カトリナはアルカイオスの体を清めながら、
あれから一週間。
夢から覚めた後に気づかれぬよう、そこに附けた口づけの
この体に抱かれたなど、夢だったように思える。いや、今となっては、夢だったのかも知れぬ。カトリナがアルカイオスに抱かれたことを知っている者は、たったひとり、カトリナ自身しか居ないのだ。
その記憶が現実のものであるかなど、己自身ですら確めようもない。アルカイオス自身に云ったところで信じやしないだろう。
――でも、もし……
もし、たったひとりでなかったら。
「
カトリナは仇討ちに出掛けるアルカイオスらを見送り、総大主教からの使いが待っている部屋へと向かった。
*
寂とした山中に、三十人の
「分散するな! 固まれ!」
アルカイオスの大声が走る。
茂みの中から、突如三頭のイゴールが襲ってきたのである。三頭はひと
「
矢が放たれた。が、イゴールらは、木々を盾にして難なく避ける。
自然の防備多い、林の中である。避けられるであろうことは承知の上、足留め、分散させることが目的であった。
しかし、未だ隊列の整わぬ討伐隊の射撃は
「逃がしてもよい! 深追いはするな!」
後方にあるアルカイオスから、次次と指示が飛ぶ。
――変わられた。
キュロスは前方へ注意を向けつつ、アルカイオスをちらりと窺い、この一年、幾度と無く思ったことを思った。以前のアルカイオスならば、我先に飛び出しているはずである。
アルカイオスは槍を
――まずいな。
死傷者を見てそう思った。現在、死者二人、重傷者八人である。
「討ち取ったり!」
続けて二頭討ち取った、その時――
「あちらより、新手のイゴールが二頭!!」
木々を避け、茂みを飛び越えて、二頭のイゴールがやってくる。兵たちに
アルカイオスから思わず舌打ちが漏れた。
――あの時と同じだ。
「若っ!」
槍に附いた血と肉片を払いつつ、キュロスが駆けつけてきた。
ふたりは目を交わし、互いの目に同じものを見て、頷き合った。
「お前は死傷者らと先に行け。私は
キュロスは異議を申し立てるように口を開きかけたが、
「聴かぬ! さっさと行け!」
アルカイオスの気迫に
アルカイオスは、無傷軽傷の兵十二人をひとつところに集めて、退きながら応戦する構えを取らせた。荷駄用の馬は三頭連れてきてはいたが、全員
「誘いに乗るな! しっかりと隊列を固めろ!」
最初に襲ってきた三頭の内の生き残りと、新手の二頭が合流し、一斉に襲いかかってきた。
――む?
新手の一頭に見覚えがある。
右眼左眼と比べて濁りのある第三の赤眼、三分の一ほど
――間違いない。
アルカイオスは確信した。
込み上がってきた怒りと歓びを声に乗せて、
「いざ、討たん! あれなるが、我らが豪傑ステファノス・セウェルスの仇!!」
という言葉を発しかけて呑み込んだ。今はそんな場合ではない。仇討ちよりも、兵を生かして帰すことが重要である。
その時丁度、
アルカイオスは嬉嬉として槍を
――よくぞ来た! 我が父祖の守り手、
迎撃に
――腑抜けが!
アルカイオスは一歩踏み出しかけた――が、すんでのところで思い
――くそ!
アルカイオスは
――何故、今なのか!?
一年である。
仇討ちを始めて一年、祭りの時以外、ほとんど毎日出撃して、一度たりとも仇と
――
そうこうしているうちに、一頭が討ち取られた。仇のイゴールではなかったが、それを見た仇のイゴールともう一頭は、
「イスターリスよ、感謝し
兵たちの間に歓声があがる。
それを聞きつつ、アルカイオスはひとり、仇の、黒い
――次こそ……次こそだ!
己に言い聞かせ、どうにか無念を呑み込むと、アルカイオスは兵たちを見回した。無事だったどの兵の顔にも、戦闘の昂奮に混じって、疲れの色が見えた。
「……よし、引き揚げるぞ」
呟くように告げた。兵たちの間に安堵が拡がった。
死者を運び、傷附いた者を助け、その上後方を警戒しながらも、ザーレ要塞への道をできる限り急いだ。また襲われては堪らぬ。
そうして
この道で要塞に帰還することは初めてではない。むしろ、数え切れぬほどである。
にも関わらず、アルカイオスは今回に限って違和感を感じた。
――なんだ……?
何かがおかしい――と思う間に、道の先から馬が駆けてきた。
「若――っ!!」
キュロスの声である。切迫している。
「一大事!! ザーレ要塞にトゥライ来襲!!」
*
怪我の功名というべきなのか。
退却するようなことにならなければ、トゥライの襲撃には気づかなかったろう。いつもならば、まだ山中を徘徊している頃合いであった。
アルカイオスが馬を駆ってやってくると、ザーレ要塞はその懐に、トゥライ人の侵入を許してしまっているところであった。低い胸壁を、トゥライ人が乗り越えている。
修復を施したといっても、そもそもが廃棄要塞なのである。周囲を囲む
イゴールならばこれでもまだよかろうが、亜人間のジャグルや巨人のゴロドなどの悪の種族、人間には通用しないだろう。しかも、それでたった六名の兵士で衛るなど、あまりにも無茶な話であった。
――襲われたらひとたまりもない。
ザーレ要塞にやってきた日、アルカイオスは一目見てそう思った。
この上さらに補修・改修したところでどうなるものでもなかった。どう手を加えても蘇りようのないほどに、要塞としての機能はすでに完璧に死んでいた。
――どこか安全な場所に姫をお移しするより外無い。
その旨、総大主教と父クラティスに申し出てみた。が、案の定却下された。
それでもなおアルカイオスは食い下がり、
そうして今
――もっと早くそうしていれば……!
悔やまれてならない。
五人の兵と、彼らから手当てを受けている七人の負傷兵が、キュロスに命ぜられた通り、茂みの中で待機していた。足りぬ二人は、ヘルマディス要塞に向かったという。応援の手配に加えて、毒を受けた者の治療もあった。解毒は迅速さが肝要である。
待機中の兵たちによると、トゥライの一団は十五人ほどであるという。対して、こちらで戦力となる者は七人である。
これで突っ込むのは少少心許無いが、応援のヘルマディス要塞の兵、後からやってくる
それに、なんといっても王女が心配である。
「戦える者は
とりあえず、胸壁の外で、内に入った者たちの足と思しき
アルカイオスらは、トゥライ人に気づかれぬよう、木々と茂みに隠れながら、トゥライ人まで百歩の距離に移動した。
「よく狙え。ひとりがひとり殺せば、一瞬で終わるぞ。――ウードラ殺しの大いなる神よ、我らに力を……」
狩猟神ダルフォースに祈りを
「願わくば、我らが狙い、外させ
その言葉で一斉に矢を放つ。
ひゅうんと空気を切り裂く軽い音の後に、どっと地に倒れ臥す重い音が続いた。初撃で戦闘不能になったのは、二人といったところであった。
伏兵に気づいたトゥライ人たちは、次次と飛来する矢の中で、トゥライ語で何やら
「エレーサ!!」
刀を振り
それが地に落ちる音を聞く前に、左で刃の
「ぬるいっ!」
槍を引き抜きながら吐き捨てる。
仇のイゴールと遭遇したために湧き起こり、
槍に附いた血肉を払いつつ、次の獲物を求めんと周囲を見回すと、すぐ傍に、敵を討ち斃したばかりで、少し
頭上に盾を
アルカイオスはその影の中心に槍を突き出した。が、槍は刀を持つ腕と脇の間にすっと入り、挟まれ、不意に蹴りが飛んできた。
――くらう!
と全身に緊張が走った瞬間、
「ぐっ!!」
視界が白く
顔面に、見事に入っていた。痛みと衝撃が意識を引き離しにかかる。
そのことにアルカイオスは妙な心地良さを
体勢を崩して馬上から転げ落ちたが、そのまま受け身を取って、
とにかく起き上がる。考えるよりも速く。立ち合いでは倒れることは死を意味する。痛みや口内の血溜まりを意識している余裕は無い。
案の定、立ち上がるよりも早く、己が頸を突かんとする槍先の
が、遠離ったのも束の間、死はまたすぐさま接近してきた。今度は刀である。がきりと盾で受けた。次の刹那、思い切り足を振り上げて相手を蹴りつけた。敵が呻いて後退する。その間に、アルカイオスは反対側に素速く転がって立ち上がった。
鼻血を拭う間も無く、口内の血を吐き捨てる間も無く、だらだらと鼻から口から血を溢れさせたまま、すぐさま抜刀し、構えをとって敵を観た。
一瞬、
美男子
であった。
――刀身のようだ。
と思った。
それも、古今随一の名匠の手による、妖刀である。
頭に巻かれた、緑地に白い三角柄入りの布から、黒く長い総髪が垂れ、顔にかかる前髪の間から、鋭い光を放つ黒い瞳が見え隠れしている。細身でありながらも強靭さが窺える肉体は、触れる者すべてを容赦無く傷附けるような、危険な気を
知らず、笑みが浮かびそうになった。
――待っていた。貴様のような敵を。
「でぇあっ!!」
口から血を撒き散らして、掛け声ひとつ、アルカイオスは喉を狙って突きを放った。男は身を
こちらはまだ落馬に至った衝撃から回復していないとはいえ、充分な
何合か打ち合ったところで、アルカイオスは身を退き、再び構えをとった。
目の前の相手が、ただ者ではないことを理解したのである。
――筋がよい。
そう思う。
思ったところで、己の
だが男の剣技が確かなものであることは、疑うべくもなかった。
野盗のものとは思われぬ。無論、普段手合わせしている家中の戦士たちのものとも違う。さりとて己が知るいずれの流儀にも当て嵌まらぬ。だがそこには確かな
異質な剣であった。
男の口元に、わずかな笑みが拡がった。
「貴族の剣だな」
多少
「俺は、ナヴィド族長ビザンが末子、ナガン」
――おお。
「私は、イスターリスが末裔、セウェルス氏族宗主クラティスが長子、アルカイオス」
ナガンの顔に驚きが浮かんだ。よもや己の相手がこの地方の支配者、領主一族の者だとは思っていなかったと観える。
アルカイオスは、ナガンの名を噛み締めるように、胸の内で幾度か反芻した。恐らく、あちらもそうしている。互いの名を知ることによって、ふたりの間の空気が、濃密になった気がした。
不意に、ナガンの目に暗い光が宿った。
「……そうか。貴様か。我が兄が世話になったと聞く。礼をせねばなるまい」
風が
それは呻りをあげながらアルカイオスの脇を抜けた。
その後を追って瞬時に身を翻すと、同じく身を翻したナガンの姿があった。血が流れ出しているその右腿に、アルカイオスは一瞬前に繰り出した己が攻撃の跡を見た。
「皮一枚、か……」
ナガンが驚きを隠し切れぬ声で呟いた。
その言葉を
――ほんの少しでもずれていたら……。
頸から勢いよく血を噴き出させている己を想像する。身体に
考えて、判断して、動いているわけではない。そんなことをしていたら間に合わない。千も万もの辛く厳しい鍛錬と、イスターリスへの揺るぎない信仰が、無意識に身体を動かしめて、己が身を救ったのである。
それにしても……
頸の皮一枚斬られたというのに、この昂揚感はいったいなんなのか?
身内を循る血の熱さ、荒荒しく脈打つ鼓動に、アルカイオスは心地良さを感じていた。
ナガンを見れば、その顔に不敵な笑みが浮かんでいる。きっと己もそんな顔をしているに違いない。
ふたりは抑え切れぬ笑みを交わし、再び刃を合わせんとした。
その時――
「ナガ――ンッ!!」
野太い、大音声である。
辺り一帯に響き渡ったその声は、敵味方いずれの動きも、一時的なものとはいえ封殺する力を持っていた。
アルカイオスもナガンも例に漏れず、踏み出しかけた足を止めていた。声の方を振り返ってみると、五百歩ほど先の胸壁の角から向こうの林の中へと、五つ六つのトゥライの騎馬が駆けていく。
その中の、周りの人間よりも頭二つ分ほど抜きん出た男が、自然とアルカイオスの目に飛び込んできた。トゥライやローゼンディアではあまり見かけぬ、西方に
それは
風に
――しまった!
戦闘で熱くなった身体が、瞬時に凍りつく。心地良かったはずの汗が、冷や汗にとって替わる。
戦闘に
「続きはまたな」
不意に、馬の
そちらを見遣ると、騎乗したナガンが馬を駆けさせたところであった。あの巨漢と王女が消えた方へと。
アルカイオスは舌打ちひとつ、その辺に
「追え――っ!! 姫が