月下残影

∞.エピローグ 〜再会〜

「転属……ですか?」

 ニジェリ警備隊長は苦い顔でうなずいた。

「転属といってもな、王都へ帰還というわけではない。君がここに来てもう七年だ。わたしは常日頃、君はここに置いておくような人物ではないと思っておった。今回の転属をわたしは喜ばしく思っていたのだが、転属先を見ると……ふむ……下手をしたらここよりも……」

 警備隊長は痛ましい顔でミルイヒを見た。いったいどんなことをやらかしたんだ? と言っているように見えた。

「どこなんですか?」

「ミシノアのレイ親衛隊。エルネラ・レイ・アルヴァーノ王女殿下の親衛隊だ」

 ミルイヒはわずかに目を見開いた。

「君も噂には聞いているだろう? エルネラ殿下は……その……お気が触れているということを。ま、そのような方の身辺警護だからねぇ」

「辞令ならば致し方ないでしょう」

「うん、まあ、そうだな」

 警備隊長は転属辞令の書状をミルイヒに手渡した。

「エルネラ殿下はそれはそれは美しい方だと聞く。……こんなのは慰めにならんかな? そういえば、君は以前、近衛隊にいたな。エルネラ殿下を見たことがあるんじゃないか?」

 ミルイヒは目を細めた。

「……いえ。わたしには遠い存在でした」

 

 朧月が満天を弱々しく照らしていた。春風に過ぎゆく雲は、時折、いたずらに月を覆い隠しては行く手を見失わせる。

 寂れた白亜の屋敷を前に、ミルイヒは馬を下りた。

 驚くほどに人気が感じられない。親衛隊員はいったい何をしているのだろう? 門番さえいなかった。

 ミルイヒは急に不安に駆られた。屋敷が不気味な青白さを放っているように思えた。

 紺のマントを翻し、剣の柄に手を置きながら、屋敷に踏み込んだ。

月明かりだけが中を照らしている。なんの気配もしない――いや、わずかにレイエンの花の香がする。

 足元を見ると、レイエンの花が一つ落ちていた。五枚の花びらのある、白く可憐な花。よく見ると、どこかへ向かって点々と落ちている。ミルイヒはそのあとを追った。

 屋敷の中に軍靴の音だけが虚しく響く。いたずらな風が迷い込み、ミルイヒの金髪をわずかに揺らした。

 花は閉ざされた扉のところまで続いていた。言いしれぬ、威圧感のある扉だ。

 唾を呑み込み、一気に扉を開けた。

 その瞬間、白い花びらを乗せた疾風が吹き込み、ミルイヒは目をつぶった。風がやんだと感じると、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳に飛び込んできたのは、中庭じゅうに咲き乱れるレイエンの花だった。それは若葉の上に降り積もった雪のように見えた。むせ返るような甘酸っぱい香りが満ちている。

 その中央に、こちらに背を向けている、白いドレスの女がいた。腰まである金髪が風になぶられ、きらきらと月光を反射している。

 女はミルイヒに気づいたかのように、不意に振り返った。

 ミルイヒは我が目を疑った。夢なのではないかと思った。

 ――エルネラ。

 変わらぬ美しさがそこにあった。七年の時を経て、あどけなさは消え、落ち着いた雰囲気に包まれている――まるで、母親のような。

 しかし、その瞳は虚ろにかげっている。どこか、違うところを見ているようだ。気がおかしくなった話は本当なのだろうか?

 ミルイヒは、今までずっとなりをひそめていた想いが奔流となって蘇ってくるのを感じた。それは七年前と変わらぬ想い。

 ひどく驚かされた。まだ、殿下を想う心があったなんて……。とうの昔に消えてしまったのだと思っていたのに……。

 心に満ちる想いのままに、エルネラに抱きついてキスしたかった。しかし、彼がとった行動は、至極常識的なものだった。

 

 エルネラは目の前の事実を信じることができず、陶然となった。

 七年の時を経てそこに立つのは、精悍な顔つきをしたミルイヒだった。しかし、顔色が悪そうで、無愛想なのは相変わらずだ。

 エルネラは感激にうち震えそうになるのをこらえた。知らず、涙がこみ上げてくる。

 強がってみても、いざ会ってみるとこれだ。己の不甲斐なさを忌々しく思った。

 今なら言えそうな気がする。七年前は、子供じみた思いがそれを阻んでいた。

 子供ができた、なんて言ったら、ミルイヒは何も言わずに自分と結婚しただろう。しかし、それが嫌でたまらなかった。子供ができてしまったのだから仕方なく結婚する、という風に思えてならなかった。たとえミルイヒがそれを否定しても、純粋な気持ちで考えることができなかった。

 でも、あの子のことを考えるなら、言わなくては! まして、あの子が……

 エルネラが口を開きかけたとき、ミルイヒは彼女の元におもむろに寄り、片膝をついてこうべを垂れていた。

「……エルネラ殿下、この度レイ親衛隊に配属されました、ミルイヒ・セイデーズと申します。殿下の身辺を警護させていただく任につけましたことを、恐悦至極に存じます」

 エルネラは開きかけた口を閉ざし、残念そうな顔つきをした。ああ、この人はわたしの気がおかしいと思っているのよね。

 ミルイヒはエルネラの様子に気づいた風もなく、続けた。

「殿下……配属されたばかりだというのに申し上げるのも難なのですが、このようなことは通例なので、はばかりながらも申し上げます」

 ミルイヒは息を吸い込んだ。

「そろそろ身を固めようかと思います」

 エルネラは目を大きく見開いた。唇がかすかに震える。次の言葉を期待して、頬を紅潮させた。

 

「……つきましては、どなたかわたしにふさわしい方をご紹介願えませんか?」

 

 ――目の前が真っ暗になった。

 この人はいったい何を言っているのかしら……? わたしにあなたと結婚する女を選べと言うの?

 仕える人間に結婚の許可を得るのは、この国に古来からある風習である。

 エルネラはドレスの裾を握りしめ、唇を噛んだ。そうよね。もう七年も経つのだものね。ずっと同じ気持ちであるはずなんてないんだわ。……いいでしょう。

 エルネラは青ざめた顔で瞳を閉じた。

 

 ミルイヒは答えが返ってこないのを当然のごとく納得した。やはり、お気が触れているというのは本当だったのか。

 諦めて立ち上がりかけたとき、不意にあたりが陰った。月が雲に隠れたのだ。互いの位置が何となくわかる程度の明るさしかない。

「あなたにふさわしい女なんていないわ」

 いらえがあったことにミルイヒは驚いた。

「殿下……正気ですか?」

「今だけは正気よ。だって、闇の中では何も隠す必要はないもの」

「狂言なのですか?」

「……」

「わたしのせいなんですか?」

「……勘違いしないことね。あなたがわたしの中でどれほどの存在だと思うの?」

「小さくはないと思いますよ。殿下の初めての男なのですから」

 エルネラは身じろいだようだった。

「そんなの、ちっぽけな思い出に過ぎないわ」

 声が幾分震えている。言い過ぎたか?

「そうですね。ちっぽけなものかもしれません。なにしろ、わたしたちは若かった」

「『若い』ですべてを片づけてしまおうというの?」

「事実です。若かりし日の思い出は胸の内にしまっておくべきものです。それは幻想に過ぎません。人は現実の中で生きなければならないんです」

「それでは、今、このときは何なのかしら」

「幻想と現実の狭間といったところでしょうか? 殿下が今、偽っていないというのなら。闇の中では、幻想と現実の区別が付きません」

 エルネラの手がミルイヒの腕に触れた。そのぬくもりに、ミルイヒは驚きと共に懐かしさを感じた。

 ――駄目だ!

 ミルイヒは、情に傾きそうになる己の心を戒めた。自分とエルネラはもはや一介の主従に過ぎない。再び過ちを犯してはならない。

「それなら……」

 エルネラは躊躇いがちに言った。

「キスぐらいは罰が当たらないでしょうね?」

 ミルイヒは目を見開き、エルネラの表情を読みとろうと必死に目を凝らした。しかし、輪郭がわずかにわかるだけで、それには至らなかった。

「……ええ、ここは現実ではなく、誰も見ることのできない闇の中なのですから」

 ミルイヒは、割れ物にでも触るかのようにエルネラをそっと抱き寄せ、刹那の躊躇いのあと、優しく口づけた。それは、甘く、苦い、懐かしい味がした。若き日の思い出が、走馬燈のように浮かんでは消える。このまま永遠に時が止まってしまえばいいと思った。

 しかし、現実はすぐにやってきた。月が雲間から姿を現し、世界を再び照らし出した。

 二人は名残惜しげに離れたが、その瞳に後悔はない。何かしらの決意がある。

 ミルイヒは軽く会釈をすると、やってきた扉へ向かって颯爽と歩いた。

 エルネラはミルイヒに背を向け、毅然と歩き出した。

 二人の間に風が巻き起こり、白い花びらが空高く舞った。舞い上げられた花びらは月の光でほのかに輝き、白い軌跡を描くように地上に舞い降りた。

 それはあたかも、月のかけらの残影のようだった。

 

 

 朧の月の光のごとく

 草木の萌ゆるがごとく

 君の微笑みは温かい

 そして

 愛する人は振り向く

 

 夏の日差しのごとく

 蒼海を渡る風のごとく

 君の眼差しはまぶしい

 しこうして

 愛する人は消えゆく

 

 秋の陽の落ちるがごとく

 草木のしおれるがごとく

 君の顔は憂い

 そして

 愛せし人の名を呼ぶ

 

 真白き雪の迷うがごとく

 吐息の凍れるがごとく

 君の瞳は閉ざされる

 しこうして

 愛せし人は還らず

 

 また春来たりなば

 共に月を見上げんことを望まん

 

 ああ

 君の愛せし人はいまいずこ

 

ジャーニー・バーゼル

『君を想いて』

- 了-

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