死地に咲く花

第三章 邂逅

 いったい、どれほど駆けたのか。

 (かたき)のイゴールをただひたすら追い駆けた。

 復讎(ふくしゅう)と悔恨に埋め尽くされた心には、馬に対する気遣いも残っておらず、馬が泡を吹いて倒れるまで、拍車を掛け、鞭を(ふる)い、そして馬が潰れたことすら気づかずに、自らの足で駆け続けた。

 急がねばならなかった。ちらほらと浮游(ふゆう)していた雪は、いつの間にか猛吹雪に変わり、視界を白く閉ざしていた。このままでは仇の足跡すら見失ってしまう。

 どこをどう走っているかなど、まったく判らなかった。ただひたすら駆け続けた。

 そして気がつけば、闇の底へと落ちていく己が在った。いや、そんな感じがするだけで、実際には落ちているわけではないのかも知れぬ。

 とにかく、身体が重かった。動かなかった。もどかしかった。仇を追わねばならぬというのに。

 この状況に対する答えとして、否応(いやおう)もなく頭に浮かんでくるものがあった。しかし、そんなものはあり得ぬことだった。祖父の仇を討たぬまま死んでしまうなど、そんなことはあってはならぬ。

 全身に渾身の力を籠めようとした。しかし、力は()()なく流れ落ちていくばかりで、押し(とど)めることも(すく)い上げることもできぬ。それどころか、遂には意識までもが流れ落ち始め、復讎も悔恨も「死」という言葉すらも闇へと落ちていった。

 

 闇の(ふところ)で、どれほど揺蕩(たゆた)っていたのか。不意に、花のような甘い香りが鼻を突き、意識が呼び覚まされた。

 ――ニゼリカ?

 冥界(ユノー)に咲き誇るという花の名が、ふっと頭に浮かんだ。

 その意味を深く考える前に、何かが体に絡みついていることに気づいた。何だろう? あたたかくて、やわらかくて、なめらかで……と、考えていくうちに、目を閉じているから暗いのだと気づいた。

 目を開いた瞬間、跳び上がりそうになった。息が掛かりそうなほどの眼前に、眠れる乙女の顔があったのである。

 ほのかに光を放つ白い肌と金の髪が、薄闇の中にその美しい顔を浮かび上がらせていた。

 ここが冥界(ユノー)ならば、この少女は死の乙女(フィリス)に違いない。しかし、何故かそんな気がしなかった。

 この少女からは春の匂いがする。ニゼリカかと思っていた香りは、彼女から発せられているものらしい。

 ――人間(ひと)に非ざる者やも知れぬ。

 ふとそんな考えが頭を()ぎったが、それにしては眼前の相手はあまりにも無防備に過ぎた。疲れ果てて眠る子供の如き顔を見せているのである。

 しかし、取り敢えずの問題は、彼女の正体よりもこの状況の方であるやも知れぬ。その少女が、見ず知らずの男であるはずの己に抱きついていて、共にひとつの毛布に(くる)まって横になっているようなのである。

「……」

 頭の中は真っ白だった。

 何がどうしてこうなっているのか、どこに何が触れているのかなど、考えられないし、考えたくもなかった。

 少女から逃れようにも、少女に触れるのも話し掛けるのも躊躇(ためら)われ、それどころか、眼前にあるこの美しい顔に息を吹き掛けるのもまずい気がして、ただひたすら息を止めて硬直しているより外なかった。

 そうして息を止めているのも(つら)くなってきたその時、少女の(まぶた)がわずかに痙攣(けいれん)した。どきりとした。この目が開いたら、いったいどうなるのか? 不安と期待が(せめ)ぎ合いを始めた。しかし、そんなものなどお構いなしに、少女の目は花の(つぼみ)が開くように開いていった。

 そこに在ったのは、朝露を(たた)えた新緑の如き緑の瞳であった。

 アルカイオスは大きく目を見開いて、その瞳を見つめていた。いや、すっかり呑まれて金縛りになっていたというのが正しいのかも知れぬ。

 そうして見つめ合っていると、不意に少女が、

「気がつかれたのですね」

 という、清清(すがすが)しい空気に(りん)と響き渡る鈴の音の如き声を出して、にこりと笑った。春の柔らかな陽光を想わせる、満面の笑みであった。

「……っ!」

 アルカイオスは遂に(こら)えきれなくなった。

 寝起きとは思えぬ素速さで、絡みつく手足と毛布を引き千切(ちぎ)るようにして地面を転がった。勢い余った体が何かにぶつかって止まった時、体は丁度(ちょうど)一回転したところであったらしく、距離を置いて再び少女と顔を合わせることになった。

 アルカイオスは、少女によって温められていた体に、突如襲いかかってきた寒気に驚き凍えた。その一方で、激しい後悔と罪悪感に(さいな)まれた。少女の顔からあの光が完全に失せ、茫漠(ぼうばく)たる絶望がそれに取って替わっていたのである。反射的な行動であったとはいえ、何故少女の手から逃れるようなことをしたのか、己でも訳が判らなかった。

 しかし、そのことを考える間も、少女に辯解(べんかい)するなり謝罪するなりする間もなかった。頭上から何かが落ちてきそうな気配を感じたのである。

 アルカイオスは反射的に跳び起き、少女の上に(おお)(かぶ)さった。直後、乾いた木材がぶつかり合う響きと共に、頭に背中に鈍い衝撃が幾つも走った。

 (ほこり)と共に目の前に転がってきたそれを見ると、薪である。どうやら、薪を積んだ山にぶつかり、山を崩してしまったということらしい。

 アルカイオスは下になっている少女に目を向け、口を開いたが、

「だ……」

 いじょうぶですか? ――と続くはずの言葉は、咽喉(のど)の奥で消えた。

 少女がこちらを見ていたのである。(つぶ)らな目をわずかに見開き、透明感のある白い肌をほんのりと朱に染めて。

 ――勘辧(かんべん)して欲しい。

 と思った。

 そんな顔をされたら、こちらまで恥ずかしくなってしまうではないか。

 しかもこの体勢……その上、何故か己は腰巻ひとつの素裸(すっぱだか)で……

 ――いや、いかん!

 それ以上考えるのは、まずい、やばい。何も考えるな。まずは心を落ち着けろ。

 とはいえ、この美しい少女を目の前にして落ち着くのは至難であった。迂闊(うかつ)にも目を合わせてしまい、目を()らすこともできぬとあってはもうどうにもならぬ。

 そんなアルカイオスの心など知らぬげに、少女は口を開いた。

「ありがとうございます」

 それが、落ちてきた薪から(かば)ったことに対する礼であると呑み込むのに、暫しの間を要した。

「は、あ、いえ……私が原因でのことですし」

 我ながら、なんて声を出しているのだろうと思った。上擦(うわず)っているではないか。

「あの……お願いがあるのですが……」

 少女は依然として顔を(あから)めつつも、どこか不安そうに云った。

 ――お願い?

 アルカイオスは、少女に気づかれぬよう、秘かに唾を呑み込んだ。

 神話や伝承を思い起こしてみれば、人間(ひと)に非ざる者の「お願い」などというものは、(ろく)でもないものばかりであった気がする。

 だが、取り敢えずは、その内容を聴くだけでも聴く必要はあるようだった。少女が懇願するようにこちらを見ている。

「……なんでしょう?」

「失礼ですが……わたくしを運んでいただけないでしょうか?」

「は?」

「体が、動かないのです」

「それは……」

「いえ、今のではありません」

 少女はアルカイオスの云わんとするところをすぐさま察して、落ちてきた薪で怪我をしたわけではないのだと示した。

「申し訳ございませんが、今その理由を話している暇はありません。そろそろ人が来る時間なのです。――とにかく、わたくしの云う通りにしていただけませんか?」

 何やら緊急を要するらしい。ここは従った方がよいのかも知れぬ。

「御意。――ですが、その前に……」

 と、アルカイオスは少女から離れ、散らばっている薪を脇に退けながら、己が撒き散らした毛布を掻き集めた。どれもこれも、擦り切れ薄汚れた襤褸(ぼろ)である。少女の美しさに目を奪われていて気づかなかったが、少女の衣服も似たようなものであった。

「これをお貸し願えませんか? 軟弱なことと(ゆえ)恥ずかしながら、裸で居るには(いささ)か寒さが厳し過ぎるようです」

 少女は羞恥と申し訳なさが入り混じったような顔をした。

「……申し訳ありません。ここにはそのような粗末なものしかないのです。それでよろしければ、お使い下さい」

「あ、いえ……お気になさらないで下さい。有り難く使わせていただきます」

 掻き集めた毛布を腰に巻きつけ、肩に羽織り終わると、アルカイオスは少女の指示を仰いだ。

 少女はわずかに目を伏せて、躊躇(ためら)いがちに口を開いた。

「あの……わたくしを、抱き上げて下さい」

 ……だから、そういうことは顔を(あから)めながら云わないで欲しい――と、アルカイオスは切実に思った。(ざわ)めき乱れる心が忌忌(いまいま)しい。

「……では、失礼」

 少女の顔を極力見ないようにしながら、少女の背中と膝裏の辺りに手を差し入れ、そのまま抱き上げた。

 途端、

「あっ……ん……」

 少女から甘く悩ましげな声が漏れた。

 アルカイオスは危うく少女を落としそうになった。

「も、申し訳ありません! ……少し動くだけでも体が痛むのです」

 少女自身も妙な声を出してしまったと思ったのか、緑の瞳を潤ませ、朱の染料樽に顔を突っ込んだが如く赤面して、慌てて辯解(べんかい)した。

「……」

 ――拷問だ。

 と、アルカイオスは思った。

 ともすれば互いの白い息が混じり合う至近距離で、悩ましい声を聞かされ、可愛らしい赤面を見せられ、意識が遠退(とおの)くような甘い匂いを()がされるのは……

 ――これは、試練なんだろうか?

 武骨一辺倒で生きてきたアルカイオスの手には余り過ぎるものだった。イゴールと一対一で戦う方がまだましである。

 ともかく心中の動揺を必死に抑え込んで、そんな妙な声など聞いていない、気にしていないといった風を装いながら、

「それで、どちらへ参ればよろしいのでしょうか?」

「あちらへ」

 と、少女が目で示す方へ進んだ。

 少女とアルカイオスが横になっていたのは、天井高くまで山と積んだ薪の陰であった。そこから抜け出ると、その場所が石造りの小さな円形部屋であると判る。そこにはふたつの扉と上へ続く螺旋階段があったが、少女が示す通りに、アルカイオスは螺旋階段へ向かった。

「足元に気をつけて下さい。暗いですし、滑りますし、崩れているところもありますので」

「はい」

 淀みのある暗さに満ちた螺旋階段には、()てついた風が流れていた。毛布を(まと)っただけのアルカイオスには、あまりにも苛酷(かこく)な風である。がたがたと全身が(ふる)えた。しかし、今はそれが有り難い。少女から気を()らせる。

 辿り着いたのは四階、そこに在ったのは、(かび)(ほこり)の臭いのする奇妙な部屋であった。

 天井には蜘蛛の糸が張り巡らされ、壁には湿気が滂沱(ぼうだ)の跡の如く黒黒と染み込み、床には取り替え時をとうに過ぎた(わら)が敷かれている。しかし、採光窓からの微弱な光に浮かび上がるそれらは、何故か不潔な印象を与えなかった。むしろ、そのように在るのが自然なように思えた。

 そういった統一のとれた雑然とも云うべきものの内に、必要最低限の生活必需品と書物が整然と並ぶ殺風景な部屋ではあったが、不思議と生活感があった。それはあたかも、人知れぬ森の奥深く、打ち捨てられ忘れ去られた小屋に、何かが()みついている、といったようなものであった。

 火が消えかけている暖炉の前には、机の上に拡げられ、椅子の背に掛けられた、鎖革鎧(リオプ)や衣服があった。一目見て、己のものであるとアルカイオスには判った。雪に濡れたそれらを干してくれているのだろう。己が裸になっているのも納得がいった。

 アルカイオスは、凍りついた藁を踏みしだいて寝台に行き、少女をそっと降ろした。それでも痛みが走ったのか、一瞬、少女の柳眉がわずかに(ひそ)められた。しかし、すぐさま含羞(はにか)みに取って替わった。

「ありがとうございます。大変でしたでしょう?」

「いえ、そのようなことはありませぬ」

 少女は軽かった。己が見知っている女性たちと比べて、やや小柄で()せ過ぎているようではあったが、女性というものはこんなにも軽いものなのかと思った。かといって、羽根の如くふわふわしているわけでなく、しっかりとした重みがあり、柔らかく、温かいのである。

「火を(おこ)しましょう」

 少女の感触を思い出してしまい、照れ隠しを兼ねて暖炉へ向かった。

 火を熾し終え、干されている己の衣服に手を触れてみると、まだ湿っていた。このまま着込んだら、風邪を引くに違いない。今暫し、毛布を被っているより外ないようであった。

 となれば、後は少女から話を聴くばかりである。

 アルカイオスは少女に向き直り、威儀を正して(ひざまづ)いた。

「申し遅れましたが、私は……」

「待って!」

 少女の鋭い声に、アルカイオスは驚いて口を閉ざした。

 少女ははっとして、思わず出てしまった声を恥じるように、気不味(きまず)表情(かお)を浮かべて、しどろもどろに言葉を紡いだ。

「……あ、あの……申し訳ありません。……わたくし、名告(なの)ることのできぬ身なのです。ですから、どうか、お名告りにならないで下さい」

 それがあまりにも切実に見えたので、アルカイオスは少少困惑したが、人間(ひと)の世とは異なる(のり)があるのやも知れぬと思い直した。

「御意。――では、妖精の御方……いえ、ひょっとすると女神であられるのか」

 少女の目がわずかに見開かれた。

「女神?」

「恥ずかしながら定命の身たる私には、貴女(あなた)様がいずれの(ことわり)に身を置く御方であるのか、見定めることができませぬ。我が不明は元よりとして、非礼を重ねるのは甚だ申し訳なきことと存じまするが、どうか我が身をお連れになったこの地の名をお教え下さりませ。ここは何処(いずこ)でございましょう?」

「……」

 少女は幾度か目を(しばた)かせた(のち)(ようや)くアルカイオスの言を理解したように戸惑い顔になった。

「そのようなことはおっしゃらないで下さい。仮令(たとえ)世辞であっても、あまりにも畏れ多い言葉です。わたくしは不死なる女神ではありませんし、ここは冥界(ユノー)でも巨人界(セウタ)でも地獄界(ヌーガ)でもありません。わたくしは死すべき人間(ひと)の身で、ここは人間界(ノムス)なのです」

 恐らくは――と、少女は最後に附け加えた。

「それでは……」

 アルカイオスはごくりと唾を呑み込んだ。

「私はまだ、生きているのでしょうか?」

「はい。――わたくしが生きているのならば」

 アルカイオスは唖然とした。

 ――私が、生きている……?

 信じ難いことであった。あり得ぬことであった。

「あなたはここを、冥界(ユノー)だと思われたのでしょうか? それとも地獄界(ヌーガ)だと思われたのでしょうか? いずれにしろ、そう思われるのも無理からぬことです。あなたは雪の中に埋まっていらしたのです。わたくしがあなたを発見した時、失礼ながら、魂はすでに死の御使い(オルディヌス)に連れ去られた後なのだろうと思っておりました。しかし、あなたは生きていらした。恐らくは、戦神(イスターリス)の御加護がおありになったのでしょう」

「イスターリスが……?」

「あなたが倒れていらしたところに、往古(いにしえ)のイスターリスの石碑がありました」

「……」

 少女の言葉が滴となってアルカイオスの胸に落ち、澄明(ちょうめい)さと痺れを含んだ波紋を全身に拡げた。

 

 戦神イスターリスの加護が己にあった。

 

 それはなんの不思議もないことであった。アルカイオスは、イスターリスを遠祖とするセウェルス家の継嗣(けいし)イスターリスの末裔(イスタリヘーレイ)なのだから。

 しかし、この身を(めぐ)る血がイスターリスから連綿と続く流れの中にあり、まさしくその恩恵を受けているという事実を目の当たりにしたら、畏敬に打ち(ふる)えずにはいられなかった。

 アルカイオスは(こうべ)を垂れ、イスターリスへ感謝の祝辞を(ささ)げた。

 それから、思い出したように少女を見上げた。

「……では、倒れていた私をここまで運んできて下さったのは……貴女、なのですか?」

 少女はアルカイオスの真っ直ぐな眼差しから目を()らすようにわずかに目を伏せ、ほんのりと頬を染めて()()()と頷いた。

 途端、

「……っ!」

 少女の美しい顔が苦痛に歪んだ。

「失礼!」

 アルカイオスは、はっとして少女の手を離した。感動のあまり、思わず手を取り、握り締めていたのである。

 しかし、何かしらの違和感を感じて、再び少女の手にそっと触れようとした。

 少女はそれに気づいて、己の手を隠そうとしたが、痛みで(まま)ならぬらしく、

「触らないで!」

 と、鋭い声で制そうとした。

 アルカイオスはそれを無視して、少女の手を取った。

 少女の手は、見るも無惨な有様であった。

 薄く滑らかな皮膚は見る影もなく破れ裂け、その下にある赤い肉を見せていた。ゼレーア海で獲れる小さな貝殼の如き爪は、あるいは割れ、あるいは剥がれている。消毒するくらいの応急処置はしたのか、一度は汚れを落とした跡が見えるが、腫れ上がった赤い肉からは、新たに血と(うみ)が滲み出ているようであった。――両手とも、である。

「これはいったい……」

 と、口走ってから、なんて間抜けな物云いだろうとアルカイオスは自己嫌悪した。

 ――この手で私を運んだ……?

 いや、運んでこのような有様になってしまった、と考えるのが妥当なのかも知れぬ。

 考えてみれば……

 いかにも非力そうなこの少女が、どうやって己を運んだのか。

 という疑問がある。

 この、板金の如き筋肉を纏った体は、少女の倍――いや、それ以上の重さがあるだろう。その上、鎖革鎧(リオプ)まで着込んでいたのである。

「そろそろ人が来る」と云っていたから、ここには少女以外の人間が他にも居るようではあるが、その人間の手を借りたということは考えにくかった。その人間から逃れるように四階のこの部屋までやってきたのだし、少女のこの怪我を知っていて放置しておくとも思えぬ。

 己が倒れていたところからこの建物までは馬で()くとしても、建物の中にまでは馬は入って来れない。あの薪の陰まで、そのか細い身ひとつで、手をぼろぼろにしながら、この体を引き摺ったのだろうか。少女の体が動かないのは、過剰な運動をした後にやってくる、あの筋肉の痛みと(だる)さの所為なのかも知れぬ。

 アルカイオスは居たたまれない気持ちになった。

 藝術の女神ディオーメの手なる、非の打ち所の無い少女の体に瑕疵(きず)を附けたのは、己なのか……。

「……申し訳ございません。どう()びればよいのか……」

「お気になさらないで下さい。わたくしの身よりも、あなたの身の方が大切です」

「そんなことはないでしょう」

 さぞ、名のある家の出とお見受け致しますが? ――と、言い掛けて、アルカイオスはやめた。名告るわけにはゆかぬということだった。

 出自はともかく、少女が貴族であることは間違いないだろう。神とも見紛う美しさは、その身を流れる血に、神の血が混じっていることを明らかに示している。

 とはいえ、そのような(とうと)い血を持つ者が、見窄(みすぼ)らしい恰好をしているのは()せぬ。よもや、このような牢獄の如き塔に住んでいるとは思いたくないが、恐らくは住んでいるのだろう。少女はこの部屋にえらく馴染んでいる。

 なんとも奇妙ではあったが、名告れぬというのは、そのことと関係しているのかも知れぬ。

「この身はなんの役にも立たぬ身なのです」

 少女はぼそりと呟いた。

 その目は、アルカイオスを見ているようで見ていない。恐ろしいほどの透徹だけが在った。深緑の森を映す、湖面のような。

 ――まずい。

 と、アルカイオスは思った。

 何がまずいのやらよく判らぬが、この目を見続けているのは危険であると、本能が告げている。それなのに目が離せない。ますますもってまずい。

 ――やはり、人間(ひと)ではなく……もしや、死の乙女(フィリス)……?

 年若く美しい乙女、フィリスたちは、彼女らの主人にして、冥界(ユノー)の王たるネストスから、一年にひとり、人間(ひと)生命(いのち)を奪うことを許されている。

 彼女らに出逢ったら、必ずしも生命を奪われるわけではないが、若い男は特に注意する必要があるだろう。なんとなれば、フィリスは「乙女」だからである。

 もしその年に、不運にも最初の相手としてフィリスに出逢ったならば、確実に魂を奪われると思った方がよい。

 ローゼンディアの若者は、

人気(ひとけ)無き水辺には近寄るなかれ」

 と教えられる。

 フィリスに誘われやすい場所だからである。

 とはいえ、わざわざ近づく(やから)も居ることは居る。ある者は興味本位で、ある者は恋に破れて。中には、フィリスを求めて、この世すべての水辺を流離(さすら)わんとする男も居るという。

 まったく以て馬鹿馬鹿しい限りではあるが、アルカイオスは彼らを馬鹿にしようとは思わぬ。その気持ちが解らぬでもないからである。しかし、唾棄すべき行為であるとは思う。この世ならぬものに(うつつ)を抜かして己が使命を放棄するなど、ヴァリア教の教えに(そむ)いている。

 ともあれ、ここは水辺ではない。ならば、この少女は死の乙女(フィリス)ではないはずだ。恐らく。きっと。たぶん。

 そのように思い込もうとしていると、

 

 ぽた

 

 どきりとした。

 何か冷たいものが頬に当たった。

 知らず息を呑みつつ、恐る恐る頬に指を触れ、その指を見て見ると……

 

 ()が、附いていた。

 

「!」

 ……いや、何を動揺しているのだろう。たまたま落ちてきた、単なる滴だ。たまたま……

 

 ぽた、ぽた、ぽた……

 

 冷たいものが幾つか、頭に顔に(はじ)けた。

 真上を仰ぎ見ると、(きら)めく滴が雨の如く降ってくる。

「!!」

 アルカイオスは思わず目を(つぶ)った。

 

「申し訳ありません」

 

 その言葉と落ちてきた滴の冷たさで、現実に引き戻された――ような気がした。

 少女を見ると、先程の如き妖しい様子はない。あの世ではなくこの世をきちんと見ている。

「ここは雨漏りがひどいのです。部屋が暖まると特に……どうされました?」

 少女は、呆けた様子のアルカイオスに怪訝(けげん)な顔をした。

 アルカイオスははっとして我に返った。

「あ、いえ……なんでもありませぬ。――と、ともかく、お手をこのままにしておけば、大変なことになります(ゆえ)、何か薬……」

 があれば、このような状態であるわけがない。

 アルカイオスは立ち上がり、干している己の衣服を取り寄せて、その中からふたつの革袋を取り出した。

「暫し堪えて下さい」

 革袋のひとつに口をつけ、あおると、灼熱の液体が口中に拡がる。それを少女の手に吹きつけた。

「うっ……!!」

 少女の顔が歪む。

 アルカイオスはもうひとつの革袋から乾燥した薬草を取り出した。それを口に含んでよく噛み、吐き出して、少女の手に塗りつけた。

「医術の心得がおありなのですか?」

 少女は痛みを堪えつつ聞いた。

「いえ、そのような上等なものではありませぬ。戦場(いくさば)に立つ者として、必要に迫られる程度のものです。(もっと)も、治すよりも殺す方が得意ですし多いのですが」

「……」

「失礼。女性に話すようなことではないですね。――ひとまず、これでよいでしょう。このまま動かさないようにして下さい」

 と、アルカイオスは治療を終えた。

「ありがとうございます」

 少女は微笑んだ。

 その微笑みが、アルカイオスには痛い。

 (あと)が残るやも知れぬ。

 指先が変形するやも知れぬ。

 優美な手であったに違いないのに。

 アルカイオスは再び威儀を正した。

「改めて御礼申し上げます。私をお救い下され、誠に有り難く存じます。()きましては御礼の御印(おしるし)に、(はばか)(なが)ら、御身(おんみ)のご全快まで、お尽くし致したく存じます」

「……そのお気持ちだけ、ありがたく頂戴(ちょうだい)致します」

「いえ、そういうわけには参りませぬ」

「あなたはわたくしの手を治療して下さいました。それでもう充分です」

「治療というほどの治療ではございませぬ。賜わった御恩に比ぶれば、微微たるものでございます」

「その御礼は、イスターリスにこそ奉げられるべきものです。わたくしはただ、イスターリスのお導きに従っただけに過ぎません。……もしかしたら、あなたをこうしてお救い申し上げることが、神がわたくしにお与えになった使命だったのかも知れませんね。なんの役にも立たぬこの身は、()()()()()()()()()この世に生を()けたのかも知れません。そう考えれば、すべてに納得がいく気が致します。あなたをお救いできてよかった」

 と、少女は微笑んだ。

 アルカイオスにはそれがひどく哀しく見えた。

 ――私のためだけに、この美しい少女が生まれてきた……?

 ――こんな牢獄のような場所で、ただひたすら私を待ち続けていた……?

 腹の底から沸沸(ふつふつ)と怒りが湧き上がってくるのを、アルカイオスは感じた。

 ――そんな馬鹿なことがあってよいものか!

「あなたは重大な使命を背負っていらっしゃるに違いありませんわ。……どうか、わたくしのことはお捨て措き下さい。そうしなければ、()からぬ運命があなたに降り掛かるでしょう」

「……」

 アルカイオスは、強い意志が籠もった熱い眼差しで少女を見つめた。

「確かに、私には使命があります。しかし、だからといって、恩義ある貴女を捨て措いてよい道理はありませぬ」

 アルカイオスの眼差しがあまりにも強い所為か、少女は(おび)えるような顔をした。しかし、そんな少女にお構いなしに、アルカイオスは少女に迫った。

「貴女をここから連れ去ってでも御恩に報いる」

「わたくしをここから……?」

 アルカイオスの言葉に少女は目を見開き、暫し呆然とした。そして崩れるように、泣き笑うが如き表情(かお)となった。

「わたくしは、ここでしか生きられぬ身なのです」

 

 ――ここを、どこだとお思いですか?

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