日輪の輝きに十字を
旗は幾本も並び立ち、その下にはレメンテム帝国の軍勢が大きく
距離はまだある。敵兵の顔を判別するには到らない。
だが、間違いなくそこに『敵』がいた。
「奴ら考えていたよりも足が速いですな」
従士のタデアスが
グレシオスは顔を向けてタデアスを見た。
若い。髪の毛も
お互い今では髪にも鬚にも、もうすっかり白い物が混じってしまっているが、この戦いの時にはグレシオスもタデアスも、まだ二十才だった。
「信仰心のなせる
答える自分の声も若く感じる。タデアスは
両軍が
耳に聞こえるのは
余計な口を
しかし自分たちは会話をした。その事を憶えている。
今にして思えば興奮していたのだろう。
初めての
にもかかわらず血が
静粛の中、
大いなる名誉のために、どうにも身が落ち着かなかったからではなかったろうか……。
ベルガイアの戦い──。
今から三十年以上前のことだ。
西方レメンテム帝国の軍勢が、エリュオーン海に深く入り込み、ガレノス
ガレノス陸橋とは、王都を含む地域一帯を呼び慣わしたものである。
王都ガレノスは北にフェルシナ大内海を、南にゼレーア海を
陸橋の地下深くには海流が流れ、フェルシナ海とゼレーア海とは
ゼレーア海はドライデース半島を越えたところからエリュオーン海に入る。
半島突端の岬には、神話の時代に天の雄羊が幼い
そしてエリュオーン海こそはローゼンディアの海である。
古来より
エリュオーン海はまた、より
ローゼンディアもレメンテムも、ミスタリア海に面し、それを中心とする世界の中に存在している。
今から三十年以上前のことだ。
西方レメンテム帝国が、大軍を動員してローゼンディアに攻めてきた。
それも今までのように西方の
レメンテムとローゼンディアでは
アラトナ教は異教の存在を認めない。
そのためレメンテムは
戦いはローゼンディアの大勝で幕を閉じ、レメンテムは死者六万五千人、捕虜一万人以上の犠牲を出すこととなった。
ローゼンディア軍を指揮したのはゼメレス侯クレオラ。
ゼメレス家は王国貴族の頂点に立つ七宗家の一つである。
王家や、グレシオスのセウェルス家を含めて、七宗家はいずれも、神々から直系にその血筋を引くと信じられている。
事実、先代はクレオラの母であり、そのまた先代はその母であり、クレオラもまた女性である。
ゼメレス宗家は女子直系の名門であった。
目の前に兵を拡げるレメンテム帝国にあっては、考えられないことであろう。
聞くところによるとアラトナ教の教えでは、女性は知能的にも能力的にも問題のある、男性以下の存在であり、男性による保護と管理が必要なのだという。
これを聞くとローゼンディアの男たちは口を開け、女たちは目を丸くすると言われているが、グレシオスもそうであった。驚くべき教義と言わねばならない。
であるから、女性が家督に立つなど、ましてや一国の軍勢を
だがローゼンディアにあってはそれが起こるのだ。
事実、王の左に馬を並べるクレオラは、ゼメレス家長であり、大軍を指揮する将軍であった。
無論、軍の最高位にあるのは王である。
だがこの
今、クレオラは王の左に
七宗家は王家に匹敵する名族なのだ。だから臣従していると言うよりも、諸侯の盟主としての王家に協力していると言った方が正しい。
これはヴァリア教の教えによる。聖典によれば主神であるヴァリアを除き、神々の間に序列の差はないと記述されているからである。
故に
とはいえ王は王である。
グレシオスを含め、全ての兵士が太陽を仰ぎ見るが如く感じ、
クレオラが王に何か
その優美な肩に掛かった緑のマントが、朝の風を受けて揺れている。
ゼメレス宗家の聖章たる『銀の車輪』である。彼女のマントの中央には大きく、骨を組み合わせて作られた車輪の図案が、銀糸で刺繍してあるのだ。
振り返って自分達の陣に立つ旗を見上げた。セウェルス家の聖章たる『ワタリガラス』である。
味方の戦列を見渡すと、他にも『
急な
だがこのように諸侯は全て参集していた。
歴史的な一戦であったと言っていいだろう。
ゼメレス侯クレオラはこの時二十四才。
この時点では、王国内でもクレオラの能力を知る者はほとんど居なかったであろうが、ベルガイアの戦い以後、彼女の名前は、ミスタリア海を中心とする世界に
圧倒的に数に
レメンテム帝国はベルガイアの戦いで、建国以来の大軍を送り込みながら、約半数のローゼンディア軍に徹底的に殲滅され、その死者は六万五千人以上を数える事になった。
しかしながらローゼンディア軍の損失は、わずか五千七百人に過ぎなかったと言う。
ベルガイアの戦いは周辺諸国を
この
兵の一人が、首に朱を巻いた投槍を
古来よりの慣わしにより、戦闘の開始を告げる最初の一槍を投じなくてはならないからだ。
この役目を王より命じられた時は、さすがに
年齢的には問題ない。立派に戦士として認められる
しかしグレシオスはやはり、まだ若かった。
槍を受け取った
軽く周囲を見回して始めて、近くにいる者がみな、自分を見つめているのに気付いた。
すぐ近くには従士のタデアス、
王の招集に
彼等は一人残らず強い、しかしグレシオスを支えるような眼差しを向けてきている。
そこには信頼と励ましとが
不意に叔父が、グレシオスの肩に手を置いた。
早くに亡くした父に代わってグレシオスを教え導き、平時戦時のいかなる場合においても
深く敬愛した叔父は、今はもうこの世にはいない。
叔父にとって最後の戦いとなったこの戦の時にも、やはりいつもの
そして叔父はこの時も、やはりいつものように誇らしげな、暖かい眼差しをグレシオスに向けてくれていた。
それで気持ちが落ちついた。胸の奥に力の
その途端、グレシオスはローゼンディアの全軍勢の中で、もっとも敵に近い場所に立っていた。
そのまま
味方は、声一つ立てずに静まりかえっている。
敵は、揺れる旗の下で
緊張があった。
それは人の世の緊張だった。朝の平原はどこまでも
頬を
遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
「おおおおおおっっっ!!!」
グレシオスは
地を蹴った。走った。そして全身の力を込めた一投を放った。
己れが砕け散るような高揚の中、槍が手を離れ、朝の空に吸い込まれていく──。
その光景を憶えている。
今でもはっきりと……。
「…………大殿」
ためらいがちに呼びかけられる声でグレシオスは目覚めた。タデアスが近くに立っていた。
どうやら椅子に
「お休みのところ申しわけございません」
タデアスは頭を下げた。夢の中とは違い、すっかり白髪になってしまっている。
それは自分も同じだが。
グレシオスは頭を振って夢の残りを追い払うようにすると、タデアスに用向きを言うよう
「何があった?」
「はい。また例のお客人が訪ねておいでです」
またか、と思った。ここ数日グレシオスの屋敷を訪ねてくる男がいる。
夜になるとやって来て、遅くまで話し込んでは朝方に帰っていく。
泊まるように
屋敷の近くを
いったいどこから来ている者なのか
その意味では、薄気味の悪さも無いとは言えなかった。
「いつも通り暖炉の前に坐って待っておいでです」
「分かった。すぐ行く」
グレシオスは腰を上げた。
男はいつも同じ
深い青のマントを身につけ、
背が高く、肩幅が広い。灰色の髪と長い灰色の
「眠っていたのか?」
グレシオスが向かいに
「少しな」
「まだ眠るには少し早い。子供ではないのだからな」
男の
「子供でなくとも眠りたくなるときはある」
「そうか」
男は軽く答えたが、しかしにやりと笑った。
なんだか
「そんな話はいい。それよりも今日こそ、お主の名前を聞かせてくれ」
「
ガルハーイスは『灰色の
「またか!」
グレシオスは渋い顔をした。男は再び、にやりと笑った。
男はまだ、グレシオスに本名を明かしていなかった。
客人からその名を聞き出せないと言うのは
どうやら男は、グレシオスが色々と想像するのを楽しんでいるフシがある。
「儂はロヴォスと言われている」
始めはそう
しかし実際、男は物知りだった。
グレシオスが聞いたこともないような話を数多く知っており、それを次々に語ってくれた。
いずれも興味深く、時の経つのを忘れてしまいそうになる話ばかりであった。
「儂はコッフェスとも言われている」
ある時はそう語った。コッフェスとは『吊られた者』という意味で、とうてい人につけるような名前ではない。グレシオスが即座にそう言って否定しても、男は薄笑いを浮かべるだけで取り合おうとはしなかった。
奇妙な客であった。
不愉快な客でもある。もしグレシオスが二十年若ければ、戦いになっていたかも知れぬ。
しかしグレシオスは老いていた。もはや
さきほどの夢の中のような、燃え盛る若さはない。
暑い季節はとうに過ぎ去り、彼の人生は老境に、冬の時期に入ってきている。
暖炉の火が
「今日はどのような話を聞かせてくれるのだ?」
「お前が望むのなら、なんでも」
男は不敵に答えた。この謎の男はいつも不敵さを
自分と同じように老境に入っているというのに、まったく活力を失っていない。
肩は広く胸は厚く、軽く動かしただけで腕の筋肉がうねる様が見て取れる。
だがそれが、この男と闘うことを避けさせている理由ではない。
この謎の男は不愉快な相手ではある。
現在は隠退して家督を息子に
ローゼンディア王国の貴族たちはみな、例外なく神々や英雄の
その中でもセウェルス氏族は、その遠祖を戦神イスターリスに求めるイスタリヘーレイである。
当然、セウェルス氏族の身内たちは、俗称が家名へと転じた者達を除けば、全ての者がセウェルス姓を
つまりはセウェルス姓の本宗家である。
王国でも最高位を形成する七宗家の一つであり、数あるローゼンディア貴族の中でも、
だから男の態度は本来は許されるべきものではない。しかしグレシオスは何故か、そのことで男に怒りを感じたことはない。
どこか挑戦的なものを感じさせる男の態度には、どういうわけかグレシオスを安心させ、何か大切なことを思い出させるような雰囲気があったからだ。
とはいえ
そのたびにグレシオスは奇妙な反発感を持ってしまう。
自分がこの男に
齢を尋ねたことはないが、おそらく年齢は自分とそうは変わらないはずなのだ。
男の態度には、どこか明らかに齢若い者を相手にするような雰囲気がある。それがグレシオスを刺激するのである。
腹立たしさに似てはいるが懐かしいような、どこか不思議な感情を、男はグレシオスに抱かせた。
「齢を取った狼の話をしよう」
おもむろに、男はそう言った。
タデアスが盆に
息子のヘクトリアスに家督を譲ったのを機に、グレシオスがこの寒村ナウロスに移ったのは二年前になる。
以来、身の回りの世話は通いの老女と、このタデアスに任せきりであった。
妻のディフォネは息子夫婦と、そして孫と一緒に
別段不満はない。家族に対して
ただ、家督を息子に譲り、父祖の霊にその報告をすませると、
己の役目が終わってしまったような、
日常過ごしていても、ただ
それは戦士として、領主として気を張って生きてきたグレシオスには耐えられぬことだった。
二年前、ここナウロス村に移った。村を見下ろす丘の上に小さな館を建て、そこに住むようになった。
ギルテの領主館からは馬で三日ほどの距離である。それほど遠いというわけではないし、さりとて近いというわけでもない。そこが気に入ったのである。
妻や息子達は、そんな自分を
「父上は急に
己が偏屈者かどうかと言われれば、いささか返答には
人は齢を取れば、自然と偏屈者の仲間入りをするものだと言う者もある。
だがグレシオスはそうは思わない。
人が偏屈になるとすれば、やはりそれには何らかの理由があり、必然であると考えている。
野山を駆け回る獣ではあるまいし、神々が特別に創りたもうた我々人間が、時の流れに応じてその有り様を変える事など、あるとは思えない。
神官達も言っているではないか。
人間には特有の属性として、精神が与えられている、と。
人の性向こそは、その精神の働きを示すものに他なるまい。となれば偏屈さというものは、やはり人間精神特有の事柄ではないのか。
人は、春になったら
そう考えているのだが、この事を他人に説明した事はない。
いざ言葉にしようとすると上手く
とまれグレシオスは、生まれ育ち、それまで暮したギルテの領主館を離れ、この村に移って来た。
今でも村の連中は「御領主様」と呼んで有り難がってくれるが、自分ではもう隠居のつもりである。
相談事や祝事のたびに、誰もが丘の上に住むグレシオスの元までやって来る。
最近では隠居話を聞きつけたのか、近在の村からまで人がやって来る。
まったく困ったものではあるが、だからといって、自分を
そんな自分が偏屈者だというのは、どうも納得がいかないのである。
ただ、自分は何か大事なものが欠落してしまったのではないかとは思っている。
それが何なのかは分からない。ひょっとすると単に老いただけであるのかも知れぬ。
もはや武器を手に持つことは少なくなったが、馬の遠乗りなど、領主館に暮した頃から変わらぬ日課に加え、この村に来てからは
「そのようなことは私がいたします」
グレシオスが薪割りをしていると、始めの頃はタデアスがそう言って、
しかしここではあまりやる事がない。薪割りくらいはかえって気晴らしになるのだと答えると、やがて
今は冬だが、春になれば
いささか
が、それはあくまで外から見た話であって、内心はそうではない。
寂しいような、
さすがにタデアスは敏感にそれを感じているようであるが、どうにかできる
「……昔あるところに三匹の
男は話し出した。
いつものようにグレシオスは聴き役に回った。余計な口は挟まずに、ひたすら男の語るままを聴き続けるのである。
酒はお互い
それにしても片方だけがひたすら
老境に差しかかった男二人が向きあって、酒を飲みつつ歓談するというのなら分かる。またはお互いに無言で酒を飲むというのならば、これも分かる。
この二人はそうではない。ひたすら、片方の男だけが喋るのである。
ちょっと珍しい光景だと言えるだろう。
多くの知識を持ち、話題がつきないというだけでなく、男の語り口は絶妙だった。
それだけではなく、詩を朗読したり、
全くもって謎の男である。
「──こうして三番目の狼は星になった。イスターリスの連れている二匹の狼は、この狼の子供たちである」
これも、初めて聞く話であった。
しかもイスターリスに関係している話である。
にもかかわらず、グレシオスはこの話を知らなかった。そしてその事を恥ずかしいと感じた。
己の立場からして、当然知っているべき話であると考えたからである。
無論広大なローゼンディア国土において、イスターリスに関係する話がどれほどあるのかなど、そういう話を調べて回る神官でもない限りは知り得ないだろう。
だがグレシオスは、この地上でイスターリスに最も近い人間の一人として、何となく後ろめたいものを感じてしまうのだった。
「……お
グレシオスの賛辞を、男は微笑みで受けた。
素直に喜んでいるようであるが、どこか冷めたような、落ち着いた雰囲気も漂わせているように感じる。
これまでの付き合いからか、どうもそんな風に感じてしまう。グレシオスが勝手にそう思うだけなのかもしれないが。
いずれにせよ、あまりこの男のことを深く考えてしまおうとするのは良くない。
明日には来なくなる相手かもしれないのだし、何よりも、そんな風に相手を見るのは自分の流儀に反している。
グレシオスは左手で果実酒の
口に運び、ゆっくりと飲む。タデアスなどは一気に
男もまた、話し終えた後はゆっくりと果実酒を楽しんでいた。
「
ほれ、思ったとおりだ。グレシオスは感心しながら振り向いた。
ところがタデアスは酒壺を
様子がおかしい。
客をもてなす時の顔ではない。緊張した表情を浮かべている。
「どうした?」
客人を
だが重要なことなのであろう、すぐに強い眼差しをグレシオスに向けた。
「構わぬ。話せ」
「……ゾエ村がジャグルに襲われたそうです」
ぽつんと
それで、場の空気が変わった。