死地に咲く花

第一章 老雄

 純白の大地に鮮血が散る。

 その(たび)に、激しい血の(たぎ)りを感じる。

 眉にも霜附く寒さにあって、身内は熱く火照(ほて)り、革鎧から(あふ)れた熱気が凍れる空気を溶かさんばかりであった。

 眩暈(めまい)にも似た昂奮に包まれて、知らず、刀柄(とうのつか)に手を掛けた。

(はや)るなよ、アルカイオス」

 祖父が静かに云った。

 (さと)すでもなし、(なだ)めるでもなし、無論叱る風でもなし――だが、胸の奥に滲みるような声だった。

 じわじわと体温が下がっていく。冷えた汗と気不味(きまず)さが、気持ち悪く(まと)わりつく。

 それを(まぎ)らすように、森特有の清澄な空気を深く吸い込むと、先まで気にならなかった臭いがつんと鼻から脳へと突き抜けた。鼻腔の奥で(はな)が凍り、嗅覚などないに等しいはずだった。にも関わらず、強烈な臭いである。いかに馴染んだ臭いといえども、汗をたっぷり吸った革鎧の臭いほど(ひど)いものはない。気分はますます悪くなった。

(なんじ)援護(えんご)じゃ。しっかと弓矢を構えておれ」

 祖父ステファノスは多くは語らない。「教え諭す」というようなことはしない。

 たまに口を開けば、

「一点ばかりを観るでない。観るともなく全体を観よ」

 と、難しいことを云う。

 後は()いて来いとばかりに広い背中を見せるだけである。

 (わか)らぬままに随いて行くことがほとんどであるが、この戦いに()いて、援護に回された意味が解らぬほど愚かではない。

 人の上に立つ者の高貴さと力強さを持った顔つき。そこに精悍(せいかん)さを加味する、日に焼けた肌と錆附いたような銀の髪。そして、己が信義を(かたく)なに貫き通さんとする青い瞳。

 そういった風貌は、彼の性情をそのまま表していた。敵と見ると闇雲に突っ込んでいってしまうのである。

 人並み以上の上背(うわぜい)に、(しな)やさと力強さを併せ持った、無駄の無い筋肉――そういった、戦士として恵まれた肉体を持つ(ゆえ)か、それを持て余しているようなところがあるのやも知れぬ。

 猪突猛進は血気盛んな若者なればこそ、と断じることもできようが、領主の継嗣(けいし)とあらば、そうも言っていられない(とし)になった。もう十八である。

 ――甘えがある。

 祖父への甘えが。

 背後に、戦神イスターリスと見紛(みまが)うばかりの祖父が居る。

 炯炯(けいけい)たる眼光、猛猛(たけだけ)しい眉、眉間の(しわ)の深さは、ひとかたならぬ人生を窺わせる。頭髪、髭眉(しび)は白くとも、ぴんと伸びた背筋に老いなど微塵もない。

 鉄鎖を縫い込んだ(なめ)し革の鎧に青の戦衣、常に風を(はら)み、(なび)かぬことのなき青のマントを(まと)い、巍然屹立(ぎぜんきつりつ)として己が背後に在る。

 そう想えばこそ、血の滾りに身を(まか)せることができるのである。

 アルカイオスは(くるぶし)に至らぬほどの雪を踏み締め、弓矢を構え直した。

 その先には、手負いの獣一頭と、それを退治んとする槍兵三人がいる。

 狙うはイゴール――暗雲垂れ込める北東の彼方(かなた)より来し魔獣。人間や家畜を好んで襲う、悪の種族に連なる獣である。

 背筋に沿って二本の黒い(すじ)が入り、茶褐色の毛で(おお)われたその体は細長い。イタチによく似ているが、立ち上がれば人間の背丈を超える。

 その高さから血の如く赤い三つ眼で睨まれると、どんな(おとこ)でも怖気(おぞけ)を禁じ得ない。しかし、そんなものを感じている間もなく鋭い爪が襲ってくる。くらえば肉ごとごっそり持って行かれる。

 長柄(ながえ)や飛び道具で攻撃するのが常道だが、多少距離をとったからといって油断はできない。()みつきがある。

 咬みつきは最も注意を要する攻撃である。正面から(すさま)じい速さでぐんと伸びてくる。常人に反応できる速度ではない。牙には遅効性の毒があるが、(くび)に咬みつかれたらひとたまりもない。

 この獣に刀剣で立ち向かうのは愚かというより外ない。ましてや一人で立ち向かえるものでもない。

 とはいえ、たった一人で勝利した勇者がおらぬわけでもなかった。アルカイオスの祖父ステファノスがその一人である。

 幼い時分にはその時の話をよくせがんだものだが、その度に、ステファノスは苦笑するような微妙な顔つきをして、

「若気の至りじゃ。たまたまイスターリスの恩寵を賜わった――それだけのことよ」

 と云うだけだった。

 そんな祖父に(なら)うべく無謀な行動に走るわけではないが、憧れはある。誘惑もある。

 ――死にたいわけではない。

 それでは何なのか?

 ――(わか)らぬ。

 判らぬから戦うのかも知れない。

 木々と槍兵の合間を見定め、矢を放つ。左眼に命中。叫ぶべく(あら)わになった喉に()かさず槍が入る。それが止めとなった。

 残るは一頭。

 一行の前に現れたイゴールは二頭である。

 アルカイオス、ステファノス他、随身(ずいじん)五名と猟師二名は、狩猟のため、凍える山中を彷徨(さまよ)っていた。

「狩猟にでも行かぬか?」

 と、ステファノスが、新年の挨拶にやってきた孫に声をかけたのである。

 久久に顔を見せた孫と一緒に狩りを(たの)しもうと思ったのか、それとも、何か予感があったのかも知れぬ。

 それは彼の祖父が出逢ったという、不思議な男──(つば)の広い柔らかなフェルト帽と、長い幅広の青いマントを身に附けた男に己も逢えるかも知れぬという、期待だったのかも知れぬ。

 果たして、出遭(であ)ったのはイゴールであった。憎むべき獣どもは、近隣から掠奪(りゃくだつ)したと思しき家畜を(くら)っている最中であった。

 常にイゴールの脅威に(さら)されているこの地――デルギリアでは、さして珍しくもない光景だが、この地方を統べる領主一味としては捨て()けぬことである。領民の生命と財産を護るのが領主たる務め、貴族たる使命だ。

 二対九。

 いや、猟犬を入れれば二対十二である。

 ――悪くはない。抗し得る。

 絶対的優位にあるとは言えぬが、ステファノスはそう判断した。

 万が一を考えて応援の手配もする。これで二対十一になるが、毒をくらった場合、ここから最も近い集落までの距離を考えるとその方が無難に思える。また、討手(うって)は多いに越したことはない。

 アルカイオスらには(ひる)むべき理由など何一つなかった。名にし負うイゴール殺し、ステファノスが居るというだけで否が応にも士気は上がる。

 こうして、イゴール退治に当たることとなったのである。

 深く突き刺さったのであろう、槍の引き抜きに難儀している兵を後目(しりめ)に、アルカイオスはもう一頭の方へ目を走らせた。

 氷雪造りの美術品の如く(そび)える針葉樹林、その向こう五十歩ほど先では、二頭の猟犬がイゴールの耳や脇腹に咬みつき、そこへ二人の槍兵が狙い定めた攻撃を加えている。少し離れたところでは一頭の猟犬が血の中に(たお)れ、さらに離れたところでは覚束(おぼつか)無い様子の猟師が弓矢を構えている。

 援護に行くまでもなく、すぐさま片はついた。

 アルカイオスが合図を送ると、あちらからも合図が返ってくる。

 一同の間に安堵の空気が流れた。

 

 ――その時、風が吹いた。

 

 突風だった。

 ふわりと世界を(おお)っていた雪が、(すさま)じい(うな)りをあげて天に(かえ)る。

 髪は逆立ち、マントも音を立てて舞い上がった。ともすれば、幾重(いくえ)にも革を重ね、鉄鎖を縫い込んだコート型の鎧――リオプの裾も翻りそうであった。

 氷雪の(つぶて)を浴びて、アルカイオスは堪らず顔を覆った。

 どれほどそうしていたのだろう。

 不意に、風が()んだ。

 恐る恐る顔を上げると、辺りは真っ白だった。

 上下左右すべてが白い。白くないのは己だけである。

 ――「白い闇」……?

 (うるわ)しき大地母神メーサが眠りに就くと、氷雪の精霊たちが目を覚ます。女神の御手(みて)失われし世界で、彼らは自由気儘、縦横無尽に踊り狂う。

 その狂乱の直中(ただなか)は、白一色の世界であるという。それは「白い闇」と呼ばれている。

 白、白、白……

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 すぐ近くに仲間が居るはずなのに、まったく確信が持てない。先まで居た世界から切り離された感じがする。

 ――お祖父様!

 声が出ない。

 口を開けると、白が飛び込んできて喉を(ふさ)ぐ。

 白が、アルカイオスを圧迫していた。

 もしや、己は雪の中に埋まっているのではないか?

 そう思えて慄然(りつぜん)とした時、

 

「ぎゃあ!」

 

 その声で、凍っていた時間が動き出した。

 (せき)を切ったように、風の呻りが耳に押し寄せ、氷雪が顔を打つ。肺腑(はいふ)に冷たい空気が流れ込んでくる。血が一気に身内を(めぐ)る。――どうやら息も止まっていたらしい。

 あの声は? 襲われた? 敵? イゴール?

 何が何やら判らない。疑問と恐怖が()()ぜになる。

 未だ視界は白く(おお)われている。取り除かんと刀を抜いて振り回す。が、効果はない。苛立ちと焦りだけが募る。

 どくどくどく……

 動悸が早い。うるさい。耳につく。

「ぎゃうん!」

「ひぃ!」

 また悲鳴。

 一同に動揺が(はし)る。恐怖と混乱に支配される。

 アルカイオスも例外ではなかった。抑えつけていた声が漏れそうになる。

「喝! 落ち着けぇい!」

 ステファノスの大音声(だいおんじょう)が、恐怖と混乱を、そして、氷雪の精霊たちをも()ぎ払った。

 視界がさっと開ける。

 一同は息を呑んだ。

 白い大地、灰色の木々、鼠色(ねずいろ)の空――無彩色の背景から赤が浮き上がって見える。血と、イゴールの三つ眼が。

 針葉樹林の向こうに、一頭のイゴールが(たたず)んでいた。

 赤く濡れた口は槍兵と思しき人間の喉輪を(くわ)えている。槍兵はぴくりとも動かず、ただ、己の血で白い地面を赤く染めていた。その周囲には、猟師一人と猟犬一頭が()す。いずれも絶命の様子であった。

 残された槍兵一人と猟犬一頭は、逃げるに逃げられぬといった体であった。

 槍兵は雄叫(おたけ)びとも悲鳴ともつかぬ声をあげて、闇雲に槍を(ふる)った。しかし、(ことごと)くイゴールには中たらない。イゴールが咥える槍兵――仲間である槍兵に中たった。その度に槍兵は、泣き叫ぶような声をあげた。

 奸智(かんち)に長けたイゴールは、槍兵を盾にしているのである。それはまた、向かい来る槍兵を軽く応対(あしら)い、(もてあそ)んでいるようでもあった。

 一方猟犬はといえば、槍兵の援護をするでもなく、後ろ足の間に尻尾を垂らし、ぎょろりと眼を()き、がちがちと鳴らしている牙の間から、(おびただ)しい(よだれ)と弱弱しい声を漏らしているだけだった。

「しばし(こら)えよ! 参る!」

 孤軍奮闘する槍兵を激励しつつ、アルカイオスは駆けた。

 ステファノスはその後を追い、

「弓を持て! 援護へ!」

 と、こちら側にいる随身たちに指示を出しかけたが、

「大殿! こちらにも!」

 反対側から、一匹のイゴールが雪面を滑るようにやってくる。

 ステファノスから知らず舌打ちが漏れた。

「そちらは任せた! イスターリスの加護のあらんことを!」

「イスターリスの加護のあらんことを!」

 ステファノスと随身たちが戦神に祈願し合っている間に、アルカイオスはイゴールの間近に迫っていた。

 アルカイオスが近寄ると、イゴールは遊びはこれまでとばかりに咥えていた槍兵を放し、目前の槍兵に飛びかかる体勢をとった。

 ――間に合わぬ!

 イゴールまであと十歩はある。

 考えている余裕などなかった。

「我が父祖の守り手、忿怒(ふんぬ)せるイスターリスよ! 我に力を!」

 気がつけば、握り締めていた刀を槍投げの如く(ほう)っていた。

 イゴールの横腹に突き刺さる――かに見えたが、不意にイゴールが消えた。

 ――外した!?

「ぎゃっ!」

 刀が虚しく地に突き刺さると同時に、槍兵の頸から血と蒸気が噴き出していた。

 イゴールの動きは速かった。

 槍兵の頸に咬みついたかと思えば、(けち)らした粉雪と共に、()ね返るようにこちらに飛びかかってきていた。

 手持ちの武器は弓矢と短刀のみ。

 アルカイオスは腰の短刀を抜こうとした。

 しかし、それよりもずっと速くイゴールの赤い三つ眼が迫ってくる。

 イゴールの動きはよく観えていた。

 半ば凍りついた目脂(めやに)(いや)らしく(ほとばし)(よだれ)白茶(しらちゃ)けた牙にこびり付いた血と肉片、硬そうな茶褐色の毛の一本一本、その中に(まぎ)れている(しらみ)まで見えた。

 頭では、意識では、己がどう動けばよいかは判っていた。

 しかし、

 ――体が、動かぬ。

 意識に肉体が()いて来ない。

 なんというもどかしさか。

 イゴールが迫る。

 背中が(あわ)立つ。

 イゴールの眼を見据えて雄叫(おたけ)びをあげた。

 それが唯一できる抵抗だった。

 (いな)、単なる悲鳴なのかも知れぬ。

 ――そんなはずはない。

 己が悲鳴などあげるものか。

 ――動け! 動け!

 頸に、腐肉臭のする息を吹き掛けられた――と感じた時、風切り音を聞いた。

 頸のすぐ横で、矢が()()()()()()

 イゴールの右眼を貫いて。

 残る二つの眼が、ぎろりとアルカイオスを睨んでいた。

 憎しみと口惜しさを籠めて。

 その眼をまともに見つめて、アルカイオスは打たれたようになった。

 赤い眼に呑み込まれる。

 視界が赤一色に染まる。

「気を抜くな、アルカイオス!」

 その声で我に返ると、雪上に立ち尽くす己が姿があった。

 すぐ横で、雪にまみれ、右眼に矢を突き立てたイゴールが、のそのそと立ち上がるのが見える。

 そこへまた矢が飛来し、イゴールの肩に刺さった。イゴールは一声(うめ)いてよろめいた。ぽたぽたと右眼から血が滴り、ぽつぽつと白雪に赤が滲む。

 その有り様を、どこか遠くの出来事のように呆然と見ていた。

「走れ! 槍まで走れ!」

 はっとして導かれるままに走り出した。

 (たお)れた槍兵の槍を拾え、ということだろう。それくらいの判断力は残っていた。

 たった十歩、走ればよい。

 しかし、体が思うように動かない。

 がくがくと体が(ふる)える。

 ふわふわと雲の上を走っている感じがする。

 ――あ!

 と思った時には、雪面に突っ伏していた。

 足が(もつ)れた。

 すぐさま立ち上がろうとしたが、またしても己の意思に肉体が反する。

 大地に縛りつけられたように動かぬばかりか、大地に心地良さすら感じている体に愕然とする。

 ふんわりと積もった雪は、身を切るような凍てつく大気よりも、優しく温かかった。

 

 ギイィィ――――!!

 

 背後からの獣の叫びに、びくりと体が跳ねた。

「イゴールよ! 混沌より出でし獣よ! 汝の相手は儂じゃ!」

 (あえ)ぐようにして振り返ると、三十歩ばかり向こうに、青のマントを翻して弓矢を構えたステファノスが立っていた。

 アルカイオスのすぐ傍では、右眼と肩と背中に矢を立てたイゴールが、低い呻きをあげて身じろいでいる。背後からアルカイオスに飛びかからんとしたところを、ステファノスに()たれたのだろう。

「汝を射たのは儂ぞ! (けが)らわしき悪の獣といえども、汝も雄ならば、やられたままでおることがあろうか。――来よ!」

 と、ステファノスが言い放つや、(ごう)と大気を切り裂いて矢が飛来する。

 イゴールは手負いとは思えぬ動きでそれを避け、ステファノスの(もと)へと駆けた。

 アルカイオスは己の許から離れていくイゴールに少なからぬ衝撃を受けた。

 

 ――弱き者になど用は無い。

 

 黒い(すじ)が二本入った茶褐色の背中は、そんな風に言っているように見えた。

 武器も持たず無様に倒れている己など、もはやイゴールの敵ではないのだ。従容(しょうよう)(くら)われるべき、ただの獲物でしかないのだ。

 体が(ふる)えた。

 怒りと屈辱に、体が顫えた。

 なんという不甲斐なさか。

 意気込んで、先駆けて、この醜態とは……。

 兵の背後で指揮すべき、御大将自らの手を(わずら)わすとは……。

 冷えていた血がふつふつと(たぎ)ってくる。

 重かった体が嘘のように動いた。

 跳ねるように立ち上がると、槍でイゴールに対するステファノスが見えた。

 ステファノスの方が押されている。いや、どうだろう。余力が観える。虎視眈眈(こしたんたん)と一撃必殺を狙っているように観える。

 アルカイオスは矢を(つが)えた。

 このまま祖父に(まか)せて退き下がるわけにはゆかぬ。いや、祖父に斃させるわけにはゆかぬ。

 ――あれは、私の獲物だ。

 譲れない。

 イゴールの動きを見定めていると、目の端に影が()ぎった。イゴールだ。ステファノスの右斜め後方より駆けてくる。その反対側、左斜め後方では、未だ随身たちとイゴールが戦っている。となれば、新手であるらしい。

「お祖父様!」

 ステファノスを振り仰ぐ。

 刹那、青い目と合う。

 ――恐ろしい方だ。

 と思った。

 背後であるにも関わらず、目前のイゴールに集中しているにも関わらず、新手の接近に気づいていた。

 青い目は語っていた。

 ――背後のイゴールを射て。

 と。

 無茶だと思った。

 木が邪魔だ。

 イゴールは木々を縫ってやってくる。しかも木々という障礙(しょうがい)など無いかの如き、速さと滑らかさである。

 動き回る標的に中てるのは、ただでさえ難しい。

 しかし、

 ――中ててやろう。

 目前のイゴールに後ろ髪引かれるが、この際、新手のイゴールでも構わない。

 己が力を証明する。

 アルカイオスは白の中に見え隠れする茶褐色の動物を見据え、矢先を向けた。

 イゴールの動きに沿って矢先が揺れる。

 なかなか定まらない。

 イゴールが迫る。

 ステファノスに迫る。

 五十歩、四十歩、三十歩……。

 革手袋の中が汗でべとつく。

 読め。

 感じ取れ。

 イゴールの動きを。

 大気の流れを。

 森の(たたず)まいを。

 己が力を。

「ウードラ殺しの大いなる神よ、我に力を……」

 射手の加護神にして、狩猟神たるダルフォースに祈りを(ささ)げる。

 不意に、拡散していたものがあるべきところ正しきところへすっと収まり、ひとつに繋がったような気がした。

 イゴールに到る道筋が(きら)めく線となって視えた。

 ――中たる!

 自信でも自惚(うぬぼ)れでもない。己が力を超えた、必然とも(ことわり)ともいうべきものだった。

「ウードラ殺しの大いなる神よ、願わくば、我が狙い、外させ(たも)うな!」

 祈りというより感謝を籠めて、そう唱えた。

 弦音(つるね)が静かに響き渡った。

 その音に乗って、矢は緩やかに弧を描き、吸い込まれるようにイゴールの(もも)に中たった。

 イゴールは()んのめった。粉雪を()き散らしてごろごろと雪面を転がった。

 アルカイオスは呆然とその(さま)を見ていた。神の御手に触れたような気がして、畏敬に打たれていたのである。

 しかし、それも刹那、雪にまみれたイゴールがもぞもぞと動くのを見て取るや、我に返った。

 素速いイゴールの足が止まった絶好の機会を逃してはならない。最前の如き神の力を借りた矢は、そうそう射てるものではないし、それを無意にするのは神への冒涜(ぼうとく)というものである。すぐさま次の矢を放って、このまま足留めするのだ。

 ――いや、射殺してしまえ。

 アルカイオスは背負った矢筒に手を伸ばした。

 掴む、掴む、掴む……どういうことか、そこにあるべき矢を掴まず、悉く(くう)を掴んだ。

 (いぶか)しんで、後手(うしろで)に矢筒を振ってみた。果たして何の手応えもない。(から)である。

 ――馬鹿な!

 矢は二束――二十六(せき)持って来ている。使ったのは、初めのイゴールに三隻、今のイゴールに一隻、計四隻で、残りは二十二隻あるはずである。それは間違えようがない。

 戦士たる者、すべからく己が身を護る武具を把握しているべきである。

 初めて武器を手にした時、まずそのことを身体(からだ)に叩き込まれた。一隻でも矢数を間違えようものなら、馬用の鞭で()(ぱた)かれたものである。

 己が放った矢は何隻か、残りの矢は何隻かなど、頭で考えるまでもなかった。身体が覚えているのである。

 アルカイオスは()()と思い当たった。

 ――転んだ時だ。

 慌てて振り返る。案の定、そこにあった。

 一歩、二歩目で、落ちている矢を真上に蹴り上げ、引っ掴む。

 そして振り返ると――

 

 祖父の頸に、イゴールの牙が食い込んでいた。

 

 アルカイオスはぽかんと口を開けた。

 その光景が何を意味するのか、判らなかった。

 直立不動の祖父は、かっと双眸を開き、ぐっと歯を食い縛り、頸から流れる血で青の装束を黒く染めていた。

 その光景が何を意味するのか、判らなかった。

 ――射たなくては。

 と、真っ白な頭の中にふっと浮かんだ。

 ああ、そうだ。イゴールを射たなくては。あのイゴールは己が狙っていたイゴールだ。

 幸い、イゴールの動きは止まっている。祖父の頸に咬みついて止まっている。外すべくもない。

 射たなくては。

 殺さなくては。

 極限まで引き絞った弓が、きしきしと悲鳴をあげる。

 ――殺す!

 大気が鳴った。

 矢はイゴールの頸に突き刺さった。

 そうしてイゴールの咬みつきが弱まった瞬間、塑像(そぞう)の如き様子であったステファノスの体が動いた。

 もう一匹のイゴール――先までステファノスと対峙していた、死して間もないイゴールから槍が引き抜かれ、その石突(いしづき)が頸に咬みついているイゴールの腹に見舞われた。

「……動いた」

 ステファノスが動く様を見て、アルカイオスの手から弓が落ちた。安堵で力が抜けた。

 頭の片隅にありながら目を背けていた、「死」という言葉を抹消する。

 ――死ぬわけがない。

 あのお祖父様が、死ぬわけがない。

 デルギリアの東では野蛮な騎馬民族トゥライが跳梁(ちょうりょう)し、北東では悪の種族が跋扈(ばっこ)する。彼らは、たびたび、デルギリア、すなわち、ローゼンディア王国への侵入を繰り返す。(ゆえ)に、王国最北東に位置するデルギリアは、常に王国の鉄壁たることを課せられてきた。

 その激闘の歴史、輝ける数多(あまた)の勇士たちの中にあっても、ステファノスの武勇は埋もれぬであろう。それほどの人である。

 それほどの豪傑ステファノスが、死ぬわけがない。

 ――死ぬわけが……

 ぱっ、と、大気に鮮血が散った。

 ステファノスの頸から、イゴールの(あぎと)が離れた瞬間のことであった。

 血が勢いよく噴き出した。

 冬の大気の中、熱い血は湯気さえ上げながら、見る間にステファノスの広い肩を(おお)い、流れてゆく。足許の雪が、(たちま)ち赤い色に染まってゆく。

 ――死ぬわけが……

 直立の姿勢のまま、ステファノスの体がぐらりと(かし)いだ。そして、そのまま、血を噴き上げながら真後ろへと倒れていった。

 ――死ぬわけが!

「おじいさまぁ――!!」

 アルカイオスの叫びが森に響き渡った。

 (こずえ)に潜んでいた鳥が、気狂(きちが)いじみた声をあげて騒がしく飛び立つ。

「大殿!?」

「大殿が!」

 交戦中の随身たちが動揺で崩れ始める。形勢が逆転する。

 アルカイオスはステファノスの許へ駆け寄った。

 純白の雪の中に、真っ赤な血と真っ青な装束が、色鮮やかに拡がっていた。

 ステファノスは生気の無い顔で、その中に埋れていた。口から漏れる息は弱弱しく、頸から流れる血は(おびただ)しかった。

 その青い瞳は大きく見開かれ、虚空を見つめていた。いや、()()ではないどこかを視ているようだった。

 アルカイオスは恐れに(ふる)えつつ、しかし否応(いやおう)もなく引き寄せられるように、祖父の目を覗き込んでいた。

 瞳に何かが映っている。

 瞳の向こうから何かがやってくる。

 この世すべての騒擾(そうじょう)を呑み込む、馬蹄の音が聞こえてくる。

 善き死者の魂が(つど)冥界(ユノー)、その王ネストスの忠実なる(しもべ)、七の数を持つ死の御使い、オルディヌスがやってくる。

「……!」

 アルカイオスは声にならぬ叫びをあげ、ステファノスの頸に手を当てた。そうして、(こぼ)れ落ちていく血を、生命(いのち)を、止めようとした。

「お祖父様……申し訳ありません……」

 私の過失です――そう、(ふる)える声で云いかけた時、ステファノスの眼光が今一度輝き、アルカイオスを射竦(いすく)めた。

「愚か者め!!」

 アルカイオスの全身がびくりと顫えた。

 血とも唾ともつかぬものが、アルカイオスの顔に飛び散っていた。

 いったいどこにそんな力が残っていたのか、激しい叱責の声だった。こんな祖父は初めてだった。

 ステファノスは息も絶え絶えに言葉を紡いだ。

「何を、しておる……なんという声を、あげる……あれでは……随身らが、動揺する……儂のことなど、構うな……汝の所為(せい)で、儂が死ぬなぞ……」

 ステファノスは、苦痛に顔を歪めながら哂笑(しんしょう)した。

「……(たわ)けた、ことは……申すでない……天命じゃ……我が、命運は……ここに尽きる、が……我らが、為すべきことは……尽きぬ……()けぃ!!」

 我らが為すべきこと――騎士たる身、貴族たる身には、言われるまでもなく解りきったことである。

 ステファノスに致命傷を与えたイゴールはすでに去った。追わなくてはならぬ。討たなくてはならぬ。

 イゴール退治は騎士の使命であることは元より、デルギリアの(ほま)れたるステファノスを斃したイゴールを逃したとあっては、領主たる父に、家の者たちに、領民たちに、顔向けできぬ。

 こんな血止めなど、している場合でもなければ無駄なことでもあった。祖父が助かるわけでもなし、己が過失が(ゆる)されるわけでもなし。

 なんと無様な真似をしているのか。

 そうこうしているうちに、()のイゴールに逃げ切られてしまうやも知れぬというのに。

 血が滲むほど唇を噛んだ。

 そうしなければ、激情に体が(ふる)え、涙が(あふ)れそうになる。

 泣く資格は、己には無い。

 アルカイオスは喉に引っ掛かっている嗚咽(おえつ)をぐっと呑み込み、祖父としっかり目を合わせた。

「お祖父様……」

 声に顫えはない。

「お祖父様は、我らデルギリア、ひいてはローゼンディアの誉れです。……永遠(とわ)に」

 そして止血の手を放した。再び血が流れ出した。

 ステファノスは穏やかに微笑み、静かに目を閉じた。

 それを確める間もなく、アルカイオスは立ち上がった。

 ――(かたき)を討つ!

 それが己が過失の償いになるなどとは、一毫(いちごう)たりとも思ってはいない。しかし、己が遣るべきことである。

 ()のイゴールの、雪上に残った足跡は東へ向かっている。まだそう遠くへ行ってはいまい。まだ間に合う。

 アルカイオスは馬を繋ぎ止めているところまで走りながら、及び腰の随身らを叱咤した。

(ひる)むな! ステファノス・セウェルスの(とむら)い合戦である! 負けることは赦さぬ! ――私は仇討ちに参る!」

「御意!」

 アルカイオスは葦毛(あしげ)の愛馬に(また)がり、イゴールの跡を追った。

 森が(ざわ)めいた。

 雪が降り始めた。

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