偽装の結婚

第十七章

 ベラルのオアシスに着いたのは夜中を過ぎた頃だった。砂漠の旅人は昼夜逆転が基本のため、近くで日が昇るのを待ってからオアシスに入る。アイオナたちもそうした。とはいえオアシスの活動が本格的に始まるのは夕方からなのだが。

 宿を取り、駱駝の世話を頼んでから二人は町に出た。

「体を拭きたくはないか?」

 ダーシュが聞いてきた。

「いいわよ。飲み水の残りで拭くから。余分な買物はしたくないわ」

 オアシスとはいえ砂漠の町である。水は無料ではない。

「立派な心がけだが無理をすることはない。そんなことまで吝嗇(けち)っていては心の方が先に参ってしまうぞ」

「そんなことはないわよ。あなたは商人の(たくま)しさを知らないだけ」

「店は本当にお前が継ぐのか?」

「ええ。父がそうと決めれば。多分そうなるでしょうね」

「ヒスメネスはどうなる?」

「彼がこのまま働いてくれるのなら、わたしとしては大助かりなのよね。けどやがては自前の店を持つことになるでしょうね」

「城に出入りする商人としてな」

 皮肉げにダーシュは言った。

「気に入らないの?」

「お前にとってはどうだか知らんが、俺にとってはもはや敵だ。気に入るわけがない」

 アイオナは口を(つぐ)んだ。難しいところだと思った。

 ヒスメネスがザハトと結んだであろうことは何となく判る。證拠(しょうこ)を見ていないのではっきりと断じることは出来ないが、まず間違いない。損得勘定をすれば当然そうなって(しか)るべきだ。

 ひょっとすると自分は逃げる必要は無かったのかも知れない。その辺の話も、すでにザハトとヒスメネスの間で約束が交わされているのかも知れない。大いにあり得ることだと思う。

 だが、ダーシュはどうなる?

 おそらく、いや間違いなく殺されるだろう。

 ダーシュにとっては逃げるという以外に手がない。待てよ? となるとわたしが()いてきたのはダーシュにとってのみ一方的な利益になるのではないか?

 ダーシュはそこまで考えていたのだろうか。

 いや、おそらく考えてはいない。この人はそういう人ではない。

 本当に私の生命(いのち)が危険になると思い、助けようとしてくれたのだろう。

 アイオナはダーシュを見上げた。ここは水場の隣の休憩所である。お互いに(のど)を潤した後、近間の小屋で体を拭き、今は風にあたりながら休憩をしているところだった。

 時折(ときおり)風が軽く吹いてくる。砂を含んだ暑く乾燥した風だ。日射しは強く、休憩所の屋根の下と、通りとではまるで別の世界に感じられる。ここでは太陽の光はほとんど暴力に等しく、そこから逃れた場所こそが生活の場なのだ。それは強烈な黒と白とに分けられた世界である。

 ダーシュは静かな顔をしていた。とても生命(いのち)を狙われている者とは思えないような表情である。野心や闘争心、王位をめぐる争いなどとは無縁な人の顔をしている。

 だからといって市井(しせい)に埋もれているような顔でもない。その面には輝きのような何かがある。上手くは言えないが、その輝きに秘められた運命のようなものをアイオナは感じた。

 不意に(ひらめ)くものがあった。

 ――この人は、王になる。

 思った途端、アイオナの身体(からだ)怖気(おぞけ)のようなものが走り抜けた。

「どうした?」

「……何でもないわ」

(ふる)えていたのでな。熱でも出たかと思った」

「馬鹿にしないで。こう見えても旅には慣れているの」

「すまん。気に(さわ)ったなら謝る」

「その必要は無いわ。怒っているわけじゃないから」

「ならせめて口調を改めてくれるか。なんだか責められているような気持ちになる」

 ダーシュの口許(くちもと)に笑みが浮かび、それを見てアイオナは安心した。二人の距離が縮まったように感じた。

「あなたはヒスメネスのことを心配してるようだけれど、彼がわたしたちの敵に回るはずはないわ。何か考えがあってのことなのよ」

「お前の敵には回らんだろうが、俺の敵になることには躊躇(ちゅうちょ)はすまい。ザハトと組んだ方が得だからな」

「それなんだけど、本当にザハトはあなたを殺そうとしてるわけ? 間違いなんじゃないかしら?」

 だとしたら、ここまで逃げてきたのはすべて茶番だということになってしまう。

 もちろんアイオナはそうは思っていない。一度しか会っていないが、あの男には用心しなければならないと思う。商人の勘である。

「野心的な奴ではあったが、まさか俺を殺す気になるとはな」

「間違いではないの?」

「間違いないな。でなければギドゥを殺したのが俺だなどと、そんな話が出てくるはずがない」

「それなんだけど、その嘘を(あば)いてしまえば事態は好転するんじゃないかしら?」

「無理だな」

 ダーシュは言い切った。

「おそらくギドゥを殺したのはケザシュだ」

「誰よそれ?」

「ザハトの協力者だ」

「何者なの?」

「判らない」

 ダーシュは首を振った。

「最も用心せねばならない男であることは確かだ。あいつはどこか得体が知れない」

「そいつがわたしたちを追いかけてくるってわけ?」

「さてな。そこまでは判らん。ザハトも馬鹿ではないから、そう時を置かずに俺たちの目的地を探り出すだろう。ヒスメネスに聞くという手もあるしな」

「ヒスメネスが話すかしら?」

「お前の生命(いのち)を助けるという交換条件ならどうだ?」

「それなら大いにありうるわね」

 アイオナは頷いた。

「だけど、その約束をザハトがきちんと守るという保證(ほしょう)はあるの?」

「契約を立てればいい」

「そうね。だけどザハトは王であり、軍隊を持っているわけでしょう? こっちは外国の商人よ。約束を土壇場(どたんば)反故(ほご)にされたって、復讐出来るとは限らないわ」

「ふむ」

「だからもしヒスメネスがその交換条件に応じる場合、必ず自分と店と、そしてわたしの安全が保證された状況でしか動かないはずよ」

「続けてくれ」

 ダーシュは興味を持ったようだった。

「ところがそのためにはザハトの兵を使えない状況にする必要があるわ。けれど現状、そのための方策を採用することは難しいのよ」

 兵という軍事的裏付けがあるザハトは、いつでも約束を反故に出来る状況にあるということだ。

 ダーシュを押さえた後で、アイオナもヒスメネスも皆殺しにしてしまうことだってありうる。決して行きすぎた想像ではない。

 となるとこちらも同程度の軍事的裏付けを持ってくるか、または強力な第三者の(もと)で契約を結ぶしかない。

 だが実際問題としてそれは不可能である。そんなことをしている間に物事は終わってしまう。時間こそが最大の問題なのだ。

「つまり、ヒスメネスがその交換条件をザハトに持ちかけている可能性は低いということだな?」

「話だけならしているかも知れないわ。けど、信用してはいないでしょうね」

「ふむ……」

 ダーシュは頷いた。考えているようだった。

「だからわたしたちとしてはひたすら逃げればいいわけよ。首尾よくディブロスの町に入ってしまえばザハトも手出し出来ないわ」

「なるほどな。お前は本当に頭がいい」

「頭だって使うわ。これは取り引きなのよ」

 言ってしまってから、しまったと思った。誉められたのを良いことに調子に乗り過ぎたと思った。素直に喜んでおけば良かったのだ。

 あくまで自分たちの結婚は取り引き、偽装の結婚なのだと――。

 言葉に出すたびに何故かやるせない気持ちになる。しかもそれが段々大きくなる。

「……そうだな」

 案の定、ダーシュは(きょう)()がれたような、少し寂しいような顔を見せた。

「行くか。今日中に出発したい。大丈夫か?」

「もちろん大丈夫よ」

 返事をしながら、何か気の利いたことを言おうと思った。

「こいつは驚いた。ダーシュじゃねえか。なんでこんなところに居やがるんだ?」

 休憩所に入ってきた男たちの内の一人が、驚いたようにそう言った。アイオナの見たところ、人相風体(にんそうふうてい)、あまりよろしくない。

「ワディか」

 ダーシュには別段嬉しそうな様子は見えなかった。

「お前が生きてやがったとはな」

 憎々しげに吐き捨て、ワディはダーシュを(にら)んでいる。知り合いではあるが、友人ではなさそうだった。

生憎(あいにく)仕太(しぶと)いんでな。お前も元気そうじゃないか。ハダクが殺された時、お前はどこに居たんだ?」

 あからさまな嘲弄(ちょうろう)にワディの顔に怒気が差した。

「貴様……」

「ここはオアシスだぞ。やめておくんだな」

 アウラシールでは一般にオアシス内での戦闘行為は禁止されている。それはかなり厳しく守られている規律であり、従わない場合には厳しい罰則が適用される。

 とはいえ都市国家はどこも大概がオアシスなので、この規律は国家と言えるほどには発達していないか、または共同の集落として使われているオアシスに限った伝統であるのだが。

 ワディの、剣の柄に伸ばしかけた指が、藻掻(もが)くように動いている。ダーシュはつまらなそうにそれを見ている。ワディの連れていた二人の男は、それを不安気に見守っている。

「ダーシュ。関わることは無いわ」

 アイオナはローゼンディア語でささやいた。

「そうだな。こんな馬鹿に関わっている暇は無いしな」

 ダーシュはイデラ語で答えた。ワディは泡を吹かんばかりに顔を紅潮させた。単純で気の短い男であるようだった。

「俺を(うら)むのは筋違いだぞ。ハダクが死んだのはザハトの話に乗ったからだ。俺はちゃんと忠告したんだ」

「てめえとザハトさえいなけりゃ……」

「人の所為(せい)にするのは良くないな。お前だって大乗り気だったろうに」

「ワディ」

 見かねた仲間がワディの肩を(つか)んだ。引き離されるようにしてワディはダーシュから離れた。

「いいか? いつかケリをつけてやる。必ずだ」

「汚い指で俺を指差すな。気分が悪くなる。そんな指は駱駝(らくだ)(くそ)でも差しておくがいい」

 唇を(ふる)わせながらもワディは退()き下がった。オアシスで切り合いをするほどには馬鹿ではないようだった。アイオナはワディたちが去ってからダーシュに話しかけた。

「王族なのに随分(ずいぶん)と汚い言葉を使うのね」

「城で召使いに(かしず)かれていたのは子供の頃の話だからな」

「血筋の良さは隠しようがないのにね」

「おや? ひょっとして俺は誉められたのか?」

「そうよ」

「これは驚いた。初めて優しき言葉をかけてくれたな」

「そお?」

 アイオナは首を(ひね)った。さすがに今まで優しく接していたとは言えないが、思い遣らなかったことが一度も無いわけではない。

「あなた鈍いんじゃないかしら? もっとも砂漠での暮らしが長いようだし、今みたいな男たちに囲まれて育ったのならば仕方ないけれど。育ちって重要ね」

「そう簡単に染まるものか。曲がりなりにも俺はラムシャーン王家の出身だぞ」

「だといいわね」

 アイオナはくっくと笑った。

「笑うことはないだろう」

 ダーシュは不満そうに言ったが、目が笑っていた。

「さてと。ともあれ厄介(やっかい)かも知れん」

「ワディたちね」

「我が妻は(さと)いな」

「ありがとう。で、どうするの?」

「ここにいる限りは問題は無いが、外に出たら襲ってくるだろう。だからなるべく早くオアシスを出た方がいい」

「夕方までは休めると思ったのに」

 アイオナは溜息を吐いた。

「すまんな。俺の不徳の致すところだ」

 (なぐさ)めるようにダーシュが肩を叩いてくれた。

 休憩所を出ると、二人はそのまま駱駝(らくだ)を預けてある宿へ向かった。ついさっき預けたばかりなので、亭主は面食らっていたが、文句も言わずに支度(したく)を手伝ってくれた。

「まだ昼前ですが」

「少し行ってから休むさ」

 ダーシュは亭主に答えた。

「どちらへ行かれるんで?」

「アンケヌだ」

 嘘を()いたのは悪意が有ってからではなく、追跡者がこの亭主に、自分たちのことを聞いた場合を考えてのことだろう。

「御無事を祈ってます」

「ありがとう」

 アイオナはにこやかに手を振った。

 日射しの下を進むのはきつかったが、とにかくオアシスからある程度の距離を離れなければならない。岩場は通り過ぎた。もしもワディたちが追ってきたとしたら、真っ先に目星を付けられる場所だからだ。

「砂の上に天幕を敷くしかないな」

「知ってる。穴を掘って横に拡げるのよね?」

「ローゼンディア人の(くせ)に物知りだな」

「手伝ったことは無いけど、見ていたことならあるわ」

「そいつは心強い」

「駱駝はどうするの?」

「近くに伏せておくしかないな」

 ホイヤムに用意させた駱駝は良く仕付(しつ)けされており、主の命令が無い限りはじっとしている。きちんと天幕を張って涼む場所を作ってやれば、日が沈むまではじっとしていてくれるだろうと思われた。

 半刻ほど走りオアシスが完全に見えなくなった頃、二人は協力して穴を掘って、駱駝と自分たちの休める場所を作った。

 横に伸ばした天幕の上には砂を掛け、容易には見つからないようにした。

「水の補給だけは済ませておいて正解だったな」

「そうね。火が使えないのが残念だけど、ウナと乾し肉もあるし」

 ウナはこの地方独特のパンである。薄く平たい円盤状をしており、千切(ちぎ)って食べる。

 よくある付け合わせは()(つぶ)した茄子(なす)に香辛料を加え、アルサム油で()えたものや、ヨーグルトや香辛料で下味を付けた鶏肉(とりにく)の蒸し焼き、または新鮮な羊の挽肉(ひきにく)を、やはり香辛料とアルサム油で和えたものなどである。これはマナナイと言われる料理であるが、生の肉なので、アイオナは最初抵抗があった。

「オアシスに来ればマナナイが食べられると思ったのだがな」

 ダーシュもやはり付け合わせの無い寂しさを感じているようだった。

「それは次のオアシスまでお預けね」

「仕方ないな」

「それで、いつまでこうして隠れているつもり?」

「夜になったら出発する」

 アイオナは驚いた。

「隠れているんじゃないの?」

「そんなことをしたらザハトの手の者が追いついてくる」

 ダーシュは苦い顔をして(つぶや)いたが、どうも理由はそれだけではない感じだった。

「何かあるの?」

「何がだ?」

誤魔化(ごまか)さないで。あなた何か隠してるでしょう?」

 ダーシュは(きょ)を突かれたような顔になった。

「王族だって時にもかなり(あき)れたけれど、この上まだ隠し事をするつもりかしら。もうここは砂漠の真ん中なのよ? 町に居る時にはそりゃあ隠すことも必要だったのかも知れないけれど、今は私たち二人きりなのよ」

 そう二人きりなのだ。自分で口にした癖に、妙にどきどきしてしまう。なんて馬鹿らしいのだろう。

 いつもそうだ。言ってしまってから後で心乱される。

 そんなアイオナの気持ちも知らぬ風に、ダーシュは返事をしてこなかった。考えている様子だった。

「……俺は暗殺者(ガズー)に狙われているようだ」

 (しばら)く経ってからぽつりと呟いた。今度はアイオナが黙った。一瞬、何のことだか考えたのだ。

「ガズーって……」

 記憶が確かならば、アウラシールで有名な暗殺者のことである。個人の名前ではなく、暗殺者そのものを示す言葉だ。

 狙われたが最後、生き延びることは不可能であると聞く。

「それって……」

「心配するな。今日明日襲ってくるはずもない。いずれは現れるだろうが、お前は気にしなくていい。狙われるのは俺だ」

「そういう問題じゃないでしょ!」

「何を慌てているんだ。暗殺者(ガズー)が狙うのは俺一人だ。余程(よほど)のことがない限り、お前が狙われることは無い」

 確かに暗殺者(ガズー)が狙うのは標的だけで、周りの者を巻き込むことはまず無いという。

「安心しろ。必ずお前をディブロスまで連れて行く。でなければ本当に、お前に損をさせてしまうからな」

 おどけたようにダーシュは言ったが、アイオナはそんな気になれなかった。

「……どうするつもりなの?」

「さてな」

 ダーシュは腕を組んだ。

山羊(やぎ)を連れて行くしかないな」

「山羊?」

「ああ。おそらく暗殺者(ガズー)(やと)ったのは先の王だ。ザハトにはその必要が無いからな」

「何で?」

「奴にはケザシュが居る」

「さっき言っていたザハトの協力者ね? いったいどういう人なの?」

「奴は得体の知れぬ技を使う」

「どういう意味?」

「奴はおそらく魔道(まどう)の徒だ。確證(かくしょう)は無いがな」

 真剣な顔をして言うダーシュを、アイオナはぽかんと見つめた。魔道だって? この人は何を言っているのだろうか。

「冗談じゃないの?」

「ふん。笑うがいい。ローゼンディア人のお前には所詮解らぬことだ」

「笑いはしないわよ。ただ、信じられないのは確かだけど」

 魔道などというものが、そうそうそこらに転がっているわけがない。

 話自体は一般に流れてはいるが、その実体は謎に包まれている、それが魔道というものではないだろうか。

 アイオナ自身、魔道の使い手という者には会ったことが無い。自称「魔道士」ならば何度か見かけたことがある。祭りの時など大道芸を披露(ひろう)している人たちだが、あの人たちは芸達者(げいたっしゃ)ではあるとは思うけれど、あれを魔道だと言われると(うなず)けない。

 とはいえ、この世には神秘が存在することは確かだ。事実、現在のローゼンディア王もそれに悩まされていると聞く。王位を継ぐべき実の娘が、恐るべき呪いを見に受けて産まれてきたというのだ。

「とにかくその人は不可思議な術を使うのね?」

「ああ」

 ダーシュはいい加減に返事をした。アイオナの態度が不満らしい。馬鹿にされていると感じたのかも知れない。そんなつもりは毛頭無かったのだが、また何か要らぬものが顔に出てしまっていたのかも知れなかった。

 アイオナは話を変えることにした。

「それはともかく、山羊って何のこと?」

暗殺者(ガズー)に契約の取り消しを求めるのさ。それには仲介者と山羊が必要だ」

「それって大丈夫なの?」

「さあな。上手くいけば死を(まぬが)れるが、駄目ならその場で殺されるだろうな」

 全然解決になっていないではないか。

「ともかくいつ仕掛けてくるかは向こうが決めることだ。だから俺が考えても仕方ない。今はディブロスを目指すだけさ」

「ワディはどうなの?」

「お前も判ったとは思うが、奴は愚かだ。指先と心臓が頭を(かい)さず直接(つな)がっている」

 要するに単純ということだった。

「でも、もうすぐであなたに切りかかりそうだったじゃない」

「そんな度胸は無いさ。仲間がいた手前、(よそお)っただけだ」

「そうかしら?」

 アイオナにはそうは思えなかった。あの場がオアシスでなかったならば本当に殺し合いになったかも知れないと思う。

「問題はあいつが仲間を引き連れてきた場合だが……」

「どうするの?」

「こっちもあれだけ強がったんだ。まさか俺たちが一目散に逃げ出すとは思っていまい。あいつが仲間に声をかけている間に、精々(せいぜい)遠くへ逃れるとしよう」

 ダーシュはにやっと笑った。

「あなたの胆力(たんりょく)には敬服するわ」

「俺もお前の辛抱強さには感心しているところだ」

「そうなの?」

「こんな逃避行、並の女なら音を上げていても怪訝(おか)しくないさ」

「砂漠の旅には慣れているって言ったじゃない」

 アイオナは口を(とが)らせた。何度言えばこの男は解ってくれるのだろう。

「そうではない。俺が言っているのは追われているという状況だ。恐怖という重石(おもし)が心に掛かってくる。お前はそれに負けていない」

「そうかしら? 実は内心、結構(おび)えているのかも知れないわよ?」

「だとしたら、俺はますますお前を尊敬する」

 ダーシュはきっぱりと言い切った。

「へえ、相手が女でも尊敬することがあるの?」

「立派かどうかということに男も女もないだろう」

「あなたの言葉とも思えないわね」

 アイオナは砂の上に横になった。ダーシュに背中を向けた。顔がにやけてしまったのでそれを隠すためだった。

「おい、お前は俺を誤解しているぞ」

「はいはい。出発の時になったら起こしてちょうだい」

 背後でダーシュが不満げにぶつぶつ言っている。アイオナは目を閉じた。

 とにかく今はディブロスに行くことだけに集中しようと思った。

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