ベラルのオアシスに着いたのは夜中を過ぎた頃だった。砂漠の旅人は昼夜逆転が基本のため、近くで日が昇るのを待ってからオアシスに入る。アイオナたちもそうした。とはいえオアシスの活動が本格的に始まるのは夕方からなのだが。
宿を取り、駱駝の世話を頼んでから二人は町に出た。
「体を拭きたくはないか?」
ダーシュが聞いてきた。
「いいわよ。飲み水の残りで拭くから。余分な買物はしたくないわ」
オアシスとはいえ砂漠の町である。水は無料ではない。
「立派な心がけだが無理をすることはない。そんなことまで
「そんなことはないわよ。あなたは商人の
「店は本当にお前が継ぐのか?」
「ええ。父がそうと決めれば。多分そうなるでしょうね」
「ヒスメネスはどうなる?」
「彼がこのまま働いてくれるのなら、わたしとしては大助かりなのよね。けどやがては自前の店を持つことになるでしょうね」
「城に出入りする商人としてな」
皮肉げにダーシュは言った。
「気に入らないの?」
「お前にとってはどうだか知らんが、俺にとってはもはや敵だ。気に入るわけがない」
アイオナは口を
ヒスメネスがザハトと結んだであろうことは何となく判る。
ひょっとすると自分は逃げる必要は無かったのかも知れない。その辺の話も、すでにザハトとヒスメネスの間で約束が交わされているのかも知れない。大いにあり得ることだと思う。
だが、ダーシュはどうなる?
おそらく、いや間違いなく殺されるだろう。
ダーシュにとっては逃げるという以外に手がない。待てよ? となるとわたしが
ダーシュはそこまで考えていたのだろうか。
いや、おそらく考えてはいない。この人はそういう人ではない。
本当に私の
アイオナはダーシュを見上げた。ここは水場の隣の休憩所である。お互いに
ダーシュは静かな顔をしていた。とても
だからといって
不意に
――この人は、王になる。
思った途端、アイオナの
「どうした?」
「……何でもないわ」
「
「馬鹿にしないで。こう見えても旅には慣れているの」
「すまん。気に
「その必要は無いわ。怒っているわけじゃないから」
「ならせめて口調を改めてくれるか。なんだか責められているような気持ちになる」
ダーシュの
「あなたはヒスメネスのことを心配してるようだけれど、彼がわたしたちの敵に回るはずはないわ。何か考えがあってのことなのよ」
「お前の敵には回らんだろうが、俺の敵になることには
「それなんだけど、本当にザハトはあなたを殺そうとしてるわけ? 間違いなんじゃないかしら?」
だとしたら、ここまで逃げてきたのはすべて茶番だということになってしまう。
もちろんアイオナはそうは思っていない。一度しか会っていないが、あの男には用心しなければならないと思う。商人の勘である。
「野心的な奴ではあったが、まさか俺を殺す気になるとはな」
「間違いではないの?」
「間違いないな。でなければギドゥを殺したのが俺だなどと、そんな話が出てくるはずがない」
「それなんだけど、その嘘を
「無理だな」
ダーシュは言い切った。
「おそらくギドゥを殺したのはケザシュだ」
「誰よそれ?」
「ザハトの協力者だ」
「何者なの?」
「判らない」
ダーシュは首を振った。
「最も用心せねばならない男であることは確かだ。あいつはどこか得体が知れない」
「そいつがわたしたちを追いかけてくるってわけ?」
「さてな。そこまでは判らん。ザハトも馬鹿ではないから、そう時を置かずに俺たちの目的地を探り出すだろう。ヒスメネスに聞くという手もあるしな」
「ヒスメネスが話すかしら?」
「お前の
「それなら大いにありうるわね」
アイオナは頷いた。
「だけど、その約束をザハトがきちんと守るという
「契約を立てればいい」
「そうね。だけどザハトは王であり、軍隊を持っているわけでしょう? こっちは外国の商人よ。約束を
「ふむ」
「だからもしヒスメネスがその交換条件に応じる場合、必ず自分と店と、そしてわたしの安全が保證された状況でしか動かないはずよ」
「続けてくれ」
ダーシュは興味を持ったようだった。
「ところがそのためにはザハトの兵を使えない状況にする必要があるわ。けれど現状、そのための方策を採用することは難しいのよ」
兵という軍事的裏付けがあるザハトは、いつでも約束を反故に出来る状況にあるということだ。
ダーシュを押さえた後で、アイオナもヒスメネスも皆殺しにしてしまうことだってありうる。決して行きすぎた想像ではない。
となるとこちらも同程度の軍事的裏付けを持ってくるか、または強力な第三者の
だが実際問題としてそれは不可能である。そんなことをしている間に物事は終わってしまう。時間こそが最大の問題なのだ。
「つまり、ヒスメネスがその交換条件をザハトに持ちかけている可能性は低いということだな?」
「話だけならしているかも知れないわ。けど、信用してはいないでしょうね」
「ふむ……」
ダーシュは頷いた。考えているようだった。
「だからわたしたちとしてはひたすら逃げればいいわけよ。首尾よくディブロスの町に入ってしまえばザハトも手出し出来ないわ」
「なるほどな。お前は本当に頭がいい」
「頭だって使うわ。これは取り引きなのよ」
言ってしまってから、しまったと思った。誉められたのを良いことに調子に乗り過ぎたと思った。素直に喜んでおけば良かったのだ。
あくまで自分たちの結婚は取り引き、偽装の結婚なのだと――。
言葉に出すたびに何故かやるせない気持ちになる。しかもそれが段々大きくなる。
「……そうだな」
案の定、ダーシュは
「行くか。今日中に出発したい。大丈夫か?」
「もちろん大丈夫よ」
返事をしながら、何か気の利いたことを言おうと思った。
「こいつは驚いた。ダーシュじゃねえか。なんでこんなところに居やがるんだ?」
休憩所に入ってきた男たちの内の一人が、驚いたようにそう言った。アイオナの見たところ、
「ワディか」
ダーシュには別段嬉しそうな様子は見えなかった。
「お前が生きてやがったとはな」
憎々しげに吐き捨て、ワディはダーシュを
「
あからさまな
「貴様……」
「ここはオアシスだぞ。やめておくんだな」
アウラシールでは一般にオアシス内での戦闘行為は禁止されている。それはかなり厳しく守られている規律であり、従わない場合には厳しい罰則が適用される。
とはいえ都市国家はどこも大概がオアシスなので、この規律は国家と言えるほどには発達していないか、または共同の集落として使われているオアシスに限った伝統であるのだが。
ワディの、剣の柄に伸ばしかけた指が、
「ダーシュ。関わることは無いわ」
アイオナはローゼンディア語でささやいた。
「そうだな。こんな馬鹿に関わっている暇は無いしな」
ダーシュはイデラ語で答えた。ワディは泡を吹かんばかりに顔を紅潮させた。単純で気の短い男であるようだった。
「俺を
「てめえとザハトさえいなけりゃ……」
「人の
「ワディ」
見かねた仲間がワディの肩を
「いいか? いつかケリをつけてやる。必ずだ」
「汚い指で俺を指差すな。気分が悪くなる。そんな指は
唇を
「王族なのに
「城で召使いに
「血筋の良さは隠しようがないのにね」
「おや? ひょっとして俺は誉められたのか?」
「そうよ」
「これは驚いた。初めて優しき言葉をかけてくれたな」
「そお?」
アイオナは首を
「あなた鈍いんじゃないかしら? もっとも砂漠での暮らしが長いようだし、今みたいな男たちに囲まれて育ったのならば仕方ないけれど。育ちって重要ね」
「そう簡単に染まるものか。曲がりなりにも俺はラムシャーン王家の出身だぞ」
「だといいわね」
アイオナはくっくと笑った。
「笑うことはないだろう」
ダーシュは不満そうに言ったが、目が笑っていた。
「さてと。ともあれ
「ワディたちね」
「我が妻は
「ありがとう。で、どうするの?」
「ここにいる限りは問題は無いが、外に出たら襲ってくるだろう。だからなるべく早くオアシスを出た方がいい」
「夕方までは休めると思ったのに」
アイオナは溜息を吐いた。
「すまんな。俺の不徳の致すところだ」
休憩所を出ると、二人はそのまま
「まだ昼前ですが」
「少し行ってから休むさ」
ダーシュは亭主に答えた。
「どちらへ行かれるんで?」
「アンケヌだ」
嘘を
「御無事を祈ってます」
「ありがとう」
アイオナはにこやかに手を振った。
日射しの下を進むのはきつかったが、とにかくオアシスからある程度の距離を離れなければならない。岩場は通り過ぎた。もしもワディたちが追ってきたとしたら、真っ先に目星を付けられる場所だからだ。
「砂の上に天幕を敷くしかないな」
「知ってる。穴を掘って横に拡げるのよね?」
「ローゼンディア人の
「手伝ったことは無いけど、見ていたことならあるわ」
「そいつは心強い」
「駱駝はどうするの?」
「近くに伏せておくしかないな」
ホイヤムに用意させた駱駝は良く
半刻ほど走りオアシスが完全に見えなくなった頃、二人は協力して穴を掘って、駱駝と自分たちの休める場所を作った。
横に伸ばした天幕の上には砂を掛け、容易には見つからないようにした。
「水の補給だけは済ませておいて正解だったな」
「そうね。火が使えないのが残念だけど、ウナと乾し肉もあるし」
ウナはこの地方独特のパンである。薄く平たい円盤状をしており、
よくある付け合わせは
「オアシスに来ればマナナイが食べられると思ったのだがな」
ダーシュもやはり付け合わせの無い寂しさを感じているようだった。
「それは次のオアシスまでお預けね」
「仕方ないな」
「それで、いつまでこうして隠れているつもり?」
「夜になったら出発する」
アイオナは驚いた。
「隠れているんじゃないの?」
「そんなことをしたらザハトの手の者が追いついてくる」
ダーシュは苦い顔をして
「何かあるの?」
「何がだ?」
「
ダーシュは
「王族だって時にもかなり
そう二人きりなのだ。自分で口にした癖に、妙にどきどきしてしまう。なんて馬鹿らしいのだろう。
いつもそうだ。言ってしまってから後で心乱される。
そんなアイオナの気持ちも知らぬ風に、ダーシュは返事をしてこなかった。考えている様子だった。
「……俺は
「ガズーって……」
記憶が確かならば、アウラシールで有名な暗殺者のことである。個人の名前ではなく、暗殺者そのものを示す言葉だ。
狙われたが最後、生き延びることは不可能であると聞く。
「それって……」
「心配するな。今日明日襲ってくるはずもない。いずれは現れるだろうが、お前は気にしなくていい。狙われるのは俺だ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「何を慌てているんだ。
確かに
「安心しろ。必ずお前をディブロスまで連れて行く。でなければ本当に、お前に損をさせてしまうからな」
おどけたようにダーシュは言ったが、アイオナはそんな気になれなかった。
「……どうするつもりなの?」
「さてな」
ダーシュは腕を組んだ。
「
「山羊?」
「ああ。おそらく
「何で?」
「奴にはケザシュが居る」
「さっき言っていたザハトの協力者ね? いったいどういう人なの?」
「奴は得体の知れぬ技を使う」
「どういう意味?」
「奴はおそらく
真剣な顔をして言うダーシュを、アイオナはぽかんと見つめた。魔道だって? この人は何を言っているのだろうか。
「冗談じゃないの?」
「ふん。笑うがいい。ローゼンディア人のお前には所詮解らぬことだ」
「笑いはしないわよ。ただ、信じられないのは確かだけど」
魔道などというものが、そうそうそこらに転がっているわけがない。
話自体は一般に流れてはいるが、その実体は謎に包まれている、それが魔道というものではないだろうか。
アイオナ自身、魔道の使い手という者には会ったことが無い。自称「魔道士」ならば何度か見かけたことがある。祭りの時など大道芸を
とはいえ、この世には神秘が存在することは確かだ。事実、現在のローゼンディア王もそれに悩まされていると聞く。王位を継ぐべき実の娘が、恐るべき呪いを見に受けて産まれてきたというのだ。
「とにかくその人は不可思議な術を使うのね?」
「ああ」
ダーシュはいい加減に返事をした。アイオナの態度が不満らしい。馬鹿にされていると感じたのかも知れない。そんなつもりは毛頭無かったのだが、また何か要らぬものが顔に出てしまっていたのかも知れなかった。
アイオナは話を変えることにした。
「それはともかく、山羊って何のこと?」
「
「それって大丈夫なの?」
「さあな。上手くいけば死を
全然解決になっていないではないか。
「ともかくいつ仕掛けてくるかは向こうが決めることだ。だから俺が考えても仕方ない。今はディブロスを目指すだけさ」
「ワディはどうなの?」
「お前も判ったとは思うが、奴は愚かだ。指先と心臓が頭を
要するに単純ということだった。
「でも、もうすぐであなたに切りかかりそうだったじゃない」
「そんな度胸は無いさ。仲間がいた手前、
「そうかしら?」
アイオナにはそうは思えなかった。あの場がオアシスでなかったならば本当に殺し合いになったかも知れないと思う。
「問題はあいつが仲間を引き連れてきた場合だが……」
「どうするの?」
「こっちもあれだけ強がったんだ。まさか俺たちが一目散に逃げ出すとは思っていまい。あいつが仲間に声をかけている間に、
ダーシュはにやっと笑った。
「あなたの
「俺もお前の辛抱強さには感心しているところだ」
「そうなの?」
「こんな逃避行、並の女なら音を上げていても
「砂漠の旅には慣れているって言ったじゃない」
アイオナは口を
「そうではない。俺が言っているのは追われているという状況だ。恐怖という
「そうかしら? 実は内心、結構
「だとしたら、俺はますますお前を尊敬する」
ダーシュはきっぱりと言い切った。
「へえ、相手が女でも尊敬することがあるの?」
「立派かどうかということに男も女もないだろう」
「あなたの言葉とも思えないわね」
アイオナは砂の上に横になった。ダーシュに背中を向けた。顔がにやけてしまったのでそれを隠すためだった。
「おい、お前は俺を誤解しているぞ」
「はいはい。出発の時になったら起こしてちょうだい」
背後でダーシュが不満げにぶつぶつ言っている。アイオナは目を閉じた。
とにかく今はディブロスに行くことだけに集中しようと思った。