度は気後れしなかった。うつぶせに転がっている死体の髪は短く、褐色である。エルネラではない。

 すぐに興味を失ってその死体から目を離し、ぐっと剣を握り直した瞬間、首筋にちくりと針が刺さったような感覚があった。覚えのある感覚だ。切り裂き魔の刃を受けた左腕が痛む。

 振り向きざま、迫りくる白刃を受けた。甲高い、耳障りな音を立てて、二つの白刃はこすれあった。

 その一瞬、今度ははっきりと相手の顔が見えた。げっそりとこけた顔に漆黒の眼窩があった。その瞳は何も映していないかのように虚ろであるが、底知れぬ狂気を秘めているように思えた。その視線を通して、刺し貫かれるような殺気が伝わってくる。腕に自信のない者ならば、それだけで失禁しかねない。

 ――これこそが間違いなく切り裂き魔だ!

 ミルイヒはその視線を驚くほど静かに受け止めた。冷静だった。切り裂き魔の殺気は、エルネラへの熱を消し去るに十分な冷たさを持っている。

 ミルイヒは剣を払いのけ、後ろに跳びすさって間合いを取った。しかし、切り裂き魔は瞬時に間合いを詰め、剣をひらめかせた。

 その剣速は目を見張るものがあった。辛うじて、逆手持ちの左の短剣で受ける。しかし、うまくその力を殺すことができず、剣身は折れ飛ぶ。腕がしびれた。

 折れた短剣を切り裂き魔に投げつける。切り裂き魔は難なく弾く。その間にミルイヒは大きく間合いを取った。今度は容易に近づけさせはしない。足にはいまだ疲労が残っているが、無視できるほどの状態である。

 ミルイヒは青眼に構え、切り裂き魔の様子を窺った。切り裂き魔に隙はない。斬り込む余地がつゆもない。

 ミルイヒは闇雲に打ち込むような勇気を持ち合わせてはいなかった。構えを少しでも解いたら、隙を見せてしまいそうである。切り裂き魔がその隙を見逃すはずがない。

 切り裂き魔は右上段に構えたまま、じりじりと、だが、滑らかに歩を進めた。ミルイヒはそれに伴い、すり足で後退した。すぐ後ろには壁がある。

 切り裂き魔は、ミルイヒを完全に壁に追いつめる前に足を止めた。

「その手は二度も通用せんぞ」

 驚くべきことに、切り裂き魔から声が発せられた。ミルイヒより十くらい年上に見えたが、その声は老成したようにしわがれていた。

 ミルイヒは息を呑んだ。しかし、それを表面には表さなかった。隙を見せては駄目だ!

「二ヶ月ほど前、俺の左肩を突いた者だろう?」

 切り裂き魔は上段に構えた剣をゆっくりと降ろした。

「……そうだ」

 ミルイヒは緊張を解かぬまま、慎重に答える。

 切り裂き魔は薄い唇に、社交的とは言い難い楽しげな笑みを浮かべた。

「おまえで二人目だな。俺と剣を交えて生きていた者は。……いや、一人目と言った方がいいかもしれないな。師匠は別格だ」

 師匠――エデュアルド殿下のことか……?

「……誰も彼も骨のない奴らばかりだ。刃を見せつけるだけで、ある者は悲鳴を上げ、ある者は腰を抜かす。王都警備隊だとて変わりはしない。ちょっとばかり剣が使えるだけだ。近衛隊なんて、それよりも話にならない。名前だけだ。『決闘ごっこ』の技術だけを磨いている、プライドだけは高い腰抜けども。ここの連中も威勢がいいだけだな。ガキの反抗期みたいなもんだ」

 切り裂き魔は盛大に笑った。聞く者をうそ寒くさせる、狂った笑いである。

 ミルイヒは眉をひそめ、剣を握る手に我知らず力を入れた。

「他国をして『眠れる獅子』と言わしめているこの国が、本当は猫であることを知ったら、皆、どうするだろうな?」

 切り裂き魔は楽しそうに喉の奥で笑った。

「おまえは……間者か?」

「いいや。血は生粋じゃないが、アルヴァ生まれのアルヴァ育ちさ。国同士のことなんぞ、俺にとってはどうでもいいこと」

「ならば、なぜこのようなことを?」

 それは言い得て妙だった。だが、殺鬼にとり憑かれているとはいえ、この男には明確な意思があるように思えてならなかった。負の感情が殺鬼を招き寄せるとしたら、それは……。

 切り裂き魔の瞳が暗い輝きを帯びたように思えた。しかし、熱があるわけではない。突き刺さるような視線は相変わらず冷え冷えとしている。

「……憎かったのさ。俺の力を認めようとしない奴らが。俺は……強い。精鋭と名高い――」

 切り裂き魔は嘲るように鼻で笑った。

「――近衛隊の誰よりも。俺は辺境警備で終わるような男じゃない。誰の口の端にも上ることなく死ぬような存在じゃない。それだけの技量、度胸を持っている。それを活かす機会、地位が必ず巡ってくると信じていた。ずっと!

 ――だが、現実はどうだ? 天下は泰平で、大きな出世が望めるような機会はまるでない。それならば、こつこつ真面目に勤めていればいつかは……なんてことは絶対にない。実力なんて関係ないんだ。必要なのは、金とコネ! それだけなんだ!」

 切り裂き魔の言葉に、驚きを禁じ得なかった。周りに流されるままに生きてきたミルイヒにとって、それは思いもよらない、考えたことすらないことである。

 近衛隊に所属しているのだって、いつの間にかそこにいたという感覚でしかない。別に、どこに所属していようと関係なかった。どうでもいいことだった。

 しかし、ある者にとってはそれは大きな羨望と怨恨だったのだ。それをして、このような行動に走らせるほどの。

 切り裂き魔はミルイヒをにらんだ。

「おまえもさぞかしいいところのボンボンなのだろうな――その割には骨がある。俺の剣を生身の腕で受け止める奴なんて初めてだ」

 ミルイヒは息を呑み、恐る恐る声を出した。

「……見返すためだというのならば、なぜ……なぜ、無辜の民にまでその手を伸ばす?」

 切り裂き魔は静かに笑った。

「最初は、おまえの言うとおり、見返すためだった。威張り散らしながら街を闊歩している騎士たちの本当の姿を、皆に知らしめてやりたかった。――だが、もうどうでもよくなった」

 切り裂き魔の瞳に尋常ならざる光がきらめいた。ほのかに頬が紅潮している。

「人を斬るという快感を知った今、相手は誰だっていいんだ。怯える者を斬るのも、逃げまどう者を斬るのも、おまえのように腕の立つ者と剣を合わせるのも、皆、楽しいことには変わりない。そうそう、俺を捕まえようと奔走する警備隊をからかうのも楽しいな。

 ……刺激、刺激が欲しいんだ。世の中、刺激がなさ過ぎる。名ばかりの決闘なんて見たくも、やりたくもない。あんなのは子供の遊びだ。真の決闘はもっと刺激的なはずだ。愚かだ。皆、なぜそのことに気づかないんだ?」

 ミルイヒは眉をひそめた。狂ってる……殺鬼にとり憑かれているのであれ、なんであれ、この男は狂ってる!

 切り裂き魔は再び剣を構えた。ミルイヒに緊張が走った。

 月がわずかに建物の陰から姿を現し、切り裂き魔の姿を縁取った。影の濃くなった顔に、双眼だけが浮かび上がっているように見えた。

「さあ、おしゃべりはここまでだ。どうだ、だいぶ疲労も回復しただろう?」

 ミルイヒは目を見開いた。切り裂き魔はわたしが回復するのを待っていた……?

「本来の力を出してくれた方が、より楽しい」

 切り裂き魔はミルイヒの意を汲んだように言った。

 ミルイヒは静かに息を呑んだ。

「……それが自分の身を危険にさらすようなことでも?」

「ああ。危険なほど楽しいものさっ!」

 切り裂き魔は素早く踏み込み、ミルイヒに斬りかかった。ミルイヒはそれを受け流しながら、背にした壁から抜け出した。

 ほんの少しの間の休息でも、足が心なしか軽くなったように感じられた。

 剣を構え直すのも束の間、切り裂き魔は息も尽かせぬ勢いで打ち込んできた。一刀一刀が鋭く、切り返しが速い。また、それは正式な剣術を身につけた者のそれであり、つけ込む隙がなかった。

 ミルイヒはそれをすべて受けた。しかし、それは辛うじてのものである。

 切り裂き魔の動きを読んでいるわけでも、完全に見切っているわけでもない。切り裂き魔の次の動きを見ることのできるぎりぎりの間合いをとり、その微妙な見切りで反応しているに過ぎなかった。

 しかし、ミルイヒは受け身一方というわけではなかった。切り裂き魔の攻めに押されて後退すると、途端に切り裂き魔は剣をひいた。まるで、ミルイヒを挑発するかのように。

 ミルイヒはそれと知りながら、ここぞとばかりに剣をひらめかせた。この機会をものにしなければ、勝ち目はない。

 だが、すべては見切られていた。ミルイヒが打ち込む前に、すでに受けの体勢が整えられているのだ。

 切り裂き魔は遊んでいる。すべてに余裕があった。剣にも、表情にも。

 ミルイヒは切り裂き魔の掌の上で踊らされているに過ぎなかった。勝敗を、生死を――すべてを決めるのは切り裂き魔なのだ。

 ミルイヒは言いしれぬ焦りを感じた。切り裂き魔と自分との間には、これほどまでの距離があったのだろうか?

 今まで、己は腕が立つ、という意識はミルイヒの中にはさほどなかった。しかし、ちょっとしたおごり――それは、自信とは紙一重のものだ――が生まれつつあったのだ。二ヶ月前、切り裂き魔の左肩を突いたのは他ならぬ自分だった。

 また、ミルイヒの心の奥底には、黒髪の青年に対する対抗意識がいまだくすぶっているようだった。エルネラの青年に対する好意は、身内ならではのものだということを今はもう十分承知している。しかし、自分だけが切り裂き魔を討てる、などということを聞いたら、そんなことはない、わたしにだってできる、と張り合ってしまうものなのだ。なまじ、エルネラが関わっているだけあって、その思いは一層強い。

 だが、切り裂き魔は二ヶ月前の切り裂き魔ではなかった。確実に腕を上げている。

 その間に自分は何をしていただろうか? 惚れた腫れたと心を惑わせ、毎夜、女性に慰めを求めるだけだった。そのような時こそ、無心に剣に打ち込むべきだったのではないか?

 ミルイヒは己の迂闊さを悔いた。しかし、実らぬ恋などしなければよかった、などとは思わない。

 わたしが切り裂き魔の凶刃に倒れたら、エルネラ殿下は悲しんで下さるだろうか? それとも……――それ以上は考えたくなかった。

 黒髪の青年に押さえつけられたときとは違う感情が浮かび上がってきた。あの時は死んでもいい――むしろ、死にたいと思った。しかし、今は俄然、逆だった。

 ――生きていたい!

 生きてエルネラの元へ帰り着きたい。嫌われていてもいい。自分が死んだあと、エルネラがどうするのかなんて知りたくもない!

 ミルイヒの背に冷たい汗がいくつも張りついていた。新鮮な空気を求める喉の奥に、冷たい夜風は意思に反して流れ込んでこない。ひどく気持ちが悪い。

 せわしなく剣と剣がぶつかる音がやけに大きく響いた。それには恐怖が伴い始めた。剣を合わせるたびに、ミルイヒは恐ろしい圧迫感を感じた。永遠に続くかのように思える剣戟――しかし、終わらぬということはない。さっさと決着をつけたいという思いと、このままいつまでも続いていて欲しいという思いが交錯する。

 ミルイヒと切り裂き魔の技量の差は、絶望的なまでに歴然だった。何度剣を合わせてもそれは変わらない。むしろ、確信が強まるばかりだった。

 ……死は、そこにある。

 気迫までも負けては駄目だと思っていても、否応もなく引きずられていく……焦燥、恐怖、諦観……。

 切り裂き魔は目を細め、唇の片端を釣り上げた。この世にあらぬ凶悪な表情だった。

 ミルイヒは青ざめ、一瞬、剣を持つ手が痙攣し、足がすくんだ。

 切り裂き魔は踏む込みざま、下段から袈裟懸けに斬り上げた。ミルイヒの見開かれた目には、それは青白い残影にしか映らなかった。

 ――その光景はひどく美しかった。

 斬り上げられた白刃が鮮やかな血をまとわりつかせて、月光に輝いた。滴り落ちる血が、きらめきながらゆっくりと地上に降り注ぐ。ミルイヒはその光景を陶然と見ていた。

 ああ……わたしは斬られたのだ……。

 その思いに達したのは、右脇腹が焼けつくような熱を発しているのに気づいてからだった。おもむろに手をやると、熱いぬめりを感じる。

 しかし、焦燥も恐怖もなかった。何も考えられなかった。これから死ぬのだという思いも浮かばなかった。――そして、エルネラのことも。

 剣戟の音と、何者かの叫び声が遠くに聞こえる。しかし、ミルイヒにとっては些細なことだった。なぜ、切り裂き魔はとどめを刺さないのだろうか? それだけが辛うじて頭の片隅にあった。

 透徹がミルイヒを覆いつくす。

 月光に明るく照らされた夜空が、すべてを吸い込んでしまいそうに見えた。ミルイヒは何かが抜け出ていくような感覚を覚えた。その感覚に身を任せ、目を閉じかけたとき、すべての感覚を蘇らせる、衝撃的な匂いが鼻をくすぐった。

 甘酸っぱく、さわやかな香り――レイエンの花の香。

 春の花であるレイエンが今、咲いているわけがない。

 ミルイヒは大きく目を見開き、喘いだ。今までなかった右脇腹の痛みが、非情なまでに刺激を訴える。ミルイヒは歯を食いしばってそれに耐え、身を起こしてレイエンの花の香の元を探った。

 それはすぐそばにあった。倒れたミルイヒの頭の上に。そこには、先ほど見た褐色の髪の女が転がっていた。

 単なる偶然――しかし、心の琴線に引っかかるものがある。

 単なる偶然で済ませたい。

 偶然に決まっているじゃないか! 現に、ここに横たわる死体の髪は褐色で、短い。エルネラとは似ても似つかない。

 右脇腹がどくんどくんと大きく脈打った。血はいまだ止まらない。だが、どうでもよかった。今はこの目の前の死体から目を離すことができなかった。

 死体から流れ出た血は、まだ冷え固まりきってはいない。触れるとべっとりと手に付く。

 ミルイヒは恐る恐る死体の腕に触れた。思いのほか生あたたかい。しかし、急速に熱は失われつつある。

 ――単なる偶然だ!

 ミルイヒは再び己に言い聞かせた。だが、なぜ、身体に震えが走るのだろうか? なぜ、息もできぬほどに胸が苦しいのだろうか?

 ミルイヒは唾を呑み込み、褐色の髪をおもむろに掻き上げた。青白い横顔があらわになる。金の長い睫毛が滑らかな頬に影を落としている。まるで、眠っているかのようだ。

 震える手で、その頬に触れた。吸い付くような感覚があった。

 わからぬわけがなかった。最初からわかっているはずだった。しかし、すべてを否定したかった。すべては夢で、なにもかもが嘘なのだ。

 ……この世は現実じゃない。

 だが、右脇腹の痛みがすべてを肯定する。すべては現実で、何もかもが本当なのだ。そして、目の前の死体はエルネラなのだ。それは動かしがたい事実である。

 凍り付いたミルイヒの背に、語りかける声があった。

「やれやれだ。ここの連中は本当に頭が悪い。わざわざ斬られにやってくるのだからな。己の技量もわきまえず、滑稽なことだ。――余計な邪魔が入ったが、まだやれるんだろう? 傷はそれほど深くないはずだ。もっと俺を楽しませてくれ」

「……」

 ミルイヒはつぶやいた。それは切り裂き魔への応えではない。ミルイヒの耳には切り裂き魔の言葉など入っていない。

 ミルイヒの唇が小刻みに震えた。

「……さない」

 ミルイヒは剣を握りしめた。その手にはうっすらと血管が浮き出ている。

「許さない!!」

 夜陰を切り裂く悲痛な叫び声を上げ、振り向きざま剣を振るった。

 切り裂き魔はその剣勢に驚いて跳びすさった。おどけたように口笛を鳴らす。

「やる気十分か……」

 ミルイヒの瞳には、もはや恐れはなかった。悲愴な憎悪だけが燃えさかっている。何かにとり憑かれた者のようである。

 切り裂き魔は歪んだ笑みを浮かべた。

「そうこなくてはな」

 ミルイヒは切り裂き魔に襲いかかった。右脇腹の痛みは感じなかった。それ以上の痛みがミルイヒを苛み、駆り立てていた。

 嘘だ! 嘘だ!!

 エルネラ殿下が死んでしまっただなんて嘘だ!!

 この男がエルネラ殿下を殺したに違いない。この男を殺せば、エルネラ殿下は……

 ――どうなるというわけではない。死んでしまったらそれまでだ。理性ではわかっていても、認めたくなかった。切り裂き魔を殺さずにはいられなかった。

 これもまた、一種の「殺鬼にとり憑かれた」状態であるのかもしれない。憎悪と悲しみがミルイヒの心を覆い尽くしていた。もはや、切り裂き魔を殺すことしか考えられない。

 ミルイヒの剣技は先ほどまでのものとはまるで違っていた。手負いでありながら、気迫、剣速、足捌き共に、尋常ならざる鋭さがあった。

 ミルイヒはひどく感情的だった。しかし、その感情があまりにも純粋でまっすぐであるが故に、理性によって抑制されていた部分が解放されたのだ。

 ――これがミルイヒの真の実力であった。

 ミルイヒは容赦なく切り裂き魔を追いつめていった。主導権は完全に逆転していた。

 それでありながら、切り裂き魔はまだ楽しんでいる風だった。しかし、余裕はつゆもない。かといって強がりでもない。

 突如として剣戟の音がやみ、辺りは静寂に包まれた。

 切り裂き魔の目が大きく見開かれていた。口の端から鮮血が流れ出た。その手から剣が滑り落ち、涼やかな音が響き渡った。

 その音で、ミルイヒは我に返った。ミルイヒの目に理性の光が戻る。

 ミルイヒの剣は切り裂き魔の心臓を正確に貫いていた。血が剣身を伝い落ち、地面に赤黒い血だまりを作った。剣から手を放すと、切り裂き魔の身体はそのまま仰向けに倒れた。

 ミルイヒはくずおれた。息は荒く、額からは脂汗が流れる。右脇腹の痛みは想像を絶するものだった。激しい動きで傷口が大きく開いたのだ。

 極度の失血により、目が回り始めた。しかし、ミルイヒは気絶するまいと唇を噛んだ。唇に血がにじむ。

 ミルイヒは渾身の力を振り絞って、エルネラのところまで這っていった。

 息も絶え絶えに、エルネラの身体を仰向けにして抱き起こす。エルネラの顔が、月の優しい光に照らし出される。美しい人形のようだ――いや、その目を開けることがなければ人形と同じだ。

 ミルイヒはエルネラの冷たい頬に触れた。白い頬が血に汚れる。その上に涙がぽつりぽつりと滴り、血と涙が混じり合って流れ落ちた。

 ミルイヒはエルネラの耳に唇を這わせた。

「……殿下……エルネラ……殿下」

 かすれた声しか出なかった。

 言いたいことは山ほどある。

 言えなかったことも山ほどある。

 しかし、この一言ですべては十分だった。

 

「愛しています……」

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