月下残影

10.別離

「静粛に!」

 木槌の音が法廷に響き渡り、傍聴者たちの声は静まった。しかし、それは一時的なもので、すぐにひそひそ声がそこここから上がる。裁判長は再び木槌を叩くことを余儀なくされた。

「被告人は罪を認めると言うのか?」

「はい。わたしはグレンダール男爵夫人アレーナと私通していました。ですが――」

 証言台にいるミルイヒは、右の被告席に座るアレーナをちらりと見やった。アレーナは毅然とした面持ちをしている。

「――男爵夫人に罪はありません。わたしが無理矢理迫ったまでです。男爵夫人は無力でした」

「しかし、密通というものは双方の同意がなければ成立しないものです」

 左の原告席にいる代理人が言った。原告席にはグレンダール男爵と、彼に告げ口をしたワイズ伯爵グラディスが座っている。

「そうでない場合もあります。わたしは男爵夫人をあることで脅していました。それで、男爵夫人は仕方なしにわたしを受け入れたのです」

 傍聴席がざわめいた。

 裁判長は木槌を叩いた。

 裁判長より一段低いところに居並ぶ、六人の陪審員のひとり――ロッケム侯爵が口を開いた。

「被告人ミルイヒは被告人アレーナを脅迫していたと? それはどのような内容なのだ?」

「それは……言えません」

「なぜだ?」

「グレンダール男爵の名誉に関わることです」

 グレンダール男爵は丸くなった目でミルイヒを見た。

「裁判長、当法廷において審議されるのはわたしと男爵夫人の関係の有無であるはずです。脅迫も罪の一つなれど、グレンダール男爵の名誉を傷つけるまでもないと思いますが」

 裁判長は厳かにうなずいた。

「被告人の意見を受理する。被告人ミルイヒは被告席へ戻りなさい。続いて、被告人アレーナ、証言台へ上りなさい」

 アレーナは多くを語らなかった。裁判官、陪審員の問いに是非を言うだけだった。その答えはミルイヒの答えに添うものである。

 そして、ついに判決の時が来た。

 裁判長はざわめく法廷を木槌の音で鎮めた。

「被告人アレーナは有罪だと思う陪審員は手を挙げなさい」

 二人の陪審員が手を挙げた。アレーナの無罪は確定した。

「被告人ミルイヒは有罪だと思う陪審員は手を挙げなさい」

 六人の陪審員全員が手を挙げた。ミルイヒの有罪は確定した。

 法廷は再びざわめいた。甲高い木槌の音がそれを打ち消す。

「判決を下す。被告人アレーナ・グレンダールは無罪。被告人ミルイヒ・セイデーズは有罪。罪人ミルイヒには、姦通、並びに脅迫の罪にて、近衛隊解任、禁固三年の刑を求刑する。だが、罪人は切り裂き魔事件において多大なる功績があるため、近衛隊解任にとどめおく。閉廷!」

 

「いやー、セリム将軍……いやさ、ドラクーン公爵が裁判長でよかったなぁ。これがヒリエン公爵あたりだったら、減刑どころか、禁固十年は堅いぜ」

「ああ。かもな」

「しかし、ワイズの奴には頭に来るな」

「決闘代理人になったくせに」

「なんだよ、まだ気にしてるのか? 俺だって不本意だったんだぞ。おまえとやるためとはいえ、あいつと手を組むなんてさぁ。負けたから前金返せなんて言いやがるし。金持ちのくせしてケチだねぇ。あいつもたいがいしつこいよな。エルネラ殿下に嫌われて当然だ」

 ランディは鼻から荒い息を吐いた。

「今回のことだってそうさ。アレーナ夫人がああなのは周知の事実で、男爵だって目をつぶっていた――というか、諦めてたって感じかな。それなのに、おまえがエルネラ殿下を助け出したのが妬ましいもんだから、なんとかして引きずり落としてやろうと裁判沙汰にしたに違いない。見たか? 男爵のあのいたたまれない顔!」

 ミルイヒはグレンダール男爵の顔を思い出した。ありがた迷惑そうな顔をしていた。

「どうしてそうまでわたしを目の敵にするのかな? ――しかし、今回の件はわたしの不注意だった」

 ランディはため息をつき、

「不注意とかいう問題ではなかろうに……。人妻に手を出すなんて、それこそ死刑覚悟でないと」

 と、自分のことを棚に上げて言う。

「言っておくが、手を出したのはあちらだ」

「だが、ワイズすら知っているくらいだ。一度だけじゃないんだろ?」

「ん、まあ、五、六度……人生相談というやつを……」

 ミルイヒはしどろもどろに言った。

 ランディは目をしばたかせ、

「五、六度!? おまえもなかなかやるもんだなぁ」

 と、感心したようにうなずいた。

 ミルイヒは少しだけ頬を紅潮させた。

「言っとくが、人妻はあの人だけだ」

 ランディは鼻を鳴らした。

「それにぶちあたってたら世話ないな。どうして、密通してたって認めちまったんだよ! 知らぬ存ぜぬを通しておけば、無罪になったかもしれないのに。下手な嘘までつきやがって……」

「元陪審員としては認めないわけにはいかないだろう? あの嘘だってあながちじゃあない」

「なんだよ。本当に脅迫してたのか?」

「いや、そういうことじゃなく、内容のことさ。貴族ならば、叩けば埃の十や二十は出てくる。もっともらしくは聞こえただろう? 裁判ってのは駆け引きなんだよ、駆け引き」

 ランディは眉をひそめた。

「駆け引き? 厳正中立なものじゃないのか?」

「ばかな」

 ミルイヒは吐き捨てるように言った。

「裁判長を始め、陪審員、廷吏が皆、貴族なんだぞ? 裏で何かがないわけないだろう? 貴族対庶民の裁判で、庶民側が勝ったためしがあるか?」

 ランディは大きくため息をついた。それにはうんざりした様子があった。ランディには、妙に堅くて、正義漢ぶっているところがあるから、このようなことは本当に許せないに違いない。

「貴族って、本当にろくでもないな。――それじゃあ、貴族の端くれたるおまえからも、埃の十や二十は出てくるのか?」

「十や二十もないけれど、エルネラ殿下を強姦したっていう大きな埃はあるな。婦女暴行、並びに不敬、並びに後宮侵入につき、鞭打ち千回、市中引き回し、国外追放ってとこかな」

 ミルイヒは他人事のように淡々と言ってのけた。

 ランディは眉間にしわを寄せた。

「何度も言うようだけど――」

 ミルイヒはランディの言葉を遮った。

「何度も返すようだけど、何も聞きたくない」

 ランディは唇を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。

「あ、そうそう! アレーナ夫人から手紙を預かってきていたんだ」

 ランディは懐から手紙を取り出し、ミルイヒに渡した。ミルイヒはランディをにらみながら受け取った。

「こういうのは早く出して欲しいな。前置きが長いから、重要なことを忘れるんだぞ」

「まあまあ」

 ランディは苦笑いした。

 ミルイヒはバラの封蝋印を破り、手紙を取り出した。

「ミルイヒ・セイデーズ公爵様

 

 晩秋の候、いかがお過ごしでしょうか。

 

 この度のことは本当に申し訳ありませんでした。まさか裁判沙汰になってしまうだなんて、思いもよらないことでした。

 また、ミルイヒ様だけに罪をかぶせるようなことになり、お詫びの言葉もございません。ですが、法廷においてのミルイヒ様の態度には、なにかしら、わたくしを庇うということ以外の意図的なものを感じました。わたくしを庇うということならば、断固として拒否するところですが、失礼ながらあのような態度をとらせていただきました。

 王都を離れてしまわれるそうですね。このようなことになって、もはや私的に会うことはないとはいえ、寂しい限りです。

 どうか、お身体にはお気をつけ下さい。切り裂き魔事件での傷はまだ癒えていないとお聞きします。あれからまだ二週間ですものね。ご無理をなさらぬように。

 

アレーナ

 

 追伸

 わたくし、ミルイヒ様と関係を持てたことを後悔などしておりませんわ」

 ミルイヒは微笑み、手紙を懐へ入れた。

「いい女性(ひと)だ」

「なあなあ、なんて書いてきたんだ?」

「駆け落ちして欲しい」

 ランディは目を丸くした。ミルイヒはその様子に笑った。

「――なぁんて書いてあったら、思わず駆け落ちしてしまいそうだな」

「エルネラ殿下をほっぽって?」

 ミルイヒの顔が急に真剣になった。どこか暗さがある。

 ランディはきまり悪そうに、目を空にさまよわせた。

「えーと、ところでおまえ、どこへ行くところなんだ?」

 王城の大廊下でミルイヒと会ったランディは、ミルイヒのあとを追いながら話をしている。ミルイヒは軍事府へと足を向けていた。

「解任の挨拶をしに、班長と近衛隊長のところへ。それから、セリム将軍のところへ、辞任願いを届けに」

「辞任!?」

 ランディは驚いて、足を止めた。

「辞任って、まさか、騎士をやめる気でいるのか?」

「いや、着任したばかりのギルディア騎士団の、さ。騎士をやめる気はないよ」

「ふむ、ギルディアは王都から結構離れてるからなぁ。近場なら、フィエムあたりがいいんじゃないか?」

 ミルイヒは首を振った。

「いや、もっと遠く――ギルディアなんかより遠くさ。そう、ニジェリあたりだ」

「ニジェリ!?」

 ランディは目をむき、素っ頓狂な声を上げた。

「辺境じゃないか! なんでまたそんなところに?」

 ミルイヒは遠くを見るような目をした。

「……なんとなく。――エルネラ殿下がいないのなら、どこだってかまわないんだがな」

 ランディは目を細め、眉間に手を当てた。沈痛な面持ちだ。しかし、首を一振りしてそれを打ち消した。

「おまえがいいならいいさ。時に――」

 ランディの眼差しが急に疑い深くなった。

「おまえ、セリム・ドラクーン公爵将軍に賄賂を送っていやしなかっただろうな?」

「そんなもの、どこにあるって言うんだ?」

 

 木枯らしが寒風に舞う。わずかに暖かみのある弱光が、開け放しの窓から差し込んでくる。

 窓の外には中庭がある。エルネラは人気のほとんどないその庭を見下ろした。五階に位置するこの部屋まで、枝を伸ばす木はない。

 エルネラはため息をついた。その息はわずかに白い。

 籠の中の鳥ね……。

 なけなしの自由さえも奪われた。もう一月半も剣を振るっていない。筋肉は急速に衰えつつある。

 王城からの脱走はもはや不可能である。部屋の外には常に衛兵がおり、中庭の散歩でさえも衛兵が付く。面会に来る人間は厳重に調べられる。

 表向きはエルネラの身辺警護だ。しかし、それを命じた国王は、エルネラが自主的に王城を出奔したということを知っている。エルネラの拘束が本来の目的なのだ。

 あれが最初で最後のチャンスだったのだ。王城から、お姫様という肩書きから逃れられる、最後のチャンス。しかし、それは失敗した。なんのために、今までおとなしいお姫様を演じてきたのかわからない。

 エルネラは身震いし、鎧戸を閉めた。光は採光窓と暖炉の火だけとなり、部屋の中は少々薄暗くなった。

 扉をノックする音が響いた。いらえを返すと、ディアンが顔を出した。

「エデュアルド殿下がお見えになりました」

 エルネラはうなずいた。

 

「やあ、久しぶり。あれ以来だね」

「そうね。……珍しいわね、そんな格好をしているのは」

 黒髪の青年はいつもの簡素な服装ではなく、王族らしい、きらびやかな服装をしていた。金糸銀糸の刺繍のある上着の襟は高く、青年は窮屈そうにホックをはずした。

「こんな窮屈な格好なんてしたくないよ。でも、王都(ここ)にいることがばれては仕方ない。表向きは、領地に引きこもっていることになっていたんだから。また陛下に怒られちゃったよ。遊び回ってないで少しは落ち付けって、見合い話を持ちかけてくるし」

「悪かったわね、手間をおかけしまして。あのままわたしを放っておいてくれれば、近衛隊員にみつからなかったのにね」

 意地悪く言ってやった。

「でもさ、ほら、君を見捨てるわけにはいかないじゃない?」

 青年は思い出し笑いをした。

「しかし、あれは滑稽だったなぁ。ミルイヒってば、君を抱きしめて放さないんだもん。あとからやってきたわたしたちに向ける目は、鬼気迫るものがあったねぇ。――笑い話にはいいね」

 エルネラはむっとして頬を膨らませた。

「どうして笑い話になるのよ!」

「いいじゃないの、笑い話になって。あのままにしておいたら、君は本当に死んでいたんだよ?」

 エルネラはドレスの裾をぎゅっと握りしめた。

「……情けないわ。斬られたショックで仮死状態なんて。それもこんな浅い傷で」

 エルネラは脇腹を軽く押さえた。痛みはもうない。しかし、浅いとはいえ、傷跡は残るだろう。

 切り裂き魔との斬り合いを思い出す度におぞけが走る。今でもあの狂気を鮮明に思い出すことができた。

 世の中には自分の知り得ぬことが多々あるのだと、改めて思い知らされた。所詮、世間知らずの「お姫様」なのね……。密かに自嘲した。

 あのまま王都から抜け出すことができたとしても、そのあと、どのようにしてやっていくつもりだったのだろうか? 今、冷静に振り返ってみると、ひどく愚かで子供じみた行為だった。今となっては……。

 エルネラは脇腹に触れていた手を、下腹部へと移動させた。

「初めて斬られたんだ。ショックに浅い深いは関係ない。これでショックでも起こしてなかったら、わたしは君をお姫様とは認めないよ」

「認めてもらわなくとも結構よ」

 青年は紅茶を一口飲み、ため息をついた。

「……言っておくけど、わたしは何もできないよ」

「何が?」

「君がわたしを呼んだ訳はわかっているさ」

「それなら話が早くて助か……」

 エルネラは急に青ざめ、手で口を覆った。

 青年は驚き、立ち上がってエルネラの肩を優しく抱いた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 エルネラはわずかにうなずいた。

「……もう大丈夫。おさまったわ」

「あのさ……」

 青年は幾分青ざめた顔で訊いた。

「妙に顔が紅潮してるな、とさっきから思ってたんだけど……もしかして……まさか……」

「そのまさかよ」

 エルネラは至極きっぱりと言った。

 青年は目をまん丸くし、口をぽかんと開けた。エルネラは、青年がこれほど動揺する様子をついぞ見たことがなかった。笑いがこみ上げてくる。

 青年は大きく深呼吸をし、ようやく言葉を発したが、その声はかすれ気味だ。

「相手がいないってことはないよね?」

「もちろん」

「訊くまでもないかもしれないけど……相手は『彼』なの?」

 エルネラは当然のようにうなずいた。

「『彼』以外の男性(ひと)と関係を持ったことはないわよ。『彼』が何人もの女性と関係を持っていてもね」

 その言葉には刺がある。

「いったい、いつの間にそういうことになったわけ?」

「あなたのいない間に」

「どうしてまたそういう展開になったわけ?」

「なんとなく」

「なんとなくでそうなるの?」

 エルネラは、笑いを堪えるようにしてうなずいた。

 青年は大きくため息をつきながら、首を振った。

「わからない……まったくもって、君たちってわからないよ」

「あなたもね」

 青年はエルネラから離れ、部屋の中をうろうろと歩き回った。そして、サイドボードに寄りかかり、神経質にボードの上を指で叩いた。

「ミルイヒは知っているの?」

「知らないわ。だって、気づいたときにはすでに王都にいなかったんですもの。ニジェリなんて辺鄙(へんぴ)なところに飛ばされたのよ。いい気味だわ。身から出た錆よね。知っているのはわたしとディアンだけよ」

 青年は頭をかいた。

「ニジェリか……。行って帰ってくるだけで一ヶ月……。早急に手配しないと……」

 エルネラは目をしばたかせた。

「何を手配するの?」

「決まっているじゃないか。結婚式だよ」

「結婚式ですって? わたし、結婚なんてしないわよ」

 青年は目を見開いた。

「何を言ってるんだ。君はお姫様なんだよ。結婚しないで子供を持つだなんて、とんでもない! 体面が悪いじゃないか」

「あなたから体面なんて言葉が出るとは思わなかったわ」

「それは悪かったね」

「あなたは意外と常識にとらわれる人だったのね」

「別に、一般論を述べているまでだよ。わたしのように陛下を悩ませてはいけないよ」

「一人が二人になったって、大した差はないわよ」

 青年はうつむき、額に手を当てた。

「君と付き合ってやるのではなかったな……。個人的におもしろくはあるけど。――わたしを呼んだのは、この現状をどうにかしろってことだったの? この、狭苦しい籠から出してくれというのではなく?」

「両方よ」

「両方?」

「いい考えがあるわ。わたしがこの籠から逃れ、この子を人知れず育てる方法」

 エルネラは青年を手招き、その耳にささやいた。

「ふむ、いい案のような気がしないでもない。しかし、わたしは手伝わないよ」

 エルネラは予想していたとばかりに微笑んだ。

「あらそう。なかなかいい場所だと思うのだけれど」

「それはどこなんだい?」

「ミシノア」

 青年は真剣な面持ちでエルネラを見た。

「そこがどういう場所か、わかって言っているの?」

 エルネラは意味深な微笑みを浮かべた。

「もちろん。同盟国リュシェラとの国境にほど近い、静養にはもってこいの場所。いいところだと思わない?」

 青年は微笑んだ。しかし、目は笑っていない。

「君はそういうことから逃れたいんじゃなかったの?」

「そうね、もううんざりよ。表では愛想が良くて、裏では何を考えているのかわからない人々と話をするのも、『お姫様』の振りをするのも。けれど、これとそれとはだいぶ違うと思うわ。とりあえず、身の安全が保証されてないあたり」

「子供を育てるなら、身の安全が保障されていた方がいいだろうに……」

 青年は諦めたように軽く肩をすくめた。

「わかったよ。協力しようじゃないか。――ところで、どこからそんな話を聞いてきたんだ? 後宮の奥深くにいながら」

「ヴァルア兄上はわたしに弱いのよ」

 青年は舌打ちし、ひとりごちた。

「ヴァルアの奴め、エルネラのことをわかってないな」

 青年は紅茶を一口飲んだ。

「ところで、ミルイヒはどうするんだい? 君の親衛隊ということで、セリム将軍に転属の話をつけておくつもりだけど」

「ミルイヒには教えてあげない」

「教えてあげないって……一応、父親なんだし……ねえ、やっぱり結婚した方がいいよ」

「いやよ。一度婚約破棄になったのに結婚だなんて、それこそ体面が悪いわ」

「君の体面の基準って、いったい何なの? ――それはともかく、産まれてくる子供によくないよ、父親がいないってのはさ」

「あなたがなればいいじゃない、父親に」

 青年は目をまん丸くし、口を引きつらせた。

「な、な、何を言ってるの――!? わたしは独身主義だって何度も言ってるじゃないか!」

「いいじゃない、独身主義のままで。何もわたしと結婚しろとは言ってないわよ。父親代わりよ。父親代わり」

 青年は懐から絹のハンカチを取り出し、額の汗を拭った。

「いいの? わたしなんかで。どんな子に育つかわからないよ?」

「なによ。まんざらでもないみたいじゃない」

「子供は好きだよ。けれど、結婚だけは、ね。恋愛は幻想のままが一番なんだ」

 と、遠くを見るような目で立ち上がり、窓辺へと足を向けた。

 エルネラは眉をひそめた。なにか苦い過去でもあったのかしら?

「見てよ。どうりで寒いわけだ」

 開け放された鎧戸の外に、白いものがちらつき始めた。

 青年は窓の外に手を差し出した。小さな雪が掌にふわりと落ち、じんわりと姿を消した。青年はその様を目を細めて見ていた。

「真白き雪の迷うがごとく

 吐息の凍れるがごとく

 君の瞳は閉ざされる

 しこうして

 愛せし人は還らず」

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