ダーシュが帰ってきたのは夜遅くだった。隠れるように帰ってきたわけではないが、それでも物音を立てないようにしているのが判った。もう屋敷の者たちは寝静まっているからだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
ダーシュが部屋の前を通ろうとした時、アイオナは姿を見せて声をかけた。
「まだ起きていたのか?」
「ええ。さっきまで仕事をしていたの」
本当だった。ただ、床に入ってからも寝つけなかったわけだが。
ダーシュは少し酒臭かった。
「食事は外で済ませてきたの?」
「ああ」
「じゃあ後は
言った直後、酒の臭いに混じって
アイオナは衝撃と共に事情を悟った。
……なるほど、行き先が言えないわけだ。女を買いに行ったのか、恋人に逢いに行ったのかは判らねど、いずれにせよ女に
アイオナは
てっきり自分たちの今後に関することで何かをしに行ったのだと思っていた。なればこそ深く追求もしなかった。なんと愚かしい思い込みであったことか。勘違いも
ともあれ所詮は
しかし、そうは思えど気分は良くない。なんだか裏切られたような感じがする。ダーシュは契約違反をしたわけではないのだから、そう感じるのは自分の勝手なのだけれど。
「おい、何を考えている?」
ダーシュが
「……別に」
不機嫌な声が出てしまった。
「疲れてるんでしょ? さっさと寝たら?」
ダーシュは不思議そうにアイオナを見、それから何かに思い当たったように苦笑した。
「ふん、そうか。嫉妬か」
アイオナは顔を
「なんでわたしが嫉妬しなくてはならないのよ!」
「安心しろ。お前の勘違いだ。女に逢いに行ったわけじゃない」
「
言われてダーシュは自分の匂いを
「女は居たが何もしてない」
「なんで?」
その後に続く言葉は、「嘘を
「別にわたしに義理立てることはないわよ。仮初めの結婚なんだし、それ自体今や意味の無いものでしょ?」
アンケヌの兵から逃れるために結婚したのだ。アンケヌが盗賊の手に渡った今となっては、逃げ隠れする必要は無くなった。つまりは結婚している必要も無くなったはずである。
ダーシュは苦笑した。
「義理立ててるわけじゃないさ。単に気乗りしなかっただけだ」
「あ、そう……」
落胆混じりの羞恥を感じて、アイオナは
ダーシュは笑った。
「期待に添えなくてすまんな。なんなら期待に応えてやってもよいぞ」
と、アイオナの髪に触れてきた。
その瞬間、怒りが噴き出した。アイオナはダーシュの手を乱暴に払い
「余計なお世話よ!」
その
アイオナは
後ろ手に扉を閉めると嫌な気持ちが胸を上がってきた。
最近、このような状態で部屋に戻ることが多いと思った。不愉快と言うよりも遣る瀬無い気持ちになる。
翌朝になっても気分は
こういう時に限って思うように事が運ばない。
アイオナは膝を抱えるようにして寝台に
気持ちを振り回しては駄目だ。これは自分とダーシュの問題だ。屋敷の者たちは関係……なくはないけれど、このことには無関係だ。
自分を言い聞かせようとしていると、不意に部屋の扉が
「誰?」
「俺だ」
なんとダーシュの声だった。しかも勝手に扉を開けて入ってくる。
「勝手に入ってこないで」
「夫が妻の顔を見るのに遠慮する道理は無い」
「出て行って」
大きな声は出なかったが、はっきりとした拒絶を込めて言った。
「鈴を鳴らしたのはお前だろう? 召使いが誰も行かないようだから、俺が代わりに来てやったというのにその
非難するようなダーシュの声を聞いていると無性に悲しくなってきた。
何故このような目に遭わなければならないのだろう。神罰が下るようなことをした憶えは無いのだが。それとも妖精が
「おい……泣いているのか?」
「出て行って」
ところがダーシュは出て行かない。逆に近づいてきて、事もあろうに隣に坐った。アイオナは目を
「すまん」
アウラシールの男とも思えない言葉が出た。アイオナは手を止めた。
「もっと……あなたには良い結果を生むと思ったのだが、私の考えが足りなかったようだ。
ダーシュは静かな顔で、壁に掛けられた
「私はあなたの
「……」
「昨夜は無礼を働いた。異国の人間であるあなたに対して取るべき態度ではなかった。どうか
綺麗なイデラ語である。
「私が屋敷を離れれば、この家の者たちは皆殺しにされるやも知れぬ」
アイオナは息を呑んだ。
「ヒスメネスが動き回っているようだが、それがどう出るかは判らぬ。いずれにしろ私とあなたが結婚したことを、良く思わない者が居ることは確かだ」
その者にダーシュは心当たりがあるようだったが、問い
「昨夜はハダクに会っていた。酒と女は奴が用意したものだ。ハダクは……ギドゥを殺すつもりらしい」
ハダクというのは盗賊団の
ギドゥは……たしかゴーサの傭兵団の頭目。すると……!
この先起こることを想像してアイオナは
町は戦場になるかも知れない。今度こそ本当に。
それは先日征服された時のような、大人しいものではないだろう。
「約束しよう。何があってもあなたの身を護ると。ただし私の力ではあなた一人護るのが精一杯であるかも知れぬ。その時はやはり赦して欲しい」
ダーシュは言葉を切り、少し間を開けてから含み笑いをした。言葉がローゼンディア語になった。
「赦しを請うてばかりだな。情けない話だ。お前にとって必ず得になると約束したのにな……」
「あの時はそう思ったのでしょう?」
アイオナは
「読みが外れることはあることよ。よく調べて、よく考えて採った行動なら、それはあなたの
「では誰の責任だ?」
アイオナは少し考えた。
「たぶん、すべてはヘキナンサの思し召しよ。商人にはそれぞれ事情というものがあるのよ。全員の利益になるようには、事が動くはずもないわ」
ヘキナンサはヴァリア教の商業神である。道行く者を、
アイオナはじっとダーシュを見つめた。ダーシュも目を
ふっとダーシュの目が笑った。
「たぶん、か」
「ええ。たぶん」
アイオナも
だがこれは聞いておかねばならない。
「……町を
ささやくように尋ねると、ダーシュの顔が
「そういうことも起こりうる」
「そう」
アイオナは目を閉じた。
店の者たちを、屋敷に仕えた者たちを置いていかねばならないのか……それはとても
都市内で戦いが始まればどうしようもない。
「ヒスメネスに期待するしかないな」
アイオナは答えなかった。ダーシュは立ち上がり、扉の方へ歩いていった。
「何か食べるものを持ってこよう。何がいい?」
「
「解った」
朝食を摂っている間も、誰ひとり部屋には来なかった。おかしい。これは明らかに変である。
「今日は随分と静かだな」
ダーシュも異常を感じているようであった。
「ええ。
さすがに不審を感じた。
「様子を見てこよう」
ダーシュが出て行き、アイオナはひとりになった。
すぐに戻ると思っていたのにダーシュは戻ってこない。
不安を感じ始めた頃、
「ハダクが殺された」
心なしか顔色が悪かった。
事件が起こったのは宮殿の中だという。ゴーサの傭兵団が突然に牙を
ハダクとその側近は皆殺しになったという。
市民が話を聞きつけた時には、もうすでにかなりの数の盗賊たちが町を逃げ去っていた。
さすがに情勢を見る能力は
そしてそれが命取りになった。
「町の各所でゴーサの傭兵たちと戦闘になっているらしい」
所詮は部族兵である。普段は遊牧などをして暮らしている連中だ。毎日殺し合いが日常の傭兵とでは勝負にならない。
「実際には一方的な虐殺だろう」
「
「奴らだって市民を殺したり、
ダーシュの言葉は淡々としたものだった。
ヒスメネスは例によって朝から出かけている。大丈夫だろうか?
「一応護衛を連れて行ったようだしな。奴自身腕は確かだ。自分から危険に近づくとも思えないから、まあ大丈夫だろう」
「……これからどうなるの?」
「判らん」
ダーシュは首を振った。
「どちらにしろ、俺はこの屋敷を出て行った方がいいだろう」
その言葉にアイオナはぎくりとした。胸が
「ともかくもう暫くは静観だ。この次に何が起こるか。それですべては決まる」
「もしあなたが出て行くのなら、最初の約束は果たしてもらえなくなるわね」
その背中を引き止めるようにアイオナは声をかけた。ダーシュが振り向いた。
「絶対にわたしに損はさせないって言ったじゃないの。あれが嘘になってしまうわ」
出来るだけ冗談に聞こえるように明るく言った。通じたのだろう、ダーシュは困ったような優しい顔をした。
「そうだな。すまないと思う。俺は
「そうよ。忘れては駄目よ」
「だから俺もお前の
「そう」
アイオナは硬い表情で頷いた。
第二の変化が起こったのは夕方だった。今度はギドゥが殺されたのだ。
「いったい誰が……」
彼は敵対者を始末したはずだ。アイオナには解らなかった。
報を持ってきたのはエニルだった。身振り手振りを
「やったのは若いアウラシール人の戦士だそうですよ。かなりの
ヒスメネスは相変わらず帰ってこない。帰宅は夜遅くになるだろう。
ダーシュはと言うと、布で顔を覆って出かけている。情報を集めるためだそうだが、今まで極端に外出をしたがらなかったことから考えると、それだけ重大な事態に至っているということなのだろう。
自分だけが屋敷の中で、普段と変わらぬ暮らしをしているのがなんだか恥ずかしかった。
「それでその戦士はどうしたの?」
「逃げ延びたようです。
「市民の評判は良いでしょうね」
「ところがそうでもないんです。どうやらその男、元々連中の
その言葉がアイオナの耳に引っ掛かった。ダーシュの親戚だという、あのアウラシール人のことが思い出された。
彼はハダクやギドゥの仲間だったはずだ。事実護衛としてゴーサの傭兵を連れていた。
となると……彼がその戦士だろうか?
「お嬢様。どう致しました?」
「いえ、なんでもないの。気にしないで」
エニルは不思議そうな顔をしていたが、それ以上聞いてはこず、話が終わると仕事に戻っていった。
ダーシュが戻ったのはそれからすぐのことだった。
「やられた」
一言、言った。今までに見たことが無いほど真剣な、いや追いつめられた顔だった。