ヨルスは
今でも
それは獲物を
猟師の多くがそうであるように
今もグレシオスの前に
グレシオスは要点を
「それと、今この村に
「いえ、今はおりませぬ」
「そうか。では村の猟師の中でもっとも目が良く、馬術に巧みな者をここに
「かしこまりました。
「頼んだぞ」
ヨルスは深く
さて、村人はともかく、これから来る猟師には、偵察の注意点を教えるなどの仕事が残っている。
村人とは違い、グレシオスは今夜は眠れそうになかった。
今夜はまだ村人に事件を知らせず、話を伏せるようヨルスに命じたのにはわけがある。
村人は兵士ではない。正規の訓練を受け、心技を
一日の仕事を終え、平和に眠っているところを叩き起こし、急を知らせたところで、機動的に動けるとは思えない。
もっとも村人を叩き起こすことで、大きく時間が
だが、いかんせん時間がなさすぎる。
連中が到着するのは早くても明日の夕方、おそらくは夜であろう。無理をして
今すぐ村を捨てて逃げるにしても、この寒さと暗闇の中を進むことになる。その苦労と危険を考えると見合わぬし、戦闘の準備をするにしても、今から朝までの時間では、
ならばむしろ今夜はゆっくりと休ませて、明日の日が昇ると同時に行動した方が、良いだろうと考えたのである。
時間は惜しいが、それが正しいと信じた。これが愚かな判断であったかどうかは、あとではっきりするであろう。
「結局どうするのだ?」
タデアスも下がり、二人きりになると、男はグレシオスにそう尋ねた。
「偵察を出す」
「それでゴロドがいた場合はどうするのか?」
グレシオスは言葉に詰まった。だが、もしゴロドがいるとなれば答えは決まっている。
「すぐに村人を
「ほう……」
男の声には失望の色が感じられた。
「セウェルス族の
男はがっかりしたように言った。ちくりと刺すような怒りをグレシオスは感じたが、今はそんな感情に振り回されている場合ではなかった。
「……失望するのはお
「戦うという選択もあるではないか」
妙に冷えた感じの声であった。
「今は冬ぞ。ここからパラケウス街道まで、道も使わず歩かせる気か?」
老人も、子供も。
男の言葉には、言外にそういう意味が含まれていると思った。そして、それで間違いはあるまい。
閉じられた窓の向こうには、今だって雪が降っているかもしれないのである。
日が昇れば足元の見通しは良くなる。
何日かかるだろうか? それは馬の数や荷物の具合などにも左右されるだろう。
冷静に考えれば、村人を連れて、しかも道を使わずに
心理的な負担、体力的な負担、それに加えて寒さという難敵を相手にしなければならぬ。
街道に着いた時に、どれだけ人数が減っていることか。
「だがゴロドがいたら何とする? またはジャグルが予想を超えて集まっていた場合は?」
「どちらにしても殺せばよい。小村とはいえここはイオルテスの、デルギリアの村であろう。それなりの武器も、戦える男も
グレシオスは天を
「……お主は、ゴロドの恐ろしさを知らぬとみえる」
だがそうせずに、
「知っているとも」
男は口の
「そうは思えぬがな」
もし本当にこの男がゴロドを理解していたら、あの法外な腕力、戦闘力を知っていたら、戦えなどと言うはずがない。
「思うにお前はゴロドを警戒しすぎてるようだな。いや、恐れていると言った方が良いかもしれん」
男の言葉に、グレシオスはまたも怒りを覚えかけた。
「ゴロドを
が、なんとか
「だから偵察を出し、その上で行動を決めるか……」
そうなのだ。つまるところは男の言うように偵察を出し、状況をつかまなければならない。
グレシオスの言う事を理解したのか、男は立ち上がった。暖炉の火に照らされた影が、大きく伸びた。
どこをねぐらにしているのかは分からぬが、今日はこれで帰るつもりなのだろう。
「
「そうではない。ただもう少し考えてみるべきではないかと思うだけよ」
「……今日はここに泊まってゆけ。村を出るのは明るくなってからの方が良いであろう」
これはグレシオスからの、せめてもの気遣いであった。
旅人である男には、村人たちと行動を共にする理由はない。
一人の方が身軽であるし、明日の朝一番で出発して西に向かえば、無事にパラケウス街道に
それだけ告げると、グレシオスは部屋を出た。
自室に戻って休むつもりだったが、どういうわけか、足が武器庫の方に向いた。
「大殿」
途中、
「お休みになりますか」
「ああ。だがその前に武具を見ておきたい」
タデアスの表情が引き締まった。
「……
「さてな……それはゴロドが居るかどうかにかかっておるな」
タデアスは無言で
「もうすぐ村の猟師がここにやって来る。来たら知らせてくれ。それがすんだらお前も休め。明日は忙しくなるぞ」
「はい。かしこまりました」
タデアスの手から燈りを受け取り、グレシオスは武器庫へ向かった。
通常、貴族の
隠居所であるし、武器庫と言っても事実上の『思い出倉庫』であるから、わざわざ別棟を建てるまでもないと考えたからである。
入り口に立って
壁に沿って整然と並べられた槍や刀、横に休ませた弓、
リオプの下に着ける
リオプというのは
王国の貴族はリオプを正規の
この武器庫には二
もちろんいつでも使用できるように、きちんと鎧立てに飾りつけられてある。
もう一帖は青と黒とで交差四分割された中に、違え三本槍とワタリガラスが描かれている。これは分割図形と呼ばれる図案の一種であり、デ・オレイスと呼ばれるものである。こちらはタデアスの所有であった。
明らかにタデアスの盾の方が複雑な構図となっているが、当然、グレシオスの盾の方が家柄の高さを物語っている。
これはどういう事かと言うと、紋章は、その図案が複雑である方が
正規の大紋章などは、どれもみな豪華であるから、紋章の意味や歴史を知らない平民たちなどは、複雑な具象図形や、分割がなされた物の方が立派だと解釈するかもしれない。
だが事実は逆である。
紋章の本質は盾に描かれる部分である。つまり、余計な装飾を
紋章は戦場にあって貴族が、
ということは古い家ほど単純で、判別のつきやすい図柄を採用しているということになる。
家門が分割されていく過程が、そのまま紋章の分割複雑化を表していると言っても良い。
故に同じセウェルス氏族でも、グレシオスの紋章こそが最古のものであり、それから派生を繰り返して生まれたのがタデアスの紋章であると言える。
さてリオプが二領あるのだから、当然、
片方の兜が、ひやりと目に入ってきた。
――叔父上……。
元は叔父の
今でも目を閉じれば、あの
クレオラの策が決まると、レメンテム軍は大混乱に
恐慌状態だったと言って良い。
戦場において包囲される恐ろしさは、味わった者でなければ分からない。
彼女が立てた策自体は単純なものであった。
正面の部隊でレメンテムの重装歩兵を支えきり、その間にイオルテスとヘクティスの騎兵部隊が左右から回り込んで包囲陣を形成する。
たったこれだけのことであるが、手持ちの兵力はレメンテムの約半数、しかも
しかも、もっとも重要な正面の防衛に傭兵部隊を回すという。
集められたのは西方辺境に住むヴァルゲン人の傭兵部隊だった。彼らは戦意は高いのであるが守備に
その上連中は、軍規を守る能力にも劣っていた。
これはヴァルゲン人が、大概は部族単位で行動し、好き勝手に暮しているというところにも理由があるのだろう。
適当に集合して、その場の勢いで戦闘するのならば、連中はかなりの戦力を発揮するのだが、集団行動は苦手なのである。
要は攻撃一辺倒の突撃集団であった。それをもって最重要な正面の守備に
しかも相手にするのは、近隣諸国にその名も高きレメンテムの重装歩兵である。
それに対して戦闘意欲はともかく、統率の行き届かない傭兵部隊をあてるというのである。
あの時、軍議の場にあった多くの者が、クレオラの正気を疑ったのではないか。
軍議は落ちついた空気の中で始まった。
諸侯の内、主立った者から順に意見を
時のローゼンディア王はメレニウス四世。後世に名が残るであろう名君の一人である。
「ゼメレス侯の意見を採る。諸侯に異存はあるか?」
クレオラがあの細い声で進言を終えると、王は即座にそう宣言した。
当時クレオラは領内の治政三年目、普通ならばそろそろ領主としての仕事にも慣れ、安定してきた頃であろうが、まだまだ
女性である事は関係ない。ゼメレス家に女性が立つのは、
とはいえ実際に刀槍を振り回すのは男である。加えてまだ若い新米領主の意見とあれば、誰もがその話を真面目に取り合えるわけではない。
人には先入観という問題がある。
あの時もそうであった。重要な軍議であり、王国の生死を分ける決戦になる可能性もあった。それは諸侯いずれも承知していたはずだ。
だがそんな
所詮は若造、聞くほどの意見ではない――。
そのように考えていたのだろう。
それだけに、王の決断は諸侯の
セウェルス宗家の家長とはいえ、叔父に支えられての立場である。
クレオラも似たような年齢だったから、場の雰囲気は察していたはずだ。にもかかわらず
立派な行為である。
だがやはり、真面目に取り合う者は少なかっただろうと思う。
しかし王は、クレオラの意見の価値を正確に見抜いたのだ。
即座に
一人はヘカリオス侯デュレス。
王国の西部、ヘクティス地方に所領を有する領主であり、
つまりゼメレス家とは縁深く、その始祖を同じくする。狩猟神ダルフォースの息子たる双子の英雄フォルスとダナディオスである。ヘカリオス家はフォルスを、ゼメレス家はダナディオスを始祖としているのだ。互いに
この頃ヘカリオス侯は四十才前後だったと思う。
西部人らしい金の巻き毛を長く垂らしており、鼻の下には見事に整えられた
身の
とはいえヘカリオス家の当主が弓術に劣るなどとは、まず考えられない事ではある。
ヘカリオス侯は王国貴族の名に恥じぬ
今にして思えばヘカリオス侯は、クレオラの天才を知っていたのではないか。
でなければ彼の賛成が納得しがたい。ヘカリオス侯は王に続いてすぐに言ったのだ。
「私もゼメレス侯の意見に賛成いたします」
と。これはさすがに同族の
続いて意見を陳べたのは、叔父エウスタスである。
叔父の意見は自然なものだった。つまり守備力統率力に欠けるヴァルゲンの傭兵達を、何のゆえを
しかもその後ろは王の本陣である。
突破された場合、王が危険に
ところがクレオラは問題ないと言うのである。
「本陣には私が兵を置きます」
そういう問題ではない。問題はあの規律のないヴァルゲン人を、どう統率して戦わせるかという事にあるのだ。
「彼らには一つのことしか命じません。それを守れないということはないと思います」
守れなければどうするのか?
「
それで諸侯の顔色が変わった。嫌そうな顔をする者が幾人かあった。
督戦隊とは兵を励まし、戦わせる部隊の事であるが、早い話が逃げてくる味方を殺すのが仕事である。
退却封じの部隊であり、それを好きだという者など、まずいないのであった。
「守備の兵が足りぬとあれば、同盟のヴァルゲン王を加えましょう。ヴィルモーシュ王などがよろしいかと思います」
この発言も場の諸侯を驚かせた。
ヴィルモーシュ王はローゼンディアの近くに支配地を持つ、ヴァルゲン人の王である。
なおヴァルゲン人とは、ローゼンディアの西北方に住む人々である。
ヴィルモーシュはそんな王達の一人であったが、過去にローゼンディアと戦ったことがあった。
しかも裏切りである。
今回の
「彼は裏切りません」
クレオラは断言した。
「もしここでローゼンディアが破れれば、彼にとっては非常にまずい事態となるからです。彼は
要するにヴィルモーシュに
奴にとっては
あのレメンテムの重装歩兵の正面に立つというのは、相当な覚悟と実力、そして何より神々の加護が必要だ。
よりにもよってヴィルモーシュに神の加護が与えられるとは思えなかったが、それは諸侯いずれも同じ意見であったらしい。
「それにしてもヴィルモーシュは我等が大神方の御加護を受けておらぬはず。一体どこの神に祈るのでしょうな?」
ヘカリオス侯が不思議そうに言うと、軍議の場に笑いが起こった。
それで緊張が
やはり諸侯の不安は正面の部隊の構成と、その
とにかく騎兵部隊がいかに早くレメンテム軍の背後に回り込むか。
本陣から見て右の部隊は、主にイオルテスの戦士達で編成された。
その中心はセウェルス宗家の軍であり、つまりグレシオスとエウスタスが右騎兵部隊の総指揮を
左の騎兵部隊はヴァルゲン人達との混成部隊であり、ヘカリオス侯デュレスが司どることになった。
騎兵戦の決着を出来うる限り速くつけること、正面に立つ守備隊は敵を倒さず、その場に
この二点が作戦の
諸侯が心配していた正面の部隊に関しては、ヴァルゲン人部隊の背後に精強な歩兵部隊を並べた。
まず王を中心にゼメレス侯クレオラの部隊。その左右にそれぞれ
いずれも七宗家を占める名族である。
七宗家の最後、
それ以外の諸侯達は、各自が連れてきた兵の編成を規準に、己が属する七宗家の部隊へと振り分けられた。
「この
軍議を解散して天幕を出るとき、クレオラは特にグレシオス達、騎兵部隊の諸侯を呼び止めてそう言った。
あまり心配をしているという風ではなく、かと言って励ましている風でもなかった。
クレオラは、あのどこか眠そうな印象を与える眼で静かにグレシオス達を見て、淡々と言ったのだった。
「承知しておるさ」
ヘカリオス侯は白い歯を見せた。
「
草色のマントを
婿殿、というのはグレシオスのことだった。
この戦が終わった後に、グレシオスはヘカリオス侯の娘ディフォネと結婚することが決まっていたからである。
どう答えて良いものか迷って叔父に目を向けると、叔父は無言で両眉を上げて見せた。
さて……困ったものだな。
言葉にすれば、そんな気持ちだったのかもしれなかった。
エウスタスとグレシオスが
イオルテス地方を抜けてくる間、途中で集められる兵は出来るだけ加えるようにしながら、王都まで駆けてきた。
東部イオルテス地方は高原地域であり、東はそのままトゥライ高原へと
デルギリアはその中でも東北部にある。東のトゥライだけでなく、北のヌーガも警戒しなくてはならない。王国の
その兵は
馬
それはまさに、デルギリアにこそ当て
セウェルス氏族の騎兵部隊は、その強力さを周辺諸国に知られているのだ。
レメンテムの重装歩兵の激突を受けたのはヴァルゲン人傭兵部隊と、ヴィルモーシュなどの同盟の王達だった。
ヴィルモーシュ以外の二人の王も、やはり損得勘定であちらに付いたり、こちらに付いたりという節操のない連中であったから、最前線に配置するにあたっても、誰からも同情の声は出なかった。
ただし彼らの戦闘力に対する疑問の声は出た。
だがそれも問題なかろうということで落ちついた。
何しろ後ろに我が軍、前にはレメンテム帝国軍という状況なのだ。
戦闘が始まれば、必死に戦う他はない。
もし彼らが総崩れになっても、レメンテムの軍列が巻き添えを食うことは間違いない。
その時はそこを、後方に
レメンテム軍はその激突力を
対して我が軍は無傷である。あとは味方の騎兵部隊が、敵軍後方に回り込むまでの時間を持ち
または期待通りにヴァルゲン人達が必死に戦って、レメンテム軍を食い止める事に成功すれば、通常どおりに策を運用するだけである。
いずれにしても騎兵戦の決着が、この戦全体の
正面を守備するヴァルゲン人達に対して、クレオラが下した指示は単純であった。
「各自決して前進してはならぬ。持ち場を離れず、その場で戦うべし」
これだけである。
一方味方のローゼンディア重装歩兵には、それを指揮する諸侯に詳細な注意を与え、王の本陣からクレオラ自身が全軍を
何せ
その
そしてこの点においてもクレオラは傑出していた。
ヴァルゲン人達の戦列が、ぎりぎりで崩れ始めるかどうかというタイミングで、軍を動かしたらしい。
実際に見たわけではないが、そういう話だった。
その頃グレシオス達の騎兵部隊は、レメンテムの騎兵部隊と激突していたのだ。
後に聞いた話では、この時突出してきていたのはレメンテムの将軍、バロネが率いる歩兵部隊であったという。
当然、バロネはこの戦で戦死した。
グレシオス達イオルテスの騎兵部隊が相手にしたのは、将軍ウーベルト率いる騎兵部隊であった。
敵騎兵部隊を目にしたときの興奮は忘れない。
レメンテム騎兵は真紅の
土煙の向こうに赤い花が幾つも咲いていた。鉄の
対してグレシオスの周囲は青の軍装であった。
デルギリアの戦士達はイスターリスの末裔である。ワタリガラスの
視線の先には
味方から、古代ヴォルグヘル族の
グレシオスも叫んだ。天を駆けているような心地がした。
――飛び越える神よ。
――
槍の届く距離まで来たとき、
盾の裂ける音、鉄と肉が断たれる音、怒号と絶叫とが
――何も聞こえぬ。
いや、一つだけ聞こえる音があった。
己の心臓の鼓動だ。
その音だけは、確かに聞こえた。いや感じた。
そして心臓の音に耳を傾けるとき、グレシオスは不思議な静けさを体験した。
耳が壊れるほどの大音響である。静かさなどあるはずもない。
にもかかわらず、グレシオスは己の周囲に
音はなく、血の臭いも感じなかった。ただ人馬の動きだけが、異様なほどにはっきりと目に入ってきた。
いや、音も臭いもあることは判っていた。ただそれが届いてこない。気にならない。
奇妙な感覚であった。
静かであった。
――極まった
後になってそう思ったことを、憶えている。
爆発する音の本流の中、生と死とが、周囲至る所で
湯のように熱い血が左右から体を打ったが、それよりなお己の体は熱く、熱せられた石のように感じた。
こうなると、後はひたすら目の前の敵兵を殺し続けるのみである。指揮など考えている余裕はなかった。
グレシオスが戦場における指揮や、状況の把握などの能力を磨く契機になったのはこの戦であるが、それは叔父エウスタスを
そのことが将としての成長を
戦いが始まってどれほど経ったのか。
ようやくレメンテムの騎兵部隊を討ち破り、敵重装歩兵の背後へと、大きく回り込んだ頃の事だったと思う。
ヴァルゲン人の傭兵部隊を指揮するため、正面に立っていたヘカリオス侯デュレスの部隊が敵に呑み込まれそうになっていた。
クレオラの包囲陣が完成し、敵は大混乱であったが、味方とて、落ちついていたとは言えなかった。
そもそも戦場では大まかな味方の動きを目で追って、後は現場の勘で動くものである。あらかじめ作戦があろうが無かろうがこれは変わらない。
ヘカリオス侯の周辺では、恐慌をきたして総崩れになる敵と、我先に襲いかかろうとするヴァルゲン人達の騎兵部隊とが入り乱れていた。
無論ヘカリオス侯も、領地から連れてきた
だがその騎兵部隊にしても、高速で駆け抜けての戦闘を重ねてきたためだろう、かなり
グレシオスの周囲にしても多くの兵が
そもそも包囲陣を作るように兵を動かしているのだから、厚みが減るのは当然でもあった。
その上でヘカリオス侯は、より統制の利かぬ兵達を指揮していたのだから、自身が突出しすぎたのかもしれなかった。
貴族たる者、戦場で先頭に立つのは当然である。
しかも頂点に位置する七宗家の者が、兵の後ろに隠れるなど、あってはならぬ事である。
それゆえ叔父もグレシオスも、常に先頭を駆けた。名誉ある貴族ならば当たり前の行為である。
ヘカリオス侯もまた名誉ある者だったのだろう。その結果
侯の周囲を固める家臣達も死を覚悟していたのであろう、
遠目にそれが見えた。どれほど見ていたのか。それは分からない。
近くに騎馬が寄せられる気配でそちらを向くと、返り血を全身に浴びた叔父が、肩の周りから湯気を立たせていた。
「ヘカリオス侯が……」
「分かっている」
叔父は短く答えると、持っていた槍を捨てた。折れていた。すぐに近くの騎兵が駆け寄ってきて、新しい槍を差し出した。
「花嫁の父親が不在というのは
兵から新たな槍を受け取りながら、叔父はグレシオスに言った。
「兵の指揮は任せた。この包囲を崩さぬようにせよ。余計な考えは起こさず、ゼメレス侯の指示を守る事だけを考えよ」
「無茶です」
「やってみねば判るまいよ」
いつもどおり頼もしげな様子だった。だからグレシオスは強く制止することができなかった。
危険なことは分かっていた。両軍が入り乱れ、激烈な殺し合いが展開されていた。
ヘカリオス侯の部隊は渦の中心に位置していた。取り巻くレメンテムの層は厚く、それを突き抜けていくだけでも容易ではないのだった。
「心配するな。必ずヘカリオス侯はお救いする」
いつものようにグレシオスの肩に手を置き、叔父は
いい笑顔だった。
制止すべき言葉は、それで何も言えなくなってしまった。
「……御武運を」
グレシオスの
そうして叔父は僅かな騎兵だけを連れ、死地に
返り血に
誇らしく槍を
つき
それが叔父エウスタスの生きた、最後の姿だった。
耳の奥に
鼻を突き刺す血と土の臭い。
嫌な予感に胸押しつぶされそうになりながら、見送った遠い記憶。
思いもかけず叔父の思い出が
大盾に
――叔父上、あなたは偉大でした。ヴェルデスの血を引く勇者として、その名に恥じぬお方でした。私など、叔父上の足元にも及びませぬ……。
偉大な叔父はきっと、父祖たちの
あの偉大なエウスタス・セウェルスが、勇者の館に席を与えられぬことなど、あるはずがないのである。
それにしても時の流れは……。
不可思議としか言い様がない。
あれからもう三十年以上が経っていると思うと、何だか夢のようでもある。
目の前の
叔父からグレシオスへ。
主人は変わっても、飾兜は立派にその役目を果たし、グレシオスの
そう言えばゴロドと戦った時に、兜の右上を攻撃が
触れるか触れぬかの微妙な一撃で、実際には当たっていなかったのだろうが、あの時の
もし掠りでもしていたら、首が
棚の上に
迷っていた。
これから村の猟師が来る。その者に偵察を命じなければならない。
ジャグルの部隊までの距離を考えると、既に街道沿いには見張りが立っているかもしれない。
無論、ゾエ村が滅んだことを前提としての話である。
嫌な想定ではあるが、この考えが当たっている公算は大きいだろう。
何よりそう考えぬと、今考えている話そのものが成り立たぬのだから仕方ない。
ジャグルの部隊がナウロス村に到達するのは、おそらく明日の夕方以降。となると偵察役は、移動中のジャグル達に
臨機応変に行動できるよう訓練された兵でもない、一介の猟師には、荷が重すぎる仕事である。
ゴロドが居れば村を捨てる。居なければ
この決定は動かない。そして、一刻も早くどちらかに決めなければならない。
――叔父上、私はいったいどうするべきなのでしょうか……。
もはや己の年齢は叔父の
だが今でもグレシオスは、あの偉大な叔父に並ぶ事ができたとは思えない。
他人が何と言うか、どう思うかは問題ではなかった。
グレシオス自身が、今でも叔父の存在を感じ続けている。そのことが重要だった。
「迷っておるのか」
背後から声をかけられた。振り向くと、武器庫の入口に誰か立っていた。
燈りを棚に置いてある
今、この
つまり声をかけたのが何者であるのかは分かっている。
そのはずなのに何故かグレシオスには、少し離れて立っている背の高い影が、
「イスターリスの
影は静かに呼びかけてきた。
力強い低い声だった。優しさと励ましが
何より、聞き憶えのある声だった。
――叔父上!?
グレシオスは総毛だった。馬鹿な。そんなはずはない。
だが今、耳にしたのは叔父の声だった。あの懐かしい声。暖かく、力強く励ます叔父の声だった。
グレシオスが
「イスターリスの裔たるレオンティウスの息子、堅忍不抜の勇者グレシオスよ――」
しっかりせよと。己がいかなる血を持っているのか、どれほどの名誉がそこに
身に余る言葉だと思った。
だからそのたびに、グレシオスは全身に力を
戦場での恐怖も疲労も、歯を食いしばって耐えてきた。
己は英雄ヴェルデスの血に連なる者、戦神イスターリスの末裔なのだと。
そのことを決して
だからそれを
厳しい道であったのかも知れぬ。
それでも、そこには確かに栄光があった。光輝く栄光が。
あの偉大な輝きに身を
だからそれを実行してきた。後悔はない。
「偵察を出してはならぬ。その者は帰って来られぬだろう。人の命を粗末に使うような
影は叔父の声で語り続けた。そう、叔父ならそのように言うだろう。
あの人はいつも言っていた。
「我等は民の盾ぞ」
民によって貴族は養われているのだと。人々が額に汗して働いた成果を、我々は受けているのだと。
領内の人々が貴族の食べる物を作り、住むべき
だから貴族は民のために死ぬのだと。戦えぬ者達のために戦うのだと。
叔父は常にそう言ってグレシオスを教育した。
民に命を返す。
それが貴族の唯一の、そして絶対の責務であると。
叔父上……。
グレシオスは口に出そうとした。その言葉を。
だが影が動き、こちらへと歩み寄ってきた。すぐにぼんやりとした燈りの中に、あの男の姿が浮かび上がった。
それを見て急に緊張が抜けた。張り詰めていた何かが
やはり……そんな納得感と共に、子供っぽい幻滅を感じた。
グレシオスは飾兜を戻してから、男に向きあった。
「眠らずに出発するつもりか?」
「いや、ちゃんと眠るさ」
男は広い肩を
「偵察は出すな。無駄死にをさせるだけぞ」
「ではどうしろと言うのだ?」
「
グレシオスは耳を疑った。
「……何だと?」
「ここからパラケウス街道を目指すなどという無茶は止めるのだ。多くの村人が途中で死ぬであろう。それよりもこの村で踏み
無茶な話だった。
ブレイオンの
つまりジャグルどもの中を、突っ切って行かなければならないのである。
「無茶だ」
「やってみねば判るまい」
「死ぬぞ」
「やってみねば判るまい」
男は笑って答えた。何故笑えるのか。グレシオスには理解できなかった。
「……ものを多く知ってはいても、考えの方は回らぬようだな」
グレシオスは皮肉を言った。男はさらに笑みを深くした。
「やってみねば判るまい」
三度そう言った。顔全体で作る笑顔は、どこか子供のようでさえある。
グレシオスの胸の
「必ずこの村にギルテより援軍を来させよう。それでもお前は戦わないと言うのか?」
笑顔を吹き消し、男はグレシオスに真剣な
「儂には、村人を守らねばならぬ責任がある」
「お前は本当に村人の事を考えているのか?」
「何?」
グレシオスは
「ひょっとしてゴロドが、恐ろしいだけなのではないかと思ってな」
「貴様……もう一度言ってみよ」
グレシオスは男を
ひとたび怒れば、その威圧感には
屈強な兵士でさえ
そんなグレシオスの怒りの眼差しを向けられて、しかし、男はまったく気にしていない様子であった。
胆力があるのだとしたら、並の胆力ではない。
だが今までの男の様子から考えると、これは胆力があるというよりも、むしろ状況を解する感性に欠けているのかもしれなかった。
……ならば
王国貴族の
グレシオスも子供の頃からレスリングを教え込まれてきており、その腕にはいささかの自信があった。
男もまたレスリングに習熟している可能性は大いにあったが、その時はその時である。
どのみちお互い、多少は痛い目をみることに違いはないのだ。
グレシオスは全身に
グレシオスがまさに動き出そうとする機を
「明日、お前の指示に従って村を捨てる者達はどう考えているかな?」
と、男は
「どう、とは?」
口調に表れないように注意したが、内心は驚いていた。やはりこの男はただ者ではない。
グレシオスの胸の内を読み、それを踏まえて言葉を発しているのだ。
となれば――。
この男は事態を把握している事になる。
その上で、真剣に何かを伝えようとしているのだ。
この男なりにではあるが。しかもその遣り方は礼儀に
だが遣り方は褒められたものではないにせよ、今、グレシオスは男の話を聞かねばならないと感じた。
理屈ではない。直感的にそう思ったのだ。
「助かるために村を捨てよ、と命じられた者達は、逃避行の厳しさを
「それでも全滅するよりはマシではないか」
「……分かってはおらぬようだな」
男は苦笑して首を振った。どこか困ったような笑い方で、グレシオスは、やはりこの男は自分の事を、己より
「お前に村を捨てて逃げるように命じられれば、村の者はこう思うだろう。『御領主様に従えば、皆助かる』とな。だがそうはならん。体力に劣る者達は、おそらく生きてパラケウス街道には
「……それは説明をする。明日、
嫌な役目ではあるが、事情を正確に説明して納得してもらわなければならない。
その上で村人の希望を聞くしかあるまい。
だがもし村人が、「村を捨てずに戦う」と言った場合には、どうするべきか?
村人を指揮して無謀な戦いを
ゴロドがいれば全滅は間違いないだろう。
それを話してなお、村を離れるのを
「違う。お前は分かってはおらぬ」
男は首を振った。
「だからどう違うというのだ?」
「村人はお前の事を信じているであろう。お前に従えば、必ず助かると思っているはずだ。その村人に対して、お前は、出来の悪い木の実を、
男の言葉に、グレシオスは少なからず衝撃を受けた。
村を捨てるというグレシオスの判断の、本質を突いていたからだ。
「お前は戦場を駆け、長く戦士として生きてきたのであろう。だが村人はそうではない。戦場の理屈で彼らの命を、生活を考えてはならぬ。彼らは戦士ではないのだ。己の生死に、仲間の生死に
男の口調は決して
ただ静かにグレシオスに語りかけていた。
グレシオスが理解できるように、根気よく説明を重ねてもくれた。
その事を理解した途端、
何か言葉を発しようとしたが、口から
己の
「村人の総意が村を捨てて逃げ出すということならば構うまい。そうすれば良い。まずそのように考えるであろうな。だがそれは短見であると
そうなのだ。
単純にして明快な事実がある。
――村人達は戦場を知らぬ。
だから彼らに判断を求めても、そのことを加えて考えなければならない。
追跡を振り切って逃げるということの難しさなど、彼らは考えた事もないであろう。
そんな彼らが逃避行を選択したとして、その覚悟を信用するわけにはいくまい。
例えるならば、それは子供に対して、難しい事柄の
相手の意思を尊重するようでいて、その実、現実に対して目を
無論、常に己の判断が正しい、己が優先するというつもりは
だが、自分は騎士である。長い年月戦場を駆け続けてきた戦士である。
こと戦いに関してはいささか誇るものがあるし、その事を恥とは思わない。
自分は一度たりとも名誉を裏切り、神の道に背を向けた事はないと言うことができる。
戦場は聖域である。その場においては一才の
生か死か。
極限にまで単純化された真理のみが、存在する世界なのだ。
決して美しい世界ではない。
逃れようのない真実の光が、全てを照らし出すのが戦場である。
その中で、自分は
ならばそれを
人には誰もに、納得して生きるべき生がある。
領民のそれを守ってやるのが貴族たる己の務めだ。
そしてそのためには、己の知恵と経験は、村人達の希望する範囲内で活かされなければならないのだ。
「イスターリスの裔たるレオンティウスの息子、堅忍不抜の勇者グレシオスよ――」
言い聞かせるように、男はそう口にした。
先程、叔父の呼びかけと錯覚を起こした言い回しである。
これは古風な呼びかけの言葉であり、名家の者にあっては作法の一つとして、今でも使用されている決り文句なのだ。
だからこの男が使用したところで問題はない。
無礼ではない。むしろ礼に
ただしどちらかと言うと、若年者に対して使用される事が多い言い回しであるから、そこは微妙ではある。
「大切なのは判断を誤らぬことだ。そのためには心を澄ませて状況を見定めねばならぬだろう。不安に眼を曇らせてはならぬぞ。儂は何も必ず戦うべしと言うつもりはない。村人達が戦いたくないというなら仕方あるまい。
「お
「確かにな。そう聞こえるかも知れぬ。
グレシオスは不思議に思った。何故、この男はそう思うのであろう?
今まで正しい事を言ってきたのだから、ゴロドは一匹だという判断にも、信が置けるとは思う。
だが一体何故?
「不思議か?」
男は片目を
「二匹のゴロドとジャグル達が共に行動するとなれば、かなりの大部隊になるからよ」
「何故そう思う?」
「
なるほど。
確かに
連中は本能だけで行動しているようなところがある。獣に邪悪な知恵を加えたような存在なのだ。それでも充分危険ではあるが。
「あの若者が見ていないだけで、後続が
見えない敵という可能性はある。
それについての男の意見を聞いておきたかった。
「それはおそらくないであろう。もしそんな部隊がいるとすれば、
グレシオスも同じ考えであった。
ならば――。
「ゴロドがいるとしても一匹、ということか……」
「そういうことだな」
廊下を足音が近づいてきた。タデアスであろう。
「
グレシオスはタデアスの顔を見た。タデアスは
男もまたグレシオスをじっと見ていた。
「…………猟師はそのまま帰してよい。儂の考え違いであった」
タデアスは
「分かりました。そのように伝えて帰します」
タデアスが玄関に向かって去ってしまうと、グレシオスは男に目を向けた。
「本当にギルテまで駆けるつもりか?」
「お前もくどいな」
男は
「儂は三度同じことを答えたぞ。この上さらに同じ言葉を言わせるつもりか?」
「武器、鎧はあるのか?」
「無論」
グレシオスは多少
武器はともかく
ジャグルの
心の中で、もうこの男を頼りにしている気持ちがある。
それに気付いた途端、苦笑が浮かんできた。
「何がおかしい?」
「いや、おかしな事になってしまったものだと思うてな……」
「それで結局、どうするつもりなのだ?」
「明日、村人を集めて十分に説明をつくしてみよう。その上で村人の決めた方に、儂は従うつもりだ」
グレシオスは棚上の燈りを取った。
「儂はこれで休む。お主も休め」
「そうしよう」
「初めてであるな」
ふと思いついて、グレシオスは口にした。
「何がだ?」
「お主がこの
「信用のおけるところに預けてある。明日の朝取りにいくから心配は
「そうか」
ならば問題はない。
さて、男を客間に案内せねばならぬが、タデアスはもう休んでいるだろう。
「寝室へ案内しよう。ついてくるがいい」
「明日は朝から忙しくなるな」
グレシオスの背後をついて歩きながら、男はそう
「そうだな」
グレシオスは答えた。もちろん、明日の朝にゾエ村からの急使が来るのが一番良い。
無事ジャグル達を撃退し、
――だがそうはならぬだろう。
グレシオスには、確信めいた強さでそう感じられるのだった。