死地に咲く花

第十三章 前夜

 アルカイオスが人質を伴ってギルテに帰還すると、すぐさまナヴィド族に使者が送られた。要求に応じる旨を伝えると、人質交換に関する具体的な指示が返ってきた。

 場所はザーレ要塞正面門前。

 期日は五日後。

 条件は兵を伴わぬこと。

 以上であった。

「ザーレ要塞正面門前……何やら不穏なものを感じますな」

 と、キュロスは渋い顔をした。伏兵を案じているのである。

 ザーレ要塞が襲撃された後、要塞は引き払われた。現在のザーレ要塞は無人のはずである。そこに潜まれたら……。

「そう案ずることもないと思うがな。我が領内であるし、近くにヘルマディス要塞があるし……むしろ信頼されていると考えた方がよいのではないか? 人質交換には、私が行くことも伝えてあるしな。それに、トゥライ人にとって、約定を違えることは万死に値するのだろう?」

 と、アルカイオスは、片親がトゥライ人であるキュロスに問うた。

「その通りです。骨を粉粉に砕かれます」

 死して後、骨を砕かれる――それは、トゥライ人だけでなくローゼンディア人にとっても恐ろしいことであった。特に、狩猟神ダルフォースを篤く信奉している人々にとっては。

「まあ、一応、ヘルマディス要塞に指示を出しておけ」

「御意」

 と、キュロスがアルカイオスの居室から下がろうとした時、家中の召使いがやってきた。

「若、カトリナ・ミアスと申す者が目通りを願っております」

「カトリナ・ミアス……?」

 アルカイオスは訝しんだ。どこかで聞いたことのあるような名である。

 思い出そうと努めた。しかし、王女のことが気に掛かり過ぎている所為か、なかなか思い出せぬ。

「……知らんな。今はそれどころではない。帰せ」

 と、面倒臭そうに手を振った。

 キュロスが慌てて口を挟んだ。

「若、侍女頭殿ですよ。姫の」

 アルカイオスは少し驚いたような顔をした。

「侍女頭殿は生きておったのか?」

 てっきり、ザーレ要塞に居た者たちは全滅したものだとばかり思っていた。

「唯一の生き残りです。ザーレ要塞引き払いにあたって、とりあえず、ギルテ(ここ)に連れてきておりました」

「そうか。では、通せ」

 程無くしてカトリナはやってきた。

 アルカイオスは目を(みは)った。一瞬、誰だか判らなかった。

 約一ヶ月ぶりにアルカイオスの前に姿を見せたカトリナは、いつもの侍女姿ではなかった。結い上げ引っ詰められていた金の髪は下ろされ、侍女の素っ気ないお仕着せは貴族の華やかな衣服に変わっている。

 まるで貴族の令嬢であった。

 いや、「まるで貴族の令嬢」とは実に失礼な感想であるな、と、アルカイオスは思い直した。カトリナは事あるごとに、「わたくし、こんなところにおりますけれど、貴族なんですよ。リュトア領主の娘なんですよ」と、云っていた。

 本来ならば、やはり貴族に対してはそれなりの扱い方をする必要がある。というよりも、そうした方が望ましいという社会的な雰囲気がある。

 アルカイオスにしてみれば、カトリナに対し、己に等しい身分の者として接する必要があるのである。

 しかしアルカイオスはそうはしなかった。あくまでカトリナを侍女頭として扱い、呼びかける時にも、その姓名を呼んだことは一度もない。

 これは身分よりも職分を優先させたからだと云えるが、本来ならば、そうすることが正しいのである。ヴァリア教の教えにも合致している。

 世の中には身分の別が、責任と誇りを示すものであるということを、理解せぬ輩が多い。だが上の者が下に威張り散らし、下の者が上を怨むようであれば、国など立ちゆかぬではないか。

 まず貴族たる己がそこのところを明確にしなければならぬ。そう考えての対応であったが、「侍女頭殿」と呼びかけると、カトリナがわずかにその表情を曇らせる事に気づくこともあった。

 貴族としての誇り故のことであろうか。このような僻地の要塞で、呪われた姫に仕えることを恥じているのやもしれなかったが、しかし恥じることなど何もないのである。職分を果たすことは褒められこそすれ、恥じる必要はないのだ。もしカトリナが恥じる必要があるとすれば、姫に対する態度、気持ちの持ち方であろう。

 そう考えて、今までアルカイオスはカトリナのことを、姓名で呼んだことはなかったのである。

 加えてアルカイオスは、これまで貴族同士の附き合いになど、(とん)と興味がなかったし、それにローゼンディアは広大である。リュトア領というのがどの地域に属するのかなど皆目見当がつかなかった。

 そのこともカトリナの名前と姿が一致しなかった原因であるが、やはり職名で呼ぶことが日常であったことが、何よりの理由であろう。

「お久しぶりです、アルカイオス様」

 カトリナは優雅に会釈した。

「ああ……侍女頭殿、息災で何よりであったな」

「今まで、アルカイオス様の母上様のお世話になっておりました」

「母上の?」

 アルカイオスはさらに驚いた。

「ええ。わたくし、行く当てがないものですから、母上様のご厚意に甘えさせていただきました」

「そうか。……貴女(あなた)には()びなくてはならぬな」

 アルカイオスは威儀を正して、カトリナに向き直り、

「申し訳なかった」

 と、頭を下げた。

「ア、アルカイオス様っ!?」

 カトリナは驚き慌てた。

 無理も無い。神々の末裔の中でも最も高貴と類されているひとりに、頭を下げられたのだから。

「お顔をお上げ下さいませ! わたくしなどに、そのような……!」

「私は己の責務を、ザーレ要塞守備の任務を、(まっと)うできなかった」

 仇討ちも兼ねていたとはいえ、それで代理を置いて留守にしていたとはいえ、守備に関する全権を委せられていたのは己である。

「……仕方の無いことでした。あの要塞ですもの。どうにもなりませんわ。むしろ、アルカイオス様がお気の毒です」

 カトリナは努めて明るく云おうとしているようだった。その心遣いが身に滲みた。

「そう云ってもらえると有り難い。――ともあれ、貴女が生きていてくれて、よかった」

 と、アルカイオスはカトリナに微笑みかけた。

 カトリナは少し驚いたような顔をして頬を赤く染め、青い瞳を潤ませた。今にも(まなじり)から涙が(こぼ)れそうになった。

 そんなカトリナを見て、アルカイオスは自責の念を強めた。

 ――さぞ恐ろしい想いをしたのであろう。

 足を運ぶ暇がなかったため、直接現場を見ていなかったが、話は聞いている。残虐なトゥライ人らしいといえばらしいが、女まで殺されていたというではないか。

「それで……」

 アルカイオスは云い難そうに切り出した。

「用件は何かな? 申し訳ないが、今忙しいものでな……」

「用件はまさしくそのことなんです」

 カトリナは懇願するような目でアルカイオスを見た。

「アルカイオス様、どうか、わたくしを人質交換のお役目に同行させていただけないでしょうか?」

 アルカイオスはまたまた驚いた。

「姫様のことが心配なのです」

 アルカイオスは首を振った。

「駄目だ。気持ちは解らんでもないが、危険なのでな」

「承知の上ですわ」

「いや……悪いが、有り体に云えば、何かあった時の足手纏いになるのだ」

「その際は、わたくしのことはお捨て措き下さい」

「そのようなことができるはずがなかろう」

 わずかに怒気を含んだ声である。弱き者、戦えぬ者を見捨てるなど、騎士のすることではなかった。

「では、近くまででも構いませんわ。わたくし、姫様が帰っていらした時に、お側にいたいのです。きっと姫様、恐ろしい想いをして帰っていらっしゃるに違いありませんもの。すぐにお慰めして差し上げなくては」

「ふむ……」

 一歩も退かないといった様子のカトリナを眺めながら、アルカイオスは考えるような顔つきをした。

「……そうだな。現場に連れて行くことはできぬが、近くまでならよかろう」

 ナヴィド族の要求通り、現場に兵は連れて行かぬが、人質の身の安全のために、つまりは護送のために、途中まで連れて行き、待機させておくつもりである。カトリナもそこで待たせておけばよい。

「ありがとうございます!」

 カトリナの顔に歓びが拡がった。

 

   *

 

「人質交換にはあの男が来るのか……」

 広広とした草原にぽつねんと在る一騎が、徐徐に小さくなっていく。デルギリアからやってきた使者を見送りながら、ナガンは呟いた。

「ザーレ要塞とは思い切ったな。危険過ぎやしないか?」

「だから、お前が行くんだろう?」

 出立の準備を整えたヴィシュタに云う。ヴィシュタ率いる一隊は、伏兵として先立ってザーレ要塞に向かうところであった。

「だが……」

「あの男は貴族だ」

 貴族とは、正義と名誉を重んじる者たちである。

「それに、これはあの男にとって、名誉挽回となるか、恥の上塗りとなるかのどちらかだ。妙なことはできまい。あの男に関してはさしたる心配は無い。むしろ……」

「……王女、か?」

 ヴィシュタが深刻な面持ちで云った。

 ナガンの顔に、その美しさを磨き上げるような凄惨さが浮かび上がる。

「あの女、とんでもないものを押しつけてくれやがった。殺し損ねたのが悔やみきれん」

 元よりカトリナは、王女は化け物であると言っていた。

 とはいえナガンは、「国王の寵愛深い王女」と「忌避される化け物王女」を(はかり)にかけて、「国王の寵愛深い王女」を()ったのである。

 ――先を急ぎすぎた。

 と、ナガンは悔やむ。

 本来、そういった二者択一などという賭けは、ナガンの好むところではない。生きるか死ぬかなど、馬鹿げていると思う。死んだらすべてが終わる。故に、選択するのではない。作るのだ。確実に生き残れる道を。

 しかし、敬愛する兄ゼノンが囚われて、もう一年以上経つのである。兄のことを想うと、気が急いてしまった。

 ――俺としたことが!

 アルカイオスらと出遇(でくわ)したのは不運であったとも云えるが、族人も八人(うしな)ってしまった。遺体はローゼンディア人によって手厚く葬られたようだが、それがせめてもの救いであった。虫のよい話ではあるが、これが逆の立場の己なら、骨を砕いている。

「王女を取り返したくないという連中も、当然居るに違いない。そいつらがどう動くか……。あの男の手腕に期待するより外無いな」

 ナガンは涯しなく高く青い空を見上げた。同じ空の下に居る者たちに、想いを馳せるように。

 

   *

 

 夕闇迫る空の下に、瓦礫(がれき)を積み重ねたが如き、ザーレ要塞の姿があった。一メディオンと少し――徒歩で四半刻もない距離である。

 アルカイオスら人質護送隊二十三人は、そこに腰を落ち着けて、夕餉(ゆうげ)を済ませたところであった。

 今夜はここで野宿である。明朝、兵はこのまま待機させて、アルカイオス他三人でザーレ要塞に人質を連れて行く。

 ――いよいよ明日か……。

 木々の合間から見えるザーレ要塞を眺めながら、アルカイオスは思う。

 ――姫はどうなさっておいでか。

 (さら)われてから、もう少しで一ヶ月経つ。

 大事な人質である。よもや粗略な扱いを受けているとは思い難いが……

 あの呪いがある。

 それに、異国である。

 言葉も、風習も、宗教も、何もかも違う。

 まして王女は、物心ついて後はザーレ要塞から出たことが無いのである。外の世界に触れたことが無いのである。

 戸惑うことも多かろう。心細い想いもしていよう。

 アルカイオスはリュフィーナの端正な顔を想い浮かべた。

 そして愕然とした。

 アルカイオスの記憶にある彼女の顔は、含羞(はにか)んでいるか、寂しげであるか、虚ろであるかのいずれかでしかなかった。そんな彼女しか知らぬのである。たったの三日間しか、顔を合わせたことが無いとはいえ。

 あの呪いがある限り、彼女の顔に心からの笑顔が浮かぶことはないのかも知れぬ。

 しかし、王は言った。

 ――儂はリュフィーナの呪いと戦う!

 と。

 あの王なら、その戦いに勝利できるのではないか? ――そんな気がしてならぬ。

 できることなら己もその戦いに参加したいものだ、と、アルカイオスは思った。

 しかし、己には己の戦いがある。祖父の仇討ちがある。

 だから、祈ろう。

 王の勝利を。

 彼女の顔に笑顔が浮かぶその日を。

 明日はその第一歩となる。

 明日になれば、彼女はローゼンディアに帰ってくる。そして、デルギリアではなくガレノスに、暗く寒寒しいザーレ要塞ではなく、温かな愛情満ちる王の館に、帰っていくのだ。

 ――わたくしは、ここでしか生きられぬ身なのです。

 虚ろな目でそう云っていた彼女が、遂に生まれ故郷に帰るのだ。

 実に(よろこ)ばしいことであった。

 しかし――

 それなのに――

 何やら寂しい気もする。

 不意に、あの夢を思い出した。

 夢にしてはやけに生生しい、しかし、(うつつ)にしては都合の良すぎる、あの出来事を。

 夢の中とはいえ、結婚すべき男女の間でしか許されぬことをした――敬虔(けいけん)なヴァリア教信徒であるアルカイオスはそう思う。

 彼女に対する同情心が、あんな夢を見させたのか?

 それとも……

「若っ!!」

 その声で我に返った。

 振り返ると、野営の天幕がいくつも密集している間から、キュロスが切迫した形相でやってくる。アルカイオスはただならぬものを感じて、身を緊縮(ひきし)めた。

 キュロスの口が重重しく開かれた。

 その時、夜の訪れを告げる、凍えるような冷たさを持った風が、音を立てて辺りを吹き抜けた。焚き火の炎は揺らめき、ぱちぱちと燃え盛り、草木はやたら耳障りにさわさわと(ざわ)めいた。

 そんな喧噪の中、ともすればキュロスの声は掻き消されてしまいそうだった。しかし、掻き消されたのは周りの音の方だった。

 

 ――人質が、死んだ……?

 

 それはいったいどういうことなのか?

 (にわか)には理解できなかった。

 

「人質が、死んだ」

 

 声に出してみる。

 しかし、えらく空虚に響いただけであった。

 アルカイオスは茫然としたまま、キュロスに促されて歩き出した。(くだん)の人質、ナヴィド族のゼノンを収容している天幕へと向かう。その周囲では十数人ほどの兵が群がっていたが、アルカイオスがやってくると、道を空けるようにさっと脇に退いた。

 天幕の中に入ると、人質の直接的な見張りと護衛を委せてあった三人の兵士に囲まれて、ゼノンが横たわっていた。

 その弟ナガンの如き、一度見たら忘れられぬような印象的な美しさを持っていたわけではなかったが、それでもゼノンは端正な顔つきをした男であった。それが今、見る影も無く醜く歪んでいた。血色よく滑らかであった肌は土気色に濁ってかさつき、赤黒く淀んだ目には生気に代わって無念が籠もり、未だ苦悶の叫びをあげ続けているような口からは、血と(よだれ)が生生しく(したた)っていた。

 苦しみ抜いて死に至った――そんな顔であった。

 そう、明らかに死んでいた。

 その体に触れてみても、それを確認するだけでしかなかった。

 

 ――人質が、死んだ……

 

 何故死んでしまったのかなど、どうでもよかった。いや、考えられなかった。

 人質が死んでしまったというその事実に、アルカイオスは打ちのめされた。

「申し訳ございません!」

 三人の兵士が、身の置き場も無いといった様子で、縮こまりながら謝罪する。

「先程まではどうということもなかったのですが、突然苦しみ出しまして……」

「我らには手の(ほどこ)しようもなく……」

 アルカイオスには、兵士たちの言葉が遠くに聞こえる。

 人質が死んだ。

 王女と交換する人質が死んでしまった。

 ならば、どうなる?

 明日は、どうなる?

 王女は、どうなる?

「若! しっかりなさいませ!」

 キュロスに叱咤され、体を揺さぶられた。

 気がつけば、燈火(ともしび)ひとつのほの暗い天幕の中には、己とキュロスとゼノンだけであった。

「キュロス……」

 力強く頼もしさのある目が、アルカイオスを見ている。

「情ない声をお出しになりますな。(ほう)けている場合ではありませぬぞ。若には、そう在ることは許されておらぬのです。この一隊の長たる若には!」

「ああ……」

 キュロスの云う通りである。

 己は、王から、人質交換における全権を(ゆだ)ねられている。

 その己が茫然としていたら、どうにもならぬ。

 しかし、そうは思えど、なかなか気持ちを切り換えることができなかった。

「死んでしまったものはもう仕方ありませぬ。次、どうするかを考えなくては」

「ああ……」

「これはどう見ても、毒を食らったとしか思えませぬ」

 ゼノンを見ながらキュロスは云う。

「毒殺、でしょうな」

「毒殺……」

「しかし、連れてきている兵は全員デルギリアの者、素姓のはっきりしている者たちです」

「……」

「若! 聴いておられるのですか?」

 見かねたように、キュロスは声を強めた。

 アルカイオスははっとした。

「ああ……明日どうするか、考えていた」

 出任せである。何も考えていなかった。

「明日、若はギルテにお帰り下さい」

 アルカイオスは訝しんだ。

「明日の人質交換には私が参ります」

「お前が……?」

 キュロスは頷き、アルカイオスの青い瞳を見つめた。

「私は明日――」

 

 ――死んで参ります。

 

 アルカイオスは唖然とした。

「なっ……ばっ……!」

 うまく言葉が出て来ない。

「今、兵らに(ひつぎ)を作らせております。遺体は丁重にナヴィド族に渡しましょう。逃げ出すなど以ての外、犯人を引き渡し、嘘偽り無く事情を話して、誠心誠意謝罪するより方法がありませぬ。そうであっても、人質交換の場に赴いた者は死を免れますまい」

 確かにそれしかない。

 しかし――

「それは、国王陛下から委された私の役目だ。ナヴィド族(あちら)にもそう伝えてある」

「若は次期領主。死なせるわけには参りませぬ」

「次期領主は私でなくともよかろう」

「殿には他にお子がおりませぬ」

「叔父上の子がおる。養子にすればよい」

「しかし……」

 なおも食い下がらんとするキュロスに、アルカイオスは声を荒げた。

「キュロス! 我が家に泥を塗るつもりか!?」

「……」

 キュロスは苦苦しい顔をし、アルカイオスから目を()らすように俯いた。

「当初、人質交換には、陛下御自身がいらっしゃるはずであった。それを譲っていただいたのだ。我らデルギリアの名誉のために。国王・王妃両陛下の御恩情でな。……それなのに、この失態。一度ならず二度も。この上、役目を授かった私が、中途でそれを放棄したらどうなるか? デルギリアは、セウェルス家は、ローゼンディアのみならずトゥライでもよい嗤いものとなろう……」

「わ、若……若御自身は……」

 今まで聞いたことも無い、キュロスの声であった。よく通る、耳に心地よい声が、今は妙に(かす)れている。俯くキュロスをよくよく見れば、その肩がわずかに(ふる)えていた。

 そんなキュロスを(いとお)しく想いながら、アルカイオスはふと思った。

 この男はいったいいつから、こうして己の側に在ったろう。

 木刀を振りながら駆け回り始めた時には、もう側に在った気がする。

 一回りほど年上のキュロスは、兄のような存在でもあった。いや、兄弟姉妹の居ない己にとって、まさしく兄そのものであったと云ってもよいかも知れぬ。

 この男は常に己の側に在った。

 何気ない日常の中でも。

 生死を賭けた戦いの中でも。

 共に、泣き、笑い、鬱陶しいと思ったことも数知れぬ。

 しかし――

 それも明日になれば……

「キュロス……」

「……」

「今まで苦労をかけたな……」

 アルカイオスはキュロスの肩に手を掛けた。

 その瞬間――

 キュロスは見事な体捌きでアルカイオスの横に回り込み、頸の後ろに手刀を見舞った。アルカイオスは何かを思う間も無く気を失った。

 キュロスは、力無く崩折れるアルカイオスを支えながら、その潤みを帯びた灰色の瞳に、決意の光を宿らせていた。

「若、泥は私が(かぶ)りましょう」

 

   *

 

 目が覚めた。

 枯葉色の天幕の天井が見えた。

 揺れる燈火(とうか)に、ゆらゆらと照らし出されている。

「申し訳ございません」

 キュロスの声がした。

 アルカイオスは声の方を振り向こうとした。

 が、体の様子が何かおかしい。自由に動かせぬ。両手両足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされていた。

「う――っ!」

 声をあげ、身動ぐと、キュロスの顔が視界に入ってきた。ひどく思い詰めた顔である。灰色の瞳に悲愴なものが浮かんでいる。

 アルカイオスは何やら不吉なものを感じた。

「うう――っ!!」

 やめろ!! ――と叫んだが、呻きにしかならぬ。

 アルカイオスは大きく目を見開いて、キュロスの灰色の瞳を凝視した。そこから何かを読み取ろうとした。しかし、何も解らなかった。いや、それが己が望まぬことであるということだけが解った。

 キュロスの口髭がわずかに動いた。

 

謀叛(むほん)を起こします」

 

 云うやいなや、キュロスは刀を抜き放って、ゼノンの胸に突き立てた。

「――っ!!」

 アルカイオスは声にならぬ叫びをあげた。

 ゼノンの胸から刀が引き抜かれる。すでに死んでいる所為か、吹き出るほどの血は出なかった。

「私は半分トゥライ人ですからね。人質を殺してトゥライに走った、それで充分です。後のことは王都の連中が考えてくれるでしょう」

 キュロスはアルカイオスに背を向け、天幕の出入口に垂れ下がる布で、刀に附いた血脂を拭った。

「兵二十人……なかなか厳しいものがありますな」

 アルカイオスは仰天した。

 ――兵を殺す気か!?

 許し難いことであった。

 兵を統率する者にとって、兵ひとりひとりは己が生命にも等しいものである。

「う――うう――う――っ!!」

(やめろ! キュロス! そんなことは許さん! 頼む! 頼むから、私にお前を見損なわせないでくれ――っ!!)

 アルカイオスは自由にならぬ体で身動(みじろ)ぎ、必死に叫んだ。

「ご安心下さい。謀叛人らしいところを見せなければなりませぬのでな。殺しはしませぬ。――まあ、それだけの余裕があれば、ですが」

「うう――っ!!」

「ナヴィド族も、もう傍まで来ていることでしょう。この騒ぎに気がつくかも知れませぬが、若の御指示通り、ヘルマディス要塞に指示を出してありますし、兵の中にはヘルマディス要塞に駆け込む者もございましょう。……まあ、この辺は運次第ですが、致し方ありますまい」

「うう――っ!!」

「私のことは怨んで下さって構いません。忘れて下さっても構いません。――ただ、最後にひとつ、申し上げさせて下さい」

 キュロスはアルカイオスに背を向けたまま、刀を握り直し、出入口の布に手を掛けた。

 

「キュロス・バルダスは、若のお側におれて幸せでございました」

 

 出入口の布が舞い上がった。

 天幕の内に、橙色の光が射し込む。

 焚き火の、燃え盛る炎が放つ光の中に、キュロスは一歩踏み出した。

 その時――

「敵襲――っ!! 賊が襲ってきた――っ!!」

 

   *

 

 熱かった。

 身も、心も、周囲も。

 夜の闇に叛逆の咆哮(ほうこう)をあげるが如く、天幕が次次と燃え上がり、辺りは明明(あかあか)と照らし出され、熱されていた。

 揺れる炎と深い夜闇の狭間で、剣戟と叫声と血飛沫が飛び交う。

 人馬・敵味方入り乱れる、混戦であった。

 カトリナを護りつつ、次から次へと襲い来る敵と戦わねばならぬアルカイオスには、敵の数は判然としない。周りを見回している余裕など無い。多勢であるとしか判らぬ。ただ、血と汗にまみれて戦い続けるばかりである。

 キュロスの謀叛を制するように、敵はやって来た。謀叛どころではなくなって、キュロスはすぐさまアルカイオスの(いまし)めを解いた。

 敵はいかにも山賊の風体であった。しかし、手を合わせてみれば、その中身はそうでないことが容易に判った。

 ――刺客。

 そうに違いない。

 人質を殺しにやって来たのだ。

 いや、人質と護衛隊を、だ。

 人質を毒殺したのがこの刺客の仲間かどうかは判らぬが、この刺客を放った者は、山賊に襲われるという不慮の事故で、人質が死んだということにしたいようである。

 ――いったい、誰が……?

 いや、そんなことはどうでもよい。

 今は、とにかく生き残らねばならぬ。

 襲い来る刃を刃で受け止める。途端、甲高い音がして、アルカイオスの刀が真っ二つに折れた。無理も無い。もう何人斬ったか判らぬが、刀は大分疲弊しているはずだった。

 受け損ねた刃は軌道を逸れたものの、アルカイオスの左の二の腕をざっくりと斬り裂いていった。

「ひっ!!」

 アルカイオスの代わりに悲鳴をあげる者が、背後に居た。カトリナである。

「侍女頭殿っ! 頼むから目を閉じてくれるな! 辛いかも知れぬが、ここは戦場だ。目を閉じたら死ぬぞ!」

 屍体から奪った槍で敵の喉を突きながら、何度云ったか知れぬ言葉を再度云う。返ってくるのは、案の定頼りない声であった。

 人を庇護(かば)いながら戦うというのは、想像以上に大変なものだとアルカイオスは痛感していた。つい先頃まで、先陣を切って敵中に突っ込んでいくのがアルカイオスの戦い方であったのである。後方を気にせねばならぬような戦い方をしたことがなかった。

 従騎士の如く、周りに目端を利かせ、武器を補充してくれるなどということはまったく期待してはいないものの、カトリナは、どうしようもないほどにアルカイオスの足を引っ張ってくれる。アルカイオスが絶えず指示を飛ばさねば動けず、戦いの一挙一動に小さく悲鳴をあげ、ともすればアルカイオスにしがみつこうとするのである。戦場を知らぬのだから仕方の無いことではあるが、そうと解っていても苛立たしさを抑えきれぬ。

 しかし、なんであれ自業自得であった。カトリナに同行を許したのは己自身なのである。

 ――油断していたのかも知れぬ。

 人質を毒殺されたことも然りである。

 そうしてキュロスに、死の決意のみならず謀叛の決意までさせてしまった。

 ――くそ!

 己自身に対する苛立たしさが、大きく燃え上がる。すぐ傍で、天幕を焼き尽くしている炎の如く。

「あぁ――っ!!」

 (つんざ)くような咆哮をあげて、アルカイオスは槍を(ふる)った。

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