――若の云う通りにするのではなかった。
本来、落ち着いた色合いの灰色の瞳である。そこに今、
上品で端正な顔立ちをした男である。妙齢の女心を
「父上の
という、守り役に対する
しかし、祭りを楽しむ間もなく、ステファノスの隠居所から領主館に急報が入った。
――大殿、戦死。
その上、若殿――アルカイオスは行方知れずだという。
騒然としつつも、すぐさまキュロスを長とする捜索隊が組まれ、隠居所へと発した。
それがもう三日前のことである。手掛かりは少なく、捜索は難航していた。
ステファノスに呼ばれた応援隊が到着した時には、すでにすべてが終わっていたという。アルカイオスの行方を知っていたであろう者たちはすでにこの世にはなく、唯一の手掛かりである、併走するが如きイゴールと馬の足跡は、風雪により中途で途絶えていた。恐らく若は、イゴールを追ってゆかれたのだろう――それくらいの推測しかできぬ状態であった。
「隊長、雪が……」
キュロスのすぐ横に居る騎士が言い掛けた。が、殺気が籠もった灰色の瞳で
雪は激しくなりつつあった。そろそろ引きあげねば、こちらの身も危うくなる。
キュロスは
「隊長! 何か来ます!」
降り
――イゴールか?
背筋がぞくりとした。歓喜で。
キュロスは怒りをぶつける場所を求めていた。この捜索中、イゴールに遭遇することは一度もなかった。苛立ちは募る一方でしかなかった。
「弓構え!」
昂奮を抑えつつ指揮の手を挙げる。
そして……
「待て! あれは……」
イゴールなどではない。人間、それも見知った人影である。スキーで滑り降りてくる。
「若――っ!!」
キュロスは馬に鞭を当てた。
アルカイオスは人が居ることにほっとしたのか、力が抜けたように崩れ、雪煙を上げながら転がってきた。キュロスは馬から降り、転がり落ちてくるアルカイオスに飛びついた。
「若! よくぞご無事で!」
「キュ、ロス、か……?」
泳いでいた目の焦点がキュロスに合う。安堵が浮かんでいるその顔に、アルカイオスはにやりと笑いかけた。
「女神に逢ったぞ」
*
「
ローゼンディアの国教であるヴァリア教、その教父たる総大主教ジポイテスは、
王都ガレノスより、王国最北東に位置するここデルギリアまで、十五日もの間馬車に揺られ、到着早早、その到着を待っていたとばかりに、休む間もなくステファノス・セウェルスの葬儀が始まった。七日に
嫌なことではない。デルギリアの現領主クラティス・セウェルスとは親友で、セウェルス家とは浅からぬ親交があるし、ヴァリア教の教えに則り、皆を正しく導くのは誇りある使命である。とはいえ、
今夜の宴席でも、総大主教様の有り難いお話を拝聴したいと、ジポイテスの周囲から人が絶えることは無く、息つく暇もなく話し込んでいた。それが
「おお、アルカイオス殿か。いかがされた? そのような暗い顔は葬儀の宴席には似合わぬぞ」
葬儀の宴席はできるだけ明るく盛り上げるのがしきたりである。その中で、故人の人柄や徳を讃え、大いに飲みかつ食らうのである。
「
有無を言わせぬ力を秘めた目が、ジポイテスを射抜くが如く見ていた。
――若いな。
内心苦笑した。しかし不快ではない。父親であるクラティスも、若い時分はこんな目をしていた。戦神の血が為すものなのかも知れぬ。なんといっても、セウェルス家は
「
その雰囲気とは裏腹に、内実、邪悪なところがあるのならば、これほど危険な男も居まい。しかし、総大主教ラザラス・ジポイテスは、その名に恥じぬ清廉潔白な人物であった。
ヴァリア教の教えを受ける誰もが、尊敬している。無論、アルカイオスとて例外ではない。それが故に、芽生えてしまった疑念はアルカイオスの心を
「何かね?」
「私は祖父の仇を討たぬまま、恥を
「ほう?」
「仇は
ジポイテスは感心するように頷いた。
「頼もしうなられたな。ステファノス殿も、後顧の憂い無く、あの世での修行に励まれることであろう。
「猊下自らご祈願戴けるとは、汗顔の至りにございます」
ジポイテスは破顔した。
「そう堅苦しいことは云わんでよい。――して、話はこれだけではあるまい?」
「はい。実は、仇討ちの拠点をザーレ要塞に置きたいと考えているのです」
広大な海原を想わせるジポイテスの目が、わずかに細められた。
「ザーレ要塞に?」
「ザーレ要塞は猊下の
「ザーレ要塞がどういう場所か、解っておるのかね?」
「多少は存じ上げております」
「父君から聞いたか?」
「はい。――しかし、人の
「どのような噂か?」
「
「……
ジポイテスは目を伏せた。いつもながらジポイテスの表情は読み難いが、この動作は溜息の如きものやも知れぬとアルカイオスは思った。
「また、ザーレ要塞が廃棄されたのはそれが理由なのではないか、と」
「ザーレ要塞が廃棄されたのは老朽化が原因と聞き及んでいる。そのことは、汝らデルギリアの子らの方がよく知っておろうに」
「ええ。……しかし、遥か昔のことです」
「ふむ。……で、汝は真実を知っておるのだな?」
「はい。
ジポイテスは含み笑いをした。
「奴らしいな」
「……しかし、解せませぬ。本当に、
ザーレ要塞は、王国内で「ヌーガに最も近き場所」とも云われている。本来「ヌーガ」とは、悪を為した魂が死後に連れて行かれるあの世――地獄界のことであるが、この世にもヌーガと呼ばれている場所がある。悪の種族が
フェルシナ内海は王国の北側に存在する大内海であり、王国東部域は、すっぽりとその内部に収められるほどの面積を有している。
雲居山脈の方は、東方から王国に向かって伸びてきている大山脈である。
デルギリアから見れば領土の東北部に、ぎりぎりで到達しているような位置にある。
つまり王国の東端、それも東北部に
にもかかわらず、この山脈が問題になるのは、悪の種族どもが内部に張りめぐらした
その雲居山脈を越えてやってくる悪の種族を迎え討つ最前線が、かつてのザーレ要塞であったのである。
そういうわけであるから、ここ数百年、大攻勢こそないとはいえ、予断のならぬ場所であった。
「声が大きい」
ジポイテスは目だけを動かして、素速く周囲を見回した。
アルカイオスははっとして口に手を当てた。知らず昂奮していたらしい。
「……申し訳ございません」
ジポイテスは声を潜めて話し始めた。
「汝は
アルカイオスは顔を
その忌わしさとは具体的にどういったものなのか、アルカイオスは知らぬ。かといって、聞くのも躊躇われるし、ジポイテスが語るとも思えなかった。
「即刻、
「っ!!」
アルカイオスは、ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
あの少女――己の生命の恩人である少女――最後まで名告ってくれはしなかったが、「リュフィーナ」という名を持つであろう少女の顔と声が、ふっと浮かんだ。
――この身はなんの役にも立たぬ身なのです。
その瞳はあまりにも空虚だった。
「しかし、陛下にとっては、今は亡き王妃の忘れ形見。その意見は激怒で
恐らくは、そこになんらかの取り引きがあったのであろうとアルカイオスは推察する。互いに友である前に、クラティスはデルギリアの民を保護する立場にあるし、ジポイテスは王国の繁栄を願う立場にある。
「……差し出たことを申しました」
「よい。私も姫の境遇には同情を禁じ得ぬ」
「……」
――同情?
アルカイオスは、あの少女の生活の有様を思い出していた。
ジポイテスは清貧を尊ぶことでも知られている。王女という高貴な身分であれ、豪奢な生活はさせぬであろう。現王妃の
しかし、あの少女の生活は「清貧」という言葉で
「私は姫の周囲に波風を立てたくないのだ。せめて心安らかに暮らしていただきたい」
――解るな?
と暗に示すように、ジポイテスはアルカイオスを見つめた。つまりは、アルカイオスの願いは却下されたわけである。
しかし、ここで退き下がるアルカイオスではない。
「
「……解せぬな。そもそもザーレ要塞は廃棄要塞、仇を捜索するほどの人員を置ける場所ではなかろう」
ザーレ要塞は、姫の幽閉のため必要最低限の修復はされてはいたが、悪の種族や
「いえ、その人員はヘルマディス要塞に置きます」
ヘルマディス要塞は、ザーレ要塞の廃棄に伴って新築された要塞である。
「ザーレ要塞には、現任と入れ替わって、私と私の兵が詰めるのです。ザーレ要塞とヘルマディス要塞は六メディオンほどしか離れておりませぬ。それこそ起き抜けの朝駆けにもならぬ距離故、伝令にさしたる問題はないでしょう」
六メディオンは、徒歩で一刻、駆け馬で半刻ほどの距離である。
「それにはどういう利点があるのかね?」
「ザーレ要塞危急の際、ヘルマディス要塞との連係が容易となるでしょう。毎日、実地を兼ねた伝令訓練を致します故」
「……父君はなんと
「猊下のご許可があればそれでよい、と」
「……」
ジポイテスは何かを考えるようにアルカイオスの顔を見つめ、やにわに口を開いた。
「姫の母君トリュファイナ様は、女神の如くお美しい御方であった」
「……?」
唐突な話題の切り換わりに、アルカイオスは
「私は乳呑み児の姫しか知らぬ。姫がどのようにご成長なさったのか知らぬ。トリュファイナ様に似ているのならば、さぞお美しかろう」
「……」
「今まで、姫にお仕えする者には若い男を選んだことがなかった」
ジポイテスは意味ありげにアルカイオスを見た。アルカイオスはどきりとした。しかし、何故どきりとせねばならぬのか解らなかった。
「恋愛は素晴らしいものだが、恐ろしいものでもある。愛の女神ペネルピアを見よ。彼女は英雄を殺し、怪物を生み、災厄を為した」
「……」
「私は信じておるぞ、クラティスの子よ」
最後に許可を与えると、ジポイテスは長衣の裾を翻して廊下の向こうへと消えた。