純白の大地に鮮血が散る。
その
眉にも霜附く寒さにあって、身内は熱く
「
祖父が静かに云った。
じわじわと体温が下がっていく。冷えた汗と
それを
「
祖父ステファノスは多くは語らない。「教え諭す」というようなことはしない。
たまに口を開けば、
「一点ばかりを観るでない。観るともなく全体を観よ」
と、難しいことを云う。
後は
人の上に立つ者の高貴さと力強さを持った顔つき。そこに
そういった風貌は、彼の性情をそのまま表していた。敵と見ると闇雲に突っ込んでいってしまうのである。
人並み以上の
猪突猛進は血気盛んな若者なればこそ、と断じることもできようが、領主の
――甘えがある。
祖父への甘えが。
背後に、戦神イスターリスと
鉄鎖を縫い込んだ
そう想えばこそ、血の滾りに身を
アルカイオスは
その先には、手負いの獣一頭と、それを退治んとする槍兵三人がいる。
狙うはイゴール――暗雲垂れ込める北東の
背筋に沿って二本の黒い
その高さから血の如く赤い三つ眼で睨まれると、どんな
咬みつきは最も注意を要する攻撃である。正面から
この獣に刀剣で立ち向かうのは愚かというより外ない。ましてや一人で立ち向かえるものでもない。
とはいえ、たった一人で勝利した勇者がおらぬわけでもなかった。アルカイオスの祖父ステファノスがその一人である。
幼い時分にはその時の話をよくせがんだものだが、その度に、ステファノスは苦笑するような微妙な顔つきをして、
「若気の至りじゃ。たまたまイスターリスの恩寵を賜わった――それだけのことよ」
と云うだけだった。
そんな祖父に
――死にたいわけではない。
それでは何なのか?
――
判らぬから戦うのかも知れない。
木々と槍兵の合間を見定め、矢を放つ。左眼に命中。叫ぶべく
残るは一頭。
一行の前に現れたイゴールは二頭である。
アルカイオス、ステファノス他、
「狩猟にでも行かぬか?」
と、ステファノスが、新年の挨拶にやってきた孫に声をかけたのである。
久久に顔を見せた孫と一緒に狩りを
それは彼の祖父が出逢ったという、不思議な男──
果たして、
常にイゴールの脅威に
二対九。
いや、猟犬を入れれば二対十二である。
――悪くはない。抗し得る。
絶対的優位にあるとは言えぬが、ステファノスはそう判断した。
万が一を考えて応援の手配もする。これで二対十一になるが、毒をくらった場合、ここから最も近い集落までの距離を考えるとその方が無難に思える。また、
アルカイオスらには
こうして、イゴール退治に当たることとなったのである。
深く突き刺さったのであろう、槍の引き抜きに難儀している兵を
氷雪造りの美術品の如く
援護に行くまでもなく、すぐさま片はついた。
アルカイオスが合図を送ると、あちらからも合図が返ってくる。
一同の間に安堵の空気が流れた。
――その時、風が吹いた。
突風だった。
ふわりと世界を
髪は逆立ち、マントも音を立てて舞い上がった。ともすれば、
氷雪の
どれほどそうしていたのだろう。
不意に、風が
恐る恐る顔を上げると、辺りは真っ白だった。
上下左右すべてが白い。白くないのは己だけである。
――「白い闇」……?
その狂乱の
白、白、白……
何も見えない。
何も聞こえない。
すぐ近くに仲間が居るはずなのに、まったく確信が持てない。先まで居た世界から切り離された感じがする。
――お祖父様!
声が出ない。
口を開けると、白が飛び込んできて喉を
白が、アルカイオスを圧迫していた。
もしや、己は雪の中に埋まっているのではないか?
そう思えて
「ぎゃあ!」
その声で、凍っていた時間が動き出した。
あの声は? 襲われた? 敵? イゴール?
何が何やら判らない。疑問と恐怖が
未だ視界は白く
どくどくどく……
動悸が早い。うるさい。耳につく。
「ぎゃうん!」
「ひぃ!」
また悲鳴。
一同に動揺が
アルカイオスも例外ではなかった。抑えつけていた声が漏れそうになる。
「喝! 落ち着けぇい!」
ステファノスの
視界がさっと開ける。
一同は息を呑んだ。
白い大地、灰色の木々、
針葉樹林の向こうに、一頭のイゴールが
赤く濡れた口は槍兵と思しき人間の喉輪を
残された槍兵一人と猟犬一頭は、逃げるに逃げられぬといった体であった。
槍兵は
一方猟犬はといえば、槍兵の援護をするでもなく、後ろ足の間に尻尾を垂らし、ぎょろりと眼を
「しばし
孤軍奮闘する槍兵を激励しつつ、アルカイオスは駆けた。
ステファノスはその後を追い、
「弓を持て! 援護へ!」
と、こちら側にいる随身たちに指示を出しかけたが、
「大殿! こちらにも!」
反対側から、一匹のイゴールが雪面を滑るようにやってくる。
ステファノスから知らず舌打ちが漏れた。
「そちらは任せた! イスターリスの加護のあらんことを!」
「イスターリスの加護のあらんことを!」
ステファノスと随身たちが戦神に祈願し合っている間に、アルカイオスはイゴールの間近に迫っていた。
アルカイオスが近寄ると、イゴールは遊びはこれまでとばかりに咥えていた槍兵を放し、目前の槍兵に飛びかかる体勢をとった。
――間に合わぬ!
イゴールまであと十歩はある。
考えている余裕などなかった。
「我が父祖の守り手、
気がつけば、握り締めていた刀を槍投げの如く
イゴールの横腹に突き刺さる――かに見えたが、不意にイゴールが消えた。
――外した!?
「ぎゃっ!」
刀が虚しく地に突き刺さると同時に、槍兵の頸から血と蒸気が噴き出していた。
イゴールの動きは速かった。
槍兵の頸に咬みついたかと思えば、
手持ちの武器は弓矢と短刀のみ。
アルカイオスは腰の短刀を抜こうとした。
しかし、それよりもずっと速くイゴールの赤い三つ眼が迫ってくる。
イゴールの動きはよく観えていた。
半ば凍りついた
頭では、意識では、己がどう動けばよいかは判っていた。
しかし、
――体が、動かぬ。
意識に肉体が
なんというもどかしさか。
イゴールが迫る。
背中が
イゴールの眼を見据えて
それが唯一できる抵抗だった。
――そんなはずはない。
己が悲鳴などあげるものか。
――動け! 動け!
頸に、腐肉臭のする息を吹き掛けられた――と感じた時、風切り音を聞いた。
頸のすぐ横で、矢が
イゴールの右眼を貫いて。
残る二つの眼が、ぎろりとアルカイオスを睨んでいた。
憎しみと口惜しさを籠めて。
その眼をまともに見つめて、アルカイオスは打たれたようになった。
赤い眼に呑み込まれる。
視界が赤一色に染まる。
「気を抜くな、アルカイオス!」
その声で我に返ると、雪上に立ち尽くす己が姿があった。
すぐ横で、雪にまみれ、右眼に矢を突き立てたイゴールが、のそのそと立ち上がるのが見える。
そこへまた矢が飛来し、イゴールの肩に刺さった。イゴールは一声
その有り様を、どこか遠くの出来事のように呆然と見ていた。
「走れ! 槍まで走れ!」
はっとして導かれるままに走り出した。
たった十歩、走ればよい。
しかし、体が思うように動かない。
がくがくと体が
ふわふわと雲の上を走っている感じがする。
――あ!
と思った時には、雪面に突っ伏していた。
足が
すぐさま立ち上がろうとしたが、またしても己の意思に肉体が反する。
大地に縛りつけられたように動かぬばかりか、大地に心地良さすら感じている体に愕然とする。
ふんわりと積もった雪は、身を切るような凍てつく大気よりも、優しく温かかった。
ギイィィ――――!!
背後からの獣の叫びに、びくりと体が跳ねた。
「イゴールよ! 混沌より出でし獣よ! 汝の相手は儂じゃ!」
アルカイオスのすぐ傍では、右眼と肩と背中に矢を立てたイゴールが、低い呻きをあげて身じろいでいる。背後からアルカイオスに飛びかからんとしたところを、ステファノスに
「汝を射たのは儂ぞ!
と、ステファノスが言い放つや、
イゴールは手負いとは思えぬ動きでそれを避け、ステファノスの
アルカイオスは己の許から離れていくイゴールに少なからぬ衝撃を受けた。
――弱き者になど用は無い。
黒い
武器も持たず無様に倒れている己など、もはやイゴールの敵ではないのだ。
体が
怒りと屈辱に、体が顫えた。
なんという不甲斐なさか。
意気込んで、先駆けて、この醜態とは……。
兵の背後で指揮すべき、御大将自らの手を
冷えていた血がふつふつと
重かった体が嘘のように動いた。
跳ねるように立ち上がると、槍でイゴールに対するステファノスが見えた。
ステファノスの方が押されている。いや、どうだろう。余力が観える。
アルカイオスは矢を
このまま祖父に
――あれは、私の獲物だ。
譲れない。
イゴールの動きを見定めていると、目の端に影が
「お祖父様!」
ステファノスを振り仰ぐ。
刹那、青い目と合う。
――恐ろしい方だ。
と思った。
背後であるにも関わらず、目前のイゴールに集中しているにも関わらず、新手の接近に気づいていた。
青い目は語っていた。
――背後のイゴールを射て。
と。
無茶だと思った。
木が邪魔だ。
イゴールは木々を縫ってやってくる。しかも木々という
動き回る標的に中てるのは、ただでさえ難しい。
しかし、
――中ててやろう。
目前のイゴールに後ろ髪引かれるが、この際、新手のイゴールでも構わない。
己が力を証明する。
アルカイオスは白の中に見え隠れする茶褐色の動物を見据え、矢先を向けた。
イゴールの動きに沿って矢先が揺れる。
なかなか定まらない。
イゴールが迫る。
ステファノスに迫る。
五十歩、四十歩、三十歩……。
革手袋の中が汗でべとつく。
読め。
感じ取れ。
イゴールの動きを。
大気の流れを。
森の
己が力を。
「ウードラ殺しの大いなる神よ、我に力を……」
射手の加護神にして、狩猟神たるダルフォースに祈りを
不意に、拡散していたものがあるべきところ正しきところへすっと収まり、ひとつに繋がったような気がした。
イゴールに到る道筋が
――中たる!
自信でも
「ウードラ殺しの大いなる神よ、願わくば、我が狙い、外させ
祈りというより感謝を籠めて、そう唱えた。
その音に乗って、矢は緩やかに弧を描き、吸い込まれるようにイゴールの
イゴールは
アルカイオスは呆然とその
しかし、それも刹那、雪にまみれたイゴールがもぞもぞと動くのを見て取るや、我に返った。
素速いイゴールの足が止まった絶好の機会を逃してはならない。最前の如き神の力を借りた矢は、そうそう射てるものではないし、それを無意にするのは神への
――いや、射殺してしまえ。
アルカイオスは背負った矢筒に手を伸ばした。
掴む、掴む、掴む……どういうことか、そこにあるべき矢を掴まず、悉く
――馬鹿な!
矢は二束――二十六
戦士たる者、すべからく己が身を護る武具を把握しているべきである。
初めて武器を手にした時、まずそのことを
己が放った矢は何隻か、残りの矢は何隻かなど、頭で考えるまでもなかった。身体が覚えているのである。
アルカイオスは
――転んだ時だ。
慌てて振り返る。案の定、そこにあった。
一歩、二歩目で、落ちている矢を真上に蹴り上げ、引っ掴む。
そして振り返ると――
祖父の頸に、イゴールの牙が食い込んでいた。
アルカイオスはぽかんと口を開けた。
その光景が何を意味するのか、判らなかった。
直立不動の祖父は、かっと双眸を開き、ぐっと歯を食い縛り、頸から流れる血で青の装束を黒く染めていた。
その光景が何を意味するのか、判らなかった。
――射たなくては。
と、真っ白な頭の中にふっと浮かんだ。
ああ、そうだ。イゴールを射たなくては。あのイゴールは己が狙っていたイゴールだ。
幸い、イゴールの動きは止まっている。祖父の頸に咬みついて止まっている。外すべくもない。
射たなくては。
殺さなくては。
極限まで引き絞った弓が、きしきしと悲鳴をあげる。
――殺す!
大気が鳴った。
矢はイゴールの頸に突き刺さった。
そうしてイゴールの咬みつきが弱まった瞬間、
もう一匹のイゴール――先までステファノスと対峙していた、死して間もないイゴールから槍が引き抜かれ、その
「……動いた」
ステファノスが動く様を見て、アルカイオスの手から弓が落ちた。安堵で力が抜けた。
頭の片隅にありながら目を背けていた、「死」という言葉を抹消する。
――死ぬわけがない。
あのお祖父様が、死ぬわけがない。
デルギリアの東では野蛮な騎馬民族トゥライが
その激闘の歴史、輝ける
それほどの豪傑ステファノスが、死ぬわけがない。
――死ぬわけが……
ぱっ、と、大気に鮮血が散った。
ステファノスの頸から、イゴールの
血が勢いよく噴き出した。
冬の大気の中、熱い血は湯気さえ上げながら、見る間にステファノスの広い肩を
――死ぬわけが……
直立の姿勢のまま、ステファノスの体がぐらりと
――死ぬわけが!
「おじいさまぁ――!!」
アルカイオスの叫びが森に響き渡った。
「大殿!?」
「大殿が!」
交戦中の随身たちが動揺で崩れ始める。形勢が逆転する。
アルカイオスはステファノスの許へ駆け寄った。
純白の雪の中に、真っ赤な血と真っ青な装束が、色鮮やかに拡がっていた。
ステファノスは生気の無い顔で、その中に埋れていた。口から漏れる息は弱弱しく、頸から流れる血は
その青い瞳は大きく見開かれ、虚空を見つめていた。いや、
アルカイオスは恐れに
瞳に何かが映っている。
瞳の向こうから何かがやってくる。
この世すべての
善き死者の魂が
「……!」
アルカイオスは声にならぬ叫びをあげ、ステファノスの頸に手を当てた。そうして、
「お祖父様……申し訳ありません……」
私の過失です――そう、
「愚か者め!!」
アルカイオスの全身がびくりと顫えた。
血とも唾ともつかぬものが、アルカイオスの顔に飛び散っていた。
いったいどこにそんな力が残っていたのか、激しい叱責の声だった。こんな祖父は初めてだった。
ステファノスは息も絶え絶えに言葉を紡いだ。
「何を、しておる……なんという声を、あげる……あれでは……随身らが、動揺する……儂のことなど、構うな……汝の
ステファノスは、苦痛に顔を歪めながら
「……
我らが為すべきこと――騎士たる身、貴族たる身には、言われるまでもなく解りきったことである。
ステファノスに致命傷を与えたイゴールはすでに去った。追わなくてはならぬ。討たなくてはならぬ。
イゴール退治は騎士の使命であることは元より、デルギリアの
こんな血止めなど、している場合でもなければ無駄なことでもあった。祖父が助かるわけでもなし、己が過失が
なんと無様な真似をしているのか。
そうこうしているうちに、
血が滲むほど唇を噛んだ。
そうしなければ、激情に体が
泣く資格は、己には無い。
アルカイオスは喉に引っ掛かっている
「お祖父様……」
声に顫えはない。
「お祖父様は、我らデルギリア、ひいてはローゼンディアの誉れです。……
そして止血の手を放した。再び血が流れ出した。
ステファノスは穏やかに微笑み、静かに目を閉じた。
それを確める間もなく、アルカイオスは立ち上がった。
――
それが己が過失の償いになるなどとは、
アルカイオスは馬を繋ぎ止めているところまで走りながら、及び腰の随身らを叱咤した。
「
「御意!」
アルカイオスは
森が
雪が降り始めた。