死地に咲く花

第二章 少女の見る夢

 水が滴る音がする。

 遠く……近く……遠く……近く……

 高く……低く……高く……低く……

 ぽたん……ぴちょん……ぽたん……ぴちょん……

 心地好い響きに耳(くすぐ)られながら、少女は夢と(うつつ)(あわい)微睡(まどろ)んでいた。

 歌う。

 踊る。

 蒼天と緑野の狭間で。

 (はて)しなき草原の草花に囲まれ。

 

  いずこより、花の香ぞする、吹く風の

  そよぐは千草(ちぐさ)、野辺に萌ゆ

  赤、白、黄色、とりどりに

  (あお)に映えたる花咲けり

  女神の御手なるこの大地

  崇めん、讃えん、おお、メーサ

  我らが母なる御女神(おんめがみ)

 

 不意に、正面から背後へ、草原の上を影が走り抜けた。

 振り返って仰ぎ見る。雲ひとつない青空を(わし)が飛んでいく。

 鷲を見送って視線を下げると、陽光を背にした騎馬の影がそこに在った。

 美しい影だった。

 地から生えるが如くどっしりと(たたず)み、それでいて鈍重さなど感じさせぬ精悍な馬の上に、均整のとれた(たくま)しい男の体躯がある。

 いや、「馬の上に男が」というのは、どうもしっくりこない。男と馬はそれでひとつの生き物のようであった。

 少女は男に話しかけようとした――その瞬間、ひんやりとしたものが頬を打った。

 ――雨?

 (いぶか)しんで、雲ひとつない空を見上げる。

 すると、空が落ちてきた。

 いや、浮いている感覚がある。己自身が動いている。空に吸い込まれる。

 怖くなって目を閉じ、再び開くと、机に突っ伏している己が在った。

 

 ぽたん……ぴちょん……ぽたん……ぴちょん……

 

 水の滴る音が明確に聞こえる。

 涯しない草原も、騎馬の影も、すべて夢だったのだと告げている。

 頬に落ちた滴を拭い、身を起こせば、そこに在るのは石造りの小さな部屋だった。最低限の生活必需品と書物しかない、殺風景な部屋だった。花の色も香りもない、(かび)臭い、無彩色の部屋だった。

 そこに装飾を加えてくれるのは、窓から見える空と山と森、窓から投げかけられる日月の光、そして、雨の日・冬の季節に馴染みの雨漏り・結露――その滴は、石壁に黒い涙を滂沱(ぼうだ)と描き、また、天井に張り(めぐ)らされた蜘蛛(くも)の糸に絡みついては、わずかな光にもきらきらと輝いて、小暗(おぐら)い部屋に星空を現出せしめるのだった。

 それが、少女の世界のすべてだった。

 特に不満はない。

 不満など持ちようがなかった。

 この世界しか知らない。

 書物にある外の世界、人伝(ひとづて)に聞く外の世界は、空に浮かぶ雲、あるいは夜空に輝く星の如きもので、見えこそすれ触れることのできぬものであった。

 この世界から出るなど思ってもみないことだし、そんなことが可能だとも思われなかった。

 ここが己の生きる場所であり、死ぬ場所であった。

 その場所に、今は赤い光が射し込んでいる。

 異様なほど美しい陽の光であった。ここでは滅多に見られるものではない。背後に山脈を控えている所為(せい)か、いつもどんよりと雲が立ち込めて、(くすぶ)ったような天気が多いのである。

 少女は立ち上がり、窓辺に寄った。

 少女の肩幅ほどの辺、腕の長さ二倍ほどの奧行きの窓――というにもおこがましい吹き抜けの四角い穴には、朱金の後光も(まば)ゆく、三体の雪像が(たたず)んでいる。

 一体は、鳥の翼を持つ両性具有の若者――ヴァリア教の主神ヴァリアである。

 一体は、王冠を被り、マントを附け、蛇が絡みついた杖を持つ貴婦人――ヴァリア教の大地母神メーサである。

 一体は、赤い木の実の眼を持つ雪兎――ヴァリア教とは関係ない。

 いずれも窓に積もった雪で作った。冬の楽しみである。

 少女は雪像を脇に退()けて、身を乗り出した。

 天も地も、何もかもが赤く染まっていた。四階から眼下に拡がる森の原は、さながら()の絨毯であった。白く冷たいはずの雪が、何やら暖かな気さえしてくる。

 しかし、そんな心とは裏腹に、体はぶるりと(ふる)えた。暖炉を見ると、火が消えかけている。目覚めた時点で気づいていたが、(まき)を取りに行くのが億劫(おっくう)で、先延ばしにしていたのだ。

 冬は極力部屋から出たくない。

 とはいえ、さすがにこのまま寝たら凍死してしまう。

 凍死など、ここでは珍しくもない。よほど注意していても、二、三年に一度は誰彼が死んでいる。

 己はよく生きているものだと思う。物心つく前からここに居て、もう十回以上の冬を越しただろうか。

 少女はカップに残っていた香草入り果実酒をぐっと飲み干した。これで少しは体が温まる。

 そうして覚悟を決めて扉を開けた。

 途端、(ごう)と寒風が逆捲(さかま)き、少女の金の垂髪(すいはつ)を乱した。顫えあがりながら、すぐさま扉を閉じた。

 足下には、闇の底に続いているかの如き螺旋階段がある。

 人ひとりがやっと通れるほど狭く、(てすり)なしでは危険なほど傾斜がきつい。というのに、そんなものはないどころか、ところどころ(ひび)割れ、崩れてさえもいた。その上、十段ごとに小さな採光窓はあっても足許を照らすまでには至らず、ほとんど闇の中を歩くようなものであった。

 しかし、少女にはなんの問題もない。

 幾千幾万幾度となく通っている道である。目を(つむ)ってさえ、後ろ向きでさえ、難なく歩ける。

 とはいえ、冬になると生起する問題があり、それはまた別問題であった。

 冬は、ただでさえ危険な階段が凍る。滑り止めに砂を()いてはいるが、それでも滑らないということはなく、冷や冷やさせられることも屡々(しばしば)であった。

 少女は何枚も重ね着している毛織の上衣(うわぎ)を掻き合わせ、身を縮こまらせつつ、

「さあさあ、通りますよ」

 と、声と足音を反響させながら下りていく。

 すると、そこここで、かさこそ、ずるぺたと、何かが(うごめ)く音がする。

 それらは少女にとって隣人ともいうべきモノたちであった。冬、それも、風凌(しの)ぎにしかならぬ粗末な塔とはいえ、闇の中で活動しているモノたちが居るのである。

 それらの脇を通って一階まで下りると、その空間の大半は薪によって埋め尽くされている。

 そこから両手で掴める分だけ取り上げる。

 あまり多く持って行くわけにはいかない。

 虫が湧く。

 薪の中に潜んでいる愛すべき隣人たち――()(のみ)(あり)象虫(ぞうむし)髪切虫(かみきりむし)……などといったモノが、暖かさに釣られて出てくるのだ。

 少女の部屋にはすでに居候(いそうろう)が居る。石畳に敷いている湿った(わら)を寝床にし、居候の分際で家主を食料とする不届きモノたちである。

 天井の主にして、ローゼンディア王国建国王の名を(さず)けられた蜘蛛(くも)ベルディッカス、寝台下の主にして、ローゼンディア王国勇者王の名を授けられた蜘蛛プルビアコスが、名附け主にして家主である少女の身辺警護に当たっているが、戦力的に観て、これ以上居候は増やさぬ方がよいと思われる。

 と、いつもの如く、凍えながら薪を取りに来なければならぬ面倒臭さを断ち切った後、夕食がまだであったことを思い出した。

 ついでに持って行こうと、御膳が置かれるいつもの小卓を見ると……何もない。

 ――忘れたのかしら?

 ないことではない。(まれ)にそんなこともある。

 今日から新年祭が始まっている。皆、祭りを楽しんでいるのだろう。

 少女は、湧き上がる感情のままに、呼び鈴紐に手を掛け、勢いよく限界まで引っ張った。しかし、(しば)しの逡巡(しゅんじゅん)の後、静かに戻した。鈴は鳴らない。

 そのまま(きびす)を返した。

 ――今日は、早く寝よう。

 先程居眠りしたばかりだが、寝台に横になればきっと眠れる。そして(あかつき)の女神アウラネが訪れて目が覚めたら、また一日中祈っていよう。

 教師たる神官は言う。

 

「ひたすら祈りなさい」

 

 その先に希望がある、と。

 もう祈ることしか残されていない。

 しかし、何を祈ればよいのか分らない。

 とまれ、祭りはまだ続く。

 昨日まで――昨年末の二十四日から大晦日(おおみそか)までは、太陽の復活祭であった。そして、今日から七日まで新年祭が行われる。この一連の祭りは、エネンゲーサと呼ばれている。

 祭りの間は、ひとり静かに祈りを(ささ)げて過ごすのがよい。祭りの騒擾(そうじょう)を遠くに聞きながらそうするのは、いつものことだった。

 少女の足が()()と止まった。

 ――何かがおかしい。

 何かが引っかかる。

 すぐさま一階に戻り、呼び鈴紐を引く。母屋(おもや)に通じる扉の向こうで、軽やかな鈴の音が響いた。しかし、それだけだった。待てど鳴らせど誰もやってくる気配がない。

 というか、

 ――静かすぎる。

 祭りだというのに歌声や人声などが聞こえない。扉に耳を押しつけても、何も聞こえてこない。

 こんなことは初めてである。

 太陽神(アクシオーン)の車が天を駆けているうちは、いつも誰かしらが活動している。そういう音が聞こえてくる。

 それが、今は、何も、聞こえない。

 

 どくん

 

 と、少女の胸が高鳴った。

 恐る恐る扉を開けてみる。薄暗がりに、真っ直ぐ延びた廊下が浮かび上がっている。突き当たりには母屋の扉がある。

 少女は母屋の扉まで静かに歩いていき、先程と同じように扉に耳を押しつけた。

「……」

 やはり、何も聞こえてこない。

 少女はごくりと唾を呑み込んだ。

 これはいったい、どういうことなのか?

 皆すでに床に就いてしまったのか。

 それとも……

 少女は向こう側を透かし視るように扉を視た。

 この扉の先にはほとんど足を踏み入れたことがない。別段禁じられているわけではないが、自重しているのだ。ここより先は己が居てよい場所ではない。

 しかし……

 少女は躊躇(ためら)いがちに扉枠と開閉部の境に目を当てた。そして、隙間から(のぞ)き見るべく、わずかに扉を開けた――途端、赤い光が少女の目を射し貫いた。闇に馴れた目には強すぎる光だった。

 暫くして光に馴れてくると、赤い光の中にふわふわと浮いている羽毛や綿毛の影が見えてきた。左右に目を動かすと、機織(はたおり)途中の四機の機械が長い影を落としているのが見える。

 人影は、ない。

 少女は扉を大きく開き、部屋の(なか)に踏み入った。少女の挙動につられて、羽毛や綿毛がくるくると舞う。

 (ほこり)糸屑(いとくず)を踏み締めて反対側の扉に辿(たど)り着くと、今度もまた先の如く、扉の向こうの様子を(うかが)った。左右に延びた暗い廊下には、やはり人影はなかった。

 しかし、いずれも予想通りのことである。祭りならば、皆広間に集まっているに違いないのだ。

 漂ってくる香ばしい匂いを辿(たど)るようにして、少女は音も無く広間に向かい、その扉に耳を押しつけた。

 

 ぱちり

 

 と、薪が()ぜるような音がした。

 途端、少女の胸は()()ね、体は扉から()退()いていた。

 少女はけたたましい己の胸の鼓動を聞きながら、扉をじっと見つめた。いや、驚きのあまり足が動かず、そうしているより外なかったのである。我ながら小心だと思う。

 扉が開かれる様子はなかった。ほっとして、再び扉に耳を押しつけた。先程と同じく、ぱちぱちと薪が爆ぜるような音がする。しかし、それ以外の音は聞こえない。

 わずかに扉を開いて、(なか)(のぞ)き見る。

 人影は……あった。

 広間は、窓から射し込む光と暖炉の火に赤く照らし出されていた。

 暖炉の前には香ばしい匂いの大元(おおもと)と思しき青銅の巨大な鍋があり、十四人掛けの卓上には饗宴の名残りがあった。

 十三人の男女が、ある者は卓上に突っ伏し、ある者は椅子に(もた)れ、またある者は(わら)敷きの石畳に転がっていた。

 皆、眠っているようだった。

 しかし、どこか異様な眠りだった。

 (いびき)をかく者も居なければ、身動(みじろ)ぎをする者も居なかった。かといって息がないわけではなかった。十三人の静かな静かな寝息が溶け合い混じり合い、あたかもこの場に初めから存在していた空気であるかの如く広間に満ちていた。

 少女はどこか別の世界に足を踏み入れているような気がしてきた。

 しかし、太陽神(アクシオーン)の車はいまだ天を駆けている。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が目覚めるにはまだ早い。

 とはいえ今この時、昼と夜――二つの世界が交差しようとしていることは確かだった。

 

 どくん

 

 と、少女の胸が高鳴った。

 物音を立てぬようにしながら扉の前から離れた。

 ──今なら、外に出られるかも知れない。

 考えた途端、肌が粟立つような興奮を覚えた。

 強烈な衝動が体を走り抜け、それに引き摺られるようにして少女は走り出した。

 突然に突きつけられた、大きな誘惑だった。

 

 今なら、外に出られるかも知れない。

 

 普段ならばそんなことは考えもしないだろう。いや、そもそもそれは考えてはいけないことなのだ。

 望むまい、考えるまい、そう自らに言い聞かせ、心の底に封じ込めてきた望みだった。

 外に出たいという想い──ただそれだけのものに、物心ついてから(のち)、少女は蓋をしてきた。

 厳重に鍵をかけ、そして、ただ、神に祈り続けた。

 毎日。毎日。毎日──。

 しかし、神の答えは常に沈黙を以て為されるだけだった。

 今もまた、神は何も語ってはくれはしなかったが、そんなことはもう、少女の頭をかすめもしない。

 少女は駆けた。

 高らかに足音を響かせて、暗い廊下を駆けた。

 その先に在るのが、この世なのか、あの世なのか、そんなことはどうでもよかった。

 言い知れぬ何かに()き動かされるままに、駆けていた。

 そして扉を開けば、血の如く赤い光と青黒い闇が、溶け合い(もつ)れ合い、あるいは(せめ)ぎ合いながら、氷雪細工の世界を蹂躪(じゅうりん)していた。

 美しいような恐ろしいような光景だった。

 少女はその中に身も心も呑み込まれ、息をすることも忘れて魅入(みい)っていた。

 そして、赤と黒の(あわい)に不思議なきらめきを見つけた。

 東の空には星々が(またた)き始めている。そのいずれかが粉々に砕け散ったのであろうか。星の破片(かけら)と思しきものが、粉雪の如く舞い降りている。

 じっと見つめていると、きらめきに合わせて歌が聞こえてきた。

 

  踊れ、踊れ、踊れや、踊れ

  きらりん、ひらりん、舞い踊れ

  凍れ、凍れ、世界よ、凍れ

  凍れる世界の美しさ

  白く、白く、世界を、白く

  真白き世界の美しさ

  踊れ、踊れ、踊れや、踊れ

  きらりん、ひらりん、舞い踊れ

 

「あれは『輝跡(きせき)』ですよ」

 氷雪の精霊たちが(こぼ)す足跡なんです――と、幼い頃、今は亡き老神官に教えてもらったことがある。なんとなしに思い出した。

 少女は刹那(せつな)躊躇(ためら)い、しかし意を決して、氷雪に(おお)われた大地に一歩踏み出した。

 さしたる感触も無く(すね)の中程までが雪に埋まり、凍れる針を無数に含んだ空気が全身を包んだ。剥き出しになっている肌がぴりぴりする。

 しかし、そんなことはまったく気にならなかった。氷雪の精霊たちの歌がこの身を守ってくれる――そんな気がしていた。

 少女は歩き始めた。

 歌に合わせて。

 踊るように。

 ()(さら)な大地に、小さな足跡をつけていく。

 外に出るのは何年ぶりだろう。

 少女は記憶の糸を手繰(たぐ)り寄せた。

 サイス、ルキティア、ガイアス、オクタリウス、イーダ、ヘルディス、ラグオン、ユニ、フィルネー、ドルコス、ダヌオーン……

 様々な顔が浮かんでは消えていく。

 入れ替わり立ち替わり()()にやってくる人々――それが、少女にとっての「時の流れ」であった。

 半分ほど手繰り寄せたところで少女は苦笑し、手繰り寄せた糸をぐちゃぐちゃに丸めて(ほう)り投げた。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 こんなことをして何の意味があるというのだろう。

 最後に外に出た日は、遥か昔であったかも知れぬし、つい昨日であったかも知れぬ。

 その日以来、少女は外に出ることをやめた。諦めた。

 誰かに抱き上げられて外に出ることが苦痛だった。()えられなくなった。

 少女を抱き上げている腕から体温と共に伝わってくるあの恐怖。

 少女はそれを忘れることができない。

 抱き上げられることなく外に出る方法がないわけではないが、そういう問題ではなかった。()()()のだ。

 しかし、今再び、少女は外に出た。

 予感があった。

 今日ならば、今ならば、ここではないどこかへ行けそうな気がしていた。

 少女は次第に歩を速め、(つい)には駆けた。

 木々の黒影(こくえい)とその狭間の赤光(しゃっこう)が、互い違いに競い合うように少女を染め上げる。

 輝跡(きせき)はすぐそこにあった。

 ――届く!

 と手を伸ばした瞬間、何かに(つまず)いた。息を呑んだ時には、()(さら)な雪の大地が目前にあった。ふわふわの雪だから、それほど痛くないかも――と暢気(のんき)に思いつつ、雪飛沫(ゆきしぶき)を上げながら顔面から突っ込んだ。受け身をとるなどという考えも身体能力もなかった。全身を強打していた。

 駆けたことによる激しい動悸と、痛みと痺れが()()ぜになった奇妙な感覚を押さえながら、少女は漸漸(ようよう)首だけを動かした。すると、視界の片隅、隅の隅に、きらめきを捕らえることができた。

 少女は手を伸ばそうとした。脱力しているような、硬張(こわば)っているような体を、なんとか動かそうとした。しかし、少女の意に反して体は動かず、きらめきは遠ざかっていく。

 そして、触れることも叶わぬまま、きらめきは跡形も無く消え去った。

 後には、雪に埋まった少女だけが残された。

 (しばら)くして少女の激しい動悸(どうき)が収まると、辺りは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。

 風の音も木々の(ざわ)めきもなければ、今日に限って、イゴールの雄叫(おたけ)びすら聞こえてこない。

 そして、氷雪の精霊たちの歌も。

 ――寒い。

 外はこんなに寒かったのか……と、少女は今更の如く思った。

 転倒による痛みと痺れが去ると共に、それに取って代わるが如く、寒気(かんき)がじわじわと少女の心と体を侵蝕していた。少女はされるがままに、ただ身を任せていた。抵抗しなかった。それだけの力がなかった。きらめきが消えると同時に、少女を動かしていた何かも消えていた。

 睡魔が少女の(まぶた)に優しく手を触れる。

 ――このまま目を閉じたら……

 

 夢を見られるだろうか。

 涯しない草原の夢を。

 目覚めることもなく、ずっと。

 

 そんなはずはないことは百も承知である。

 このまま目を閉じたら、死の御使いオルディヌスがやってきて、少女の魂を冥界(ユノー)へと連れ去るだろう。あるいは、悪霊に捕らえられ、地獄界(ヌーガ)へと連れ去られるやも知れぬ。オルディヌスが連れ去るのは善なる魂だけだ。

 しかし、そうと解ってはいても、夢想せずにはいられなかった。

 少女は睡魔の手を払い()け、寒さで感覚の無くなりつつある体を大儀(たいぎ)そうに起こし、雪上に(しる)された己の足跡を目で辿った。

 行き着いた先は巨大な城門塔である。

 かつて、それは城塞の一部を為していたものであったが、今や、城塞そのものは見る影も無く、またその用も為していなかった。五角形を形作っていた五点、その内の三点の塔はほぼ全壊、五点を繋いでいた分厚い胸壁もほぼ全壊、そして、その内に(まも)るべき建物もほぼ全壊していた。

 巨人の手により破壊されたが如き城塞であったが、城門塔を含む二つの塔のみがその難を逃れたわけではなかった。ほとんど建て直すようにして修復されたのである。しかし、それはあまりにも杜撰(ずさん)な修復であったと一見にして判る、粗末なものであった。暖炉の煙が立ち上っていなければ、こんなところに人が住んでいるとは誰も思うまい。

 そういった有様でありながらも、城塞たる面目をどうにか保とうとしているのか、城門塔の巨大な門扉だけはやけに立派であった。開けっ放しであろうと大して変わりもなかろうに、几帳面にも固く閉ざされている。

 城門塔の右手からは、一階分の高さしかない胸壁兼渡り廊下が延び、四階建ての細長い塔に続いている。その最上階が少女の部屋であった。

 少女は己の部屋を見上げた。暖炉の煙が細く立ち上っているのが見える。

 途端に、冷え込みがさらにきつくなったような気がした。

 外はあまりにも寒かった。

 寒いだけだった。

 萌える草花も、小鳥の(さえず)りも、ここにはない。生きとし生けるものが、あるいは眠り、あるいは死んでいる。目覚めているのは、ただひとり、少女だけである。

 少女はかじかんだ素手で雪を握り締めた。(こぶし)の内で、冷たいような熱いような塊が徐々に小さくなり、それと共に指の間から水滴が漏れ出ていく。暫くして手を開くと、握り締めていたはずのものは無くなっていた。

 少女は濡れた(てのひら)を見つめ、力無く声も無く(わら)った。

 ――こんな偽りの「大地」でしか駆けることができない。

 触れただけで消えてしまう、こんな「大地」でしか。

 大地母神(メーサ)が目覚めたら消えてしまう、こんな「大地」でしか。

 しかし、そんなことは解り切ったことだった。今更、何を期待したのだろう。所詮は、夢を見ることしか許されぬ身だというのに。

 ならば、やはり、己の居場所はあの部屋しかないのだろうか。

 少なくともあの部屋は、ここよりは暖かかった。微睡(まどろ)むことができた。涯しない草原を駆ける夢を見ることができた。

 少女は白い溜息をひとつ(こぼ)した。

 ――戻ろう。

 夢を見るために。

 少女は立ち上がり、体に附いた雪を払い落としながら、やってきた道を戻り始めた。

 が、一歩踏み出したところで、その足が止まった。

 ()()が雪の中から出ている。

 途端に、思い当たった。きっと、あれに(つまず)いて転んだのだ。

 いったいなんに蹉いたのかと近寄ってみると……

 手だった。

 革手袋をした左手である。

 ――行き倒れ……?

 珍しい……というか、なんとも理解しがたいことである。このような時期に、このような辺鄙(へんぴ)なところへ、訪れる者がいようとは。

 とはいえ、少女はこの行き倒れに、怖いもの見たさともいうべきものを感じていた。

 (かが)み込んで、雪の中から突き出ている手を観察する。大きい。己の手よりも遥かに大きい。恐らく、男の手である。

 少女は恐る恐るその親指を摘まみ、幾度か軽く引っ張ってみた。重い感触がある。手首から雪に埋れた先には、まだ続きがあるらしい。手だけが落ちているわけではないようである。

 少し力を入れて引っ張り上げてみると、ずるり、と、芋蔓(いもづる)の如く、衣服に包まれた腕が出てきた。芋を掘ったことなどないが、塔の上から農作業の様子を見ている限りでは、こんな感じだったと思う。

 しかし、芋ではなく人間であるらしいから、何やら墓を(あば)いてでもいるような気がしてきた。

 ……いや、「ような」ではなく、まったくその通りなのではないか? 少なくとも、死者の眠りを妨げようとしているのは確かであった。

 そう思い至ると、羞恥と畏怖が一度に噴き上がった。

 なんと不謹慎なことをしているのだろう!

「神よ、お(ゆる)しを!」

 すぐさま雪の中に埋め戻して、鎮魂の祈りを奉げなければ!

 と、慌てて腕を埋め直そうとしたその時――

 

 腕が、動いた。

 

 少女は息を止めた。

 気の所為(せい)ではないかと腕をじっと見つめる。何の反応もない。しかし、その沈黙と静止に相反して、少女の胸の鼓動は徐々に高く速くなっていく。

 まさか、生きているわけがない。

 今さっき行き倒れたのならまだしも、これはどう見てもそうではないだろう。周囲にあるべき足跡はすでに雪に埋もれているようだし、手が出ていなければ間違いなく見過ごしていたであろうほどに、本体は雪の大地にすっかり溶け込んでいる。これほどの雪が積もる間、これほどの酷寒に放置されていて、生きているとは思えない。

 これで生きているのなら……

 

 ――人間ではないのかも知れない。

 

 少女は唾を呑み込もうとした。しかし、口の中はからからに乾いていた。

 このような時、どうすればよいか?

 神話や伝承は教えている。

 即刻立ち去るべきである、と。

 この世に在らざるものには、安易に近寄るべきではないのだ。神異・怪異に惑わされ、引き寄せられて、何処(いずこ)とも知れぬ世界に連れ去られてしまった人間の話は、よくあるものだった。

 しかしそれは、少女にとって望むところであった。まさしく、それを求めて外に出たのではなかったか? 外の寒さを思い知るために出たわけではないはずだった。

 ともかく、確認してみよう。

 気の所為であるかも知れぬし、そうでないかも知れぬ。

 どちらであろうと畏れ多いことではあったが、今更何を畏れるというのだろう。

 神から見放された、この身であるというのに。

 少女は腕の位置から推し量り、頭があると思しき辺りの雪を掘り始めた。ふんわりと積もった雪を掘るのは容易(たやす)かった。すぐさま指先が明らかに雪とは違うモノに触れ、顔が現れた。

 どきりとした。

 ぎょろりと大きく見開かれた両目、だらりと(あご)まで伸びた黒い舌、驚いているような(とぼ)けているような、どこか滑稽さのある男の顔がこちらを見ていた。

 人間ではなかった。

 そのような顔が刻まれた石碑である。

 見覚えのある絵柄だった。なんだったろう? とても古いもののような気がした。

 ともかく、掘るところを間違えたことは確かなようである。

 少女は目星を附け直し、再び雪を掘り始めた。今度は(あやま)たず、生身の人間の顔が現れた。

 (いさ)ましく(かたく)なな顔付きの男が、眠っている。悪夢に(うな)されながら。――そんな風に見えた。

 存外に整った顔であった。すぐ横にある石碑の如き異相でもなければ、神神(こうごう)しさや禍禍(まがまが)しさを放っているわけでもない。しかし、人の上に立つ者の高貴さと力強さを備えている。

 赤い陽の光の所為か、あたかも生きているかの如く血色がよく、凍りついた髪は明るい(あかがね)色に見えた。本来は、金髪か銀髪かの、どちらかであろう。

 男の顔には、この近辺の人間であるらしい特徴があった。しかし、少女が見知っているそれとは――いや、「男」とは、少し違っていた。

 この男からは、瑞瑞(みずみず)しさと(あやう)さを感じる。

 つまりは、「若い」のだ。

 少女は「若い男」というものを見たことがなかった。()()には、若い男はいないし、やってきたこともない。()()に来る前には見たことがあったかも知れぬが、物心つく前のことで憶えていない。どのみち、これからも見ることはないのだろうと思っていた。

 しかし、そのようなことによる感慨を持つ間はなかった。男の(ひび)割れた唇から、うっすらと白い息が漏れたのである。気の所為などではなかった。目を凝らさねば判らぬほど弱弱しくはあったが、白い息は断続的に漏れ続けている。

「……も、もし?」

 恐る恐る話しかけ、恐る恐る頬を(はた)いてみた。しかし、何の反応も無い。

 考えるよりも先に、少女は男の全身を掘り出しにかかっていた。雪の下から露わになっていくのは、武装した戦士の肉体であった。それが少女に(ひらめ)きを与えた。

「イスターリス!」

 戦士の加護神といえば、戦神イスターリスである。

 思い出した。男の横にある石碑に刻まれているのは、イスターリスだった。今となってはほとんど見られなくなった絵柄だが、イスターリスを崇拝する古い儀礼の中では、このような絵柄が用いられることがあったという。

 ――この(ひと)には、イスターリスの加護がある。

 そうに違いない。それで納得がいく。

 この男は、イスターリスの加護を受けている()()なのだ。

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