偽装の結婚

第二十章

 ごく普通の香草茶と蜂蜜、氷砂糖、それと焼き菓子が出てきた。

 軽食の方はウナと付け合わせの野菜、そしてマナナイだった。

 野菜はアウラシール風に()(つぶ)してあり、塩と香辛料、アルサム油で()えてあった。

 それが丸皿に分けて盛り付けられているため、まるで皿自体が赤、黄色、緑、そして薄紫の四色に塗り分けられたもののように見えるのだ。

 こうなるとジャムと変わりない。ウナに塗り付けて食べるのだ。

 アンケヌの屋敷で雇っていた料理人は腕が良く、食事の度に作ってくれたものだが、塩と香辛料の塩梅(あんばい)などは絶対に教えてくれなかった。

 マナナイを見たダーシュは嬉しそうに顔を(ほころ)ばせた。余程(よほど)食べたかったのだろう。

「あなたも一緒にどうかしら?」

 アイオナが誘うと、スィサはびっくりしたように首を激しく振った。

滅相(めっそう)もないです!」

 これもまた予想出来た反応だったが、アイオナはそのままにしておくつもりはなかった。

「いいのよ。みんなで一緒に食べた方が美味しいでしょう? ここに来て卓に着きなさい」

「でも……」

 窺うようにダーシュの方に目を向けている。どうやら奴隷の自分が、主人たちと同じ卓に着いていいものかどうか迷っているようだった。

「俺のことなら気にしないでいいぞ」

 ダーシュがスィサに声を掛けた。

「俺はお前のことを奴隷だとは思っていない。だからここに来て卓に着け。折角のマナナイが不味(まず)くなる前にな」

 実に(うま)そうにマナナイをウナに包み、食べている。

 そんなダーシュの様子を好ましいと思った。スィサに気を遣っているのだ。

 手許(てもと)を見ると、いつの間にやらダーシュは自分のカップを出している。アンケヌを出てからずっと彼が使っていたものだ。水も香草茶もこれで飲んでいた。

 そうか。スィサが持ってきたお茶一式にはカップが二人分しかないからだ、と気付いた時、可笑(おか)しさが込み上げてきた。この男なりに少女に気を遣っているのだ。

 滑稽な気の遣い方だと思った。

 だけど好ましい。

「ディブロスに着いたら自由民にしてやるから心配するな。あとはお前の好きにすればいい」

 更に安心させるために言ったであろうダーシュの言葉は、意外にもスィサの顔を暗くしてしまった。

 ディブロスに着いたら用無し、お払い箱にされると受け取ったようだった。

 もちろん、そんなつもりは無い。そんな意味でダーシュは言ったのではない。

 スィサの表情の変化を見て、ダーシュは戸惑っているようだった。ウナを右手に持ったまま、救いを求めるようにアイオナに目を向けてきた。

「勘違いしないでね。あなたを追い出そうっていうわけじゃないのよ。あなたさえ良ければ、ずっとわたしの(そば)に居てもいいわ」

 素速くアイオナは取り成した。スィサの表情が明るくなる。

「解ったら早く卓に着け」

 ()っつくようにダーシュが言った。

 

   *

 

 食後、予定通りダーシュとアイオナは今後の相談を始めた。ディブロスは目の前とはいえ、まだ到着したわけではない。

 油断は出来ないのだ。

 スィサは買い物に行かせた。果物と、そして入浴用の糸瓜(へちま)石鹸(せっけん)を頼んだ。それがアイオナが頼んだ分だった。

「俺も買い物を頼みたいが構わんか?」

「はい!」

 スィサの返事は元気がよい。仕事を命じられることが嬉しいようだ。

 おそらくあの悪逆な男から助け出されたことを恩に感じているのだろうが、こうはっきりと好意を示されると、思わず口許が(ほころ)んでしまう。

頭布(ずきん)を三本買ってきてくれ。黒い布のやつだぞ。それと土笛三つと、あとお前が着られるような白い長服を買ってくるんだ」

 どういうわけかダーシュはそんな物を買ってくるように指示した。

 スィサはとても物覚えの良い子供で、アイオナとダーシュが指示する内容を一度で憶えてしまい、二人を驚かせた。

「良い召使いを雇ったな」

 ダーシュは感心したように(うな)り、アイオナを喜ばせた。

 こういう言葉の端々(はしばし)に、ダーシュがスィサをどう考えているかが表れてくる。奴隷だとは思っていないことがアイオナには嬉しかった。

 スィサが行ってしまうと、アイオナは風呂の様子を確かめ始めた。個人的な感想を言わせてもらえばかなり狭いが、使う分には問題ない程度の広さがある。

「のんびり風呂に入っている時間は無いぞ」

 ダーシュは嫌味を言ったが、目の前に風呂を用意されて黙って見過ごせる者はローゼンディア人ではない。

 アイオナとしては、自分はローゼンディア人だとの自覚があるので当然無視しない。

「今夜宿泊出来るかも判らないというのに……」

 ダーシュはぶつぶつ言ったが、別に宿泊をしないでも風呂で生き返ることは出来る。

 この数日、(あか)と砂埃にまみれてきたのだ。ここらで綺麗にしておきたい。

「ディブロスに着けばいくらでも風呂に入れるだろう」

「それはそれ、これはこれよ」

 納得しきれない様子ではあったが、ダーシュは強く反対はしなかった。

「あなたも体くらい拭いたら?」

 善意から言ったのだが、ダーシュは先程の会話を思い出したのだろう。嫌そうに首を振った。

「それとも臭うか?」

 少し心配そうに聞いてくる辺りが可愛らしい。こういうことで揶揄(からか)っても何の意味も無いのでアイオナはきちんと答えた。

「臭うかどうかではなくて気分的なものよ。あなたもさっぱりしたいでしょう?」

「そうだな……では後で時間があったら体を拭くことにする」

「それがいいわ」

 アイオナとダーシュは卓に向き合って坐った。

 別に追い払うためにスィサを買い物に行かせたわけではないが、やはり二人きりの方が何でも話せる分、気楽ではある。

 アイオナは茶のお代わりを注ぎ、ダーシュに勧めた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「よく気の付く妻を得て、俺は幸せだ」

「それは皮肉かしら?」

「いやいや、妻に対する本心からの感謝の言葉さ」

「そう。素直になってくれて嬉しいわ」

 どうにも疑わしさを感じるが、案外とダーシュは本心から言っているのかも知れない。

 屋敷での日々や、ここ数日の逃避行で始終顔を突き合わせている内に、この男についてはついつい穿(うが)った見方をしてしまう。

 あまり意地悪く(とら)えるのも悪いかと思い、アイオナは何も言わないことにして、本題に入った。

「さてと、これからどうするかしらね……」

 旅の連れが一人増えてしまった。

「いや、これはむしろ都合がよいことかも知れんぞ」

「何か考えがあるのね?」

「ああ、おそらく向こうは俺たちを二人連れの夫婦者だと思っているだろうからな」

 なるほどと思った。

「それで、どういう風に化けるつもり?」

 わくわくしながらアイオナは尋ねた。スィサに買いに行かせた頭布や、長服をどう使うのかとても興味があった。変装以外に考えられないではないか。

 ところがダーシュの返事は意外なものだった。

「焦るな。それになんだ。化けるというのは?」

「見つからないように変装するんでしょ?」

 嬉々(きき)としたアイオナの言葉に、ダーシュは何とも情けない顔をした。

「お前な……芝居の見過ぎじゃないのか?」

「そんなに見てないわよ」

 むっとして言い返すと、ダーシュが疑わしげに聞いてきた。

「どのくらい見ていたんだ?」

「……興行があれば、必ず……」

 しまったと思いつつ、かといって嘘を答えるわけにもいかないので、アイオナは口の中で呟くようにして答えた。

 ダーシュは大袈裟(おおげさ)な溜息を吐いた。

「なによ」

「いや……別に何も」

「だったら疲れたように首を振るのを止めてくれるかしら?」

「すまんな。本当に疲れたんでな。俺の肩に砂漠の悪魔が跳び乗ったようだ」

「ふーん。わたしには見えないけれど」

「芝居の見過ぎで目がどうにかなったんじゃないか?」

「うるさいわね。好きなものは好きなんだから仕方ないじゃない」

「まあ……な。アンケヌは砂漠の真ん中だ。外国人が楽しめるものと言えば限られてるし、お前がどれだけ芝居に入れ揚げようが俺の知ったことではない」

「なら――」

 文句を言わないでよ、そう言おうとしたが、ダーシュが口許に(てのひら)を突き出すようにして発言を(さえぎ)ってきた。

「俺が困るのはな、今の俺たちの現実を芝居と混同されることだ。ザハトの追っ手はおそらく俺たちを殺す気で来る。芝居だったら剣で切られても、赤い布を散らして済むだろうが、そうはいかない。本当に生命(いのち)の危険がある」

「言われなくても解ってるわよ」

「そう願いたいな」

「解ったわよ。それで……実際のところあなたはどう考えているの?」

「俺の考えは二つある」

 ダーシュは指を二本立てて言った。

「現実的な方から聞きましょうか」

 当て付けるようにアイオナが言うと、ダーシュはおもしろげに口許に笑みを浮かべた。

「一つめは三人でどこかの隊商に(もぐ)り込むことだ。俺とお前が夫婦連れになり、スィサはその召使い。これなら全く無理が無い」

「けれどザハトの追っ手が、夫婦連れに網をかけて探している場合、見つかりやすくなるわけね?」

「その通りだ。だがこっちは一人増えているから網を逃れやすくなってはいるだろう」

「問題は隊商を捜せるかどうかということね?」

「そういうことだ」

 ダーシュは頷いた。

 砂漠を行く隊商は必ず武装しているし、護衛も連れている。

 それだけ危険なのだから当たり前だが、大体は一族や一つの商店だけで隊商を作ることになる。

 人選には慎重になるし、気心の知れない者や、信用の置けない者を隊商に加えることはない。当然のことである。

 誰でも隊商を編制する時にはじっくりと時間を掛けるのが普通だ。

 つまりいきなり顔を出して同道を願い出ても、はいそうですかと参加を許してくれるとは考えづらい。

「そこでお前の出番というわけだ。ローゼンディア人の隊商を捜し出して、お前の人脈で潜り込む」

「そう簡単にいくかしら?」

 アイオナは首を捻った。もし自分が隊商の統率者だったとしたらどうだろうかと考えたのである。

 いきなり尋ねてきた三人組を、入れるだろうか?

 一人は若い砂漠の戦士。美形で品の良さもあるが、それだけに正体不明。

 もう一人は飾り気も何もない恰好をしたローゼンディア人の女。

 最後はアウラシール人の少女。顔に殴られた(あざ)がある。

 怪しいと思う。この三人が一緒に居るというそのこと自体が、すでに限りなく怪しい。

「……無理じゃないかしら」

「なんだ、その諦めたような目は」

「遣る前から結果が見えているもの。あなたが隊商を率いていたら、わたしたちみたいな三人組を入れるかしら?」

「交渉次第だな」

「太っ腹ね」

 今度はアイオナが溜息を吐いた。

「確かに交渉には充分なだけの持ち合わせが有るわよ。けれど充分過ぎて隊商の目の色を変えてしまうかも知れないわ」

「隊商変じて夜盗になる、というやつか」

「それだけの魅力はあると思うけれど」

 アイオナは内懐を叩いて見せた。そこには例の宝石袋がある。

「俺は何も宝石で交渉しろとは言っていない。お前の人脈で潜り込もうと言ったんだ」

「メルサリスの名前を出すの?」

 危険ではないだろうか? 追っ手に手掛かりを与えることになる。

 逃避行の間は、あくまで偽名で通すべきではないだろうか。

「ああ、だがここはもうディブロスとは目と鼻の先だ。追っ手の連中がメルサリスの名前を聞き出したとしても、その時には俺たちはディブロスの門を(くぐ)っているさ」

「たしかにそうね」

 あと半日の距離だ。ケッサラに証拠を残したところで、それほど問題にはならないかも知れない。

「けど隊商の歩みがひどく遅かったらどうするの?」

 それなら結局、道の途上で追いつかれてしまう(おそれ)がある。

「隊商に加わるのはケッサラを出るまでさ。砂漠に入ってからは俺たちだけで先に進む」

 それでアイオナには全て解った。

 つまり交渉の段階でそこまで話を(まと)めてしまうということだ。

 ケッサラを出るまでの隠れ(みの)、そういうことで交渉する。メルサリスの名前には信用がある。それは胸を張って言える。

 アンケヌで政変があったことはおそらく、どの商人も知っているだろう。なんであれ商人は耳が早くなくてはやっていけない。

 となれば、アイオナがディブロスに避難するということにも相手は納得するはずだ。

「あなたの言いたいことは解ったわ」

「では早速行動するとしよう」

「ちょっと待ってよ。このオアシスにそう都合よくローゼンディア商人が居るかしら?」

「捜せば一人ぐらいは居るだろう」

「そうね。隊商なら大きな宿を取っているはずだし」

「それはここと、道向こうの宿くらいしかない」

「大して時間もかからないってわけね」

「ああ、他にもあるかもしれんが、そこまで当たっている時間はおそらく無いだろう」

 このケッサラ中を歩き回って、ローゼンディア商人を捜すゆとりは無いということだった。

「じゃあ、もし見つからなかったら?」

 不思議に思ってアイオナが尋ねると、ダーシュは何とも苦い顔をした。

「二つめの考えを聞かせてよ」

 アイオナが問うと、ダーシュは具合が悪そうに目を()らした。

「……後でな」

 話を切り上げようとしている。アイオナは何か引っかかるものを感じた。

「なによ、隠すことないでしょう? それともわたしが信用出来ないの?」

「そうじゃない」

「なら言いなさいよ」

 しつこく食い下がると、渋々といった様子でダーシュは(つぶや)いた。

「……お前が男に化ける」

 予想外の返答だった。あまりに予想外だったのでアイオナは怒りを忘れた。

「俺たちは連れ合いの戦士ということになるな。問題はスィサだが……」

 何事もなかったようにダーシュは考え込んでいる。いや、考え込んでいるような顔をしている。

 (つか)の間アイオナはダーシュの顔を見つめたが、やがてすぐに怒りが込み上げてきた。

 やっぱりあの買い物は変装用の道具だったに違いない。二つめの場合に備えて買いに行かせたのだ。

「勘違いするなよ。俺が言っているのは芝居とは全く違った意味でだな……」

 機先を制するように(かか)げられたダーシュの(てのひら)を見て、その指に噛みついてやろうかと思った。

「ええ、どう違うのか聞かせてもらおうかしら!」

「大きな声を出すな」

 必死に(なだ)めようとするダーシュを見ていると、複雑な気持ちになる。

 確かに腹は立っている。だが怒る反面、頭のどこかでは「これを何かに利用出来ないかしら?」と考えてもいる。熟々(つくづく)自分は商人なのだなと思った。

 そしてそう考えてしまうと怒りは収まっていった。

 一息吸い込むと、アイオナはぴしりと人差し指を立てた。

「いいこと? 一つ、貸しよ」

「ああ、判った」

 威に押されてダーシュが頷いた。

「それでわたしたちは二人連れの戦士に化けるとして、スィサはどうするの? あの子にも役者の真似をさせるの?」

 一言嫌味を加えてやると、ダーシュはとても嫌そうな顔をした。見ていてなかなか気分がいい。

「そうね……どこかのお嬢様ということにしたらどうかしら?」

「それは駄目だ。無理がある」

 ダーシュは首を振った。スィサを見下げて言っているわけではないと解っていたので、アイオナは嫌な気持ちにはならなかった。

「お嬢様が顔に傷を作っているのは無理があるし、スィサは人に仕えることに慣れ過ぎている。いきなりお嬢様扱いをしても無理が出るだけだ」

「そうね」

「俺たちの召使いということにしたいところだが……」

「戦士二人連れが召使いを連れているというのも無理があるわね」

「ああ、スィサも共連れの見習いに変装をさせるという手もあるが、やはり無理があるだろう」

「あの子は上手くやりおおせると思うけれど」

「ああ、頭の良い娘だ。変装したとしてもそう簡単には暴露(ばれ)まいが……」

「どちらにしても変装自体が冒険だものね」

「そうだ」

 ダーシュは頷いた。アイオナとしても最初の案の方が(すぐ)れているのは理解出来る。

 もちろん、変装の方がおもしろいが、おもしろさに生命(いのち)を賭ける気にはなれない。

 戦神の末裔(イスタリヘーレイ)ではあるまいし、危機的状況を楽しむ趣味は、自分にはない。

「解ったわ。わたしローゼンディア商人を捜してみる」

「すまないな」

「何を言ってるのよ。わたしたち――」

 アイオナは笑い飛ばそうとして、次の言葉が言い出せなかった。

 ――夫婦じゃないの。

 そう言うはずだった。けれど恥ずかしくて言い出せない。

 どうしたものかと少し悩んで、それからダーシュの顔を窺った。

 アイオナが途中で言葉を切ったのに気にならぬらしい。まるで興味が無いとばかりに素知らぬ顔をして茶を飲んでいる。

 何も聞いてくる様子が無い。

 助かったと思った。このままなかったことにしよう。

 急に会話が途切れたことが不自然ではあったが、このまま黙ってやり過ごすのが一番いい。

 ダーシュが話しかけてくるまで沈黙を貫くことにしようと思った。

 取り敢えず茶で(のど)を潤そうと思って、アイオナも茶を口に運ぼうとした。

 その時を捉えるようにしてダーシュが言った。

「……思ったよりも貸しを早く返せて俺は嬉しい」

 たった一言だったが、アイオナをぎょっとさせるには充分だった。

 危うく茶を(こぼ)しそうになってしまい、アイオナは慌てた。

 その様子を楽しげにダーシュが見ている。

 やっぱり解っていて黙っていたのだ。

 悔しいが今回はダーシュに分があると認めよう。

 アイオナは何だか遣り込められたような気分になった。

 その後は二人してスィサが帰るのを待つことにした。

 先に風呂を使ってから出掛けようと思ったのだ。ダーシュも文句は言わなかった。

「もうすぐ日が傾く。商人たちが動き出すのもその頃からだろう」

 確かに昼日中、せっせと動いている商人はあまりいまい。

 ここはローゼンディアではなくてナバラ砂漠である。夕方が仕事時間の中心なのだ。折角足を運んでも、昼寝でもされていては意味が無い。

 そういうわけで茶を飲みながら待っていると、やがてスィサが階段を上がる音が聞こえてきた。

「ただいま戻りました」

「ごくろうさま」

 アイオナは品物を受け取って卓の上に並べた。受け取りながら果物の状態に目を配る。

 どれもちゃんとしている。奇妙(おか)しな物は掴まされていなかった。糸瓜(へちま)と石鹸にも問題は無い。

 お釣りもきっちりと揃っていた。半ば予想していたことではあるがスィサは勘定が出来るのかも知れない。

 ダーシュは頭布を確かめ、土笛の具合を見ていた。

「スィサ、それぞれの品が幾らだったか憶えているかしら?」

 試みに尋ねてみると、スィサは淀みなくそれぞれの品の値段を言い、どこで幾ら支払ったかまでちゃんと答えた。

「お前、どこで勘定の仕方を習ったんだ?」

 再び感心した様子でダーシュが尋ねると、何とスィサは誰にも習ったことは無いという。

 自分で勘定の仕方を憶えたというのだ。それを聞いてアイオナの目が鋭くなった。

 父に会わせようと思った。この娘は優秀だ。きちんと仕込めば優秀な商人になるかも知れない。

 どのみち自由民になっても、彼女が自立出来るまでは手許に置くつもりだったわけだし、好都合だと思えた。その方がスィサのためにもなるだろう。

「あなた見込みがあるわ」

 言ってやると、スィサは嬉しそうに顔を綻ばせた。それが何ともいじらしく感じて、思わずアイオナは抱き締めそうになったが、頭を()でるだけにとどめた。

 この先、しっかりと商売を教えるならば、あまり最初から甘くし過ぎてもいけないと思ったからだ。

 アイオナの頭の中では、もはやスィサは「年少の弟子」とでも言うべき位置付けになっているのだった。

「あの、旦那様、奥さま」

「なんだ?」

「お二人にお会いしたいというお人がいらしております」

「ほう……」

 ダーシュの目が細くなった。警戒の色を表している。

「そいつは下に居るのか?」

 宿屋の一階は大きな食堂になっており、そこで食事を摂ったり休憩、待ち合わせなどが出来るようになっているのだ。

「はい」

「どういう奴だ? まさか買い物の途中で声を掛けられたのか?」

 軽い口調で付け加えられたダーシュの言葉の後半は、おそらく冗談であろう。

 何故ならそのためには元からアイオナとダーシュを()けて来ているか、またはこのオアシスでアイオナたちに興味を持ったかのどちらかになるからだ。

 このオアシスでならば、例の店先の一件、あの荒事を見ていた相手ということになるが、あの場には他の人間は居なかった。

 あそこに居たのはアイオナとスィサ、ダーシュ、そして極悪のあの男だけだ。

 となればアンケヌからここまで()けてきた相手がいるのだろうか?

 今までの道中でそんな追跡者があったとは思えない。追われているのは確かだが、そんな隠密じみた相手に……。

 考えたところでアイオナは該当者に思い当たった。

 ――ガズー。

 ダーシュは確かにそう言った。しかし、すぐにその考えも打ち消された。暗殺者(ガズー)が堂々と連絡を取ってくるはずなど無いからだ。

 ――でも、普通の商人の振りなどして接触を図ってくるかも知れない。

 無論そんなことはあるまいと思う。おそらく宿に出入りの商人か誰かが、何か売りつけに来たのだろう。

 けれどアイオナはふと胸騒ぎを覚えた。

 不安が膨らむ中、スィサの口を開いて出た言葉は驚くべきものだった。

「はい。お前の主人たちに会いたいと、そうおっしゃってます。お二人のことをよくご存じのようでした」

 ダーシュの顔色が変わった。険しい顔になった。

 考え込むように少し黙っていたが、何か思い当たることがあるのだろうか、スィサに問いかけた。

「それは、白い服を着た奴だったか?」

「いいえ黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布を巻いた男の人です」

 ダーシュの目が見開かれた。驚いているのだ。

 これほどにはっきりと、驚きの色を顔に出すとはアイオナにとって意外だった。そういう男ではないと思っていたのだ。

 いや、それともそれ程までに驚いたということなのか。

「……誰かしら?」

「ケザシュだ」

 ダーシュは低く呟いた。

「以前言っていた人ね?」

「ああ、奴なら確かに急に現れても不思議はない」

「で、どうするの?」

「会うしかあるまい」

 アイオナは咽を鳴らした。恐れはあったが、「魔道の徒」それがどういう人物なのかということへの興味が大きかった。

「その人は下に来ているのね?」

「はい、一階の卓でお待ちです」

「お前たちはここに居ろ」

 予想通りのダーシュの言い(ぐさ)に、アイオナは強い不満を感じた。

「わたしも会う権利があるわ」

「その権利は認めよう。だが会わせるわけにはいかない」

「どうして?」

 権利を認めると言ったではないか。

「あいつは尋常ではない。何を考えているかまるで判らぬし、俺はお前の身を守る責任がある」

「大丈夫よ。ここは人の出入りも多いし、何か企んでいたとしても大事にはならないわ」

「お前は奴の恐ろしさを知らない」

 ダーシュは首を振った。

 どうしても自分をケザシュに会わせるつもりはないらしい。ここで強く要求してもまず逆効果だろう。ダーシュは頑固者だ。

 元々自分も頑固者であるだけに、アイオナはダーシュの気性を理解しているつもりだった。

 だがアイオナとしてはどうしてもケザシュの姿を見ておきたかった。

 多少気が(とが)めるが、ここは(ずる)をさせてもらおう。

「そうね。じゃあこうしましょう。わたしたちはここで待っているわ。あなたは下でケザシュに会って、話を聞いてきてちょうだい」

 アイオナがそう切り出した時だった。

「どうでもいいが、重要な物事は夫婦二人で決めるのがローゼンディア式ではなかったのか?」

 陰気な声が聞こえた。目を向けると階段の所に見知らぬ男が立っている。

 浅黒い肌をした、年齢不詳の男だった。

 体格はよいとは言えないが、全身に何か、不気味な凄味(すごみ)のようなものが漂っている。

 武器は身に付けていなかった。黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布を巻いていた。

「ケザシュ……」

「久しぶりだな。ダーシュ」

「近づくな」

 ダーシュは歩み寄ろうとしたケザシュを鋭く制止した。

「安心しろ。俺はお前たちに(あだ)なすつもりは無い」

「ぬけぬけと!」

 ダーシュの怒気はかなりの剣呑さを帯びていたが、ケザシュには一向(こた)えぬらしい。おもしろそうににやりと笑んだだけだった。

「そう言うな。事情が変わった。今の俺はザハトとは何の関係も無い」

 アイオナはダーシュを窺った。表情は険しく、見るからに緊張している。

 こう言っては怒るかも知れないが、おそらくダーシュは恐れを抱いている。それは魔道の力に対する畏怖なのだろう。

 恐れおののくという程ではないにせよ、ケザシュに対してかなりの警戒感を持っているのではないか。その顔付きから、アイオナにはそれが容易に察せられた。

「それで? 貴様の所為で俺はゴーサの兵に追われることになった。今度はどんな災いを持ってきたのだ?」

「お前たちが逃げるのを手助けしてやろう」

「何?」

 ダーシュは聞き返した。陰気な口調ではあるが、ケザシュの声は良く通る。まさかダーシュが聞き逃したと言うこともないだろう。だがダーシュは聞き返した。

「今、何と言った?」

「お前たちを逃がしてやろうと言ったのよ」

「……どういうつもりだ?」

「どうもこうもない。今の相方がそれを望んでいるのでな」

 仕方がないと言った風な言い方だった。アイオナには意味がよく解らなかったが、ダーシュには解っているようだった。一瞬、何か複雑なものが彼の胸中を駆け抜けたらしい。ダーシュは乾いた声音でケザシュに尋ねた。

「ザハトは……?」

「奴は運がいい。今はアンケヌを纏めるのに大忙しといったところさ」

「そうか」

 ダーシュは小さく頷いた。何故だろうか。アイオナはそこに安心しているような様子を感じた。ザハトは、自分の生命(いのち)を狙っている相手だというのに。

「あいかわらず甘い男だな」

 ケザシュが嘲るように笑った。(かす)れた息を吸い込むような、不吉な笑い方だった。

「時間が惜しいのでな。話をさせてもらうぞ」

 そう前置いてケザシュは歩み寄ってきた。反射的にダーシュが腰に手を伸ばした。アイオナはその手を掴んだ。ここで剣を抜かせるわけにはいかない。

 何故だと問うような瞳と目が合った。ダーシュの瞳に責める色はなかったが、アイオナはとても悪いことをしてしまったような気になった。

「今はこの人の話を聞きましょう。行動を決めるのはその後でも問題無いわ」

「なるほどローゼンディアの女は凄いな。よもや夫を諫止(かんし)するとはな!」

 おもしろそうに言ってケザシュは卓の前の椅子を引き、席に着いた。

「お前たちも(すわ)ったらどうだ?」

 良い機会だとアイオナは思った。ダーシュが何か言う前に急いで席に着いた。それを見たダーシュは目を()きかけたが、すぐに憤然とした表情になり、諦めて席に着いた。

 これで三人が卓を囲んだことになった。

「スィサ、何か飲み物と、菓子を(もら)ってきてくれるかしら」

「はい、奥さま」

 これまでの緊張感からだろう、スィサは詰めていた息を小さく吐くと、急いで階段を下りていった。

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