夜、あまりの寒さに目覚めることがある。昼の暖かさに油断して、それなりの準備を怠ったためである。
デルギリア領は、東に向かって高度の高くなる、東部高原イオルテスの北東部に位置している。広大な国土を持つが故に、地域による気候差が激しいローゼンディア王国だが、中でもイオルテス地方は気候の厳しい部類に入った。
その厳しさとは、ひとつに、一日の内の寒暖差が激しいことが挙げられる。
ザーレ要塞近辺は、この半年、夏ですら裸でないと居られないという日はなかったが、領主館のあるギルテよりも冷え込みはきつかった。
とはいえ、もう半年も過ごしているというのに、未だにここの気候に馴れぬというのは、気が弛んでいる証拠であると、アルカイオスは自戒する。
仇討ちが一向に進展せぬのも、気の弛みが原因なのかも知れぬ――と云ったら、キュロスに嘆息された。
「弛んでおられるのではなく、
そんなつもりは無かったが、実際のところはそうだったのかも知れぬ。
早く仇を討ちたかった。
仇を討てば、何かが変わる、何かから解放される――そんな気がするのだ。
不純だな、と思う。
目的のはずの仇討ちが、手段になってしまっている。
こんな気持ちで仇討ちをしても、なんの意味もない。祖父も浮かばれない。
アルカイオスは手を開き、握り締めていた革手袋を見遣った。稚拙な染め物の如き、黒い染みに覆われている。ステファノスの血である。あの日、ステファノスの
この手袋を見ると、染み込んだ血の臭いを嗅ぐと、一瞬前のことのように、あの時のことがまざまざと想い出される。
祖父の死は、避けられないものだったのだろうか?
あの時、矢を落とさなければ、転ばなければ、投げた刀を外さなければ、もっとよく体が動けば、もっと冷静であれば、しっかりと武装していれば、もっと人を連れて行けば、狩りに出掛けなければ、キュロスを厄介払いしなければ、祖父に会いに行かなければ……!
こうしていれば、ああしていれば――そういったことは、いくらでも湧いてくる。
――天命。
と、祖父は云った。
「天命」で片づけるのなら、すべては楽だった。しかし、「天命」に屈するのは嫌だった。
後悔し続けなければならない。それが
それなのに、己はそれから逃れようとしている。仇を討てばそれで終わると思っている。仇討ちが成ったところで、祖父が
――軟弱なものだな、アルカイオス・セウェルスよ。それでも、
苦笑せずには居られない。
あの世で父祖に顔を合わせて、恥じるところの無い生き方ができているかといえば、断じて否である。
仇討ちのことだけではない。王女のことにしたってそうである。
――姫様のお気持ちはどうでもよろしいのですか?
そう云ったのは、誰であったか。
この半年、王女には一度も会っていない。会えるはずもなかった。会うべきではないのだから。
冬のあの三日間、あの少女はどんな気持ちで過ごしていたのだろう?
頬を赤く染めていたあの少女を、潤んだ目でこちらを見ていたあの少女を想い出し、アルカイオスは遣る瀬無い気持ちになった。
己は、あの少女の体を傷附けただけでなく、心までも傷附けていたのか……。
それなのに、何も報いることができぬ。
「腕をお上げ下さいませ」
突如、女の声が降ってきた。
我に返って声の方を見遣ると、すぐ傍に女が居た。金の髪をきっちりと頭の上に纏めた、召使い姿の女である。
――誰だ……?
この女は何者で、何故、己の部屋に居るのだろう? と考えている内に、
「失礼致します」
女は、アルカイオスの逞しい体を濡れ布巾で拭き始めた。
「……」
されるがままにして、アルカイオスはぼんやりと考えを
――姫の侍女頭、だったような……?
寝惚け頭が徐徐にはっきりしてくる。
そう、姫の侍女頭であるというのに、何故かいつの間にやら、朝夕、己の体を清めにやってくるのが日課になっていたのだった。
そういえば、最近、気がつくとこの女が傍に居ることが多いような気もする。
……。
……?
……まあ、どうでもよいが。
部屋の外から扉が叩かれた。
「キュロスです」
「入れ」
扉が開かれ、キュロスが入ってきた。
キュロスはアルカイオスの体を清めるカトリナを見留め、小さく頷いた。
「侍女頭殿もおいでか。丁度よい」
「何かあったのか?」
「ギルテより早馬です」
ギルテは、デルギリアの領主館があるところである。
アルカイオスはただならぬものを感じた。
「申せ」
「トゥライのナヴィド族に不穏な動きがあるようです」
トゥライは、ローゼンディア王国の東、広大なトゥライ高原に
「ナヴィド族といえば……確か、去年の今頃、強盗にやってきた奴らだな」
「ええ。我らが撃退しましたな」
「ああ。よく憶えている」
その時のことを想い出して、アルカイオスの身内は熱くなった。
強盗団は、族長の息子に
「人質を奪い返す算段やもな」
「ということで、注意を怠らぬように、とのことです」
アルカイオスは頷き、カトリナの手伝いで衣服を着始めた。
*
いつもの如く、仇討ちに出掛けるアルカイオスらを見送った後、カトリナは自室に戻った。
部屋に入ると、南国の甘く高貴な花の香りがかすかに鼻を
床に敷き詰められているのは、トゥライ製の風変わりな文様の絨毯である。ふかふかとして
壁を覆い尽くしているのは、薄白茶色を基調とした
その他、寝台、
この部屋にあるほとんどのものが、国王からリュフィーナ王女に送られたもので、タニア・カトリナ
小卓の上には、筆記道具と、総大主教ジポイテスの封印のある、樹皮の手紙が数通置かれている。カトリナは三ヶ月前に封を切った手紙を取り上げ、寝台に足を向けた。
が、そこはすでに占拠されていた。
精緻な花の刺繍が施された掛布団の真ん中で、黒猫が心地良さそうに丸くなって眠っている。艶やかで毛並みのよいこの猫は、アウラシール産のハピという短毛種で、貴族の愛玩用によく飼われているものである。これまた当然横領したもので、タニアが亡くなってからのカトリナにとって、唯一の慰めともなっている猫であった。
カトリナは仕方無しに寝台の端っこに腰掛け、ここ三ヶ月、何度も読み返している手紙を開いた。
流麗な筆致は、カトリナへ辞職を勧めていた。カトリナのようなよい人材を手放すのは惜しいが、カトリナがすでに年頃の娘になっていたことを失念していたと謝罪し、年頃になったら結婚して子を為し育てるのが人の道であると訓話を混じえて説き、よければ良い
初めてこの手紙を読んだ時は、
賊が襲ってきたらひとたまりもない廃棄要塞で、日々怯えながら危険性廃棄物の世話をしている者のことなど、一度たりともここに足を運んだことが無い、安全なところで安穏としている者が、何を気に掛けるというのだろう。何も問題が起こらなければよい――それだけだろうに。
王女の教師としてやってきている神官に、一度、そのようなことを真綿に
「口を慎みなさい。総大主教猊下は寛大な御方ですから、あなたの物言いをお赦しになるでしょうけれど、わたくしは赦しませんよ。猊下はお忙しい御方故、わたくしが代わりに参っているのです。猊下はいつだって、姫様のことを、姫様にお仕えしている方々のことを、気に掛けていらっしゃいます。姫様が呪われた運命から解放される日を、毎日ご祈願なさっておいでです」
と、総大主教の弟子であるとかいう
愚かな女だと思った。騙されているに決まっているのに。もしかしたら、総大主教の不倫相手なのかも知れぬ。だとしたら愉快だった。この女も母タニアと同じなのだ。
総大主教にとって、ザーレ要塞で育った、どこにも行く当てのない己は、都合のよい存在に違いなかった。こんなところに進んでやってこようなんて人間は、まず居ないのだから。
運良く王女の忌わしい力に触れることなく勤務を終えた者の勧めで、御褒美がよいからと勇んでやってきて、その日の内に運悪く王女の忌わしい力に触れてしまい、恐怖のあまり要塞を飛び出してイゴールに喰い殺された――なんて者も居たくらいである。騙すようにして連れてきても、いつだって人手不足なのだ。
己はあの化け物と運命を共にせざるを得ないのだと、母が死んだ後から、ずっと思い続けてきた。半年前に、セウェルス家の若様、アルカイオスが現れるまでは。
今更だった。なんで今更こんな話が出てくるのだろう。今更辞職を勧められるまでもなく、アルカイオスの妻になれば、こんなところから出て行けるというのに。
しかし、カトリナは、暫く考えさせて欲しいと総大主教に返信した。
――アルカイオス様の妻になれなかったら。
と、考えてしまったのだ。
そんなこと、あり得ない。考えたくもない。
しかし――
――アルカイオス様は、あの化け物に恋をしている。
嘘だと思いたかった。
あの化け物とアルカイオスには、なんの接点も無かったはずである。どうして、見たことも会ったこともない、それも化け物と恐れられている女に、母と己をこんな境遇に陥れた女なんかに、恋などできるだろうか。あり得ぬことである。
とはいえ、己の予感は確かに思えたし、それを前提にアルカイオスを観察してみれば、ぴたりと当て嵌まった。王女に対する待遇改善要求はともかくとして、必要以上に王女のことを聞きたがったり、暇さえあれば王女の居る離れの塔を見ていたり……。
それでも、これはきっと神が与え給うた試練に違いないと奮起して、アルカイオスを己に振り向かせるべく、あの手この手を尽くしてみれば、果たして
アルカイオスは己の夫となるべく、こんなところにやってきたのではなかったのか? それが運命なのではなかったのか?
とても高貴な、
しかし、必ずしもアルカイオスに
最悪なのは、拘わり続けた
いったい、どうしたらいいのだろう?
どうしたら、母の夢を叶えられ、己は幸せになれるのだろう?
そんな風に、この三ヶ月、カトリナの心は葛藤し続けていた。
不意に、肩に重さを感じた。柔らかな毛がさわさわと首筋に当たって、
ミューの体温が、温かさが、カトリナの体を通って心にまで滲み込み、母のぬくもりを想い出させた。
――ふたりでしあわせになろうよ。
と、死ぬ間際の母に云った。
今となっては叶わぬ夢。
……いや、母の幸せがこの己の幸せならば、それで、ふたりで幸せになることになるのではないか。
――あんたが幸せならそれでいいの。
と、母は云ったのだ。
己の幸せを求めることが、母の幸せに繋がるのだ。
ならば、己が心の欲するままに、
どうしたらいいのか?
ではなく、
どうしたいのか?
で、選ぶべきである。
カトリナは目を閉じて、心の声に耳を澄ましてみた。
そうして聞こえてきたのは……
――アルカイオス様を愛している。
どうして諦めることなどできよう。
どうして他の相手を捜す気になどなれよう。
まったく無防備に、己に体を清められているアルカイオスの姿など、あまりにも憎らしくて可愛らしくて堪らないというのに。思わず、その逞しく瑞瑞しい体に抱きついて、頬擦りしてしまいたくなる――そういった衝動を堪えるのが大変だというのに。
カトリナは
――アルカイオス様の妻になる。