この日を待ち続けていたのかも知れない。
ある日突然、この身が男神のお目に留まり、神々の住まいます
長く辛い日々だった。
怨み続けた日々でもあった。
「すべてはあの
それが母の口癖のようなものだった。
今在るカトリナは、その言葉によって作り上げられたと云ってもよいかも知れぬ。
カトリナの母タニアは、リュトア領主ボグロスの愛人であった。カトリナを
ヴァリア教に於いて、「愛人」というものはなかなかに微妙なものがある。一夫一婦があるべき家族の形であるヴァリア教に
愛人を持つことは、不信心な貴族にはままあることではあった。しかし、名誉を重んじてこそ貴族である。表立ってできることではない。
そこで秘かに愛人と附き合うわけだが、厄介なのは妊娠であった。子が宿るかどうかはすべて神の
リュトア領主ボグロスも例に漏れず、愛人タニアとその子カトリナの処遇に頭を悩ましていた。養子に出すのが普通であるが、足元を見られぬようなこれといった当てはなく、実子としたら家中に騒乱が生じることは間違いなく、かといって殺して隠滅という危ない橋を渡る勇気は無かった。
故に、呪われた王女に仕える人員の供出を押しつけられた時は、迷惑顔をしながらも千載一遇の好機と腹の内で
そうと決まれば、もうあの
また平民がよいかも知れぬ。貴族女よりも面倒がないし、貴族に対する憧れ故か、従順でもある。その身に流れる血がどうあれ、どうせ、やることに変わりはない。若い女、抱き具合のよい女ならばなんでもよい。
子ができても王女のところに送ればよいので懸念は無い。これからは心置きなく愛慾に
まったく以てよい仕事を授かったものだと、ボグロスは神に感謝した。
そうしてタニア・カトリナ
長い旅路の末に辿り着いたその場所に、タニアは愕然とした。
城の遺跡。
……のように見えた。
木々を遠巻きにして、大小の石塊と
何なのかはよく分らないが、これがボグロスが云っていた「別荘」とは到底思えなかった。
何かの手違い? それとも……
タニアはそれ以上考えまいとした。
「お前の子は実子として迎えたいと思っておる。すでに家人の説得を試みておるのだが……一筋縄では行きそうにもなくてな。別れた妻の子がすでにおるし、その別れた妻が、子を介在していろいろ口出ししてきおってな。これがまた情の
と云って、暫しの別れを惜しむように、いつも以上に熱く激しくこの身を抱いてくれたのだ。
しかし、実際のところ、タニアとカトリナが捨てられたことは誰の目にも明らかだった。
ボグロスのせめてもの情けなのか、タニアは、王女の世話と要塞内のすべてを執り仕切る、要塞内で最も権力のある地位に就かされた。にも関わらず、タニアは周りの者たちが恐ろしくて堪らなかった。
――捨てられたんだねえ、
――捨てられるまでは、いい生活してたんだろ? あたしたちが想像もできないような。
――子供を産んで貴族様の仲間入りをしようなんて
――貴族様が、神の血が流れていない者を本気で愛すると思っているのかい?
――貴族様といくら
――貴族様の愛人だったのが何だって云うんだ? あんたは所詮、俺たちと同じ平民なんだよ。
こちらの
皆の視線が矢となって、
――あんたは捨てられたんだ。
と、タニアの心を、ボグロスとの愛の日々を、
しかし、すんでのところで完全崩壊を免れていたのは、我が子カトリナの存在故だった。
カトリナはタニアとボグロスの愛の結晶、見える、
「ボグロス様はとても困ってらしたのよ。厄介な仕事を押しつけられた、って。それで、あの美しいお顔を涙で濡らしながら、あたしに頼むの。頼めるのはお前しかいないんだ、って。愛しいボグロス様のお願いだもの、聴いてあげないわけにはいかなかったわ。そうしてあたしはここの仕事を任されたの。――そう、あの化け物さえ居なければ、あたしたちはボグロス様と
タニアはそのようにカトリナに語って聞かせ、何度も語るうちに、いつしかタニア自身もそれを信じるようになっていった。
すべてはあの化け物の所為。
あの化け物――王女が呪われてさえいなければ、毎日
それに、総大主教ジポイテスの差し金の目もあった。「王女の教師」として、二ヶ月に一度やってきては十日ほど滞在していくのである。
故に、あまり大きなことはできない。
「これくらいの
しかし、着服できるものなど微微たるものだった。
「きっと、あの腐れ坊主が着服しているに違いないわ」
総大主教ジポイテスが王女に関するすべてを執り仕切り、タニアはその指示に従って要塞内を執り仕切るだけだった。
「ほら、新しい服が来たわよ。着て御覧。よく似合っているわ、カトリナ。あんたがお父様似でよかった。それにしても、こんなところじゃ誰にも見せられないのが残念だわ。あの化け物の所為で。でも安心なさい。あんたが年頃になったら、お母さんがこんなところから出してあげるからね。あんたひとりだけなら、ここから出て行けるのよ。……お母さんも一緒に? そう云ってくれるのは嬉しいけれど、それはできないのよ。あの化け物の所為で」
そう云っていたタニアが病の床に
「遂に、あの化け物の呪いが、お母さんの体を
しかし、タニアは半年経っても床に臥したままだった。
それは風のない、雪の日だった。
厚い雲が、どんよりと空を覆うように広がっていた。音もなく、しんしんと雪が降り続けていた。
「なんか、ぶきみ。わたし、雪はきらいだわ。しずかすぎるんだもの」
開け放たれた窓から、ぼんやりとした陽光と、ひんやりとした空気がひたひたと入り込んでくる。しかし、部屋の中に満ちている闇や淀みを払拭することはできず、ただ部屋の中を冷たく掻き回すだけだった。
「……もういいでしょ、お母さん。これ以上まど開けてると、体によくないよ」
カトリナは窓を閉めるべく立ち上がり、タニアに背を向けた。
その時――
「……カトリナ、話があるの」
ひどく静かな声だった。
音も無く降る、雪よりもなお。
「カトリナ……こちらを向いて」
「いやっ!」
カトリナは、タニアに背を向けたまま首を振った。
「聞きたくないわ。お母さんの話なんて、わかってるもの。聞きあきてるもの。『すべてはあの化け物のせい』――そうでしょ?」
極力明るい声で、冗談めいた口調を出そうと努めたが、声の震えはどうにもならなかった。
「カトリナ……」
カトリナはきつく目を瞑った。
「あの化け物を……いえ、姫様を――」
――姫様を怨んでは駄目よ。
「……」
カトリナは我が耳を疑った。
お母さんは何をいってるのだろう?
姫さまをうらんでは、
お父さまに会えないのも……会ったこともないのも……お父さまといっしょにくらせないのも……友だちがいないのも……こんな何もないところにいるのも……せまくてきたない、こんなところでくらさなければならないのも……あのおそろしい力におびえなければならないのも……お母さんが病気になったのも……すべて……すべてあの化け物のせいなのに!?
もしや……
カトリナの体が
もしや、あの化け物の
切迫して、母を振り返った。母の顔を見て、胸を突かれた。
まだ三十歳のはずだった。元元美人というわけではなかったが、
こちらをじっと見つめる眼光も弱弱しかった。
しかしその目に狂気の色はなかった。
「カトリナ、お母さんはもう長くないわ」
カトリナは俯いた。
「……そんなこと、いわないでよ」
「お母さんは、あんたに幸せになってもらいたいの」
「ふたりでしあわせになろうよ」
「お母さんは、あんたが幸せならそれでいいの」
カトリナは、俯いたまま首を振った。
「そんなのわたしはいや。お母さんといっしょじゃないといや」
タニアの顔が
「前にもそんなこと云ってたわね。でも、それは無理なのよ。あの化け物の所為で」
「そうよ! あの化け物のせいよ!」
「でも、あんたはあの化け物を怨んでは駄目。忘れるのよ。すべて。お母さんのことも」
「なんでっ!? なんで、そんなこというの!? わたしにはお母さんしかいないのに!!」
そんなカトリナをタニアは愛しげに見、枯れ枝の如き手を伸ばして抱き寄せた。カトリナは母の痩せ細った体に、また涙した。
「あんたが幸せになるためよ、愛しいカトリナ。――いいこと? よく聴いて。春になったら、あんたはセウェルス家に行くの。あんたはそこで奉公するのよ。セウェルス家ってのはこの地の御領主様でね、そこにはあんたより少し年上の男の子がいるらしいの。未来の御領主様になられる若様よ。あんたは若様に近づいて、若様の心を射止めなくてはならないの」
「いとめる……?」
「気に入られて、仲良くなって、妻になるってことよ。あんたは若様の妻になるのよ。愛人は駄目よ。絶対に。お母さんは愛人にしかなれなかったけど、あんたなら妻になれるわ。お母さんが今まで、あんたを磨き上げて仕込んできたのだもの。あんたは貴族になるのよ」
「きぞく……?」
「神の末裔――神の血を持つ御方たちよ」
「わたし、そんなのになりたくない。お母さんといっしょにいたい」
「今のあんたを送り出すのは不安だけど、お母さん、あんたをここに置いたまま死にたくないのよ」
「そんなこといわないでよ! ……だいじょうぶよ。お母さん、病気ですこし気弱になってるだけよ」
「……」
「ねえ、お母さん、春になったら外に出てみましょうよ。中庭でもいいから。わたし、秋に花の種をまいたのよ」
結局、タニアがその花を見ることはなかった。
カトリナは泣き暮らしながら、セウェルス家からの迎えを待った。しかし、いくら待っても迎えがやってくることはなかった。今となっては、タニアもカトリナも知る由もなかったが、貯め込んだ着服物で、タニアがカトリナのセウェルス家への奉公入りを頼んでいた男が、タニアの死をよいことに約束を
母は死に、母の夢も破れ、そして己は母の仕事を引き継ぐことになった。
カトリナは絶望した。
すべてはあの化け物の所為だった。
――姫様を怨んでは駄目よ。
そんなの無理よ、お母さん。
この牢獄で、あの化け物を怨み続けて生きていく。
それが己が
「この度、ザーレ要塞守備の任に就いた、デルギリアのアルカイオス・
銀褐色の髪に青い瞳――
――お母さん、神はわたしたちを見捨てていませんでした。