雪刃

一.旗

 日輪の輝きに十字を(あしら)った旗が、風の中に翩飜(へんぽん)(ひるがえ)っている。アラトナ教徒の紋章である聖光十字章(せいこうじゅうじしょう)だ。

 旗は幾本も並び立ち、その下にはレメンテム帝国の軍勢が大きく(ひろ)がっていた。

 距離はまだある。敵兵の顔を判別するには到らない。

 だが、間違いなくそこに『敵』がいた。

「奴ら考えていたよりも足が速いですな」

 従士のタデアスが(わき)に立ち、半ば感心したように、しかし侮蔑(ぶべつ)()めた口調でそう(つぶや)いた。

 グレシオスは顔を向けてタデアスを見た。

 若い。髪の毛も(ひげ)も銀色だ。

 お互い今では髪にも鬚にも、もうすっかり白い物が混じってしまっているが、この戦いの時にはグレシオスもタデアスも、まだ二十才だった。

「信仰心のなせる(わざ)かも知れんな」

 答える自分の声も若く感じる。タデアスは(しっか)りとした(うなず)きを返し、それからまた挑戦的な眼差(まなざ)しを、レメンテムの軍勢に()え直した。

 両軍が対峙(たいじ)しているのは平原だった。朝の穏やかな風が草の上を渡り、そのまま自分たちの髪の毛までを、軽く揺らしてくる。

 耳に聞こえるのは甲冑(かっちゅう)の鳴る音と、馬の吐く息、そして味方の旗が風に(ひるがえ)る音。

 余計な口を()く者はない。それは敵側も同じだったろうと思う。

 しかし自分たちは会話をした。その事を憶えている。

 今にして思えば興奮していたのだろう。

 初めての(いくさ)ではない。

 にもかかわらず血が(はや)ったのは、この戦の時、グレシオスは初めて、先槍をつける役目を王から与えられたからだ。

 静粛の中、()えてタデアスと言葉を交わしたのは、自らを落ち着かせるため。

 大いなる名誉のために、どうにも身が落ち着かなかったからではなかったろうか……。

 

 ベルガイアの戦い──。

 

 今から三十年以上前のことだ。

 西方レメンテム帝国の軍勢が、エリュオーン海に深く入り込み、ガレノス陸橋(りくきょう)を目指し、我がローゼンディア王国に攻めてきた事があった。

 ガレノス陸橋とは、王都を含む地域一帯を呼び慣わしたものである。

 王都ガレノスは北にフェルシナ大内海を、南にゼレーア海を(ひか)える大陸橋上に存在している。

 陸橋の地下深くには海流が流れ、フェルシナ海とゼレーア海とは(つな)がっているという伝説もあるが、真偽の(ほど)は判らない。

 ゼレーア海はドライデース半島を越えたところからエリュオーン海に入る。

 半島突端の岬には、神話の時代に天の雄羊が幼い兄妹(きょうだい)を背に乗せて駆け渡ったという物語が伝わっており、ローゼンディア人にとっては馴染みの深い場所である。ここより先がエリュオーン海になる。

 そしてエリュオーン海こそはローゼンディアの海である。

 古来より数多(あまた)の伝説、そして物語の舞台となってきた海である。

 エリュオーン海はまた、より宏大(こうだい)なミスタリア海の一部を()している。

 ローゼンディアもレメンテムも、ミスタリア海に面し、それを中心とする世界の中に存在している。

 今から三十年以上前のことだ。

 西方レメンテム帝国が、大軍を動員してローゼンディアに攻めてきた。

 それも今までのように西方の大河(たいが)アルギオンを渡渉(としょう)せずに、多数の船団を組織してエリュオーン海を進み、ヘクティス地方に上陸、そこから直接にガレノス陸橋を目指すという大胆な作戦であった。

 レメンテムとローゼンディアでは(ほう)ずる宗教が違う。レメンテムはアラトナ教を、ローゼンディアではヴァリア教を信教している。

 アラトナ教は異教の存在を認めない。

 そのためレメンテムは(こと)ある(ごと)にローゼンディアに対して侵略を繰り返していたが、この時の軍勢は、それまでの規模を大きく超えるものであり、しかも王都を直接目懸(めが)けて侵攻してきたので、ローゼンディアではかなりの危機意識を持って(むか)()ったのだった。

 戦いはローゼンディアの大勝で幕を閉じ、レメンテムは死者六万五千人、捕虜一万人以上の犠牲を出すこととなった。

 ローゼンディア軍を指揮したのはゼメレス侯クレオラ。

 輪廻(りんね)の輪を支配する偉大なる狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)(つの)持つ一族の、東の宗主。

 ゼメレス家は王国貴族の頂点に立つ七宗家の一つである。

 王家や、グレシオスのセウェルス家を含めて、七宗家はいずれも、神々から直系にその血筋を引くと信じられている。

 狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)には、東のゼメレス家と西のヘカリオス家が並び立っているが、ゼメレス家では家長に女性が立つことが普通である。時には男性が家督を相続することもあるが、かなり(まれ)なことであると言われている。

 事実、先代はクレオラの母であり、そのまた先代はその母であり、クレオラもまた女性である。

 ゼメレス宗家は女子直系の名門であった。

 目の前に兵を拡げるレメンテム帝国にあっては、考えられないことであろう。

 聞くところによるとアラトナ教の教えでは、女性は知能的にも能力的にも問題のある、男性以下の存在であり、男性による保護と管理が必要なのだという。

 これを聞くとローゼンディアの男たちは口を開け、女たちは目を丸くすると言われているが、グレシオスもそうであった。驚くべき教義と言わねばならない。

 であるから、女性が家督に立つなど、ましてや一国の軍勢を(ひき)いることなど、レメンテムにあっては到底(とうてい)信じられない事であろう。

 だがローゼンディアにあってはそれが起こるのだ。

 事実、王の左に馬を並べるクレオラは、ゼメレス家長であり、大軍を指揮する将軍であった。

 無論、軍の最高位にあるのは王である。

 だがこの(いくさ)では、王はむしろ象徴的な存在であり、実際に全軍を動かしていたのはクレオラだった。

 今、クレオラは王の左に(くつわ)を並べているが、これは無礼にはあたらない。

 七宗家は王家に匹敵する名族なのだ。だから臣従していると言うよりも、諸侯の盟主としての王家に協力していると言った方が正しい。

 これはヴァリア教の教えによる。聖典によれば主神であるヴァリアを除き、神々の間に序列の差はないと記述されているからである。

 故に太陽神の末裔(アクスヘーレイ)たる王家と、他の六宗家との間には序列の差はない。

 とはいえ王は王である。

 グレシオスを含め、全ての兵士が太陽を仰ぎ見るが如く感じ、(まぶ)しい眼差しを向けている。

 クレオラが王に何か(ささや)いた。聞こえはせぬが、何を言ったかの見当はつく。

 その優美な肩に掛かった緑のマントが、朝の風を受けて揺れている。(ほどこ)された銀の縫い取りが光を反射して、ちらちらと踊るように見えた。

 ゼメレス宗家の聖章たる『銀の車輪』である。彼女のマントの中央には大きく、骨を組み合わせて作られた車輪の図案が、銀糸で刺繍してあるのだ。

 振り返って自分達の陣に立つ旗を見上げた。セウェルス家の聖章たる『ワタリガラス』である。

 味方の戦列を見渡すと、他にも『金鎚(かなづち)』や『三叉戟(さんさげき)』といった七宗家の聖章が立てられている。

 急な(いくさ)でもあるし、全兵力をガレノス陸橋に集めるわけにもいかぬ。(ゆえ)に軍勢の数としては王国の全兵力を動員できたわけではない。

 だがこのように諸侯は全て参集していた。

 歴史的な一戦であったと言っていいだろう。

 ゼメレス侯クレオラはこの時二十四才。

 この時点では、王国内でもクレオラの能力を知る者はほとんど居なかったであろうが、ベルガイアの戦い以後、彼女の名前は、ミスタリア海を中心とする世界に(とどろ)き渡ることになった。

 圧倒的に数に(まさ)るレメンテム軍を完全に包囲殲滅(ほういせんめつ)したからである。

 レメンテム帝国はベルガイアの戦いで、建国以来の大軍を送り込みながら、約半数のローゼンディア軍に徹底的に殲滅され、その死者は六万五千人以上を数える事になった。

 しかしながらローゼンディア軍の損失は、わずか五千七百人に過ぎなかったと言う。

 ベルガイアの戦いは周辺諸国を震撼(しんかん)させた。近隣の国々は、若き天才の出現に大きな衝撃を受けたのだった。

 この(いくさ)の後、レメンテムが大兵を動かすことはなく、平和は今に至るまで続いている──。

 兵の一人が、首に朱を巻いた投槍を(ささ)げ持ってきて、静かにグレシオスに差し出した。

 古来よりの慣わしにより、戦闘の開始を告げる最初の一槍を投じなくてはならないからだ。

 この役目を王より命じられた時は、さすがに身体(からだ)(ふる)えた。

 (すで)に幾度か戦場(いくさば)に立ったとはいえ、これほどの大戦で、しかもそれほどの大役を命じられるとは思っていなかったからだ。

 年齢的には問題ない。立派に戦士として認められる(とし)に達してはいるし、これまでの(いく)つかの戦いで、己れの勇敢さを示してきたと自負してもいる。

 しかしグレシオスはやはり、まだ若かった。

 槍を受け取った(てのひら)や指に、細かい(しび)れのようなものを感じた。きっと、汗も掻いていたことだろう。

 軽く周囲を見回して始めて、近くにいる者がみな、自分を見つめているのに気付いた。

 すぐ近くには従士のタデアス、(なな)め後ろには叔父エウスタスが立っている。その他、近くにいる兵達の全てが、グレシオスを無言で見つめていた。

 王の招集に()(さん)じ、故郷デルギリアからずっと、長い騎乗を共にしてきた家臣達だ。

 彼等は一人残らず強い、しかしグレシオスを支えるような眼差しを向けてきている。

 そこには信頼と励ましとが()められていると思った。

 不意に叔父が、グレシオスの肩に手を置いた。

 早くに亡くした父に代わってグレシオスを教え導き、平時戦時のいかなる場合においても(はん)を示し続けた偉大なる叔父だった。

 生涯(しょうがい)をかけてグレシオスを(ささ)(まも)った人だった。

 深く敬愛した叔父は、今はもうこの世にはいない。

 叔父にとって最後の戦いとなったこの戦の時にも、やはりいつもの金猪(きんじし)飾兜(かざりかぶと)(かぶ)っていた。

 そして叔父はこの時も、やはりいつものように誇らしげな、暖かい眼差しをグレシオスに向けてくれていた。

 それで気持ちが落ちついた。胸の奥に力の(かたま)りのような物が生じるのを感じ、無言で前へ出た。

 その途端、グレシオスはローゼンディアの全軍勢の中で、もっとも敵に近い場所に立っていた。

 そのまま投擲(とうてき)姿勢を取った。全身の偉大な筋肉が隆々(りゅうりゅう)と盛り上がるのを自覚した。

 味方は、声一つ立てずに静まりかえっている。

 敵は、揺れる旗の下で(わず)かな動きを見せている。

 緊張があった。

 それは人の世の緊張だった。朝の平原はどこまでも静謐(せいひつ)で、涼やかな大気がただ静かに拡がり流れているだけだ。

 頬を()でる風が心地よい。

 遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。

「おおおおおおっっっ!!!」

 グレシオスは(はら)の底からの叫びを上げた。

 地を蹴った。走った。そして全身の力を込めた一投を放った。

 己れが砕け散るような高揚の中、槍が手を離れ、朝の空に吸い込まれていく──。

 その光景を憶えている。

 今でもはっきりと……。

 

「…………大殿」

 ためらいがちに呼びかけられる声でグレシオスは目覚めた。タデアスが近くに立っていた。

 どうやら椅子に(すわ)っている内に、うたた寝をしていたらしい。

「お休みのところ申しわけございません」

 タデアスは頭を下げた。夢の中とは違い、すっかり白髪になってしまっている。

 それは自分も同じだが。

 グレシオスは頭を振って夢の残りを追い払うようにすると、タデアスに用向きを言うよう(うなが)した。

「何があった?」

「はい。また例のお客人が訪ねておいでです」

 またか、と思った。ここ数日グレシオスの屋敷を訪ねてくる男がいる。

 夜になるとやって来て、遅くまで話し込んでは朝方に帰っていく。

 泊まるように(すす)めても男は首肯(しゅこう)しない。必ず、朝が来る頃になると腰を上げ、元来た道を帰ってしまう。

 屋敷の近くを(のぞ)けば、この近辺には民家などない。テラモン大森林を北に控えた、寂しい寒村なのだ。

 いったいどこから来ている者なのか皆目(かいもく)見当がつかぬ。

 その意味では、薄気味の悪さも無いとは言えなかった。

「いつも通り暖炉の前に坐って待っておいでです」

「分かった。すぐ行く」

 グレシオスは腰を上げた。

 

 男はいつも同じ恰好(かっこう)をして訪れる。

 深い青のマントを身につけ、鍔広(つばひろ)のフェルト帽をかぶっている。

 背が高く、肩幅が広い。灰色の髪と長い灰色の(ひげ)を生やし、青い瞳をしている。

 (とし)はグレシオスとそう変わるまい。しかし、男にはグレシオスが失ってしまった活力のようなものが、まだ(みなぎ)っていた。

「眠っていたのか?」

 グレシオスが向かいに(すわ)ると、男はそう(たず)ねてきた。

「少しな」

「まだ眠るには少し早い。子供ではないのだからな」

 男の(からか)うような口調に、グレシオスは少し怒りを感じた。

「子供でなくとも眠りたくなるときはある」

「そうか」

 男は軽く答えたが、しかしにやりと笑った。

 なんだか(あなど)られているような気持ちになり、グレシオスは不愉快になった。

「そんな話はいい。それよりも今日こそ、お主の名前を聞かせてくれ」

(わし)はガルハーイスと呼ばれている」

 ガルハーイスは『灰色の(ひげ)をした者』という意味である。確かに男は長い灰色の鬚をしているが、それがとても本名であるとは思えない。

「またか!」

 グレシオスは渋い顔をした。男は再び、にやりと笑った。

 男はまだ、グレシオスに本名を明かしていなかった。

 客人からその名を聞き出せないと言うのは面白(おもしろ)くない。始めは何か、やむにやまれぬ理由があるのかと思ったが、そうではないらしい。

 どうやら男は、グレシオスが色々と想像するのを楽しんでいるフシがある。

「儂はロヴォスと言われている」

 始めはそう名告(なの)った。しかしロヴォスとは『物知り』という意味の古い言葉で、本名とは考えられない。そう問い(ただ)すと男はあっさりと認めた。

 しかし実際、男は物知りだった。

 グレシオスが聞いたこともないような話を数多く知っており、それを次々に語ってくれた。

 いずれも興味深く、時の経つのを忘れてしまいそうになる話ばかりであった。

「儂はコッフェスとも言われている」

 ある時はそう語った。コッフェスとは『吊られた者』という意味で、とうてい人につけるような名前ではない。グレシオスが即座にそう言って否定しても、男は薄笑いを浮かべるだけで取り合おうとはしなかった。

 奇妙な客であった。

 不愉快な客でもある。もしグレシオスが二十年若ければ、戦いになっていたかも知れぬ。

 しかしグレシオスは老いていた。もはや四肢(しし)にはかつてのような力は残っていないと感じていた。

 さきほどの夢の中のような、燃え盛る若さはない。

 暑い季節はとうに過ぎ去り、彼の人生は老境に、冬の時期に入ってきている。

 暖炉の火が()ぜた。

「今日はどのような話を聞かせてくれるのだ?」

「お前が望むのなら、なんでも」

 男は不敵に答えた。この謎の男はいつも不敵さを(ただよ)わせている。

 自分と同じように老境に入っているというのに、まったく活力を失っていない。

 肩は広く胸は厚く、軽く動かしただけで腕の筋肉がうねる様が見て取れる。

 背丈(せたけ)も長身のグレシオスよりなお高い。

 (たたか)ったとしても、今のグレシオスでは勝つことはできぬかもしれぬ。

 だがそれが、この男と闘うことを避けさせている理由ではない。

 この謎の男は不愉快な相手ではある。不遜(ふそん)と言ってもいい。

 現在は隠退して家督を息子に(ゆず)っているとはいえ、グレシオスはローゼンディアの貴族なのだ。それも東方の要衝(ようしょう)デルギリアを支配する名門、セウェルス氏族の(おさ)だった。

 ローゼンディア王国の貴族たちはみな、例外なく神々や英雄の末裔(まつえい)(つら)なっている。

 その中でもセウェルス氏族は、その遠祖を戦神イスターリスに求めるイスタリヘーレイである。

 当然、セウェルス氏族の身内たちは、俗称が家名へと転じた者達を除けば、全ての者がセウェルス姓を名告(なの)っているが、中でもグレシオスはイスターリスの子、英雄ヴェルデスから直系に血筋を辿(たど)れる家の人間であった。

 つまりはセウェルス姓の本宗家である。

 王国でも最高位を形成する七宗家の一つであり、数あるローゼンディア貴族の中でも、屈指(くっし)の名族といっていい。

 だから男の態度は本来は許されるべきものではない。しかしグレシオスは何故か、そのことで男に怒りを感じたことはない。

 どこか挑戦的なものを感じさせる男の態度には、どういうわけかグレシオスを安心させ、何か大切なことを思い出させるような雰囲気があったからだ。

 とはいえ(からか)うような言葉や、態度を示されるのは面白くない。

 そのたびにグレシオスは奇妙な反発感を持ってしまう。

 自分がこの男に(とし)若い相手として(あつか)われているような気分になるのだ。

 齢を尋ねたことはないが、おそらく年齢は自分とそうは変わらないはずなのだ。

 男の態度には、どこか明らかに齢若い者を相手にするような雰囲気がある。それがグレシオスを刺激するのである。

 腹立たしさに似てはいるが懐かしいような、どこか不思議な感情を、男はグレシオスに抱かせた。

「齢を取った狼の話をしよう」

 おもむろに、男はそう言った。

 タデアスが盆に酒肴(しゅこう)()せて入ってきた。それらをテーブル上に手際(てぎわ)良く並べると、火の具合を見、それから一礼して部屋を出て行った。

 息子のヘクトリアスに家督を譲ったのを機に、グレシオスがこの寒村ナウロスに移ったのは二年前になる。

 以来、身の回りの世話は通いの老女と、このタデアスに任せきりであった。

 妻のディフォネは息子夫婦と、そして孫と一緒に(やかた)で暮している。時々様子を見に来るし、頼りも繁茂に寄越(よこ)してくるが、グレシオスは館に帰ろうとは思わなかった。

 別段不満はない。家族に対して(わだかま)りがあるわけではない。

 ただ、家督を息子に譲り、父祖の霊にその報告をすませると、身体(からだ)から何かが抜け落ちたように感じてしまったのだった。

 己の役目が終わってしまったような、(ばく)とした寂しさがあるばかりで、それまで自分を支えてきた(はり)のようなものが、消えて無くなってしまったのである。

 日常過ごしていても、ただ漫然(まんぜん)と時の移ろいの中に身を置いているようであり、まるで、いつまでも続く暖かな冬の日の中にいるような気分であった。

 それは戦士として、領主として気を張って生きてきたグレシオスには耐えられぬことだった。

 二年前、ここナウロス村に移った。村を見下ろす丘の上に小さな館を建て、そこに住むようになった。

 ギルテの領主館からは馬で三日ほどの距離である。それほど遠いというわけではないし、さりとて近いというわけでもない。そこが気に入ったのである。

 妻や息子達は、そんな自分を(あつか)いかねているようだった。

「父上は急に偏屈(へんくつ)になられた」

 (たま)に挨拶に来ると決まって、息子は困ったようにそう言うのだが、グレシオスにはそんな自覚はない。

 己が偏屈者かどうかと言われれば、いささか返答には(きゅう)するものの、家督を譲ってから急激に偏屈者となったわけではない。

 人は齢を取れば、自然と偏屈者の仲間入りをするものだと言う者もある。

 だがグレシオスはそうは思わない。

 人が偏屈になるとすれば、やはりそれには何らかの理由があり、必然であると考えている。

 野山を駆け回る獣ではあるまいし、神々が特別に創りたもうた我々人間が、時の流れに応じてその有り様を変える事など、あるとは思えない。

 神官達も言っているではないか。

 人間には特有の属性として、精神が与えられている、と。

 人の性向こそは、その精神の働きを示すものに他なるまい。となれば偏屈さというものは、やはり人間精神特有の事柄ではないのか。

 人は、春になったら(つがい)の相手を探し、冬になったら眠りに()く山谷の獣とは違うのである。

 そう考えているのだが、この事を他人に説明した事はない。

 いざ言葉にしようとすると上手く(まと)まらぬし、神官であるわけでもない己が、わざわざそんな講釈をするのも、おかしいのではないかと考えたからである。

 とまれグレシオスは、生まれ育ち、それまで暮したギルテの領主館を離れ、この村に移って来た。

 今でも村の連中は「御領主様」と呼んで有り難がってくれるが、自分ではもう隠居のつもりである。

 相談事や祝事のたびに、誰もが丘の上に住むグレシオスの元までやって来る。

 最近では隠居話を聞きつけたのか、近在の村からまで人がやって来る。

 まったく困ったものではあるが、だからといって、自分を(した)ってくる者たちが憎かろうはずもなく、館を訪れる者があるたびに、グレシオスはできるだけ丁寧に応対をするようにしていた。

 そんな自分が偏屈者だというのは、どうも納得がいかないのである。

 ただ、自分は何か大事なものが欠落してしまったのではないかとは思っている。

 それが何なのかは分からない。ひょっとすると単に老いただけであるのかも知れぬ。

 身体(からだ)は、動く。

 もはや武器を手に持つことは少なくなったが、馬の遠乗りなど、領主館に暮した頃から変わらぬ日課に加え、この村に来てからは(まき)割りなどもやるようになった。

「そのようなことは私がいたします」

 グレシオスが薪割りをしていると、始めの頃はタデアスがそう言って、(あわ)てて走り寄ってきたものだった。

 しかしここではあまりやる事がない。薪割りくらいはかえって気晴らしになるのだと答えると、やがて(あきら)めた。

 今は冬だが、春になれば(つり)にも行くし、(かり)もする。

 いささか(おとな)う人の数は多いものの、そういうわけで、傍目(はため)から見ればグレシオスは隠居暮しを満喫していると思えるかもしれなかった。

 が、それはあくまで外から見た話であって、内心はそうではない。

 寂しいような、(あせ)るような気持ちが日増しに強くなってくる。

 さすがにタデアスは敏感にそれを感じているようであるが、どうにかできる(たぐい)のものでもなく、主従は一見平穏な、しかし内心納得できないものを抱えた毎日を送っているのであった。

「……昔あるところに三匹の(おおかみ)がいた。三匹とも同じ(とし)だった。みな齢老いていた──」

 男は話し出した。

 いつものようにグレシオスは聴き役に回った。余計な口は挟まずに、ひたすら男の語るままを聴き続けるのである。

 酒はお互い手酌(てじゃく)だった。(さかな)も好きに手を伸ばして食う。

 それにしても片方だけがひたすら(しゃべ)り、もう片方は黙ったままというのは、ちょっと変わった光景である。

 老境に差しかかった男二人が向きあって、酒を飲みつつ歓談するというのなら分かる。またはお互いに無言で酒を飲むというのならば、これも分かる。

 この二人はそうではない。ひたすら、片方の男だけが喋るのである。

 ちょっと珍しい光景だと言えるだろう。

 多くの知識を持ち、話題がつきないというだけでなく、男の語り口は絶妙だった。

 それだけではなく、詩を朗読したり、即興(そっきょう)で作ったりすることにも()けていた。

 全くもって謎の男である。

「──こうして三番目の狼は星になった。イスターリスの連れている二匹の狼は、この狼の子供たちである」

 これも、初めて聞く話であった。

 しかもイスターリスに関係している話である。

 にもかかわらず、グレシオスはこの話を知らなかった。そしてその事を恥ずかしいと感じた。

 己の立場からして、当然知っているべき話であると考えたからである。

 無論広大なローゼンディア国土において、イスターリスに関係する話がどれほどあるのかなど、そういう話を調べて回る神官でもない限りは知り得ないだろう。

 だがグレシオスは、この地上でイスターリスに最も近い人間の一人として、何となく後ろめたいものを感じてしまうのだった。

「……お(ぬし)の博識振りには頭が下がる。王都の神官たちでさえ、お主ほどに、ものをよく知る者は多くないであろう」

 グレシオスの賛辞を、男は微笑みで受けた。

 素直に喜んでいるようであるが、どこか冷めたような、落ち着いた雰囲気も漂わせているように感じる。

 これまでの付き合いからか、どうもそんな風に感じてしまう。グレシオスが勝手にそう思うだけなのかもしれないが。

 いずれにせよ、あまりこの男のことを深く考えてしまおうとするのは良くない。

 明日には来なくなる相手かもしれないのだし、何よりも、そんな風に相手を見るのは自分の流儀に反している。

 グレシオスは左手で果実酒の(つぼ)を取り、空になった酒杯に注いだ。

 口に運び、ゆっくりと飲む。タデアスなどは一気に(あお)ることが多いが、グレシオスはそうはしない。酒に限らず、飲み物はいつもゆっくりと飲み干すようにしているのだ。特に理由があるわけでなく、好みの問題である。

 男もまた、話し終えた後はゆっくりと果実酒を楽しんでいた。

 (さかな)は十分に用意してあるが、この分だと酒の方が先になくなるかもしれない。だがタデアスは、よく心付く男であるから、何も言わなくてもその辺を見越して、酒を持って来るであろう。

大殿(おおとの)

 ほれ、思ったとおりだ。グレシオスは感心しながら振り向いた。

 ところがタデアスは酒壺を()げてはいず、手ぶらであった。

 様子がおかしい。

 客をもてなす時の顔ではない。緊張した表情を浮かべている。

「どうした?」

 客人を(おもんぱか)っているのか、(わず)かの時間、タデアスは逡巡(しゅんじゅん)を見せた。

 だが重要なことなのであろう、すぐに強い眼差しをグレシオスに向けた。

「構わぬ。話せ」

「……ゾエ村がジャグルに襲われたそうです」

 ぽつんと(つぶや)くような、しかしはっきりとした声音でタデアスは言った。

 それで、場の空気が変わった。

TOP▲

<< PREV目次NEXT >>


Generated by HL-SiteManager ver.1.00 Beta009 / custumized

Copyright © 1999 - 2007 WordsWeaver http://wordsweaver.com/