戦いをするにせよしないにせよ、緊急時を
興奮して眠れないのではないかという
神の
目覚めも自然とやってきた。気持ちよく朝を迎えられた。
――最後の朝かも知れぬがな。
そんな事を考える。だがそこに自嘲の色はない。良い傾向だ。
心の中に『傾き』があるのは良くない。
上手くは言えぬが、戦場働きの中でグレシオスが確信したことである。
ゾエ村からの使者は現れなかった。
その事はたった一つの残酷な事実を、
ゾエ村は全滅したのだ。昨晩使者に立ったあの若者を
次はこのナウロス村だ。うかうかしてはおれぬ。
すでに食事も軽く済ませてあった。
これから村の中心にある神殿にまで行き、集まっているであろう村人に、話をしに行くのだ。
男の姿は見えなかった。食事の後すぐに席を立ったから、おそらく馬を取りに行っているのであろう。
「
タデアスが呼びに来た。
「村人は一人残らず集まっておるか?」
「はい。大殿の
グレシオスは腰を上げた。タデアスから厚手の上着を受け取って着込むと、二人で
外はまだ心持ち薄暗かった。そろそろ日の出が見られるかという時間である。
昨夜の内に降った雪が積もっていた。
館の前に立って、ナウロス村の全景を見渡した。
雪が光を映す
戦場になる場合、地形や建物をどう使うか、どう考えるかということが重要になってくる。
今までは何も考えずに見てきた景色である。
雪を踏みながら
途中、自然とあちこちに目がいってしまう。
戦場にするとなれば、どこをどう使うか、どこにどれだけ手を加えることができるかなどを考えてしまうのだ。
道の幅が気になる。傾斜の度合いが気になる。家と家の間隔が気になる。
普通の者からすれば、神経質なくらいの意識の向け方であるが、この程度の観察眼は戦士の常識である。
だから気疲れするということもない。この程度で神経をささくれ立てるような者は、早々と戦闘で命を落とすか、戦場から身を
村の広場に着くまでの間、グレシオスはそうやってあちこちに目を向けていたが、肩に力の入ることなく、ごく自然に状況を心に刻み込んでいった。
だが何よりも重要なのは、戦いになった場合、馬が使えぬということである。
グレシオスもタデアスも騎士であるから、本来、騎馬を得意としている。だがナウロス村で戦闘に使える馬は三頭しかいない。
残りの馬は
となればこちらが用意できる騎兵は三人ということになる。数が足りなすぎる。
しかも村内で戦わなければならない。動きが制限される。
騎兵は
ゆえに戦う場合には、
昨夜受けた報告ではイゴールは居ないとのことだったが、まだ判らない。
安心は禁物だった。
村人が集まっている神殿は無論、ヴァリア教の神殿である。
小村であるから豪華とは言えないが、
イオルテス地方にしては珍しく、全て木材による建築であるが、それは近くにテラモン大森林があるためである。
デルギリアの北西部地域は、ほぼ全域が広大なテラモン森林に接しているため、建築材としては石を選択するよりも、木を選ぶ方が自然なのである。
イオルテス地方は大体において、ただ広大な高原が拡がっているだけであるから、これは恵まれていると言える。
神殿には王都から派遣されてきたメグレイスという神官が居て、村人に聖言を伝え、正しい道を教えている。
彼を助けるのはアルテーアという名の神官と、モイラスという名の神官である。
彼らの正確な年齢は判らぬが、グレシオスが接した感じでは、メグレイスは三十代半ばと思え、アルテーアとモイラスは二十を超えたかどうかというところであろう。
メグレイスは
たった三人の小さな所帯ではあるが、彼らはよく
神殿内部、祭壇の中心には至高のヴァリアを、そしてイスターリスとメーサーとが
ここはデルギリアであるから、イスターリス信仰は
その為か、メグレイスは屈強な肉体を有している。その力を示したことこそないが、グレシオスには判る。体つきや身のこなしなどからも、戦士としての力量が
一方メグレイスを
モイラスも同じく王都で学問を学んだ者であるが、彼は南部沿岸地方の人間であり、今までに聞いた話や接した印象からすると、およそ戦闘とは縁のない
神殿の前には広場があり、坂の途中からも、集まっている人々を見ることができた。
こんなに朝早くから招集をかけられれば、当然であろう。
広場の入口にはメグレイスが迎えに出て来ていた。彼はグレシオスには深い尊敬の念を抱いている様子であり、グレシオスに接する態度にはいつも恐縮しているというか、どこか己を恥じるような気配を
なんとなく、グレシオスはこの屈強な神官が苦手であった。
「大殿にはご機嫌
「うむ。長神官殿もな」
「タデアス殿、おはようございます」
「はい。おはようございます長神官様」
簡単に挨拶を返すと、グレシオスは広場に入った。
特にモイラスはすぐに目についた。
「皆静かにせよ。これからギルテの大殿が大切なお話をなさる!」
ヨルスが大きな声でそう呼びかけると、
「皆、良く聞いてもらいたい――」
昨晩ヨルスに説明をしたとき以上に丁寧に、言葉を選んで説明をした。
ジャグルの
村を捨てる場合、パラケウス街道に出るまでに、かなりの犠牲者が出るだろうということ。まず老人病人、幼児は命の危険が極めて大きいだろうこと。さらに街道に出ても、まだ助かるとは言い切れぬことまで詳しく説明をした。
戦う場合には犠牲者が出るのみならず、
話し終えて広場を見渡すと、誰もが暗い顔をしていた。当然だと思った。
「……すまぬが時間がない。長く話し合うことはできぬのだ。できるだけ早く決めて欲しい。どちらの道を選ぶにせよ、
広場はしんと静まり返っていた。
質問をする者は無かった。
事態の重さを理解しきれていないのか、それとも深く理解しているかのどちらかであろうが、後者であるとグレシオスは思うことにした。
「村長、話が
壇を下りると、グレシオスは神殿の中に入った。
「大殿」
「前室で待つ。結論が出たら呼びに来てくれ」
「しかし、話が割れたら
メグレイスが
「ふむ」
グレシオスは足を止めた。少し考える。
普通ならあり得ぬ事である。戦場ではと言った方が良いか。
だが、村人達がそこまで理解しているかどうかは怪しい。
「では村にとどまる者達の指揮は儂が
「村が割れることをお認めになるのですか!?」
タデアスが驚いたような声を上げた。無理もない。
だがグレシオスとしては、たとえ一人であっても、己が望まない選択に従う者を出したくはなかった。
逃げたい者は逃げればよい。戦う者は残ればよいのだ。
それに戦う者達は、逃げる者達の時を
故にグレシオスは戦う側に残る。逃げる者達には自力で頑張ってもらう。
「逃げたいという者を引き留めて戦わせるわけにはいくまい。我等の理屈で村人を縛るわけにもいかんだろう?」
「それは……そうでありますが」
タデアスは困ったような顔をした。気持ちは分かる。戦力の分散を
「とにかく全ての者になるべく早く、いずれか一つの道を必ず選ぶようにさせよ。無論、一つに纏まってくれた方が有難いがな」
「かしこまりました。そのように致します」
メグレイスは頷くと、小走りに広場へ戻っていった。
「ところであのお客人はどうしたのでしょう? 広場にも姿が見えませんでしたが……」
「ひょっとすると、もうギルテへ向かったのかも知れぬな」
タデアスはぎょっとした。無理もない。
「ジャグルどもがこちらに向かっているではありませぬか!
「そうだな」
だがあの男は言ったのだ。やってみねば判らない、と。
「なに、おそらくそろそろ姿を見せるであろうよ。儂等に一言もなく出発するとは思えぬ」
そこで人の気配を感じた。グレシオスは気配の方、神殿の奥を見つめた。
あの男が歩いてくる。ちょうど前室から出てきたところだった。
何故神殿に居たのか。何となく不思議ではあった。
見ると見事な
一見してグレシオスには、男のリオプが、並の職人に作れるような
簡単に手に入るような代物ではない。
実はこの男、かなり身分のある出なのではないだろうか?
その名を聞けば、すぐにそれと判るような名門の人間なのではないか?
知識の深さもさることながら、ぞんざいな口調や態度とは裏腹に、身ごなしには堂々とした威と、優雅さとがある。
男はグレシオスの前で足を止めた。
「よく眠れたか?」
「ぐっすりとな」
自分でも不思議ではあるが。
「馬は連れて来てあるのか?」
「もう広場に来ている頃だろうさ」
馬を引いてくるのを宿泊先の者に頼んだとしても、その者とて広場に来ているはずである。
ところが馬の姿が見えなかった以上、グレシオスが会っていないだけで、この男は、従者を連れて旅をしているのかもしれなかった。
「して、神殿で何をしておったのだ?」
「何、神に祈りを
男の返答はグレシオスの予期しないものであった。
「なんと……お
「
「いや、そこまでは言わぬが……」
男が歩き出したので、グレシオスもついて歩いた。タデアスもついてくる。
「
その割にはあまり急いでいる風には見えない。
相変わらず、つかみどころがない男である。
広場に出ると、村人達の視線が
話はまだ
広場の入口には大きな
近くでよく見ると素晴しく立派である。イオルテスの黒鹿毛であり、並の馬よりも大きさがあった。
主人も大男であるから、釣り合いが取れているとも言えた。
馬は静かな、しかし力強い光を
「良い馬ですなあ」
タデアスが感嘆の
何と言ってもデルギリアである。イオルテス地方である。馬に興味がない人間の方が珍しい。
集まる村人を一向気にする風もなく、男は
大きい。相当な
怒るよりも
「それは儂の弓ではないか」
グレシオスが驚いて言うと、
「おう。昨日見かけたのでな。今少し借りるぞ」
「まさか持っていくつもりではあるまいな?」
「弓は不要よ」
「ならば何故?」
「出発の前にせねばならぬ事があってな」
言いながら、男は弓に
この弓はヘカリオス侯から贈られた物である。ヘクティス式の強弓であり、
グレシオスが最後にこの弓を使ったのは十年以上前である。
今では自在に扱うのは無理かもしれない。
それをこの男は
グレシオスは驚くと同時に
何故、この男には老いがないのか?
違う。この男は確かに老いている。
この男は力を失っていないのだ。
そのことが、グレシオスには
己の腕が、己の
人の体は老いる物である。
そのことはよく分かっている。いや、「よく分かっているつもりである」と言った方がよいか。
ただ「分かる」という事と「納得する」という事とは違う。
同じだという者もある。昔アウラシールの賢者にそう教えられたことがある。
真に知る者は、それが行為となって現れる。知る事は体現する事。そこに
理解は
何となく分かるような気もするが、分からない気もする。
深遠な言葉というものには、元々
老いに
あの偉大なるヴェルデスでさえ死んだのだ。
戦神イスターリスの子にして、
死は必然である。
いかなる
だが、老いる事だけは我慢ならぬ。
己れの体が、生きながら腐敗していく事には耐えられぬ。
しかし、老いの足音を聞くようになってから、グレシオスは常に恐怖に
――これであったか……。
息子に家督を
己は、老いを憎んでいたのだ。
執務を
広間の椅子を失ったからではない。ヘクトリアスが領主の席に着いた時は、誇らしくすらあったのだ。
にもかかわらず何かが欠落した。いや欠落したと感じた。
誰も、己からは何も、居場所を奪ったりなどしていないのにだ。
己が老いるのが恐ろしかった。この
――
願ったところで若さは返らない。季節がめぐるのと同じく、人の一生にも夏があり冬がある。
己は、冬だ。
だがそれは仕方のない事なのだ。
「何を考えている?」
男の声に呼び戻された。
男は張った弦の具合を確かめるように、軽く指先で
「いや……詮無い欲を持っていたと思うてな」
苦笑が漏れた。己の弱さに、臆病さと幼さに
望むことに意味のない欲ではないか。
だからこそ、今まではっきりと気付くこともなかったのだろう。
情けない。哂うしかない。
「ほう……」
男はそう云っただけで、質問を重ねては来なかった。
矢を
一手というのは二
一手、ないし二手が、射の基本単位であり、古くはクァースと言って数えたというが、これは元々ナーラキア語であり、
ローゼンディア語はナーラキア語からの影響を強く受けているから、そう呼んだのだろう。
両数というのは、二つ
これらの言語では名詞は性別に加えて、単数、複数、両数、を区別するのである。
ともあれ男は何かを射るつもりらしかった。
「どこに行くのだ?」
「
男を追いかける形でグレシオスも物見櫓の下までやって来た。
男はグレシオスに矢を渡すと、自分は弓を抱え、櫓を登って行く。仕方がないのでグレシオスも続いて登った。
櫓の上からは村全体が一望できた。床は決して広くはないが、人が三人横になって眠れるくらいの空間はある。
南西側の柱には急を
ジャグルどもが現れるまでは見張りを立てる必要があるので、その者のために、寒さを
男は村の入口の方を向いて目を凝らしている。
「何を見ているのだ?」
「大したことではない。ただ、昨夜から気にはなっていたし、これを片附けてからでないと出立できぬからな」
言いながら矢をつがえて弓を引きしぼった。ゆっくりと引いていく。
これだけの強弓である。当然、全身から力を絞り出す様子が現れるとグレシオスは思っていたのだが、それが全く無い。
男は実に自然な動作で、しかも軽々と弓を引いていく。
グレシオスには信じられなかった。
とてつもない
よく見ると確かに腕の筋肉には
弓を十分に引くと、男はぴたりと動きを止めた。
腕を素直に伸ばし、胸を開いている。
全身を
その姿を見ただけで、この男が尋常ではない射術を身につけていることを
放った。
男の指が、
矢が見えぬ。
飛んだとおぼしき方向を目で追うと、村の外、入口の
「うむ」
低く
「今のは……」
「村を見張っておったジャグルよ。昨夜遅く現れた。ずっとあの樹の上におったのだが、
グレシオスは
――なんという
尋常な射術ではない。これだけ距離の離れた的に
「おお……もう一匹が逃げていくわ」
笑いを含んだ声で男が言った。
目を遣ると、樹からするすると下りてくるものがある。
グレシオスの目の前に、ぬっとばかりに弓が突き出された。
「お前に
冗談ではない。どうかしている。
「この距離では
「中ったが」
首を振るグレシオスに対し、男は笑いながら樹下に転がっているジャグルとおぼしき影を指差した。
「
無茶である。
「お
全盛時の己でさえ、この距離で敵を
それをこの男は、しかも樹の間隠れの相手を、その気配だけを頼りに射落として見せたのだ。
「やってみねば判るまい」
男は首を振ってグレシオスの言葉を否定した。
目の前に弓がある。
ベルガイアの戦いの後、ヘカリオス侯デュレスから送られた強弓である。
初めて引いた時には余りの強さに驚いたものだった。
だが何事も
しかし十年前ならまだしも、今の自分では、この強弓を扱うことは難しかろう。
ひょっとすると引く事すらできぬかも知れぬ。
己の衰えを見られたくない。いや、何より己自身にそのことを知らせたくない……。
ちらりと、そんな考えが頭を
「儂にはもうこの弓を扱うことはできぬよ」
はっきりと言った。区切りをつけねばならなかった。
燃え盛る時は終わったのだ。現実を認め、その
未練はある。
だがそれが
だからもう終わりにしよう。
ところが――。
グレシオスの手は自然と伸びて、
なぜだかは
「イスターリスの
「どういう、意味か」
「お前は、自分は老いていると言った。だが
「確かにそうだが」
この男を並の規格で考えることは、
「お主は特別であろう。
「かも知れぬ。だがその弓を引くのに、それほどの剛力を必要とはせぬよ」
グレシオスは黙って弓を見つめた。
「逃げるぞ」
男が言った。樹から下りてきたジャグルであろう影が、仲間の
――射らねばならぬ。
思うと同時に
気がつくと弓を構えていた。いつの間にやら矢も
無様な、しかし力強さを感じさせる動きで影が遠ざかってゆく。
人間にしては粗雑に過ぎ、足の悪い者のようであるが、猿にしては不自然な余裕のある動きだ。ジャグルの走りであった。
己が
それはまっすぐにジャグルの背中へと伸びていた。
「おお。いい姿勢だ」
男が感心したように言った。その言葉が合図になった。
放った。
己の指が、矢筈から離れると同時に生じた旋風である。
矢が見えぬ。
ただ、胸の中から旋風を生み出したような感触だけがある。
視線の先でジャグルが
動く気配はない。
「うむ」
低く呟くと、グレシオスは弓を下した。
「まだ自分が衰えていると思うかね?」
男が意地悪く聞いてきた。
グレシオスは返答ができなかった。
気分は良かった。己の
だが
今の今まで
子供ならともかく、いい
なので、にやつきそうになる頬に力を入れ、グレシオスはわざと不満そうな顔を作った。むっとして見せた。
「あまり、
がっかりしたように男が眉を下げた。それが何とも
一度笑い出すと止められぬ。声を上げて笑った。
久しく忘れていた、気持ちのいい笑いであった。
「グレシオスよ」
グレシオスが笑い終わるのを待って、男が穏やかに口を開いた。
「老いは
グレシオスは
「力はいつか失われる。そのことについてもお前の考えは正しい。だがそれが必ずしも老いと結びついているわけではない。失われぬ力というものもあるし、失っても取り戻せる力というものも、ある」
再び、グレシオスは頷いた。
「現にお前は今示したではないか。自らの剛勇を。その射術の
グレシオスは苦笑した。照れの混じった笑いである。
「確かに老いは、運命の女神が下す贈物の中でも、もっとも望まれざるものの一つだろう。あのメーサートゥエーンでさえ、老齢との試合においては
メーサートゥエーンはローゼンディア世界最大の英雄である。
あらゆる偉業を成し遂げて、最後は天界に昇って神々の席に
大英雄は、かつて人間の身であった頃、巨人族の城でレスリングを行なったという。
その時の相手が『老齢』であった。
小柄な老人の姿をした『老齢』に対し、メーサートゥエーンは死力を
「だがな。メーサートゥエーンは片膝をついたのみで
なるほど。
そういう見方も、あるか。
なんと愚かで、しかし気持ちの良い見方であろう。
だが――。
力を示せば、それは真実になる……。
思った途端、
「おう。顔つきが変わったのう」
男がにやりと、どこか危険さを感じさせる笑みを浮かべた。
グレシオスは自分が射殺したジャグルに目を向けた。
先程倒れたまま、
この場合、死んだふりという事もなきにしもあらずだが、何故だかそれはないと思った。
自分は間違いなく、あのジャグルの背中を射抜いたと感じていた。
グレシオスは弓を
「……広場に戻ろう。
射の