――もう、駄目だ。
夜空に輝く星々を眺めながら、アルカイオスは思った。
血と汗、焼け焦げた草と肉の臭いを含んだ夜風が、大地に倒れたアルカイオスの体を優しく
――もう、動けぬ。
今襲われたら、確実に死ぬだろう。
疲弊しきっていて、体のどこがどう傷附いているかも判らぬ。いくつか
記憶も途中から飛んでいた。
灼熱の
周囲はすでに、夜の静けさと、星明かりのささやかな明るさを取り戻していた。
――侍女頭殿はどうなった……?
ふと思った。
残っている記憶の中では生きていたが、消し飛んでしまった記憶の方では判らぬ。
正直、護り切れた自信が無い。
己は、彼女を放り出して、敵に突っ込んでいったのではないか?
そう思う。その可能性が強い。
アルカイオスは、溜息と共に目を閉じた。自己嫌悪が、アルカイオスの身を浸し始める。
不意に、草を踏み締める足音が聞こえてきた。
どくん
と、アルカイオスの心臓が飛び跳ねた。
――敵……?
敵だったら……
見つけられたら……
――確実に死ぬ。
冷たい汗が滴り落ちる。
あろうことか、足音はこちらの方に向かってきている。近づいてくるに従い、アルカイオスの胸の鼓動が高く速くなっていく。呼吸が否応も無く激しく乱れ始める。
――どうする!?
アルカイオスは体を硬くさせた。
父祖イスターリスには、死者に紛れて危機を脱する神話がある。
故に、その末裔である己にとって、死んだ振りは決して恥ではない。
――屍体に紛れることができれば……。
だが、この相手が敵であるならば、必ず確認をするだろう。何者の命を受けたのかは分らぬが、最初から人質殺害を目的としてきた連中である。一人の生き残りも見逃すとは思えなかった。
呼吸の乱れを抑えることができぬ。
恐怖故に。
――情ない。
敵の直中に突っ込んでいく時の勇気はどうした?
……いや、違う。
あの時この体は自由に動いたが、今は違う。思い通りにならぬ。抗う術が無い。
そう思い至ると、呼吸はさらに乱れた。
こんな死に方は御免だった。
――神よ! 我が父祖イスターリスよ!
祈りを
「……大丈夫、ですか?」
おずおずとした声が降ってきた。聞き覚えのある女の声である。
アルカイオスは恐る恐る目を開いた。
夜闇に、返り血に汚れた、金の髪と白い肌が浮き上がっていた。青い目が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「侍女頭殿……」
アルカイオスは脱力した。心底安堵し、大きく息を吐いた。
途端、激しい痛みが襲ってきた。体を硬くして、歯を食いしばって呻いた。
「アルカイオス様!」
「大丈夫……大丈夫だ。気にすることはない」
今の痛みからして、とても大丈夫とは思えなかったが、カトリナを不安がらせてはいけない。
ここは戦場であるし、まだ敵が残っているかも知れぬのだ。混乱を起こされては、救けられるものも救けられなくなる。
「でも……」
「侍女頭殿が不安がる必要はない。私は慣れておる故」
苦痛を隠して微笑みかけると、カトリナも少しは安堵したのか、微笑み返してきた。
「『侍女頭殿』ではありません。『カトリナ』です」
「カトリナ……」
促されるままにそう呟くと、カトリナは今にも泣き出しそうな顔で笑みを浮かべた。
「アルカイオス様……」
カトリナの顔が近づいてきた。
何かを考える前に、唇が重なっていた。
その唇の熱さに、アルカイオスは戸惑った。が、脱力しきっている心身には、何かを考える気力も、する気力も無かった。されるに委せ、その熱さだけをただ感じていた。不思議と、懐かしさを
「……ご無事でよかった」
目を潤ませ、頬をほのかに上気させつつ、カトリナは云う。
「カトリナも……」
「ええ、アルカイオス様の御蔭ですわ」
「私は……
「はい。ですから、こうしてお側におります」
カトリナは、アルカイオスの頬に押しつけていた濡れ布巾を動かし、アルカイオスの顔に附いた血や汗や泥を優しく拭い始めた。
「皆は……皆は、どうなった?」
「……」
カトリナの手が止まった。気不味げに、アルカイオスから目が逸らされる。
そんなカトリナの様子に、アルカイオスは驚きはしなかった。
――やはり。
諦めにも似た哀しさで、そう思っただけである。
いや、いろんなことが一度にありすぎて、よく理解できていないのかも知れぬ。
すべてに現実味が無かった。
「恐らく、敵も味方も……皆……」
「……そうか」
ふたりの間に、重苦しい沈黙が落ちる。
皆――ということは、キュロスも……恐らくは……。
アルカイオスは茫然とした。
――また、ひとり生き残ってしまった。
ひとり生き残って、どうせよというのか?
皆を弔うために、残されたとでもいうのか?
己は、祖父を、キュロスを、人質を、兵らを死なせてしまった。
そして、恐らくは、王女までも死なせることになってしまったのではないのか?
それなのに、この上なお、己は生きなければならぬというのか?
――
不意に、温かく滑らかな両手に、顔を押し包まれた。
「アルカイオス様……」
憂いを帯びたカトリナの顔が、間近に迫ってくる。
また唇を重ねられるのだろうかと思っていたら、今度は
「お泣きにならないで……」
アルカイオスははっとした。
己は泣いていたのだろうか。
――
「わたくしがおります。カトリナがおりますわ。あなた様のお側に」
優しい眼差しが、アルカイオスに注がれる。
――慰めてくれるのか……。
温かなものが、アルカイオスの胸に滲み込んでいく。
「ありがとう……」
「ギルテへ……ギルテへ一緒に帰りましょう」
「ギルテへ、帰る……」
そう呟いた途端、アルカイオスはそれに躊躇いを感じた。違和感を感じた。
――ギルテではない。
己が行かねばならぬ場所は。
己には果たさねばならぬことがあったのだ。
そうだ。ひとり生き残ったのは、そのために違いない。
「ギルテへは行かぬ」
アルカイオスは宣言した。
カトリナは、不思議そうに目を
「アルカイオス様……?」
「時間がないのだ。貴女をヘルマディス要塞へ届けたら、私はザーレ要塞へ行く」
「……」
カトリナは唖然とした。
「え……ザーレ要塞……? 何を……?」
「私は最後まで役目を
カトリナは訝しげな顔をした。アルカイオスが何を云っているのか、理解できておらぬ様子だった。
「役目は……役目はもう終わりましたわ。人質が死んでしまったのですもの。人質交換など、できないではありませんか」
「いや、交換場所へ行き、ナヴィド族に謝罪するまで、役目は終わらぬ」
カトリナは仰天した。
「そ、そんな……死にに行くようなものですわ!!」
「ああ……そうやもな。しかし、これより他に、誠意の見せ方が分らぬ」
「何故、アルカイオス様がそのようなことをしなくてはならないのですか? アルカイオス様は何もお悪くないではありませんか! だって、人質は賊に襲われて死んでしまったのですもの。どうしようもない事故でしたわ。それにこんな傷では、無茶というものですわ」
「人質は毒殺された。……いや、なんであれ、人質は殺されてしまったのだ。その責は問われる。人質を無事届けて交換するのが、私の責務であった故」
「今更……今更なんの意味があるというのです? 謝罪したところでどうなるというのです? 交換すべき人質が死んでしまったのですもの。どうしたって、姫様は戻ってきませんわ! 死ぬに決まってますわ!」
――姫が死ぬ。
そのことが、アルカイオスの胸に深く突き刺さる。
己は、あの不幸な少女を、不幸なまま死なせてしまうのか……。
胸中に苦苦しさが拡がる。
つい最前まで、明日は希望に満ちたものであったはずであった。それが今やどうだろう。希望は見る影もなく粉粉に砕け散った。
これもまた、運命なのか……。
――
「ザーレ要塞へ行っても、無駄死にするだけですわ! ここで死んでしまったら、お祖父様の仇討ちもできなくなってしまうのですよ?」
――お祖父様の仇討ち……。
なんということだろう。それすらも果たせずに終わってしまうのか。
「お祖父様にはあの世で詫びよう。必ずや解って下さる。いや、ここでザーレ要塞へ行かなければ、私はお祖父様に、勇者の館に
カトリナは激しく首を振った。
「駄目です! 嫌です! わたくし、アルカイオス様に死んで欲しくないのです! わたくし……わたくし、アルカイオス様を愛しているんです!!」
カトリナの目から、大粒の涙がぽろぽろと
己を愛してくれる人が居る――それはなんと歓ばしいことか。アルカイオスはカトリナを愛しく想い、優しく微笑んだ。
「ありがとう。とても嬉しい」
「ですから……ですから……」
「行かなくてはならぬ」
カトリナの言葉を遮って、アルカイオスはきっぱりと言った。力の籠もった目で、カトリナを見つめながら。
「……」
カトリナは滂沱と流れる涙もそのままに、唇を
「実は、お子が……アルカイオス様のお子が居るんです」
アルカイオスは訝しんだ。
――私の、子……?
「アルカイオス様のお子が、わたくしの
と、カトリナは己の下腹に手を当てながら云う。
アルカイオスは茫然となった。
――この女との間に私の子が……!?
憶えが無い。まったく。
「フィラデル祭、最終日の夜、
カトリナは頬をほんのり染めながら云う。
アルカイオスは大きく目を見開いた。
――フィラデル祭、最終日の夜!
相手は王女ではなかったのか!?
いや、あれは夢ではなかったのか!?
アルカイオスは狼狽した。
「憶えが無い――そうおっしゃいますか?」
「いや……」
言葉が出て来ぬ。
「そうかも知れませんわね。ひどく飲んでらしたから。でも、生まれてみれば判りますわ。この子はきっと、アルカイオス様のような、青い瞳と銀褐色の髪を持っているでしょうから」
「……」
「だから、わたくしたち、ギルテに帰らなくてはならないのです。この子のために」
「……」
ただただ茫然とするアルカイオスに、カトリナは哀しげに柳眉を顰めた。
「まさか……まさか、アルカイオス様は、わたくしたちをお捨てになるなんてことはございませんわよね? ――わたくしの父のように」
「え……?」
「わたくしの父、リュトア領主ボグロスは、わたくしの母がわたくしを孕むと、わたくしたちを捨てたんです。ザーレ要塞に」
アルカイオスは息を呑んだ。
領主ともあろう者が、なんたる悪逆か!
「なんと不憫な……。安心するがよい。私は貴女を捨てたりはせぬ。貴女は私の妻なのだから」
カトリナの顔に、この上無い歓びが満ち、涙が
「アルカイオス様っ!」
カトリナは再び唇を重ねてきた。
口づけを交わしながら、アルカイオスはなんとなしに納得した。この口づけに懐かしさを感じたのは、初めてではなかったからであろう。
――私はこの女を愛したのか。
あの少女の代わりに。
あの少女の代わりに、この女を抱いたのだ。
――なんということを……。
アルカイオスは己の下劣さに吐き気がした。
「……すまなかった。貴女には、辛い想いをさせたかも知れぬ」
カトリナは微笑みながら首を振った。
「いいえ。過去のことなどどうでもよいのです。これからが幸せなら。――ですから、明日、一緒にギルテに帰りましょう」
「いや、帰らぬ」
カトリナの笑顔が凍りついた。
「私の子が居ると判って安心した。これで心置きなく死ねる」
アルカイオスは、何かが吹っ切れたような晴晴とした顔をしていた。
「どうか、生まれてくる我が子に伝えてくれ。私が――父が、堂堂とザーレ要塞へ向かったことを」
カトリナは硬張った顔で首を振った。
「嫌です……そんなの、嫌です。一緒に帰りましょう、ギルテへ。わたくし、アルカイオス様と一緒でなければ、幸せになれません!」
アルカイオスは目を細め、小さく微笑んだ。
「貴女の気持ちは嬉しく思う。その気持ち、この心に籠めて、あの世へ逝こう」
カトリナはなおも激しく首を振る。
アルカイオスは微笑みながら、わずかに溜息を吐いた。
「貴女も貴族なら解るであろう?」
カトリナはぴたりと動きを止め、硬直した。心なしか青冷めてもいた。
「あ……はい……わたくし、貴族の娘ですわ。領主の娘ですわ」
と、抑揚のない口調で云う。
「私は、貴女にも、生まれてくる子にも、恥ずかしい想いはさせたくない。貴族として、立派な夫であり父でありたい。――解ってくれるな?」
「あ……っ……は……っ」
アルカイオスは訝しんだ。カトリナの様子が何かおかしい。その顔はすっかり青冷め、目は虚ろ、口は小さく
と思ったら突然、生き返ったかの如く顔が明るくなった。
「そうだわ! アウラシール……アウラシールへ行きましょう、アルカイオス様!!」
アウラシールはローゼンディアの南東にある大国である。正確には一つの国ではなく都市国家連合であり、諸王国と呼ぶのが正しい。
アルカイオスは眉を顰めた。カトリナが何を云っているのか理解できぬ。
「何もかも捨てて、アウラシールへ行くのです。いえ、アウラシールでなくたって、レメンテムでも、ヴァルゲンでも、トゥライでもよいですわ。
この上ない名案であるとでもいうように、カトリナは高らかに言い募った。
アルカイオスは呆れた。
「何を言っている! それでも貴女は貴族か!? 神々の直系の末裔たる、私の妻か!?」
あまりに呆れた所為か、思わず怒鳴りつけるような口調になってしまった。
カトリナはびくりと体を顫わせ、心底驚いたような顔をした。王都で悪の種族と遭遇することがあっても、これほどの顔はすまい。
「うっ……あぁ……は……っ……」
カトリナの様子が再びおかしくなった。先程よりもひどい有り様であった。恥じらいも何もあったものではない。止め
アルカイオスは狼狽した。
――言い過ぎたか……?
しかし、言わずにはおれなかった。
これが己の妻かと思うと愕然とした。
無理も無いことであった。
責任逃れをする、誇りあるセウェルス家の名を、汚すのみならず捨てるなどということは、正真正銘の貴族たる、アルカイオスの理解の範疇を大きく越えているのである。
「……すまぬ。とにかく、私はザーレ要塞へ行かねばならぬ」
「そんっ……そんなに……あの化け物が……よいの、ですか!? わたしより、もっ……あの化け物……の方が……だいじ……なんですかっ!? ……わたし……アル、カイオスさま、の……妻なの……にっ!!」
鼻にかかった声で、嗚咽混じりにしゃくり上げながら云う。
「化け物……?」
カトリナはアルカイオスの左頬を愛しげに撫でながら、右頬に、涙に濡れる己の左頬を重ねた。
「アルカイオス、さま……愛しい、アルカイオスさま……そうまで、あの化け物の呪いが……あなたさまのお心を、
「!」
アルカイオスは、戦士特有の勘でカトリナを突き退けた。――が、体はまだ思うように動かぬ。カトリナが振り下ろした短剣の軌道を、わずかに逸らしただけであった。アルカイオスの頸をかすめて、ざくりと地面に突き刺さった。
アルカイオスは反対側に転がって、カトリナから距離を取った。それはまったく以て鈍い動きであったが、所詮、カトリナは戦いの素人である。すぐに攻撃してこなかった。アルカイオスは取り敢えずの難を逃れ、
カトリナは傍らに落ちている血刀を取り上げ、それを両手で引き摺りながら、アルカイオスに近づいていく。
涙でふやけてしまいそうなカトリナの目は、恐ろしいほどに虚ろであった。
「お逃げにならないで。もう他に方法がないのです。折角、あの化け物を
その言葉に、アルカイオスは驚愕した。
「貴女の
「企みだなんて……わたしはただ――」
――幸せになりたかっただけなんです。
カトリナは
そこに在る心を悟って、アルカイオスは胸が苦しくなった。吐くような叫びをあげたくなった。
――
己が幸せのために悪に手を染めるとは、いったいどういうことなのか?
アルカイオスには想像もつかぬ。
しかし、途方も無いことであろうと思う。
ザーレ要塞に捨てられた――と、カトリナはそう云っていた。
――姫だけではなかった。
ここにも同じ境遇の少女が居た。
この少女はあの少女であり、あの少女はこの少女であった。
カトリナは両手で刀を振り下ろした。が、心乱れ、しかも刀の重さに振り回されているため、避けるまでもなく狙いを外れて地面を打った。アルカイオスの足元に鉄棒を叩きつけたようなものであった。
「うっ……」
カトリナが呻いた。刀を取り落として右肩を押さえた。今の一撃で肩をおかしくしたのかも知れぬ。
刀に限らず、武器とは屈強な戦士が扱うことを前提としている道具である。素人の、しかも女の細腕に扱える代物ではない。
「やめろ! 戦士でない者が武器を使うものではない。貴女の方が怪我をする。今ので肩がおかしくなったはずだ!」
アルカイオスは必死でカトリナに忠言した。しかし、カトリナは聴かぬ。右肩を押さえながらよろよろと、大地を覆う血と肉塊の中に、他の武器を探し始めた。
「こんなことはやめるんだ! 攻撃されたら、私も貴女に攻撃せざるを得ない。貴女を殺したくはないんだ! 私の死を望むというのなら、貴女がその手を汚さずとも、明日、私は死ぬ。ザーレ要塞で死ぬ!」
言いながら、アルカイオスは近くにあった槍を掴んだ。
「ザーレ要塞には行かせませんわ。あの化け物の目に触れさせたくないの。あの男の手で殺させたくないの」
カトリナは、累累たる死屍の中から、矢が装填されたままの十字弓を取り出した。
「アルカイオス様は誰にも渡しませんわ。わたしのものなんですもの」
と、カトリナは満面の笑みを浮かべて、アルカイオスを振り返った。
途端、その笑みがそのまま凝固した。
カトリナの胸を、投槍が貫いていた。
アルカイオスではない。槍はまだ手に握られている。
別の何者かが放った槍である。
しかし、アルカイオスは、その何者かを確めることができなかった。
胸を、十字弓から放たれた矢に貫かれていたのである。
「若、御無事ですかっ!?」
キュロスの、声。
よかった。無事だったのか……。
すぐ傍に
体に手が回され、ゆっくりと助け起こされた。
言葉を発しようとしたが、口から出てくるのは血の泡ばかりである。
「若っ、若っ……!!」
取り乱したキュロスの声だけが、やけにはっきりと耳に届いた。
己はこんなところで死ぬわけにはゆかぬ。
ナヴィド族に会わねば……。
事情を説明して詫びなければならぬ。
姫……。
祖父の仇も、まだ討っていないというのに……。
体が、燃えるように熱かった。
息ができない。
──お
結局、己は何もできずにこのまま死ぬのだろう。
姫を救いたかった。
祖父の無念を
カトリナも……。
もっと早くに彼女の気持ちに気づいていれば……。
──お赦し下さい……。
薄れゆく意識の中で、アルカイオスはただ詫びることだけしか、できなかった。
カトリナが地面に倒れた。
ふたりは大地母神メーサの、慈悲深き緑の
「若――っ!!」
戦場に、キュロスの悲痛な叫びが響いた。
*
七の数を持つ死の御使い――オルディヌスの訪れを告げる馬蹄の音を聴きながら、カトリナは歓喜と至福に浸っていた。
――アルカイオス様に殺された。
なんという
アルカイオスを自らの手で殺した後は、彼の人の後を追って、
とはいえ、真実、アルカイオスの子をこの身に
すべての生命の与え手である
――でも、女神は授けて下さらなかった。
きっと、あの化け物の所為だ。
あの化け物の呪いが、アルカイオスの身も心も何もかも、すべてを
――でも、それももう終わり。
アルカイオスは、
そうして
――お母さん、わたしたち、
*
定刻になっても、約束の人質護送隊は現れなかった。
何かあったとみるのがよいだろう。
やはりこの化け物が帰還することを、歓ばない連中がいるのだ。ナガンはちらりと横目でリュフィーナを見た。
彼女はもう長いこと、そこに
足の下には石が置いてある。オロイが呪を書き込んだ石である。
石には疾駆する馬が描かれている。オロイの説明によると、この馬はどこまでも駆け続けて、この女に
事実、あの恐ろしい呪いは
とはいえリュフィーナに、いつまでもここに立っているように命じたわけではない。ナガンはただ、「あの男が来るまでここで待つんだな」と云っただけである。
「ここ」とはこの要塞の意味である。だから別段、この場でずっと立ち続ける必要はないのである。
リュフィーナの姿には、開放への期待も、または見捨てられる恐怖も、何も見られなかった。
ただ静かに立っているのだ。
いったい、どういう女なのか? と思う。
単に我が
恐怖で叩きのめせばよいからである。事実、富裕な商人や神官など、この手の扱いの楽な「客」には困ることはない。
または性根の据わった「客」もいる。こういう手合いは別の意味で扱いやすいので、やはり上客ではある。
いずれにしても、分りやすい相手が望ましいわけだが、その点、この女は最悪の部類と云えた。
性根は
ナガンの目には、リュフィーナがただ状況を受け入れて、流されるように生きているのだと観えた。
それは、信じ難いことであった。トゥライのような過酷な自然環境の中で生き抜くためには、状況をそのまま受け入れて流されるなど、あってはならぬのである。
ナガンは怒りを感じたが、それをぶつけてよい相手ではないことも、よく分っていた。
あれだけ
故にこの女が流されるように生きてきたとしても、その責任を本人に追及するのは
アウラシールはともかく、トゥライには、持って生まれたものに対する責任という考え方はない。
だからこの女は悪くない。ただ、不幸なだけだ。
あの呪いを見れば恐れぬ者は居ない。ナガンでさえ戦慄を禁じ得なかったし、事実、ナヴィド族は恐慌に陥りかけたのだ。
いや、ひとりだけ恐れぬ者が居た。部族のカムラーン、オロイである。
オロイは部族の者たちに恐れる必要は無いこと、自分が対策を探してくることを約束して、ひとりで旅立った。六日前のことである。
「新しい足を探してくるでのう……」
オロイはそう云っていた。意味は解らない。いつものことであるが。
向こうの世界を熟知したカムラーンの云うことは、こちらの住人には計り難い。
帰る期限とオロイが約束したのは三日後だが、残念ながら待ってはおれぬ。こういう人質交換には、時期というものがあるのだ。
ナガンにも、ひょっとするとあの恐るべき呪いに対して、オロイが何かの対策を持って帰るかも知れぬという期待はあった。いつまでもこの大きな呪石を、持ち運ぶわけもゆかぬからである。
だがどのみちリュフィーナは人質と交換するのだし、今更それを考えても詮無いことである。
リュフィーナは無言で立ち続けている。その姿は、アヌーレフの脇に立つ旗を連想させた。
草原の中に
アヌーレフには祭祀の時以外、人が近づくことはない。だからいつも少し離れたところから見ることになる。
そのことに、なんだか恐いような寂しいような感じを受ける。オロイに話すと、「神聖なものとはそういうものだ」と教えてくれた。ナガンがまだ小さい頃の話である。
「ナガン」
やや慌てた様子で、ヴィシュタが要塞から出てきた。
「どうした?」
「ちょっとこっちに来てくれ」
ザーレ要塞に登り、高いところから周囲を眺めてみれば、比較的近場の上空を、鳥の群が旋回していた。
「誰か調べに行かせろ」
呟くと、ヴィシュタは大声で下にいる族人に命令を伝えた。
ナガンは報告を受けると、要塞内にいる全ての族人を引き連れて、そこに駆けつけた。
無論、リュフィーナも一緒である。馬に乗せておけば、つまり大地から離しておけば、しばらくは問題ないと聞いているし、報告が正しいとすればもう要塞に戻ることはないからである。
果たして、
天幕の屋台骨と思しき、黒焦げの焼け
黒焦げ黄ばみ、
それらが
すなわち、ローゼンディアの人質護送隊は山賊に襲われた――そのように見えた。
鼻を突く異臭が
その中を、先着の族人たちが、屍体を調べて動き回っていた。
やがてその内の一人がナガンの元に走り寄ってきた。気不味そうに何か呟くと、
おそらく死者の誰かが身に附けていたものであろう、元は
ナガンは
「ううおおおぉぉ――っっ!!」
大地に膝をつき、
天を仰ぎ、
「あぐぐぐぐぐ――っっ!!」
激しい、
ヴィシュタがゆっくりと歩き出し、ナガンの傍に寄っていった。
リュフィーナは、ただ茫然とするばかりであった。
- 第一部 了-(第二部へ続く)